Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Friday, January 23, 2009

*How to cope with Kids

●子育てポイント



●買い物グセ



甘い食品、リン酸食品など、そういうものを毎日多量に摂取している子どもは、見た目にも、独
特の症状を示す。詳しくは「過剰行動児」を参考にしてほしい。で、そういう子どもをもつ母親
に、それなりの指導をすると、たいていの母親は、「では……」と言って、私のアドバイスに従っ
てくれる。



しかし長つづきはしない。理由は簡単。こうしたアドバイスは、一時的な効果しかない。やがて
母親は、もとの買い物習慣にもどってしまう。一、二か月もすると、スーパーなどで、また同じも
のを買い始める。つまり元の木阿弥(もくあみ)。



では、どうするか。



私はあわせて、つぎのようにアドバイスしている。



「家の中にある、甘い食品(ジュース、アイスクリーム、ジャムなど)、それにリン酸食品(かまぼ
こ、インスタントうどん、焼きそば、プリンなど)を、思い切って、袋に詰めて捨てなさい。もった
いないと思ったら、なおさら、そうしなさい。もったいないと思う気持ちが、ショックとなって、あな
たの買い物グセをなおします」と。



言うまでもなく、問題は子どもの食生活にあるのではなく、母親の買い物習慣にある。その買
い物習慣を改めないかぎり、子どもの食生活の問題はなおらない。子どもの小食(好き嫌い、
細い、遅い、少ないなど)に悩んだときも、同じように対処する。



●甘いものを食べて、低血糖?



甘い食品(白砂糖の多い食品)を食べると、低血糖になると話すと、多くの母親は、「?」と思う
らしい。しかしそれには、こんなメカニズムが働く。



一時的に、多量の白砂糖をとると、当然のことながら、急激に血糖値があがる。そのとき同時
に、その血糖値をさげようと、体内で、多量のインスリンが分泌される。で、そのインスリンが、
血糖を分解する。それで血糖値はさがるが、しかしインスリンだけは血中に残り、さらに血糖値
をさげようとする。そして結果として、今度は、低血糖にする。



低血糖になると、脳の抑制命令がうまく働かなくなり、行動が、カミソリでスパスパと切るよう
に、鋭くなる。突発的にキーキー声をあげて、興奮しやすくなる。



行動するときは、(思考するときにも)、二つの命令が同時に、脳より発せられる。ひとつは、行
動命令。もう一つは抑制命令。この二つの命令が、バランスよく保たれたとき、人間の行動や
思考は、スムーズになる。なめらかになる。見た目にも、おだやかになる。



しかし血糖値があがると、脳間伝達物質である、セロトニンが、異常に分泌され、脳の機能が
乱される。こうして低血糖児特有の症状が現れる。



私が見聞きした低血糖児に、こんな子どもがいた。



ある病院で、小児糖尿病の患者を見舞ったときのこと。当然のことながら、小児糖尿病の子ど
もは、人工的に砂糖断ちをしている。その結果、ここでいう低血糖児になる。話には聞いてい
たが、その症状のはげしさには、驚いた。



昼の給食時だったが、突発的に暴れて、トレイごと床にたたきつけてしまった子どももいた。そ
の暴れ方が、ふつうではない。まさに突発的。錯乱状態になって暴れた。



そんなわけで、もし、あなたの子どもに、つぎのような症状が現れたら、砂糖断ちをし、合わせ
て、CA、MGの多い食生活にこころがけてみるとよい。具体的には、魚介類、海産物を中心と
した献立に切りかえてみる。



★突発的に、キーキー声(超音波に近い声)をあげて、興奮する。暴れる。

★小刻みにイライラしたり、言動に落ち着きがない。

★精神疲労を起こしやすく、興奮しやすい。感情の起伏がはげしい。



 イギリスでは、『カルシウムは紳士をつくる』という。それについては、すでに何度も書いてき
たので、ここでは省略するが、子どもの心で、「?」と感じたときには、まずCA、MGの多い食
生活にこころがけてみる。



●ダラダラとした姿勢も……

  

 ついでに、ダラダラとした姿勢も、CA,MGでなおすことができる。子どもの学習風景をうしろ
から見ると、それが判断できる。



 子どもをうしろから見たとき、背骨がぐにゃぐにゃと曲がってしまい、姿勢が悪いようだった
ら、まずCA、MG不足を疑ってみる。子どもによっては、筋肉の緊張感が持続できず、机にお
おいかぶさってしまうこともある。



 言うまでもなく、筋肉の緊張感をつくるのは、CA、MGである。正確には、カルシウムイオンと
いうことになる。これが不足すると、筋肉が緊張感を持続できず、ここでいうように、姿勢が悪く
なる。



 よく私の教室でも、姿勢が悪い子どもを見つけると、あとで、「どうしてあなたは、ちゃんと座っ
ておれないの!」と叱っている母親を見かける。しかしこの問題は、叱ってどうにかなる問題で
はない。原因は、かたよった食生活にあるとみる。



 なお、一週間ほど、CA,MGの多い食生活にこころがけ、かつリン酸食品を避け、砂糖断ち
をすると、子どもの姿勢は、劇的になおる。一度、ためしてみてほしい。



 (注)「砂糖断ち」といっても、完全に断つ必要はない。今ではありとあらゆる食品に砂糖が含
まれているので、意識しなくても、子どもはじゅうぶんすぎるほどの砂糖を摂取していることにな
る。ちなみに幼児に必要な摂取量は、一日、一〇~一五グラムと言われている。意識して与え
る必要はない。



 またよくレストランなどで、子どもの顔よりも大きなソフトクリームを食べている子どもをよく見
かける。それがいかに多い量かは、あなた自身が、自分の顔より大きなソフトクリームを食べ
てみればわかる。



 体重一五キロの子どもが、ソフトクリーム一個を食べる量は、体重六〇キロのおとなが、四
個食べる量に等しい。それともあなたは、四個のソフトクリームを食べることができるとでも言う
のだろうか。それだけの量を子どもに与えておきながら、「どうしてうちの子は、小食なのでしょ
うか」は、ない。

(030914)







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●進学



 よい高校から、よい大学へ。そしてよい就職先へ。しかし人間というのは、そんな単純なもの
なのか? 



 何も考えない。何も疑問に思わない。どこか単純な子どもには、そういうコースもあるのだろう
が、しかしすべての子どもに、それを押しつけてはいけない。



 むしろ自分で考える子どもは、こうしたコースから自ら、はずれていく。それは子ども自身に
問題があるというよりは、そうした多様性に応ずることができない、システムのほうに問題があ
るとみる。



 二男の例を出して恐縮だが、二男は、この地元でも、A、B、C、D、E……ランクの中でも、E
ランクの高校を卒業している。それにはいろいろないきさつがあるが、このクラスの高校になる
と、国立大学へ進学する子どもどもは、数年に、一人いるかいないかという程度になる。



 しかし二男の能力は、私は認めていた。だから二男がEランクの高校へ入学すると決めたと
きも、すべて二男に任せた。



 が、この日本では、このあたりで人生のすべてが決まってしまう。事実、高校を卒業するとき
になって、二男には、進学できる大学がなかった。それでアメリカへ渡ったが、はからずも、私
はここで日本とアメリカの教育システムの違いを、思い知らされるところとなった。



 アメリカでは、やる気と力があれば、人生のどの段階からも、そこを基盤として、前に伸びる
ことができる。二男は、私立大学で二年間学んだあと、今度は、州立大学へ移った。そしてそ
こで学位を得て、卒業した。



 こういうことは、日本では、可能なのか? 答えは、「NO!」



 名もない小さな私立大学へ入った学生は、その段階で、いくら猛勉強しても、すべてそこま
で。そのあと国立大学へ移籍するなどということは、常識で考えてもありえない。その「ありえな
い」という部分に、日本の教育の最大の欠陥がある。



 二男は、幼いころから、自分で考えて行動する子どもだった。私も、意識して、それを助け
た。伸ばした。しかしこういう子どもは、この日本では、損をすることはあっても、得をすることは
何もない。従順に体制に従う子どもほど、この日本では得をする。またそういう子どもほど、生
きやすい環境が、すでにできあがっている。まさに官僚主義国家と言われる理由は、こんなと
ころにもある。



 今、その二男を思いやりながら、ときどき、こんなことを考える。もしあのまま二男が、日本に
いたら、二男はどうなっていたか、と。コンピュータについては、天才的な思考能力をもってい
たが、今ごろは、どこかのパソコンショップで、パソコンの販売をしているのが、関の山ではな
いか、と。



 事実、二男は、小学三年生のときには、すでに自分でベーシック言語使って、ゲームを作っ
て遊んでいた。中学一年生のときには、C言語をマスターし、高校生のときには、アンチウィル
スのワクチンを自分で開発して、どこかのソフト会社に送っていた。



 日本には、そういう子どもを伸ばすシステムがない。同時に、勉強しかしない、勉強しかでき
ないような、どこか頭のおかしい子どもほど、得をする。スイスイと受験競争という階段をのぼ
っていく。こういうシステムの中で、いかに多くの日本人が、社会の底辺にうずもれたまま、損を
していることか。しかしそれは個人の「損失」というよりは、社会そのものの「損失」と考えたほう
がよい。



 教育を否定してはいけない。しかしそれと同じほど、教育を盲信してはいけない。盲信して、
学歴信仰や、学校神話に陥(おちい)ってはいけない。人間は、そんな単純なものではない。ま
た、単純であってはいけない。そしてそれを受け入れる教育システムは、もっと大胆に、多様化
すべきである。でないと、本当に日本の未来は、このまま、終わってしまう。



 たとえばアメリカの小学校では、クラス名(ふつうはその教室を管理する教師名)はあっても、
学年はない。中学校でも単位制度を導入している。学校へ行かないホームスクーラーも、二〇
〇万人を超えたとされる(〇二年末)。また四、五年の飛び級を繰りかえし、大学で学んでいる
子どももいる。



 その大学にしても、入学後の転学、転籍は自由。学科、学部の、スクラップ&ビュルドは、自
由。そうそう公立小学校にしても、学校が独自にカリキュラムを組んで教えている。ほかにチャ
ータースクール、バウチャースクールなどもある。



 ドイツでは、大半の中学生は午前中だけで授業を終え、あとはクラブに通っている。ヨーロッ
パ全域では、大学の単位は、ほぼ共通化された。今では、日本のように出身大学にこだわる
学生は、ほとんどいない。いないというより、こだわっても意味がない。



 世界は、そこまできているというのに、この日本は、いったい、何をしている? いまだに地方
新聞の中には、「我が母校」「母校の伝統」だとか何とか、意味のない記事を連載しているのが
ある。江戸時代の身分制度が、あるいは家元制度が、母校意識に置きかえられただけ?



 ……というのは、少し言い過ぎだが、しかしこれだけは言える。



 生きザマには、コースなど、ない。人間よ、日本人よ、生きる原点にもう一度立ちかえって、
教育システムを、見なおそうではないか。

(030914)



【追記】

 静岡県でもナンバーワンと言われる進学高校でのこと。



 それくらいの進学高校になると、それぞれの部活にも、OB会というのがあって、総会のたび
に、壇上に、そのOBたちが、ズラリと並ぶ。そして言わなくてもいいのに、「私は○○回の卒業
生です」などと、自己紹介をする。



 かわいそうな人たちだ。あわれな人たちだ。自慢するものがないから、学歴をひけらかして、
生きている? 学歴にしがみつきながら、生きている? あるいは士農工商の身分制度が、学
歴制度に置きかわっただけ? いろいろ考えられるが、こうした封建時代の亡霊はまだ、日本
のあちこちに残っている。



+++++++++++++++++

これに関連して、以前、こんな原稿

(中日新聞掲載済み)を書きました。

ここに再掲載します。

+++++++++++++++++



常識が偏見になるとき 



●たまにはずる休みを……!



「たまには学校をズル休みさせて、動物園でも一緒に行ってきなさい」と私が言うと、たいてい
の人は目を白黒させて驚く。「何てことを言うのだ!」と。多分あなたもそうだろう。しかしそれこ
そ世界の非常識。あなたは明治の昔から、そう洗脳されているにすぎない。



アインシュタインは、かつてこう言った。「常識などというものは、その人が一八歳のときにもっ
た偏見のかたまりである」と。子どもの教育を考えるときは、時にその常識を疑ってみる。たと
えば……。



●日本の常識は世界の非常識



①学校は行かねばならぬという常識……アメリカにはホームスクールという制度がある。親が
教材一式を自分で買い込み、親が自宅で子どもを教育するという制度である。希望すれば、州
政府が家庭教師を派遣してくれる。日本では、不登校児のための制度と理解している人が多
いが、それは誤解。



アメリカだけでも九七年度には、ホームスクールの子どもが、一〇〇万人を超えた。毎年一
五%前後の割合でふえ、二〇〇一年度末には二〇〇万人に達するだろうと言われている。そ
れを指導しているのが、「Learn in Freedom」(自由に学ぶ)という組織。「真に自由な教育は家
庭でこそできる」という理念がそこにある。地域のホームスクーラーが合同で研修会を開いた
り、遠足をしたりしている。またこの運動は世界的な広がりをみせ、世界で約千もの大学が、こ
うした子どもの受け入れを表明している(LIFレポートより)。



②おけいこ塾は悪であるという常識……ドイツでは、子どもたちは学校が終わると、クラブへ通
う。早い子どもは午後一時に、遅い子どもでも三時ごろには、学校を出る。ドイツでは、週単位
(※)で学習することになっていて、帰校時刻は、子ども自身が決めることができる。そのクラブ
だが、各種のスポーツクラブのほか、算数クラブや科学クラブもある。



学習クラブは学校の中にあって、たいていは無料。学外のクラブも、月謝が一二〇〇円前後
(二〇〇一年調べ)。こうした親の負担を軽減するために、ドイツでは、子ども一人当たり、二
三〇マルク(日本円で約一四〇〇〇円)の「子どもマネー」が支払われている。この補助金は、
子どもが就職するまで、最長二七歳まで支払われる。



 こうしたクラブ制度は、カナダでもオーストラリアにもあって、子どもたちは自分の趣向と特性
に合わせてクラブに通う。日本にも水泳教室やサッカークラブなどがあるが、学校外教育に対
する世間の評価はまだ低い。ついでにカナダでは、「教師は授業時間内の教育には責任をも
つが、それ以外には責任をもたない」という制度が徹底している。



そのため学校側は教師の住所はもちろん、電話番号すら親には教えない。私が「では、親が
先生と連絡を取りたいときはどうするのですか」と聞いたら、その先生(バンクーバー市日本文
化センターの教師Y・ムラカミ氏)はこう教えてくれた。「そういうときは、まず親が学校に電話を
します。そしてしばらく待っていると、先生のほうから電話がかかってきます」と。



③進学率が高い学校ほどよい学校という常識……つい先日、東京の友人が、東京の私立中
高一貫校の入学案内書を送ってくれた。全部で七〇校近くあった。が、私はそれを見て驚い
た。どの案内書にも、例外なく、その後の大学進学先が明記してあったからだ。別紙として、は
さんであるのもあった。「○○大学、○名合格……」と(※)。



この話をオーストラリアの友人に話すと、その友人は「バカげている」と言って、はき捨てた。そ
こで私が、では、オーストラリアではどういう学校をよい学校かと聞くと、こう話してくれた。



 「メルボルンの南に、ジーロン・グラマースクールという学校がある。そこはチャールズ皇太子
も学んだこともある古い学校だが、そこでは生徒一人ひとりにあわせて、学校がカリキュラムを
組んでくれる。たとえば水泳が得意な子どもは、毎日水泳ができるように。木工が好きな子ども
は、毎日木工ができるように、と。そういう学校をよい学校という」と。なおそのグラマースクー
ルには入学試験はない。子どもが生まれると、親は出生届を出すと同時にその足で学校へ行
き、入学願書を出すしくみになっている。つまり早いもの勝ち。



●そこはまさに『マトリックス』の世界



 日本がよいとか、悪いとか言っているのではない。日本人が常識と思っているようなことで
も、世界ではそうでないということもある。それがわかってほしかった。そこで一度、あなた自身
の常識を疑ってみてほしい。あなたは学校をどうとらえているか。学校とは何か。教育はどうあ
るべきか。さらには子育てとは何か、と。その常識のほとんどは、少なくとも世界の常識ではな
い。



学校神話とはよく言ったもので、「私はカルトとは無縁」「私は常識人」と思っているあなたにし
ても、結局は、学校神話を信仰している。「学校とは行かねばならないところ」「学校は絶対」
と。それはまさに映画『マトリックス』の世界と言ってもよい。仮想の世界に住みながら、そこが
仮想の世界だと気づかない。気づかないまま、仮想の価値に振り回されている……。



●解放感は最高!



 ホームスクールは無理としても、あなたも一度子どもに、「明日は学校を休んで、お母さんと
動物園へ行ってみない?」と話しかけてみたらどうだろう。実は私も何度となくそうした。平日に
行くと、動物園もガラガラ。あのとき感じた解放感は、今でも忘れない。「私が子どもを教育して
いるのだ」という充実感すら覚える。冒頭の話で、目を白黒させた人ほど、一度試してみるとよ
い。あなたも、学校神話の呪縛から、自分を解き放つことができる。



+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


 

子育て随筆byはやし浩司(163)



不安



 日本人の八〇%近くが、老後に不安を感じているという。少し前の調査で、そんなことがわか
った。



 私も、実は、その中の一人。そのうちどこかの老人ホームに入るつもりでいるが、かなりのお
金が必要だという。ワイフは、「土地と家を売れば、何とかなるわ」と言っているが、私の感じて
いる不安は、そんなものではない。



 問題は、老後の生活ではない。問題は、どうやって老後の孤独、絶望、疎外、空虚と戦うか、
だ。死への恐怖もある。どう考えても、その方法がわからない。それまでに人生観が確立でき
ればよいが、今のままでは、それも無理だろう。

 

 とくに私のように、戦後の高度成長期を生きてきた人間は、豊かな生活と引きかえに、もっと
大切な「心」を、犠牲にした。すべてを「マネー」に結びつけて生きてきた。今さら、「友だちの数
こそ、真の財産」「我を捨てて、慈悲の心をもて」と言われても、どこでどうすればよいのかさ
え、わからない。



 そう、私たちの生活には、「だからどうなの?」という部分がない。豪華な車に乗って、これま
た豪華なレストランで、おいしいものを食べる。しかしそのとき、ふと、こう考える。「だからどう
なの? それがどうしたの?」と。



オール電化の、便利な家を建てる。風呂の温度も、湯の量も、すべて自動化されている。暑け
ればクーラーをつければよい。しかしそのときも、ふと、こう考える。「だからどうなの? それが
どうしたの?」と。



つまり私たちは、「だからどうなの?」という部分を、置き去りにしたまま、ただがむしゃらに生き
てきた。たとえばそのことは、美術館で巨匠たちの描いた絵画を見たときに、思い知らされる。
「すばらしい絵だ」と思うのだが、「だからどうなの?」という部分で、その絵を、自分と、どうして
も結びつけることができない。そしてあろうことか、「この絵は、一億円の価値がある」「二億円
だ」と、そんなふうに考えてしまう。



私が感ずる老後の不安は、そんなところから生まれる。



 もし生きるだけなら、死ぬまで生きればよい。うまくいけば、ベッドの上で、寝たきりでも何で
も、数年間は生きられる。しかし、そんな人生に、どんな意味があるというのか。もっと言えば、
明日が今日と同じ。あるいは明日は、今日より、もっと悪くなるという人生に、どんな意味があ
るというのか。ただ生き長らえているという人生に、どんな意味があるというのか。



 若いとか、年をとっているとか、そういうことは関係ない。肉体などというものは、ただの入れ
物。パックに入っていようが、グラスに入っていようが、ミルクはミルク。問題は、そのミルクの
味、中身、それに鮮度なのだ。



 今の私には、孤独、絶望、疎外、空虚と戦う自信は、まったく、ない。このまま行けば、やがて
孤独という無間地獄の中で、気が狂ってしまうかもしれない。その可能性は大きい。そこで聖
書をひもとき、仏教の経典を開き、「心」をさがす。しかし頭の中では理解できても、それが実
践できない。実践しても、どうも身につかない。



 昨日も、ある親から、子育てについて、相談があった。二時間近く、電話で話した。このところ
毎日のように、電話がかかってくる。居留守をつかうという方法もあるが、ウソをつくのは、もっ
といやだ。だから電話に出る。



 で、こうした行為が、私の心に何かの「うるおい」をもたらすかというと、そういうことは、まった
く、ない。客観的に見れば、私は人助け(?)をした。よい思いをもって当然なのに、それがな
い。相変わらず、孤独は孤独のまま。絶望感も、疎外感も、空虚感もそのまま。



 私のどこが、どうまちがっているのだろう。おかしいのだろう。何かの見返りを求めているの
だろうか。ノー。感謝されることを願っているのだろうか。ノー。自分の優位性を楽しんでいるの
だろうか。ノー。



 一つ理由があるとすれば、私は、相手の立場になりきっていないということがある。口では、
「たいへんですね」と、同情したフリをするかもしれないが、それはあくまでもフリ。私はいつも、
そのフリだけで生きている。だからそういう相談に答えながらも、いわばハウ・ツー的な知識を
説明しているにすぎない。



 これではいけない。このままでは、さらにいけない。私の老後は、まちがいなく、悲惨なものに
なる。……私が感ずる老後の不安は、そんなところから生まれる。



 さあ、時間がないぞ。私はどうしても急がねばならない。あと五年か。それとも一〇年か。い
や、とても一〇年は、もたないだろう。それまでに、何としても、自分を立てなおさなければなら
ない。

(030914)







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●親子のさらけ出し(自己開示)



 親子で、どこまでたがいに、さらけ出しができるか。その度合いによって、信頼関係が決ま
る。



 子どもも、小学三年生くらいを境に、急速に親との間に距離を置くようになる。いわゆる「親離
れ」が始まる。



 このとき親が、それなりの覚悟と、そして子離れの準備をしていればよいが、そうでないとき、
いろいろな問題が起きる。子どもが幼児のころの親子関係にこだわり、その状態に戻そうとあ
がく親も、少なくない。



 とくに溺愛ぎみの親や、子育てを生きがいにしている親ほど、その傾向が強い。このタイプの
親にとっては、子離れそのものが、考えられない。中には、子どもが親離れを始めたとたん、
その絶望感(?)から、自己否定、自己嫌悪に陥(おちい)ってしまう親もいる。



 親子でも、たがいのさらけ出しが、信頼関係の基本だが、しかしその信頼関係は、子どもの
年齢とともに、質的に変化する。具体的に考えてみよう。



 以前、こんなことを相談してきた母親がいた。



 何でも最近、その母親の息子(小三)が、学校であったことを話してくれなくなったというのだ。
それまでは学校であったことを、あれこれ話してくれたが、それがなくなった。「それで、どうした
らいいか?」と。



 この時期を境に、子どもは急速に交友関係を広める。同時に、親子の関係は、希薄になる。
こうした関係の変化は、子どもの成長期には、よく見られる。が、それをもって、親子の信頼関
係が崩壊したと考えるのは、誤解である。



 この時期を境に、親子の関係は、「親子」から、「一対一」の人間関係に変化する。いつまで
も親が、親風を吹かし、上下意識をもつほうがおかしい。一方、子どもにしても、いつまでも、
「ママ、ママ……」「パパ、パパ……」と甘えるほうが、おかしい。



 そこで問題となるのが、自分の子どもであっても、いかにして、子どもを、一人の人間として見
ていくかということ。そして子どもではなく、一人の人間として、どこまで信頼していくかというこ
と。私が先に書いた、「質的な変化」というのは、そのことをいう。



 そこで自己診断。



【自己診断】



●信頼型ママ……いつも心のどこかで、「うちの子は、すばらしい」と思っている。「うちの子が
できなければ、ほかの子にできるはずはない」と思うこともある。子どもの失敗や、生活態度の
悪さは、ほとんど気にならない。



●不信型ママ……いつも心のどこかで、「うちの子は、何をしても心配だ」と思っている。「何か
失敗するのではないか」とか、「人に笑われるのではないか」と思うこともある。ささいなことが
気になって、それをよく叱る。



少し前も、「食事中、子どもがよく食べ物をこぼす。どうしたらいいか」と相談してきた母親がい
た。その母親は、子どものしつけを心配していたが、問題は、その「しつけ」ではない。母親自
身が、子どもに対して、大きな不信感をもっている。それが姿を変えて、こうした相談になった。
もし子どもを信頼していれば、子どもが食べ物をこぼしても、「あら、だめよ」と、軽くすますこと
ができるはずである。



 そこであなた自身はどうか、少し振りかえってみてほしい。あなたは子どもの前で、自分をさ
らけ出しているだろうか。あなたはさらけ出しているとしても、子どもは、どうだろうか。あなたの
前で、言いたいことを言い、したいことをしているだろうか。



 このとき、たいていの親は、「うちの子は、私の前では、伸び伸びしています」と言う。「言いた
いことも言っています。態度も大きいです。したいことも、もちろんしています」と。しかし本当に
そうだろうか。あるいはひょっとしたら、あなたがそう思いこんでいるだけではないだろうか。



 こういうケースでは、「私の子どものことは、私が一番よく知っている」「私と子どもの関係は、
すばらしい」と思っている親ほど、あぶない。親が傲慢であればあるほど、子どもは、その心を
閉ざす。



 一方、「どうもうちの子のことがわからない」「親子関係は、これでいいのか」と思っている親ほ
ど、子どもに対して謙虚になる。その謙虚さが、子どもの心を開く。このことがわからなけれ
ば、反対の立場で考えてみればわかる。もしあなたが、あなたの親に、つぎのように言われた
ら、あなたは、どのように反応するだろうか。



●「あなたはどう思う? 私は掃除したほうがいいと思うけど、ね。お客さんも来るし」と、相談を
もちかけられる。



●「掃除をしっかり、しなさい。お客さんが来るでしょ。こんなことではどうするの!」と、命令さ
れる。



もしあなたの子どもが、あなたの前で、小さくなっていたり、よい子ぶっていたりしたら、あなた
の親子関係は、かなりあぶない状態にあるとみる。表面的にはうまくいっているように見えるか
もしれないが、それはあくまでも「表面的」。たいていのばあい、あなたという親がそう思ってい
るだけと考えてよい。

(030915)



Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司



自己開示の限界



 徹底した自己開示。それが信頼関係の基本であることは、まちがいない。しかしその自己開
示にも、限界がある。



 たとえばあなたがある男性と、不倫をしたとしよう。何度も密会し、性的関係もある。相手の
男にも、妻子がいる。



 そのときあなたは愛に溺れながらも、一方で、その罪の重さに悩む。苦しむ。あなたがまとも
な女性なら、心苦しくて、夫と顔を合わせることもできないだろう。



 しかしそれで夫との信頼関係が、崩壊するわけではない。あなたはその秘密を、心の奥深く
にしまう。そして何ごともなかったかのように、その場を切り抜けようとする。あなたには、夫も
子どももいる。



そんなやるせない女心をみごとに表現したのが、R・ウォラーの『マディソン郡の橋』である。映
画の中では、主人公のフランチェスカが、車のドアを迷いながらも、しっかりと握りしめる。あの
ワンカットが、フランチェスカの心のすべてを語る。



 そこで問題は、夫婦であるという理由だけで、妻は、夫にすべてを語る必要があるかというこ
と。仮に成りゆきで、ほかの男性と性的関係をもったとしても、だ。だまっていれば、バレない
し、夫も、それによってキズつくことはない。



 つまりここで自己開示の問題が、出てくる。そこでオーストラリアの友人(男性)に、メールで
聞くと、こう話してくれた。



 「ウソをつくのは、まずいが、聞かれるまでだまっているのは、悪いことではない」と。



 何とも微妙な言い回しだが、「聞かれてもだまっていればいい」「またそういうことは、夫や妻
に聞くべきではない」とも。



 仮に自分の夫や妻が不倫をしても、「その範囲」にあれば、それもしかたないのではというこ
とらしい。そこで私が、「君は、不倫をしたことがあるか?」と聞くと、「君と同じだ」と。ナルホ
ド!



 私は自分のワイフのことは知らない。しかし、そういうことは聞かない。信頼しているとか、い
ないかということではない。聞いても本当のことは言わないだろうし、ウソを言われるのは、不
倫より、つらい。



 一方、ワイフも、私には聞かない。反対の立場で、同じように考えているせいではないか。



 世俗的な言い方だが、結婚生活を三〇年もつづけていると、いろいろなことがある、というこ
と。不倫もその一つかもしれないし、そうでないかもしれない。私たちは夫や妻である前に、人
間だ。人間である前に、動物だ。夫や妻になったからといって、人間であることを捨てるわけで
はない。動物であることを捨てるわけではない。



 だからどうせ不倫をするなら、命がけでしたらよい。夫や妻である前に、人間の。人間である
前に、動物の。そんな雄たけびが聞こえるような不倫をしたらよい。恋焦がれて、苦しんで、自
分を燃やしつくすような不倫なら、したらよい。「私は人間だ」と、心底から叫べるような不倫な
ら、したらよい。が、それができないなら、不倫など、してはいけない。



 ……と話がそれたが、夫婦の間でも、自己開示には限界がある。それは「相手をキズつけな
い」という範囲での限界である。いくらさらけ出すといっても、相手がそれによってキズつくような
ら、してはいけない。またそういう限界があるからといって、信頼関係が築けないということでも
ない。



 私はこのことを、最近知った。このつづきはどうなるかわからないが、もう少し、考えて、また
報告する。

(030924)



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久しぶりに「マジソン郡の橋」を思い出したました。

以前書いた原稿を、再掲載します。



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●母親がアイドリングするとき 



●アイドリングする母親



 何かもの足りない。どこか虚しくて、つかみどころがない。日々は平穏で、それなりに幸せの
ハズ。が、その実感がない。子育てもわずらわしい。夢や希望はないわけではないが、その充
実感がない……。



今、そんな女性がふえている。Hさん(三二歳)もそうだ。結婚したのは二四歳のとき。どこか不
本意な結婚だった。いや、二〇歳のころ、一度だけ電撃に打たれるような恋をしたが、その男
性とは、結局は別れた。そのあとしばらくして、今の夫と何となく交際を始め、数年後、これまた
何となく結婚した。



●マディソン郡の橋



 R・ウォラーの『マディソン郡の橋』の冒頭は、こんな文章で始まる。「どこにでもある田舎道の
土ぼこりの中から、道端の一輪の花から、聞こえてくる歌声がある」(村松潔氏訳)と。主人公
のフランチェスカはキンケイドと会い、そこで彼女は突然の恋に落ちる。忘れていた生命の叫
びにその身を焦がす。どこまでも激しく、互いに愛しあう。



つまりフランチェスカは、「日に日に無神経になっていく世界で、かさぶただらけの感受性の殻
に閉じこもって」生活をしていたが、キンケイドに会って、一変する。彼女もまた、「(戦後の)あ
まり選り好みしてはいられないのを認めざるをえない」という状況の中で、アメリカ人のリチャー
ドと結婚していた。



●不完全燃焼症候群



 心理学的には、不完全燃焼症候群ということか。ちょうど信号待ちで止まった車のような状態
をいう。アイドリングばかりしていて、先へ進まない。からまわりばかりする。Hさんはそうした不
満を実家の両親にぶつけた。が、「わがまま」と叱られた。夫は夫で、「何が不満だ」「お前は幸
せなハズ」と、相手にしてくれなかった。しかしそれから受けるストレスは相当なものだ。



昔、今東光という作家がいた。その今氏をある日、東京築地のがんセンターへ見舞うと、こん
な話をしてくれた。「自分は若いころは修行ばかりしていた。青春時代はそれで終わってしまっ
た。だから今でも、『しまった!』と思って、ベッドからとび起き、女を買いに行く」と。「女を買う」
と言っても、今氏のばあいは、絵のモデルになる女性を求めるということだった。



晩年の今氏は、裸の女性の絵をかいていた。細い線のしなやかなタッチの絵だった。私は今
氏の「生」への執着心に驚いたが、心の「かさぶた」というのは、そういうものか。その人の人生
の中で、いつまでも重く、心をふさぐ。



●思い切ってアクセルを踏む



 が、こういうアイドリング状態から抜け出た女性も多い。Tさんは、二人の女の子がいたが、
下の子が小学校へ入学すると同時に、手芸の店を出した。Aさんは、夫の医院を手伝ううち、
医療事務の知識を身につけ、やがて医療事務を教える講師になった。またNさんは、ヘルパー
の資格を取るために勉強を始めた、などなど。



「かさぶただらけの感受性の殻」から抜け出し、道路を走り出した人は多い。だから今、あなた
がアイドリングしているとしても、悲観的になることはない。時の流れは風のようなものだが、止
まることもある。しかしそのままということは、ない。



子育ても一段落するときがくる。そのときが新しい出発点。アイドリングをしても、それが終着
点と思うのではなく、そこを原点として前に進む。方法は簡単。勇気を出して、アクセルを踏
む。妻でもなく、母でもなく、女でもなく、一人の人間として。それでまた風は吹き始める。人生
は動き始める。

(中日新聞東掲載済み)



●Where there is sorrow, there is holy ground.-Oscar Wilde

悲しみのあるところに、神聖な土壌がある。(オスカー・ワイルド)



●"According to the Buddha, these are all signs of a false identity: fear, attachment, shame,
compulsion and rigidity. Hmmm. I feel like if I didn't have these things, I'd never clean my
house. What's up with that?" - Nerissa Nields

「ブッダによれば、恐れ、依存、恥、強制、がんこ。これらはすべて偽の自分自身の兆候だそう
ね。ウム。もし私に、そういうものがないなら、私の家は、掃除しないでしょうね。それがどうした
というの?」(N・ニールズ)



●I hate quotations. Tell me what you know. - Ralph Waldo Emerson

引用は嫌いだ。あんたの言葉で言え。(R・W・エマーソン)



●Do not go where the path may lead instead go where there is no path and leave a trail. -
Ralph Waldo Emerson



道があるところを行ってはいけないよ。足跡が残るような、道のないところを行きなよ。(R・W・
エマーソン)



●A day without sunshine is, you know, night. - Shannon

サンシャインのない日というのはね、夜だよ。(シャノン)



●My advice to you is to get married: if you find a good wife you'll be happy: if not, you'll
become a philosopher - Socrates

私からあなたへのアドバイスはね、結婚することだよ。よい妻を見つければ、あんたは幸福に
なるだろう。そうでなければ、あんたは哲学者になるだろう。(ソクラテス)



●The unexamined life is not worth living. - Socrates

吟味されない人生は、生きる価値はない。(ソクラテス)



+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司※



子育て随筆byはやし浩司(198)



老人観察



 年をとればとるほど、小さくなっていく人がいる。その時期になると、自分の土地でもないの
に、一日中、竹やぶの、竹の子の見張りをしている男性(七五歳くらい)がいる。



 最近でも、こんなことがあった。



 近くの空き地が、今度、貸し駐車場になった。その駐車場に、毎日のようにやってきて、不動
産屋と交渉していたのが、どこかの老夫婦だった。理由はやがて、わかった。道路から一番、
進入しやすい場所を確保するためである。



 私はその光景をかいま見ながら、ふと、こう思った。「もう、それほど長く生きられるわけでも
ないのに……」と。その老夫婦は、そのつど不動産屋の人に、声を荒げて何かを抗議してい
た。



 私のばあい、このところ、何を買うにも、「あと、~~年、もてばいい」とか、「どうせ買っても、
老人ホームへはもっていけないし……」と考えるようになった。今、住んでいる土地と家にして
も、「どうせ売るのだから……」と。



 今、こうして自分のことを書きつづけているのも、そういう気持からだ。ワイフでさえ、「こんな
プライベートなことまで書く必要があるの?」と聞く。私は、「笑いたければ、笑え」と答える。「一
〇年後か、二〇年後か知らないが、私はどうせ消えていなくなる」と。



 が、ふと油断すると、先に書いた老人のようなことをしている? 竹の子の見張りのようなこと
はしないが、それに近いことをしているときがある。



 先日も、家の玄関の正面に、イヌの糞がしてあった。どこかのイヌが、散歩の途中でしたらし
い。私は、かなり頭にきた。で、それから数日間。家の前をイヌを連れた人が通るたびに、そち
らのほうが気になってしかたなかった。



 そこで考えてみる。年をとればとるほど、大きくなる人と、小さくなる人がいるのがわかる。
で、その違いは、何か、と。もっとも、大半の老人は、小さくなるが、それでも、大きくなる人もい
る。たとえば近所のKさんという人は、今、老人たちが憩えるような公民館づくりに情熱を燃や
している。



 これは脳の老化と、硬直化と関係があるのだろうか。



 発達心理学というと、成長期の子どもの心理学と考える人は多い。しかしこれは誤解。死に
いたる、老人の心理的変化も、その中に含まれる。「発達」というよりは、「退化」というべきかも
しれない。正確には、「退化心理学」とか? 心理学の世界では、「生涯発達」という言葉を使う
らしい。



 それはともかくも、老人の心理的変化で、一番こわいのは、「喪失感」である。



 体力、気力の喪失。記憶力、感情の喪失。目標、生きがいの喪失など。行動半径が小さくな
り、収入が減少することによる喪失感もある。



 こうした「喪失感」を繰りかえすうち、老人たちは、独特の心理状態になる。その一つが、「竹
の子の見張り」である。



 竹の子が盗まれることを心配するくらいなら、環境汚染によって、澄んだ空気が奪われること
を心配したほうがよい。……ということになるが、視野が狭くなる分だけ、目先の利益にとらわ
れるようになる。が、どうもそれだけではないようだ。



 たとえば竹の子の見張りをしている老人は、その見張りをしている間、動作が、どこか子ども
っぽい。わざとらしく、小さな棒切れをもち、竹やぶへ侵入してきた人を、大声で罵声(ばせい)
したりしている。明らかな、退行現象である。



 つまり年をとることによって、ただ単に、いろいろなものを喪失するだけではなく、精神状態が
幼くなるということもあるようだ。



 そこで「大きくなる人」と、「小さくなる人」の違いはといえば、この二点に集約される。



 ひとつは、視野の広さ。もう一つは、退行の度合い。



 視野は広ければ広いほどよい。そして精神状態は、いつまでもその年齢にふさわしい状態で
あればあるほど、よい。しかし、それは可能なのか。



 そこで私は、第一に、「気力の充実」をあげる。心理学的には、「自己意識の維持」ということ
になるのか。



 肉体に体力があるように、精神にも、気力がある。そして体力が、絶えまない健康管理と運
動によって維持されるように、気力もまた、絶えまない健康管理と鍛錬によって維持される。



 「気力」というと、脳の中の問題であるがゆえに、どうしても安易に考えられがちである。外か
ら見えない。しかしこの気力は、少し油断すると、どんどんと衰えていく。まず私たちは、それに
気づかなければならない。



 方法としては、いつも新しいことに興味をもち、その新しいことに、果敢なく挑戦していく。そう
いう姿勢を、日常的に貫くことによって、気力を維持することができる。たとえて言うなら、それ
は毎日の運動のようなものかもしれない。ジョギングをしたり、サイクリングしたりするように、
だ。



 こうした努力を怠ると、とたんに気力は弱くなる。



 これは私の経験だが、四〇歳になるころ、私は山荘づくりに情熱を燃やした。小さな小山を
譲ってもらい、それをユンボで削り、平らな土地にした。そのため土日のほとんどは、そうした
作業で、つぶれた。



 現在、そういう気力があるかといえば、実のところ、もう、ない。旅行をすることすら、どこかお
っくうになった。自分でもまずいと思っているが、気力というのは、そういうものかもしれない。



 となると、結論は、こうだ。



 年をとればとるほど、大きくなる人というのは、その気力を維持できる人をいう、と。そしてそ
のために、人は、いつも自分を鍛えていかねばならない、と。



 これは大発見というより、小発見。これからの私の指針として、大切にしたい。

(030926)







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●依存性



 人というのは、それがモノであれ、人であれ、はたまた宗教であれ、何かに依存しないと、生
きていかれないものなのか。



 あのK国を見ていると、ときどき、こちらまで頭がヘンになる。ここ数日だけでも、こんなことを
言っている。



 「日本は拉致問題を取りあげて、反K国感情を、かきたてている」「六か国協議で、拉致問題
を取りあげ、協議のじゃまをしたのは、日本だ」と。きわめつけは、こんな意見。



「アメリカは、食糧を一〇万トン援助すると言ったが、まだ四万トンしか渡さない。約束を守
れ!」と。



 K国の論法をまともに耳を傾けていると、「我々は、悪いことをしたくないが、させられている
だけだ」「世界は、我々を助ける義務がある」というふうにも、聞こえる。もしこんなことを、ふつ
うの生活の中で言う人がいたら、まちがいなく、私は、こう言う。「甘ったれるのも、いいかげん
にしておけ!」と。



 で、今日(九月一五日)の朝刊によれば、もしK国が核実験をしたら、日本は、段階的な制裁
措置をとるという。しかしこれも、どこか、おかしい。「制裁」というのは、一方の側が優位に立っ
ているときのみに、使われる言葉。そこでたとえば、「制裁」という言葉ではなく、たとえば「縮
小」「遠慮」「停止」という言葉を使ったら、どうか。



 「貿易を縮小する」「人的交流を遠慮する」「協議を停止する」と。「日本だって、困るのだが…
…」という立場をつくる。K国の金XXは、「制裁イコール、即、戦線布告」と息巻いている。



 さて、依存性の問題。



 子どもというより、老人の問題ということになる。子どもにベタベタ甘えるというより、「子どもは
親のめんどうをみるべき」と、当然のように考えている老人は、多い。「産んでやった」「育てて
やった」という意識が、いつしか転じて、そうなる。このタイプの老人は、独特の人生観をもって
いる。



 親意識が強く、何かにつけて親風を吹かす。

 親は絶対という、権威主義的なものの考え方をする。

 孝行論を説き、親に尽くす子どもイコール、できのよい子と評価する。

 子どもそのものを財産のように考え、たとえば息子の嫁の人格を認めない。

 「家」「モノ」「財産」への執着心が強く、世間体、見栄、体裁を気にする。

 上下意識が強く、ものの考え方が出世主義。過去の栄華にしがみつく、など。



 こうしてあげたら、キリがない。



 つまりこうした考え方をもつことにより、「子どもは親のめんどうをみるべき」という考え方を、
自ら正当化する。よくマザコンタイプの男性(夫)が、自分のマザコン性を正当化するために、
親を必要以上に美化することがある。「私の親は、すばらしい親だ。だから私は、親を大切に
するのだ」と。



 同じように、依存性の強い親は、今度は反対に、権威主義をもちだし、自分の依存性をカモ
フラージュしたり、正当化したりする。このことは、あのK国をみれば、わかる。



 K国の高官たちは、ことあるごとに、「民族の誇り」を口にする。そしてささいなことを、針小棒
大に問題にしては、「侮辱(ぶじょく)した」と騒ぐ。つまりそういう形で、自分たちの依存性をカモ
フラージュし、正当化している。本来なら、頭をさげて、「食糧をください」と素直に言うべきなの
だが、K国の人たちには、それができない。



 こうして考えてみると、(依存性)と(権威主義)は、ちょうど、紙にたとえると、表と裏の関係に
あることがわかる。まったく別のように見えるが、しかしその奥では、たがいにしっかりと結びつ
いている。



たとえば宗教に依存する人は多い。しかしそういう人でも、権威のない宗教には、身を寄せな
い。あるいは身を寄せても、権威を大切にする。K国について言えば、金XXが、その最高権威
ということになる。



 では、人は、何に依存したらよいのか。



 あくまでも一つのヒントとして、こんなことがある。



 私はときどき、どうして自分が、こうした原稿を書いているか、わからないときがある。またど
うして読者が読んでくれるか、わからないときがある。私には、地位も肩書きも、権威もない。
が、そういう私を支えてくれるのは、実は私自身である。



 「私は、ほかのだれもまねできない経験をした。それを信じる」と。



 どこかの肩書きのある人と議論するときも、そうだ。彼らは最新の情報はもっている。しかし
私には、それがない。ないかわりに、私はいつも最前線で戦ってきた。その経験がある。それ
を心のどこかで信じながら、議論をする。つまりは、自分に依存する。



 人は、何かに依存しないと、生きていかれないものなのかもしれない。が、どうせ依存するな
ら、(私自身)ということになる。私自身なら、自分を裏切ることもない。依存先としては、もっと
も確実な依存先ということになるが、ちがうだろうか。

(030916)



+++++++++++++++++++++

この問題に関して、以前、つぎのような原稿を

書きました。参考にしていただければ、うれし

いです。

+++++++++++++++++++++



●子の気負い



 「親だから……」と気負うのを、親の気負いという。それはよく知られているが、「子だから…
…」という気負いもある。これを子の気負いという。



 Sさん(長野市在住・女性)も、その「子の気負い」で苦しんでいる。両親と祖母の問題。それ
に伯父、伯母の問題。こうした問題は、クモの巣のようにからんでいて、一筋縄ではいかない。
ときどき私は相談を受けるが、どこからどう手をつけてよいのか……? 



 そのSさん。今は、毎日、悶々と悩んでいる。祖母のボケが進んでいる。そのこともあって母
親が沈んでいる。うつ病かもしれない。父親とうまくいっていない。実家へ帰っても、父親と会話
をするだけで、疲れてしまう。祖母の介護のことで、伯父が口を出して、困る、などなど。



●相互依存性 



 こうした気負いは、相互的なもの。決して、一方的なものではない。親としての気負いの強い
人ほど、一方で、子としての気負いが強い。「よい親であろう」と思う反面、「よい子どもであろ
う」とする。だからどちらを向いても、疲れる。



 こうした気負いの背景にあるのが、依存性。もう少しわかりやすい言葉でいうと、「甘え」。親
に対しては、しっかりと親離れできていない。一方、子どもに対しては、しっかりと子離れできて
いない。結果として、どこかベタベタの人間関係になる。



 このベタベタの人間関係が、祖父母→親→自分→子へと、脈々とつながっている。だからふ
つう、その中にいる人は、それに気づかない。それがその人にとっては、ふつうの人間関係で
あり、またたいていのばあい、それが「あるべき人間関係」と考える。



●Sさんのケース



 Sさんのケースでは、Sさんが、親のグチのはけ口になっている。とくにSさんの母親は、何か
につけて、Sさんにグチをいう。「望まない結婚であった」「したいこともできなかった」「夫(Sさん
の父親)が何もしてくれない」と。



 こうした母親の不平、不満を聞きながら、Sさんは、ますます悶々と悩む。「両親たちは、見た
感じは、一見、仲のよい、理想的な夫婦に見えるのですが……」「友人がうらやましがることも
ありました」と。



 しかしそういうグチを、母親がSさんという子どもにぶつけること自体、おかしい。仮にぶつけ
たとしても、子どもが悩むところまで、子どもを追いこんではいけない。Sさんは、たいへん生真
面目(きまじめ)な人なのだろう。そういう母親のグチを聞きながら、適当にそれを聞き流すとい
うことができない。



●未熟な人間性



 依存型家庭につかっていると、依存性が強い分だけ、代々、子どもは精神的に自立できなく
なる。自立できないまま、それがひとつの「生活習慣」として定着してしまう。



 たとえば日本には「かわいい」という言葉がある。「かわいい子ども」「子どもをかわいがる」と
いうような使い方をする。



 しかし日本語で「かわいい子ども」と言うときは、親にベタベタと甘える子どもを、かわいい子
どもという。自立心が旺盛で、親を親とも思わない子どもを、かわいい子どもとは、あまり言わ
ない。



 また「子どもをかわいがる」というのは、子どもに楽をさせること。子どもによい思いをさせるこ
とをいう。



 こういう子ども観を前提に、親は子どもを育てる。そしてその結果として、子どもは自立できな
い、つまりは、人間的に未熟なまま、おとなになっていく。



●親の支配



 依存型家庭では、子どもが親に依存する一方、親は、子どもに依存する。その依存性も、相
互的なもの。自分自身の依存性が強いため、同時に子どもが自分に依存性をもつことに甘く
なる。その相互作用が、たがいの依存性を高める。



 しかし親が、子どもに依存するわけにはいかない。そこで親は、その依存性をカモフラージュ
しようとする。つまり子どもに依存したいという思いを、別の「形」に変える。方法としては、①命
令、②同情、③権威、④脅迫、⑤服従がある。



⑯命令……支配意欲が強く、親のほうが優位な立場にいるときは、子どもに命令をしながら、
親は子どもに依存する。「あんたは、この家の跡取りなんだから、しっかり勉強しなさい!」と言
うのが、それ。

⑰同情……支配意欲が強く、親のほうが劣位な立場にいるときは、子どもに同情させながら、
結果的に、子どもに依存する。「お母さんも、歳をとったからね……」と弱々しい言い方で言うの
が、それ。

⑱権威……封建的な親の権威をふりかざし、問答無用に、子どもを屈服させる。そして「親は
絶対」という意識を子どもに植えつけることで、子どもに依存する。「親に向かって、何てこと言
うの!」と、子どもを罵倒(ばとう)するのが、それ。

⑲脅迫……脅迫するためによく使われるのが、宗教。「親にさからうものは、地獄へ落ちる」
「親不孝者は、不幸になる」などという。「あんたが不幸になるのを、墓場で笑ってやる」と言っ
た母親すら、いた。

⑳服従……子どもに隷属することで、子どもに依存する。親側が明らかに劣位な立場にたち、
それが長期化すると、親でも、子どもに服従的になる。「老いては子に従えと言いますから…
…」と、ヘラヘラと笑って子どもに従うのが、それ。



●親であるという幻想



 人間の自己意識は、三〇歳くらいまでに完成すると言われている。言いかえると、少し乱暴
な言い方になるが、三〇歳をすぎると、人間としての進歩は、そこで停滞すると考えてよい。そ
うでない人も多いが、たいていの人は、その年齢あたりで、ループ状態に入る。それまでの過
去を、繰りかえすようになる。



 たとえば三〇歳の母親と、五歳の子どもの「差」は、歴然としてあるが、六〇歳の母親と、三
五歳の子どもの「差」は、ほとんどない。しかし親も子どもも、それに気づかない。この段階で、
「親だから……」という幻想にしがみつく。



 つまり親は、「親だから……」という幻想にしがみつき、いつも子どもを「下」に見ようとする。
一方、子どもは子どもで、「親だから……」という幻想にしがみつき、親を必要以上に美化した
り、絶対化しようとする。



 しかし親も、子どもも、三〇歳をすぎたら、その「差」は、ほとんどないとみてよい。中には、努
力によって、それ以後、さらに高い境地に達する親もいる。しかし反対に、かなり早い時期に、
親よりはるかに高い境地に達する子どももいる。



 そういうことはあるが、親意識の強い親、あるいはそういう親に育てられた子どもほど、この
幻想をいだきやすい。この幻想にしばられればしばられるほど、「一人の人間としての親」、
「一人の人間としての子ども」として、相手をみることができなくなる。



●Sさんのケース



Sさんのケースの背景にあるのは、結局は、親離れできないSさん自身といってもよい。Sさん
は、実家の両親の問題に悩みながら、結局は、その実家にしがみついている。そういうSさん
にしたのは、Sさんの両親、さらにはSさんの祖父母ということになる。つまり大きな流れの中
で、Sさんは、Sさんになった。



 なぜ、Sさんは、「両親の問題は、両親の問題」と、割り切ることができないのか? 一方、S
さんの両親は、「私たちの問題は、私たちの問題」と、割り切ることができないのか? Sさん
は、両親の問題を分担することで、結局は両親に依存している。一方、Sさんの両親は、自分
の問題を娘のSさんに話すことで、Sさんに依存している。



 本来なら、Sさんは、両親の問題にまで、首をつっこむべきではない。一方、親は、自分たち
の問題で、娘を悩ませてはいけない。どこかで一線を引かないと、それこそ、人間関係が、ドロ
ドロになってしまう。



●批判



 こうした私の意見に対して、「林の意見は、ドライすぎる」と批判する人がいる。「親子というの
は、そういうものではない」と。「君の意見は、若い人向きだね。老人向きではない」と言ってき
た人(七五歳男性)もいた。



少し話はそれるが、ここまで書いて、こんな問題を思い出した。親は子どものプライバシーの、
どこまで介入してよいかという問題である。ある母親は、「子どものカバンの中まで調べてよい」
と言った。別の母親は、「たとえ自分の子どもでも、子ども部屋には勝手に入ってはいけない」
と言った。どちらが正しいかということについては、また別の機会に考えるとして、私が言ってい
ることは、本当にドライなのか? このことは、反対の立場で考えてみればわかる。



 あなたは、いつかあなたの子どもが、あなたの問題で、今のSさんのように悩んだとする。そ
のときあなたは、それでよいと思うだろうか。それとも、それではいけないと思うだろうか。Sさ
んは、メールで、こう書いてきた。



 「娘(中学一年)には、今の私のように、私の問題では悩んでほしくありません」と。



 私は、それが親としての、当然の気持ちではないかと思う。またそういう気持ちを、ドライと
は、決して言わない。



●カルト抜き



 こうした生きザマの問題は、思想の根幹部分にまで、深く根をおろしている。ここでいう依存
性にしても、その人自身の生きザマと、密接にからんでいる。だからそれを改めるのは容易で
はない。それから抜け出るのは、さらに容易ではない。



 しかも親子であるにせよ、そういう人間関係が、生活のパターンとして、定着している。生きザ
マを変えるということは、そういう生活のあらゆる部分に影響がおよんでくる。



 これは一例だが、Y氏(五〇歳男性)は、子どものころ、母親に溺愛された。それは異常な溺
愛だったという。そこでY氏は、典型的なマザコンになってしまったが、それに気づき、自分の
中のマザコン性を自分の体質から消すのに、一〇年以上もかかったという。



 親子関係というのは、そういうもの。それを改めるにしても、口で言うほど、簡単なことではな
い。それはいわばカルト教の信者から、カルトを抜くような苦痛と努力、それに忍耐が必要であ
る。時間もかかる。



●因縁を断つ



 そんなわけで、私たちが親としてせいぜいできるここといえば、そうした「カルト」を、子どもの
代には伝えないということ程度でしかない。少し古臭い言い方になるが、昔の人は、それを「因
縁を断つ」と言った。



 Sさんについていえば、仮にSさんがそうであっても、同じ苦痛や悩みを、子どもに伝えてはい
けない。つまりSさん自身は、親離れできない親、子離れできない子どもであったとしても、子ど
もは、親離れさせ、ついでその子どもが親になったときには、子離れできる子どもにしなければ
ならない。



 しかしこと、Sさんの子どもについて言えば、ここに書いたような問題があることに気づくだけ
でも、問題のほとんどは解決したとみてよい。このあと、多少、時間はかかるが、それで問題は
解決する。



 私はSさんに、こうメールを書いた。



 「勇気を出して、自分の心の中をのぞいてください。つらいかもしれませんが、これはつぎの
代で、あなたの子どもに同じような悩みや苦しみを与えないためです」と。