*Thinking vs. Science
【われ、考える。故にわれ、あり】(I think, therefore I am.)
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思考力を失ったとき、人類はほんとうに
滅亡する。
思考するから人間は人間である。
もし思考をしなければ、人間は、
ただのサルになってしまう。
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●科学と哲学
科学が進歩したからといって、哲学が進歩するとはかぎらない。
科学の進歩と、哲学の進歩は、まったく別のもの。
しかし影響がないとは、言えない。
科学的な見方が、哲学に影響を与えるということは、ある。
たとえば最近の脳科学の進歩には、驚くべきものがある。
人間の(心の作用)まで、科学的に説明しようとしている。
では、哲学そのものは、どうだろうか?
たとえば紀元前5世紀ごろ、中国に2人の思想家がいた。
まっ先に思いついたのが、老子(紀元前5世紀)と、荘子(370~286頃BC)
である。
無為自然(むいしぜん)を説いた老子、安心立命(あんじんりつめい)を
説いた荘子。
いわば現在の自然主義の先駆け的な思想家ということになるが、では、
その後の科学の進歩ほどに、私たちが、彼らの思想を受け継ぎ、進化
させたかというと、それは疑わしい。
2500年もたった今ですら、老子や荘子の思想は、斬新で先駆性がある。
その先駆性があること自体、思想が進歩していないことを示す。
一方、科学はどうか。
科学は確かに進歩しているが、そのつど感動は、一時的なものにすぎない。
ひとつの科学が進歩するたびに、私たちは驚く。
しかししばらくすると、それが当たり前になってしまう。
あとはこの繰り返し。
つまり科学の進歩には、常にループ性がともなう。
進歩を繰り返しながら、同じところをグルグル回る。
こんな経験がある。
●絶え間ないループ状態
私は中学生のとき、はじめてカラーテレビなるものを、見た。
今から思えば、白黒テレビに、原色がついただけのカラーテレビだったが、
驚いたというよりも、あのとき受けた衝撃は、今でも忘れない。
さらに20代の中ごろ、私ははじめてパソコンなるものを、見た。
簡単なプログラムを組むと、それは画面上に、ポツポツと二次曲線を描いてみせた。
そのときは驚いたというよりも、うれしかった。
私は中学生のとき、夏休みの工作に、二次曲線自動描画器というものを考えた。
縦軸と横軸に張った糸を、プーリー(回転コマ)で動かす。
両方の糸が交わったところが、ひとつの点になる。
その点が、二次曲線を描くようにした。
で、私はその交わったところに、小さなボールを取り付けた。
ボールに縦穴と、横穴をあけ、そこに糸を通した。
手でハンドルを回すと、縦軸と横軸に張った糸が、ある一定の割合で移動し、その
ボールが動くはずだった。
しかしそのボールは、うまく動かなかった。
……というより、まったく動かなかったように記憶している。
縦軸の糸と横軸の糸が、相互にからんでしまった。
が、パソコンは、そのときの夢を実現してみせてくれた。
私はパソコンがポツポツと点を画面に描いていくのを、いつまでもじっと見つめていた。
そして今、中学生のときのカラーテレビや、20代のころのパソコンが、
インターネットに置き換わった。
このインターネットのおかげで、私は地方の都市に住むというハンディを克服する
ことができた。
そればかりか、情報を、瞬時に、世界に向けて発信することができるようになった。
しかし……。
これも科学の進歩というなら、まさに(同じこと)の繰り返し。
そのうちインターネットも、テレビのように当たり前になる。
そこで人間はさらなるモノを見つけて、それに感動するにちがいない。
またそうでないと感動しない。
つまりそれがここでいうループ性、ということになる。
●思考と情報
なぜ、こういう現象が起きるのか。
進歩しているようで、実は同じところをぐるぐる回っている。
私たちの身の回りの生活は、たしかに進化している。
豊かになっている。
たとえば写真ひとつとっても、今では瞬時、瞬時に、それを見ることができる。
見ることができばかりか、瞬時に、それを世界中に配信することができる。
携帯電話にしても、そうだ。
今では歩きながらでも、好きなところに電話をかけることができる。
その結果、私たちは、その分だけ、思考が深くなったかといえば、それはない。
その理由にひとつに、思考と情報の混同がある。
●思考と情報
思考と情報は、まったく別のものである。
幼稚園児が掛け算の九九をソラで言ったとしても、その子どもに算数の力(=
考える力)があるとは、だれも思わない。
思考には、つねにある種の苦痛がともなう。
難解な数学の問題を前にしたときの状態を、想像してみればよい。
一方、情報というのは、せんべいを食べながらでも、吸収することができる。
夜のテレビのバラエティ番組を見れば、それがわかる。
いや、番組を見ろというのではない。
そういう番組を見ている、あなた自身を見ろと言っている。
昨夜も、創作料理と称して、何人かのタレントが、珍奇な手料理を披露してみせて
いた。
ギョーザ風のオムレツ、オムレツ風のギョーザ。
そんなような料理だった。
そうした情報を吸収するのには、たいした努力はいらない。
テレビの前で寝転びながら、いっしょにゲラゲラと笑っているだけでよい。
言うなれば、現代社会というのは、まさに情報の洪水。
情報また情報が、怒涛のごとく、日々の生活の中に押し寄せてくる。
と、同時に、私たちは(考える)という習慣を放棄してしまった。
その時間さえない。
あるいは情報の多いこと、イコール、思考と錯覚してしまった。
その結果として、考える力、つまり新しい思想を生み出すということが
むずかしくなってしまった。
●モノ社会への幻想
さらにもうひとつ大きな誤解がある。
物質社会、つまりモノ社会が豊かになればなるほど、心もまた豊かになるという
誤解である。
明確に否定しておきたい。
物質、つまりモノは、人間の心をけっして豊かにはしない。
モノがあれば、便利にはなるが、それは人間の心の豊かさとは、まったくの
別物である。
たとえば旅行をするにも、今ではカーナビを頼りに、迷わず目的地に行く
ことができる。
しかしその分だけ、旅を楽しむ心が豊かになったかといえば、それはない。
大型の高級車に乗っている人ほど、思考力があるかといえば、それはない。
高級マンションに住んでいる人ほど、思考力があるかといえば、それはない。
つい先日、こんな経験をした。
●モノ社会
このあたりでは、第一と第三水曜日が、危険物の収集日ということになっている。
そのこともあって、昨日、私は、居間の横の部屋にあるガラクタを、ほとんど捨てた。
それはかなり勇気のいる作業だった。
2つの勇気が必要だった。
というのも、その中には、長い間、私が趣味としてきた、ラジコン飛行機も、5、6
機あったからである。
購入価格にしても、それぞれにプロポ(送信機)や、サーボ(動作用モータ)が
ついているので、1機あたり、10万円はくだらない。
そういうものを容赦なく、バリバリと破壊し、袋につめた。
これが勇気(1)。
もうひとつは、「2度とラジコン飛行機を飛ばすことはないだろう」という、
つまりは趣味との決別。
残りの人生が10年あるとしても、その10年は、別のことに使いたい。
そういう思いもあって、ラジコン飛行機と周辺機器をすべて捨てた。
これが勇気(2)。
しかしラジコン飛行機だけではない。
私の家にも、モノがあふれかえっている。
モノ、モノ、モノ……。
これだけモノがあふれているのに、ではその分だけ、私は幸福になったかというと、
それはない。
そのつど満足感は味わったかもしれないが、満足感と幸福感は別。
しかもその両方とも、一時的。
せつな的。
その場だけのもの。
わかりきったことだが、モノでは、人間は幸福になれない。
つまりここに、モノ文明、つまり物質文明の限界がある。
●考えるから人間
人間は、考えるからこそ、人間である。
「I think, therefore I am.(我、考える。それ故に、我、あり。)」という言葉もある。
「考えなければ、人間ではない」とさえ断言してもよい。
が、考えなければ、どうなるか。
そこはまさに、「ケータイをもったサル」という世界になる。
少し前だが、こんなことがあった。
角のコンビニを自転車で横切ろうとしたときのこと。
一台の車が、猛スピードでそこへ突っ込んできて、私の真横で急ブレーキを
かけて止まった。
私はあやうく、その車にはねられるところだった。
見ると実にそれらしい2人の若い男女だった。
視線が合ったとき、男のほうは、私に向って、「バ~カ」と言った。
声は聞こえなかったが、口の動きで、それがわかった。
女のほうは外に視線をはずして、ニヤニヤと笑っていた。
言うなれば、「クルマに乗ったサル」ということか。
そこには一片の知性も理性も感じなかった。
考えない人間というのは、そういう人間をいう。
●では、どうすればよいのか?
それは簡単な自問から始まる。
「おいしいものを食べた」……「だから、それがどうしたの?」
「大きな家を買った」……「だから、それがどうしたの?」
「600万円もする車を買った」……「だから、それがどうしたの?」と。
こうした自問を繰り返していると、ちょうどタマネギの皮が外からはがれて
いくように、自分の心がどんどんと細くなっていくのを感ずる。
「だから、それがどうしたの?」につづく、答の部分がない。
あるいはいくら考えても、その答がつづかない。
が、さらに自問を繰り返す。
「だから、それがどうしたの?」と。
するとあなたは、最後のところで、「私」が浮かびあがってくるのがわかる。
恐ろしく素朴で、恐ろしく小さい、「私」である。
その「私」から見ると、世の中のすべてのモノがつまらなく、取るに足りない
ものであることがわかってくる。
が、ここが原点。
そのあとのことはわからない。
それぞれの人が、それぞれの分野で、自分の道を見だす。
哲学者は、真理を。
宗教家は、善を。
芸術家は、美を。
ただ大切なのは、自問を繰り返すこと。
「だから、それがどうしたの?」と。
あえて言うなら、その悩み、苦しむ過程こそが大切。
その過程を通して、いろいろなドラマが生まれ、それが人間の世界を、
豊かなものにする。
大切なことは、自分で考えること。
結局は、そこへ行き着く。
●荘子の思想
ついでながら、荘子の思想について……。
すべての欲望、さらには自分を束縛するすべての「知」から、自らを解放し、
自然の世界(道)で、自然に溶け込む※。
荘子が説いた「安心立命」を一言で説明すれば、そういうことになる。
が、皮肉なことに、現代文明は、自然を容赦なく破壊する。
自然に溶け込むどころか、自然に背を向けている。
すでに2500年前に、その重要性を説いた人がいたにもかかわらず、
それを今に生かすことさえできないでいる。
……となると、思想とはいったい何かということにもなってしまう。
科学というのは、絶え間なく、その前の科学に積み重ねられていく。
一方、思考というのは、絶え間なく、上書きされていく。
科学のような積み重ねがしにくい。
が、もし今、2500年前の老子や荘子の思想を進化させていたら、
地球温暖化の問題も起きなかったはず。
一方、科学だけが進歩し、自動車がひしめき、飛行機が飛び交うように
なったからこそ、地球の温暖化は進んでしまった。
が、このままもし人間が、「だから、それがどうしたの?」という部分を
置き去りにしたまま、科学の進化だけを独走させてしまったら……?
そのときは、本当に人類は滅亡の危機を迎えることになる。
思考力があれば、人類は生き残ることができる。
思考力を失えば、人類は滅亡する。
飛躍した結論に聞こえるかもしれないが、思考力だけが、人類の滅亡を救う、
ゆいいつの方法ということになる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
科学 哲学 老子 荘子 無為自然 安心立命 思考力 思考のループ)
Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司
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