Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Sunday, February 08, 2009

*To my Friends in Australia *Essays on Fe. 8th

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To My Friends in Australia

We have heard a very bad news about bush fires in Vic., Australia.

It is a very sad news that 66 people or more people are dying from the fires.

Also we have heard that that the temperature is over 45 c degrees today in
Melbourne.

We have no words but we really hope that you are all right and these fires and
high temperature will end very soon.

We love Australia and your people very much.

We feel so ssad about these news.

Hiroshi Hayashi
Hmamamtsu-city
Japan


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●失錯行為

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思わず本音がポロリと出る……ということは、
よくある。
口にしてはいけないと思っていると、かえって
それが口から出てきてしまうこともある。
たとえば話している相手が、かなりの肥満体で、
内心では、「肥満の話はしてはいけない」と
思っていても、ふと話題が肥満に向いてしまう、など。

こういう行為を、失錯行為という。
私も、最近、この種の失敗をよくする。
脳みその緊張感が、それだけゆるんできたという
ことか?
が、これは、老後を迎える私たちにとっては、
深刻な問題と考えてよい。

++++++++++++++++++

●緊張感の減退

子どもとこんな会話をしたことがある。

ある日、デスクの上を見ると、昨日までそこにあったビーズ玉で作った
ネックレスがない。
「?」と思いつつも、ネックレスのことは忘れた。
が、レッスンが終わって、あいさつがすんだときのこと。
A子さん(小2・女児)に、「A子さん……」と声をかけた。
私はそのとき何か別の用があって、そう声をかけた。
が、A子さんは、すかさず、こう言い返した。
「私、何ももっていっていません」と。

瞬間、何のことかわからなかったが、ネックレスをもっていったのは、
A子さんと、私はわかった。
こういうのを失錯行為という。
A子さんは、私が声をかけたとたん、思わず、そう言い返してしまった。
そのとき私は、「子どもでも、失錯行為をするんだなあ」とまあ、へんな感心をした。

……ということだが、私自身も最近、ときどきこの失錯行為を経験する。
先にも書いたように、それだけ脳みその緊張感がゆるんできたということになる。
が、こうした傾向は、加齢とともに、ますます大きくことはあっても、小さくなる
ことはない。
自己管理能力そのものが、衰退する。

たとえば講演をしているようなとき、私は同時に脳みそが2つの部分で機能して
いるのを感ずる。
ひとつは、話している内容について機能している部分。
もうひとつは、そういう自分を別のところから客観的に判断している部分。
「残りの時間は、あと15分だぞ。そろそろまとめに入れ」とか、など。

コンピュータにたとえるなら、デュアル・コアということになるのか。
2つの仕事を、脳みそが同時進行の形で、処理している。
つまりその客観的に判断している部分の昨日が衰退する。
だから「思わず……」ということが多くなる。
が、この程度ですめば、まだよいほう。
もう少し進むと、いわゆるボロが出る、ということになる。

●ボロが出る

私の中心部に、(私の人間性)があるとする、
その(私の人間性)を包むように、無数の(私)がある。
中心部にある私を(芯)とするなら、まわりの私は、(皮)ということになる。
タマネギを想像すると、わかりやすい。

たとえば教室で美しい母親を見たとする。
そういうとき、「美しい人だな」と思う。
裸で肌をこすり合わせたら、さぞかし気持ちよいだろうなと思う。
思うが、そういうふうに思っていることを、相手の母親に悟られてはならない。
つまりそういうふうに思っていることを悟られないように、自分をコントロールする。
そういう力を、自己管理能力という。
(発達心理学でいう「自己管理能力」とは、少し意味がちがうかもしれない。)

その自己管理能力の元になっている力が、「気力」ということになる。
私はさも聖人であかのようなフリをして、「そういうことには興味はありません」
というような様子をしてみせる。

そういうふうに自分を隠す部分が、先に書いた、タマネギの皮の部分ということになる。
このタマネギの皮の部分ばかりが肥大化すると、仮面、つまりペルソナということに
なるが、そこまで深刻な問題ではない。
だれしも、その程度の(皮)はかぶる。
タクシーの運転手が、客に愛想がよいのも、店の若い女性が、ていねいな言い方を
するのも、多かれ少なかれ、この(皮)による。
わかりやすく言えば、「営業用の顔」。

しかし加齢とともに、その(皮)が薄くなる。
薄くなって、ボロが出る。
もしそれがわからなければ、老人ホームにいる老人たちを見ればよい。
彼らの多くは、自分をむき出しにして生きている。

●奥の人間性

だれしもタマネギの芯のような部分をもっている。
それはそれとして、その(芯)がよいものであれば、それでよし。
そうでなければ、かなり警戒したほうがよい。
加齢とともに、その(芯)が、だれの目にもわかるようになる。

たとえばこの私は、芯となる素性が、あまりよくない。
自分でもそれがよくわかっている。
よく誤解されるが、(芯)は、人間性の問題。
生き様の問題。
経歴や学歴では決まらない。
頭のよさとも関係ない。
しかも長い年月をかけて、自分の中で熟成されるもの。

善人ぶることは簡単なこと。
それらしい顔をして、それらしい話をして、それらしく行動すればよい。
政治家の中には、この種の人間は、いくらでもいる。
しかし一度自分の中にしみついた(悪)を、自分から取り除くのは、
容易なことではない。

ほとんどのばあい、一生、残る。
死ぬまで残る。

それはちょうど健康論に似ている。
若いころは持病があっても、体力でそれをごまかすことができる。
しかしその体力が弱くなってくると、持病がドンと前に出てくる。

●では、どうするか?

若いころから、しかしできれば幼児期から、自分の人間性を磨くしかない。
「幼児期から?」と思う人もいるかもしれないが、幼児を見れば、すでに
その幼児の中に、どんな(芯)ができているかがわかる。

もちろんその(芯)を作るのは親ということになる。
とくに母親から受ける影響が大きい。
母親が正直で、まじめな人だと、子どもも、正直で、まじめになる。
しかもこうした連鎖は、教えずして、子どもに伝わる。

たとえば車の運転中に携帯電話がかかってきたとする。
そういうとき賢い母親は、そばにいる子どもに、代わりに電話に出させる。
「あなた、電話に出て。ママは運転中だから」と。
しかしそうでない母親は、そうでない。
子どものいる前でも、平気でルールを破る。
何気なく、破る。
携帯電話を片手に、平気で運転をつづける。
そういう姿を見て、子どもは、自分の中に(芯)を作っていく。

もう、答はおわかりかと思う。

私たちの中にある(芯)、つまり人間性は、日々の研鑽のみによって、作られる。
一瞬一瞬の行為が積み重なって、その人の人間性を作る。
といっても、これは難しいことではない。

約束を守る。
ウソをつかない。
この2つだけを積み重ねていく。
どんなばあいにも、子どもがいても、いなくても、それを守る。
こうした努力が、10年、20年……とつづいて、芯をつくる。
またそういうよい芯がしっかりしていれば、老後になっても、何も恐れる必要はない。

が、いくつかのコツがある。

私も努めてそうしているが、40歳を過ぎたら、つきあう人をどんどんと選択する。
とくに小ズルイ人は、避けたほうがよい。
もちろん悪人とはつきあわない。
そういう人と接していると、こちらの人間性までゆがんでくる。
若いときならまだしも、そういう人たちと交際して、無駄にできる時間は、もうない。
小ズルイ人とつきあっていると、そのつど、自分の人間性が逆戻りしていくのが
わかる。
とくに私のように、もともと素性がよくない人間はそうである。

で、あとは自然体。
なりゆきに任す
『類は友を呼ぶ』の格言どおり、あなたのまわりには、そういう人たちが集まってくる。
そうでない人は、あなたから遠ざかっていく。
人間性を磨くとは、そういうことをいう。

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家 失錯
失錯行為 ボロ 人間性)


Hiroshi Hayashi++++++++FEB. 09++++++++++++はやし浩司

●無意識下のウソ

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ウソにもいろいろある。
その中でも本心から、ウソをつくときがある。
「本心から」というのも、おかしな言い方に
聞こえるかもしれない。
しかし自ら本心を偽りながら、ウソをつく。
もちろんウソという認識はない。
本人は、自分の心を作り変えることで、
ウソをウソと思わなくなる。

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●子ども二態

こんな現象がある。
これはあくまでも一般論だが、どこかの試験会場のようなところで試験を受けて
きたような子どもに、こう聞く。
「どう、できた?」と。

そのとき、「うん、まあまあできたよ」と言う子どもは、たいてい結果がよくない。
「むずかしかった」「できなかった」と言う子どもは、たいてい結果がよい。

理由がある。

試験を受けてみて、むずかしい点がわかる、できなかったところがわかる、というのは
それだけ試験の内容が理解できたことを意味する。

むずかしかったところや、できなかったところを、集中的に気にする。
だから「できなかった」と言う。
一方、それすらもわからない子どもは、つまり自分ができなかったことすらわからない
そこで子どもは、「まあまあ、できた」と言う。
自分ができたところだけを過大に評価する。

ともにウソを言っているわけではない。
自分でそう思い込んでいるから、そう言う。


Hiroshi Hayashi++++++++FEB. 09++++++++++++はやし浩司

【本心論】

●認知的不協和理論

さて、本心論。
心理学の世界に、「認知的不協和理論」という理論がある。
アメリカの心理学者のフェスティンガーの発表した理論である。
人は自分の中に矛盾を感じたとき、どちらか一方を否定し、どちらか一方を合理化
することによって、その矛盾を解消しようとする。
その中間状態、つまり中途半端な状態にあるとき、人間の心理はたいへん不安定に
なる。
こうした不安定な状態は、『フリップ・フロップ理論』という理論で、説明される。

箱でもどちらか一方に倒れているときは、安定する。
しかし角で立てるなど、中途半端な状態だと、フラフラして落ち着かない。
「フリップ・フロップ」というのは、「フラフラしている」という意味である。
人間の心理もまた、同じ。
どちらかに心を決めてしまえば、落ち着く。
しかし中途半端だと、ずっと不安定なまま。
よくある例は、無神論の人が、有神論になるとき。
あるいは有神論の人が、無神論になるとき。
人間の心は、きわめて不安定になることが知られている。

が、このようにわかりやすいケースのほうが、少ない。
認知的不協和理論を説明するとき、心理学のテキストによく登場するのが、喫煙。
「タバコを吸うのは、体に悪い」、しかし「タバコを吸わざるをえない」と。
こういうばあい、その人は、(吸ってはだめ)(吸いたい)という矛盾の世界で、
葛藤する。
が、タバコを吸うのをやめることはできない。
そこでタバコを吸っていても元気な、80歳や90歳の人がいることを理由に、
自分を合理化しようとする。
「タバコを吸っていても、元気な人はいくらでもいる」と。

子どもの世界でもで、認知的不協和の状態は、よく観察される。
たとえばこんな例がある。

A君(中3)は、3日後に、大きなテストを控えている。
そんなとき、仲のよい友人が、遊びに来た。
A君は、テスト勉強をしなければならない。
しかし友人と遊んでいると楽しい。
こういうとき、A君は心理は、認知的不協和状態になる。

が、その状態を長く保つのは、むずかしい。
そこでA君は、テスト勉強があるから、友人に帰ってもらうか、
さもなければ、「テストはだいじょうぶ」と自分に言い聞かせることで、
友人と遊びつづけるかの、選択に迫られる。

で、A君は、後者のほうを選択した。
「今度のテストは簡単なものだ」という、別の友人の言葉を何度も頭の中で
繰り返すことで、自分を安心させた。

●深刻な例

B氏(40歳・男性)は学生時代から、無神論者だった。
無神論にもいろいろな程度があるが、B氏のばあいは、完全な無心論者だった。
しかし妻のほうは、そうではなかった。
どこかにそういう下地があったのだろう。
妻の家族はみな、急進的な宗教団体として知られているX教団の信者だった。
ある日突然、(本当はそれ以前から、夫に隠れて信仰していたのだが)、
X教団に入信してしまった。

X教団では、離婚することを強く戒めていたが、B氏は、そこで大きな選択を
迫られることになった。
B氏自身も入信するか、さもなければ、離婚か、と。
先にあげたフリップ・フロップ理論を借りるまでもなく、B氏の心理状態は、きわめて
不安定になった。
不安定ということは、心の緊張状態が取れないことをいう。
人間の心理は、緊張状態の程度にもよるが、それほど長くは、その緊張状態に
耐えられない。

結果、A氏はこう考えた。

「私の妻は、20年近く、私のためにがまんしてくれた。
つぎの20年は、私が妻のためにがまんする番だ」と。
B氏も、つづいてX教団に入信した。

●合理化

認知的不協和理論を考えていくと、何が本心で、何が本心でないかが、
よくわからなくなってくる。
本心と思っている(心)にしても、そのときの状況や雰囲気、環境によって、
自らがそう思い込んでいるだけというケースも少なくない。

心理学でいう(合理化)も、そのひとつということになる。

たとえば買ったばかりの宝くじの券を、どこかで落としてしまったとする。
そういうときその人は、「どうせあのクジははずれ券」と、自分をなぐさめる。
なぐさめることによって、損をしたという思いを打ち消す。

こうした心理操作は、私たちは日常の生活の中で、連続的にしている。
連続的にしながら、自分の本心(?)を作り上げていく。

子どもの世界でも、よくある。

先日も、C子さん(小6・女児)が、「私はおとなになったら、弁護士になる」と言った。
そこで私が、「本当になりたいの?」と何度も念を押したのだが、C子さんは、その
つど、しっかりと、「そうです」と答えた。

私「本心から、そう思っているの?」
C「もちろん」
私「でもどうして弁護士なの?」
C「弱い人の味方になりたいから」
私「じゃあ、どうやって、弱い人の味方になるの?」
C「……それは、わからない」と。

C子さんは、「弁護士になる」ということを口にしながら、家で、自分の立場を確保していた。
それを口癖にすれば、家で、わがままを通すことができた。
家事も手伝わないですんだ。

つまり「わがままを言いたい」「家事を手伝いたくない」という思いが別にあって、
C子さんは、「弁護士」という言葉を使うことを選んだ。
「弁護士になるために勉強する」と言えば、すべての手伝いや家事から解放された。
ほしいものは、何でも買ってもらえた。

●タバコ

こんな例もある。

Dさん夫婦は、Y教という、あるカルト教団の熱心な信者だった。
Y教というのは、手かざしで病気を治すという話で、よく知られている教団である。
が、10歳になった息子が、ある日、病気になってしまった。
どんな病気だったかは知らないが、Dさん夫婦は、病院へは連れていかなかった。
そのかわり、Y教の支部へ連れていった。
手かざしで息子の病気を治そうとした。
が、残念なことに、手かざしで治るような病気ではなかった。
息子はそれからしばらくして、死んでしまった。

ふつうならDさん夫婦は、Y教のインチキに気づき、Y教から離れる。
が、離れなかった。
離れられなかった。
かえってDさん夫婦は、さらに熱心な信者になってしまった。
しかし、これも認知的不協和理論を当てはめて考えてみると、理解できる。

もしY教がインチキだとするなら、息子を殺したのは、Dさん夫婦と自身いうことに
なってしまう。
そのとき病院へ連れていけば、治ったような病気である。
あとでそれがわかったが、Dさん夫婦がおかしな宗教を信じたために、息子は死んでしまった。
が、この事実を受け入れるのは、Dさん夫婦には、たいへんむずかしい。
そこでDさん夫婦は、より熱心な信者になることによって、その罪の意識から
逃れようとした。
「息子が死んだのは、私たちの信仰が足りなかったから」と。

●本心論

さて、本心論。
しかしこの「本心」ほど、アテにならないものはない。
卑近な例で考えてみよう。
私のワイフは、「お前は、ぼくのような男と結婚して、後悔していないか?」と
聞く。
するとかならず、「後悔していない」と答える。
そこで私が、「それはお前の本心ではないと思う」と言うと、「本心よ」と答える。
しかしこういう本心(?)は、まず、疑ってかかってみたほうがよい。

ワイフはワイフで、いろいろな場面で、認知的不協和状態になり、それを打開する
ために、私との関係を合理化してきた。
若いころの私は、男尊女卑的な思想をかなり強くもっていた。
仕事ばかりしていて、家庭を顧みなかった。
ワイフはそのつど、私との結婚に、疑問をもったにちがいない。
それをワイフは、心のどこかで感じていた(?)。
そのつど、自分を合理化することで、矛盾を別の心の中で、押しつぶしてきた(?)。

その結果が(今)であり、(ワイフの本心?)ということになる。
だからこの段階で、「後悔している」と認めることは、結婚生活そのものの否定につながる。
離婚程度で解決するような問題ではない。
その苦しさに耐えるくらいなら、自分の心をごまかしてでも、合理化したほうが得(?)。
だから「本心よ」と答える。

……と考えていくと、本心とは何か、ますますわからなくなってくる。
しかもこの本心というのは、他人によって作られるものではなく、自分によって
作られるもの。
だからよけいに、タチが悪い。
わけがわからなくなる。

実のところ私の中にも、本心と言ってよいものが、無数にある。
しかしその中でも、本当に、これが本心と言えるものは、ひょっとしたら、
ほとんどないのではないか。
「本心」というものは、そういうもの。
つまりずいぶんといいかげんなもの。
本心論を考えていると、そういう結論になってしまう。
さて、あなたはどうか?

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家
本心論 認知的不協和理論 フェスティンガー 合理化 正当化 自己正当化)


Hiroshi Hayashi++++++++FEB. 09++++++++++++はやし浩司

●道の駅(公共施設)に異議あり!

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私たち夫婦は、月に2、3度、地元のバス会社が
運営する旅行会に参加している。
最近は「歩こう会」が楽しい。
旅行先はいろいろだが、旅先で、7~10キロを歩く。
そこでのこと。

その旅行会では、出発点は、たいていどこかの
観光地。
しかしゴールは、どこかの(道の駅)と設定されている。
バスを停車させることができる場所ということで、
そう設定されているのだと思う。

その道の駅について。
ほとんどが公共の建物である。
自治体が運営している。
が、その道の駅。
昨年から今日までに、10数か所以上、利用させてもらったが、
こういうこと。

(1) 建物だけは、やたらと立派。超豪華。
(2) システムは、セルフサービス。
(3) レストランの料理は、まずくて、高い。
(4) 店員(職員と書くべきか)のやる気のなさだけが目立つ。

この文を今、私は帰りのバスの中で書いている。
たった今、A町の「XXの館」の裏にあるレストランで食事をしたところ。
建物からして、公営。
まちがいない。
ここから先は、施設の名誉にもかかわることだから、正確に書く。

(1) 日曜日の午後というのに、主だったメニューは売り切れマーク。
残っていたメニューは、麺類のみ。
(私たちがレストランに入ったのは、午後2時ごろ。
このレストランでも、食券を先に買い求めるシステムになっていた。)
(2) やる気なさそうな、40歳前後の女性が3人、カウンターの向こうでうろうろ
しているといった感じ。
愛想も悪い。
(3) 私はラーメン、ワイフはうどんを食べた。
値段は、ともに650円。
値段だけは、平均的。
しかし味がひどい!
私が食べたラーメンは、ラーメンの味がするというだけのラーメン。
醤油と化学調味料だけで作ったようなスープに、ショッピングセンターでも
売っているような細身の麺が、つっこんであった。
原価は、50~70円もかかっていないだろう。
まずくて、まずくて、どうしようもなかった。

食器をカウンターに返すとき、一言、苦情を言おうと思ったが、女性たちは奥に
ひっこんでまま。
「ありがとう」も言わなかった。

ワ「建物だけ、こんなに立派でも、そこで出しているものがこれではねエ……」
私「お役所仕事を、象徴しているみたいだね」
ワ「ホント!」と。

これはワイフの意見だが、こうしたレストランは、入札か何かをして、民間に
委託したほうがよい。
私の自宅近くにあるレストランでは、何十種類ものメニューを用意している。
昼の定食にしても、同じ値段の650円。

それにしても、大理石張りの豪華なレストランに入ったら、ラーメン(1種類)と、
うどん(2種類)しかないというのは、どう考えてもおかしい!

たまたま現在、元郵政省が建てた、全国のxx宿泊会館が、信じられないような
安値で、払い下げられているという問題が起きている。
数10億円で建てた建物が、わずか数万円で、とか、など。
「職員つき」ということで、そうなった。
しかし、である。

先ほど食事をしたレストランの女性たちも、身分は公務員なのだろうが、
しかしあんな店員(職員)なら、即刻クビにしたらよい。
少なくとも民間のレストランなら、とっくの昔に閉店している。
クビにしなくても、職場を失っている。
そんな店員(職員)でも、最後の最後まで保護しなければならないとしたら、
それはおかしい。
まちがっている。

あんなまずいラーメンを食べさせて、みじんも恥じない。
味の研究すら、していない。
サービスは最悪。
加えて、今どき、セルフサービスとは!
お茶も、水も、セルフサービス!
食事が終わったら、別のカウンターまで食器を運ぶ!
こんなバカげたレストランが、ほかのどこにある?

私たちがレストランに入ったのは、午後2時ごろ。
店内には、30前後のテーブルがあったが、客は、私たちを含めて、
3組だけ。
ガラガラ。
帰り際、私たちが開けたドアをくぐりぬけるように、別の客が入ってきた。
その客を見て、私は思わずこう言いそうになった。

「こんなレストラン、やめたほうがいいですよ」と。

しかしこのレストランにかぎらない。
どこの道の駅も、似たようなもの。
まずくて、高い。
サービスは最悪。
しかし建物だけは、超豪華!
超立派。
今日入ったレストランも、鉄筋造り。
床も壁も、大理石。

バカヤロー!