*Mothers who get involved too much
私の考えが絶対に正しい!
自分の世界で子育てをする母親たち(失敗危険度★★)
●「林先生は、ちゃんと指導していない」
年中児になると、子どもというのは、とくに教えなくても文字を書けるようになる。もちろん我流だが、それはそれとしてこの時期はおお目に見る。で、ある日私が子ども(年中男児)の書いた文字に大きな花丸をつけて返したときのこと。その日の夕方、母親から抗議の電話がかかってきた。「あんなメチャメチャな字に、花丸などつけないでください!」と。そしてその電話のあと園長にまで電話をかけ、「林先生は、ちゃんと指導していない。どうしてくれるのか」と迫った。
●祖父が教師へ飛び込んできた
これに宗教がからむと、さらにやっかいなことになる。ある日赤ペンで、その子ども(年中女児)の名前を書いたときのこと。あとからその子どもの祖母から抗議の電話があった。いわく、「赤字で名前を書くとはどういうことですか。もし万が一、うちの孫に何かあったら、あなたのせいですからね!」と。何でも赤字で名前を書くのは、不吉なことなのだそうだ。またこんなことも。
ある日、私が肩が痛いと言うと、「なおしてあげる」と申しでてきた子ども(小五男児)がいた。「ありがたい」と思って頼むと、その子どもは私の肩に手をかざして、何やらを念じ始めた。で、私が「そんなのならいい。どうせなおらないから」と言うと、その子どもは笑いながら手を離した。私も笑った。
が、その翌日、まず祖父が教室へ飛び込んできた。「貴様は、うちの孫に何てことを教えるのだ!」と。つづいて母親までやってきて、「うちの宗教を批判しないでください!」と。その家族はある宗教団体の熱心な信者だった。さらに……。
●「あなたはせっかくのチャンスをムダにした」
クラスの生徒の家庭に不幸があるたびに、「私なら何とかできます」と申し出てきた女性(四一歳)がいた。私の知人の姉にあたる人だった。話を聞くと、「私なら救うことができます」と。そのときもそうだった。子ども(小二)が、重い小児ガンになっていた。私も何とかしたいと思っていたので、つい気を許して、「お願いします」と言ったが、それからがたいへんだった。
その女性はまず箱いっぱいの書籍をもってきた。みるとその教団の教祖が書いた本だった。が、それで終わらなかった。ついで、そのガンの子どもの家を紹介してほしいと迫ってきた。しかし、それはまずい。相手の人は、相手の人で、毎日壮絶な苦しみと戦っている。そういう家族に、本当に救えるのならまだしも、宗教をすすめるのは、まずい。しかしその女性にはそれがわからない。私はていねい断ったのだが、こう言った。「あの子は私の力で治せる。あなたはせっかくのチャンスをムダにした」と。
うちの子はやればできるはず!
身のほど知らず(失敗危険度★★★★★)
●それを言ったら、おしまい
子どもを信ずるのは大切なことだが、それにも限度がある。その能力のない子どもの親から、「何とかしてほしい」と言われることぐらい、つらいことはない。思わず「遺伝子の問題もありますから」と言いそうになるときもある。が、それを言ったら、おしまい。
●三割削減
最近だと、学習内容が全体で三割程度削減されることになった。それについて、「このあたりには私立の小学校がないが、どうしたらよいか」と相談してきた親がいた。私立の小学校では、今までどおりの授業をすると思っているらしい。が、それはそれとして、その子ども(年長男児)は私がみたところでも、学校の授業についていくだけでもたいへんだろうな思われる子どもだった。そういう子どもの親が三割削減の心配をする? むしろ三割削減を喜ぶべきではないのか。そう言えば、名古屋市で学習塾を開いているY氏も同じようなことを言っていた。「クラスでも中位以下の子どもの親から、(最上位の)S高校へ入れてくれと言われるくらい、困ることはないよ」と。
●親の過剰期待
が、この期待が子どもに向かうと、過剰期待になる。何が子どもを苦しめるかといって、親の過剰期待ほど子どもを苦しめるものはない。たいていの親は、「うちの子はやればできるはず」と思っている。事実そのとおりだが、やる、やらないも力のうち。「やればできる」と思ったら、「やってここまで」とあきらめる。が、これがむずかしい。
誤解、その一……むずかしいワークをやればやるほど、勉強ができるようになるという誤解。しかし事実はまったく逆。無理をすればそのときは多少の力はつくかもしれないが、しかしそういう無理は長続きしない。(勉強から逃げる)→(親がますます無理をする)の悪循環の中で、子どもはますますできなくなる。
誤解、その二……勉強の量(勉強時間)をふやせばふやすほど、勉強ができるようになるという誤解。しかしダビンチもこう言っている。「食欲がない時に食べれば、健康をそこなうように、意欲をともなわない勉強は、記憶をそこない、また記憶されない」と。意欲をともなわない勉強は、身につかないということだが、実際には逆効果。子どもは時間ツブシや、フリ勉がうまくなるだけ。しかも小学校の低学年で一度、勉強から逃げ腰になると、以後、それをなおすのは不可能といえるほど、なおすのがむずかしくなる。
誤解、その三……訓練すればするほど、勉強ができるようになるという誤解。たしかに計算や漢字の学習は、訓練すればするほど、それに見合った効果が期待できるときもある。しかし計算力があるからといって、算数の力があることにはならない。漢字をよく知っているからといって、国語(作文)の力があることにはならない。もう少しわかりやすい例では、年中児ともなると、ペラペラと本を読む子どもが出てくる。しかしだからといって、その子どもは国語の力があるということにはならない。たいていは文字を音に変えているだけ。
●一人の母親がやってきた
しかし母親にはそれがわからない。夏休みになる少し前、一人の母親が私をたずねてきた。私の本の読者だというので、私もその気になっていたが、会うとこう言った。「うちの子は言葉も遅れた。二年生になるとき、特別学級(養護学級)をすすめられているが、今のところ何とか断ることができた。何とか学校の勉強についていきたいので、先生(私)のところで夏休みのあいだだけでもいいから、めんどうをみてくれないか」と。
●ワークブックがぎっしり!
で、その子どもに会うと、カバンの中に難しいワークブックがぎっしりと詰まっていた。ふつうJ社、G研、O社のワークブックは買ってはいけない。J社のワークブックは、難解な上に、問題がひねってある。G研やO社のワークブックは、問題の「落差」が大き過ぎる。たとえば同じ見開きのページの中でも、左上の一番の問題は、眠っていてもできるような簡単な問題。が、右下の最後の問題は、「こんな問題、できる子どもがいるのだろうか?」と思うほどむずかしい問題であったりする。つまり落差が大き過ぎる。
こうしたワークをかかえたら最後、子どもの学習はそこでストップしてしまう。その子どものワークブックはそのJ社のものばかりだった。しかも、問題量が多いというか、こまかい字のものばかり! 親としては、問題量が多いということは、それだけ「割安」と考えるのかもしれないが、それも誤解。ワークブックはスーパーで買う食品と同じに考えてはいけない。
●ワークブックが足かせに
ついでながら、子どものワークブックを選ぶときは、①動機づけ、②達成感の二つを大切にする。動機づけというのは、子どもをその気にさせること。達成感というのは、いわば満足感のことだ。この二つをクルクルまわりながら、子どもは勉強好きになる。
私が「ワークブックはすべて捨てなさい」と言うと、その母親は目を白黒させて驚いた。さらに私が、「子どもには内緒で、幼児用のワークブックを使わせます」と言うと、さらに白黒させて驚いた。そして「では、指導していただかなくて結構です」と言って、そのまま去っていった。
勉強だけできればいいの!
ガツガツママのモチ拾い(失敗危険度★★★★)
●基礎教養
「教育」をどうとらえるかは、人それぞれ。そのハバもその深みも、その人によって違う。ある母親は娘(小二)を育てながら、一方で本の読み聞かせ会を指導し、乳幼児の医療問題研究会を組織し、議会運動までしていた。母親教室にも通っていたし、学校のPTAの役員もし、クラス対抗のお母さんバレーも指導していた。そういうのを「基礎教養」と私は呼んでいるが、その母親のまわりには、その基礎教育があった。が、一方、その基礎教養がまったくない親がいる。ないまま、受験教育だけが「教育」と信じ、それだけに狂奔する。Rさん(三五歳)がそうだ。
●なりふりかまわない子育て
Rさんは、夫の実家が裕福なことをよいことに、家計にはほとんど関心をもたなかった。夫はある運送会社で荷物の仕分け作業の仕事をしていた。が、Rさんは、子ども(小二男児)の教育には惜しみなく、お金を注いだ。おけいこ塾も四つをかけもちした。空手道場、ピアノ教室、英語教室、それに水泳教室、と。水泳教室にかよわせたのは、子どもに喘息があったからだが、当然のことながら家計はパンク状態。そのつど夫の実家から援助を受けていた。が、それだけではない。夫の一か月の給料でも買えないような学習教材を一式買ったこともある。最近では子どもの学習用にと、中古だがコピー機まで購入している。
●モチまきのモチ?
Rさんのような母親を見ていると、教育とは何か、そこまで考えてしまう。不快感すら覚える。それはちょうど、バイキング料理で、「食べなければ損」とばかり、つぎからつぎへと、料理をたいらげている女性のようでもある。あるいは、モチ投げのとき、なりふり構わずモチを拾っている女性のようでもある。「教育」と言いながら、その人を包み込むような高い理念がどこにもない。いや、そういう人にしてみれば教育とは、まさにモチまきのモチでしかないのかもしれない。
●私はハタと困った
私はそのRさんのことをよく知っていた。が、あろうことか、ひょんなところから、そのRさんから子どもの教育の相談を受けるハメになってしまった。最近、子ども(小二男児)が、Rさんの言うことを聞かなくなったというのだ。そこで一度、面接してみると、その子どもには、いわゆるツッパリ症状が出ていた。すさんだ目つき、乱暴な言葉、キレやすい性格など。動作そのものまで、どこか野獣的なところがあった。ほうっておけば、まちがいなく非行化する。
●私は超能力者?
私のばあい、数分も子どもと接すると、その子どもの将来が手に取るようにわかる。今、どういう問題をかかえ、これからどういう問題を起こすようになるかまでわかる。よく「超能力者のようだ」と言われるが、三〇年も毎日子どもたちと接していると、それがわかるようになる。方法は簡単。まず今までに教えた子どもの中から、その子どもに似た子どもをさがす。そしてその子どもがその後どうなっていったかを知る。さらに私のばあい、幼稚園の年中児から高校三年生まで、教えている。しかも問題のあった子どもほど、印象に強く残っている。あとはそれを思い出しながら、親に話せばよい。そういう意味では、この世界では経験がモノを言う。が、この段階で、私はハタと困ってしまった。「それを親に言うべきか、どうか」と。
●間の距離が遠すぎる
ここで出てくるのが、「基礎教養」である。もしRさんに豊かな教養があれば、私は迷わず、その子どもの問題点を話すであろう。話すことができる。しかしその教養のない親には、話してもムダなばかりか、かえって大きな反発を買うことになる。それだけの教養がないから、説明のしようがない。それはちょうどバイキング料理をむさぼり食べている女性に、栄養学の話をするようなものだ。もっと言えば、掛け算もまだわからない子どもに、分数の割り算の話をするようなものだ。間に感ずる距離が、あまりにもある!
Rさんはさかんに、それも一方的に、「はやし先生にみてもらえるようになって、うれしいです。よかったです」と言っていたが、私は私で、「少し待ってください」とそれを制止するだけで、精一杯だった。私の話すら、ロクに聞こうとしない。それだけではない。このタイプの親というのは、もともと一本スジの通った哲学がないから、成績がさがったらさがったで、今度は私の責任をおおげさに追及する。それがわかっているから、その子どもの指導を引き受けることができない。で、案の定というか、私が数日後、電話で、力にはなれないと告げると、私の説明を半分も聞かないうちに、携帯電話をプツンと切ってしまった。
昔は子殺しというのも、あったからねえ!
女性の三悪(失敗危険度★★★★)
●人間そのものを狂わす
嫉妬、虚栄心、母性本能を、女性の三悪という。ここで母性本能を悪と決めつけるのは正しくないかもしれないが、性欲や食欲と同じように考えてよい。この本脳があるからこそ、親は子を育てるが、使い方をまちがえると、人間そのものを狂わす。そういう意味で、三悪のひとつに加えた。
①まず嫉妬……こういう話は、プライバシーの問題がからむため、ふつうは正確には書かない。しかしそれにも限度がある。あまりにもふつうでない話のため、あえて事実を正確に書かねばならないときもある。こんな話だ。
●ライバルの子どもを足蹴り
H市の郊外にU幼稚園という小さな幼稚園がある。あたりは高級団地で、そのレベルの家の子どもたちがその幼稚園に通っていた。そこでのこと。その母親は自分がPTAの会長であることをよいことに、いつもその幼稚園に出入りしていた。そして自分のライバルの子ども(年中女児)を見つけると、執拗ないじめを繰り返していた。手口はこうだ。まずその女の子の横をそれとなく通り過ぎながら、足でその女の子を蹴飛ばす。その勢いで倒れた女の子を、「どうしたの?」と言いながら抱くフリをしながら、またカベに投げつける……。年中児なら、かなり詳しくそのときの状況を話すことができる。
その女の子は、その母親の姿を見ただけで、まっさおになっておびえるようになったという。当然だ。そこでその女の子の母親が「どうしたらいいか」と相談してきた。いや、その前に、その母親は相手の母親に、それとなく抗議したというが、相手の母親は、とぼけるだけで話にならなかったという。しかも相手の母親の夫というのは、ある総合病院の外科部長。自分の夫は、同じ病院でもヒラの外科医。夫の上司の妻ということで、強く言うこともできなかったという。
●珍しい話ではない
こういう話は、この世界では珍しくない。嫉妬がからむと、人間はとんでもないことをする。脳のCPU(中央演算装置)そのものが、狂うときがある。これも実話だが、ある母親は同じ団地に住む別の母親の子ども(四歳児)を、エレベータの中で見つけると、いつも足蹴りにしていじめていた。そのためその子どもは、エレベータを見るだけでおびえるようになったという。
問題は、なぜ、そこまで母親というのは狂うかということ。先にあげた母親は、幼稚園でもPTAの会長をしていた。多分会合の席なのでは、それらしい人物として振舞っていたのだろう。考えるだけでもぞっとするが、しかし人には、その人でない部分がある。この話を叔母にすると、叔母はこう言った。「昔は子殺しというのもあったからねえ」と。母親も嫉妬に狂うと、相手の子どもを殺すことまでする……?
つぎに②虚栄心。「世間」という言葉を日常的に使う人ほど、虚栄心の強い人とみる。いつも他人の目の中で、自分を判断する。価値観というのが、いつも相対的なもので、他人より財産があれば、豊かと感じ、そうでなければ貧しいと考える。子どもにしても、このタイプの母親には、「飾り」でしかない。もともと自己中心性が強いため、親意識も強い。「私は親だ」と。そしてその返す刀で、子どもに向っては、「産んでやった」「育ててやった」と恩を着せる。
●他人の不幸を喜ぶ親
このタイプの母親には、他人の不幸ほど、楽しい話はない。ここに書いたように価値観が相対的であるため、他人が不幸であればあるほど、自分がより幸福ということになる。Tさん(三五歳女性)がそうだった。幼稚園へはいつも、ものすごい着物でやってきた。そして若い先生に会ったりすると、その場できどった言い方で、こう言った。「アーラ、先生、お元気そうザーますね。まあ、すてきな香り、よいご趣味ザーますわね」と。私はてっきりすごい家柄の母親だとばかり思っていた。そしてこんなこともあった。
幼稚園で遠足に行くことになったときのこと。母親たちの間で、昼の弁当はどうするかという話がもちあがった。二、三人の親が、サンドイッチはどうかしらと提案したそのとき、Tさんはあたりをおさえるようにして、こう言った。「ア~ら、(幼稚園生活で)最後の遠足ザーますから、皆さんで仕出し弁当か何かを頼んだら、いかがザーますかしら」と。
で、どういうわけだかそのときは反対する人もなく、その仕出し弁当になってしまった。何でもTさんの知人がそのお弁当を作ってくれるという。値段は「割安」とは言ったものの、当時の平均的な弁当の二倍以上の値段だった。私はそのとき三〇歳少し前。年上の母親には何も言えなかった。
●豪華な着物
そのTさんだが、子どもへの執念にも、ものすごいものがあった。たとえば誕生会は、市内のレストランで開いていた。しかも招待するのは、そのレベルの人たちばかり。私にも招待の声がかかったが、何を着ていこうかと迷ったほどである。そしてさらに秋の遊戯会でのこと。そのクラスで、浦島太郎をすることになった。が、Tさんは、「どうしてもうちの息子に、乙姫様をやらせたい」と申し出てきた。男の子が乙姫様というのもおかしいという声もあったが、結局Tさんに押し切られてしまった。が、驚いたのは最後のリハーサルの日のこと。Tさんがもちこんだ着物は、日本舞踊で使うような、これまた豪華な着物だった。これには担任の若い先生も驚いて、「そこまではしない」ということになったが、Tさんは悪びれる様子もなく、こう言った。「うちには昔からのこういった着物がありますザーますの。皆さんにもお貸ししましょうかしら、ホホホ」と。
Tさんは、ただ着物をみせびらかしたかっただけだった。
●私はわが目を疑った!
私は少なからずTさんに興味をもった。大会社の社長の夫人か。それとも大病院の院長の夫人かと思った。が、ある日のことだった。それは偶然だった。私が何かの用事で、ふらりとある大型スーパーの、そのまたある売り場へ行ったときのこと。そこで私はわが目を疑った。(こう書くからといって、そういう人がザーます言葉を使ってはだめだと言っているのではない。誤解がないように!)何とそのTさんが、頭にタオルを巻いて、その店で裏方の仕事をしていたのだ。髪の毛も、幼稚園へくるときとは、まったく違っていた。それに目がねまでかけていた。それを見て、私は声をかけることもできなかった。何か悪いものをみたように感じ、その場をそそくさと離れた。
そして③母性本能……前にも書いたが、母性本能があるから悪いといっているのではない。この本脳というのは、扱い方が本当にむずかしい。母親自身もそうなのだろうが、まわりのものにとっても、である。この母性本能が狂い始めると、親と子が一体化する。これがこわい。
●子どもは芸術品
母親にとっては、子どもは芸術品。それはわかる。だから子どもを批評したり、けなしたりすると、子ども以上に、母親はそれを不愉快に思う。それもわかる。が、それにも限度がある。こんなことがあった。
M君(年中男児)は、かん黙症の子どもだった。かん黙症といっても、全かん黙と、場面かん黙がある。私はこのほか、条件かん黙というのも考えている。ある特定の条件下になると、かん黙してしまうのである。M君もそんなタイプの子どもだった。何かの拍子に、ふとかん黙の世界に入ってしまった。そのときもそうだった。順に何かの発表をさせていたのだが、M君の番になったとたん、M君はだまりこくってしまった。視線をこちらに合わせようともしない。やさしく促せば促すほど、逆効果で、柔和な笑みを一方で浮かべながら、ますますかたくなに口を結んでしまった。
●M君の問題点
実はそのとき私はM君の母親に、それとなくM君の問題点を見てもらうつもりでいた。教育の世界では、ドクターが患者を診断して診断名をくだすような行為はタブー。こういうケースでも、「あなたの子どもはかん黙児です」などとは、言ってはならない。わかっていても、知らぬフリをする。フリをしながら、それとなく親に悟ってもらうという方法をとる。M君のケースでも、私はそう考えた。で、その少し前、M君の母親に会ったとき、そのことについて話すと、M君の母親はそのまま激怒してこう言った。「うちではふつうです。うちの子は、新しい環境になじまないだけです!」と。それで私はその日は母親に参観に来てもらうことにした。が、その日にかぎって、ほかに三、四人の母親も参観に来ていた。それがまずかった。
じりじりとした時間が流れていくのが、私にはわかった。ふつうならそこで隣の子にバトンタッチして、その場を逃げるのだが、そういう問題点を母親にも見てほしかった。それでいつもより時間をかけた。私「あなたの番だよ、どうかな?」、M「……」、私「こちらを見てくれないかな?」、M「……」、私「もう一度言うから、よく聞いてね?」、M「……」と。
●激怒したM君の母親
こういうとき親のほうから、「どうしてでしょう?」という問いかけがあれば、そのときから指導ができる。問いかけがなければそれもできない。少し時間はかかるが、親自身が子どもの問題点に気づくのを待つしかない。私はM君の母親の心の中を思いやりながら、時間が過ぎるのを待った……。が、そのときだった。
M君の母親がものすごい勢いで子どもたちのほうの席へやってきた。そしていきなりM君の腕をつかむと、M君をそのままひきずるようにして、部屋の外へ出て行ってしまった。本当にあっという間のできごとだった。ただ最後に、M君の母親が、「M! 行くのよ!」と言ったのだけは、よく覚えている。
が、それですんだわけではない。M君の母親からその夜、猛烈な抗議の電話がかかってきた。「あなたの指導方法はうちの子にあっていません」と。私は平謝りに謝るしかなかった。M君の母親は、こう言った。「うちの子をあんな子にしたのは、あなたの責任です。ちゃんと話せていたのに、話せなくなってしまった。どうしてくれるんですか! 明日園長に話して、責任をとってもらいます」と。いろいろあって、私にも微妙な時期だったので、私は「それだけは勘弁してください」としか、言いようがなかった。
●自分で行き着くところまで行くしかない
しかし今でもときどきあのM君を思いだすときがある。そしてこう思う。親というのは、結局自分で行き着くところまで行って、はじめて、自分に気がつくしかない、と。またその途中で、それに気づく親はいない。いても、「まだ何とかなる」「そんなはずはない」と無理をする。「うちの子に限って、問題はない」と思う親もいる。子育てにはそういう面がいつもついて回る。それは子育ての宿命のようなものかもしれない。
あんたはそれでも日本人ですかア!
アルツハイマー病(失敗危険度★)
●アルツハイマー病という病気
アルツハイマー病(アルツハイマー型痴呆症)という恐ろしい病気がある。近年、急速にその原因が究明されてきて、その治療薬もどんどん進歩している。だから以前ほど深刻に考える人は少ないかもしれない。しかし恐ろしい病気であることには違いない。
そのアルツハイマー病の初期症状は、記憶力低下、被害妄想、短気、人格の変化などだそうだ(東京慈恵会医科大学・笠原洋勇氏)。が、その初期症状の、そのまた初期症状というのもあるそうだ。たとえばがんこになる、自己中心性が強くなる、繊細さが消えて、ズケズケとものを言うなど。アルツハイマー病になる人はともかくも、(案外、本人はハッピーな気持ちかもしれないが)、その周囲の人が迷惑をする。いや、家族はそれなりに納得してつきあうが、そのまた周囲というか、親しくもないが、他人とも言えない人たちが迷惑をする。たとえば学校の先生。ふつうの迷惑ではない。ズケズケとものを言うのは、本人の勝手だが、言われたほうはキズつく。Jさん(四五歳)という母親がいた。
●飛躍する論理
ある日Jさん(四〇歳女性)が、血相を変えて私の事務所へやってきた。そしてこう言った。「私、頭にきたから、三〇年来の友人と今度、絶交した」と。よほどのことがあったのだろうと思って理由を聞くと、こう言った。「Uさんは日本人のくせに、エトロフ島はロシアの領土だと言うのよ。許せない」と。私はとっさに「そんなことで!」と思ったが、つづけてJさんは、「エトロフ島には、アイヌ民族の墓があるのよ。日本人の祖先でしょ」と。
論理がどんどんと飛躍していって、つかみどころがない。が、私が「まあ、どうでもいい問題ですね」と言うと、今度は私に向かって、「先生、あんたはあちこちで講演なさっているということですが、それでも日本人ですかア!」と食ってかかってきた。私は「人にはそれぞれ違った考え方があるから、それはそれとして尊重してあげればいい」という意味でそう言っただけなのだが……。
●発症率は五%
問題は発症率だが、四〇歳前後で発症し始め、五%前後というのが通説になっている。五%といえば、二〇人に一人ということになる。それに四〇歳前後といえば、ちょうど子どもが中学生くらいになった年齢に相当する。ということは、仮に三〇人クラスで計算すると、親の数は六〇人。何と一クラスに、三人はそういう症状をもった親がいるということになる。
実際、このタイプの親にかかわると、かなりタフな神経をもっている教師でも、かなり痛めつけられる。ある中学教師は、父母懇談会の席で、ある母親に、「あんたのような教師が教師をしていると、日本が滅ぶ」と言われた。あるいは「最近の子どもたちが荒れるのは、先祖を粗末にする教師がふえたからだ。学力がさがったのも、そこに原因がある。あなたにも責任をとってほしい」とも。
●私の経験から
このタイプの母親は(父親もそうだが、私は職業上、圧倒的に母親に接する機会のほうが多いので、父親のケースは、ほとんど知らない。またことアルツハイマー病についていうなら、女性の発症率は男性の三~四倍だそうだ)、どこか心がかよいあわないといった感じになる。こちらが親密な話をしようとしても、うわの空。何か質問をしても、不自然で、ぶっきらぼうな反応しかない。
私「夏休みには、どこかへ行くのですか?」、母「主人の稼ぎしだいですわ」、私「計画は……?」、母「計画なんてものはね、破るためにつくるものでしょ。あんた先生なのに、そんなこともわからないの!」、私「……」と。
●突然解雇!
そんなある日、一人の女性教師から電話がかかってきた。何でも突然クビを切られたというのだ。話を聞くと、庭で園児を指導していると、園長が突然やってきて、「あんたは来週から、もうこの園にはこなくていい」と言ったという。その教師は興奮してそのときの状況を話してくれた。よほど悔しかったのだろう。自分のほうから過去の業績をあれこれ話してくれた。
しかしこういう解雇のし方は、労働基準法に照らすまでもなく不当である。で、私もそのことが気になって、別の幼稚園の園長に電話をかけ、その女性教師の勤める幼稚園の園長の様子を聞くことにした。が、電話をかけると、その園長はこう教えてくれた。「あの、D幼稚園のD園長ね、あの園長、最近少し様子がおかしいですよ。まともに相手にしてはいけません」と。そういうこともある。
●それでもやけどする
もっともこういう仕事を三〇年以上もしていると、問題のある母親は、直感的にかぎ分けることができる。昔から『さわらぬ神にたたりなし』というが、かかわらないことこそ賢明。ただ淡々と、事務的に会って別れる。へたに首をつっこむと、それこそおおやけどをする。……と言いつつ、そのおおやけどをすることが多い。
●印象に残ったSさん
私がSさん(四二歳女性)をおかしいと最初に思ったのは、私がトイレから出たときのことだ。Sさんはトイレのドアの外で立って私を待っていた。まだ洗った手から水がポタポタと落ちるような状態だったし、トイレの中の臭いが体にまとわりついているような状態だった。私なら人を待つとしても、そういうところでは待たない。相手が当惑することが、簡単に予想できるからだ。が、Sさんは、そのトイレのドアのところで私を待っていた。そして「このワークでいいか」と聞いてきた。「子どもに与えるワークは、これでいいか」ということだった。私はSさんをすぐ別の部屋に招いたが、そのとき感じた不快感は、Sさんと別れるまでずっと消えなかった。
●奇怪な行動
そのSさん。大病院の精神科の医師を夫にもっていたが、それ以後、信じられないような奇異な行動が目だった。あとでこの話を別の友人に話すと、「まさかア」と絶句してしまったが、たとえば……。
事務所でひとりで待たせておいたりすると、インスタントコーヒーなどを盗んでもって帰ってしまうのである。それも封を切ったようなコーヒーをである。あるいは懇談会の席で、「Gさんのダンナさんは、この前飲酒運転をして、警察に逮捕されたんですってね」とか言ったりしたこともある。この事件のときは、さすがのGさんも堪忍袋の緒が切れて、裁判ザタになる寸前まで、話がこじれた。
が、こういうSさんのような母親が、父母会などに出てくると、それこそ話がめちゃめちゃになってしまう。いろいろなことがあった。
●Sさん語録
そのSさんは無数の「Sさん語録」を私に残してくれた。
○子どもは一人。多くて二人。三人以上はダ作。日本人の平均的給与でカバーできるのは、二人まで。三人以上は、国が預かるようにすればよい。
○コンピュータ教育は人間をダメにする。コンピュータに頼れば頼るほど、人間の思考と記憶は退化する。
○幼児期からしっかり教育すれば、どんな子どもでも東大へ入れる。入れないのは、幼児期の教育がまちがっているから。
○サッカーは、人間をダメにする。ボールと能力はよく似ている。能力を左右に動かしても、人間の能力は向上しない。
また政治問題にも詳しく(?)、こんなことも言った。
○韓国や中国の現在の繁栄は、日本のおかげだ。日本が指導したから、今のように繁栄できるようになった。韓国や中国は日本の占領に感謝すべきだ。
○アメリカは日本を植民地化しようとしている。一方、日本政府は、アメリカの六〇番目の州に立候補している。
○日本は満州を占領したが、もともとあの土地には人は住んでいなかった。だから占領しただけ。だれも文句を言うべきではない。
○太平洋の半分は日本のものだ。アメリカと日本で半分ずつ分けるべきだ。太平洋の中央に境界線を引けばよい、ほか。
●人格障害
ある時期Sさんは、毎日のように私のところへやってきて、とっぴもない議論をふっかけてきた。が、そのうち私のほうが疲れてしまい、逃げ腰になった。が、そういう私の姿勢を敏感に察知して、こなくなったと同時に、今度は私の悪口を言いふらすようになった。Sさんの友人のTさん(三七歳)はこう言った。
「Sさんに反論すると、Sさんは苦り虫をつぶしたような顔をして、怒りだします。だからこわくて反論できません。機嫌をそこねないように、こちらも『そうです、そうです』とだけしか言いようがないです」と。
それからほぼ一五年。聞くところによると、Sさんは自宅のマンションに閉じこもったまま、一歩も外へ出てこないという。あれこれトラブルを引き起こすので、夫が外へ出したがらないとのこと。どういう病気であるかは断定できないが、しかしおおよその推察はつく。
やめるということは、クビ切りだ!
去り際の美学(失敗危険度★)
●リセット症候群
この世の中、人との出会いは、意外と簡単。その気になれば、それこそ掃いて捨てるほど(失礼!)ある。携帯電話やインターネットの普及が、その背景にある。しかし問題は別れるときだ。別れるときに、その人の真価がためされる。
もっとも今は、その別れ方も電子化している。ちょうどパソコンのスイッチを消すかのように、まったくゼロに戻して別れてしまう。こういった別れ方を「リセット症候群」と呼ぶ人もいる。別れ方そのものが、サバサバしている。たとえば卒業式にしても、昔は皆が泣いた。先生も生徒も、そして親たちも泣いた。しかし今はそれがすっかりさま変わりした。
もっともドライといえばドライなのが、ブラジルからやってきた日系人家族だそうだ(K小学校校長談)。ある日突然学校へやってきて子どもを入学させる。そしてある日突然、同じようにいなくなる、と。日本人もドライになったとはいえ、まだそこまでドライではない。ないが、それに近い状態になりつつある。
●「怒りで手が震えたよ」
私と二〇年来の友人に、学習塾を経営しているF君がいる。ちょうど同じ年齢で、あれこれ情報をもらっている。そのF君は温厚な人物だが、そんなF君でも、しばしば憤まんやるかたなしといったふうに電話をかけてくることがある。いわく、「月末の最後の最後の授業が終わって、さようならとあいさつをしたとたん、生徒から紙切れを渡された。見ると、『今日でやめます』と母親の字でメモ書き。怒りで手が震えたよ」と。
この世界の外の人にはわからないかもしれないが、「やめる」という話は、塾の教師にとっては、クビ切り以外の何ものでもない。そういう話をメモですまそうとする母親たちの心理が、F君には理解できない。生まじめな男だけに、ショックも大きいのだろう。いや、私にも似たような経験はあるが、しかしこの世界はそういう世界だと割り切ってつきあっている。いちいち目くじらを立てていたら、精神がもたない。F君もそう言っているが、しかしこちら側にもこちら側のやり方がある。そういうふうにやめた生徒は、一切、アフターケアはしない。それはまさに人間関係のリセット。ゼロにする。メールがこようが、電話がかかってこようが、そういったものには一切、答えない。
●皆はどうなのか?
……と考えて、ふと今、医院を経営するドクターたちのことが頭を横切った。考えてみればドクターたちも、同じ立場ではないか。患者である私たちは、必要なときに医院へ行き、必要でなければ、たとえ「また来い」と言われていても、行かない。あのドクターたちは、私のような患者のことをどう思っているのだろうか。怒っているのだろうか、それとも平気なのだろうか。もっともドクターと塾の教師は、立場がまったく違う。ドクターは、その身分や収入がしっかりと公的に保証されている。しかし塾の教師はそうでない。
……と考えて、今度は理容店を経営するいとこのことを思い浮かべた。客とはいいながら、その客ほど、浮気な客はいない。毎月定期的に来るともかぎらないし、メモどころか、何も連絡しないまま、別の店に乗りかえていくことだってある。いくらそれまでていねいに散髪していたとしても、だ。そのいとこは、そういう客をどう思うのだろうか。怒っているのだろうか、それとも平気なのだろうか。
●塾は人間関係で決まる
考えてみれば、塾の教師たちがどう感じようとも、子どもを塾へやるというのは、親たちからすれば、医院や理容店へ足を運ぶようなものかもしれない。「入るのも親の自由。やめるのも親の自由」と。となると、F君のように、怒るほうがおかしいということになる。が、教育は病気や商売とは違う。どこか違う。
いくら「塾」といっても、そこは教師と生徒の人間関係で成りたつ。この「関係」があるため、医院や理容店とは、違って当然。また「やめる」という感覚が、これまた違って当然。いやいやそういうふうに「違う」と思うこと自体、手前ミソかもしれない。医院のドクターだって怒っているかもしれない。理容店のいとこだって怒っているかもしれない。怒っていても、皆、平静を装っているだけかもしれない。
●非常識な別れ方
で、非常識な別れ方を列挙してみる。私の経験から……。
私に、「今度、BW(私の幼児教室)から、K式幼児教室に移ろうと思いますが、先生、あのK式幼児教室をどう思いますか?」と聞いてきた母親がいた。私ははじめ、冗談を言っているのかと思ったが、その母親は本気だった。
別の教室にすでに入会届けを出したあと、(そういう情報はあらゆるところからすぐ入ってくるが……)、私に「先生、来月からどうしたらよいか、一度相談にのってくださいな」と言ってきた母親がいた。
「私は息子に、何度もBW(私の教室名)をやめるように言っているのですが、どうしてもいやだと言っています。先生のほうからもやめるように言ってくださいませんか」と電話で言ってきた母親もいた。
反対にある日突然、道路ですれ違いざま、「今週でBWをやめます」と言っておきながら、その一か月後、また電話がかかってきて、「来週からまた行きますから」と言ってきた母親もいた。
●美しく別れる
こうした母親たちからは、私は神様に見えるらしい。喜んでいいのか悪いのか……。どんなことをしても、また言っても、私は許すと思っているらしい。しかし私とて、生身の人間。生きる誇りも高い。だからこうした母親たちとは、その後、交友を再開したということはない。(だからこうしてここに書いているのだが……。)またこれから先も、何らかのかかわりをもつということもない。(だからこうしてここに書いているのだが……。)
何ともきわどい話を書いてしまったが、こと子どもの教育については、いかに美しく分かれるかについて、親はもう少し慎重であってもよいのではないか。塾のみならず、今では教育そのものが自動販売機になりつつある。「お金を入れれば、だれでも買える」と。しかしこうしたドライな見方は、結局は教育そのものまでドライにする。そしてそれは結局は、子ども自身をドライにし、人間関係までドライにする。そうなればなったで、さらに結局は、子ども自身が何か大切なものを失うことになる。
子どもにはナイフを渡せ!
誤解と無知(失敗危険度★★★)
●墓では人骨を見せろ?
ある日、一人の母親(三〇歳)が心配そうな顔をして私のところへやってきた。見ると一冊の本を手にしていた。日本を代表するH大学のK教授の書いた本だった。題は「子どもにやる気を起こす法」(仮称)。
そしてその母親はこう言った。「あのう、お墓で、故人の遺骨を見せたほうがよいのでしょうか」と。私が驚いていると、母親はこう言った。「この本の中に、命の尊さを教えるためには、お墓へつれていったら、子どもには遺骨を見せるとよい」と。その本にはほかにもこんなことが書いてあった。
●遊園地で子どもを迷子にさせろ?
親子のきずなを深めるためには、遊園地などで、子どもをわざと迷子にさせてみるとよい。家族のありがたさを教えるために、子どもは、二、三日、家から追い出してみるとよい、など。本の体裁からして、読者対象は幼児をもつ親のようだった。が、きわめつけは、「夫婦喧嘩は子どもの前でするとよい。意見の対立を教えるのによい機会だ」と。これにはさすがの私も驚いた。
●子どもにはナイフをもたせろ?
その一つずつに反論したいが、正直言って、あまりのレベルの低さに、どう反論してよいかわからない。その前後にこんなことを書く別の評論家もいた。「子どもにはナイフを渡せ」と。「子どもにナイフを渡すのは、親が子どもを信じている証(あかし)になる」と。そのあとしばらくしてから、関東周辺で、中学生によるナイフ殺傷事件がつづくと、さすがにこの評論家は自説をひっこめざるをえなかったのだろう。彼はナイフの話はやめてしまった。しかし証拠は残った。その評論は、日本を代表するM新聞社の小冊子として発行された。その小冊子は今も私の手元にある。
●ゴーストライターの書いた本
これはまた元教師の話だが、数一〇万部を超えるベストセラーを何冊かもっている評論家がいた。彼の教育論も、これまたユニーク(?)なものだった。「子どもの勉強に対する姿勢は、筆箱の中を見ればわかる」とか、「たまには(老人用の)オムツをして、幼児の気持ちを理解することも大切」とかなど。「筆箱の中を見る」というのは、それで子どもの勉強への姿勢を知ることができるというもの。たしかにそういう面はあるが、しかしそういうスパイのような行為をしてよいものかどうか? そう言えば、こうも書いていた。「私は家庭訪問のとき、必ずその家ではトイレを借りることにしていた。トイレを見れば、その家の家庭環境がすべてわかった」と。たまたま私が仕事をしていたG社でも、彼の本を出した担当者がいたので、その担当者に話を聞くと、こう教えてくれた。
「ああ、あの本ね。実はあれはあの先生が書いた本ではないのですよ。どこかのゴーストライターが書いてね、それにあの先生の名前を載せただけですよ」と。そのG社には、その先生専用のライター(担当者)がいて、そのライターがその評論家のために原稿を書いているとのことだった。もう二〇年も前のことだが、彼の書いた(?)数学パズルブックは、やがてアメリカの雑誌からの翻訳ではないかと疑われ、表に出ることはなかったが、出版界ではかなり話題になったことがある。
●タレント教授の錬金術
先のタレント教授は、つぎのようにして本を書く。まず外国の文献を手に入れる。それを学生に翻訳させる。その翻訳を読んで、あちこちの数字を適当に変えて、自分の原稿にする。そして本を出す。こうした手法は半ば常識で、私自身も、医学の世界でこのタイプのゴーストライターをした経験があるので、内情をよく知っている。
こうした常識ハズレな教授は、決して少数派ではない。数年前だが私がH社に原稿を持ちこんだときのこと、編集部の若い男は遠慮がちに、しかしどこか人を見くだしたような言い方で、こう言った。「あのう、N大学のI名誉教授の名前でなら、この本を出してもいいのですが……」と。もちろん私はそれを断った。
が、それから数年後のこと。近くの本屋へ行くと、入り口のところでH社の本が山積みになっていた。ワゴンセールというのである。見ると、その中にはI教授の書いた(?)本が、五~六冊あった。手にとってパラパラと読んでみたが、しかしとても八〇歳を過ぎた老人が書いたとは思われないような本ばかりだった。漢字づかいはもちろんのこと、文体にしても、若々しさに満ちあふれていた。
●インチキと断言してもよい
こうしたインチキ、もうインチキと断言してよいのだろうが、こうしたインチキは、この世界では常識。とくに文科系の大学では、その出版点数によって教官の質が評価されるしくみになっている。(理科系の大学では論文数や、その論文が権威ある雑誌などでどれだけ引用されているかで評価される。)だから文科系の教官は、こぞって本を出したがる。そういう慣習が、こうしたインチキを生み出したとも考えられる。が、本当の問題は、「肩書き」に弱い、日本人自身にある。
●私の反論
私は相談にやってきた母親にこう言った。「遺骨なんか見せるものではないでしょ。また見せたからといって、生命の尊さを子どもが理解できるようにはなりません」と。一応、順に反論しておく。
生命の尊さは、子どものばあいは死をていねいに弔うことで教える。ペットでも何でも、子どもと関係のあったものの死はていねいに弔う。そしてその死をいたむ。こうした習慣を通して、子どもは「死」を知り、つづいて「生」を知る。
また子どもをわざと遊園地で迷子にしてはいけない。もしそれがいつか子どもにわかったとき、その時点で親子のきずなは、こなごなに破壊される。またこの種のやり方は、方法をまちがえると、とりかえしのつかない心のキズを子どもに残す。分離不安にさえなるかもしれない。親子のきずなは、信頼関係を基本にして、長い時間をかけてつくるもの。こうした方法は、子育ての世界ではまさに邪道!
また子どもを家から二、三日追い出すということが、いかに暴論かはあなた自身のこととして考えてみればよい。もしあなたの子どもが、半日、あるいは数時間でもいなくなったら、あなたはどうするだろうか。あなたは捜索願だって出すかもしれない。
最後に夫婦喧嘩など、子どもの前で見せるものではない。夫婦で哲学論争でもするならまだしも、夫婦喧嘩というのは、たいていは聞くに耐えない痴話喧嘩。そんなもの見せたからといって、子どもが「意見の対立」など学ばない。学ぶはずもない。ナイフをもたせろと説いた評論家の意見については、もう書いた。
●批判力をもたない母親たち
しかし本当の問題は、先にも書いたように、こうした教授や評論家にあるのではなく、そういうとんでもない意見に対して、批判力をもたない親たちにある。こうした親たちが世間の風が吹くたびに、右へ左へと流される。そしてそれが子育てをゆがめる。子どもをゆがめる。
あんたさ、英語教育に反対してよ!
おめでたママ(失敗危険度★★★★★)ダブリ
●「どうやって補充するか」
自分の子どものことがまったくわかっていない親というのは、多い。わかっていないと言っても、それが度を超えている。先日もある母親から電話がかかってきた。受話器をとると、「どうしても相談したいことがある」と言ったので、会うことにした。見知らぬ人だった。で、会うと、こう言った。「今度、学習内容が三割削減されるというではありませんか。親としてどうやって補充したらよいでしょうか」と。その母親はこう言った。「うちの子のように、学校の勉強についていくだけでも精一杯という子どもから、その上、三割も内容が減らされたら、どうしたらいいのですか?」と。その母親は「(三割も学習量が減ったら)ますます学力がさがる」と考えたようだ。しかしもしそうなら、つまり「ついていくだけでも精一杯」という状態なら、三割削減されたことを、まっさきに喜ばねばならないはずである。それをその母親は、「どうやって補充するか」と。私は頭の中で、脳細胞がショートして火花を散らすのを感じた。
●英語教育は日本語をだめにする?
同じような例だが、こんな相談も。「今度うちの小学校でも英語教育が始まったが、今、英語なんか教えてもらったら、うちの子(小三男児)の日本語がおかしくなってしまう。英語教育には反対してほしい」と。こう書くと、まともな日本語で母親が話したかのように思う人がいるかもしれないが、実際にはこうだ。「今度、英語ね、ほら、小学校で、英語。ありゃ、うちの子に、必要ないって。あんな英語やらやあ、さあ、かえって日本語、ダメになるさ。あんたさ、評論家ならさ、反対してよ」と。日本語すらまともに話せない母親が、子どもの国語力を心配するから、おかしい。
●この子には、力があるはずです
が、子どもの受験のことになると、ほとんどの親は自分の姿を見失う。数年前だが、一人の中学生(中一男子)が、両親に連れられて私のところにやってきた。両親は、ていねいだが、こう言った。「この子には、力があるはずです。今までB教室といういいかげんな塾へ行っていたので、力が落ちてしまった。ついては、先生に任せるから、どうしてもS高校へ入れてほしい」と。
S高校といえば、この静岡県でも偏差値が最上位の進学高校である。そこで私は一時間だけその中学生をみてみることにした。が、すわって数分もしないうちに、鉛筆で爪をほじり始めた。視線があったときだけ、何となく頭をかかえて、勉強しているフリはするものの、まったくはかどらない。明らかに親の過関心と過干渉が、子どものやる気を奪ってしまっていた。私は隣の部屋に待たせていた両親を呼んで、「あとで返事をする」と言って、その場は逃げた。
●「はっきり言ったらどうだ」
数日置いて、私はていねいな手紙を書いた。「今は、時間的に余裕もないから、希望には添えない」という内容の手紙だった。が、その直後、案の定、父親から猛烈な怒りの電話が入った。父親は電話口の向こうでこう怒鳴った。「お前は、うちの子は、S高校は無理だと思っているのか。失敬ではないか。無理なら無理と、はっきり言ったらどうだ」と。
●デパートの販売拒否
本当にこのタイプの親は、つきあいにくい。どこをどうつついても、ああでもない、こうでもないとつっかかってくる。公立の、つまり税金で動いている学校ですら、選抜試験をするではないか。私のような、まったく私立の、一円も税金の恩恵を受けていない教室が、どうしてある程度の選抜をしてはいけないのか。
ほとんど親がそうだが、私が入会を断ったりすると、まるでデパートで販売拒否にでもあったかのように、怒りだす。気持ちはわからないわけではないが、つまりは、それだけ私たちは「下」に見られている。しかし昔からこう言うではないか。『一寸の虫にも五分の魂』と。そういうふうにしか見られていないとわかったとたん、私たちだって、教える気はうせる。
学校の先生が許せない!
自分を知る、子どもを知る(失敗危険度★★★★)
●汝自身を知れ
自分を知ることはむずかしい。スパルタの七賢人の一人、キロンも、『汝自身を知れ』という有名な言葉を残している。つまり自分のことを知るのはそれほどむずかしい。理由はいくつかあるが、それはさておき、自分の子どものことを知るのは、さらにむずかしい。
一般論として賢い人には、愚かな人がよく見える。しかし愚かな人からは賢い人が見えない。もっと言えば、賢い人からは愚かな人がよく見えるが、愚かな人からは賢い人が見えない。かなり心配な人(失礼!)でも、自分が愚かだと思っている人はまずいない。さらにタチの悪いことに、愚かな親には、自分の子どもの能力がわからない。これが多くの悲喜劇のモトとなる。
●「ちゃんと九九はできます」
学校の先生に、「どうしてうちの子(小四男子)は算数ができないのでしょう」と相談した母親がいた。その子どもはまだ掛け算の九九すら、じゅうぶんに覚えていなかった。そこで先生が、「掛け算の九九をもう一度復習してください」と言うと、「ちゃんと九九はできます」と。掛け算の九九をソラで言えるということと、それを応用して割り算に利用するということの間には、大きなへだたりがある。が、その母親にはそれがわからない。九九がソラで言えれば、それで掛け算をマスターしたと思っている。子どもに説明する以上に、このタイプの親に説明するのはたいへんだ。その先生はこう言った。
「親にどうしてうちの子は勉強ができないかと聞かれると、自分の責任を追及されているようで、つらい」と。私もその気持ちはよく理解できる。
●神経質な家庭環境が原因
が、能力の問題は、まだこうして簡単にわかるが、心の問題となるとそうはいかない。ある日、一人の母親が私のところへきてこう言った。「うちの子(小一男子)が、おもらししたのを皆が笑った」というのだ。母親は「先生も一緒に笑ったというが、私は許せない」と。だから「学校へ抗議に行くから、一緒に行ってほしい」と。もちろん私は断ったが、その子どもにはかなり強いチック(神経性の筋肉のけいれん)もみられた。その子どもがおもらしをしたことも問題だが、もっと大きな問題は、ではなぜもらしたかということ。なぜ「トイレへ行ってきます」と言えなかったのかということだ。もらしたことにしても、チックにしても、神経質な家庭環境が原因であることが多い。
●ギスギスでは教育はできない
学校という場だから、ときにはハメをはずして先生や子どもも笑うときがあるだろう。いちいちそんなこまかいことを気にしていたら、先生も子どもも、授業などできなくなってしまう。また笑った、笑われたという問題にしても、子どもというのはそういうふうにキズだらけになりながら成長する。むしろそうした神経質な親の態度こそが、もろもろの症状の原因とも考えられる。が、その親にはわからない。表面的な事件だけをとらえて、それをことさらおおげさに問題にする。
●子どもを知るのが子育ての基本
まず子どもを知る。それが子育ての基本。もっと言えば子どもを育てるということは、子どもを知るということ。しかし実際には、子どもを知ることは、子育てそのものよりも、ずっとむずかしい。たとえば「あなた」という人にしても、あなたはすべてを知っているつもりかもしれないが、実際には、知らない部分のほうがはるかに多い。「知らない部分のほうが多い」という事実すら、気がついていない人のほうが多い。
人というのは、自らがより賢くなってはじめて、それまでの愚かさに気がつく。だから今、あなたが愚かであるとしても、それを恥じることはないが、しかし、より賢くなる努力だけはやめてはいけない。やめたとたん、あなたはその愚かな人になる。
先生は何でもぼくを目のかたきにして、ぼくを怒った
汝(なんじ)自身を知れ(失敗危険度★★★★)
●自分を知ることの難しさ
自分を知ることは本当にむずかしい。この私も、五〇歳を過ぎたころから、やっと自分の姿がおぼろげながらわかるようになった。表面的な行動はともかくも、内面的な行動派、「私」というより、「私の中の私」に支配されている。そしてその「私の中の私」、つまり自分は、「私」が思うより、はるかに複雑で、いろいろな過去に密接に結びついている。
●「ぼくは何も悪くなかった」
小学生のころ、かなり問題児だった子ども(中二男児)がいた。どこがどう問題児だったかは、ここに書けない。書けないが、その子どもにある日、それとなくこう聞いてみた。「君は、学校の先生たちにかなりめんどうをかけたようだが、それを覚えているか」と。するとその子どもは、こう言った。「ぼくは何も悪くなかった。先生は何でもぼくを目のかたきにして、ぼくを怒った」と。私はその子どもを前にして、しばらく考えこんでしまった。いや、その子どものことではない。自分のことというか、自分を知ることの難しさを思い知らされたからだ。
●問題の本質は?
ある日一人の母親が私のところにきて、こう言った。「学校の先生が、席決めのとき、『好きな子どうし、並んですわってよい』と言った。しかしうちの子(小一男児)のように、友だちのいない子はどうしたらいいのか。配慮に欠ける発言だ。これから学校へ抗議に行くから、一緒に行ってほしい」と。もちろん私は断ったが、問題は席決めことではない。その子どもにはチックもあったし、軽いが吃音(どもり)もあった。神経質な家庭環境が原因だが、「なぜ友だちがいないか」ということのほうこそ、問題ではないのか。その親がすべきことは、抗議ではなく、その相談だ。
●自分であって自分でない部分
話はそれたが、自分であって自分である部分はともかくも、問題は自分であって自分でない部分だ。ほとんどの人は、その自分であって自分でない部分に気がつくことがないまま、それに振り回される。よい例が育児拒否であり、虐待だ。このタイプの親たちは、なぜそういうことをするかということに迷いを抱きながらも、もっと大きな「裏の力」に操られてしまう。あるいは心のどこかで「してはいけない」と思いつつ、それにブレーキをかけることができない。
「自分であって自分でない部分」のことを、「心のゆがみ」というが、そのゆがみに動かされてしまう。ひがむ、いじける、ひねくれる、すねる、すさむ、つっぱる、ふてくされる、こもる、ぐずるなど。自分の中にこうしたゆがみを感じたら、それは自分であって自分でない部分とみてよい。それに気づくことが、自分を知る第一歩である。まずいのは、そういう自分に気づくことなく、いつまでも自分でない自分に振り回されることである。そしていつも同じ失敗を繰り返すことである。
一緒に抗議に行ってほしい!
過関心は百害のもと(失敗危険度★★★★★)ダブリ
●問題は母親に
ある朝、一人の母親からいきなり電話がかかってきた。そしてこう言った。いわく、「学校の席がえをするときのこと。先生が、『好きな子どうし並んでいい』と言ったが、(私の子どものように)友だちのいない子どもはどうすればいいのか。そういう子どもに対する配慮が足りない。こういうことは許せない。先生、学校へ一緒に抗議に行ってくれないか」と。その子どもには、チックもあった。軽いが吃音(どもり)もあった。神経質な家庭環境が原因だが、そういうことはこの母親にはわかっていない。もし問題があるとするなら、むしろ母親のほうだ。こんなこともあった。
●ささいなことで大騒動
私はときどき、席を離れてフラフラ歩いている子どもにこう言う。「おしりにウンチがついているなら、歩いていていい」と。しかしこの一言が、父親を激怒させた。その夜、猛烈な抗議の電話がかかってきた。いわく、「おしりのウンチのことで、子どもに恥をかかせるとは、どういうことだ!」と。その子ども(小三男児)は、たまたま学校で、「ウンチもらし」と呼ばれていた。小学二年生のとき、学校でウンチをもらし、大騒ぎになったことがある。もちろん私はそれを知らなかった。
●まじめ七割
しかし問題は、席がえでも、ウンチでもない。問題は、なぜ子どもに友だちがいないかということ。さらにはなぜ、小学二年生のときにそれをもらしたかということだ。さらにこうした子どもどうしのトラブルは、まさに日常茶飯事。教える側にしても、いちいちそんなことに神経を払っていたら、授業そのものが成りたたなくなる。子どもたちも、息がつまるだろう。教育は『まじめ七割、いいかげんさ三割』である。子どもは、この「いいかげんさ」の部分で、息を抜き、自分を伸ばす。ギスギスは、何かにつけてよくない。
●度を超えた過関心は危険
親が教育に熱心になるのは、それはしかたないことだ。しかし度を越した過関心は、子どもをつぶす。人間関係も破壊する。もっと言えば、子どもというのは、ある意味でキズだらけになりながら成長する。キズをつくことを恐れてはいけないし、子ども自身がそれを自分で解決しようとしているなら、親はそれをそっと見守るべきだ。へたな口出しは、かえって子どもの成長をさまたげる。
勉強だけをみてくれればいい!
何を考えている!(失敗危険度★★★★★)
●アンバランスな生活
どうしようもないドラ息子というのは、たしかにいる。飽食とぜいたく。甘やかしと子どもの言いなり。これにアンバランスな生活が加わると、子どもはドラ息子、ドラ娘になる。「アンバランスな生活」というのは、たとえば極端に甘い父親と極端に甘い母親で、子どもの接し方がチグハグな家庭。あるいはガミガミとうるさい反面、結局は子どもの言いなりになってしまうような環境をいう。
こういう環境が日常化すると、子どもはバランス感覚のない子どもになる。「バランス感覚」というのは、ものごとの善悪を冷静に判断し、その判断に従って行動する感覚をいう。そのバランス感覚がなくなると、ものの考え方が突飛もないものになったり、極端になったりする。常識はずれになることも多い。友だちの誕生日に、虫の死骸を箱につめて送った子ども(小三男児)がいた。先生のコップに殺虫剤を入れた子ども(中二男子)がいた。さらにこういう子ども(小三男児)さえいる。学校での授業のとき、先生にこう言った。
●「くだらねえ授業だなあ」
「くだらねえ授業だなあ。こんなくだらねえ授業はないゼ」と。そして机を足で蹴飛ばしたあと、「お前、ちゃんと給料、もらってんだろ。だったら、もう少しマシなことを教えナ」と。
実際にこのタイプの子どもは少なくない。言ってよいことと悪いことの区別がつかない。が、勉強だけはよくできる。頭も悪くない。しかしこのタイプの子どもに接すると、問題はどう教えるではなく、どう怒りをおさえるか、だ。学習塾だったら、「出て行け!」と子どもを追い出すこともできる。が、学校という「場」ではそれもできない。教師がそれから受けるストレスは相当なものだ。
●本当の問題
が、本当の問題は、母親にある。N君(小四男児)がそうだったので、私がそのことをそれとなく母親に告げようとしたときのこと。その母親は私の話をロクに聞こうともせず、こう言った。「あんたは黙って、息子の勉強だけをみてくれればいい」と。つまり「余計なことは言うな」と。その母親の夫は、大病院で内科部長をしていた。
いらんこと、言わんでください!
女の修羅場(失敗危険度★★★★)
●子どもは芸術品
母親たちのプライドというのは、男たちには理解できないものがある。その中でも、とくに子どもは、母親にとっては芸術作品そのもの。それをけなすとたいへんなことになる。こんなことがあった。
スーパーのレストランで、五歳くらいの子どもが子どもの顔よりも大きなソフトクリームを食べていた。体重一五キロ前後の子どもが、ソフトクリームを一個食べるというのは、体重六〇キロのおとなが四個食べる量に等しい。おとなでも四個は食べられない。食べたら食べたで、腹の調子がおかしくなる。で、その子どもと目が合ったので、思わず私はその子どもにこう言ってしまった。「そんなに食べないほうがいいよ」と。が、この一言がそばにいた母親を激怒させた。母親はキリリと私をにらんでこう叫んだ。「あんたの子じゃないんだから、いらんこと、言わないでください!」と。またこんなことも。
●江戸のカタキを長崎で討つ
母親というのは、自分で自分の子どもを悪く言うのは構わないが、他人が悪く言うのを許さない。(当然だが……。)たとえ相手が子どもでも許さない。これは実際あった話だが、(ということを断らねばならないほど、信じられない話)、自分の子ども(年長男児)をバカと言った相手の子ども(同じ幼稚園の年長男児)を、エレベータの中で足蹴りにしていた母親がいた。そこで蹴られたほうの母親が抗議すると、最初は、「エレベータが揺れたとき、体がぶつかっただけだ」と言い張っていた。が、エレベータがそこまで揺れることはないとわかると、こう言ったという。
「おたくの子がうちの子を、幼稚園でバカと言ったからよ」と。江戸のカタキを長崎で討つ、というわけであるが、これに親の溺愛が加わると、親子の間にカベさえなくなる。ある母親はこう言った。「公園の砂場なんかで、子どもどうしがけんかを始めると、その中に飛び込んでいって、相手の子どもをぶん殴りたくなります。その衝動をおさえるだけでたいへんです」と。
●「お受験」戦争
こうした母親たちの戦いがもっとも激しくなるのが、まさに「お受験」。子どもの受験といいながら、そこは女の修羅場(失礼!)。どこがどう修羅場ということは、いまさら書くまでもない。母親にすれば、「お受験」は、母親の「親」としての資質そのものが試される場である。少なくとも、母親はそう考える。だから自分の子どもが、より有名な小学校に合格すれば、母親のプライドはこのうえなく高められる。不合格になれば、キズつけられる。
事実、たいていの母親は自分の子どもが入学試験に失敗したりすると、かなりの混乱状態になる。私が知っている人の中には、それがきっかけで離婚した母親がいる。自殺を図った母親もいる。当然のことながら、子どもへの入れこみが強ければ強いほどそうなるが、その心理は、もう常人の理解できるところではない。
部屋の中はまるでクモの巣みたい!
砂糖は白い麻薬(失敗危険度★★)
●独特の動き
キレるタイプの子どもは、独特の動作をすることが知られている。動作が鋭敏になり、突発的にカミソリでものを切るようにスパスパとした動きになるのがその一つ。
原因についてはいろいろ言われているが、脳の抑制命令が変調したためにそうなると考えるとわかりやすい。そしてその変調を起こす原因の一つが、白砂糖(精製された砂糖)だそうだ(アメリカ小児栄養学・ヒューパワーズ博士)。つまり一時的にせよ白砂糖を多く含んだ甘い食品を大量に摂取すると、インスリンが大量に分泌され、そのインスリンが脳間伝達物質であるセロトニンの大量分泌をうながし、それが脳の抑制命令を阻害する、と。
●U君(年長児)のケース
U君の母親から相談があったのは、四月のはじめ。U君がちょうど年長児になったときのことだった。母親はこう言った。「部屋の中がクモの巣みたいです。どうしてでしょう?」と。U君は突発的に金きり声をあげて興奮状態になるなどの、いわゆる過剰行動性が強くみられた。このタイプの子どもは、まず砂糖づけの生活を疑ってみる。聞くと母親はこう言った。
「おばあちゃんの趣味がジャムづくりで、毎週そのジャムを届けてくれます。それで残したらもったいないと思い、パンにつけたり、紅茶に入れたりしています」と。そこで計算してみるとU君は一日、一〇〇~一二〇グラムの砂糖を摂取していることがわかった。かなりの量である。そこで私はまず砂糖断ちをしてみることをすすめた。が、それからがたいへんだった。
●禁断症状と愚鈍性
U君は幼稚園から帰ってくると、冷蔵庫を足で蹴飛ばしながら、「ビスケットをくれ、ビスケットをくれ!」と叫ぶようになったという。急激に砂糖断ちをすると、麻薬を断ったときに出る禁断症状のようなものがあらわれることがある。U君のもそれだった。夜中に母親から電話があったので、「砂糖断ちをつづけるように」と私は指示した。が、その一週間後、私はU君の姿を見て驚いた。U君がまるで別人のように、ヌボーッとしたまま、まったく反応がなくなってしまったのだ。何かを問いかけても、口を半開きにしたまま、うつろな目つきで私をぼんやりと私を見つめるだけ。母親もそれに気づいてこう言った。「やはり砂糖を与えたほうがいいのでしょうか」と。
●砂糖は白い麻薬
これから先は長い話になるので省略するが、要するに子どもに与える食品は、砂糖のないものを選ぶ。今ではあらゆる食品に砂糖は含まれているので、砂糖を意識しなくても、子どもの必要量は確保できる。ちなみに幼児の一日の必要摂取量は、約一〇~一五グラム。この量はイチゴジャム大さじ一杯分程度。もしあなたの子どもが、興奮性が強く、突発的に暴れたり、凶暴になったり、あるいはキーキーと声をはりあげて手がつけられないという状態を繰り返すようなら、一度、カルシウム、マグネシウムの多い食生活に心がけながら、砂糖断ちをしてみるとよい。効果がなくてもダメもと。砂糖は白い麻薬と考える学者もいる。子どもによっては一週間程度でみちがえるほど静かに落ち着く。
●リン酸食品
なお、この砂糖断ちと合わせて注意しなければならないのが、リン酸である。リン酸食品を与えると、せっかく摂取したカルシウム分を、リン酸カルシウムとして体外へ排出してしまう。と言っても、今ではリン酸(塩)はあらゆる食品に含まれている。たとえば、ハム、ソーセージ(弾力性を出し、歯ごたえをよくするため)、アイスクリーム(ねっとりとした粘り気を出し、溶けても流れず、味にまる味をつけるため)、インスタントラーメン(やわらかくした上、グニャグニャせず、歯ごたえをよくするため)、プリン(味にまる味をつけ、色を保つため)、コーラ飲料(風味をおだやかにし、特有の味を出すため)、粉末飲料(お湯や水で溶いたりこねたりするとき、水によく溶けるようにするため)など(以上、川島四郎氏)。かなり本腰を入れて対処しないと、リン酸食品を遠ざけることはできない。
●こわいジャンクフード
ついでながら、W・ダフティという学者はこう言っている。「自然が必要にして十分な食物を生み出しているのだから、われわれの食物をすべて人工的に調合しようなどということは、不必要なことである」と。つまりフード・ビジネスが、精製された砂糖や炭水化物にさまざまな添加物を加えた食品(ジャンク・フード)をつくりあげ、それが人間を台なしにしているというのだ。「(ジャンクフードは)疲労、神経のイライラ、抑うつ、不安、甘いものへの依存性、アルコール処理不能、アレルギーなどの原因になっている」とも。
●U君の後日談
砂糖漬けの生活から抜けでたとき、そのままふつう児にもどる子どもと、U君のように愚鈍性が残る子どもがいる。それまでの生活にもよるが、当然のことながら砂糖の量が多く、その期間が長ければ長いほど、後遺症が残る。
U君のケースでは、それから小学校へ入学するまで、愚鈍性は残ったままだった。白砂糖はカルシウム不足を引き起こし、その結果、「脳の発育が不良になる。先天性の脳水腫をおこす。脳神経細胞の興奮性を亢進する。痴呆、低脳をおこしやすい。精神疲労しやすく、回復がおそい。神経衰弱、精神病にかかりやすい。一般に内分泌腺の発育は不良、機能が低下する」(片瀬淡氏「カルシウムの医学」)という説もある。子どもの食生活を安易に考えてはいけない。
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