*The Age of Loss
●喪失の時代
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老齢期を「喪失の時代」ともいう。
それは主に、つぎの4つからなるという(堀井俊章著「心理学」PHP)
(1) 心身の健康の喪失
(2) 経済的基盤の喪失
(3) 社会的役割の喪失
(4) 生きがいの喪失、と。
どれも重要なものだが、これら4つの(喪失)を裏返すと、こうなる。
(1) 病気との闘い
(2) 貧困との闘い
(3) 自己否定との闘い
(4) 絶望との闘い。
が、私は、これら4つのほかに、もうひとつの項目があると考える。
これら4つだけでは、あまりにもさみしい。
だから「第五番目の項目」ということにしておく。
順に考えてみたい。
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(1) 病気との闘い
私は最近、30代、40代の人と話すたびに、こう言っている。
「持病だけは、つくらないように」と。
成人病はもちろんのこと、持病というと、足腰や関節に関するものが多い。
が、30代、40代のころは、体力もそこそこにあり、こうした持病を肉体の奥に
押し隠すことができる。
しかし50代、60代になってくると、体力そのものが衰えてくる。
とたん、それまで隠れていた持病が、表に出てくる。
心の病気も同じ。
若いころは気力で、それをごまかすことができる。
しかし50代、60代になってくると、気力そのものが衰えてくる。
とたん、それまで隠れていた精神的、情緒的もろさが、表に出てくる。
(2) 貧困との闘い
老後イコール、貧乏と考えてよい。
収入そのものが、極端に少なくなる。
そのため生活の規模そのものが、縮小する。
活動の範囲も、狭くなる。
加えて気力も弱くなる。
「何かをしたい」という思いがあっても、根気がつづかない。
やがてすぐ、乾いた風の中に、そのまま消えてしまう。
(3) 自己否定との闘い
「あなたには、もう用はない」
「あなたは役立たず」と言われることほど、つらいことはない。
存在性そのものを否定される。
多くの人は、それを知ったとき、「私は何をしてきたのだ」という自己嫌悪感に襲われる。
が、それならまだよいほう。
中には、「あなたはまちがったことをしてきたのだ」と、教えられる人もいる。
そういう立場に立たされたとき、人は、つぎの2つのうちから、1つを選ぶ。
過去に盲目的にしがみつくか、あるいは自己否定の泥沼に入っていくか。
しかし「自己否定」というのは、まさに自分の人生の否定そのものと考えてよい。
だからほとんどの人は、過去にしがみつく。
過去の地位や名誉、学歴や業績などなど。
(4) 絶望との闘い。
そこで人は、老後に向けて、生きがいを模索する。
しかし(生きがい)というのは、一朝一夕に確立できるものではない。
それまでの熟成期間が必要である。
10年とか、20年とか、そういう長い年月を経て、自分の中で熟成される。
「老後になりました。明日からボランティア活動を始めます」というわけにはいかない。
生きがいには、その人の人生そのものが集約される。
が、その(生きがい)の構築に失敗すればどうなるか。
その先に待っているのは、(絶望)ということになる。
が、老後の最大の問題は、これら4つではない。
これら4つも、つぎの問題を前にしたら、幼稚園児が解く知恵パズルのようなもの。
つまり老後の最大かつもっとも深刻な問題は、「死の受容」である。
この死の受容には、(1)他者の死(肉親、配偶者、友人の死)の受容と、(2)自分自身
の死の受容がある。
だれしも死と無縁であることはできない。
死は現実であり、いつもそこにある。
その(死)といかに闘うか。
それこそがまさに、私たちに最後に残された最大の問題ということになる。
が、この問題は、おそらく個人の力では、どうにもならない。
それにはこんな話がある。
恩師の田丸謙二先生の隣家に、以前、中村光男という、戦後の日本を代表する文芸評論家
が住んでいた。
ビキニで被爆した第五福竜丸事件をきっかけに、先頭に立って、核兵器廃絶運動を
推し進めた人物である。
その中村光男は、……というか、あの中村光男ですら、死の直前には妻の手引きで、
教会で洗礼を受けている。
雑誌の記事によると、死の一週間前のことだったという。
その話を田丸先生に話すと、先生は感慨深そうにこう言った。
「知りませんでした。……あの中村さんがねえ……」と。
死の恐怖を目前にしたとき、それと自前で闘える人というのは、いったい、どれだけいるだろうか。
私は中村光男の話を聞いたとき、さらに自信を失った。
「私にはとても無理だ」と。
……ということもあって、60代になってさらに宗教に興味をもつようになった。
私のワイフもそうで、あちこちで話を聞いてきては、そのつど私に報告する。
しかしこれにも、段階がある。
(1) 死の恐怖は克服できるものなのかという疑問。
(2) 克服できないとするなら、どうすればよいのかという疑問。
(3) 臨終を迎えた人は、どのように死を受容していくかという疑問。
(4) 宗教で、それを克服できるかという疑問。
(5) できるとするなら、その宗教とは何かという疑問。
キューブラー・ロスの『死の受容段階論』もあるが、今の私には現実的ではない。
だれしも、(こんな書き方は失礼な言い方になるかもしれないが……)、死を目前に
すれば、いやおうなしに、死の受容に向かって進むしかない。
問題は、健康である(今)、どう(死にまつわる不条理)を克服したらよいかということ。
この問題を解決しないかぎり、真の自由を、手に入れることはできない。
それこそ老後の残り少ない時間を、死の影におびえながら、ビクビクして生きて
いかねばならない。
が、ものごとは悲観的にばかり考えてはいけない。
死という限界があるからこそ、私たちはさらに真剣に自分の人生を見つめなおすことが
できる。
「心理学」(同書)の中には、こうある。
「エリクソンは老年期を(統合対絶望)と考え、心身の老化や社会的なさまざまな喪失を
受容し、これまでの人生を振り返り、1人の人間としての自分を統合する時期と考えて
います。
エリクソンは、『自分の唯一の人生周期を、そうあらねばならなかったものとして、
またどうしても取り替えを許されないものとして、受け入れること』が必要であると述べ、
人間としての完成期を老年期におきます」(P76)と。
つまりいかに死ぬかではなく、いかに自分の人生を完成させるか、と。
老後は終わりではなく、完成の始まりと考える。
これが先に書いた、第5番目の項目ということになる。
(5)人生を完成させるための闘い、と。
老後を感じたら、テーマを広げてはいけない。
テーマをしぼる。
何をしたいか、何をすべきか、何ができるか……。
その中から、自分を選択していく。
だれしも、それまでにしてきたことがあるはず。
たとえそれが小さな芽であっても、そこに自分を集中させる。
それを育てる。
伸ばす。
ちょうど幼い子どもの中に、何かの才能を見つけたときのように。
無駄にできる時間は、ない。
一瞬一秒も、ない。
最期の最後まで。
そうあのゲオルギウは、こう言った。
ゲオルギウ……ルーマニアの作家である。
1901年生まれというから、今、生きていれば、108歳になる。
そのゲオルギウが、「二十五時」という本の中で、こう書いている。
「どんなときでも、人がなさねばならないことは、世界が明日、終焉(しゅうえん)するとわかっていても、今日、リンゴの木を植えることだ」と。
さあ、私にできるだろうか……?
4年前に、こんな原稿を書いたのを思い出した。
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
●夢、希望、目的
子どもを伸ばすための、三種の神器、それが「夢、希望、そして目的」。
それはわかるが、これは何も、子どもにかぎったことではない。おとなだって、そして老人だって、そうだ。みな、そうだ。この夢、希望、目的にしがみつきながら、生きている。
もし、この夢、希望、目的をなくしたら、人は、……。よくわからないが、私なら、生きていかれないだろうと思う。
が、中身は、それほど、重要ではない。花畑に咲く、大輪のバラが、その夢や希望や目的になることもある。しかしその一方で、砂漠に咲く、小さな一輪の花でも、その夢や希望や目的になることもある。
大切なことは、どんなばあいでも、この夢、希望、目的を捨てないことだ。たとえ今は、消えたように見えるときがあっても、明日になれば、かならず、夢、希望、目的はもどってくる。
あのゲオルギウは、『どんなときでも、人がなさねばならないことは、世界が明日、終焉(しゅうえん)するとわかっていても、今日、リンゴの木を植えることだ』(二十五時)という名言を残している。
ゲオルギウという人は、生涯のほとんどを、収容所ですごしたという。そのゲオルギウが、そう書いている。ギオルギウという人は、ものすごい人だと思う。
以前書いた原稿の中から、いくつかを拾ってみる。
●希望論
希望にせよ、その反対側にある絶望にせよ、おおかたのものは、虚妄である。『希望とは、
めざめている夢なり』(「断片」)と言った、アリストテレス。『絶望の虚妄なることは、ま
さに希望と相同じ』(「野草」)と言った、魯迅などがいる。
さらに端的に、『希望は、つねに私たちを欺く、ペテン師である。私のばあい、希望をな
くしたとき、はじめて幸福がおとずれた』(「格言と反省」)と言った、シャンフォールがい
る。
このことは、子どもたちの世界を見ているとわかる。
もう10年にもなるだろうか。「たまごっち」というわけのわからないゲームが、子ども
たちの世界で流行した。その前後に、あのポケモンブームがあり、それが最近では、遊戯
王、マジギャザというカードゲームに移り変わってきている。
そういう世界で、子どもたちは、昔も今も、流行に流されるまま、一喜一憂している。
一度私が操作をまちがえて、あの(たまごっち)を殺して(?)しまったことがある。そ
のときその女の子(小1)は、狂ったように泣いた。「先生が、殺してしまったア!」と。
つまりその女の子は、(たまごっち)が死んだとき、絶望のどん底に落とされたことになる。
同じように、その反対側に、希望がある。ある受験塾のパンフレットにはこうある。
「努力は必ず、報われる。希望の星を、君自身の手でつかめ。○×進学塾」と。
こうした世界を総じてながめていると、おとなの世界も、それほど違わないことが、よ
くわかる。希望にせよ、絶望にせよ、それはまさに虚妄の世界。それにまつわる人間たち
が、勝手につくりだした虚妄にすぎない。その虚妄にハマり、ときに希望をもったり、と
きに絶望したりする。
……となると、希望とは何か。絶望とは何か。もう一度、考えなおしてみる必要がある。
キリスト教には、こんな説話がある。あのノアが、大洪水に際して、神にこうたずねる。
「神よ、こうして邪悪な人々を滅ぼすくらいなら、どうして最初から、完全な人間をつ
くらなかったのか」と。それに対して、神は、こう答える。「人間に希望を与えるため」
と。
少し話はそれるが、以前、こんなエッセー(中日新聞掲載済み)を書いたので、ここに
転載する。
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【子どもに善と悪を教えるとき】
●四割の善と四割の悪
社会に四割の善があり、四割の悪があるなら、子どもの世界にも、四割の善があり、四
割の悪がある。子どもの世界は、まさにおとなの世界の縮図。おとなの世界をなおさない
で、子どもの世界だけをよくしようとしても、無理。子どもがはじめて読んだカタカナが、
「ホテル」であったり、「ソープ」であったりする(「クレヨンしんちゃん」V1)。
つまり子どもの世界をよくしたいと思ったら、社会そのものと闘う。時として教育をす
る者は、子どもにはきびしく、社会には甘くなりやすい。あるいはそういうワナにハマり
やすい。ある中学校の教師は、部活の試合で自分の生徒が負けたりすると、冬でもその生
徒を、プールの中に放り投げていた。
その教師はその教師の信念をもってそうしていたのだろうが、では自分自身に対しては
どうなのか。自分に対しては、そこまできびしいのか。社会に対しては、そこまできびし
いのか。親だってそうだ。子どもに「勉強しろ」と言う親は多い。しかし自分で勉強して
いる親は、少ない。
●善悪のハバから生まれる人間のドラマ
話がそれたが、悪があることが悪いと言っているのではない。人間の世界が、ほかの動
物たちのように、特別によい人もいないが、特別に悪い人もいないというような世界にな
ってしまったら、何とつまらないことか。言いかえると、この善悪のハバこそが、人間の
世界を豊かでおもしろいものにしている。無数のドラマも、そこから生まれる。旧約聖書
についても、こんな説話が残っている。
ノアが、「どうして人間のような(不完全な)生き物をつくったのか。(洪水で滅ぼすく
らいなら、最初から、完全な生き物にすればよかったはずだ)」と、神に聞いたときのこと。
神はこう答えている。「希望を与えるため」と。
もし人間がすべて天使のようになってしまったら、人間はよりよい人間になるという希
望をなくしてしまう。つまり人間は悪いこともするが、努力によってよい人間にもなれる。
神のような人間になることもできる。旧約聖書の中の神は、「それが希望だ」と。
●子どもの世界だけの問題ではない
子どもの世界に何か問題を見つけたら、それは子どもの世界だけの問題ではない。それ
がわかるかわからないかは、その人の問題意識の深さにもよるが、少なくとも子どもの世
界だけをどうこうしようとしても意味がない。
たとえば少し前、援助交際が話題になったが、それが問題ではない。問題は、そういう
環境を見て見ぬふりをしているあなた自身にある。そうでないというのなら、あなたの
仲間や、近隣の人が、そういうところで遊んでいることについて、あなたはどれほどそ
れと闘っているだろうか。
私の知人の中には五〇歳にもなるというのに、テレクラ通いをしている男がいる。高校
生の娘もいる。そこで私はある日、その男にこう聞いた。「君の娘が中年の男と援助交際を
していたら、君は許せるか」と。するとその男は笑いながら、こう言った。
「うちの娘は、そういうことはしないよ。うちの娘はまともだからね」と。私は「相手
の男を許せるか」という意味で聞いたのに、その知人は、「援助交際をする女性が悪い」と。
こういうおめでたさが積もり積もって、社会をゆがめる。子どもの世界をゆがめる。それ
が問題なのだ。
●悪と戦って、はじめて善人
よいことをするから善人になるのではない。悪いことをしないから、善人というわけで
もない。悪と戦ってはじめて、人は善人になる。そういう視点をもったとき、あなたの社
会を見る目は、大きく変わる。子どもの世界も変わる。(中日新聞投稿済み)
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このエッセーの中で、私は「善悪論」について考えた。その中に、「希望論」を織りまぜ
た。それはともかくも、旧約聖書の中の神は、「もし人間がすべて天使のようになってしま
ったら、人間はよりよい人間になるという希望をなくしてしまう。つまり人間は悪いこと
もするが、努力によってよい人間にもなれる。神のような人間になることもできる。それ
が希望だ」と教えている。
となると、絶望とは、その反対の状態ということになる。キリスト教では、「堕落(だら
く)」という言葉を使って、それを説明する。もちろんこれはキリスト教の立場にそった、
希望論であり、絶望論ということになる。だからほかの世界では、また違った考え方をす
る。
冒頭に書いた、アリストテレスにせよ、魯迅にせよ、彼らは彼らの立場で、希望論や絶
望論を説いた。が、私は今のところ、どういうわけか、このキリスト教で教える説話にひ
かれる。「人間は、努力によって、神のような人間にもなれる。それが希望だ」と。
もちろん私は神を知らないし、神のような人間も知らない。だからいきなり、「そういう
人間になるのが希望だ」と言われても困る。しかし何となく、この説話は正しいような気
がする。言いかえると、キリスト教でいう希望論や絶望論に立つと、ちまたの世界の希望
論や絶望論は、たしかに「虚妄」に思えてくる。つい先日も、私は生徒たち(小四)にこ
う言った。授業の前に、遊戯王のカードについて、ワイワイと騒いでいた。
「(遊戯王の)カードなど、何枚集めても、意味ないよ。強いカードをもっていると、心
はハッピーになるかもしれないけど、それは幻想だよ。幻想にだまされてはいけないよ。
ゲームはゲームだから、それを楽しむのは悪いことではないけど、どこかでしっかりと線
を引かないと、時間をムダにすることになるよ。カードなんかより、自分の時間のほうが、
はるかに大切ものだよ。それだけは、忘れてはいけないよ」と。
まあ、言うだけのことは言ってみた。しかしだからといって、子どもたちの趣味まで否
定するのは、正しくない。もちろん私たちおとなにしても、一方でムダなことをしながら、
心を休めたり、癒(いや)したりする。が、それはあくまでも「趣味」。決して希望ではな
い。またそれがかなわないからといって、絶望する必要もない。大切なことは、どこかで
一線を引くこと。でないと、自分を見失うことになる。時間をムダにすることになる。
●絶望と希望
人は希望を感じたとき、前に進み、絶望したとき、そこで立ち止まる。そしてそれぞれ
のとき、人には、まったくちがう、二つの力が作用する。
希望を感じて前に進むときは、自己を外に向って伸ばす力が働き、絶望を感じて立ち止
まるときは、自己を内に向って掘りさげる力が働く。一見、正反対の力だが、この二つが あって、人は、外にも、そして内にも、ハバのある人間になることができる。
冒頭にあげた、「子どもの受験で失敗して、落ちこんでしまった母親」について言うなら、
そういう経験をとおして、母親は、自分を掘りさげることができる。私はその母親を慰め
ながらも、別の心で、「こうして人は、無数の落胆を乗り越えながら、ハバの広い人間にな
るのだ」と思った。
そしていつか、人は、「死」という究極の絶望を味わうときが、やってくる。必ずやって
くる。そのとき、人は、その死をどう迎えるか。つまりその迎え方は、その人がいかに多
くの落胆を経験してきたかによっても、ちがう。
『落胆は、絶望の母』と言った、キーツの言葉の意味は、そこにある。
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
●孤独
孤独は、人の心を狂わす。そういう意味では、嫉妬、性欲と並んで、人間が原罪としてもつ、三罪と考える。これら三罪は、扱い方をまちがえると、人の心を狂わす。
この「三悪」という概念は、私が考えた。悪というよりは、「罪」。正確には、三罪ということになる。ほかによい言葉が、思いつかない。
孤独という罪
嫉妬という罪
性欲という罪
嫉妬や性欲については、何度も書いてきた。ここでは孤独について考えてみたい。
その孤独。肉体的な孤独と、精神的な孤独がある。
肉体的な孤独には、精神的な苦痛がともなわない。当然である。
私も学生時代、よくヒッチハイクをしながら、旅をした。お金がなかったこともある。そういう旅には、孤独といえば孤独だったが、さみしさは、まったくなかった。見知らぬところで、見知らぬ人のトラックに乗せてもらい、夜は、駅の構内で寝る。そして朝とともに、パンをかじりながら、何キロも何キロも歩く。
私はむしろ言いようのない解放感を味わった。それが楽しかった。
一方、都会の雑踏の中を歩いていると、人間だらけなのに、おかしな孤独感を味わうことがある。そう、それをはっきりと意識したのは、アメリカのリトルロック(アーカンソー州の州都)という町の中を歩いていたときのことだ。
あのあたりまで行くと、ほとんどの人は、日本がどこにあるかさえ知らない。英語といっても、南部なまりのベラメー・イングリッシュである。あのジョン・ウェイン(映画俳優)の英語を思い浮かべればよい。
私はふと、こう考えた。
「こんなところで生きていくためには、私は何をすればよいのか」「何が、できるのか」と。
肉体労働といっても、私の体は小さい。力もない。年齢も、年齢だ。アメリカで通用する資格など、何もない。頼れる会社も組織もない。もちろん私は、アメリカ人ではない。市民権をとるといっても、もう、不可能。
通りで新聞を買った。私はその中のコラムをいくつか読みながら、「こういう新聞に自分のコラムを載せてもらうだけでも、20年はかかるだろうな」と思った。20年でも、短いほうかもしれない。
そう思ったとき、足元をすくわれるような孤独感を覚えた。体中が、スカスカするような孤独感である。「この国では、私はまったく必要とされていない」と感じたとき、さらにその孤独感は大きくなった。
ついでだが、そのとき、私は、日本という「国」のもつありがたさが、しみじみとわかった。で、それはそれとして、孤独は、恐怖ですらある。
いつになったら、人は、孤独という無間地獄から解放されるのか。あるいは永遠にされないのか。あのゲオルギウもこう書いている。
『孤独は、この世でもっとも恐ろしい苦しみである。どんなにはげしい恐怖でも、みながいっしょなら耐えられるが、孤独は、死にも等しい』と。
ゲオルギウというのは、『どんなときでも、人がなさねばならないことは、世界が明日、終焉(しゅうえん)するとわかっていても、今日、リンゴの木を植えることだ』(二十五時)という名言を残している作家である。ルーマニアの作家、1910年生まれ。
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●私に夢、希望、目的
そこで最後に、では、私の夢、希望、目的は何かと改めて考えてみる。
毎日、こうして生きていることに、夢や希望、それに目的は、あるのだろうか、と。
私が今、一番、楽しいと思うのは、パソコンショップをのぞいては、新製品に触れること。今は(2・18)は、HPに音やビデオを入れることに夢中になっている。(いまだに方法は、よくわからないが、このわからないときが、楽しい。)
希望は、いろいろあるが、目的は、今、発行している電子マガジンを、1000号までつづけること。とにかく、今は、それに向って、まっすぐに進んでいる。1001号以後のことは、考えていない。
毎号、原稿を書くたびに、何か、新しい発見をする。その発見も、楽しい。「こんなこともあるのか!」と。
しかし自分でも、それがよくわかるが、脳ミソというのは、使わないでいると、すぐ腐る。体力と同じで、毎日鍛えていないと、すぐ、使いものにならなくなる。こうしてモノを毎日、書いていると、それがよくわかる。
数日も、モノを書かないでいると、とたんに、ヒラメキやサエが消える。頭の中がボンヤリとしてくる。
ただ脳ミソの衰えは、体力とちがって、外からはわかりにくい。そのため、みな、油断してしまうのではないか。それに脳ミソのばあいは、ほかに客観的な基準がないから、腐っても、自分ではそれがわからない。
「私は正常だ」「ふつうだ」と思っている間に、どんどんと腐っていく。それがこわい。
だからあえて希望をいえば、脳ミソよ、いつまでも若くいてくれ、ということになる。
(050218)
Hiroshi Hayashi++++++++FEB09++++++++++はやし浩司
●品質保持というウソ
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テレビを見ていたら、こんなことを言っている人がいた。
あるパソコンメーカーの社員だった。
「安い台湾製のパソコンをどう思うか?」と聞かれたのに
対して、「日本は、品質で勝負する」と。
その社員はこう説明していた。
「どうして台湾製のパソコンは安いか、パソコンを分解して
調べている」「しかし台湾製は、あやしげな部品を多く使って
いる」「日本ではそういう部品は使わない」「だから日本は
品質で勝負する」と。
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しかしこの話は、どう考えてもおかしい。
何も台湾製のパソコンの肩をもつわけではないが、パソコンは
品質ではない。
サービス。
サービスで買う。
故障したら、修理してもらえばよい。
内部にどんな部品を使っていようが、パソコンとして機能すれば、
あとは値段。
値段が安ければ、それでよい。
というのも、日本製のパソコンは、同じレベルのものなら、台湾製より、
値段は、5割は高い。
だいたい2倍、とみる。
だったら、日本製のパソコンを1台買うお金で、台湾製のパソコンを
2台、買ったほうがよい。
たとえ寿命が半分でも、そのほうが得。
私も現在、ACERのASPIRE、MSIのU100、それに
HPの2133(中身は台湾製)の3台を使っている。
それぞれにクセはあるが、今のところすべて快適に動作している。
中には、「3台も!」と思う人がいるかもしれないが、ASPIREは、
5万4000円、U100は、4万2000円、2133は、6万8000円。
計16万4000円。
それでも日本のT社のダイナブックの約半額である。
加えてパソコンの世界は、日進月歩。
品質を問題にする前に、たいていの人は、つぎの新機種へと乗り換えていく。
ふつう2~3年で、買い換えていく。
さらに言えば、品質を問題にするなら、こうも言える。
「日本製だって、故障だらけではないか」と。
それもそのはず。
今、ハードディスクも含めて、ほとんどが輸入品。
何をもって日本製というのか。
つまりこういうトンチンカンなことを言っているから、日本製は
台湾製のパソコンに市場を奪われていく。
現在、日本市場を席巻きしているパソコンの30~40%は、
台湾製と言われている。
その社員は、こういう現実を、どう考えているのか。
さらに付け加えれば、パソコンはすでに生活の一部になりつつある。
品質よりも使い勝手、仕事の内容で選ぶ。
私のばあい、ミニパソコンは、ワープロ専用。
一般の人は、インターネットとメール専用。
それだけできれば、じゅうぶん。
棚に飾っておく時代から、気軽に、ノートのように
使う時代になった。
日本製のようにゴチャゴチャと余計なものばかりついて、それで
値段が高いとしたら、それこそ無駄。
私たちは無駄な買い物は、しない。
がんばれ、日本!
発想を変えろ、日本!
でないと、本当に日本は沈没してしまうぞ!
Hiroshi Hayashi++++++++FEB09++++++++++はやし浩司
●BW公開教室(2)
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BW公開教室を開設して、1週間になる。
初日のアクセス数は、30件前後。
昨日のアクセス数は、70件前後。
まあまあの出だしである。
悪くない。
アクセス件数を見ていたら、やる気が出てきた。
今日も、6作ほど、子育てのポイントを
収録した。
++++++++++++++++++++
BW公開教室を通して、私はありのままの「私」を出していく。
今さら飾るものはない。
飾っても意味はない。
それよりも、私は今の「私」を、こういう形で残しておきたい。
たぶん、(あくまでも私の夢だが)、こうすることによって、私が死んだあとも、
「私」は残るだろう。
墓石で自分を残すという方法もあるかもしれない。
が、墓石にしたところで、50~100年はもたない。
墓石がどうのこうのいうのではない。
ただ墓石よりは、長く残ればよい。
100年後の人が、1文でも、1人でも、読んでくれれば、それでよい。
だから私は書く。
書きつづける。
私の計算によれば、こうだ。
仮に私が、3万ページの原稿を書いたとする。
で、私の死後、1年ごとに、50%の文が削除されるとする。
2年目には、15000ページ。
3年目には、7500ページ。
4年目には、約3800ページ。
5年目には、約1900ページ。
6年目には、約1000ページ。
7年目には、約500ページ。
8年目には、約250ページ。
9年目には、約125ページ。
10年目には、約60ページ。
10年後に、60ページも残れば、感謝しなければならない。
が、ほかに方法がないわけではない。
有料のプロバイダーに前もって、代金を先払いしておく。
100年分は無理としても、50年分くらいなら、何とかなる。
あるいは、元から無料のHPサービス会社に、原稿を分散して残しておく。
その会社が残るかぎり、原稿は残る。
それにこんな方法もある。
3万ページでも、10万ページでもよい。
それをDVDに焼いておく。
いつか私の子孫が、それをその時代のインターネットにアプロードしてくれればよい。
今は無理かもしれないが、100年後には、10万ページでも、瞬時に
アプロードできるようになるはず。
どうであるにせよ、私にとっての墓石は、このインターネットである。
今書いているこの文章こそが、私の遺骨である。
いや、遺骨など残しても意味はない。
まったく意味はない。
残すなら、脳みそということになるが、しかし保存には向かない。
それに脳みそから、(その人)を取り出すのは、むずかしい。
いくら解剖しても、そこにあるのは、神経細胞とそれから延びるシナプスだけ。
(その人)が(その人)なのは、思想であり、哲学であり、生き様ということになる。
生きた記録でもよい。
だとするなら、やはりインターネット上に、自分の書いたものを残すのが、いちばんよい。
私は文章がよいと思うが、文章でなくてもかまわない。
絵でも写真でも声でも作品でも、何でもよい。
……という思いをこめて、「芽衣の部屋」の制作に夢中になっている。
BW教室をそのまま紹介している。
自分でも、バカなことをしていると思っている部分もないわけではない。
しかしそれも私。
あれも私。
あとの判断は、それを見た人に任せればよい。
私の知ったことではない。
残るものは残る。
残らないものは残らない。
万事、人任せ。
風任せ。
しかし楽しい。
ここしばらくは、芽衣の部屋にのめりこみそう。
Hiroshi Hayashi++++++++FEB09++++++++++はやし浩司
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