Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Wednesday, February 04, 2009

*To live long is a profit?

●長生きは得か?

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昔、こう言っていた老人(男性)がいた。
年齢は、80歳を過ぎていたのではなかったか。
「あいつが死ぬのを見届けるまで、オレは死ねない」と。
「あいつ」というのは、その老人の長年のライバルだった人をさす。
子どものころから、たがいにいがみあっていた。

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60歳を過ぎると、まわりの人たちが急に、ポツポツと亡くなっていく。
「どこへ消えたのだろう」と、さみしがっている暇はない。
そう思っている最中に、またつぎの人が、亡くなっていく。
死は、身分、貧富、名誉、地位に関係なく、やってくる。
そういうときふと、「私でなくてよかった」という悪魔のささやきが聞こえてくる。
しかしすぐ、「つぎは、お前だろ」という声がつづく。
だからどんなばあいも、他人の死を願ってはいけない。
願えば願うほど、心が腐る。
しかしこんなことを考えることはある。

「長生きは得か、損か」と。

ほとんどの人は、長生きすればするほど、得と考えている。
私も、その1人かもしれない。
しかし大切なのは、長生きすることではなく、どう生きるかである。
その生き様さえ確立できれば、「たとえ夕べに死んでも、悔いはない」ということになる。
またそういう状態であるなら、できるだけ長生きをしたい。
そうでなければ、そうでない。
無駄に醜態をさらけ出して生きるくらいなら、その場で命を断ったほうが、マシ。
命を断つのがむずかしいのなら、少なくとも、だれにも会わず、ひっそりと暮らしたい。
だから私はいつも、ワイフや息子たちには、こう言っている。

「ぼくが死んでも、だれにも知らせなくてもいい」
「葬式など、ぜったいにするな」と。

それには、もうひとつの願いがこめられている。
「私の無様(ぶざま)な老後をさらけ出したくない」という願いである。
というのも、私は、基本的には、他人を信じていない。
『人を見たら、泥棒と思え』とまではいかないが、私という人間は、
他人を信じやすく、また、だまされやすい。
そういうタイプの人間である。

60年というこの人生においても、「この人だけは……」と思っていた人にさえ、何度か
裏切られたことがある。
そういう苦い経験があるから、この10年間は、自分にブレーキをかけるという意味に
おいても、できるだけ他人を信じないようにしている。
(それでも、信じてしまうが……。)

だからこう思う。
「私が倒れたら、それを喜ぶ人はいても、悲しんでくれる人はいないだろう」と。
だから身近な人が亡くなっても、こう思う。
「悲しんでいるフリをするのは、いや」と。
またそういうフリをしなければならないような葬式には、出ないようにしている。
自己欺瞞もよいところ。
また相手がだれであれ、他人の死を、そういうふうにして、もてあそぶのは避けたい。
さみしい人生観と自分でもわかっているが、こればかりは、どうしようもない。

……ということで、冒頭の話に戻る。

あの老人は、私たちとはちがった死生観をもっていた。
そのため自分が病気で倒れたりすることを、何よりも警戒していた。
いや、一度、こんなことがあった。
その老人が、家で倒れた。
が、その老人は、隣人宅(医師)の家にやってきて、「病院へ連れていってほしい」と。
そこでその隣人が、「救急車を呼びましょうか?」と声をかけると、その老人はこう
言ったという。

「それだけは、恥ずかしいから、ぜったいにやめてくれ!」と。

その老人にはその老人なりの一貫性がある。
「あいつが死ぬのを見届けるまで、オレは死ねない」という言葉と、「それだけは、
恥ずかしいから、ぜったいにやめてくれ」という言葉は、その底流で、
しっかりとつながっている。
が、では、私はどうか?
私も一方で、「他人を信じない」と言いつつ、「無様な様子は見せたくない」と言う。
似たようなものだ。
つまりこう考えていくと、私とその老人は、それほど違わないということになる。
その老人は、私の近未来像そのものと考えてもよい。
……ということは、私の考え方は、まちがっている。
ゆがんでいる。
いじけている。

フ~~~ン……。

どこがまちがっているのだろう?
いや、私は、いつも他人は他人、私は私と考えている。
その人がどんな人生を送っていようとも、その人はその人。
「あいつが死ぬまでは……」というような、(あいつ)はいない。
気になる人は何人かはいるが、その人の不幸や死を願っているわけではない。
そう思うときもあるが、「あんな人、相手にしてもしかたない」と考えなおすことで、
いつも乗り越えている。

で、ここでの結論は、こういうことになる。
要するに、「私は私」ということ。
生きるにしても、また死ぬにしても、他人の目など気にしてはいけない。
最後の最後まで、「私は私」と。

……そう考えると、私の考えには、矛盾が生じてくる。
「私は私」を貫くなら、私が死んだときのことまで心配するほうがおかしい。
私は「私の無様(ぶざま)な老後をさらけ出したくない」と書いた。
しかしそう考えること自体、まちがっている。

……ということで、この話は、ここまで。
これから先、この問題については、ゆっくりと考えてみたい。
まだ時間もある。
10年くらいかけて結論を出そう。
(もし運がよければの話だが……。)
それまで「乞う、ご期待!」ということになるのか。
そういう言い方も、どこかおかしい……?


はやし浩司+++++++++09+++++++++Hiroshi Hayashi

●2月3日

映画『マンマ・ミーア』

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星は3つの★★★。
最初から最後まで、ドンチャカ・パーティ。
その連続。
ABBAのファンなら、星を5つ、つけたかも。
ギリシアの夢のような景色を背景に、夢のような
数日が過ぎる。
意味のない、まったく意味のない映画だが、
思わず体が動き出すほど、楽しい映画。
一方、ABBAを知らない世代には、退屈な
映画かも。
団塊の世代、ご用達映画というところか。
それで間をとって、星は3つ。

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●『ワルキューレ』

予告編で見た『ワルキューレ』。
トム・クルーズ主演。
ヒットラーの暗殺計画映画。
おもしろそう。
私には、そういう映画のほうが、合っている。

で、今夜見た『マンマ・ミーア』は、私向きではない。
もともとああいう騒々しいパーティが好きではない。
映画を見ながら、「本当にみんな、あんなふうに楽しむのかなあ」と、思った。
無理をしているのではないか、とも。
私なら、20~30分で疲れてしまうだろう。
パーティが終われば、ヘトヘトになるにちがいない。
理由がある。

私は子どものころから、集団の中へ入るのが苦手だった。
だれにでもシッポを振る半面、他人に心を許さなかった。
みなは、「浩司は、明るく朗らかな子だ」と言ったが、それは仮面。
私はいつもその仮面をかぶっていた。
乳幼児期に、母親との間で、基本的信頼関係がうまく結べなかったためと
考えている。
だから孤独な半面、集団の中に入ると、疲れた。
ショーペンハウエルという心理学者は、そういう状態を、「二匹の
ヤマアラシ」という言葉を使って説明した。
遠ざかれば寒い(=孤独)。
しかし近づきすぎると、たがいの針が痛い。
今でも、その状態は基本的には、変わっていない。
だから映画を見ながら、ふとそう思った。
「本当にみんな、あんなふうに楽しむのかなあ」と。

で、映画の中では、ABBAの往年の曲がつぎつぎと披露された。
が、私がよく聴くのは一曲だけ。
『I have a dream』。
あの曲は好きだ。
プラス、好きだった。


はやし浩司+++++++++09++++++++H.Hayashi

●新聞の投書を読む

(能力主義vs年功序列主義)

新聞(C新聞)を読む。
投書欄に目を通す。
そこに50代のある女性が、こう書いていた。
「こういう不況の時代になると、日本型の年功序列主義のありがたさが
よくわかる。
アメリカ追従の、能力主義、効率主義がよいわけではない。
日本型の年功序列主義のよさを見直そう」と。
中学生や高校生の意見なら、「よく書けている」と評価したかもしれない。
しかし50代の女性の意見としては、「?」。
年功序列主義にしても、能力主義にしても、それは択一の問題ではない。
年功序列主義の中に、能力主義があり、能力主義といっても、そこには、
ある程度の年功序列主義がある。
この大不況の中にあって、「私たちだけはだいじょうぶ」と喜んでいるのは、
おそらく公務員の人たちだけではないのか。
公務員の世界では、完全に近いほど、年功序列主義が徹底している。
そういう人なら、この女性のような意見をもつかもしれない。

それにこの女性の意見には、基本的な部分で、事実認識にまちがいがある。
「こういう時代」とは、現在の大不況のことをいうのだろう。
であるならなおさら、こういう時代に、年功序列主義を貫いていたら、その会社は、
あっという間に倒産してしまう。
あのトヨタだって、あぶない。
つまり「年功序列主義だから、安心」「能力主義だから、仕事を失った」という
視点が、的をはずれている。
またどうしてここに「アメリカ」が出てくるのか?
大不況だからみな、職を失っている。
能力主義だから、職を失っているわけではない。
どうしてそんな簡単なことがわからないのだろう、とまあ、辛らつな批評をしたところで、
この話はおしまい。

繰り返すが、50代の女性の意見としては、「?」。

ついでに言うなら、こういう意見を、私たちの世界では、「つっこみが甘い」という。
俗な言い方をすれば、「浅い」。
ありきたりの意見で、深みがない。
思想として、熟成されたものを感じない。
先にも書いたように、私はこれを書いた女性は、(あるいはその女性の夫は)、
公務員ではないかと思う。
あのバブル景気が崩壊したときも、デフレが進んだときも、また今回の大不況になった
ときも、彼らだけは守られた。
「大不況、どこ吹く風」と。
そういう人たちを守るための年功序列主義であるなら、私はあえて、年功序列主義に
反対したい。