Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Sunday, March 08, 2009

*Disinterested Love

●働いた経験のある女性(母親)、ない女性(母親)

+++++++++++++++++++++

「無私の愛」とは言うが、しかし男性(父親)と、
女性(母親)とでは、愛のとらえ方が、微妙にちがう(?)。

いくら「無私」とはいっても、たとえば、子どもを育てるには、
それなりのお金がかかる。
そのお金についてだが、働いたことがある人と、そうでない
人とでは、お金に対する感覚が、微妙にちがう。
働いている男性(父親)は、それがよいことか、
悪いことかという話は別にして、
そこに金銭的価値を混入する。
働いた経験のない女性(母親)は、金銭的価値をあまり
考えない。

+++++++++++++++++++++

●日本の常識

ときどき男たちの間で、こんなことが話題になる。
「働いたことのある女性(母親)と、働いたことのない女性(母親)は、
微妙にちがう」と。

働いたことのある女性は、(時間)と(金銭)を結びつけることができる。
しかし働いたことのない女性は、それができない。

たとえばその女性(母親)のために何かをしてやったとする。
そのとき、働いたことがある女性は、(してもらったこと)を、
時間や金銭に換算して評価する。
「2時間、働いてもらったから、2000円くらいのお礼はしなければ
ならない」と。
しかし働いたことのない女性(母親)は、それができない。
たとえば「相手は、私が魅力的だから(?)、してくれた」と思う(?)。
まあ、そこまでは思わないにしても、たいていにっこりと笑って、
「ありがとう」だけですんでしまう。

私も以前は、いろいろな場面で育児相談を受けていた。
そういうとき相手が職をもった父親だと、そのつど、ポンポンと、
反応が返ってくる。
金銭的な反応だけではない。
何かの協力を申し出られることもある。
「先生、今度、いっしょに釣りに行きませんか」
「いい店がありますから、食事でもどうですか」とか、など。

が、女性(母親)には、それがない。
ないばかりか、金銭感覚そのものが、うとい。
こんなことがあった。

●みやげなし(?)

久しぶりにその人の息子夫婦が、赴任先の仙台から帰ってきた。
3歳になる孫もいっしょだった。
そのときのこと。
息子夫婦は、手ぶらで帰ってきた。
しかしこれは日本の常識ではない。
世界の常識でもない。
そこでその人が、「いくら親子でも、手ぶらで帰ってくるやつがいるか」と、
息子を叱った。

これに息子が猛反発。
「パパは、みやげがほしかったのか!」「そのために、ぼくを呼んだのか!」と。

で、そこへ母親が割り込んできた。
割り込んできて、息子の味方をした。
「見返りを求めるなんて、おかしいわよ!」と。

言い忘れたが、息子夫婦が仙台から帰ってくるについて、旅費は、
すべて父親が負担した。
そういうこともあって、父親もキレた。
「みやげ程度のことを、見返りとは言わない。常識だア!」と。

あなたなら、この話を聞いて、どう思うだろうか?
私は(男性)だから、父親の言い分のほうが正しいと思う。
いくら何でも、手ぶらは失礼。
親子の間でも、失礼。
しかし私のワイフなどは、母親の言い分のほうが正しいと言う。
ワイフも、私と結婚して以来、一度も働いた経験がない。
言うなれば、「お金は天から降ってくるもの」と思い込んでいる。

●当たり前

最近の若い人たちは、独特の考え方をする。
たとえば高校や大学へ行くことについて、それを感謝している若い人は、
まず、いない。
口では「ありがとう」と言うが、それはあくまでも儀礼。
「行くのが当たり前。そのために、親が学費を出すのは、当たり前」と、
そういうふうに考える。

当たり前ということは、当たり前。

一方、父親のほうはどうかというと、いくら「無私の愛」といっても、
そこまで割り切ることはできない。
今、都会へ1人の子どもを大学生として送ると、生活費だけで、1000万円
程度(4年間)はかかる。加えて学費。4年間で、計2000~3000万円の
出費ということになる。
(これでも実際には、安いほう。)

働いている男性なら、それがどういう額か、わかる。
わかるから、「当たり前」という考え方には、少なからず、抵抗を覚える。
が、女性(母親)には、それがわからない。
とくに働いたことのない女性(母親)には、それがわからない。
子どもといっしょになって、「当たり前よねえ」などと言ったりする。

●親、貧乏盛り

『子ども大学生、親、貧乏盛り』というのは、私が考えた格言である。
子どもが大学生になると、親は、爪に灯をともすようにして、学費を工面する。
懸命に笑顔をつくりながら、「金はあるか? 足りなかったら言えよ」とは、
言うものの、懐(ふところ)のさみしさが、ふと言葉を詰まらせる。

しかしその結果……というより、今の若い人が、どうしてそこまで
ドライに割り切ることができるのか、私には不思議でならない。
中には、親に向かって、「金だけを出せば、それで親の義務が果たせたとでも
言うのか」とか、
さらに「日本も、アメリカのような奨学金制度を作ればいいじゃないか」とか、
言う若い人もいる。
だからある父親は、私にこう言った。

「あのね、親はね、苦労してまで、息子や娘を大学などに出すものじゃ
ないですよ」と。
つまり「出してやっても、むなしいだけ」と。
「損」という言い方には語弊があるが、「損」と。

●学歴は個人的利益(?)

要するに、日本の教育制度が、おかしいということ。
学歴を、個人的な利益と結びつけて考える傾向もある。
だからその負担は、個人、つまり各家庭の親がすべき、と。
本来なら、学歴は、万人のためのものでなければならない。
もっと言えば、頭のよい人は、その頭を、万人のために使ってこそ、
頭のよい人ということになる。

が、この日本では、学歴というのは、あくまでも個人の利益を
追求するための道具でしかない。
だから隣人が、息子の学費で四苦八苦していても、だれも同情しない。
だれも助けない。
また制度そのものも、おかしい。
日本も奨学金制度を拡充すべきだが、いまだにその制度は、貧弱で、
奨学金といっても、「小遣い程度」でしかない。
結局、そのシワ寄せは、大学生をもつ親のところにのしかかってくる。

●私の息子たち

私も3人の息子たちを育てたが、こと学費に関しては、損得の計算を
したことはない。
惜しみなく、出してきた。
出してきたが、今になって、ときどき、「あそこまでやる必要はあったのか」
と思うことはある。

たとえば息子たちに買ってやったパソコンにしても、いつも、私が
もっているのより、高性能のものだった。
家を建てたときも、自分たちの書斎よりも、子ども部屋のほうを優先させた。
しかしそういった親心というのは、少なくとも私の息子たちを見るかぎり、
まったくといってよいほど、伝わっていない。
私の息子たちにしても、どちらかというと、みやげなどもたず、
手ぶらでくるタイプである。

●結論

話は大きく脱線したが、結局は(苦労)を、どのように理解するかということ。
そこに行き着く。
私のワイフも、ときどきこう言う。
「家庭に入った主婦だって、たいへんなのよ」と。
しかし本当に、そうだろうか?
そう言いきってよいのだろうか?

たとえば朝、夫婦喧嘩をしたばあいを考えてみたらよい。
何かのことで、怒鳴りあったとする。
そういうとき女性(母親)は、そのまま部屋に入って、中からカギをかえば、
それですむ。
ふとんをかぶって寝ていれば、それですむ。
しかし仕事をしている男性は、そうはいかない。
どんなに気分が悪くても、身支度を整えて、会社に向かわねばならない。
会社で人に会えば、笑顔を作らねばならない。
それから受けるストレスには、相当なものがある。

だから男性(父親)と女性(母親)とでは、微妙なちがいが出てくる。
いくら「無私の愛」といっても、男性と女性とでは、とらえ方がちがう。
(働いたことのある女性)と、(働いたことのない女性)とでは、
とらえかたがちがう。

「見返りを求めない」といっても、(みやげ)など、見返りにもならない。
私は結婚する前から、またワイフに納得してもらった上で結婚したが、
収入の約半分を、実家に仕送りしていた。
27歳くらいのときから、生活費や法事の費用、さらには商品の仕入れの費用など、
すべて私が負担した。
そういうのを、私の世界では、「見返り」という。
繰り返すが、「みやげ」程度で、「見返り」などと、おおきな顔をしてほしくない。
今の若い人たちには、それを理解するのは、むずかしいことだろうが……。


Hiroshi Hayashi++++++++MARCH・09++++++++++++はやし浩司

●ポスト・介護

+++++++++++++++++++

今朝、目を覚ます前に、こんな夢を見た。

実家の店先に、母(08年他界)と、祖父(他界)が
いっしょにいた。
それを見て、つまり母が祖父を見て、こう言った。
「じいちゃんは、もう死んだはずなのに、どうしてここにいるの?」と。
それを聞いて、祖父が照れくさそうに笑った。
私も笑った。
で、私はこう言った。
「母ちゃん、あんただって、死んだはずだよ」と。
それを聞いて、母が笑った。
私も笑った。

で、奥の部屋のほうへ行くと、そこに兄(08年他界)がいた。
兄は、階段の上から、下へおりてくるところだった。
そこへ10人前後の人たちが、ドヤドヤと入ってきた。
どこかの仏教教団の人たちという。
その人たちが、こう言った。
「あんたの兄さんのために、お経をあげさせてくれ」と。
それに答えて、私は「勝手になさるなら、どうぞ」と。
するとその教団の人たちは、レコードをかけ始めた。
「あなたの兄さんが好きだった曲です」と。
私は「?」と思っていたが、かけられた曲は、美空ひばりの『悲しい酒』。
「よく知っているなあ」と私は感心した。

見ると、みなが、どこで集めてきたのか知らないが、サクラの花びらを、
パラパラと空に向かってまいていた。
それが雪のように美しかった。
それを見て、兄が照れくさそうに笑った。
私も笑った。

++++++++++++++++++++

●夢判断

兄が生きているときは、兄の夢など、ほとんど見たことがない。
が、死んでからは、よく出てくる。
母にしても、そうだ。
しかしどういうわけか、兄にしても、母にしても、いつも笑っている。
今朝の夢にしても、そうだ。
死んだ母に、「あんただって……」と言ったとき、母は笑っていた。
「そうやったなあ」というような顔だった。

この話を朝食のときワイフにすると、ワイフはこう言った。
「『ウラメシ~』と出てこられるとつらいけど、笑って出てくるというのは、
いいことね」と。

●介護

母の介護にしても、兄の介護にしても、金銭的な負担は、すべて私がした。
いろいろそのつど、思ったことはあるが、グチをだれかに告げたことはなかった。
ワイフにすら、告げたことがない。
だいたい、グチぽいことすら、考えたことがない。

兄が廊下でクソを落としたときも、むしろ笑って、それを始末することができた。
母の便の始末は、すべて私がした。
しかしそれを「イヤ」と思ったことは、一度もない。

介護というのは、そういうもの。
「イヤ」と思えば、負担になる。
受け入れてしまえば、何ともない。

ただ兄にせよ、母にせよ、施設に入ったときには、解放感を覚えた。
しかしその解放感とて、予想していたものではない。
施設へ入ったあと、それまでの介護が、ウソのように楽になった。
それで解放感を覚えた。

が、それで心理的圧迫感が消えたわけではない。
日帰りの旅行をするときですら、一度、施設に電話を入れて、様子を
聞かねばならなかった。
そういう圧迫感はあった。
が、それとて、母が他界して、はじめてわかったこと。
圧迫感から解放されて、それまでその圧迫感があったことを知った。

●ウラメシ~

ワイフが言うには、「ウラメシ~」と、化けて出てこられたら……?
介護の仕方によっては、「ウラメシ~」と、母や兄が夢の中に出てくることだって、
考えられる。
それは深層心理によるもので、いくら表面的に献身的な介護をしていたとしても、
心の奥がそれにともなっていないばあいには、「ウラメシ~」となる。
その可能性は高い。

私「ほら、何かの本で読んだけど、あの金xxは、夜な夜な、何かにうなされて
いるそうだ」
ワ「何十万人もの人を殺しているからね」
私「怖ろしいと思うよ。それこそ人影を見ただけで、おびえたりする」
ワ「安眠できないわね」
私「だから一晩中起きて、酒を飲んでいるそうだ」と。

●今、介護で苦労している人へ

これは私からのささやかなアドバイスということになる。
まず、「運命は、受け入れる」。
そのときはいろいろあるだろう。
たいへんなことも、わかる。
しかし運命というのは、受け入れてしまえば、なんでもない。
が、一度逆らうと、運命は悪魔となって、あなたに襲いかかってくる。
ちょっとしたことでも、それが何十倍も、何百倍も、大きな負担となって、
あなたに襲いかかってくる。

ある女性は、痴呆症になった義父が、男性用の小便トイレで、ウンチを
しただけで、パニック状態になってしまった。
ギャーギャーと泣きわめいて、あちこちに電話をかけていた。

私はその話を聞いて、「ぼくのところでは、よくあること」と思った。
幼稚園でも教室でも、子どもたちが、ときどき、それをする。
小便器のほうに、ウンチをする。
庭で放し飼いにしている犬のハナだって、そうだ。
朝起きると、ハナのウンチの世話をするのが、日課になっている。
しかしそうした始末を、不愉快に思ったことはない。
それが「運命」だからである。

●最大限、してやる

近くあの世へ行く人がいたら、できるかぎり親切にしてやるのがよい。
後悔することがあるとするなら、「それをしてやらなかった自分」という
ことになる。

今になって、「もっとやってやればよかった」「ああしてやればよかった」と
思うことはある。
そういう後悔は残さないほうがよいが、しかしそれはだれしも思うことだそうだ。
義姉が、そう話してくれた。

まずいのは、あとで「ウラメシ~」と出てくるようなことをすること。
幽霊などいない。
それはわかっているが、しかし心の中から消すのも、むずかしい。
いるとするなら、私やあなたの心の奥に、(いる)ということになるが、
そういう幽霊を作らないこと。

もし今朝の夢の中で、母や兄が、それに祖父が、暗く、つらそうな顔を
して出てきたとしたら、それは私自身が罪の意識を感じているからに
ほかならない。
罪の意識が悪夢を作る。
が、幸いなことに、みな、笑っている。
いつも夢の中では、笑っている。
もともとおかしな、どこかひょうきんな家族だった。
それでそういう夢を見る。

それにしても、あのサクラの花びらをまいてくれたのは、どこの教団の
人たちなのだろう。
1人、2人は、見覚えのある人だったが、どこのだれだったかまでは、
思い出せない。
おもしろい夢だった。


Hiroshi Hayashi++++++++MARCH・09++++++++++++はやし浩司