*April 6th 2009
【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●ひねくれ症状
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心のひねくれた子どもというのは、いる。
10人に1人とか、20人に1人とかはいる。
たとえばこんな会話をする。
私「春になって、気持ちいいね」
子「花粉症になるから、いやだ」
私「そう、それはたいへんだね」
子「たいへんじゃないわよ。苦しいよ」
私「……」と。
あるいは以前、こんな子ども(年長女児)もいた。
私が「今日はいい天気だね」と声をかけると、
キーッとにらみ返して、こう言った。
「いい天気じゃない。あそこに雲がある!」と。
私「雲があっても、いい天気じゃない?」
子「雲があるから、いい天気じゃない」
私「少しくらいあっても、青い空は見えるよ」
子「雲があるから、いい天気とは言わない」と。
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幼児期から少年少女期にかけて、慢性的な欲求不満がつづくと、それが
抑圧となって、心をゆがめる。
ひねくれ症状もそのひとつ。
私「だれだ、こんなところで水をこぼしたのは!」
子「水じゃ、ない。お茶!」
私「どうしてこぼしたの?」
子「先生が、そんなところに、茶碗を置いておくから悪い」
私「悪いって、こぼしたら、ごめんと言えばいい」
子「わざとじゃないから、謝る必要はない」と。
さらに私は教室では、ノート類はただで渡している。
そのノートをA君(小4)に、「これを使ってね」と言って渡したときのこと。
横にいたB子さん(小4)が、すかさず、こう言った。
「どうせ、100金(100円ショップ)のよ」と。
これには私もカチンときた。
だからB子さんを、たしなめた。
するとB子さんは、こう言った。
「本当のことを言っただけよ。どうして本当のことを言ってはいけないの!」と。
一事が万事。
B子さんが、新しい筆箱をもっていた。
私が「いい筆箱だね」と声をかけると、「安いか高いか、わからないわ」と。
「値段が、わからない」という意味で、そう言った。
すなおに、「うん」とか、「そう」という言葉が出てこない。
そこで私が、B子さんに、「あのね、そういうふうに、相手が言うことを、
否定してはだめだよ」と教えると、すかさずB子さんは、こう言った。
「私は、何も否定なんかしてないわよ」と。
こういうのをパラドックスという。
「否定していないわよ」と言って、相手を否定する。
このタイプの子どもには、一定の特徴がある。
(1)無意識下の言動であるため、「否定している」という意識そのものがない。
(2)自分がまちがえたり、失敗しても、それを最後まで認めない。
(3)「私は絶対に正しい」と思ったまま、カラの中に閉じこもってしまう。
(4)相手の非をすかさず持ち出して、「先生だって、この前……!」と切り返す。
だからこのタイプの子どもと接していると、こちらまで気がへんになる。
相手は子どもなのだが、本気で怒りを覚える。
が、もちろん本人には、否定しているという意識はない。
相手がどうして怒っているかも、理解できない。
「どうして、そんなことで、先生は怒るの!」と言い返してくる。
だから私のほうもムキになって、一言「ごめんと言えばそれですむことだろ」と諭す。
が、それに対しても、「私は何も悪いことをしていないのに、どうして謝らなくては
いけないのよ!」と、言い返す。
こういう状態になると、何を言っても無駄。
そこで強く叱ると、「ごめんと言えばいいのね、じゃあ、言うわよ。『ごめん』」と。
少年少女期に、一度、こういった症状が出てくると、その症状は、おとなに
なってからも、ずっとそのままつづく。
恐らく、老人になって死ぬまで、それがつづく。
ものの考え方の基本として、定着してしまうためと考えてよい。
では、どうすればよいか?
まず、自分に気がつくこと。
そのためには、自分の少年少女期を、静かに振り返ってみる。
不平不満もなく、いつも明るく、すがすがしい毎日を送っていただろうか。
それとも、いつも何か悶々とした毎日を送っていただろうか。
あるいはツッパリ症状があっただろうか。
そういったところから、自分を見つめなおしてみる。
あとは時間に任せるしかない。
10年とか、20年とか、それくらいはかかる。
今日気がついたから、来週にはなおるという問題ではない。
「心」というのは、そういうもの。
だから昔の人は、こう言った。
『三つ子の魂、百まで』と。
大切なことは、あなたはそうであっても、子どもには、そういう不幸な
経験をさせないということ。
愛情豊かで、心の温まる家庭を用意する。
それは子どもをツッパらせないためだけではない。
子どもの心をつくるための、親の義務と考えてよい。
【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●結婚はしてみたけれど……(認知的不協和)
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結婚はしてみたけれど、こんなハズではなかった……という
夫婦は多い。
心理学でいえば、「認知的不協和」ということになる。
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「個人のもつ認知に矛盾やアンバランスが生じたことを、
アメリカの心理学者のフェスティンガーは、認知的不協和と
名づけた」(大村政男著「心理学」ナツメ社、P172)とある。
日常的によく経験する。
先日もあるところへ旅行した。
その旅行先で、昼食にとある食堂へ入った。
しかし立派だったのは、店構えだけ。
値段ばかり高く、まずかった。
で、その食堂を出て、しばらく歩くと、そこに
行列のできた食堂が何軒かあった。
レジの前には、順番待ちの客が、ズラリと並んでいた。
それを見て、「こういうところで食べればよかった」と、
少なからず、後悔した。
言うなれば、これも認知的不協和?
しかしこれが結婚相手となると、ことは深刻。
子どもができれば、なおさらである。
そういうとき、人間は、認知的不協和から
「脱出」するため、4つのパターンから、
その一つを選ぶ(参考:同書)。
(1)この人しか私にはいないと、自分を納得させ、ほかの人と比較しない。
(2)離婚はしたくないので、がまんする。
(3)相手を育てるのは私と考え、ともに前向きに努力する。
(4)相手のよいところをさがし、それだけを評価するようにする。
この4つのパターンは、「心理学」を参考に、私が適当に考えたものである。
が、結婚生活というのは、実際には、もう少し複雑。
そのつど、この4つのパターンが、交互に、あるいは同時に、夫婦を襲う。
ときに自分を納得させ、ときにがまんし、また別のときには、あきらめる……。
この連続。
が、まずいのは、何と言ってもストレス。
認知的不協和も、ある一定の限度内なら、生活のスパイスとなる。
が、その限度を超えると、とたんにストレスとなって、その人を襲う。
おおまかにいえば、つぎのサイクルを踏む。
(平穏期)→(緊張期)→(爆発)→(沈静期)→(平穏期)……と。
しかしこれもどちらかというと、仲がよい夫婦のばあい。
ずっと(平穏期)のままという夫婦も、(緊張期)のままという夫婦もいるにはいるが、
そういう夫婦のほうが、あ・ぶ・な・い。
ただ周期の長さには、個人差がある。
2~3か月ごとに(爆発)を迎え、大喧嘩する夫婦もいる。
1~2年ごとに(爆発)を迎えるという夫婦もいる。
あるいは小刻みなサイクルを繰り返しながら、大きなサイクルを繰り返すという
夫婦もいる。
若い夫婦ほど、サイクルが短いということになるが、それにも個人差がある。
要するに夫婦喧嘩(=爆発)も、しかたの問題ということ。
だから昔から、こう言う。
『夫婦喧嘩は、犬も食わぬ』と。
つまり何でも食べる犬でも、夫婦喧嘩は食べない、と。
「仲のよい夫婦ほど夫婦喧嘩をし、一時的ですぐ和合するから、仲裁に入るのは
愚かである」(広辞苑)という意味。
大切なことは、こう考えること。
どんな夫婦にも、認知的不協和はつきもの。
あとは、どううまくつきあっていくかということ。
それが夫婦ということになる。
(付記)
最近、気がついたが、結果として離婚していく夫婦には、ある共通のパターンがある。
同時にそれぞれが、離婚に向かうというケースは、少ない。
そのとき、先に離婚を覚悟するほうを、離婚側とする。
どちらかというと不本意ながら、離婚をさせられるほうを、被離婚側とする。
ふつうは被離婚側が気がつかないうちに、離婚側が、離婚を覚悟を決めてしまう。
そしてある程度……というか、その覚悟がしっかりできた段階で、離婚側が、
被離婚側に、離婚話を持ち出す。
「離婚する」「離婚させてください」と。
定年離婚と呼ばれる離婚には、こうしたケースが多い。
で、そのときのこと。
離婚側のほうには、微妙な変化が現れる。
相手が夫であれ、妻であれ、(妻であることのほうが多いが……)、
(1)電話などでの応対が、ぞんざいになる。
(2)きめのこまかい交際をしなくなる。(何かものを送っても、礼のあいさつがない。)
(3)小さな悪口を、それとなく会話にまぜる。
(4)軽蔑したような表現が多くなる。
(5)会話の内容が事務的になり、しっくりとかみ合わなくなる。
で、しばらくそういう状態がつづき、部外者が「?」と思っていると、そのまま
離婚……ということになる。
たとえば数年前、私はある知人に電話をした。
その知人は、その町の中心部で事務所を開いたのだが、それがすぐ行き詰ってしまった。
そのことを知っていたので、その知人の妻に電話をしたとき、「ご主人も、たいへんですね」
と私は言った。
それに対して知人の妻は、「……あの人は、何をしても、ドジばっかり……」と。
小さい声だったが、どこか吐き捨てるような言い方だった。
で、あとで知ったのだが、そのすぐあと、知人夫婦は離婚していた。
一般論からいうと、(あるいは私の経験論ということになるが)、年齢が若いときに、
ラブラブの状態で結婚した人ほど、皮肉なことに、認知的不協和は起こりにくい。
一方、晩婚型で、計算高く結婚した人ほど、認知的不協和は起こりやすい。
年齢が高い分だけ、それだけ相手をよく見ているかというと、そうでもない。
あるいは、いくら知ったつもりでいても、人間を知りつくすのは、それほどまでに
むずかしいということ。
このことは、結婚歴40年近い、私にとっても、そうである。
いまだにワイフについて、わからないところがある。
(ワイフにしても、そうだろう。)
だからやはり結婚というのは、電撃に打たれるような衝撃を感じて、何も考えず、
ラブラブのまま、結婚するのがよいということになる。
盲目的な結婚が悪いというのではない。
どうせ、みな、盲目なのだから……。
♪Wise men say, only fools rash in. But I can’t help falling love with you…
(愚かモノだけが、結婚に突進すると賢者は言う。しかし私はあなたに恋をするのを
止めることができない……。)
【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●働いた経験のある女性(母親)、ない女性(母親)
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「無私の愛」とは言うが、しかし男性(父親)と、
女性(母親)とでは、とらえ方が、微妙にちがう(?)。
いくら「無私」とはいっても、たとえば、子どもを育てるには、
それなりのお金がかかる。
そのお金についてだが、働いたことがある人と、そうでない
人とでは、お金に対する感覚が、微妙にちがう。
働いている男性(父親)は、それがよいことか、
悪いことかという話は別にして、
そこに金銭的価値を混入する。
働いた経験のない女性(母親)は、金銭的価値をあまり
考えない。
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●日本の常識
ときどき男たちの間で、こんなことが話題になる。
「働いたことのある女性(母親)と、働いたことのない女性(母親)は、
微妙にちがう」と。
働いたことのある女性は、(時間)と(金銭)を結びつけることができる。
しかし働いたことのない女性は、それができない。
たとえばその女性(母親)のために何かをしてやったとする。
そのとき、働いたことがある女性は、(してもらったこと)を、
時間や金銭に換算して評価する。
「2時間、働いてもらったから、2000円くらいのお礼はしなければ
ならない」と。
しかし働いたことのない女性(母親)は、それができない。
「相手は、私が魅力的だから(?)、してくれた」と思う(?)。
まあ、そこまでは思わないにしても、たいていにっこりと笑って、
「ありがとう」だけですんでしまう。
私も以前は、いろいろな場面で育児相談を受けていた。
そういうとき相手が職をもった父親だと、そのつど、ポンポンと、
反応が返ってくる。
金銭的な反応だけではない。
何かの協力を申し出られることもある。
「先生、今度、いっしょに釣りに行きませんか」
「いい店がありますから、食事でもどうですか」とか、など。
が、女性(母親)には、それがない。
ないばかりか、金銭感覚そのものが、うとい。
こんなことがあった。
●みやげなし(?)
久しぶりにその人の息子夫婦が、赴任先の仙台から帰ってきた。
3歳になる孫もいっしょだった。
そのときのこと。
息子夫婦は、手ぶらで帰ってきた。
しかしこれは日本の常識ではない。
世界の常識でもない。
そこでその人が、「いくら親子でも、手ぶらで帰ってくるやつがいるか」と、
息子を叱った。
これに息子が猛反発。
「パパは、みやげがほしかったのか!」「そのために、ぼくを呼んだのか!」と。
で、そこへ母親が割り込んできた。
割り込んできて、息子の味方をした。
「見返りを求めるなんて、おかしいわよ!」と。
言い忘れたが、息子夫婦が仙台から帰ってくるについて、旅費は、
すべて父親が負担した。
そういうこともあって、父親もキレた。
「みやげ程度のことを、見返りとは言わない。常識だア!」と。
あなたなら、この話を聞いて、どう思うだろうか?
私は(男性)だから、父親の言い分のほうが正しいと思う。
いくら何でも、手ぶらは失礼。
親子の間でも、失礼。
しかし私のワイフなどは、母親の言い分のほうが正しいと言う。
ワイフも、私と結婚して以来、一度も働いた経験がない。
言うなれば、「お金は天から降ってくるもの」と思い込んでいる。
●当たり前
最近の若い人たちは、独特の考え方をする。
たとえば高校や大学へ行くことについて、それを感謝している若い人は、
まず、いない。
口では「ありがとう」と言うが、それはあくまでも儀礼。
「行くのが当たり前。そのために、親が学費を出すのは、当たり前」と、
そういうふうに考える。
当たり前ということは、当たり前。
一方、父親のほうはどうかというと、いくら「無私の愛」といっても、
そこまで割り切ることはできない。
今、都会へ1人の子どもを大学生として送ると、生活費だけで、1000万円
程度(4年間)はかかる。加えて学費。4年間で、計2000~3000万円の
出費ということになる。
(これでも実際には、安いほう。)
働いている男性なら、それがどういう額か、わかる。
わかるから、「当たり前」という考え方には、少なからず、抵抗を覚える。
が、女性(母親)には、それがわからない。
とくに働いたことのない女性(母親)には、それがわからない。
子どもといっしょになって、「当たり前よねえ」などと言ったりする。
●親、貧乏盛り
『子ども大学生、親、貧乏盛り』というのは、私が考えた格言である。
子どもが大学生になると、親は、爪に灯をともすようにして、学費を工面する。
懸命に笑顔をつくりながら、「金はあるか? 足りなかったら言えよ」とは、
言うものの、懐(ふところ)のさみしさが、ふと言葉を詰まらせる。
しかしその結果……というより、今の若い人が、どうしてそこまで
ドライに割り切ることができるのか、私には不思議でならない。
中には、「金だけを出せば、それで親の義務が果たせたとでも言うのか」とか、
さらに「日本も、アメリカのような奨学金制度を作ればいいじゃないか」とか、
言う若い人もいる。
だからある父親は、こう言った。
「あのね、親はね、苦労してまで、息子や娘を大学などに出すものじゃ
ないですよ」と。
つまり「出してやっても、むなしいだけ」と。
「損」という言い方には語弊があるが、「損」と。
●学歴は個人的利益(?)
要するに、日本の教育制度が、おかしいということ。
学歴を、個人的な利益と結びつけて考える傾向もある。
だからその負担は、個人、つまり各家庭の親がすべき、と。
本来なら、学歴は、万人のためのものでなければならない。
もっと言えば、頭のよい人は、その頭を、万人のために使ってこそ、
頭のよい人ということになる。
が、この日本では、学歴というのは、あくまでも個人の利益を
追求するための道具でしかない。
だから隣人が、息子の学費で四苦八苦していても、だれも同情しない。
だれも助けない。
また制度そのものも、おかしい。
日本も奨学金制度を拡充すべきだが、いまだにその制度は、貧弱で、
奨学金といっても、「小遣い程度」でしかない。
結局、そのシワ寄せは、大学生をもつ親のところにのしかかってくる。
●私の息子たち
私も3人の息子たちを育てたが、こと学費に関しては、損得の計算を
したことはない。
惜しみなく、出してきた。
出してきたが、今になって、ときどき、「あそこまでやる必要はあったのか」
と思うことはある。
たとえば息子たちに買ってやったパソコンにしても、いつも、私が
もっているのより、高性能のものだった。
家を建てたときも、自分たちの書斎よりも、子ども部屋のほうを優先させた。
しかしそういった親心というのは、少なくとも私の息子たちを見るかぎり、
まったくといってよいほど、伝わっていない。
私の息子たちにしても、どちらかというと、みやげなどもたず、
手ぶらでくるタイプである。
●結論
話は大きく脱線したが、結局は(苦労)を、どのように理解するかということ。
そこに行き着く。
私のワイフも、ときどきこう言う。
「家庭に入った主婦だって、たいへんなのよ」と。
しかし本当に、そうだろうか?
そう言いきってよいのだろうか?
たとえば朝、夫婦喧嘩をしたばあいを考えてみたらよい。
何かのことで、怒鳴りあったとする。
そういうとき女性(母親)は、そのまま部屋に入って、中からカギをかえば、
それですむ。
ふとんをかぶって寝ていれば、それですむ。
しかし仕事をしている男性は、そうはいかない。
どんなに気分が悪くても、身支度を整えて、会社に向かわねばならない。
会社で人に会えば、笑顔を作らねばならない。
それから受けるストレスには、相当なものがある。
だから男性(父親)と女性(母親)とでは、微妙なちがいが出てくる。
いくら「無私の愛」といっても、男性と女性とでは、とらえ方がちがう。
(働いたことのある女性)と、(働いたことのない女性)とでは、
とらえかたがちがう。
「見返りを求めない」といっても、(みやげ)など、見返りにもならない。
私は結婚する前から、またワイフに納得してもらった上で結婚したが、
収入の約半分を、実家に仕送りしていた。
27歳くらいのときから、生活費や法事の費用、さらには商品の仕入れの費用など、
すべて私が負担した。
そういうのを、私の世界では、「見返り」という。
繰り返すが、「みやげ」程度で、「見返り」などと、おおきな顔をしてほしくない。
今の若い人たちには、それを理解するのは、むずかしいことだろうが……。
Hiroshi Hayashi++++++++MARCH・09++++++++++++はやし浩司
●ポスト・介護
+++++++++++++++++++
今朝、目を覚ます前に、こんな夢を見た。
実家の店先に、母(08年他界)と、祖父(他界)が
いっしょにいた。
それを見て、つまり母が祖父を見て、こう言った。
「じいちゃんは、もう死んだはずなのに、どうしてここにいるの?」と。
それを聞いて、祖父が照れくさそうに笑った。
私も笑った。
で、私はこう言った。
「母ちゃん、あんただって、死んだはずだよ」と。
それを聞いて、母が笑った。
私も笑った。
で、奥の部屋のほうへ行くと、そこに兄(08年他界)がいた。
兄は、階段の上から、下へおりてくるところだった。
そこへ10人前後の人たちが、ドヤドヤと入ってきた。
どこかの仏教教団の人たちという。
その人たちが、こう言った。
「あんたの兄さんのために、お経をあげさせてくれ」と。
それに答えて、私は「勝手になさるなら、どうぞ」と。
するとその教団の人たちは、レコードをかけ始めた。
「あなたの兄さんが好きだった曲です」と。
私は「?」と思っていたが、かけられた曲は、美空ひばりの『悲しい酒』。
「よく知っているなあ」と私は感心した。
見ると、みなが、どこで集めてきたのか知らないが、サクラの花びらを、
パラパラと空に向かってまいていた。
それが雪のように美しかった。
それを見て、兄が照れくさそうに笑った。
私も笑った。
++++++++++++++++++++
●夢判断
生きているときは、兄の夢など、ほとんど見たことがない。
が、死んでからは、よく出てくる。
母にしても、そうだ。
しかしどういうわけか、兄にしても、母にしても、いつも笑っている。
今朝の夢にしても、そうだ。
死んだ母に、「あんただって……」と言ったとき、母は笑っていた。
「そうやったなあ」というような顔だった。
この話を朝食のときワイフにすると、ワイフはこう言った。
「『ウラメシ~』と出てこられるとつらいけど、笑って出てくるというのは、
いいことね」と。
●介護
母の介護にしても、兄の介護にしても、金銭的な負担は、すべて私がした。
いろいろそのつど、思ったことはあるが、グチをだれかに告げたことはなかった。
ワイフにすら、告げたことがない。
だいたい、グチぽいことすら、考えたことがない。
兄が廊下でクソを落としたときも、むしろ笑って、それを始末することができた。
母の便の始末は、すべて私がした。
しかしそれを「イヤ」と思ったことは、一度もない。
介護というのは、そういうもの。
「イヤ」と思えば、負担になる。
受け入れてしまえば、何ともない。
ただ兄にせよ、母にせよ、施設に入ったときには、解放感を覚えた。
しかしその解放感とて、予想していたものではない。
施設へ入ったあと、それまでの介護が、ウソのように楽になった。
それで解放感を覚えた。
が、それで心理的圧迫感が消えたわけではない。
日帰りの旅行をするときですら、一度、施設に電話を入れて、様子を
聞かねばならなかった。
そういう圧迫感はあった。
が、それとて、母が他界して、はじめてわかったこと。
圧迫感から解放されて、それまでその圧迫感があったことを知った。
●ウラメシ~
ワイフが言うには、「ウラメシ~」と、化けて出てこられたら……?
介護の仕方によっては、「ウラメシ~」と、母や兄が夢の中に出てくることだって、
考えられる。
それは深層心理によるもので、いくら表面的に献身的な介護をしていたとしても、
心の奥がそれにともなっていないばあいには、「ウラメシ~」となる。
その可能性は高い。
私「ほら、何かの本で読んだけど、あの金xxは、夜な夜な、何かにうなされて
いるそうだ」
ワ「何十万人もの人を殺しているからね」
私「怖ろしいと思うよ。それこそ人影を見ただけで、おびえたりする」
ワ「安眠できないわね」
私「だから一晩中起きて、酒を飲んでいるそうだ」と。
●今、介護で苦労している人へ
これは私からのささやかなアドバイスということになる。
まず、「運命は、受け入れる」。
そのときはいろいろあるだろう。
たいへんなことも、わかる。
しかし運命というのは、受け入れてしまえば、なんでもない。
が、一度逆らうと、運命は悪魔となって、あなたに襲いかかってくる。
ちょっとしたことでも、それが何十倍も、何百倍も、大きな負担となって、
あなたに襲いかかってくる。
ある女性は、痴呆症になった義父が、男性用の小便トイレで、ウンチを
しただけで、パニック状態になってしまった。
ギャーギャーと泣きわめいて、あちこちに電話をかけていた。
私はその話を聞いて、「ぼくのところでは、よくあること」と思った。
幼稚園でも教室でも、子どもたちが、ときどき、それをする。
小便器のほうに、ウンチをする。
庭で放し飼いにしている犬のハナだって、そうだ。
朝起きると、ハナのウンチの世話をするのが、日課になっている。
しかしそうした始末を、不愉快に思ったことはない。
それが「運命」だからである。
●最大限、してやる
近くあの世へ行く人がいたら、できるかぎり親切にしてやるのがよい。
後悔することがあるとするなら、「それをしてやらなかった自分」という
ことになる。
今になって、「もっとやってやればよかった」「ああしてやればよかった」と
思うことはある。
そういう後悔は残さないほうがよいが、しかしそれはだれしも思うことだそうだ。
義姉が、そう話してくれた。
まずいのは、あとで「ウラメシ~」と出てくるようなことをすること。
幽霊などいない。
それはわかっているが、しかし心の中から消すのも、むずかしい。
いるとするなら、私やあなたの心の奥に、(いる)ということになるが、
そういう幽霊を作らないこと。
もし今朝の夢の中で、母や兄が、それに祖父が、暗く、つらそうな顔を
して出てきたとしたら、それは私自身が罪の意識を感じているからに
ほかならない。
罪の意識が悪夢を作る。
が、幸いなことに、みな、笑っている。
いつも夢の中では、笑っている。
もともとおかしな、どこかひょうきんな家族だった。
それでそういう夢を見る。
それにしても、あのサクラの花びらをまいてくれたのは、どこの教団の
人たちなのだろう。
1人、2人は、見覚えのある人だったが、どこのだれだったかまでは、
思い出せない。
おもしろい夢だった。
Hiroshi Hayashi++++++++MARCH・09++++++++++++はやし浩司
●洗脳コマーシャル
++++++++++++++++++
3月8日。
パッとしない日曜日。
曇天。
肌寒い。
体の動きも、鈍い。
体重もふえた。
危険水域の、67キロ弱。
今日は食事を減らし、運動量をふやす。
昼から、浜名湖周辺を歩いてみる。
++++++++++++++++++
ところで昨夜、WBC日韓戦を見た。
結果は、日本のコールド勝ち。
それはそれとして、Aビール会社の
コマーシャルには、驚いた。
表と裏が入れ替わるたびに、Aビールの
コマーシャル、またコマーシャル。
それが繰り返し、流される。
「これでもか!」「これでもか!」といったよう。
野球以上に、Aビールのコマーシャルが、
脳に張りついてしまった。
恐ろしい力である。
「こんなコマーシャルばかり見ていたら、
ビール好きの人はたまらないだろうね」と私。
脳の中で条件反射運動が起こり、みな、
Aビールを買い求めるようになる。
ドーパミンが、線条体をガンガンと刺激する。
そうでなくても、ビール好きの人には、
受容体ができあがっている。
コマーシャルの泡を見ただけで、ググーッと、
ビールが飲みたくなるはず。
いいのかなあ……?
酒もタバコも、基本的には、同じ。
アルコールに、害がないとは言わせない。
みながみな、適度に飲んでいるわけではない。
アルコール中毒、ニコチン中毒という言葉もある。
その先には、薬物依存もある。
タバコのコマーシャルと同じように、
アルコールのコマーシャルも、自粛すべきではないのか。
何も飲まなければ、生きていかれないというようなものでもない。
私の知人にも、ヘビースモーカーならぬ、ヘビードリンカー
という人が、何人かいる。
30代、40代のころは、それがわからなかった。
が、50代になると、その(ちがい)が、はっきりしてくる。
どこかふつうの人たちとは、ちがう。
飲んでないときも、ろれつが回らない。
繊細な会話ができない。
それに会話のスピードが、かみ合わない、など。
「ア~~、ウ~~、アウ~~、エ~~」という、
間投詞でもない、感動詞でもない、うめき声も
多くなる。
「ア~~、エ~ト、ソノ~、ですナ~、私イ~~」と。
つまり脳みその機能が、低下する。
ところでそのコマーシャル。
(1)感覚的なものであればあるほど、よい。
(2)繰り返し流せば流すほど、よい。
(3)理屈ぽいものは、だめ。かえって逆効果。
(4)有名人を使えば使うほど、よい。
昨日見たAビールのコマーシャルは、この基準を
すべて満たしていた。
つまり、基準通りの、コマーシャル。
あのコマーシャルで、いったい、どれだけの人が
洗脳されたことか。
おまけにコールド勝ち。
否応なしに、コマーシャルの効果は高められたはず。
店先で、Aビールを見ただけで、ググーッと、
「勝った」という快感(?)が、よみがえってくる。
思わず、Aビールに手がのびる。
「いいのかなあ?」
「いいはずないよなあ……」と思いつつ、テレビから離れた。
(補記)
みなさん、
みなさんは、「私は私」と思っているかもしれませんが、
みなさんは、いつもだれかに、そして何かに操られているのですよ。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
テレビコマーシャル コマーシャルの効果 マスメディア 洗脳 洗脳コマーシャル
条件反射 線条体)
Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司
●『おくりびと』(A Japanese Movie “Okuri-bito”, a film given an Oscar.)
++++++++++++++
少し無理をして、映画『おくりびと』を、劇場で見てきた。
「無理をして」というのは、時間がなく、
あれこれ仕事をやりくりして、という意味。
星は、3つの★★★。
笑った。
何度か、ゲラゲラと、口を押さえて笑った。
しかし涙の部分は、ついていけなかった。
映画の最初の部分で、結末が予想できてしまった。
「この映画は、父親の葬儀をしなければ、しめくくれないぞ」と。
そんなわけで、涙がポロポロ……というわけにはいかなかった。
++++++++++++++
「オスカー受賞作品だぞ。どうしてそれが星が3つなのだ!」と、
叱られそうだが、だからこそ、あえて星は3つにした。
(5つもつけたら、私が賞に迎合したことになる!)
全体に、劇団ぽさが残る映画。
演技がおおげさで、りきみ過ぎ。
納棺師という職業をけなす風呂屋の男にしても、
また葬儀屋の女事務員にしても、顔と表情だけで演技している。
最後に、父親の遺体を棺桶におさめる男たちの演技も、わざとらしい。
脇をかためる俳優たちが、もう少し、自然に演技していれば、
星は4つ。
あとは画像が暗く、予算もかけていない。
「どこか発展途上国の映画」という印象ももった。
もう一言。
死んだ父親が、息子(納棺師)がくれた石を握ったまま
死んでいたという話は、デキスギ。
どこか『一杯のかけそば』風。
「お涙、頂戴」という重要なシーンだが、このシーンは、
映画の途中で、予想できてしまった。
似たような映画に、『マジソン群の橋』がある。
最後のシーンで、フランチェスカが、ロバートの遺品から、
メモを見つけて涙をこぼすシーンがある。
あのときは予想していなかっただけに、涙を誘った。
……とまあ、けなしてばかりいてはいけない。
日本映画の中では、群を抜いてよい映画であることは事実。
劇場まで足を運んで見る価値は、じゅうぶんある。
実のところ、その2日前に、ウィル・スミスの『7つの贈り物』を見た。
その疲れが残っていたのかもしれない。
頭の中で、2つの映画が、ダブってしまった。
『7つの贈り物』も、似たような「お涙、頂戴映画」だが、
これも、星は3つの、★★★。
あえて比較するなら、『7つの贈り物』は、おとなの映画。
『おくりびと』は、おとなになる前の、未成熟なおとなの映画。
セックスシーンだけを見ても、それがわかる。
今週は、いよいよ『オーストラリア』を見る。
楽しみ。
待ってましたア!
Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司
●王と女王(論)(King & Queen)
+++++++++++++++++
シロアリのおもしろい生態が、また
ひとつ、新たに明らかになった。
シロアリの世界には、(王)(女王)
(兵アリ)(働きアリ)の4種類がいる。
それについては、よく知られている。
で、その(女王)についてだが、女王アリは、
「単為発生で自分の分身を産むこともある」
ということがわかった。
読売新聞は、つぎのように伝える(09年
3月)。
『女王の命は永遠? 日本に多いシロアリ「ヤマトシロアリ」の女王は、自分の死後の後
継者となる新女王を、王と交配しない単為発生で産むことを、岡山大の松浦健二准教授(昆
虫生態学)らが発見した。新女王はこれまで、王と女王の娘と考えられてきたが、実は自
分自身の“分身”で、女王の座を守り続けていた。17日から盛岡市などで始まる日本生態学
会で発表する』(以上、読売新聞)と。
わかりやすく言えば、女王は、王と交配しなくても、
自ら、女王を産むこともあるという。
それを「単為発生」という。
もっとわかりやすく言えば、王とのSックスなしで、
自分の分身を産む。
ほかの王、兵アリ、働きアリは、王と女王との交配によって
生まれるが、女王だけは、ちがう。
さらに記事には、こうある。
++++++++++++++以下、読売新聞より+++++++++++++++
シロアリは最初に1匹ずつの王と女王が巣を作り、働きアリや兵アリ、生殖能力を持つ羽
アリなどを産む。
松浦准教授らが、ヤマトシロアリの生態や遺伝子を詳しく調べたところ、女王は通常、
王と交配して産卵するが、うち2~5%は単為発生で産み、それが新女王になることがわ
かった。
巣が大きくなると、働きアリなどを増やす必要が出てくるが、女王だけでは産卵数が不
足しがちになると、新女王たちが王と交配し、家族を増やす。20~30年生きる王に比
べて女王の寿命は5~10年と短いが、分身がさらに分身を産むため、巣が存続する限り、
初代女王と同じ遺伝子の女王が君臨し続けることになる。
++++++++++++++以上、読売新聞より+++++++++++++++
記事をよく読むと、「単為発生する女王もいるが、
もちろん王と交配して生まれる女王もいる」ということがわかる。
まっ、ごちゃごちゃ!
それにしても、おもしろい世界だ。
人間の世界にたとえるなら、妻が勝手に自分の分身を作って、
自分の仕事を手伝わせるようなもの。
夫のほうにすれば、古い女房が死んでも、また新しい女房が
そこにいるわけだから、いつまでも、新しい女房と、
新婚生活を楽しむことができるということになる。
これなら女房の寿命が、夫の3分の1~4分の1でも、
かまわない。
が、ここで私は、重大なことに気がついた。
(おおげさかな?)
●王と女王論
人間は、勝手に「王」とか、「女王」とかいう名前をつける。
が、もちろん、シロアリが、それを意識しているわけではない。
またそういう上下意識があるわけではない。
上下関係があるわけでもない。
そこで私は、ハタと考え込んでしまった。
「王アリ」とか「女王アリ」とか呼ぶが、それは正しくないのでは
ないか、と。
女王アリについて言えば、「卵を生産する生産アリ」と呼ぶ方が、
正確ではないのか。
王アリにしても、そうだ。
実際には、「種アリ」。
「種馬」の「種」と同じ。
もっと言えば、「生殖アリ」。
毎日、毎晩、Sックスをして、子どもをつくってばかりいる。
一見、うらやましく見えるが、けっして楽な世界ではない。
そういうアリを、「王」とか、「女王」とか、呼んでよいものか。
が、私たちは、「王」とか、「女王」とかいう言葉にまどわされる。
人間世界における「王」や「女王」を、そのままその言葉の上に重ね合わせてしまう。
王アリだから、すごいとか、女王アリだから、すごいとか。
しかしもし私がシロアリなら、兵アリや働きアリのほうが、
よっぽど気が楽。
Sックスはできないが、できないからといって、どうということはない。
……と考えて、また私は、新しい事実に気がついた。
●Sックス論
健康な男女なら、みな、Sックスが好きなはず。
Sックスを嫌う人はいない。
が、「好き」とか、「嫌い」とか言っても、自分でそう考えて、
そう思っているわけではない。
脳の奥深くから発せられる、信号によって、そう思わされて
いるだけ。
操られているだけ。
少し考えてみれば、それがわかる。
男にしても女にしても、生殖器官というのは、排泄器官の
すぐ横にある。
小便と生殖器官は、いっしょくたになっている。
あのあたりは、臭いし、汚い。
「汚い」という言い方にも、問題があるが、ともかくも汚い。
そういう感覚を乗り越えなければ、Sックスなどできない。
よほど強い命令がなければ、Sックスなどしない。
「臭いからいやだ」とか、「汚いからいやだ」とか、
そんなことを言っていたら、おしまい。
Sックスをしなければ、つまりその時点で、人間は、
絶滅することになる。
だから毎日、毎晩、Sックスばかりしている、王アリや
女王アリを、うらやましいと思ってはいけない。
考えてみれば、それはたいへんなこと。
もしそれこそ、1時間おきに妻から、Sックスを求められたら、
あなたならどうする?
体がもたない。
しかしそれが王の仕事というのなら、私なら、
さっさと王の座をおりる。
●「汚い」とは?
さらに新しい事実を発見!
先に、排泄器官は、「汚い」と書いた。
しかし「汚い」という言葉ほど、主観的なものはない。
何をもって、人は、「汚い」といい、「汚くない」というのか。
若くて健康的な男女なら、そしてムードが盛りあがってくれば、
相手の生殖器官を、一晩中でも、なめていたいと思うだろう。
そういうとき、そこが汚い場所とは、だれも思わない。
臭(にお)いすら、気にならなくなる。
汚いといえば、バイ菌やウィルスのついた食器のほうが、
よっぽど汚い。
しかしバイ菌やウィルスは、目には見えない。
いくらそこにあっても、それを「汚い」と思う人はいない。
こうして考えてみると、「汚い」というのは、人間がもつ
文化性と、深く関わっているのがわかる。
つまり人間が、勝手に、そう思い込んでいるだけ。
現に、人間のクソを、おいしそうに食べる動物や虫は、
いくらでもいる。
(反対に、人間だって、魚介類のクソを、「うまい」と
言って食べているぞ。)
●人間の勝手
話を戻す。
王アリにしても女王アリにしても、人間が勝手に、そう位置づけているだけ。
人間の王や女王にしても、そうだ。
Sックスにしても、それが楽しいことだと思っている人も多いが、
そう思い込まされているだけ。
「汚い」という言葉にしても、そうだ。
いわんや、王は偉いとか、女王は偉いとか、そんなふうに考えるのは、
おかしい。
上下意識にしても、そうだ。
人間が、勝手に、自ら、そう作りあげているだけ。
またSックスについて言えば、私は50歳を少し過ぎたころ、
男女の区別ができなくなってしまった。
あとで聞いたら、それが男性の更年期症候群のひとつと知った。
が、同時に、私は性欲から解放された。
あのとき感じた解放感は、ほかにはない。
言いかえると、そのとき、私は、それまでの私が、
いかに性の奴隷であったかを知った。
そんなわけで、Sックスができるから、幸福とか、できないから不幸とか、
そんなふうに考えるのは、正しくない。
シロアリの生態についての記事を読んでいて、私は、そんなことを
考えた。
それにしても興味深い世界ではないか。
ホント!
(注:BLOGでは、使用禁止用語というものが、あります。
その用語を使うと、原稿のアプロードそのものができません。
そこであの行為を、「Sックス」と表記しました。
「Sックス」というのは、「人間の交尾行為」を言います。)
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