Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Tuesday, July 20, 2010

●恨み  ●釈迦の自由論

●『Hating people is like burning down your house to kill a rat ー Henry Fosdick
人を恨むというのは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』(H・フォスディック)

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人を恨んではいけない。
恨めば恨むほど、心が小さくなり、そこでよどむ。
よどんで腐る。
だからこう言う。
『人を恨むというのは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』と。

解釈の仕方はいろいろあるだろう。
しかし簡単に言えば、(ネズミ)は(恨みの念)、
(家)は、もちろん(心)をいう。
(人生)でもよい。
ネズミを追い出すために、家に火をつける人はいない。
もったいないというより、バカげている。
「人を恨む」というのは、つまりそれくらいバカげているという意味。

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●ある女性(67歳)

 東洋医学(黄帝内経)でも、「恨みの気持ち」をきびしく戒めている(上古天真論編)。

『(健康の奥義は)、精神的にも悩みはなく、平静楽観を旨とし、自足を事とす
る』『八風(自然)の理によく順応し、世俗の習慣にみずからの趣向を無理なく適応させ、恨み怒りの気持ちはさらにない。行動や服飾もすべて俗世間の人と異なることなく、みずからの崇高性を表面にあらわすこともない。身体的には働きすぎず、過労に陥ることもなく、精神的にも悩みはなく、平静楽観を旨とし、自足を事とする』と。

 恨みは、健康の大敵というわけである。
しかし恨みから逃れるのは、(あるいは晴らすのは)、容易なことではない。
妄想と重なりやすい。
「あいつのせいで、こうなった」と。

 ものの考え方も、後ろ向きになる。
ある女性(68歳)は、ことあるごとに弟氏の悪口を言いふらしていた。
口のうまい人で、悪口の言い方も、これまたうまかった。
たいていはまず自分の苦労話を並べ、そのあと弟氏が何もしてくれなかった
という話につなげる。
同情を買いながら、相手が悪いという話につなげる。
自分がしたこと、あるいは自分がしなかったことをすべて棚にあげ、ことさら自分を飾る。

 まわりの人に理由を聞くと、こう話してくれた。
「親が死んだとき、遺産の分け前をもらえなかったから」と。
が、いくら悪口を言っても、何も解決しない。
ただの腹いせ。
愚痴。
聞くほうも、疲れる。

●復讐

 恨みといえば、「四谷怪談」がある。
近くテレビでも映画が紹介されるという。
恐ろしいと言えば、あれほど恐ろしい話はない。
「四谷怪談」と聞いただけで、私は今でも背筋がぞっとする。
「四谷怪談」にまつわる思い出は多い。
子どものころ、怪談と言えば、「四谷怪談」だった。
(はかに「牡丹灯籠(ぼたんどうろう)」というのもあった。
若い人たちは知らないかもしれない。)

 「四谷怪談」のばあいは、男のエゴに振り回されたあげく、1人の女性が
毒殺される。
その女性が復讐のため、幽霊となって男を繰り返し襲う。
そのものすごさ。
執念深さ。

 子どものころ映画館に入ると、通路の脇にローソクと線香が立てられていた。
それだけで私たち子どもは、震えあがった。
そのこともあって、「恨み」イコール「復讐」というイメージが、私のばあい、
どうしても強い。
そういうイメージが焼きついてしまった。
 
 先に書いた「恨みを晴らす」というのは、「復讐して、相手をこらしめる」
という意味である。

●詐欺

 自分の人生を振り返ってみる。
こまかいことも含めると、人を恨んだことは、山のようにある。
反対に自分では気がつかなかったが、恨まれたこともたくさんあるはず。
恨んだり、恨まれたり・・・。

 しかし結論から言うと、生きていく以上、トラブルはつきもの。
恨みも生まれる。
しかし恨むなら、さっさと事務的に復讐して終わる。
「事務的に」だ。
そのために法律というものがある。
それができないなら、これまたさっさと忘れて、その問題から遠ざかる。
ぐずぐずすればするほど、その深みにはまってしまう。
身動きが取れなくなってしまう。

 こんな人がいた。

 当初、500万円くらいの私財をその不動産会社に投資した。
ついで役職を買う形で、さらに1000万円を投資した。
時は折りしも、土地バブル経済時代。
1か月で、1億円の収益をあげたこともある。
で、親から譲り受けた土地を、会社にころがしたところで、バブル経済が崩壊。
結局、元も子も失ってしまった。

 ふつうならそこで損切をした上で、会社をやめる。
が、その男性はそのあと、8年もその会社にしがみついた。
「しがみついた」というより、恨みを晴らそうとした。
土地の価格が再び暴騰するのを待った。

 で、現在はどうかというと、家も借家もすべて失い、息子氏の家に居候(いそうろう)
をしている。
今にして思うと、その男性は、(恨み)の呪縛から身をはずすことができなかった。
そういうことになる。

●心的エネルギー

 (恨み)の基底には、欲得がからんでいる。
満たされなかった欲望、中途半端に終わった欲望、裏切られた欲望など。
「四谷怪談」のお岩さんには、金銭的な欲得はなかったが、たいていは
金銭的な欲得がからんでいる。
しかし人を恨むのも、疲れる。

 私も若いころ信じていた伯父に、二束三文の荒地を、600万円という高額
で買わされたことがある。
これは事実。
そのあとも10年近くに渡って、「管理費」と称して、毎年8~10万円の
現金を支払っていた。
これも事実。
(その伯父はことあるごとに、私のほうを、「たわけ坊主(=郷里の言葉で、バカ坊主)」
と呼んでいる。)

 が、それから35年。
つまり数年前、その土地が、70万円で売れた。
値段にすれば10分の1ということになる。
が、おかげで私は自分の中に巣食っていた(恨み)と決別することができた。
それを思えば、530万円の損失など、何でもない。
・・・というほど、(恨み)というのは、精神を腐らす。
心の壁にぺったりと張りついて、いつ晴れるともなく、悶々とした気分にする。

●『人を恨むというのは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』

 私はこの言葉を知ったとき、「そうだった!」と確信した。 
『人を恨むというのは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』と。
心を腐らすくらいなら、損は損として早くその損とは決別する。
決別して忘れる。
忘れて、一歩前に進む。
でないと、それこそ「家に火をつける」ようなことになってしまう。
つまり人生そのものを、無駄にしてしまう。
人生も無限なら、それもよいだろう。
しかし人生には限りがある。
その人生は、お金では買えない。

 実のところ私も、この7か月間、大きな恨みを覚えていた。
理由はともあれ、先にも書いたように、人を恨むのも疲れる。
甚大なエネルギーを消耗する。
だから自ら、恨むのをやめようと努力した。
が、そうは簡単に消えない。
時折、心をふさいだ。
不愉快な気分になった。

 しかし「家に火をつけるようなもの」とはっきり言われて、自分の心に
けじめをつけることができた。
とたん心が軽くなった。
恨みが消えたわけではないが、消える方向に向かって、心がまっすぐ動き出した。
それが実感として、自分でもよくわかる。

 最後にこの言葉を書き残したHenry Fosdickという人は、どんな人なのか。
たいへん興味をもったので、調べてみた。

●Henry Fosdick

英米では、その名前を知らない人がないほど、著名な作家だった。
こんな言葉も残している。

The tragedy of war is that it uses man's best to do man's worst.
(戦争の悲劇は、人間がもつ最善のものを、最悪のために使うところにある。)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 恨み 恨み論 人を恨む ネズミを追い出す 家に火をつける)


Hiroshi Hayashi++++++July 2010++++++はやし浩司

●老後の健康論

●慣れないことはするな

 老後が近づいてくると、みな、それぞれの健康法を考える。たいていはそれまでの健康法を延長する。が、中には、新しい方法を試みる人がいる。私もそうだった。とたん私のばあい、足の指先を痛めた。夜中にジョギングをしたときのことだった。一方、サイクリングには自信がある。今でも高校生たちと競争したりする。20代のときからつづけているため、そのためにどうこうなることはない。要するに、慣れないことはするな。


●体重は平均体重x0・8

 平均体重というのは、若い人を基準にしている。老人は無視。そこで老人の平均体重は、若い人の平均体重x0・8くらいが、よい。「0・8」という数字はあいまいなものだが、経験的には正しい。70歳を過ぎても、スタスタと歩いている人に、太っている人はいない。みな、細身。見たところ、平均体重の「0・8」程度。だから「0・8」。


●腰とひざ

 老化は腰とひざから始まる。腰を痛める・・・。ひざを痛める・・・。それがそのまま持病となって定着する。定着したまま、じわじわと健康を蝕(むしば)んでいく。そのためにも、自分の歩き方を一度、客観的に見てみるとよい。鏡に映してみるという方法もある。私のばあいは、ビデオカメラに映してみて、歩き方のおかしさを知った。ひざを痛めるのは、時間の問題?


●昼寝(朝寝坊)

 昼寝は健康にもよいそうだが、最近の研究によれば、ボケ防止にもなるという。ただし長く眠るのはよくないそうだ。時間にすれば、15~30分程度とか。また私たち夫婦のばあい、朝は起きたいときに起きる。目覚まし時計とは無縁。ずいぶんとだらしない生活に思う人もいるかもしれないが、結婚したときから、そういう生活をしている。


●「食べたら損ねる」を口ぐせに

 食物を前にしたら、「食べたら損ねる」を心の中で念ずる。「食べなければ損」と思ったら、それこそ悪魔のささやき。食べすぎてよいことは、何もない。料理でも「味」が大切。味だけ味わって、そこでやめる。とくに戦後生まれの私たちは、食べ物にこだわる。・・・こだわりやすい。だからこそ「食べたら損ねる」を口ぐせに。


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2010++++++はやし浩司

●釈迦が説いた自由論

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釈迦はクシナガラの郊外、シャーラ
(沙羅)樹の林の中で、最後の教え
を説いたという(仏教聖典)。

弟子たちよ、おまえたちは、おのおの、
自らを灯火(ともしび)とし、
自らをよりどころとせよ、
他を頼りとしてはいけない。

この"法"を灯火とし、よりどころと
せよ。他の教えをよりどころとしては
いけない。

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●自由

 「自由」という言葉がある。この言葉は、もともとは、「自(みずか)ラニ由(よ)ル」、あるいは「自ラニ由ラセル」という意味である。

 つまり、(自分で考え)、(自分で行動し)、(自分で責任を取る)ことを、「自由」という。

 釈迦は、仏教聖典(仏教伝道協会発行)によれば、最後に、まさにその「自由」について説いたことになる。

 ついでながら、私が知るかぎり、釈迦が、「前世」とか「来世」とか、そんなことを説いた形跡は、どこにもない。あるとすれば、釈迦滅後、数百年を経て書かれた経典の中だけである。そうした経典は、ヒンズー教の影響を、モロに受けている。

 それはともかくも、釈迦は、つぎのようにつづける。

『わが身をみては、その汚れを思って、
貪(むさぼ)らず、苦しみも楽しみも、
ともに苦しみの因(もと)であると思って、
ふけらず、わが心を観(み)ては、その
中に「我」はないと思い、それらに
迷ってはならない。そうすれば、すべての
苦しみを断つことができる。
わたしがこの世を去った後も、このように
教えを守るならば、これこそわたしの
まことの弟子である』と。

●煩悩(ぼんのう)

 釈迦によれば、私たちの心というのは、基本的には、「汚れている」ということになる。だから、その汚れた心のまま、「貪ってはならない」と。つまり貪欲になってはいけない、と。もっとわかりやすく言えば、情欲の命ずるまま、貪欲になってはいけない、と。

 そしてそれを受けて、『苦しみも楽しみも、ともに苦しみの因であると思って、それにふけってはいけない』と。

 同じようなことが、東洋医学のバイブルとも言われる、(黄帝内経・素問・上古天真論篇)の中にも書いてある。「(健康の奥義は)、精神的にも悩みはなく、平静楽観を旨とし、自足を事とする」と。

 つまり「楽しいから」といって、享楽的に、それにふけってはいけないということ。それはそのとおりで、1人の人の(楽しみ)は、どこか別のところで、別の人の(苦しみ)の上に成り立っていることが多い。あるいは享楽的に生きれば生きるほど、その反動は、かならず、自分自身にやってくる。

またつぎの『わが心を観(み)ては、その中に「我」はないと思い、それらに迷ってはならない』の部分は、フロイトのリピドー論を重ねてみると、意味がよくわかる。

 私たちを根源的な部分で動かしているのは、リピドー、つまり性的エネルギーである。さらにつっこんで言えば、「子孫存続本能」ということになる。もちろん私たちはそれだけで生きているわけではないが、しかし私たちの日常的な行動すべては、どこかでその本能と結びついている。

 それがわからなければ、ほかの動物や植物をみればよい。私たち人間も、その一部でしかない。

●どこまでが「私」?

 釈迦は、「私たちの中には、『私』という部分は、本当はないのだ」と説いている。つまり「私は私」と思っている部分にしても、そう思っているだけで、実際には、私ではない、と。

 たとえば若い女性が、化粧をする。その女性は、「私は自分の意思で化粧をしている」と思っているかもしれないが、その意思とて、作られたものにすぎない。結婚前の女性であれば、まさに「子孫存続」のための、その準備行動をしているにすぎない。

 実際、私の中の「私」をみつめてみると、どこからどこまでが、「私」で、どこからどこまでが「私」でないか、それがよくわからないときがある。たとえばもうすぐ60歳という、この年齢になっても、性欲は残っている。ときどきエロビデオを見たいという欲求もわいてくる。

 しかしそう思うのは、ここでいう(私であって私でない部分)ということになる。だからつづく行動、たとえばエロビデオ店へ行って、見たいエロビデオを選んだり、買ったりするのも、(私であ
って私でない部分)ということになる。

 しかしこんなことをおおっぴらに言えば、(すでにおおっぴらに言っているが)、「教育評論家と呼ばれている男が、何を言うか!」と、非難される。だから私は、こういうことは隠そうとする。「私は、そういうエロビデオは見ていません」というフリをする。

 「私」がかろうじてあるとすれば、その(隠そうという)部分、もしくは(フリをしている)部分にでしかない。

●苦しみは煩悩から

要するに、私たちが日常生活でいうところの(苦しみ)などというものは、総じてみれば、(私であって私でない部分)から生じている。だから釈迦はこう言う。『私の中に、「我」はないと思い、それらに迷ってはならない。そうすれば、すべての苦しみを断つことができる』と。

 もう一歩先を言えば、「私は私」と思うから、そこから苦しみが生まれる。「私の財産」「私の名誉」「私の地位」と。ならば、最初から、運命を受け入れ、それに従えばよい。へたに「私」にこだわるから、人は苦しむ。悩む。釈迦もこう言っている。

 『……いたずらに悲しむことはやめて、
 この無常の道理に気がつき、人の世の
 真実のすがたに眼をさまさなければ
 ならない。

 変わるものを変わらせまいとするのは、
 無理な願いである。

 煩悩(ぼんのう)の賊(ぞく)は、
 常におまえたちのすきをうかがって、
 倒そうとしている。

 もしおまえたちの部屋に毒蛇が住んで
 いるのなら、その毒蛇を追い出さない
 かぎり、落ちついてその部屋で、
 眠ることはできないであろう。

 煩悩の賊は追わなければならない。
 煩悩の蛇(へび)は、出さなければ
 ならない。

 おまえたちは慎(つつし)んで、
その心を守るのがよい』(同書)

 あとは、その瞬間、瞬間を、懸命に生きること。ただひたすら懸命に生きること。それがどんな結果で終ろうとも、それも運命。そのときはそのときで、その運命を、静かに受け入れれば、それでよい。

 釈迦が説いた「自由」とは、まさに「私」を求める戦いであったということになる。わかりやすく言えば、「私」を、「私の中の私でない部分から解放させる」。それが真の自由につながる、と。釈迦は、それを説いた。

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黄帝内経・素問・上古天真論篇
について書いた原稿を、添付
します。(中日新聞発表済み)

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●子育ては自然体で

 『子育ては自然体で』とは、よく言われる。しかし自然体とは、何か。それがよくわからない。
そこで一つのヒントだが、漢方のバイブルと言われる『黄帝内経・素問』には、こうある。これは健康法の奥義だが、しかし子育てにもそのままあてはまる。

いわく、「八風(自然)の理によく順応し、世俗の習慣にみずからの趣向を無理なく適応させ、恨み怒りの気持ちはさらにない。行動や服飾もすべて俗世間の人と異なることなく、みずからの崇高性を表面にあらわすこともない。身体的には働きすぎず、過労に陥ることもなく、精神的にも悩みはなく、平静楽観を旨とし、自足を事とする」(上古天真論篇)と。難解な文章だが、これを読みかえると、こうなる。

 まず子育ては、ごくふつうであること。子育てをゆがめる三大主義に、極端主義、スパルタ主義、完ぺき主義がある。極端主義というのは、親が「やる」と決めたら、徹底的にさせ、「やめる」と決めたら、パッとやめさせるようなことをいう。

よくあるのは、「成績がさがったから、ゲームは禁止」などと言って、子どもの趣味を奪ってしまうこと。親子の間に大きなミゾをつくることになる。スパルタ主義というのは、暴力や威圧を日常的に繰り返すことをいう。このスパルタ主義は、子どもの心を深くキズつける。また完ぺき主義というのは、何でもかんでも子どもに完ぺきさを求める育て方をいう。子どもの側からみて窮屈な家庭環境が、子どもの心をつぶす。

 次に子育ては、平静楽観を旨とする。いちいち世間の波風に合わせて動揺しない。「私は私」「私の子どもは私の子ども」というように、心のどこかで一線を引く。

あなたの子どものできがよくても、また悪くても、そうする。が、これが難しい。親はそのつど、見え、メンツ、世間体。これに振り回される。そして混乱する。言いかえると、この三つから解放されれば、子育てにまつわるほとんどの悩みは解消する。

要するに子どもへの過剰期待、過関心、過干渉は禁物。ぬか喜びも取り越し苦労もいけない。
「平静楽観」というのは、そういう意味だ。やりすぎてもいけない。足りなくてもいけない。必要なことはするが、必要以上にするのもいけない。「自足を事とする」と。実際どんな子どもにも、自ら伸びる力は宿っている。そういう力を信じて、それを引き出す。子育てを一言で言えば、そういうことになる。

さらに黄帝内経には、こうある。「陰陽の大原理に順応して生活すれば生存可能であり、それに背馳すれば死に、順応すれば太平である」(四気調神大論篇)と。おどろおどろしい文章だが、簡単に言えば、「自然体で子育てをすれば、子育てはうまくいくが、そうでなければ、そうでない」ということになる。

子育てもつきつめれば、健康論とどこも違わない。ともに人間が太古の昔から、その目的として、延々と繰り返してきた営みである。不摂生をし、暴飲暴食をすれば、健康は害せられる。精神的に不安定な生活の中で、無理や強制をすれば、子どもの心は害せられる。栄養過多もいけないが、栄養不足もいけない。

子どもを愛することは大切なことだが、溺愛はいけない、など。少しこじつけの感じがしないでもないが、健康論にからめて、教育論を考えてみた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 釈迦論 釈迦の自由論 釈迦の実存主義 現実主義)


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2010++++++はやし浩司