●仮面とシャドウ
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彡彡人ミミ 彡彡彡彡彡
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子育て最前線の育児論byはやし浩司 8月 16日号
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選ばれました!
【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●ほたる(Firefly)(7月17日)
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夜中にふと、窓の外を見た。
時刻は午前2時ごろ。
ワイフがトイレに起きた、そのあとのことだった。
網戸と窓が見えた。
が、その向こうに、なにやら光るもの。
ぼんやりと、やさしく光っては、
おなじようにやさしく消える。
私は思わず、声をあげた。
「ほたる!」と。
その声に驚いて、ワイフが寄ってきた。
「あら……」と。
網戸を開けた。
窓の外を見た。
1つや2つではなかった。
20……、
30……。
それぞれが深い草の中で光っていた。
うれしかった。
どういうわけか、うれしかった。
「ほたるだよ」
「本当ね、ほたるだわ」
「こんなところに出るなんて!」
「こんなところに出るなんて!」と。
窓からは数メートルも離れていない。
裏手が低い土手になっている。
そこにほたるはいた。
飛んでいなかった。
枝につかまって、じっとしていた。
そんな様子だった。
私とワイフは、時間を忘れて、
その光に見とれた。
……子どものころが思い浮かんできた。
私はかごにつめたほたるを、一晩中ながめていた。
独特のにおい。
そしてあの光。
そんな自分が、たまらなく懐かしい。
「まだ幼虫なのかしら」とワイフが言った。
「そうかもね……」と。
私は懐中電灯を手にすると、庭に出た。
土手に向かった。
ほたるは、まだそこにいた。
私に警戒するふうでもなく、やさしい光を
放っていた。
ホワ~ンと光り、またホワ~ンと消える。
それを静かに繰り返していた。
が、懐中電灯でそのあたりを照らすたびに、
写真のネガとポジが入れ替わるように、
景色が一変する。
遠近感が狂う。
光る方向をしっかりと定めながら、
懐中電灯をつける。
数回、それを繰り返す。
「いた!」
細い枝に、5ミリ~1センチくらいのホタル。
まだ色は茶色い。
幼虫のようだ。
枝ごと折る。
ワイフに見せたかった。
が、折ったとたん、どこかへ消えた。
「ま、いいか」と思って、その場を去る。
再び、うれしさがこみあげてきた。
裏庭で、ほたるを見た。
自分の家の裏庭で、ほたるを見た。
それがどういうわけか、うれしかった。
家に入り、再び寝室へ。
が、ワイフは、もういびきをかいて眠っていた。
のんきな女性だ。
私は静かにふとんをかぶると、電灯を消した。
「どうすれば写真に撮れるだろう……」と、
そんなことを、私は懸命に考えていた。
「今度買ったソニーのコンデジではだめだろうか?」と。
この夏に、もう一度、チャレンジしてみる。
ほたるの写真を撮ってみる。
+++++++++++++++++++++
2010/07/17朝
【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【映画『インセプション』を10倍、楽しむ法】
++++++++++++++++++
昨夜遅く、映画『インセプション』を観てきた。
土曜日の夜ということで、かなり混雑していた。
『インセプション』……渡辺謙とレオナルド・
ディカプリオ主演。
『ダークナイト』のクリストファー・ノーラン監督作品。
原題は、『Inception』。
「発端」という意味だが、その中身は、心理学用語を
借りるなら、「無意識的動機」ということになる。
相手(ターゲット)の深層心理の奥の奥まで入り込み、その人の
深層心理を操作する。
それがこの映画の柱になっている。
ただし字幕の翻訳が、荒いというか、省略が多すぎて、
字幕だけを読んでいたのでは、映画の意味はわからない。
私も久しぶりに、字幕のほうを参考程度に抑え、
英語を懸命に聞きながら、映画を観た。
星はもちろん5つ星の、★★★★★。
映画『マトリックス』に匹敵するほど、おもしろかった。
楽しんだ。
同時に、強烈なインパクトを私に与えた。
++++++++++++++++++
●深層心理
フロイトは人間の心理を、
(1)意識
(2)前意識
(3)無意識の3つに分けた。
映画『インセプション』を観るときは、無意識を2つに分けて考えるとよい。
(3)の無意識と、(4)深層無意識である。
仏教でも、意識を(1)末那識(まなしき)と、(2)阿頼那識(あらやしき)の
2つにわける。
末那識というのは、意識の総称。
阿頼那識というのは、現代心理学でいう、「無意識」、あるいはさらにその奥深くに
ある、深層無意識ということになる。
この中の(3)前意識というのは、「ぼんやりしているときや、夢を見ているとき」に
働いている部分(「心理学のすべて」深堀元文)をいう。
意識を氷山の一角とするなら、その下には膨大な大きさの前意識や無意識、さらには、
深層無意識の世界が広がっている。
●夢の中でまた夢を見る……
映画『インセプション』は、つぎの段階を経て、夢の中の夢の世界、さらにはそのまた
夢の世界へと入っていく。
(1)現実の世界(飛行機747の世界)
その世界から、つぎの第1の夢の世界に入る。
これを第1夢の世界という。
壮絶なカーチェイスを繰り返す。
(2)その第1夢の世界から、つぎの第2の夢の世界に入る。
これを第2夢の世界という。
どこかのホテルで、これまた壮絶な戦闘行為を繰り返す。
(3)さらにそこでの窮地を逃れるため、ディカプリオたちは、第3の夢の世界に入る。
これを第3夢の世界という。
どこかの雪原に建つ要塞で、さらに壮絶な戦闘行為を繰り返す。
映画『インセプション』の中では、そこまで断言していないが、私流に勝手に解釈する
と、第1夢の世界は、「前意識」の世界。
第2夢の世界は、「無意識」の世界。
第3夢の世界は、「深層無意識」の世界ということになる。
●字幕
夢を多人数で共有しながら、特定の人物(ターゲット)の深層無意識の世界まで
入り込み、そこで無意識的動機を作りあげる。
つまりその人物(ターゲット)の意識を作りかえ、自分たちにとって都合のよい人間
に作り変える。
それがこの映画の「柱(目的)」になっている。
……もっとも、ここまで書いたら、映画のおもしろさが半減すると考える人もいるかも
しれない。
しかしあの映画は、字幕だけを読んでいたら、何がなんだか訳がわからなくなる。
そのためにも、こうした解説は必要かと思う。
映画会社には申し訳ないが、これはほとんど毎週、映画を観ている私の率直な感想。
字幕翻訳した人も、映画の内容を理解しきった上で、翻訳したのだろうか?
そんな疑問もないわけではない(失礼!)。
●伏線
で、この映画には、重大な伏線がある。
マリオン・コティヤールが演ずる、「コブ(ディカプリオ)」の妻、モルである。
妻、モルは、コブと夢の世界で50年近くの年月を過ごす。
(夢の世界で50年を過ごしても、現実の世界では、その数百分の1の時間しか、
過ぎていない。
だから夢の世界で、老人になっていた2人も、現実の世界では元の若い夫婦にもどる。)
そのためモルは、夢と現実の世界の区別がつかなくなってしまう。
夢の世界のほうを、現実の世界と思いこんでしまう。
現実の世界のほうを、夢の世界と思いこんでしまう。
そのため、現実の世界へ戻ってきたあとも、モルは、そこを現実の世界とわからなく
なってしまう。
モルは、自殺を試み、本当に死んでしまう。
映画の中では、「死ねば、元の世界に戻れる」というルールになっている。
で、コブ(ディカプリオ)に、殺人の容疑がかけられてしまう。
モルは、夫であるコブにも死んでもらいため、ウソの遺書を残す。
「私は夫に殺されそうです」と。
コブ(ディカプリオ)は、そのためアメリカを出て、世界中を逃げ回る……。
そのことがトラウマとなって、コブ(ディカプリオ)の見る夢の中には、しばしば
モル(マリオン・コティヤール)が出没する。
コブ(ディカプリオ)の仕事をじゃまする。
映画の中では、「投影」という言葉が出てきた。
●「投影」
映画の中ではときどき、「投影(reflection)」という言葉が出てきた。
しかし正確には、「投射」のことではないのか?
投射というのは、防衛機制(メカニズム)の一つで、「失敗の原因が自分のほうにあるのに、
他に責任があるように強調すること」
「試験に失敗すると、『教え方や採点法が悪い』と教師を攻撃するのが例」(「臨床心理学・
松原達哉)とある。
つまりコブ(ディカプリオ)の夢の中に出てくるモル(マリオン・コティヤール)は、
コブの別の心が投射されたシャドウ(影)というわけである。
犯罪を犯すコブ。
それをよしとしないコブの良心が、コブの仕事をじゃまする。
心理学の世界でも、抑圧され、心の別室に封印された自己を、「シャドウ」(ユング)と
いう。
そのシャドウが、もろもろの場面で、コブの障害となって立ちはだかる……。
この映画を書いた脚本家は、そういう点でも、かなり心理学に詳しい人物と言ってよい。
●サイトー
映画といっても、SF映画。
あとはSF映画風に、随所にアレンジが加えられている。
たとえば夢の世界で死ねば、元の世界に戻れるとか。
そのあたりは、あまり深刻に考えないで、映画を楽しめばよい。
また夢の世界の設計者というのもいる。
多人数が共通した夢を見るため、いわゆる舞台が同じでなければならない。
その「舞台」を設計するのが、その人物である。
それを演じたのが、エレン・ペイジ。
映画の中でも、「設計士」という名前で登場する。
で、目的は何か。
つまりコブが、ターゲットの夢の、そのまた夢の、さらにそのまた夢の中にまで
入って、ターゲットの「無意識的動機」を作る目的は何か。
そこで登場するのが、渡辺謙。
「サイトー」という名前で登場する。
大企業の会長である。
彼はコブ(ディカプリオ)の犯罪のもみ消しを条件に、コブにターゲットの会社を
解体するように依頼する。
つまりターゲット(ロバート、ライバル企業の跡取り息子)の夢の中に入り込み、
無意識的動機をつくる。
「会社を解体する」という無意識的動機である。
その成功報酬として、コブは、サイトーに妻殺しをもみ消してもらう……。
●エンディングの謎
最後にみな、(第3夢の世界)→(第2夢の世界)→(第1夢の世界)という段階
を経て、順に死に、最終的には、間一髪のところで(現実の世界)に戻ってくる。
ターゲットの深層心理の中には、「会社を解体する」という深層心理がしっかりと形成
される。
作戦は成功ということになる。
映画も、ここでハッピーエンドとなる。
コブ(ディカプリオ)は、晴れてふつうの市民として、アメリカ本土に入国する。
……できる。
2人の自分の子どもに出会う。
抱き上げる……。
が、ここで新たな謎?
テーブルの上のコマは回ったまま……。
その状態で映画は終わる。
そのコマが何を意味するかは、映画を観てからのお楽しみ!
で、私にも、理解しがたい部分が残った。
それがつぎの部分。
冒頭と最後のシーンで、コブ(ディカプリオ)は、サイトー(渡辺謙)に会う。
そのときコブは、若い男のまま。
サイトーは、老人になっている。
ということは、そのシーンそのものが、夢の中ということになる。
言うなれば、こういうこと。
最後の最後で、映画『インセプション』は、私たち観客を再び底なしの謎の世界に、
もう一度、突き落とした。
私たちの脳みそをひっくり返した。
もちろん衝撃と、新たな話題を作るため。
私はそのトリックにひかかり、今、こうして映画『インセプション』について書いて
いる。
「あのシーンは何だったのか?」と懸命に考えている。
なおワイフは、こう言っている。
「今度、もう一度、DVDを借りてきて観る」と。
内容的には、つまりそれくらい複雑な映画……というより、字幕の翻訳が悪い。
……悪かった。
なお類似した映画に、『シャッターアイランド』(同、ディカプリオ主演・前作)が
ある。
こちらは、最初から「そうではないかなあ」と思った、その通りの映画だった。
手品で言えば、トリックがすぐわかった。
が、今回の『インセプション』は、予想できなかった。
それだけにおもしろかった。
一見の価値あり。
どうせ観るなら、ここに書いたことを参考に、劇場で観るとよい。
迫力がちがう!
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
BW はやし浩司 インセプション デイカプリオ)
++++++++++++++++++
以前、書いた原稿を添付します。
++++++++++++++++++
●投射
++++++++++++++++++++++
昔から、『泥棒の家は、戸締りが厳重』という。
自分が泥棒だから、ほかの泥棒が気になる。
わかる、わかる、その気持ち!
人の物を盗んでいるから、盗まれることを心配する。
自分の心の中に邪悪な心があるから、ほかの人にもあると
思い込む。
それで気になる。
戸締りに厳重になる。
同じように、若い女性を相手に、したい放題のことを
している人がいる。
浮気、不倫、援助交際。
中身は何でもよい。
そういう人ほど、自分の娘の交際にきびしい。
娘の帰宅時刻が少し遅れただけで、大騒ぎする。
「男と遊んでいたのだろ!」と、娘を叱ったりする。
人はだれしも、欠点や弱点をもっている。
その欠点や弱点を気にしているから、他人の
中に同じものを見ると、それが気になる。
あるいは、それに気づきやすい。
こんなことがあった。
20年ほど前のこと。
たいへん勉強の苦手な子ども(中1男子)がいた。
いろいろあった。
私も苦労した。
見た目には、おとなしく、静かな子どもだった。
が、ある日のこと。
その子ども(中学生)を、小学生のクラスで
教えていた。
ふと見ると、その子どもが、
数歳も年下の子どもを、こう言って、いじめていた。
「バカだなあ、お前。こんな問題もできないのか!」と。
言い方が、陰湿だった。
ぞっとするほど陰湿だった。
その子ども(中1男子)のばあい、「抑圧」という
言葉を使って、心の状態を説明できる。
勉強ができないということで、日ごろからそれを
負担に感じていた。
それから生ずる不満を、心の中に別室を作り、
そこへ閉じ込めていた。
それがそのとき爆発した。
が、そのきっかけとなった力が、「投射」という
ことになる。
勉強ができない小学生を見たとき、その小学生の中に
自分の姿を見た。
そこで(勉強ができない)という自分のいやな部分を、
その小学生にぶつけて、その小学生をいじめた。
もうひとつ、こんな例がある。
私の知り合いの中に、病的なほどウソを
つく人がいる。
ウソをウソと思っていない。
その場しのぎのいいかげんなことばかり言う。
そのあとケロッと自分の言ったことを
忘れてしまう。
ある日、その人と話していたときのこと。
私が「先日、あなたはこう言いましたよ」
と指摘すると、突然取り乱して、こう叫んだ。
「どうしたあなたは、そういうウソを
つくのですかア! ウソつき!」と。
この言葉には、呆(あき)れた。
自分ではさんざんウソばかり言っておきながら、
私に向かって、「ウソつき!」は、ない。
『ウソつきほど、他人のウソにきびしい』。
そういうことなら、私にも話がわかる。
これも投射のひとつということになる。
+++++++++++++++++++++
●投射
難しい言葉はさておき、自分に似た人を見ると、ほっとするときがある。
反対に、ぞっとするときもある。
そのちがいはと言えば、自分と同じようなよい面をもっている人には、ほっとした安堵感
を覚える。
反対に、自分と同じような邪悪な面をもっている人には、イヤ~な嫌悪感を覚える。
たとえば自分がケチだったとする。
が、そういう人にかぎって、外の世界では、おおらかなフリをする。
ことさら、自分は、ケチでないことを強調する。
あるいは子どもの世界では、子どもに神経質な親ほど、「私は、子どもにはしたいように
させています」などと言ったりする。
あるいは家の中で、「勉強しなさい」とガミガミ言う親ほど、「私は子どもに、勉強しなさ
いと言ったことはありません」などと言ったりする。
自分の欠点、弱点をよく知っている人ほど、そういう形で、他人の目をごまかす。
そして、同じような欠点、弱点をもっている人を見ると、自分の欠点や弱点を、その人に
投げつけて、その人を攻撃する。
「あの人は、ケチ」とか、「あの人は、子どもに神経質すぎる。子どもがかわいそう」とか、
など。
一見複雑に見える人間の心だが、こうして類型化していくと、理解しやすい。
そのために心理学というのがある。
相手が人間だけに、おもしろい。
その一例として、「投射」をあげてみた。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
BW はやし浩司 防衛機制 投射 投影 心の別室 抑圧)
Hiroshi Hayashi+++++++July. 2010++++++はやし浩司
【シャドウ論】
●仮面(ペルソナ)
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ペルソナ(仮面)そのものを、職業にしている人たちがいる。
いわゆる「俳優」という人たちが、それである。
で、あくまでも一説だが、あの渥美清という俳優は、本当は気難し屋で、
人と会うのをあまり好まなかったという(某週刊誌)。
自宅のある場所すら、人には教えなかったという(同誌)。
が、その渥美清が、あの『寅さん』を演じていた。
寅さんを演じていた渥美清は、ペルソナ(仮面)をかぶっていたことになる。
といっても、ペルソナ(仮面)が悪いというのではない。
私たちは、例外なく、みな、仮面をかぶって生きている。
私もそうだし、あなたもそうだ。
++++++++++++++++++++
●みな、かぶっている
たとえばショッピングセンターで、深々と頭をさげる女子店員を見て、
「人間的にすばらしい人」と思う人は、まずいない。
顔には美しい笑みを浮かべている。
何か苦情を言ったりしても、おだやかな口調で、「すみません。ただ今、
お調べいたします」などと答えたりする。
彼女たちは、営業用のペルソナ(仮面)をかぶって、それをしている。
同じように、教師だって、医師だって、みな、ペルソナ(仮面)を
かぶっている。
最近では、さらにそれが進化(?)した。
インターネットの登場である。
今、あなたは、私が書いたこの文章を読んでいる。
で、あなたはそれを読みながら、「はやし浩司」のイメージを頭の中で
作りあげている。
心理学の世界では、これを「結晶」と呼んでいる。
そのあなたが作りあげているイメージは、どんなものだろうか。
私にはわからない。
それに結晶といっても、その中身は、みなちがう。
ある人は、「林って、理屈っぽい、気難しい男だな」と思うかもしれない。
また別のある人は、「わかりやすい、単純な男だな」と思うかもしれない。
文章を読む人の、そのときの気分によっても、左右される。
映画なら、まだそこに「像」を見ながら、相手のイメージを頭の中で
作りあげることができる。
しかし文章だけだと、それがさらに極端化する。
それがこわい。
●相手の見えない世界
以前にも書いたが、たとえばメールで、「お前はバカだなあ」と書いたとする。
書いた人は、半ば冗談のつもりで、つまり軽い気持ちでそう書いた。
しかし受け取る側は、そうではない。
そのときの気分で、読む。
たとえば何かのことで、その人の心が緊張状態にあったとする。
だから、それを読んで激怒する。
「何だ、バカとは!」となる。
もっとも小説家といわれる人たちは、こうした結晶を逆手に利用しながら、
読者の心を誘導する。
よい例が、スリラー小説ということになる。
恋愛小説でもよい。
たとえば「A子は、みながうらやむほどの、色白の美人であった」と書いてあったとする。
それぞれの人は、それぞれの美人を空想する。
その美人の姿は、それぞれの人によって、みなちがう。
●現実
が、ここで重要なことは、ペルソナ(仮面)は、ペルソナ(仮面)として、
(現実)とは、しっかりと切り離すこと。
たとえば学生時代、私にとっては、「ベン・ハー」イコール、
「チャールトン・ヘストン」であり、「チャールトン・ヘストン」イコール、
「ベン・ハー」であった。
私には区別がつかなかった。
しかしこうした現象は、何も私だけに起きた特殊なものではない。
映画ドラマの中の主人公を、(現実の人)と思いこんでしまう現象は、
よく見られる。
しかも若い人たちだけではない。
40歳前後の女性ですら、それが区別できなくて、韓国の俳優を追いかけたり
する。
が、相手を見るときはもちろんのこと、自分自身に対してもである。
ペルソナ(仮面)と(現実)は切り離す。
とくに、自分がかぶっているペルソナ(仮面)には、警戒したほうがよい。
この操作を誤ると、自分で自分がわからなくなってしまう。
欧米では、牧師に、そのタイプの人が多いと言われている。
みなの前で、神の言葉を語っているうちに、自分自身が(現実)から遊離してしまい、
自分のことを(神)と思いこんでしまう。
が、それだけではすまない。
●シャドウ
このとき同時に、自分の中にある(邪悪な部分)を、心の中に別室に閉じこめて
しまう。
閉じこめながら、自分を善人と思いこんでしまう。
こうした現象を、あのユングは「シャドウ(影)」という言葉を使って説明した。
このシャドウが、別のところで、別人格となって、その人を裏から操る。
大教会の神々しいほどまでの牧師が、その裏で、少年や少女を相手に、性犯罪を
繰り返していたという例は、欧米では、たいへん多い。
が、さらに恐ろしいことが起きる。
このシャドウは、ときとして、そっくりそのまま子どもに伝わることがある。
心理学の教科書に出てくる例として、あの映画『復讐するは、我にあり』がある。
それについては以前にも書いたので、このあとに、そのとき書いた原稿を添付
しておく。
こういう例は極端な例であるとしても、親子の間でも、こうした現象はよく
観察される。
●シャドウを受けつぐ子ども
ある母親は、世間では「仏様」と呼ばれていた。
しかし2人の息子は、高校時代、ともに犯罪行為を犯し、退学。
周囲の人たちは、「どうしてあんないい母親なのに、息子さんたちは……?」と
言っていた。
が、こうした現象も、シャドウ論をあてはめてみると、説明がつく。
母親は、邪悪な部分、たとえば嫉妬、ねたみ、恨み、不満などを、心の中の別室に
閉じことによって、善人を演じていただけである。
そのシャドウを、いつも近くで見ていた息子たちが、受けついでしまった。
では、どうするか。
私たちはいつもペルソナ(仮面)をかぶっている。
それはそれでしかたのないこと。
ショッピングセンターの女子店員が、客に向って、「オイ、テメエ、そこの客、
泥靴なんかで、この店に来るなよ!」と叫べば、その女子店員は、そのまま解雇。
職を失うことになる。
この私だって、そうだ。
で、大切なことは、それをペルソナ(仮面)と、はっきりと自覚すること。
そして脱ぐときは、脱ぐ。
脱いで、自分に戻る。
ありのままの自分に戻る。
それをしないでいると、それこそ人格そのものが、バラバラになってしまう。
これはたいへん危険なことと考えてよい。
+++++++++++++++++
シャドウについて書いた原稿を
添付します。
+++++++++++++++++
【シャドウ論】
++++++++++++++++
仮面をかぶっても、仮面をぬぐことも
忘れないこと。
その仮面をぬぎ忘れると、たいへんな
ことになりますよ!
++++++++++++++++
●自分の中の、もう1人の自分
もともと邪悪な人がいる。そういう人が仮面をかぶって、善人ぶって生きていたとする。
するとやがて、その人は、仮面をかぶっていることすら、忘れてしまうことがある。自分
で、自分は善人だと思いこんでしまう。
このタイプの人は、どこか言動が不自然。そのため簡単に見分けることができる。さも
私は善人……というように、相手に同情して見せたり、妙に不自然な言い方をする。全体
に演技ぽい。ウソっぽい。大げさ。
こういう話は、以前にも書いた。
そこでこのタイプの人は、長い時間をかけて、自分の中に、もう1人の自分をつくる。
それがシャドウである。ユングが説いたシャドウとは、少し意味がちがうかもしれないが、
まあ、それに近い。
このシャドウのこわいところは、シャドウそのものよりも、そのシャドウを、時に、身
近にいる人が、そっくりそのまま受けついでしまうこと。よくあるのは、子どもが、親の
醜いところをそっくりそのまま、受けついでしまうケース。
●仮面(ペルソナ)をかぶる女性
ある母親は、近所の人たちの間では、親切でやさしい女性で通っていた。言い方も、お
だやかで、だれかに何かを頼まれると、それにていねいに応じていたりした。
しかし素性は、それほど、よくなかった。嫉妬深く、計算高く、その心の奥底では、醜
い欲望が、いつもウズを巻いていた。そのため、他人の不幸話を聞くのが、何よりも、好
きだった。
こうしてその女性には、その女性のシャドウができた。その女性は、自分の醜い部分を、
そのシャドウの中に、押しこめることによって、一応は、人前では、善人ぶることができ
た。
が、問題は、やがて、その娘に現れた。……といっても、この話は、20年や30年単
位の話ではない。世代単位の話である。
その母親は、10数年前に他界。その娘も、今年、70歳を超えた。
●子に世代連鎖するシャドウ
その娘について、近所の人は、「あんな恐ろしい人はいない」と言う。一度その娘にねた
まれると、とことん、意地悪をされるという。人をだますのは、平気。親類の人たちのみ
ならず、自分の夫や、子どもまで、だますという。
その娘について、その娘の弟(現在67歳)は、こう教えてくれた。
「姉を見ていると、昔の母そっくりなので、驚きます」と。
話を聞くと、こうだ。
「私の母は、他人の前では、善人ぶっていましたが、母が善人でないことは、よく知っ
ていました。家へ帰ってくると、別人のように、大声をあげて、『あのヤロウ!』と、口汚
く、その人をののしっていたのを、よく見かけました。ほとんど、毎日が、そうではなか
ったかと思います。母には、そういう2面性がありました。私の姉は、その悪いほうの一
面を、そっくりそのまま受け継いでしまったのです」と。
この弟氏の話してくれたことは、まさに、シャドウ論で説明がつく。つまり、これがシ
ャドウのもつ、本当のおそろしさである。
●こわい仮面
そこで重要なことは、こうしたシャドウをつくらないこと。その前に、仮面をかぶらな
いこと。といっても、私たちは、いつも、その仮面をかぶって生きている。教師としての
仮面。店員としての仮面。営業マンとしての仮面。
そういう仮面をかぶるならかぶるで、かぶっていることを忘れてはいけない。家に帰っ
て家族を前にしたら、そういう仮面は、はずす。はずして、もとの自分にもどる。
仮面をとりはずすのを忘れると、自分がだれであるかがわからなくなってしまう。が、
それだけではない。こうしてできたシャドウは、そのままそっくり、あなたの子どもに受
けつがれてしまう。
(はやし浩司 仮面 ペルソナ シャドウ)
++++++++++++++++++
少し前に書いた、「シャドウ論」を、
もう一度、ここに添付しておきます。
内容を少し手なおしして、お届けします。
++++++++++++++++++
●仮面とシャドウ
だれしも、いろいろな仮面(ペルソナ)をかぶる。親としての仮面、隣人としての仮面、
夫としての仮面など。もちろん、商売には、仮面はつきもの。商売では、いくら客に怒鳴
られても、にこやかな顔をして、頭をさげる。
しかし仮面をかぶれば、かぶるほど、その向こうには、もうひとりの自分が生まれる。
これを「シャドウ(影)」という。本来の自分というよりは、邪悪な自分と考えたほうがよ
い。ねたみ、うらみ、怒り、不満、悲しみ……そういったものが、そのシャドウの部分で、
ウズを巻く。
世間をさわがすような大事件が起きる。陰湿きわまりない、殺人事件など。そういう事
件を起こす子どもの生まれ育った環境を調べてみると、それほど、劣悪な環境ではないこ
とがわかる。むしろ、ふつうの家庭よりも、よい家庭であることが多い。
●凶悪事件の裏に
夫は、大企業に勤める中堅サラリーマン。妻は、大卒のエリート。都会の立派なマンシ
ョンに住み、それなりにリッチな生活を営んでいる。知的レベルも高い。子どもの教育に
も熱心。
が、そういう家庭環境に育った子どもが、大事件を引き起こす。
実は、ここに(仮面とシャドウの問題)が隠されている。
たとえば親が、子どもに向かって、「勉強しなさい」「いい大学へ入りなさい」と言った
とする。「この世の中は、何といっても、学歴よ。学歴があれば、苦労もなく、一生、安泰
よ」と。
そのとき、親は、仮面をかぶる。いや、本心からそう思って、つまり子どものことを思
って、そう言うなら、まだ話がわかる。しかしたいていのばあい、そこには、シャドウが
つきまとう。
親のメンツ、見栄、体裁、世間体など。日ごろ、他人の価値を、その職業や学歴で判断
している人ほど、そうだ。このH市でも、その人の価値を、出身高校でみるようなところ
がある。「あの人はSS高校ですってねえ」「あの人は、CC高校しか出てないんですって
ねえ」と。
悪しき、封建時代の身分制度の亡霊が、いまだに、のさばっている。身分制度が、その
まま学歴制度になり、さらにそれが、出身高校へと結びついていった(?)。街道筋の宿場
町であったがために、余計に、そういう風潮が生まれたのかもしれない。その人を判断す
る基準が、出身高校へと結びついていった(?)。
この学歴で人を判断するという部分が、シャドウになる。
●ドロドロとした人間関係
そして子どもは、親の仮面を見破り、その向こうにあるシャドウを、そのまま引きつい
でしまう。実は、これがこわい。「親は、自分のメンツのために、オレをSS高校へ入れよ
うとしている」と。そしてそうした思いは、そのまま、ドロドロとした人間関係をつくる
基盤となってしまう。
よくシャドウ論で話題になるのが、今村昌平が監督した映画、『復讐するは我にあり』で
ある。佐木隆三の同名フィクション小説を映画化したものである。名優、緒方拳が、みご
とな演技をしている。
あの映画の主人公の榎津厳は、5人を殺し、全国を逃げ歩く。が、その榎津厳もさるこ
とながら、この小説の中には、もう1本の柱がある。それが三國連太郎が演ずる、父親、
榎津鎮雄との、葛藤(かっとう)である。榎津厳自身が、「あいつ(妻)は、おやじにほれ
とるけん」と言う。そんなセリフさえ出てくる。
父親の榎津鎮雄は、倍賞美津子が演ずる、榎津厳の嫁と、不倫関係に陥る。映画を見た
人なら知っていると思うが、風呂場でのあのなまめかしいシーンは、見る人に、強烈な印
象を与える。嫁は、義理の父親の背中を洗いながら、その手をもって、自分の乳房を握ら
せる。
つまり父親の榎津鎮雄は、厳格なクリスチャン。それを仮面とするなら、息子の嫁と不
倫関係になる部分が、シャドウということになる。主人公の榎津厳は、そのシャドウを、
そっくりそのまま引き継いでしまった。そしてそれが榎津厳をして、犯罪者に仕立てあげ
る原動力になった。
●いつのありのままの自分で
子育てをしていて、こわいところは、実は、ここにある。
親は仮面をかぶり、子どもをだましきったつもりでいるかもしれないが、子どもは、そ
の仮面を通して、そのうしろにあるシャドウまで見抜いてしまうということ。見抜くだけ
ならまだしも、そのシャドウをそのまま受けついでしまう。
だからどうしたらよいかということまでは、ここには書けない。しかしこれだけは言え
る。
子どもの前では、仮面をかぶらない。ついでにシャドウもつくらない。いつもありのま
まの自分を見せる。シャドウのある人間関係よりは、未熟で未完成な人間関係のほうが、
まし。もっと言えば、シャドウのある親よりは、バカで、アホで、ドジな親のほうが、子
どもにとっては、好ましいということになる。
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やし浩司 シャドウ 仮面 ペルソナ 結晶 はやし浩司 復讐するは我にあり シャド
ウ論 参考文献 河出書房新社「精神分析がわかる本」)
Hiroshi Hayashi+++++++July. 2010++++++はやし浩司※
【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
相談(1)小学2年生の父から
小学2年生の息子に「目標に向かってがんばれる力をつけたい」という思いから、小3
の誕生日までにクリアできそうな課題を設けてがんばらせようかと思っています。課題を
クリアできれば、ごほうびは何でも欲しい物を買ってあげるつもりです。
でも妻から、「ごほうびがないとやる気が出ない子にならない?」と言われて、止めた
方がいいかと迷っています。こういうやり方は、いけないのでしょうか?
Hiroshi Hayashi+++++++July. 2010++++++はやし浩司
A:完全に的はずれです(失礼!)。動機付けの三悪に、無理、比較、条件があります。
「課題をクリアできれば…」は、この中の条件ということになります。よくあるのは、「1
00点を取ったら、小遣いをあげる」というもの。
条件のこわいところは、年齢とともにエスカレートしやすいこと。小学生のときは、1
000円のほうびでも、高校生になると、10万円になります。
さらに進むと、条件なしでは、何もしなくなります。物欲と結びつくと、さらにやっか
いなことになります。それが必要だから、それを求めるのではなく、物欲を満足させるた
めに、それを求めるようになります。脳の中で、ニコチン中毒と同じようなメカニズムが
働くようになります。
で、問題は「課題」の中身ということになります。もしそれが個人的なものであれば、「自
分のためにする」を徹します。勉強であれば、なおさらです。「勉強は自分のために、自
分でするもの」と。
大切なのは、達成感です。「できた!」という実感が、子どもを前向きに引っ張ってい
きます。
「何でも欲しい物を買ってあげる」? 愚かな育児観は捨てなさい(失礼!)。あのバー
トランド・ラッセルは、こう書いています。『限度をわきまえた親のみが、真の家族の喜
びを与えられる』と。
Hiroshi Hayashi+++++++July. 2010++++++はやし浩司
相談(2)小学4年生の父から
小学4年生の長男のことで相談します。
私の仕事が忙しく、なかなか相手をしてやれないまま過ごしてしまったのがいけなかっ
たのか、遊びといえばひとりでゲームばかり、友達と遊んだり外に遊びに行ったりしませ
ん。
先日、「外で遊ばないの?」と聞いたところ、「外で何して遊べばいいの?」と返され
て、がく然としました。このまま、集団で遊ぶ経験もなく成長すると、どんな子になって
しまうか不安です。今からできることは、何かないでしょうか?
A:(相手をしてやらなかった)から(ゲームばかりする)と、短絡的に結びつけて考え
る必要はありません。あなたは父親として、じゅうぶん、その責任を果たしています。た
しかに最近の子どもは、集団で遊ぶということをしません。が、こうした傾向はすでに2
0年以上も前から始まっていることです。
で、どんな子どもになるかですが、すでにあなたの子どもは大きな流れの中にいます。
その流れの中で、子どもたちはつぎの世界を創りあげていきます。その流れに対しては、
私もあなたも、無力でしかありません。あえて言うなら、つぎの格言が役に立つでしょう。
『子どもを産み育てるのは母親の役目。狩の仕方を教えるのは父親の役目』(イギリスの
教育格言)と。
つまり社会性の養成と、母子関係の是正。この2つがこの時期の父親に与えられた重要
な使命と考えてください。
なおゲームについてですが、韓国や中国では、ゲーム中毒が問題にならない日がありま
せん。そのための矯正プログラムや矯正施設もできています。が、この日本では、野放し。
ゲームを批判しただけで、猛烈な抗議の嵐にさらされます。私自身も経験しています。
ゲームを許すにしても、ある程度の自制は必要です。時間を決めてさせるとか、ゲーム
の内容を決めるとかなど。
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