Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Monday, August 23, 2010

●虚言癖のある子ども

●子どもの虚言癖



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兵庫県にお住まいの、HGさんより、

子どもの虚言癖についての相談があった。

子どもの虚言癖についての相談は多い。

以前のもらった相談と重ねて、この

問題を考えてみたい。



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はじめまして。小学校2年生の男子(長男)についての相談です。

子供の嘘について相談します。



息子のばあい、空想の世界を言っているような嘘ではなく、

「自分の非を絶対に認めない」嘘です。



先日担任の先生からお電話があり、こんなことがあったそうです。



(1)何かの試合の後、「○○君のせいで負けたんだ」と発言。直接その子に言ったようではなかったが、言われた子は泣き出してしまった。 担任が注意しようとすると、「僕、言っていない」の一点張り。しかし、先生も周囲にいた複数のクラスメートが、言ったことを聞いている。



(2)工作の材料にバルサの板のようなものを4枚、持ってきた子がいた。気がつくと3枚しかなく、探していたところ、いつのまにかうちの子が1枚持っており、「自分が持ってきたものだ」と言い張る。



そこで本当に家から持ってきたものなのかどうか、先生から問い合わせという形で、電話がありました。



しかし、当日家から持っていた形跡はなく、問いつめると



子:「家の近所で拾った」

私:「どこで拾ったか、連れて行って」

子:「わかんない。通学路で拾った」

私:「通学路のどのあたり?」

子:「○○の坂を上がって、右に曲がったところ」

私:「○○君は教室まで4枚、あったって」

子:「・・・」



という感じで、つじつまを合わせようと必死。最後に私が「○○君が持っていたのが欲しくなっちゃったんだ?」と聞くと、小さくコクリ。最後まで「自分が取ってしまった」とは言いませんでした。



また、休日においても、先日お友達と野球場に行った際、お友達(4生)と弟(5歳)との3人で、高いところから通路へ石投げに興じてしまいました。そこへ野球場を管理するおじさんから「そんなことしちゃいかん!」と一喝。



私は現場を見ていなかったので、「何やったの!?」と聞くと、またしても「僕、何にもやっていない」の一点張り。(お友達は「自分もやったが、○○(うちの子)も一緒にやった」と言いました)。しばらくして父親が登場(草野球の試合をしていました)、「おまえもやったんだろ?」と威厳ある態度で聞くと小さくコクリ、でした。

石投げについては、私の聞き方がまずかったかな? (嘘を言うことが可能な質問)とも思いますが、平然と周知の事実について頑なに嘘を突き通すことについて、子供の心の中がどうなっているのかわからなくなりそうです。



小学校1年の頃までは嘘を言うと、なんとなく顔や態度に出るのであまり気にはしていませんでしたが、最近はそれがなくなり「絶対正しい!」という自信さえ漂わせています。



生きていくうえでは嘘は必要なものでもありますが、それより以前に自分に打ちかって、正直に言うことや誠実であることの大切さをわかってもらうには、今後、どう対応していったら良いのでしょうか?



どうぞよろしくお願いします。

(兵庫県A市在住、HGより)



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【HGさんへ】



 以前、書いた原稿を、まずここに掲載しておきます。



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子どものウソ



Q 何かにつけてウソをよく言います。それもシャーシャーと言って、平然としています。(小二男)



A 子どものウソは、つぎの三つに分けて考える。(1)空想的虚言(妄想)、(2)行為障害による虚言、それに(3)虚言。



空想的虚言というのは、脳の中に虚構の世界をつくりあげ、それをあたかも現実であるかのように錯覚してつく、ウソのことをいう。行為障害による虚言は、神経症による症状のひとつとして考える。習慣的な万引きや、不要なものを集めるなどの、随伴症状をともなうことが多い。



これらのウソは、自己正当化のためにつくウソ(いわゆる虚言)とは区別して考える。



ふつうウソというのは、自己防衛(言いわけ、言い逃れ)、あるいは自己顕示(誇示、吹聴、自慢、見栄)のためにつくウソをいう。子ども自身にウソをついているという自覚がある。



母「だれ、ここにあったお菓子を食べたのは?」、子「ぼくじゃないよ」、母「手を見せなさい」、子「何もついてないよ。ちゃんと手を洗ったから…」と。



 同じようなウソだが、思い込みの強い子どもは、思い込んだことを本気で信じてウソをつく。「ゆうべ幽霊を見た」とか、「屋上にUFOが着陸した」というのが、それ。  



その思い込みがさらに激しく、現実と空想の区別がつかなくなってしまった状態を、空想的虚言という。こんなことがあった。



 ある日一人の母親から、電話がかかってきた。ものすごい剣幕である。「先生は、うちの子の手をつねって、アザをつくったというじゃありませんか。どうしてそういうことをするのですか!」と。私にはまったく身に覚えがなかった。そこで「知りません」と言うと、「相手が子どもだと思って、いいかげんなことを言ってもらっては困ります!」と。



 結局、その子は、だれかにつけられたアザを、私のせいのにしたらしい。



イギリスの格言に、『子どもが空中の楼閣を想像するのはかまわないが、そこに住まわせてはならない』というのがある。子どもがあれこれ空想するのは自由だが、しかしその空想の世界にハマるようであれば、注意せよという意味である。



このタイプの子どもは、現実と空想の間に垣根がなく、現実の世界に空想をもちこんだり、反対に、空想の世界に限りないリアリティをもちこんだりする。そして一度、虚構の世界をつくりあげると、それがあたかも現実であるかのように、まさに「ああ言えばこう言う」式のウソを、シャーシャーとつく。ウソをウソと自覚しないのが、特徴である。



どんなウソであるにせよ、子どものウソは、静かに問いつめてつぶす。「なぜ」「どうして」だけを繰り返しながら、最後は、「もうウソは言わないこと」ですます。必要以上に子どもを責めたり、はげしく叱れば叱るほど、子どもはますますウソの世界に入っていく。



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 ここまでは、いわば一般論。雑誌の性格上、この程度までしか書けない。つぎにもう少し、踏みこんで考えてみる。



 子どものウソで、重要なポイントは、子ども自身に、ウソという自覚があるかどうかということ。さらにそのウソが、人格的な障害をともなうものかどうかということ。たとえばもっとも心配なウソに、人格の分離がある。



 子どものばあい、何らかの強烈な恐怖体験が原因となって、人格が分離することがある。たとえばある女の子(二歳)は、それまでになくはげしく母親に叱られたのが原因で、一人二役(ときには、三人役)の独り言を言うようになったしまった。それを見た母親が、「気味が悪い」といって、相談してきた。



 このタイプの子どものウソは、まったくつかみどころがないのが特徴。ウソというより、まったく別人になって、別の人格をもったウソをつく。私の知っている女の子(小三、オーストラリア人)がいる。「私は、イタリアの女王」と言うのだ。そこで私が「イタリアには、女王はいない」と説明すると、ものごしまで女王ぽくなり、「私はやがて宮殿に迎えいれられる」というようなことを繰りかえした。



 つぎに心の中に、別の部屋をつくり、その中に閉じこもってしまうようなウソもある。これを心理学では、「隔離」という。記憶そのものまで、架空の記憶をつくってしまう。そしてそのウソを繰りかえすうちに、何が本当で、何がウソなのか、本人さえもわからなくなってしまう。親に虐待されながらも、「この体のキズは、ころんでけがをしてできたものだ」と言っていた、子ども(小学男児)がいた。



 つぎに空想的虚言があるが、こうしたウソの特徴は、本人にその自覚がないということ。そのためウソを指摘しても、あまり意味がない。あるいはそれを指摘すると、極度の混乱状態になることが多い。



私が経験したケースに、中学一年生の女の子がいた。あることでその子どものウソを追及していたら、突然、その女の子は、金切り声をあげて、「そんなことを言ったら、死んでやる!」と叫び始めた。



 で、こうした子どもの虚言癖に気づいたら、どうするか、である。



 ある母親は、メールでこう言ってきた。「こういう虚言癖は、できるだけ早くなおしたい。だから子どもを、きびしく指導する」と。その子どもは、小学一年生の男の子だった。



 しかしこうした虚言癖は、小学一年生では、もう手のほどこしようがない。なおすとか、なおさないというレベルの話ではない。反対になおそうと思えば思うほど、その子どもは、ますます虚構の世界に入りこんでしまう。症状としては、さらに複雑になる。



 小学一年生といえば、すでに自意識が芽生え、少年期へ突入している。あなたの記憶がそのころから始まっていることからわかるように、子ども自身も、そのころ人格の「核」をつくり始める。その核をいじるのは、たいへん危険なことでもある。へたをすれば、自我そのものをつぶしてしまうことにも、なりかねない。



そのためこの時期できることは、せいぜい、今の状態をより悪くしない程度。あるいは、ウソをつく環境を、できるだけ子どもから遠ざけることでしかない。仮に子どもがウソをついても、相手にしないとか、あるいは無視する。やがて子ども自身が、自分で自分をコントロールするようになる。年齢的には、小学三,四年生とみる。その時期を待つ。



 ところで私も、もともとウソつきである。風土的なもの、環境的なものもあるが、私はやはり母の影響ではないかと思う。それはともかくも、私はある時期、そういう自分がつくづくいやになったことがある。ウソをつくということは、自分を偽ることである。自分を偽るということは、時間をムダにすることである。だからあるときから、ウソをつかないと心に決めた。



 で、ウソはぐんと少なくなったが、しかし私の体質が変わったわけではない。今でも、私は自分の体のどこかにその体質を感ずる。かろうじて私が私なのは、そういう体質を押さえこむ気力が、まだ残っているからにほかならない。もしその気力が弱くなれば……。ゾーッ!



 そんなわけで小学一年生ともなれば、そういう体質を変えることはできない。相談してきた母親には悪いが、虚言癖というのはそういうもの。その子ども自身がおとなになり、ウソで相手をキズつけたり、キズつけられたりしながら、ウソがもつ原罪感に自分で気がつくしかない。また親としては、そういうときのために、子どもの心の中に、そういう方向性をつくることでしかない。
それがどんなウソであるにせよ……。
(030605)



【補足】

 以前、こんな原稿(中日新聞掲載済み)を書いた。内容が重複するが、参考までに……。



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●子どもがウソをつくとき



●ウソにもいろいろ



 ウソをウソとして自覚しながら言うウソ「虚言」と、あたかも空想の世界にいるかのようにしてつくウソ「空想的虚言」は、区別して考える。



 虚言というのは、自己防衛(言い逃れ、言いわけ、自己正当化など)、あるいは自己顕示(誇示、吹聴、自慢、見栄など)のためにつくウソをいう。子ども自身にウソをついているという自覚がある。母「誰、ここにあったお菓子を食べたのは?」、子「ぼくじゃないよ」、母「手を見せなさい」、子「何もついてないよ。ちゃんと手を洗ったから……」と。



 同じようなウソだが、思い込みの強い子どもは、思い込んだことを本気で信じてウソをつく。「昨日、通りを歩いたら、幽霊を見た」とか、「屋上にUFOが着陸した」というのがそれ。その思い込みがさらに激しく、現実と空想の区別がつかなくなってしまった状態を、空想的虚言という。
こんなことがあった。



 ある日突然、一人の母親から電話がかかってきた。そしてこう言った。
「うちの子(年長男児)が手に大きなアザをつくってきました。
子どもに話を聞くと、あなたにつねられたと言うではありませんか。
どうしてそういうことをするのですか。あなたは体罰反対ではなかったのですか!」と。
ものすごい剣幕だった。が、私には思い当たることがない。
そこで「知りません」と言うと、その母親は、「どうしてそういうウソを言うのですか。相手が子どもだと思って、いいかげんなことを言ってもらっては困ります!」と。



 その翌日その子どもと会ったので、それとなく話を聞くと、「(幼稚園からの)帰りのバスの中で、A君につねられた」と。そのあと聞きもしないのに、ことこまかに話をつなげた。が、そのあとA君に聞くと、A君も「知らない……」と。
結局その子どもは、何らかの理由で母親の注意をそらすために、自分でわざとアザをつくったらしい……、ということになった。



 イギリスの格言に、
『子どもが空中の楼閣を想像するのはかまわないが、そこに住まわせてはならない』というのがある。
子どもがあれこれ空想するのは自由だが、しかしその空想の世界にハマるようであれば、注意せよという意味である。
このタイプの子どもは、現実と空想の間に垣根がなくなってしまい、現実の世界に空想をもちこんだり、反対に、空想の世界に限りないリアリティをもちこんだりする。
そして一度、虚構の世界をつくりあげると、それがあたかも現実であるかのように、まさに「ああ言えばこう言う」式のウソを、シャーシャーとつく。
ウソをウソと自覚しないのが、その特徴である。



 子どものウソは、静かに問いつめてつぶす。
「なぜ」「どうして」を繰り返しながら、最後は、「もうウソは言わないこと」ですます。
必要以上に子どもを責めたり、はげしく叱れば叱るほど、子どもはますますウソがうまくなる。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

おとなの世界とて、例外ではない。
おとなといっても、もとは、子ども。
おとなになっても、虚言癖の残る人は多い。
最近聞いた話に、こんなのがある。
これは「おとなの虚言癖」について。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【空想的虚言vs思い込み】

●思い込み

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私の知り合いに、思い込みのはげしい女性がいる。
年齢は、65歳くらい。
こだわりも強い。
ひとつのことにこだわり始めると、ずっとそのことに
こだわる。
それもあって、最近は、心療内科に通っている。
うつ病薬を常用している。

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●空想的虚言

 空想的虚言と思い込み。
空想的虚言は思い込みによって生まれ、思い込みが強いと、それはしばしば空想的虚言へと変身する。
この2つは、かなりの部分で重なり合う。
その女性について、知っていることをそのまま書くわけにはいかない。
その女性は私のことを、よく知っている。
私もその女性のことを、よく知っている。
ここでは、あくまでも、「例」として、その女性について書く。
名前をMKさん(もちろん仮名)としておく。
またここに書くMKさんは、実在の人物ではない。
いろいろな人をまぜて、1人のMKさんとした。
架空の人物である。

●ウソ

 だれしも、ある程度のウソはつく。
しかしウソはウソ。
ウソと自覚しながら、ウソをつく。

 が、そのウソが、ウソの範囲を超えて、心の別の世界へ入ってしまう。
心の別の世界へ入ってしまい、ウソと現実の区別がつかなくなってしまう。
そういうウソを、空想的虚言という。
「妄言」ともいう。

 イギリスの教育格言にも、こういうのがある。
『空中の楼閣を想像するのは、かまわない。しかし空中の楼閣に住まわせてはいけない』と。
子どもは空想が好き。
が、空想が勝手に肥大化し、現実と空想の区別がつかなくなってしまうことがある。
昔、「私はイタリアの女王」と言い張った女の子(6歳女児、オーストラリア人)がいた。
子どもの世界では、空想的虚言に注意しなければならない。
おとなの世界とて、例外ではない。

●MKさんのケース

 MKさんの近くに、ひとりで住んでいる女性がいる。
年齢は80歳を超えている。
独居老人である。
MKさんは、何らかの形で、その女性を助けたことはあるらしい。
助けたといっても、使い走り程度ではなかったか?

 ところがその後、MKさんの口から出てくる言葉は、はるかに現実離れをしていた。

「見るに見かねて、私、風呂に入れてあげました」
「毎週、そのおばあちゃんを訪問し、夕食を作ってあげています」
「先日は、相続問題で、名古屋市に住む息子さんのところまで、印鑑を取りに行ってあげました」と。

 どんどんと話がふくらんでいく。
他人がしたことまで、自分の話の中に、織り交ぜていく。

●ぜんぶ、ウソ

 MKさんの話は、もちろんぜんぶ、ウソ。
よくよく考えると、矛盾だらけ。
今は介護制度もあり、必要な人は、それなりの公的サービスを受けられる。
入浴サービスもあるし、訪問介護制度もある。
ところが、MKさん自身は、そうは思っていない。
「自分がした」と思い込んでしまっている。
その上で、ウソにウソを塗り重ねていく。

心のどこかでは、ウソということを感じているのかもしれない。
が、自ら、それを打ち消してしまう。
自分の中に別人格を作り上げ、それが本当の自分と思い込んでしまう。

 MKさんの脳の中の様子は、私には、わからない。
が、ひとつだけはっきりしている。
だれかがMKさんの言ったことについて、まちがいや矛盾を指摘したりすると、MKさんは、パニック状態になるということ。
ギャーと叫んで、そのまま混乱状態になる。

●自己愛者

 自己中心性が極端に肥大化した人を、自己愛者という。
「自分を愛する」という意味ではない。
「極端な自己中心主義者」という意味で、「自己愛者」という。

 その自己愛者の特徴のひとつに、「否定(批判)されると、パニック状態になる」というのがある。
自己愛者は、自分の「非」を認めない。
まちがいも、認めない。
だれかがその人を批判したりすると、今度は逆に、その相手を、徹底的に攻撃する。
ふつうの攻撃ではない。
どこまでも激しく、執拗に攻撃する。
ウソにウソを混ぜて、攻撃する。

 MKさんも、そうだ。
「私はぜったい正しい」と思うのは、MKさんの勝手。
が、いつもその返す刀で、自分の意見と合わない人を、「まちがっている」と決めつける。
まさに「ああ言えば、こう言う」式の反論を重ねる。
ときに感情的になり、それを制御できなくなる。

●2人の弟氏

 こんなことがあった。
MKさんには、2人の弟氏がいた。
上の弟氏とは仲がよかった。
しかし下の弟氏とは、ウマが合わなかった。
下の弟氏は、MKさんのことを、ズバリ、「タヌキ」と呼んでいた。
その地方では、「ウソつき」という意味である。

 MKさんと、弟氏が、駅で待ち合わせて会うことになった。
MKさんは、「10時にA駅の前で」と言った。
A駅あたりで、私鉄とJRの2本の路線が交差している。
私鉄は「A駅」、JRは「JR・A」と、そのあたりの人たちは言い分けている。
で、弟氏のほうは、「A駅と言えば、私鉄のほう」と、理解した。
それ以前に一度、そこでたがいに待ち合わせたことがある。
で、弟氏が10時にA駅へ行ってみると、MKさんは、いなかった。
そのため30分以上、たがいに待たされることになった。
が、そのあと、MKさんは、ものすごい剣幕で弟氏を叱った。

 弟氏は、「あなたはA駅と言った。メモまでしたからまちがいない」と言った。
MKさんは、「JRのA駅とちゃんと言った。メモを取ったというウソを言うな」と言った。
「私が言いまちがえるはずはない」と。

 駅前でのできごとで、通りがかった人たちが振り返って見るほど、MKさんは大声で弟氏を怒鳴りつづけた。

●さらに……

 この事件のときも、そうだった。
MKさんの言ったことが本当なのか。
それともMKさんの弟氏の言ったことのほうが、本当なのか。
私は今までのつきあいの中で、弟氏の言っているほうを信用する。
弟氏は、実直な人だった。

 つまりMKさんは、実際には「10時にA駅で」と言っただけだった。
しかし思い込みがはげしく、それが自分では「JRのA駅で」と言ったつもりになってしまった。

 もしこのときMKさんに、正常な(?)判断力があるなら、自分のまちがいをすなおに認めるはず。
認めて、「ごめん」で、すむはず。
が、MKさんには、それができなかった。

●仮面

 空想的虚言と思い込み。
この2つは、かなりの部分で、重なり合う。
ときにどちらが優勢で、どちらがそうでないか、それが、よくわからなくなる。
MKさんのケースがそうである。

 現実とウソの区別がつかなくなってしまい、ウソの世界を正しいと思い込んでしまう。
あるいは思い込みがはげしくなり、現実を見失ってしまう。
加えてMKさんには、自己愛者的な要素があった。
まちがいを認めることは、MKさんには、できなかった。
自分勝手でわがまま。
それに勝気。
一見、やさしくおだやかに見えるが、それは仮面。
人当たりもよく、初対面の人は、みなこう言う。
「すばらしくよくできた人ですね」と。
長い間、仮面をかぶっていると、どれが本当の自分の顔か、わからなくなってしまうことがある。
MKさんは、自分では、「私はすばらしい女性」と思い込んでいた。

●MKさんの人間性

 私がよく覚えている事件にこんなのがある。
ある日、何かの話の拍子に、MKさんは、ふとこう言った。
「弟(=下の弟)の嫁さんは、浮気をしているのよ」と。

 私は弟氏の妻もよく知っているが、とてもそういう女性には見えなかった。
驚いていると、MKさんは、こう言った。
「奥さんがちょっと席を離れたとき、私、バッグの中を見たら、バッグの中に、コンドームが何個か入っていた」と。

 私は奥さんのバッグの中にコンドームがあったということよりも、バッグの中をのぞいたMKさんの行為に仰天した。
私はワイフと結婚して40年になるが、いまだかって、ワイフのバッグの中をのぞいたことがない。
だからその話には、背筋がぞっとするような嫌悪感を覚えた。
一事が万事、万事が一事。
MKさんという女性は、そういう人だった。

●自分を知る

が、最大の問題は、MKさん自身が、自分のそういう姿に気がつくときがくるだろうかということ。
自分の妄想癖、自己中心性、さらには人間性の崩壊などなど。
が、私は65歳前後というMKさんの年齢からして、それはむずかしいと思う。
MKさんによほどの向学心と、自分を見つめる真摯な姿勢でもあれば、それもわかるだろう。
自分を静かに見つめて、それに気づくだろう。
が、その雰囲気は、ない。
むしろ、MKさんは年々、ますます低劣化している。
いつ見ても、セカセカと、せわしなく動き回っている。
それに老人性の痴呆性も加わってきた。
「3桁の数字もまちがえる」と、数年前になるが、MKさんの夫が話していたのを覚えている。

●私の印象

 私が受ける印象では、MKさんのケースでは、ますますウソが多くなってきたように思う。
弟氏も、先日会ったとき、そう言っていた。
最近では、他人がしたボランティア活動ですら、あたかも自分がしたかのように話すこともあるという。
弟氏はこう言う。

「最近は、姉(=MKさん)に会うのが、こわいです。
ささいなミスをとらえては、大げさに騒ぐからです」と。

 弟氏が父親の七回忌に行ったときのこと。
弟氏はタクシーで行き、そのタクシーを寺の外で待たせておいた。
それで寺での法要が終わると、そのまま墓地まで、タクシーで向かった。
それについても、「みなにロクにあいさつもせず、急いで行った」と。
弟氏は、その旨、みなにあいさつをしたつもりだったと言っているが……。

●老齢

 私の母もそのとき90歳を過ぎていた。
脳梗塞で、脳をCTスキャンで検査したが、脳は半分程度に萎縮していた。
ドクターは、「90歳を過ぎると、みなこうなりますよ」と言った。
そうでなくても、私たちの脳神経は、毎日20数万個ずつ死滅している。
10日で、200万個。
100日で、2000万個。
1年で、約7億個。
10年で、約70億個!

 90歳で脳そのものが半分になったところで、何もおかしくない。
つまり私たちの脳みそは、そうでなくても、日々に劣化している。
平たく言えば、底に穴のあいたバケツのようになる。
知恵や知識は、どんどんと、その穴から外へ、こぼれ出て行く。

 MKさん(もちろん架空の女性)についても、そうだ。
補充する前に、それまであった知識や経験、常識や技術、さらには人間性まで、こぼれ出ていく。
だから「精進(しょうじん)」、つまり日々の研鑽あるのみということになる。
が、このタイプの女性にかぎって、それをしない。
極端な自己中心性が、自分の目と耳を、ふさいでしまう。
「私は完成された人間である」という思い込みが、自らを盲目にしてしまう。

●終わりに……

 最近の研究によれば、脳の活動量は、脳の酸素の消費量を見て判断するのだそうだ。
たとえばある特定部分の脳の活動が活発であるからといって、脳全体が活発に活動しているということにはならない。
ほかの部分が眠った状態になることも、ありえる。
よい例が、「ゲーム脳」と呼ばれる脳である。
ある特定部分の脳は、きわめて活発に活動する。
しかしその他の部分は、眠ったような状態になる。

 「こだわり」についても、同じことが言える。
ひとつのことにこだわるあまり、ほかの部分が眠ってしまった状態になる。
よい例が、私が特別擁護老人ホームで出会った女性(90歳前後)である。

 その女性は、一日中、「飯(めし)は、まだかア!」と叫んでいた。
食事に対して異常なこだわりを示していたが、ほかの部分は、眠ったままだった。

 むしろ人間は、リラックスした状態のほうが、脳全体の酸素の消費量がふえるという。
(この部分は、雑誌『サイエンス』の立ち読み情報なので、不正確。)
言い換えると、音楽を聴いたり、映画を観たり、雑誌に目を通したり、あるいは旅行先で窓の外の景色を見たりしたほうが、脳は活発に活動する(?)。
つまり脳の健康ということを考えるなら、(こだわり)は、百害あって一利なし。
へたをすれば、そのままうつ病の世界に、落ち込んでしまう。

 話が脱線したが、空想的虚言と思い込み。
この両者は、同一のものではない。
ないが、ある部分で、大きく重なり合う。
つまり空想的虚言を口にしやすい人は、それだけ思い込みがはげしいということ。
(その反対でもよい。)
だから、ウソにせよ、思い込みにせよ、それを自分の中に感じたら、それと闘う。
それは同時に、脳の老化との闘いであるといってもよい。
放置すればやがていつかあなたも、あのセンターの一室で、「飯はまだかア!」と叫んでいた、あの女性のようになる。(2010-5-16)

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