●8月26日、あれこれ
●子どもや孫とのつきあい
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孫と同居したがる日本人。
が、それは決して、世界の常識ではない。
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老後になったら、子どもや孫と、どのようにつきあえばよいのか?
内閣府が、平成12年に調査した、「高齢化問題基礎調査」によれば、子どもや孫とのつ
きあいについて、日本人は、つぎのように考えていることがわかった。
(1)子どもや孫とは、いつもいっしょに、生活ができるほうがよい。
日本人 …… 43・5%
アメリカ人 …… 8・7%
スウェーデン人…… 5・0%
(2)子どもや孫とは、ときどき会って、食事や会話をするのがよい。
日本人 …… 41・8%
アメリカ人 …… 66・2%
スウェーデン人……64・6%
日本人は、欧米人よりも、はるかに「子どもや孫との同居を望んでいる」。それがこの調
査結果からもわかる。一方、欧米人は、老後は老後として、(1)子どもたちの世話にはな
らず、(2)かつ自分たちの生活は生活として、楽しみたいと考えている。
こんなところにも、日本人の依存性の問題が隠されている。長い歴史の中で、そうなっ
たとも考えられる。
「老後は、子どもや孫に囲まれて、安楽に暮らしたい」と。
そうそう、こんな話もある。
このところ、その女性(48歳)の母親(79歳)の足が、急に弱くなったという。先
日も、実家へ帰って、母親といっしょに、レストランへ行ったのだが、そこでも、その母
親は、みなに抱きかかえられるようにして歩いたという。
「10メートル足らずの距離を歩くのに、数分もかかったような感じでした」と。
しかし、である。その娘の女性が、あることで、急用があって、実家に帰ることになっ
た。母親に連絡してから行こうと思ったが、あいにくと、連絡をとる間もなかった。
で、電車で、駅をおりて、ビックリ!
何とその母親が、母親の友人2人と、駅の構内をスタスタと歩いていたというのだ!
「まるで別人かと思うような歩き方でした」と。
が、驚いたのは、母親のほうだったかもしれない。娘のその女性がそこにいると知ると、
「しまった!」というような顔をして、突然、また、弱々しい歩き方で歩き始めたという。
その母親は、娘のその女性の同情をかうために、その女性の前では、わざと、病弱で、
あわれな母親を演じていたというわけである。
こういう例は、多い。本当に、多い。依存性の強い人ほど、そうで、同情をかうために、
半ば無意識のうちにも、そうする。
しかし、みながみなではない。
反対に、子どもの前では、虚勢を張る親も、いる。「子どもには心配をかけたくない」と
いう思いから、そうする。
どこでそう、そうなるのか? どこでどう、そう分かれるのか?
私などは、いくら疲れていても、ワイフや息子たちの前では、虚勢を張ってみせるほう
だから、反対に、同情をかう親の心が、理解できない。気持ちはわかるが、しかしそれで
よいとは思わない。
ひょっとしたら、この問題も、冒頭にあげた調査結果で、説明できるのではないか。少
し脱線したような感じだが、それほど大筋から離れていないようにも、思う。
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
●コンフリクト(葛藤)
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人はいつも、心の中で葛藤(コンフリクト)を
繰りかえしながら、生きている。
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二つのことがらから、一つの選択を迫られたようなとき、心の中では、葛藤(コンフリ
クト)が起きる。これがストレスの原因(ストレッサー)になる。
コンフリクトには、(1)接近型、(2)回避型、(3)接近・回避型の3つがあるとされ
る。
たとえば、旅行クーポン券が、手に入った。一枚は、3泊4日のグアム旅行。もう一枚
は、2泊3日のカナダ旅行。どちらも行きたい。しかし日が重なってしまった。どうした
らいいか。
このばあい、グアム旅行も、カナダ旅行も、その人にとっては、正の方向から、ひきつ
けていることになる。そのため、葛藤(コンフリクト)する。これを(1)の接近型とい
う。
反対に、借金がたまってしまった。取立て屋に追われている。取立て屋に追われるのも
いやだが、さりとて、自己破産の宣告もしたくない。どうしたらいいか。
このばあいは、取り立て屋の恐怖も、自己破産も、その人にとっては、負の方向から、
ひきつける。そのため、葛藤(コンフリクト)する。これを(2)の逃避型という。
また、グアム旅行のクーポン券が手に入ったが、このところ、体の調子がよくない。行
けば、さらに体の調子が悪くなるかもしれない。どうしたらいいのか……と悩むのが、(3)
の接近・回避型ということになる。「ステーキは食べたい」「しかし食べると、コレステロ
ール値があがってしまう」と悩むのも、接近・回避型ということになる。
正の方からと、負の方からの、両方から、その人を、ひきつける。そのため、葛藤(コ
ンフリクト)する。
……というような話は、心理学の本にも書いてある。
では、実際には、どうか?
たとえば私は、最近、こんな経験をした。
ある人から、本の代筆を頼まれた。その人は、「私の人生論をまとめたい」と言った。知
らない人ではなかったので、最初は、安易な気持ちで、それを引き受けた。
が、実際、書き始めると、たいへんな苦痛に、襲われた。代筆といっても、どうしても、
そこに私の思想が、混入してしまう。文体も、私のものである。私はその人の原稿をまと
めながら、何かしら、娼婦になったような気分になった。
お金のために体を売る、あの娼婦である。
そのとき、私は、(3)の接近・逃避型のコンフリクトを経験したことになる。お金はほ
しい。しかし魂は、売りたくない、と。が、実際には、コンフリクトと言うような、たや
すいものではなかった。心がバラバラになるような恐怖感に近かった。心というより、頭
の中が、バラバラになるような感じがした。
あたかも自分の中に、別々の2人の人間がいて、けんかしあうような状態である。
それはたいへんなストレスで、結局、その仕事は、途中でやめてしまった。つまりここ
でいうコンフリクト(葛藤)というのは、そういうものをいう。
ほかにも、いろいろある。
たとえば講演などをしていると、私の話など聞かないで、ペチャペチャと、おしゃべり
している人がいる。
本人たちは、私がそれに気づかないと思っているかもしれないが、講師からは、それが
実によくわかる。本当に、よくわかる。
そういうとき、「そのまま話しつづければいい」という思いと、「気になってしかたない」
という思いが、頭の中で、衝突する。とたん、ものすごく神経をつかうようになる。実際、
そういう講演会が終わると、そうでないときよりも、何倍も強く、どっと疲れが、襲って
くる。
自分でもそれがよくわかっているから、ますます、気になる。
そこで、私のばあい、そういうふうにペチャペチャとおしゃべりする人がいたら、その
場で、やさしく、ニンマリと、注意することにしている。「すみませんが、おしゃべりをひ
かえてくださいね」と。
そうすることで、講演会のあとの疲労感を軽減するようにしている。これはあくまでも、
余談だが……。
【補記】
ストレスの原因(ストレッサー)を感じたら、あまりがまんしないで、ありのままを、
すなおに言ったらよい。そのほうが、自分のためにもなるし、相手のためにもなる。
ここに書いたように、最近は、公演中にペチャペチャと話している人を見たら、私は、
できるだけ早く、注意するようにしている。本当は、「さっさと、出て行け!」と叫びたい
が、そこまでは言わない。
で、おもしろいと思うのは、もともと私の話など、聞いていないから、数度、注意して
も、知らぬ顔をして、ペチャペチャと話しつづけている。そこで私も、その人たちが気が
つくまで、数度、あるいは何度も、注意する。が、それでも気がつかない。
すると、まわりの人たちが、そのおしゃべりをしている人のほうを、にらむ。おしゃべ
りしている人は、どうして自分たちがにらまれているかわからないといった表情を見せる。
このとき私は、改めて、言う。「すみませんが、少し、静かにしていてくださいね」と。
しかし、本音を一言。だれかの講演に行って、私語をつづけるようなら、外に出たらよ
い。迷惑といえば、迷惑。失礼といえば、失礼。これは講演を聞きに来た人の、最低限、
守るべき、マナーのように思う。
もっとも、私の講演のように、つまらない講演なら、しかたないが……。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 コンフリクト 葛藤 葛藤の中身 親子の葛藤 夫婦の葛藤)
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
●息子や娘の結婚
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息子や娘の結婚、さらには結婚式に
ついて、どのように考えたら、よいのか。
自分の息子たちのこともあり、このところ、
それについて、よく考える。
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息子や、娘の結婚について。結婚というより、その結婚相手について。最初、息子や娘
に、その相手を紹介されたとき、親は、何というか、絶壁に立たされたかのような、孤立
感を覚える。
これは、私だけの感覚か。
最初に聞きたいのは、通俗的な言い方だが、どんな家庭環境に生まれ育ったかというこ
と。……ではないか?
「まとも」という言い方は、あまり好きではないが、こと、結婚ということになると、
保守的になる。「まともな家庭環境」という言葉が、自然な形で、口から出てくる。
もちろん結婚というのは、当人たちの問題だし、その段階で、あれこれ口を出しても、
意味がない。
そこで、あえて聞かない。聞いたところで、どうにかなる問題ではないし、かえって取
り越し苦労をすることにもなりかえない。当人たちが、幸福になれば、それでよい。
で、親は、そういうとき、(1)相手の家族構成、(2)相手の親たちの仕事、(3)生ま
れ育った環境が、気になる。どんな教育を受けたかということで、(4)学歴も気になる。
が、何よりも気になるのは、(5)その相手の性格、である。
おだやかで、やさしい性格ならよい。情緒や、精神的に安定していれば、なおさら、よ
い。すなおな心であれば、さらによい。
……と、相手ばかりに求めてはいけない。それはよくわかっているが、どうしても、そ
れを求めてしまう。
ただ、これは私の実感だが、女性も、25歳をすぎると、急に、いろいろなクセが身に
つくものか? 18~25歳までは、画用紙にたとえるなら、白紙。しかし25歳をすぎ
ると、いろいろな模様が、そこに現れるようになる。
つまり計算高くなったり、攻略的になったりする。だからというわけではないが、どう
せ結婚するなら、それまでの時期に、電撃的な衝撃をたがいに受けて、結婚するのがよい。
映画『タイタニック』の中の、ジャックとローズのように、である。
●結婚式(PART2)
数日前、結婚式について、エッセーを書いた。それについて、何人かの人たちから、コ
メントが届いている。
「おかしい」「考えさせられた」と。1人、結婚式場で働いていたことがあるという女性
からは、こんなものも……。
「結婚式場って、儲かるのですよ。何でも、追加料金で、すみますから」と。
で、昨日、オーストラリアの友人の長男が、その結婚式をした。日本円で、総額、40
万円程度とのこと。それでも、豪華なほうだという。
二男も、数年前、アメリカで結婚式をしたが、総額で、30万円程度。貸衣装などに、
10万円。教会(チャペル)と牧師さんへの費用が、10万円。そのあとの飲み食いパー
ティに、10万円程度。計、総額で、30万円弱。
もう一度、数日前に書いた原稿を、ここに載せておく。
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●結婚式に、350万円プラス150万円!
知人の息子が結婚式をあげた。浜松市内の、あるホテルであげた。費用は、350万円
プラス150万円!
これでも安いほうだそうだ。
知人いわく、「最初、350万円と聞いていたので、その範囲ですむかと思ったていたら、
それは基本料金。テーブルクロス一つにしても、ピンからキリまであり、値段も、みな、
ちがっていた。追加料金で、150万円も取られた」と。「あんなのサギだ」とも。
日本のみなさん、こんなバカげた風習は、もうやめよう! みんなで、1、2の3でや
めれば、それですむ。
あんな結婚式に、どれほどの意味があるというのか。意味だけでは、ない。まったくの
ムダづかい! 新郎新婦のほうは、祝儀でその費用をまかなえると思っているかもしれな
いが、世間に甘えるのも、ほどほどにしたらよい。
大切なのは、2人だ。中身だ。
……というのは、少し過激な意見かもしれない。しかしもう少し、おとなになれば、こ
うした結婚式が、いかにつまらないものか、わかるはず。聖書すら読んだこともない2人
が、にわかクリスチャンになりすまし、張りぼての教会で、ニセの祭儀をあげる。もちろ
ん牧師もニセモノ。
(オーストラリアでは、ニセ牧師を演じて、お金を取ると、逮捕されるそうだ。)
ワイフは、こう言った。「狭くても、みすぼらしくても、自分の家で、質素に、本当に岩
ってくれる人だけが集まって、結婚式をすればいい」と。
私もそう思う。日本人独特の、「家」意識。それに見栄、メンツ、世間体が融合して、今
に見る、日本歌型結婚式の「形」ができた。もし、それでもハデな結婚式をしたいという
のなら、自分たちで稼いで、自分たちですればよい。
どこまで親のスネをかじったら、気がすむのだ!
知人の息子の結婚式の話をしながら、さらにワイフは、こう言った。「今では、祝儀も、
3万円から5万円。夫婦で出席すれば、その倍よ。みんな、そんなお金、出せないわよ」
と。
……と、書いたが、これはあくまでも、参考意見。かく言いながらも、私は、今まで、
数え切れないほどの結婚式に、出席してきた。それに私の息子たちはともかくも、相手の
女性の両親が、「そういう結婚式をしたい」と言えば、それに従わざるをえない。へんにが
んばっても、角が立つ。
妥協するところは妥協しながら、あまり深く考えないで、ナーナーですますのも、処世
術の一つかもしれない。ハハハ。(ここは、笑ってごまかす。)
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【追記】
結婚式場では、「○○家」「△△家」と、書くならわしになっている。私は、あれを見る
たびに、「結婚式って、何だろう?」と考えてしまう。
昔の武家なら、それなりの意味もあるのだろう。そこらの町民や農民が、武家のマネを
して、どうなる? どうする? こんな伝統や文化、本当に、それが日本人の伝統や文化
なのだろうか。守らなければならないような、伝統や文化なのだろうか。
アメリカ人の友人に、こう聞いたことがある。「どうして、アメリカには、日本のような、
結婚式のような結婚式がないのか?」と。アメリカでは、結婚する2人が、自分たちで、
ほとんどを準備する。
すると、その女性(30歳)は、こう言った。
「カルフォニア州の大都市なんかへ行くと、そういうビジネスもあるようだけど、アメ
リカには、定着しないでしょうね」と。
そして結婚式と言えば、お決まりの、ヨイショ。ただ騒々しいだけの、ヨイショ。新郎、
新婦の友人たちが集まって、ギャーギャーと、騒ぐだけ。安物のバラエティ番組風。「祝う」
という意味が、ちがうのではないのか?
いろいろ考えさせられる。
ちなみに、私たち夫婦は、その結婚式をしていない。貯金が、当時、10万円しかなか
った。それでワイフに、「結婚式をしたいか。それとも、このお金で、香港へ行きたいか」
と聞いたら、「香港へ行きたい」と。それで、おしまい。
毎月、収入の半分を、実家へ仕送りしている身分だった。どうして、親のスネをかじる
ことなど、できただろうか。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 結婚式 結婚式について)
Hiroshi Hayashi++++++++April 07++++++++++はやし浩司
●もう一人の私
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心の状態と表情の一致している
人を、すなおな人という。
そうでない人を、そうでないという。
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情意(心)と、表情が遊離してくると、人間性そのものが、バラバラになる。
わかりやすく言うと、本心と外ヅラを使い分け、表ヅラばかりとりつくろっていると、
本当の自分がわからなくなってしまう。つまりこうして、自分の中に、もう一人の、自
分でない自分が生まれてくる。
こうした二面性は、その立場にある人に、よく見られる。ある程度は、しかたのないこ
とかもしれないが、そういう立場の中でも、もっともその危険性の高いのが、実は、教師
ということになる。
心理学の世界にも、「反動形成」という言葉がある。みなから、「あなたは先生だ」と言
われているうちに、「そうであってはいけない、ニセの自分」を、その反動として、作っ
てしまう。
たとえば牧師という職業がある。聖職者ということで、「セックス(性)」の話を、こと
さら、嫌ってみせたりする。本当にそうなのかもしれないが、中には、自分をつくってし
まう人がいる。
まあ、どんな職業にも、仮面というものが、ある。みんな、それぞれ何らかの仮面をか
ぶりながら、仕事をしている。「コノヤロー」「バカヤロー」と思っても、顔では、にこや
かに笑いながら、その人と応対する。
実は、教育の世界には、それが多い。教育というよりは、教師という職業は、もともと
そういうもの。反対に、もし教師が、親や生徒に本音でぶつかっていたら、それこそ、た
いへんなことになってしまう。
たとえば私は、幼児教育にたいへん興味がある。しかし「幼児が好きか?」と聞かれれ
ば、その質問には、答えようがない。医者が、「病人が好きか」と聞かれるようなものでは
ないか。あるいは、仕事を離れては、幼児の姿を見たくない。それはたとえて言うなら、
外科医が、焼肉を嫌うのと似ている。(焼肉の好きな外科医もいるが……。)あるいは、ウ
ナギの蒲焼き屋のおやじが、ウナ丼を食べないのに、似ている?
しかし一度、幼児に、仕事として接すれば、幼児教育家モードになる。子ども、とくに
幼児の世界は、底なしに深い。奥が、深い。そういうおもしろさに、ハマる。私にとって
の幼児教育というのは、そういうものである。
ただ、もう一つ、誤解してほしくないのは、同じ教育の中でも、幼児教育は、特殊であ
るということ。いくら人間対人間の仕事といっても、相手は、幼児。いわゆる、ふつうの
世界でいうところの人間関係というのは、育たない。
話が少し脱線したが、私が、自分の中に、こうした二面性があるのを知ったのは、30
歳くらいのことではなかったか。
自分の息子たちに対する態度と、他人の子どもたちに対する態度が、かなりちがってい
たからだ。ときには、冒頭にも書いたように、自分の人間性が、バラバラになっているよ
うに感じたこともある。「コノヤロー」「バカヤロー」と言いたくても、顔では、ニッコリ
と笑って、別のことを言う。毎日が、その連続だった。
しかし脳ミソというのは、それほど、器用にはできていない。二つの自分が、たがいに
頭の中で衝突するようになると、疲れるなどというものではない。情緒不安、精神不安、
おまけに偏頭痛などなど。まさにいいことなしの状態になる。
だから、結局は、(ありのままの自分)にもどることになる。
が、これとて、簡単なことではなかった。それこそ数年単位の努力が、必要だった。私
は、まさに反動形成でつくられた(自分)を演じていただけだった。高邁で、高徳で、人
格者の教師を、である。
しかし本当の私は、まあ、何というか、薄汚い、インチキ男……とまでは、いかないが、
それに近かったのでは……。
そこで(ありのままの自分)を出すことにしたが、悲しいかな、(ありのままの自分)は、
とても外に出せるようなものではなかった! そこで私は、(ありのままの自分)を出すた
めに、別の意味で、(自分)づくりをしなければならなかった。
今も、その過程の途中にあるということになる。
で、その今も、もう1人の私が、私の中に同居している。いやな「私」だ。できれば早
く別れたいと思っている。ときどき、「出て行け」と叫びたくなる。そんな「私」だ。妙に
善人ぶって、自分を飾っている。
どこかのインチキ牧師みたいで、ああ、いやだ! ホント!
……ということで、本当の自分を知ることを、むずかしい。この文章を読んでいる、み
なさんは、はたして、どうだろうか? ありのままの自分で、生きているだろうか?
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
●8月24日
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かわり映えのしない朝。
昨夜睡眠導入剤をのんだこともある。
時計を見ると、午前8時を過ぎていた。
たっぷりと9時間。
よく寝た。
何か寝起きに夢を見たようだが、
忘れた。
で、昨夜、義兄の家に寄った。
いろいろ話した。
その中で親子の話が出た。
「フランスでは、親子でも家の売買をする」と
話した。
つまり金の貸し借りには、親子でもシビア。
夫婦でもシビア。
オーストラリアの友人などは、夫婦で日本へ
来ても、お金を払うのはいつも夫。
夫が自分の財布からお金を払う。
夫が得た収入は夫のもの。
そういう意識がきわめて強い。
が、この日本では、私もそうだが、収入は
一度すべて妻に渡す。
だからレストランでもどこでも、勘定は
妻が払う。
そう言えば、シビアと言えば、中国人。
大陸から来た中国人。
夫の財産、妻の財産と、きびしく区別する。
その様子はまさに「他人」。
だからたとえば親子でも、そのあたりをきびしく
区別する。
親が子どもに学費を出したとする。
それはそのまま親の貸し金になり、
子どもの借金になる。
日本の常識は世界の常識ではない。
日本の常識をもとにして考えてはいけない。
たとえば話はぐんと生臭くなるが、
若いころ、こんなことがあった。
40年近くも前の話である。
友人(男、オーストラリア人)が、ガールフレンド
(女、日本人)を妊娠させてしまった。
(「妊娠させた」という言い方そのものが、
実に日本的だが・・・。)
そのときのこと。
私が「君は男だから、責任を取るべきだ」と言うと、
すかさずその友人は、こう反論した。
「妊娠したのは、女性の責任」と。
オーストラリア人の論理からすると、
「避妊をしなかった女性が悪い」となる。
意識というのはそういうもの。
私たちがもつ常識の上に成り立っている。
常識がちがえば、当然、意識もちがう。
そんな話をすると、義兄はカラカラと
笑いながら、「ここは日本だ!」と言った。
つまり日本人は日本人の考え方をすればよい、と。
そうかもしれない。
そうでないかもしれない。
というのも、今、急速に日本人がもつ常識が
変わりつつある。
それにつれて意識も変わりつつある。
夫婦でも、自分が得た収入は、それぞれのもの
と考える人が、ふえてきた。
共働きの人ほど、そういう意識が強い。
何も離婚に備えてのことではない。
たがいに収入の管理をすることによって、
出入りを厳格にするということらしい。
では親子のばあいはどうか。
昔の人は、「親のものは親のもの」
「子どものものも親のもの」という意識を
もっていた。
昔といっても、現在80歳以上の人たちの
ことを念頭に置けばよい。
だから「子どもが得た財産は、親のもの」と
考える。
私の父がそうだったし、母もそうだった。
私が母に預けていた預貯金を、母が勝手に
使ってしまったことがある。
それに私が抗議をすると、母はこう言った。
「息子のものを親が使って、何が悪い!」と。
何も母を責めているのではない。
当時は、それがこの日本の常識だった。
(若い人たちには、信じられない話かも
しれないが・・・。)
が、今はそんな考え方をする人はいない。
親の財産は親のもの。
子どもの財産は子どものもの。
つまり今は、その「過渡期」ということになる。
やがて日本人も欧米人のように、親子、夫婦の
間でも、財産を分けて考えるようになる。
世界の流れは、そういう方向に動いている。
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●海が先か陸が先か(聖書の話)
この地球には、海と陸がある。
恐らく・・・というより、地球が誕生したころの太古の昔には、
この地球には海しかなかったはず。
比重の重いもの(=陸)が下に沈み、比重の軽いもの(=海)が上に浮いた。
聖書の「世界の創造(The Creation of the World)」の中にもつぎのように
ある。
And God said,”Let the water under the sky be gathered to one place, and let dry ground appear.” And it was so. God called the dry land “land”, and gathered waters he called “seas”. And God saw that it was good.
そして神は言った。「空の下の水をひとつの場所に集め、そして大地よ現れろ」と。
それでそうなった。神は乾いた土地を、「大地」と呼び、そして集めた水を「海」と
呼んだ。そして神はそれでよいとわかった。
聖書の非科学性はよく話題になる。
しかし実際にはそうでなく、この一節を読んでもわかるように、海の中から大地を
作ったという話を読むと、ドキッとする。
もし地球が物理の公式どおりに誕生したなら、地球全体の地殻の厚さは同じはず。
またその上を覆う海の深さも、同じはず。
が、実際には、地殻の厚さは、大陸部で厚く、海洋部では薄い。
「水を集めた」というのは、要するに地殻の厚さを変えたということになる。
話はそれたが、この地球では海が先に現れ、そのあと陸が現れた。
●20万年
海が先でそのあと陸が現れた・・・。
この話を読んで、「どうでもいいことではないか」と思う人もいるかもしれない。
しかし地球のような惑星で、地球のように海と陸地をもっている惑星は、
今のところこの地球をおいてほかにない。
実際には、ある日巨大隕石が地球に衝突し、その衝撃で地球がえぐられ、
そこに水が集まり、海になったと考えられている。
えぐられた地殻は、現在の「月」になったと考えられている。
では、火星はどうだったのかということになる。
一説によると20万年の昔には、火星にも大陸と海があったという。
それが現在地球で起こりつつあるような温暖化が進み、火星は意味に見る
火星になったという。
ということは、火星にもかつては、知的生物がいたということになる。
「たった20万年前」という部分に注目してほしい。
太陽系の歴史(約60~70億年)と比べたら、まばたき程度のほんの一瞬。
太陽系の歴史の30万分の1に過ぎない(60億÷20万年で計算)。
しかも、だ。
この「20万年」という数字に着目してほしい。
人類、つまり人間の祖先は、その20万年前に誕生している!
●聖書
話がバラバラになってしまった。
これらの話と、地球温暖化の問題と結びつけるつもりはない。
しかしどうしても、結びついてしまう。
というのも、つい先日も書いたように、あの聖書という書物は、
現在の生き方を書いた書物ではなく、「終末時」における生き方を
書いた書物ではないかと、私は考えるようになった。
この先地球は、火星化に向けてたいへんな時を迎える。
が、火星化が恐ろしいというのではない。
人間自らの行いの結果であるとするなら、受け入れるしかない。
しかしそこに至る過程の中で、私たちは地獄を経験する。
その地獄がこわい。
そこでは人間は、人間でなくなってしまう。
で、そのとき私たちはどのように生きたらよいのか。
それを示しているのが、聖書ではないか、と。
もちろん科学書ではないから、それなりの不備はあちこちにある。
理解するのに、時間がかかる。
しかし読めば読むほど、矛盾がない。
ここに書いた、「海が先か、陸が先か」という問題にしても、聖書は「海が先だった」と
書いている。
フ~~ンと感心したので、ここにそれを記録として残しておく。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 聖書 聖書の不思議 海と陸 大洋と大陸)
Hiroshi Hayashi+++++++Aug. 2010++++++はやし浩司
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