Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Wednesday, November 10, 2010

●悪玉親意識(家父長意識)

●善玉家族意識、悪玉家族意識

 家族意識にも、善玉と、悪玉がある。(善玉親意識と、悪玉親意識については、前に書いた。)

 家族のメンバーそれぞれに対して、人間として尊重しようとする意識を、善玉家族意識という。

 反対に、「○○家」と、「家(け)」をつけて自分の家をことさら誇ってみたり、「代々……」とか何とか言って、その「形」にこだわるのを、悪玉家族意識という。

 これは極端な例だが、こんなケースを考えてみよう。

 その家には、代々とつづく家業があったとする。父親の代で、十代目になったとする。が、大きな問題が起きた。一人息子のX君が、「家業をつぎたくない。ぼくは別の道を行く」と言い出したのである。

 このとき、親、なかんずく父親は、「家」と、「息子の意思」のどちらを、尊重するだろうか。父親は、大きな選択を迫られることになる。

 つまりこのとき、X君の意思を尊重し、X君の夢や希望をかなえてやろう……そういう意味で、家族の心を大切にするのが、善玉家族意識ということになる。

 一方、「家業」を重要視し、「家を守るのは、お前の役目だ」と、X君に迫るのを、悪玉家族意識という。

 それぞれの家庭には、それぞれの事情があって、必ずしもどちらが正しいとか、まちがっているとかは言えない。しかし家族意識にも、二種類あるということ。とくに私たち日本人は、江戸時代の昔から、「家」については、特別な関心と、イデオロギー(特定の考え方の型)をもっている。

 中には、個人よりも、「家」を大切にする人もいる。……というより、少なくない。それは多分に宗教的なもので、その人自身の心のよりどころになっている。だからそのタイプの人に、「家制度」を否定するような発言をすると、猛烈に反発する。

 しかしものごとは、常識で考えてみたらよい。「家」によって、その人の身分が決まった江戸時代なら、いざ知らず。今は、もうそんなバカげた時代ではない。またそういう時代であってはいけない。そういう過去の愚劣な風習をひきずること自体、まちがっている。

 ……という私も、学生時代までは、かなり古風な考え方をしていた。その私が、ショックを受けた経験に、こんなことがある。

 オーストラリアでの留学生活を終えて、日本に帰ってきてからしばらくのこと。メルボルンの校外に住んでいたR君から、こんな手紙をもらった。彼は少し収入がふえると、つぎつぎと、新しい家に移り住み、そのつど、住所を変えていた。「今度の住所は、ここだ。これが三番目の家だ」と。

 それからも彼はたびたび家をかえたが、そのときですら、「R君は、まるでヤドカニみたいだ」と、私は思った。

 そのことを知ったとき、それまでの私の感覚にはないことであっただけに、私は、ショックを受けた。「オーストラリア人にとって、家というのは、そういうものなのか」と。

 ……と書いても、今の若い人たちには、どうして私がショックを受けたか、理解できないだろうと思う。当時の、私の周辺に住んでいる人の中には、私の祖父母、父母含めてだが、だいたいにおいて、収入に応じて家をかえるという発想をする人は、いなかった。私のばあいも、そういうことを考えたことすら、なかった。

 しかもR君のばあいは、より環境のよいところを求めて、そうしていた。15年ほど前、最後に遊びに行ったときは、居間から海が一望できる、小高い丘の上の家に住んでいた。つまり彼らにしてみれば、「家」は、ただの「箱」にすぎない。

 そう、「家」など、ただの「箱」なのである。ケーキや、お菓子の入っている箱と、どこもちがわない。ちがうと思うのは、ただの観念。子どもが手にする、ゲームの世界の観念と同じ。どこもちがわない。

 さらに日本人のばあい、自分の依存性をごまかすために、「家」を利用することもある。田舎のほうへ行くと、いまだに、「本屋」「新屋」「本家」「分家」という言葉も聞かれる。私が最初に「?」と思った事件に、こんなのがある。

 幼稚園で教え始めたころのこと。一人の母親が私のところへきて、こう言った。

 「うちは本家(ほんや)なんです。息子には、それなりの学校に入ってもらわないと、親戚の人たちに顔向けができないのです」と。

 私はまだ20代の前半。そのときですら私は、こう言った記憶がある。「そんなこと気にしてはだめです。お子さん中心に考えなくては……」と。

 このように今でも、封建時代の亡霊は、さまざまな形に姿を変えて、私たちの生活の中に入りこんでいる。ここでいう悪玉家族意識もその一つだが、とくに冠婚葬祭の世界には、色濃く、残っている。前にも書いたが、たとえば結婚式についても、個人の結婚というよりは、家どうしの結婚という色彩が強い。

 それはそれとして、子どもの発達段階を調べていくと、子どもはある時期から、親離れを始める。そして「家庭」というワクから飛び出し、自立の道を歩むようになる。それを発達心理学の世界では、「個人化」※という。

 それにたとえて言うと、日本人は、全体として、まだその個人化のできない、未熟な民族ということになる。その一つの証拠が、ここでいう悪玉家族意識ということになる。

※個人化……子どもがその成長過程において、家族全体をまとめる「家族自我群」から抜け出て、ひとり立ちしようとする。そのプロセスを、「個人化」という(心理学者、ボーエン)。
(040225)(はやし浩司 個人化 悪玉家族意識 善玉家族意識 冠婚葬祭)

【追記】

 この年齢になると、それぞれの人の生きザマが、さらに鮮明になる。たとえば私には、60人近い、いとこがいるが、そういういとこだけをくらべても、「家」や「親戚づきあい」にこだわる人もいれば、まったくそうでない人もいる。

 で、問題は、こだわる人たちである。

 こだわるのは、その人の勝手だが、そういう自分の価値観を、何ら疑うことなく、一方的に、そうでない人たちにまで、押しつけてくる。問答無用のばあいも、多い。「当然、君は、そうすべきだ」というような言い方をする。

 一方、それに防戦する人たちは、(私も含めてだが)、それにかわる心の武器をもっていない。だからそういうふうに非難されながら、「自分の考え方はおかしいのかな」と、自らを否定してしまう。

 それはたとえて言うなら、何ら武器をもたないで、強力な武器をもった敵と戦うようなものである。彼らは、「伝統」「風習」という武器をもっている。

 これも子どもの世界にたとえてみると、よくわかる。

 子どもは、その年齢になると、身体的に成長すると同時に、精神的にも成長する。身体的成長を、「外面化」というのに対して、精神的成長を、「内面化」という。

 日本人は、子どもを「家族」(=悪玉家族意識)というワクでしばることにより、この内面化をはばんでしまうことが多い。あるいは中には、内面化すること自体を許さない親もいる。親に少し反発しただけで、「親に向かって、何だ、その口のきき方は!」と。

 このとき、子どもの側に、それだけの思想的武器があればよいが、その点、親には太刀打ちできない。親には、経験も、知識もある。しかし子どもには、ない。

 そこで子どもは、自らに、ダメ人間のレッテルを張ってしまう。そしてそれが、内面化を、さらにはばんでしまう。

 これと同じように、家や親戚づきあいにこだわる人によって否定された、武器持たぬか弱き人たちは、この日本では、小さくならざるをえなくなる。

 「家は大切にすべきものだ」「親戚づきあいは、大切にすべきものだ」と、容赦なく、迫ってくる。(本当は、そう迫ってくる人にしても、自分でそう考えて、そうしているのではない。たいていの人は、過去の伝統や風習を繰りかえしているだけ。つまりノーブレイン(脳なし)。)

 そこでそう迫られた人たちは、自らにダメ人間のレッテルを張ってしまう。

 しかし、もう心配は、無用。

 今、私のように、過去の封建時代を清算しようと、立ちあがる人たちが、ふえている。いろいろな統計的な数字を見ても、もうこの流れを変えることはできない。その結果が、ここに書いた、「鮮明なちがい」ということになる。

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●子どもを愛するために……

あなたの疲れた心をいやすために、
もう、あきらめなさい。あきらめて、
あるがままを、受け入れなさい。

がんばっても、ムダ。無理をしても、ムダ。
あなたがあなたであるように、
あなたの子どもは、あなたの子ども。

あとは、ただひたすら、許して、忘れる。
あなたの子どもに、どんなに問題があっても、
どんなにできが悪くても、ただ許して、忘れる。

問題のない子どもは、絶対にいない。
その子は、どの子も、問題がないように見える。
しかしそう見えるだけ。みんな問題をかかえている。

あとは、あなたの覚悟だけ。
あなたも、一つや二つ、三つや四つ、
十字架を背負えばよい。

「ようし、さあ、こい!」と。そう宣言したとたん、
あなたの心は軽くなる。子どもの心も軽くなる。
そのとき、みんなの顔に微笑みがもどる。

あなたはすばらしいい親だ。
それを信じて、あとは、あきらめる。
それともほかに、あなたには、
まだ何かすることがあるとでもいうのか?
(040229)(はやし浩司 愛 真の愛 リー エロス アガペ)

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【子どもを愛せない親たち】

 その一方で、子どもを愛せない親がいる。全体の10%前後が、そうであるとみてよい。

 なぜ、子どもを愛することができないか。大きくわけけて、その理由は、二つある。

 一つは、自分自身の乳幼児期に原因があるケース。もう一つは、妊娠、出産に際して、大きなわだかまり(固着)をもったケース。しかし後者のケースも、つきつめれば、前者のケースに集約される。

 乳児には、「あと追い、人見知り」と言われるよく知られた現象がある。生後5~7か月くらいから始まって、満1歳半くらいまでの間、それがつづく。

 ボウルビーという学者は、こうした現象が起きれば、母子関係は、健全であると判断してよいと書いている。言いかえると、「あと追い、人見知り」がないというのは、乳児のばあい、好ましいことではない。

 子どもは、絶対的な安心感の中で、心をはぐくむ。その安心感を与えるのは、母親の役目だが、この安心感があってはじめて、子どもは、他者との信頼関係(安全感)を、結ぶことができるようになる。

 「あと追い、人見知り」は、その安心感を確実なものにするための、子どもが親に働きかける、無意識下の行動と考えることができる。

 で、この母子との間にできた基本的信頼関係が、やがて応用される形で、先生との関係、友人との関係へと、広がっていく。

 そしてそれが恋愛中には、異性との関係、さらには配偶者や、生まれてきた子どもとの関係へと、応用されていく。そういう意味で、「基本的(=土台)」という言葉を使う。

 子どもを愛せない親は、その基本的信頼関係に問題があるとみる。その信頼関係がしっかりしていれば、仮に妊娠、出産に際して、大きなわだかまりがあっても、それを乗りこえることができる。そういう意味で、ここで、私は「しかし後者のケースも、つきつめれば、前者のケースに集約される」と書いた。

 では、どうするか?

 子どもを愛せないなら、愛せないでよいと、居なおること。自分を責めてはいけない。ただ、一度は、自分の生い立ちの状況を、冷静にみてみる必要はある。そういう状況がわかれば、あなたは、あなた自身を許すことができるはず。

 問題は、そうした問題があることではなく、そうした問題があることに気づかないまま、その問題に引き回されること。同じ失敗を繰りかえすこと。

 しかしあなた自身の過去に問題があることがわかれば、あなたは自分の心をコントロールすることができるようになる。そしてあとは、時間を待つ。

 この問題は、あとは時間が解決してくれる。5年とか、10年とか、そういう時間はかかるが、必ず、解決してくれる。あせる必要はないし、あせってみたところで、どうにもならない。

【この時期の乳児への対処のし方】

 母子関係をしっかりしたものにするために、つぎのことに心がけたらよい。

(1)決して怒鳴ったり、暴力を振るったりしてはいけない。恐怖心や、畏怖心を子どもに与えてはならない。
(2)つねに「ほどよい親」であることに、心がけること。やりすぎず、しかし子どもがそれを求めてきたときには、ていねいに、かつこまめに応じてあげること。『求めてきたときが、与えどき』と覚えておくとよい。
(3)いつも子どもの心を知るようにする。泣いたり、叫んだりするときも、その理由をさぐる。『子どもの行動には、すべて理由がある』と心得ること。親の判断だけで、「わがまま」とか、決めてかかってはいけない。叱ってはいけない。

 とくに生後直後から、「あと追い、人見知り」が起きるまでは、慎重に子育てをすること。この時期の育て方に失敗すると、子どもの情緒は、きわめて不安定になる。そして一度、この時期に不安定になると、その後遺症は、ほぼ、一生、残る。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 不登園 赤ちゃん返り)