Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Tuesday, December 14, 2010

●私の沖縄論

【沖縄から帰って……】(記憶的沖縄論)

●記憶(はやし浩司 2010-11-08)

 朝起きると、すぐルームウォーカーで、30分。
そのあと乗馬マシンで10分。
寒い朝は、それで体が暖まる。

 が、実際には、その20~30分前から、頭の中はフル回転。
ふとんの中から顔を半分出して、今日の計画をあれこれと立てる。
書いてみたいテーマも、そのとき浮かんでくる。

 たとえば「記憶」。
沖縄旅行から帰ってきてからというもの、日増しに沖縄の印象が悪くなっているのに
気づく。
台風一過。
天気にも恵まれた。
明るい陽光が、さんさんと輝いていた。
が、印象がどうもよくない。
どうしてだろう?

●記憶

 最近、記憶ほど、いいかげんなものはないと思い始めている。
たとえば少し前、私とワイフは、沖縄へ行ってきた。
そのときのことを思い出しても、記憶に強く残っている部分と、すでに記憶から消え
かかっている部分があることを知る。
そのとき撮った写真を見て、「ああ、こんなところもあった!」と。

 こうした現象を、心理学の世界では、「長期記憶」「短期記憶」という言葉を使って
説明する。
短期記憶といっても、注意を向けるかどうかで、保持の長さが決まる。
当然のことながら注意を向けた記憶は、脳の中に長くとどまる。
そうでない記憶は、瞬時に忘れる。
時間にすれば、1秒の数分の1程度ではないかと言われている。

 そこで自分の頭の中をさぐってみる。
たとえば「旧海軍司令部壕」。
丘の上に入り口があり、その地下には縦横無尽に「壕」が掘られていた。
たしか司令官室とか作戦室とか、そんなような部屋があったように記憶している。
が、どういうわけか私の記憶の中では、戦艦大和の油絵だけが強く印象に残っている。
模型も展示されていた。

 どうしてだろう?

 展示室の中には1人の女性が立っていて、ほかの観光客に向かって、あれこれ何やら
説明していた。
断片的な言葉は覚えているが、何を話したかまでは覚えていない。
恐らくその記憶も、あと1~2か月もすれば、脳の中から消えてしまうだろう。

 あとはあのトンネル。
私は子どものころから、閉所恐怖症。
地下へとおりる階段をくだりながら、早く外へ出たいと、そればかりを願っていた。
だからあのトンネルだけは、よく覚えている。
スコップだけで掘られたような粗末なトンネル。
狭くて息苦しい。
壁にどんな写真や、説明文が掲げられていたかは、ほとんど記憶していない。
そのつど歩くのを止めて、読んだはずなのだが……。

●「二度と行きたくない」

 沖縄へは旅行で行った。
気楽な旅行になるはずだった。
が、振り返ってみると、沖縄のイメージがどうも暗い。
そのあとも、いくつかの戦争祈念館(沖縄では「祈念館」という)を回った。
タクシーの運転手が、反戦運動家(?)だったということもある。
4~5時間の間に、私たちはすっかり洗脳されてしまった?

 今にして思うと、楽しかったという思い出よりも、「暗いイメージ」ばかりが、
残っている。
そして今、「沖縄」というと、「戦争の激戦地」というイメージしか残っていない。
(激戦地だったというのは、事実だが……。)
つまり楽しかったというよりは、重苦しい社会科の学習に出かけたような印象しか
ない。
またそういう印象だけが、頭の中でどんどんとふくらんでいく。
そのせいか、ワイフまでも、「二度と沖縄には行きたくない」と。
楽しかったこともたくさんあったはず。
しかしそういう記憶は、脇へ追いやられてしまっている。

●自伝的記憶

 たとえば似たような現象を説明するのに、「自伝的記憶」という言葉がある。
いろいろな記憶があったとしても、時間がたつにつれて、自分にとってつごうのよい
記憶だけが増幅され、一方、自分にとってつごうの悪い記憶は縮小されていく。

 たとえば「私の子ども時代は、楽しかった」と思うと、楽しかった思い出だけが
大きくふくらみ、そうでなかった思い出は、やがて消えていく。
その結果として、ますます「私の子ども時代は、楽しかった」となる。

 もちろんその逆のこともある。
「自伝的記憶」というほどおおげさなものではないが、(というのも、自伝的記憶という
のは、もっと長い時間的経緯の中で起こる現象をさすので)、今回の沖縄旅行では、私は
似たような経験をした。
日増しに暗いイメージばかりが、ふくらんでいく。
たとえばあの国際通り。
そこで出会った沖縄の人たち。
みな、朗らかで明るかったはず。
が、今、思い出してみると、どの人もその向こうに暗い影を背負っている。
「抜けるような明るさ」とは、とても言いがたい。

 こういうのも「記憶錯誤」と言ってよいのか?
つまり記憶が脳の中で、勝手に歪曲されていく……。

●記憶錯誤

 「記憶錯誤」という言葉が出たので、少しこれについても説明しておきたい。
記憶というのは、周囲の状況や、言葉によって影響を受ける。
そして記憶そのものが、変質することがある。
見たはずはないのに、「見た」とか、聞いたはずはないにの、「聞いた」とか。
自分の頭の中で、別の記憶を勝手に作りあげてしまう。
それを「記憶錯誤」という。
たとえば最近、私はこんな経験をしている。

 私には、60数名の「いとこ」がいる。
60数名といっても、親しくつきあっているのは、そのうちの10数名程度。
残りの人たちについては、消息すら知らない。

 そうしたいとこたちとは、楽しい思い出がたくさんある。
だから今でも、「いとこ」という言葉を聞いただけで、心がウキウキしてくる。
わたしにとって、いとこというのは、そういう人たちをいう。

 が、その中の1人が、さかんに私の悪口を言っているという。
以前、その人の宗教を批判したのが、どうやら原因らしい。
それはそれとして、つまり私は何もその人個人を批判したわけではないのだが、以後、
その人との楽しかった思い出がどんどんと消えていくのを感じた。
それから数年。

 で、最近はどうかというと、それが不思議なことに、その人との悪い思い出しか
残っていない。
子どものころ、意地悪された話とか、喧嘩した話とか、など。
そういうものだけが、勝手にふくらんでいく。
そればかりか、断片的な記憶をつなぎあわせて、「あの人は、ああ思っていたはず」とか、
「私をこう恨んでいたはず」とか、想像の世界で別の記憶を作りあげてしまう。

 結果として、今、私はそのいとこについては、悪い印象しかもっていない。
つまりそういう印象が、作りあげられてしまった。

●子どもの世界でも

 子どもの世界でも……とここで書くと、あまりにも意図が見え見え。
しかし親の立場で書くなら、子育てをしながら、子どもの脳の中に、どういう記憶が
残っていくかを、そのつどていねいに見なければならない。
それがよいものであれば、それでよし。
そうでなければ、そうでない。
先に書いた「自伝的記憶」の恐ろしさは、ここにある。
悪い印象を与えると、よい印象まで、かき消されてしまう。

 今度は子どもを教える教師の立場で書くなら、教えながら、子どもの脳の中に、
どういう記憶が残っていくかを、そのつどていねいに見なければならない。
それがよいものであれば、それでよし。
そうでなければ、そうでない。

 大切なことは、「楽しかった」「おもしろかった」という印象作りを大切にする。
そうした前向きな「思い」が、やがて子ども自身の力で、子どもを前向きに
引っ張っていく。

 繰り返すが、私は、率直に言えば、二度と沖縄には行きたくないと思っている。
ワイフも、そう思っている。
タクシーの運転手は、こうも言った。
「これからの沖縄は、観光で食べていくしかない」と。
であるならなおさら、ここに書いた「記憶」をテーマに、観光のあり方そのものを
考えたほうがよい。
観光地というのは、「人を楽しませる場所」。
沖縄の人たちの気持ちもよくわかる。
が、しかし半日、むごたらしい写真ばかり見せつけられたら、だれも沖縄に行きた
がらなくなるだろう。

 これは沖縄の人たちにとっても、まずいのではないか?

 今朝は起きる前、ふとんの中で、そんなことを考えた。

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