Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Tuesday, February 08, 2011

●マガジン(2-7)

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凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /
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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      2月   9日号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●12月26日夜・日曜日(はやし浩司 2010ー12-26)

●真冬のダイエット

 この数週間、体重計には乗らなかった。
……乗れなかった。
こわかった。
が、数日前、近くの温泉に行った折、乗った。
恐る恐る……。
ジャジャーン!

何と64・5キロの、2・5キロ、オーバー。

 早速、一昨日から、ダイエット。
小食+運動、あとはコンニャク食。
で、昨日体重を量ってみたら、63キロ。
今日は、62・5キロ。

ほっとしたのも束のが、異変はすぐ起きた。
体がいわば、ガス欠状態になってしまった。
寒い。
とにかく寒い。
寒いというより、どこにいても、体の芯から冷える。
ストーブをたいていも、寒い。
こたつの中に入っても、寒い。
布団乾燥機をつけ、ふとんにもぐっても、寒い。

 ワイフがそのつど、葛根湯を作ってくれた。
それでも寒い。

 ……ということで、今夜は、カニすき鍋。
ダイエットは、一時、中断。

●「日本の論点・2011」(文藝春秋)

 こたつの中で、「日本の論点」を読む。
あちこちを拾って読む。
その中のひとつ。
葬儀。

 「葬儀など不要」と説く人。
「葬儀は必要」ととく人。

 私はどちらでもよいと考える。
人、それぞれ。
それぞれが、納得する方法で、すればよい。
こうした議論そのものが、ナンセンス。
したい人は、すればよい。
したくない人は、しなければよい。
したい人に向かって、「しなくてもいいです」と言う必要はない。
しない人に向かって、「したほうがいいです」と言う必要はない。

 が、こういう問題もある。

 「葬儀は不要」と思っていても、世間体という圧力をはねかえすためには、相当の
覚悟とエネルギーが必要。
私自身がそうだった。
そこで自分なりの理論武装。
母を介護している間、20年ぶりに、あちこちから宗教論について書いた本を引き出し、
それを読んだ。
が、こうした理論を自分のものにするには、熟成期間が必要。
5年とか、10年とか、そういう時間の経緯が必要。
「今日読んだから、明日から、私もそうします」というわけにはいかない。

 で、その熟成期間を待たずして、実兄が他界。
つづいて実母が他界。
結局、世間並みの葬儀をすることになってしまった。
世間体という圧力と闘うのは、それほどまでに難しい。

●葬儀

 葬儀費用は、平均で220万円前後だそうだ(「日本の論点)。
実兄のときは、それ以上にかかった。
実母のときは、それ以下ですんだ。
間に2か月しかなかった。
実兄の100か日法要と、実母の七七回忌が重なった。

 で、その葬儀を振り返ってみて、こう考える。

 やはり葬儀というのは、質素にやればよい、と。
直送でも自然葬(密葬)でもよい。
派手にやったから、よいというのでもない。
質素にやったから、悪いというのでもない。

 ただ大切なことは、それぞれの人が、相手の葬儀の仕方、あるいは葬儀のやり方を、
理解すること。
受け入れること。
尊重すること。
いくら相手のやり方が気にくわないからといって、それをとやかく言ってはいけない。
それこそ「傲慢」というもの。

 一方、葬儀をする人は、自分流のやり方を、声高らかに、宣言すればよい。
「うちでは、こうします!」と。
地域によっては、勇気のいることかもしれない。
しかし、宣言する。
自分流のやり方を、押し通す。
もしそれをとやかく言う人がいたら、こちらから蹴飛ばしてやればよい。

 ……しかし220万円前後?
私の年金は、月額6万4000円。
34か月分。
約3年分。
葬儀費用もバカにならない。

●日曜日

 昨夜は、午前1時ごろまで義兄の家で、話し込んだ。
長話をした。
家に帰って寝たのが、午前2時。
今朝起きたのが、午前9時。
「まだ6時ごろかな?」と思って起きたら、午前9時だった。

 で、今日は日曜日。
やるべきことは、山のようにある。
そのひとつが、年賀状書き。
おおまかなデザインは、決まっている。
たいした作業ではない。
その気になれば、1時間足らずですむ。
が、その1時間を作るのが、むずかしい。
どうしても後回しになってしまう。
今の今も、そうだ。

 年賀状を書くより、こうして文を叩いていたほうが、楽しい。
どうしよう?

 ……先ほど、ワイフが買い物に行かないかと声をかけてくれた。
ということで、これから買い物。
カニすき鍋のカニを仕入れてくる。
ついでに同じものを、義兄に届けてくる。
昨夜は、真夜中まで、失礼をした。


Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司

●私(林 浩司)の運勢


+++++++++++++++++


どこかの団体が、勝手に私の姓名判断を
している。


詳しくは、
http://mei.longseller.org/o26/i21222.html
で、ご覧になっていただきたい。


で、私はこの類の運勢占いを、いっさい、
信じない。
もとから思考回路にない。
「占い」「まじない」と聞いただけで、
脳みそが拒絶反応を示す。
それに比べて姓名判断というのは、かなり
数学的。
姓名にも、バランス感覚が働く。
あまりヘンチクリンな名前では、笑いものに
なるだけ。
それを調整するのが、姓名判断。
私はそう理解していた。


が、読んでみて、驚いた。
「ヘ~エ」と感心するほど、驚いた。
「当たるも八卦、当たらぬも八卦」という。
しかしここまで当たっていると、
ぞっとする。


どこかで私を観て、書いたのではないかと
思えるほど、よく当たっている。


そのまま紹介させてもらう。


+++++++++++++++++++


●天格


勤勉 努力 成功
資産家で、同族意識強く、地域社会で活躍してきました。
天格とは、姓の漢字の画数の総計です。祖先運を表しています。天格だけで吉凶は判断し
ません。


●人格


苦労 挫折 障害
神経が細かく、直感が鋭い偏屈強情な直情型です。頭はよいが金運は弱いようです。配偶
者、実子に縁が薄く、病難が周囲にいて面倒を看ます。
人格とは、姓の最後と名前の最初の画数合計です。名前の中心にあたる部分で、家庭・仕
事・結婚運、二十代くらいまでの運勢を表し、主運とも言われます。


●地格


人望 大成 逆転成功
自分の理想実現に全力を尽くすタイプです。親や他人に精神、物質両面で惜しみなく援助
します。
地格とは、名前の画数の総計です。性格・才能・金運・適職、幼年期から中年期までの運
勢を表します。


●外格


信頼 誠実 努力
人からは、ファイト満まん、頭の回転が速い、プライドが高い人というように見られてい
ます。
外格とは、総格から人格を引いた数です。家族・職場などの外因的要素、対人関係・社会
的環境の運勢を表します。一字姓、一字名の場合、天の恵みとして霊数1を加えます。


●総格


柔軟性 順調 家庭運
要領よく処理がテキパキと早くまじめ、プライド高く厳しく冷たい自分勝手な印象、など
の特徴があります。
総格とは、姓・名前の画数合計です。人生全体に影響を及ぼし、主に中年期以降を表しま
す。


●私の判断


 しかしよくよく読んでみると、どれも「だれにでもそういう面はある」というような
ことばかり。
あるいは「時には、そういう面もある」というようなことばかり。
「成功」という言葉もあるが、どの程度をもって、「成功」というのか。
またたとえば「人からは、ファイト満まん、頭の回転が速い、プライドが高い人というよ
うに見られています」という部分について。


たしかに私をそういうふうに見ている人もいる。
若いときの私を知っている人は、今でもそういう印象をもっているかもしれない。
少なくとも、ヤワな男ではない。
が、最近は、かなり変わってきた。
ファイトもしぼみがち。
頭の回転も鈍くなってきた。
プライドなどというものは、とうの昔に捨てた。


 姓名判断というのは、名前が同じなら、年齢には関係ないはず。
しかし同じ人間でも、年代ごとに環境も変わり、人間関係も変わる。
浮き沈みは、人の常。
そういう(変数)は、どう勘案するのか。


 若いころの私は、とても「誠実な人間」とは言えなかった。
ウソつきで、インチキなことばかりしていた。
「誠実」を努めて心がけるようになったのは、浜松へ来て、ドン底の、そのまたドン底へ
叩き落とされてから。
そのときから、タバコをやめ、酒もやめ、ついで女遊びもやめた。
自分でもバカではないかと思うほど、クソまじめに生きるようになった。
1972年のはじめごろのことである。
(ドン底に落ちたのは、1971年の冬。)


 もっとも私は「はやし浩司」。
「林浩司」と書くのは、公的な書類の上だけ。
で、こういうばあいは、どうなるのか。
「はやし」は、もともとは、「波・也・之」の一部が、ひらがなになったもの(万葉仮名)。
だったら、「波也之浩司」で姓名判断してもらったほうがよい。
それなら現実に即している。


 久々に姓名判断なるものを、読ませてもらった。
おもしろかった。


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 姓名判断 占い まじない)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●密度の濃い人生(2)


 私の家の近くに、小さな空き地があって、そこは近くの老人たちの、かっこうの集会場
になっている。風のないうららかな日には、どこからやってくるのかは知らないが、いつ
も七~八人の老人がいる。


 が、こうした老人を観察してみると、おもしろいことに気づく。その空き地の一角には、
小さな畑があるが、その畑の世話や、ゴミを集めたりしているのは、女性たちのみ。男性
たちはいつも、イスに座って、何やら話し込んでいるだけ。私はいつもその前を通って仕
事に行くが、いまだかって、男性たちが何かの仕事をしている姿をみかけたことがない。
悪しき文化的性差(ジェンダー)が、こんなところにも生きている!


 その老人たちを見ると、つまりはそれは私の近未来の姿でもあるわけだが、「のどかだな」
と思う部分と、「これでいいのかな」と思う部分が、複雑に交錯する。「のどかだな」と思
う部分は、「私もそうしていたい」と思う部分だ。しかし「これでいいのかな」と思う部分
は、「私は老人になっても、ああはなりたくない」と思う部分だ。私はこう考える。


 人生の密度ということを考えるなら、毎日、のんびりと、同じことを繰り返しているだ
けなら、それは「薄い人生」ということになる。言葉は悪いが、ただ死を待つだけの人生。
そういう人生だったら、一〇年生きても、二〇年生きても、へたをすれば、たった一日を
生きたくらいの価値にしかならない。しかし「濃い人生」を送れば、一日を、ほかの人の
何倍も長く生きることができる。仮に密度を一〇倍にすれば、たった一年を、一〇年分に
して生きることができる。人生の長さというのは、「時間の長さ」では決まらない。


 そういう視点で、あの老人たちのことを考えると、あの老人たちは、何と自分の時間を
ムダにしていることか、ということになる。私は今、満五五歳になるところだが、そんな
私でも、つまらないことで時間をムダにしたりすると、「しまった!」と思うことがある。
いわんや、七〇歳や八〇歳の老人たちをや! 私にはまだ知りたいことが山のようにある。
いや、本当のところ、その「山」があるのかないのかということもわからない。が、ある
らしいということだけはわかる。いつも一つの山を越えると、その向こうにまた別の山が
あった。今もある。だからこれからもそれが繰り返されるだろう。で、死ぬまでにゴール
へたどりつけるという自信はないが、できるだけ先へ進んでみたい。そのために私に残さ
れた時間は、あまりにも少ない。


 そう、今、私にとって一番こわいのは、自分の頭がボケること。頭がボケたら、自分で
考えられなくなる。無責任な人は、ボケれば、気が楽になってよいと言うが、私はそうは
思わない。ボケるということは、思想的には「死」を意味する。そうなればなったで、私
はもう真理に近づくことはできない。つまり私の人生は、そこで終わる。


 実際、自分が老人になってみないとわからないが、今の私は、こう思う。あくまでも今
の私がこう思うだけだが、つまり「私は年をとっても、最後の最後まで、今の道を歩みつ
づけたい。だから空き地に集まって、一日を何かをするでもなし、しないでもなしという
ふうにして過ごす人生だけは、絶対に、送りたくない」と。
(02-10-5)※


Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司

●眠られぬ夜(2010-12-24記)

++++++++++++++++++

昨日は、仕事も順調。
体調もよかった。
自分なりに満足できる1日だった。
が、床に入ると、どうも寝付きが悪い。
安定剤を半分に割ってのむ。
舌の先でなめていると、やがて眠くなる。

1度、トイレに起きた。
再び床に就いてから、PSPで将棋を指した。
勝った。
そのあと「おめでとう、5戦連勝」と表示された。

時計を見ると、午前1時。
ワイフは横で寝息をたてていた。

私は静かに目を閉じ、巨大なUFOを
思い浮かべた。
何でも土星の輪の中には、日本列島を
2倍したほどの大きさのUFOが常駐
しているという。
何かの本で、そう読んだ。
写真も添えられていた。

半端な大きさではない。
長さだけでも4000キロ!
それが尾部(あるいは頭部)から、岩石を
吹き出しているという。
またそれによって、なぜ土星の輪の模様が
変化するか、その説明ができるという。

何とも信じがたい話だが、あまりにも
突飛すぎるが故に、かえって真実味がある。

私はそのUFOの内部を想像した。
円筒形ということだから、回転しながら
遠心力を利用した人口重力を作っているに
ちがいない。
ということは、UFO内側の壁面に張りつくように、
生活空間があるということになる。
地球で見るような山や川もあり、草原もある。

眠られぬ夜は、私は決まってそんなUFOを
頭の中で空想する。
子どもの世界でいう、おとぎ話。
それと同じ。
私もそんなことを空想しながら眠る。

+++++++++++++++++++

●現実性と空想性

 子どもの世界では、空想性はあまり好ましくない。
イギリスの教育格言にも、『空中の楼閣を想像するのはよいが、子どもを空中の楼閣に
住まわせてはならない』というのがある。
現実は現実。
空想は空想。
その両者は、はっきりと区別する。

言い替えると、現実性のあるなしで、その子どもの精神の発達度を知ることができる。
たとえば乳幼児期のある一時期、子どもは空想の世界にハマることがある。
が、その時期を過ぎると、子どもは急速に現実的なものの考え方をするようになる。
言い替えると、少年、少女期に入って、空想性が強すぎるというのは、好ましいこと
ではない。

 占いやまじない、さらには「スピリチュアル」。
ゲームの世界にハマるのも、そのひとつ。
そういうものにハマるということ自体、精神の発達が未熟と考えてよい。

●UFO

 UFOが存在するとか、しないとかいう議論はさておき、地球を宇宙からながめる
という点では、UFO問題を考えることは、それなりに楽しい。
視野が広くなる。
冒頭に書いた、長さ4000キロのUFOでもよい。

 しかしまったくのデタラメかというと、私はそうは思わない。
私とワイフは、長さ数キロもあるようなUFOを目撃している。
さらに月には、「オニール橋」と呼ばれる橋があったという(後述)。
(現在、その橋は消えている。)
子どものころ、どこかの科学展示会に行ったとき、その橋のことを知った。
長さは、20キロ前後もあったという。
その空想図が、大きく描かれていた。
あのオニール橋にしても、UFOだったと考えると、辻褄(つじつま)が合う。
4000キロなら4000キロでもよい。
人間には想像を絶する大きさだが、ものごとは人間中心に考えてはいけない。
一匹のアリが、100万トンの石油タンカーを想像するばあいを考えてみればよい。
この宇宙では、人間は、アリのようなもの。

●空想性

 広く考えれば、人間が「あの世」を想像するのも、空想性のひとつということになる。
天国でも、極楽浄土でもよい。
言い替えると、人は加齢とともに、その空想性が強くなる。
またそういった空想をすることによって、一抹の安堵感を覚える。
孤独な夜も、それによって癒される。

 つまり加齢とともに、精神の発達が萎縮する。
後退する。
現実から離れて、空想の世界を生きるようになる。
私について言えば、この傾向はますます強くなることはあっても、弱くなることはない。
そのことは、老人たちを観察してみれば、よくわかる。

 たとえば私の母は、特養にいたころ、介護士の人たちをみな、親類の人や、昔なじみ
の人に置き換え、その名で呼んでいた。
「あの人は、隣のXさんの息子さんの、~~さんや」
「この人は、在所のK村から来ている、~~さんや」と。

 さらに言い替えると、こうした空想性が強くなったら、それだけ老人に近づいたという
こと。
けっして好ましいことではない。
だから闘う。
そういう自分と闘う。
「あの世」を信ずるにしても、そんなことは、死の直前でじゅうぶん。
それから信じても、遅くはない。

●現実性

 一方、現実性は、現実の世界を現実的に生きることで養われる。
簡単に言えば、仕事をする。
お金を稼ぐ。
そういう連続性のある緊張感の中で、養われる。
釈迦もこう言っている。
『己(おのれ)こそ、己のよるべ。己をおきて、誰によるべぞ』と。

 それについて以前、こんな原稿を書いた。
話が少し脱線するが、許してほしい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●己こそ、己のよるべ

 法句経の一節に、『己こそ、己のよるべ。己をおきて、誰によるべぞ』というのがある。
法句経というのは、釈迦の生誕地に残る、原始経典の一つだと思えばよい。
釈迦は、「自分こそが、自分が頼るところ。その自分をさておいて、誰に頼るべきか」と。
つまり「自分のことは自分でせよ」と教えている。

 この釈迦の言葉を一語で言いかえると、「自由」ということになる。
自由というのは、もともと「自らに由る」という意味である。
つまり自由というのは、「自分で考え、自分で行動し、自分で責任をとる」ことをいう。
好き勝手なことを気ままにすることを、自由とは言わない。子育ての基本は、この「自由」
にある。

 子どもを自立させるためには、子どもを自由にする。が、いわゆる過干渉ママと呼ばれ
るタイプの母親は、それを許さない。
先生が子どもに話しかけても、すぐ横から割り込んでくる。
私、子どもに向かって、「きのうは、どこへ行ったのかな」
母、横から、「おばあちゃんの家でしょ。おばあちゃんの家。そうでしょ。だったら、そう
言いなさい」
私、再び、子どもに向かって、「楽しかったかな」
母、再び割り込んできて、「楽しかったわよね。そうでしょ。だったら、そう言いなさい」
と。

 このタイプの母親は、子どもに対して、根強い不信感をもっている。
その不信感が姿を変えて、過干渉となる。大きなわだかまりが、過干渉の原因となること
もある。
ある母親は今の夫といやいや結婚した。
だから子どもが何か失敗するたびに、「いつになったら、あなたは、ちゃんとできるように
なるの!」と、はげしく叱っていた。

 次に過保護ママと呼ばれるタイプの母親は、子どもに自分で結論を出させない。
あるいは自分で行動させない。
いろいろな過保護があるが、子どもに大きな影響を与えるのが、精神面での過保護。「乱暴
な子とは遊ばせたくない」ということで、親の庇護(ひご)のもとだけで子育てをするな
ど。子どもは精神的に未熟になり、ひ弱になる。
俗にいう「温室育ち」というタイプの子どもになる。外へ出すと、すぐ風邪をひく。

 さらに溺愛タイプの母親は、子どもに責任をとらせない。
自分と子どもの間に垣根がない。自分イコール、子どもというような考え方をする。
ある母親はこう言った。
「子ども同士が喧嘩をしているのを見ると、自分もその中に飛び込んでいって、相手の子
どもを殴り飛ばしたい衝動にかられます」と。
また別の母親は、自分の息子(中2)が傷害事件をひき起こし補導されたときのこと。
警察で最後の最後まで、相手の子どものほうが悪いと言って、一歩も譲らなかった。
たまたまその場に居あわせた人が、「母親は錯乱状態になり、ワーワーと泣き叫んだり、机
を叩いたりして、手がつけられなかった」と話してくれた。

 己のことは己によらせる。
一見冷たい子育てに見えるかもしれないが、子育ての基本は、子どもを自立させること。
その原点をふみはずして、子育てはありえない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●検証

 現実的に生きようとする私。
その私が別のところで、空想の世界に生きている。
この矛盾?
そこで私はその矛盾を合理化するために、「UFOは迷信ではなく、科学である」と主張
する。

 が、「見たことがある」というだけで、そこから話が前に一歩も進まない。
そういう「会」が、この浜松市にもいくつかあるらしい。
一度は顔を出してみたいと思いつつ、まだ一度も、実行していない。
その会の人たちにしても、立場は、私と同じではないか?
言うなれば、小田原評定。
ああでもない、こうでもないという議論ばかりしていて、先に進まない。
みなで調査に行くというわけにも、いかない。

 が、ここにきて、ひとつ、新しい検証手段が見つかった。
YOUTUBEという検証手段である。
YOUTUBEには、土星のUFOについての映像もアップしてある。
そういうものを検証しながら、自分でそれを確認することができる。
「これは本物だ」とか、「これは怪しい」とか。

 そう言えばこんなUFOもあった(YOUTUBE)。

 そこかの空にUFOが現れた。
そのUFOのこと。
空に浮かんでいたのだが、移動するときだんだんと薄くなり、やがて空に溶け込むよ
うに消えていった。
透明化したとも考えられる。
そのYOUTUBEを見たとき、「このUFOは本物」と、私は確信した。
私が40近くワイフと見たUFOも、そうだったからである。
また当時、そのように文として記録した。
「私が見たUFOは、スーッと空を横切ると、そのまま空に溶け込むようにして
消えていった」と。

 YOUTUBEでその画像を見る、何十年も前のことである。

 ……ということで、眠られぬ夜は、目を閉じて、UFOのことを考える。
しばらくしていると、そのまま眠ってしまう。
それが私にとっての「おとぎ話」。
母親が寝床で子どもに話して聞かせる、「おとぎ話」。
昨夜の私がそうだった。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 眠られぬ夜 UFO問題 オニール橋 土星のUFO)


Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司

●UFO(2007年12月の原稿より)

Have you ever seen an UFO? My wife and I did. It was a midnight after 12:00 o’clock.
We were walking in a narrow street near our flat. It was a huge one, which might be 2 or
3 kilometers in width. Of course it was not a plane. It was so huge. Then if someone asks
me if I believe in UFO’s, I would say, “Yes”. These days at the Parliament House of
Japan, some congressmen discuss about UFO’s in the public. Does this have something
to do with “Kaguya”, a Japanese moon-search rocket? Kaguya is now on the orbit of the
moon, taking photos from the space. I hope the government show us everything about
the Moon. Some scientists as well as people say that the Moon is a giant space-craft for
the aliens. Do you think so too?

+++++++++++++++++

このところ、国会議員たちが、「UFO」
という言葉を、よく口にする。

国会という、公式の場でも、この問題
が取りあげられた(07年12月)。

一応、政府見解は、「存在しない」だが、
一部の議員たちは、「信じている」、「いる
と思う」などと発言している。

こうした一連の発言は、日本が打ちあげた
月探査衛星「かぐや」と、どこかでつながって
いるのではないだろうか?

「かぐや」は、とんでもない映像を地球へ
送り届けてきた(?)。

「とんでもない」というのは、「ありえない」
という意味であり、私はそれがUFOであって
も、少しも、おかしいとは思わない。

アポロ宇宙船で、月の裏側に回ったある宇宙
飛行士は、こう言ったという。

「まるでラッシュ・アワーのように、UFO
が飛び交っている!」と。

+++++++++++++++++++

●オニール橋

 月の内部には、巨大な空間がある。その中心部では、プラズマの人工太陽が、さんさん
と輝いている。月の内側に住む住人たちは、地球人の私たちと同じような生活をしている。

 一見、荒唐無稽(むけい)のような話だが、こうした説を信じている人は多い。科学者
の中にも、いる。たとえば私が子どものころには、月には、オニール橋※というのがあっ
た。「オニール」というのは、その橋を発見した人物の名前である。

 オニールは、ある日、望遠鏡で月を見ていたとき、斜め方向からの太陽光線を浴びて、
そこに橋のような影ができているのを発見した。それでそれを「オニール橋」と名づけた。

 私はその橋のことを、どこかの博覧会に行ったときに知った。巨大なアーチ型の橋で、
全長はたしか、20キロ近くあると聞いたのを記憶している。

 しかし、だ。今、同じところをさがしても、その橋はない。「ない」というより、「消え
た」。今にして思えば、その橋というのは、山から山へと、ちょうどそれらにまたがるよう
に着陸していたUFOではなかったかと思う。

 私自身も、巨大なUFOを目撃している。ブーメラン型のUFOである。全長が2~3
キロはあったかと思う。あるいはもっと長かったかもしれない。よく「葉巻型UFO」が
話題になるが、葉巻型UFOともなると、全長が20~30キロもあるという。

 こういう話を聞くと、月へのロマンが、かぎりなく、ふくらむ。

 月の住人たちは、どこから来たのか?
 月の住人たちは、何をしているのか?
 月の住人たちは、地球人の私たちを、どうしようとしているのか?

 あの月をくりぬいて住むほどの宇宙人だから、かなり頭のよい人たちとみてよい。私た
ち人間より、ひょっとしたら、何千年も、何万年も進化しているかもしれない。あのUF
Oにしても、光速に近いスピードで、宇宙空間を自由自在に動き回れるという。

 私が見たUFOにしても、空にそのまま溶け込むかのようにして、消えていった・・・。

 「かぐや」は、どんな映像を送ってきているのか? その一部は、インターネット上で
も公開されているが、どれも高・高度からのものでしかない。私(=私たち)が見たいの
は、もっと低高度で撮った、倍率の高い写真である。
 
 そこには、月に住む住人たちの、その直接的な証拠が写っているかもしれない。どうか
ウソ隠しなく、(=修正しないで)、すべての写真を公開してほしい。

(注※)(以下、月探査情報ステーションの公式HPより、転載)

オニール橋事件を振り返ってみます。1953年7月、ニューヨーク・ヘラルド・トリビ
ューン紙の科学部長であったJ・J・オニール氏は、月面の「危難の海」の西側に人工的
に作られた橋のようなものを発見したと発表しました。この橋は二つの峰をまたぐような
形で、20kmにもおよび、日没時には観測できましたが、日の出の時には見えなかった、
ということです。

同年8月、英国天文学協会の月研究部長だったH・P・ウィルキンス氏らも同じ構造を確
認したと発表しました。しかし、その後この構造は観測できなくなり、見まちがいだった
のではないかという批判が起こりました。ウィルキンス氏はその批判に抗議し、月研究部
長を辞任したそうです。

当時、オニール橋はかなりの話題を呼び、一部UFO研究家などからは巨大なUFOが一
時的に着陸していたのではという推測もされたそうです。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist UFO オニール オニー
ル橋)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


● 12月24日夜記(2010年)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

● 不景気

 コンビニで、週刊誌を立ち読みする。
一読して、暗い気分になる。
どの週刊誌も、「不景気」一色。
たとえば週刊Sは、「シャッター街」を特集していた。
不景気でシャッターを下ろした、シャッター街。
その通りでは、どの店もシャッターを下ろしたまま。

私自身も、商店で生まれ育った。
それだけに、こういう話は、つらい。
身につまされる。
シャッターを下ろした商店主たちは、どこへ行けばよいのか。
どこへ行ったのか。
さぞかしつらかったことだろう。
そのつらさは、私自身が経験している。

 負け戦(いくさ)なら負け戦でよい。
短期間に終わるなら、まだよい。
しかし商店のばあいは、それが10年単位でつづく。
言うなれば真綿で首を絞められたような状態。
それが綿々とつづく。
ジワジワ、ジワジワと……。
その間に、心まで蝕(むしば)まれる。
もちろん健康にもよくない。

2010年は不景気で始まり、不景気で終わった。
そんな感じがした。
もう少しワクを広げると、平成時代は不景気で始まり、
それがいまだに続いている。
「失われた10年」が、「失われた20年」になった。

今にして思えば、宮Z総理大臣、橋M大蔵大臣。
あの2人が、日本の経済をメチャメチャにしてしまった。
ある週刊誌は、この2人をさして、「戦後の日本のA級戦犯」と書いていた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●北朝鮮、つぎの一手

 北朝鮮は、「聖戦」と称して、またまた韓国を脅した。
今度は、「核戦争の準備を整えた」(12月24日)と。
それに対して、韓国政府は、いつもの脅し(レトリック)ととらえている。
が、本当に、そうか?
そう考えてよいか?

 こういうときは、一度自分の脳を、あの独裁者の脳の中に入れてみる。
彼になりきって、ものを考えてみる。
そうすると彼の思考回路が手に取るようによくわかるようになる。
その状態で、あの独裁者のつぎの一手を考える。
で、そのつぎの一手とは……。

(1) 適当に韓国を挑発する。
(2) 韓国がそれに応じて、反撃してくるのを待つ。
(3) しばらく間を置いて、核実験を強行する。

 問題は核実験する場所だが、北朝鮮の北部や、日本海側ではない。
ズバリ38度戦のすぐ北。
韓国や在韓米軍を脅すには、最適。
そこなら全面戦争にはつながらない。
自国の領土内だから、名分も立つ。

 では、どうやって核兵器を、38度線近くまで運ぶか?
方法は簡単……というより、すでにその場所はできている。
何十本もあるとされるトンネルのひとつを使えばよい。
が、もし韓国の反撃が過ぎたものであれば、ソウルの地下で、ということも
考えられる。
ソウルの下にも、トンネルが走っている。
が、その場合は、核爆発と同時に、北朝鮮軍を一斉に南下させる。
アメリカ軍が反撃を整える前に、プサンまで南下する。
猶予期間は7日。
7日以内なら、北朝鮮は韓国を制圧できる。
それ以後だと、国連軍は反撃態勢を整える。
(2010年12月24日記)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●韓国vs中国

 少し前、中国の漁船が韓国の巡視船に体当たりをした。
韓国の領海内での違法操業が、発端だった。
その結果、中国漁船は沈没。
何人かの死者が出た。

 それについて韓国政府は、それ以上、ことを荒立てないようにという配慮からか、
「遺憾声明」なるものを出した。
「遺憾」という言葉を使った。
死者が出たことについて、「I’m sorry」と言った。
これを受けて、中国政府はそれを「謝罪声明」と曲解し、中国国内で発表した。
「韓国政府が謝罪した」と。
が、これに韓国のマスコミが一斉に反発した。
「事実を歪曲した」、「わざと反韓感情を、かきたてている」と。

 しかし「遺憾」も「謝罪」も、英語では「I’m sorry」。
「残念」「ごめんなさい」という意味。
こういうケースのばあい、「遺憾声明」を出すほうが、おかしい。
少しでも国際外交の知識があったら、こんな言葉は使わなかったはず。
ずいぶんと昔だが、日本もアメリカに対して、同じ失敗をしている。

 それに一言。

 韓国の新聞は、いつも日本のニュースをゆがめて韓国国内へ伝えている。
わざと反日感情をかきたてている。
それについては、今までたびたび書いてきた。
そういう韓国が、中国に対して文句をつける。
このおかしさ。

 少し前のことだが、中国の自動車会社が、韓国の車のデザインを盗用したと、
韓国で問題になった。
しかしその韓国は、どうか?
どうだったか?
10年前まで、日本車をコピーして車を作っていた。
前から見るとTOYOTA、うしろからみるとNISSAN。
そんな車ばかりだった。

 自分の姿を客観的に知ることは、むずかしい。
自分の国を客観的に知ることは、さらにむずかしい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●性欲の奴隷たち

 ある賢者はこう言った。
『若者たちは老人を見ると、みな、バカと思う。
しかし老人たちは若者を見ると、みなバカと思う」と。

 その「境界」、つまり若者と老人を分ける壁が、「性欲」ということになる。
60歳を過ぎると、人は、急速に性欲から解放される。
「衰退する」とか「減退する」というのではない。
「解放される」。

 たとえばこの私。
(こういう話は、正確に書きとめておきたい。)
性欲が消えたわけではない。
ただ最近は、若い女性には、ほとんど興味がない。
どんな写真を見ても、ただの肉塊に見える。
(それとも脂肪の塊?)
胸にしても、腰にしても、ただの肉塊に見える。

 もともとただの肉塊。
肉塊でないと言うほうが、おかしい。
つまり私たちが人間として本来的にもつ本能が、私たちの目を狂わせているだけ。
性欲から解放されると、それがよくわかる。
言い換えると、この私にしても今まで、性欲の奴隷でしかなかった。
それがよくわかる。

 が、それだけではない。
若い女性、とくに化粧に化粧を塗り重ねたような女性を見ると、本当にバカに見える。
恩師のT先生は、そういう人たちを評して、「昆虫のような脳みそ」と表現した。
その言葉をはじめて聞いたときには、私は少なからず違和感を覚えた。
が、今、私も、そう思うようになった。
中身がまったくない。
ないばかりか、薄汚ささえ覚える。
まさに昆虫のような脳みそ。
そういう脳みそしかもっていない。

 性欲の奴隷となり、本能の命ずるままに行動している。
それが悪いというのではない。
それがあるからこそ、ヒトも、子孫を後世に残すことができる。
が、それに溺れてはいけない。
……と言っても、それに溺れている人に、それを説いても意味はない。
それが生きる原動力にもなっている。
あのフロイトも、それを「性的エネルギー」という言葉を使って説明した。
女性だけではない。

 男性がスポーツでがんばるのも、仕事や業績でがんばるのも、結局はその向こうに、
その性的エネルギーがあるから。
それが背後でその人を操る。

 が、60歳を過ぎると、そういう自分が、たいへんよくわかるようになる。
同時に、脳の中を、さわやかな風が吹き通るようになる。
それを私は「性欲からの解放」と呼んだ。

 だから今、私は、若者たちがみな、バカに見える。
ちょうど若者たちが私たち老人をバカと思うように、バカと思う。
自分であって自分でないものに、振り回されているだけ。

 で、今は、どうか?
相手が男性でも、また女性でも、その向こうにある「人間」を見るようになった。
「男性だから……」とか、「女性だから……」とか、そういう外見では区別しない。
1人の人間として、どうなのか、と。

 で、私と同年齢以上の人は、このエッセーを読んで、「そうだ」と納得してくれるはず。
しかし若い人たちには、このエッセーの内容すら理解できないだろう。
「そんなはずはない」とか、「はやし浩司は、きれいごとを並べているだけ」とか、
そう言って反発するかもしれない。
「何を偉そうに」と思う人もいるかもしれない。
私自身もそうだった。
私も若いころは、老人がみな、バカに見えた。

 しかしもしそうなら、男性も女性も、もう一度冷静な目で、異性をながめてみるとよい。
自分にこう問うてみたらよい。
「どうして相手が、ただの肉塊に見えないのか」と。
つまりその(見えなくしているもの)が、私であって私でない部分、つまり本能という
ことになる。

 ……ただしまったく性欲がなくなったわけではない。
ときどきだが、今でも性欲がわいてくるときがある。
突発的にと書くべきか、それとも発作的にと書くべきか。
どうであるにせよ、まったく消えてしまったわけではない。
しかしそれは小便とか大便と同じ。
それに相手は、若い女性ではない。
私のワイフである。

また若いときとちがって、そうした性欲には、いつもある種の虚しさがともなうように
なった。
その虚しさを感じたとたん、自分の中から性欲がスーッと萎(な)えていく。
それが自分でも、よくわかる。
そう言えば、10年ほど前のこと。
ワイフとこんな会話をしたことがある。
私が「今なら、混浴風呂に入っても、そこにいる女性と平気で会話ができると」と
言ったときのこと。
ワイフはこう言った。

「バカねえ。相手の女性がいやがるでしょ。どうしてあなたにはそれがわからないの!」
と。

 ハハハ。
そうだった。
相手のことを考えていなかった。
若い女性が私のようなジジイなど、相手にするはずがない。
ハハハ。
この話は、ここまで。
こういう話は、どうも苦手。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●12月24日

 今夜はクリスマス・イブ。
夜遅く、ワイフと山荘にやってきた。
毎年、家でクリスマスをささやかに祝ってきた。
2人だけで。
ときに長男を加えて3人だけで。

が、今年は、やめた。
つまり家で祝うのは、やめた。
そのかわり、教室の生徒たちといっしょに、祝った。
いくつかのゲームをした。
記念撮影もした。
それがめちゃめちゃ、楽しかった。
ワイフもうれしそうだった。
その様子は、ビデオカメラに収めた。
明日にはYOUTUBE上で、公開するつもり。

 で、ここへ来る途中、ワイフといろいろな話をした。

私「ぼくね、最近は、生徒と自分の息子たちや孫たちと区別できなくなった」
ワ「私も、そうよ」
私「なっ、そうだろ。少し前までは、生徒は生徒、家族は家族というふうに区別していた」
ワ「たしかに区別していたわね」
私「が、今はちがう。息子たちや孫たちが、毎日ぼくに会いに来てくれる。そんなふうに
考えるようになった」
ワ「そうね。あなたの生徒を見る目は、明らかに変わってきたわよ。生徒を見たとたん、
あなたの顔がパッと輝くわよ。それがわかるわ」と。

 去年までは、さみしいクリスマスだった。
しかし今年は、ちがった。
楽しかった。
つまり家族を家族と区別するから、さみしくなる。
しかしその壁を取り払えば、そこにいるのは、みな、私の家族。
とたん、今まで感じていたさみしさが、ウソのように消える。

 今年のクリスマスは、そういう点では意味があった。
自分の世界を広げることができた。
新しい感覚を、ゲット!
これからは、そのワクを広げていけばよい。
みなさん、メリークリスマス!

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●良妻vs悪妻

 昨日、二男にこんなメールを出した。
「貴君のワイフはすばらしい人だよ。自信をもっていいよ」と。
すかさず二男から返事が届いた。
「どうして、パパにそれがわかるのか?」と。

 で、私はこう書いた。
「ぼくは若いころから、女性の世界で生きてきた。
今でも毎日、10~20人の母親と呼ばれる女性と会っている。
だからそれがよくわかる」と。

 良妻か悪妻か。
それは当の夫には、判断できないかもしれない。
良妻であっても、悪妻であっても、その女性しか知らない。
比較して判断することができない。

しかし良妻と呼ばれる人は、たしかにいる。
またそういう女性と結婚した男性は、幸福。
そうでない男性は、不幸。
さらに悪妻と結婚した男性は、もっと不幸。
が、不幸なことに、自分が不幸であることにさえ気がつかない。
やがて子どもができたりして、一生を、憂うつなまま過ごす。
棒に振る。

 それについてワイフがやはり車の中で、こう聞いた。
「じゃあ、どうして結婚してしまうのかしら?」と。

私「本能の力のほうが、それだけ強力ということじゃないかな」
ワ「がまんできなくなるというわけ」
私「そうだろうね。そこに異性がいると、たがいにがまんできなくなる。
だから結婚してしまう。理性のブレーキが働かなくなる」
ワ「私たちもそうだったかしら」
私「例外はないよ」と。

 悪妻になるとわかっていても、性欲のほうが理性を押しつぶしてしまう。
だから結婚する。
子どもまで作ってしまう。
しかしそのあたりで、「恋のホルモン」の有効期限が切れる。
とたん、そこに待っているのは、きびしい現実。
悪妻だったからという理由で、離婚することもできない。

ワ「だったら、結婚なんて、くじを引くようなものね」
私「ぼくも、そう思う。くじ引きと同じ」
ワ「でもそのときは、『この人しかいない』と思って、みな、結婚するわよ」
私「ハハハ、それが本能。本能のなせるわざ」
ワ「で、あなたはどうなの?」
私「ぼくかあ? ぼくねえ? ぼくは運がよかったと思っているよ。
お前のようないいワイフに恵まれて……」と。

 良妻か悪妻か。
それは10年とか20年とかでは、わからない。
少なくとも子育てが終わるまで、わからない。
そのころわかる。
子育てが終わったとき、ともに理解しあい、助けあい、励ましあうことができるなら、
良妻ということになる。
が、それよりも大切なことは、そばにいるだけで安心感を覚えること。
やすらぎを覚えること。
ふだんは空気のような存在。
けんかもするが、2日以上は、つづかない。
それがあれば、良妻。
それがなければ、悪妻。

私「派手な恋愛をしたからといって、幸福な家庭を築くとはかぎらない。
結婚式にしても、そうだ。
皮肉なことに、派手な結婚式をしたカップルほど、あとがあやしいね」
ワ「……」と。

 これは慰めか。
私たち夫婦は、その結婚式をしていない。
そのお金がなかった。
が、今になってみると、しなくてよかったと思っている。
私流の生き様を貫くことができた。
一抹のさみしさは、ある。
しかしそれは耐えられない(さみしさ)ではない。

 晃子へ、

 いろいろ今まで、ありがとう。
口ではうまく言えないが、愛しているよ!

 二男へ、

 最近の若い女性には、貴君が想像もつかないようなバカが多い。
「バカママ」という言葉が、一時流行語になったが、それが最近はさらにひどくなった。
理性のひとかけらもないような女性が、母親の顔をして、子育てをしている。
まだ幼児の子どもに、整形手術を施したりしてね。
ああいうのは、法律で禁止すべき、と、ぼくは思う。
先日は、コンビニで自分の息子(小学生)に、「テメエ、マジ、バカか!」と叫んでいた
母親を見かけた。
まともな日本語すら、話せない。

 貴君は幸いにも、そういう女性を知らない。
そういう世界で生きていない。
だから身近にいる人の、すばらしさが理解できない。
貴君のワイフは、まちがいなくすばらしい人だよ。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●コタツの中で

 ワイフは隣の部屋で眠っている。
私はこうしてコタツの中で、文を書いている。
私にとっては、至極のとき。
楽しい。
できるなら明日の朝まで、こうして文を書いていたい。

 外気は冷たいはずなのに、寒さを感じない。
コタツだけで、じゅうぶん暖かい。

どうしてだろう。
どうしてこんなに文を書いていると、楽しいのだろう。
いや、反対に1日も文を書かないでいると、頭の中がモヤモヤとしてくる。
それが、私にはかえって苦痛。
だから文を書く。
書いて、モヤモヤを叩き出す。
その爽快感は、たまらない。
たとえて言うなら、便秘か何かでたまったウxxが、ドサッと出たときの気分に似ている。
うまく文章にまとまれば、なおさら。

 さらに最近は、私に似た人に出会うと、うれしくてならない。
「私はヒマさえあれば、文を書いています」「私もそうです」と。
とたん100年来の友人のようになってしまう。

 ……そう言えば、今井修という人もそうだった。
この浜松に住むようになって、最初の友人だった。
年齢は、私より7歳ほど、上だった。
その今井さんも、いつも原稿用紙に文を書いていた。
「いつか作家になる」が、口癖だった。

 その「今井修」という名前が出てきた。
ワイフのほうから、その名前を口にした。
「あの今井さんは、若くして死んでしまったわね」と。

 いつも焼酎片手に、タバコを吸いながら原稿を書いていた。
死因は食道がん。
わかりすぎるほど、わかりやすい死因だった。
ちょうど30歳になったときのことだった。

私「ぼくね、今井さんを思い出すたびに、今井さんの分まで、書いてやろうという
気持ちになるよ」
ワ「いい人だったわね」
私「そうだよ。本当にいい人だった」
ワ「文章はどうだったの?」
私「昔風の、くどい文章だった。ぼくは好きではなかった。ほら、ぼくは短い
文で、ポンポンと書くのが好きだったからね。漢字もできるだけ使わないように
している」
ワ「今井さんは……?」
私「ほら、あの人はアル中だっただろ。酒を飲んでいないと手が震え、ペンが
持てなかった。だからああいう文章になったんじゃないかな」と。

 文の書き方は、人それぞれ。
みな、ちがう。
読む側にしても、好き好きがある。
私の文章が好きという人もいれば、そうでない人もいる。
私は私。
今井さんは今井さん。
しかし重要なことは、自分の心を偽らないこと。
ありのままを、正直に書くこと。
文のじょうず、へたは、次の次。

 だれのためでもない。
文というのは、自分のために書く。
多くの人に読んでほしいとは思う。
しかしだからといって、媚(こび)を売ってはいけない。
言い換えると、私は文を書いているときだけ、言いようのない解放感を覚える。
大空をはばたくことができる。
またそれがあるから、文を書く。

 ……ということで、かなり眠くなってきた。
12月24日は終わり、今はもう25日。
2010年12月25日。
では、みなさん、おやすみなさい!
今日も、1日、無事、終わりました!
ありがとうございました!


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