●日本の相撲(欲望とは?)
●欲望の奴隷たち(日本相撲協会)
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日本相撲協会が、揺れに揺れている。
おとといの新聞では、こんな記事もあった。
アンケート調査に対して、「親方が部屋の力士たちに、
みんな『なかった』に○をつけろ」と指示した」(中日新聞)と。
そういう部屋もあったという。
つまり「八百長があったかどうか」という
アンケート調査に対して、「なかった」に○をつけろ、と。
親方が部屋の力士に、それを指示したという。
さらに昨日の報道によれば、疑惑の渦中に
ある力士の中には、「携帯電話を壊してしまった」
「紛失してしまった」と答えた人もいたという
(同、中日新聞)。
が、韓国の報道によれば、読売新聞発として、
「さらに5人が、八百長相撲をしていた」とか。
が、何よりも忘れてならないのは、
我々が怒っているという事実。
春場所の中止くらいではすまない。
今までもそのつど八百長相撲がうわさされたことは、
何度かある。
が、そのつど日本相撲協会は、「事実無根」と、
反発してきた。
それを指摘した週刊誌を逆告発したこともある。
その日本相撲協会。
うみを出したら、皮しか残らない。
公益法人の取り消しは当然。
春場所の中止は、これまた当然。
……というのも、今回の一連の八百長相撲事件を
通して真っ先に思い出すのが、あの拉致事件。
北朝鮮による拉致事件は、あった。
にもかかわらずそれまで、北朝鮮は、それを
指摘されると、「知らぬ、存ぜぬ」を繰り返していた。
ときには会議の担当者が激昂(げっこう)し、机まで
叩いてみせたという。
たいていそのまま会議は中断。
日本相撲協会……人間の醜さ、ここに極まれり。
その裏では、億単位の現金が乱舞している。
八百長相撲は、日常的になされていた。
メールのやり取りを読んだだけでも、それがわかる。
言い慣れた書き方。
やり慣れた、取り組みの仕方。
だれも一部の力士による、今回だけの事件とは、
思っていない。
日本相撲協会は、「3人以外、関与否定」(中日新聞・
2011・2・6)という大見出しをトップに
かかげた。
証拠をつきつけられた範囲内でしか、罪を認めない?
こんなやり方で、国民が納得するはずがない。
我々の怒りのボルテージは、ますます上昇している。
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●興業
興業なら興業と割り切ればよい。
金儲けが目的。
プロレスがそうである。
そこで素朴な疑問。
プロレスと相撲は、どこがどうちがうというのか。
「伝統的国技」とはいうものの、中身は同じ。
もちろん、「相撲を廃止しろ」と書いているのではない。
伝統的国技であることには、ちがいない。
それなりの保護や助成は、必要。
しかしそれにも「限度」がある。
たとえばNHKと日本相撲協会とは、太いパイプでつながれている。
その「場所」になると、NHK(BS)は、午後1時前後から、6時過ぎまで
実況中継している。
そのあとの定時のニュースでも、勝敗を紹介している。
が、常識で考えても、そこまでする必要があるのか。
明らかに「限度」を超えている。
●欲望
現在の日本相撲協会を、報道という窓を通してその外から見ていると、
「欲望とは何か」。
そこまで考えてしまう。
まったく話が変わるが、たまたま昨日も、どこかの小学校教師が、盗撮し、
逮捕された。
教室のあちこちに隠しカメラを設置し、女児の脱ぎ着を盗撮していたという。
「どうして?」……、つまり「どうしてそんなことをするのか?」というより、
「どうしてこういう事件が繰り返されるのか」ということ。
10年ほど前、この浜松市の高校でも、あった。
女子の更衣室にやはり隠しカメラを置き、女子生徒の脱ぎ着を盗撮していた。
学校の教師なら、こういう事件を、近くで見聞きしているはず。
どんな罪になるかも、知っているはず。
が、それでもその欲望を、抑えることができない。
つまりそれが「欲望の力」ということになる。
言い換えると、欲望の力には、ものすごいものがある。
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昨年(2009年9月)に、こんな
原稿を書いた。
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●欲望vs理性
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昨夜遅く、近くにオープンした靴屋へ行ってきた。
開店初日には、何百台という車が並んだ。
西日本第一の規模を誇るという。
超大型店。
……それから1週間。
やっと楽に入店できるようになった。
で、オープンセールということもあった。
ふつうなら8000~1万円もするような靴が、
(本当のところ、私には靴の値段はわからないが)、
2500~3000円で売られていた。
私が1足、ワイフが1足、買った。
2足で、4800円!
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●生きる原動力
生きているだけでも、すばらしいこと。
ものが見える、ものが聞こえる、話ができる……。
そういう視点に立てば、あらゆる問題が解決する。
が、ただ生きているだけでは、人間は満足できない。
視床下部から脳全体に、常にシグナルが送られる。
そのシグナルに応じて、もろもろのホルモンが分泌される。
そのひとつにドーパミンがある。
人間の快楽と欲望を司る脳内ホルモンである。
それが人間が生きる原動力となる。
それをフロイトは「性的エネルギー」と呼んだ。
ユングは「生的エネルギー」と呼んだ。
(これは私の勝手な解釈によるもの。)
●理性vs欲望
しかし脳内ホルモンの命令するままに行動していたら、たいへんなことになる。
人間のもつ欲望には、際限がない。
しかもドロドロと薄汚い。
そこでそれをコントロールするのが、理性、つまり前頭連合野ということになる。
もし善と悪を大脳生理学的に考えるなら、前頭連合野が司る理性が、善、
ドーパミンに支配される欲望の世界が、悪ということになる。
が、前頭連合野の力には限界がある。
欲望の力のほうがはるかに強力。
パワーフル。
大学の教授だって、手鏡で女性のスカートの下をのぞく。
それもそのはず。
欲望は、「生きる力」そのものと直結している。
食欲にしても性欲にしても、また物欲、権力欲にしても、「生きる力」を土台にして
生まれる。
善と悪は、そういう点でも平等ではない。
●メカニズム
では、理性に勝ち目はないかというと、そうとも言い切れない。
ここに書いたようなメカニズム、(あくまでも私が考えたメカニズムだが)、それが
わかるだけでも、そこに「敵」が見えてくる。
まずいのは、欲望に操られるまま、操られていると気がつかないで、行動すること。
欲望の奴隷になること。
が、こうしたメカニズムがわかってくると、自分自身を一歩退いたところから、
客観的に見つめることができるようになる。
たとえば食欲にしても、「食べなければ損なのか。食べたら損(そこ)ねるのか」と。
自分で自分の食欲をコントロールすることができるようになる。
食べ放題の店とか、ホテルのバイキング料理とかへ行くと、そういう経験をよくする。
そういうところで、欲望の命令するまま食物を口に入れていたら、あっという間に、
体をこわす。
……といっても、そんなことでも簡単なことではない。
私などどこかの旅館やホテルで一泊するたびに、2~3キロも体重がふえてしまう。
で、そのあとあわててダイエット。
その繰り返し。
●靴屋で……
同じような現象を、昨夜、靴屋でも経験した。
安い。
確かに安い。
値段を見ているうちに、「買わなければ損」という欲望が、猛烈にわいてきた。
実際、近くを見ると買い物かごに、3~6足も靴を入れて歩いている人がいた。
子連れだったが、10足近く、まとめて買っている夫婦もいた。
が、それにブレーキをかけたのは、ほかならぬ理性だった。
(持ちあわせが少なかったこともあるが……。ハハハ。)
「靴などというものは、1足を大切にはく。それがはけなくなったら、また買う」と。
たとえば6足を3年ではくとすると、1年に2足となる。
しかし1足を1年はけば、結局は、半額ということになる。
それがわかったとき、「オール20%引き」という文字が、かなり色あせて見えた。
つまりこうして自分の欲望にそのつどブレーキをかけていく。
そういう習慣を身につける。
それが積み重なって、理性の力で欲望をコントロールすることができるようになる。
平たくいえば、欲望をコントロールできるかできないかは、能力の問題ではなく、
習慣の問題ということ。
習慣の中で、理性の力を養っていく。
……今朝は、そんなことを発見した。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 欲望 理性 生的エネルギー 欲望をコントロール)
●欲望
欲望をコントロールするのは、むずかしい。
たいへんむずかしい。
個人の力では、(もちろん個人差もあるが)、不可能とさえ考えてよい。
では、どうするか?
私は「システム」の問題と考えている。
たとえば日本相撲協会。
たとえば学校制度。
政治にしても、そうだ。
欲望の追求がすべて「悪」ということではない。
しかしそこにブレーキをかけるのが、システムということになる。
平たく言えば、できるだけ多くの人たちの目を通して、個人の欲望を監視する。
厳罰主義でもよい。
たとえばオーストラリアでは、18歳未満の女子との性的な関係は、きびしく
禁止されている。
見聞きし、それを届けなかっただけでも、罪に問われる。
日本風に言えば、「不作為罪」ということになる。
相撲について言えば、「八百長」という言葉そのものが、相撲の世界から生まれている。
明治の昔から、八百長相撲は、常識だったと考えてよい。
だったら、相撲というのは、もともとそういうものとして、見ればよい。
プロレスを例にあげるまでもない。
が、それでもだめだというのなら、万人が等しく参加できる「スポーツ」にすればよい。
サッカーや野球を例にあげるまでもない。
日本相撲協会は、「国技」を隠れ蓑に、あまりにも好き勝手なことをしすぎた。
欲望を追求しすぎた。
「うみ」が、たまり過ぎた。
それが今、一気に外に噴き出した。
日本相撲協会の「土下座」だけを見て、それで終わらせてはいけない。
Hiroshi Hayashi+++++++Sep. 2010++++++はやし浩司
Hiroshi Hayashi+++++++Feb. 2011++++++はやし浩司・林浩司
●子どもの人格の完成度(2009年11月発表の原稿より)
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子どものばあい、その年齢に比して、
幼児ぽい(幼稚ぽい)というのは、
好ましいことではない。
やってよいことと、やっていけないことの
区別ができない。
突然、突飛もない行動をしたりする。
子どもの人格の完成度は、子どもの
様子を、ほかの子どもと比較して判断する。
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●前頭連合野
「理性の府」と呼ばれるのが、前頭連合野。
この前頭連合野が何らかの形で損傷を受けると、善悪の判断が適切に
できなくなる。
欲望の命ずるまま、勝手な行動を繰り返すこともある。
晩年の兄が、そうだった。
玄関先で小便をしたり、自動車のナンバーに、マジックインクで、いたずら書きを
したりした。
ゴミを捨てに行くときも、そのゴミを、近所の家の間にはさんで帰ってきたことも
ある。
兄は、若いころから母の過干渉により、自分で考えるということができなかった。
それが晩年、ひどくなった。
軽い認知症が加わり、さらにひどくなった。
子どものばあいでも、異常な過関心が日常化すると、似たような症状を示す。
「自分で考える」という習慣そのものが、育たない。
「自分で行動する」ということはできるが、その「行動」に対して責任を取らない。
「責任を取る」という意味すら、理解できない。
強く叱ると、そのときだけは、(さも、叱られています)という姿勢(ジェスチャ)
をして見せる。
しかしジェスチャだけ。
その実、何も反省していない。
●ある母親
その母親(当時35歳くらい)は、たいへん口うるさい人だった。
いつも子どもたち(息子と娘)を相手に、ガミガミと怒鳴ってばかりいた。
そのため子どもたちは、一見、従順な子どもになった。
が、自分で考えて、責任を取るということが、できなかった。
その母親自身も、子どものころ、今で言うAD・HD児ではなかったかと思う。
異常な多弁性が、特徴的だった。
電話で話しても、いつも一方的にまくしたてるだけ。
相手の話を聞かない。
聞かないというより、相手に話させるようなスキ(?)をつくらない。
話の内容も、ポンポンと飛ぶ。
ある日のことだった。
何かの会合に、その母親が娘を連れてきた。
娘は当時、10歳くらいではなかったか。
その娘にこう言っていた。
「お茶を出すときは、絵柄を相手に向けて出すのよ、わかった?」と。
そしてお茶の出し方を、みなの前で、こまごまと指導していた。
一方、私は、そのときまで、そういったことに注意を払ったことは、一度も
なかった。
そういう作法があることさえ、知らなかった。
しかしその母親の頭の中には、そういった情報が、ぎっしりと詰まっていたらしい。
ことあるごとに、こまごまとしたことを、娘に指示していた。
私はそれを聞きながら、「こういう母親では、子どもたちも息が詰まるだろうな」と
思った。
●常識ハズレ
結果としてそうなったのだろうが、息子も娘も、中学生のころには、いろいろな
事件を引き起こすようになった。
とくに息子のほうは、その町内でも有名なほど、「グレた」(同じ町内に住む友人の話)。
娘のほうも、同じような経過をたどった。
が、息子も娘も、見た感じでは、ごくふつうの子どもといった感じだった。
おとなたちの前では、おとなしく、無口だった。
親の言うことには、従順に従っていた。
が、常識ハズレはつづいた。
これは人伝えに聞いた話だが、結婚式の当日、息子は、暴走族仲間を連れてきた
という。
予定外のハプニングに、母親は、(もちろん父親も)、あわてた。
しかしそれも後の祭り。
盛大な結婚式を用意しただけに、親たちは、かえって恥をかかされるところとなった。
●子育て自由論
「自由」とは、もともとは、「自らに由(よ)る」という意味。
自分で考え、自分で行動し、自分で責任を取る。
この3つを重ねて、「自由」という。
そのためには、子どもには、まず自分で考えさせる。
行動させる。
そして自分で責任を取らせる。
これは乳幼児期からの、子育ての基本ということになる。
そのためには、いくつかの前提がある。
(1) 子どもをひとりの人間と認める。
(2) 親意識(とくに悪玉親意識)を捨てる。
(3) 友として、子どもの横に立つ。
ここでいう「悪玉親意識」というのは、親風を吹かすことをいう。
頭ごなしに、ガミガミ言うのは、禁物。
それが日常化すると、子どもは自分で考えることができなくなってしまう。
親の言うことには従順に従っても、母親がいないところでは、何もできなく
なってしまう。
あとは、(ますますガミガミ言う)→(ますます常識はずれになる)の悪循環。
それを繰り返す。
●早期診断
こうした悪循環は、早期発見、早期解決が何よりも、大切。
私の経験では、子どもが3~4歳児になるころには、たいてい手遅れ。
というのも、子育ては(リズム)。
そのリズムは、ひょっとしたら、子どもを妊娠したときから始まっている。
そのリズムを直すのは、容易なことではない。
基本的には、心配先行型の育児姿勢がその背景にあるとみる。
(異常な溺愛、あるいはその背景に、親自身の情緒的な欠陥が、子どもの精神的な
発育をはばむこともある。)
さらに言えば、親自身に、ちゃんとした(親像)がしみこんでいない。
親自身が、不幸にして不幸な家庭で、育っている。
根は深い。
が、気がつけば、よい。
こうした問題は、気がつけばよい。
気がつけば、あとは時間が解決してくれる。
5年とか、10年とかはかかるが、時間が解決してくれる。
まずいのは、そういう(過去)があることに気づかず、同じ失敗を繰り返すこと。
過去に振り回されること。
その診断の目安のひとつが、「人格の完成度」ということになる。
満5~6歳になると、子どもの核(コア・アイデンテティ)が、見えてくる。
「この子は、こういう子」という、つかみどころをいう。
そのとき、「うちの子は、どこかおとなっぽい」と言うのであれば、よし。
しかし反対に、「うちの子は、どこか幼稚ぽい」と感じたとしたら、人格の核形成
が遅れているとみてよい。
幼稚園や保育園の中での言動を、ほかの子どもと比較すれば、それがわかる。
●子どもらしさと幼稚性
誤解がないように書いておく。
子どもが子どもらしい心をもっているということと、幼児性(幼稚性)が残って
いるというのは、別問題である。
子どもらしい、素直さ、明るさ、無邪気さをもっているというのは、むしろ好ましい。
一方、ここでいう幼児性(幼稚性)は、退行的な症状をいう。
騒いでいけないような場所で、騒いでみせたり、平気で人が困るようなことを
したりする。
言ってはいけないような冗談を口にしたり、悪いことでも平気でする、など。
その場の雰囲気を、適切に判断できない。
赤ちゃん返りのような、甘ったれた、ネチネチしたものの言い方をするときもある。
が、何よりも目立つのは、常識はずれな行為。
色水をバケツの中で溶かし、それを幼稚園のベランダから、下の子どもにかけていた
子ども(年長・男児)がいた。
コンセントに粘土をつめて遊んでいた子ども(年長・男児)もいた。
小学3年生の子ども(男児)だが、虫の死骸をマッチ箱に詰めて、それを誕生日
プレゼントにした子どももいた。
そういうのを幼児性(幼稚性)という。
●では、どうするか?
自分で考える子どもにするには、読書が効果的である。
反対に、読書が好きな子どもは、例外なく、様子がおとなっぽい。
人格の完成度が高い。
親自身についても、そうだ。
先にあげた母親のばあい、識字能力に問題があり、本や雑誌をまったくといってよい
ほど、読まなかった。
ある日何かの書類を手渡したことがあるが、その母親は、それを見せるやいなや、
片手で、それを払いのけてしまった。
「私には、こんなもの、読めません!」と。
文字に対する拒否反応すら示していた。
つまりこの問題は、子どもの問題というよりは、母親の問題。
家族の問題ということになる。
子どもは、その家族の「代表」に過ぎない。
母親は今でもガミガミと子どもたちを叱りつづけている。
叱られるべきは、母親自身ということになる。
が、悲しいことに、自分を客観的に判断する能力すら、もっていない。
●ものを書く
あとは、ものを書くという習慣を勧める。
ものを書くことによって、人は考える。
その(考える)という習慣が、長い時間をかけて、その人の人格を完成させる。
日記でもエッセーでも、何でもよい。
ひとつのことがらが気になったら、それについて、自分の意見を書き添える。
それだけのことで、考えるという習慣を身につけることができる。
それを5年とか、10年単位でつづける。
その結果として、人は、「自ら考える人」になることができる。
繰り返すが、子どもの人格の完成度は、あくまでも、その結果として決まる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
BW はやし浩司 欲望 欲望の抑制 コントロール 前頭連合野 理性の府 理性とは)
Hiroshi Hayashi+++++++Feb. 2011++++++はやし浩司・林浩司
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