●虚栄の構造
【虚栄の構造】(虚栄vs自慢)
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虚栄心の強い人というのは、いる。
自分の体を、クジャクの羽で飾り、
自分ではクジャクになったつもりでいる。
が、(飾り)は(飾り)。
どこまでいっても、(飾り)。
その一方で、虚栄心のない人はいない。
程度の差はある。
が、人間が社会的動物、つまり他者との
つながりの中で生きる動物である以上、
この虚栄心と決別することはできない。
私たちはいつも、他者の(目)を意識している。
それが虚栄心の原点と考えてよい。
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●私の母
私の母も、虚栄心の強い人だった。
「本家」ということもあり、その分、自負心も強かった。
姉御(あねご)意識も強かった。
そのため、年金しか収入のないオジ、オバの生活費まで負担していた。
が、母自身はぜいたくをしていたわけではない。
母自身は、質素な人だった。
死んだときも、祖父母が残した置物類をのぞいて、財産らしいものは何もなかった。
にもかかわらず、母は人一倍、見栄を張った。
つまりそれが母にとっては、ステータスだった。
母はそのつど、「祖父が財産を残してくれた」と、人には言っていた。
しかしこれは私の名誉(?)にかけて言う。
が、祖父が残した財産……というより、私が中学生のときには、家計はすでに火の車
だった。
祖父は毎日、道楽で、バイクをいじって遊んでいた。
母はそれでよいとしても、金銭的負担は、すべて私がした。
母は、そのつど浜松へやってきては、私からむしり取るようにして、現金をもって帰った。
容赦しなかった。
貯金通帳がカラになるたびに、ワイフは、泣いた。
それでも母は、容赦しなかった。
結婚し、長男が生まれたときも、私のところへやってきて、私の貯金を全額おろさせた。
「先祖を守るために、親が息子の金を使って、何が悪い!」と。
それが母の口癖だった。
この文を読んだ人は、「とんでもない親」と思うかもしれない。
しかし当時は、まだそういう時代だった。
そういう常識(=意識)をもっていた人は、少なくなかった。
私の母も、その1人に過ぎなかった。
言い換えると、虚栄心には、それほどまでに強い「魔力」がある。
一度その魔力に染まると、自分でも自分がわからなくなる。
「世間体」という、他人の目の中で生きるようになる。
●自慢と虚栄
……私はあえて母のことを書くことによって、自分の中に潜む虚栄心を
たたきつぶしてみた。
本来なら、すばらしい両親をもち、それなりの家系の生まれと書きたい。
しかしそんなもの、どこを探してもない。
名字は「林」。
名前からもわかるように、先祖は、百姓。
一度祖父に連れられて、祖父の生まれ育った家に行ってみたことがある。
私が小学6年生か、中学1年生のときのことだった。
祖父の家は、すでに空き家になっていた。
道路脇の小さな家で、土壁がむき出しになっていた。
窓らしい窓もない、粗末な家だった。
祖父は8歳のとき家を出、そのまま鍛冶屋で丁稚(でっち)として働いた。
が、ここまで書いて、迷いが生じた。
「ここまで書く必要があるのか?」と。
こんなことを書けば、いとこの中には、不愉快に思う人もいるかもしれない。
「林家、林家」と、「林」の名を自慢にしている人もいる。
私もこの年齢になったから、つまり平均余命まで、あと10数年になったから、
こんなことが書ける。
あと数年で健康寿命は尽き、そのあとは、病魔との闘いということになる。
ボケの心配もある。
今さら、虚栄を張ったところで、何になる。
●自慢
が、それでも虚栄心は残る。
モヤモヤと残る。
自慢たらしい自分。
いつもそういう自分がそこにいて、上からにニヤニヤと笑って私を見おろしている。
そこで私はやめた。
息子たちの自慢。
家の自慢。
夫婦の自慢、などなど。
自慢すればするほど、自分がみじめになる。
だから私はやめた。
同時に幸福そうなフリをするのも、やめた。
健康そうなフリをするのも、やめた。
もっとも今は、それなりに満足した生活を送っている。
成人病とも無縁だし、小さな故障を除けば、健康。
ともかくも、自慢は、そのまま虚栄心に直結する。
その虚栄心が、自分の心を狂わす。
●本題
さて、本題。
何故に、人は虚栄心をもつのか。
もちろんその原点には、「人に認められたい」という本能的な欲求がある。
あるいは虚栄を張ることによって、「優越性を保ちたい」という本能的な欲求もある。
それほど収入のない人が、無理をして高級車を乗り回すケースを想像してみればよい。
(もちろん中には、車が好きで、そうしている人もいるが……。)
が、ここで壁にぶつかる。
人に認められたからといって、それがどうなのか?
優越性を保ったからといって、それがどうなのか?
冷静に考えれば、そうなるが、これが地域社会という「狭い社会」に入ると、変節する。
とくに「田舎」と呼ばれる社会ではそうだ。
むかし、私にこう言った友人がいた。
私が「自転車通勤をしている」と言ったときのこと。
その友人は、こう言った。
「ぼくらは会計士をしているから、恥ずかしくて、とてもそんなことはできないよ」と。
そういうケースもないわけではない。
しかしあのビル・ゲーツは、ひとりで東京駅から成田まで、電車に乗っていった。
粗末な服装に、カバンひとつで。
そのときビル・ゲーツは、私たちのうしろに並んで立っていた。
私が「あなたはビル・ゲーツですね」と声をかけると、はにかみながら、「YES」と※。
わかるかな?
あのビル・ゲーツが、電車に乗っていた!
(注※)そのとき、私とワイフ、それに息子(三男)がそこにいた。
息子はそのとき、興奮状態になってしまった。
みなで記念撮影をしたが、息子の携帯電話に、その写真は残っていなかった。
残念!
●虚栄心と闘う
結局は「視野の広さ」ということになる。
「道徳の完成度」は、つぎの5つで評価される(コールバーグの「道徳の完成論」
を参考)。
(1) 公正性
(2) 普遍性
(3) 一貫性
(4) 正義性
(5) 視野の広大性
この中の(5)の視野の広大性こそが、虚栄心と闘う唯一の方法ということになる。
それができれば、(1) 公正性、(2) 普遍性、(3) 一貫性、(4) 正義性は、
自然な形で、おのずと生まれてくる。
言い換えると、虚栄心に毒されると、公平性、普遍性、一貫性、正義性が、粉のように
なって崩れていく。
たとえば友人の中には、1億1000万円もするような車を、まとめて10台も
購入した人がいる。
全豪イチの長者番付にも載ったことがある。
そういう友人が近くにいると、高級車に乗って得意がっている人を見ると、正直に
告白するが、バカ(失礼!)に見える。
名誉や地位にしても、そうだ。
だから、虚栄心を覚えたら、いかにしてそれと闘うというよりは、いかにして視野を
広くするかということになる。
その視野が広ければ広いほど、虚栄心が、姿を縮める。
宇宙観、人生論、生命観、死生観、宗教観などなど。
要するに、ありのままの自分で生きるということ。
ありのままの自分をさらけ出して生きるということ。
チッポケな人間なら、チッポケな人間で、よいではないか。
つまりサルの惑星で、サルたちと競っても意味はない。
(私も、そのサルの1人。誤解のないように!)
これは自分の人生をより有意義に生きるための、大鉄則ということになる。
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以下、以前、書いた原稿をいくつか、
添付します。
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●道徳完成論(2007年11月記)
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子どもにとって、道徳とは何か。
子どもの道徳の完成度は、つぎ
の5つで決まる。
称して、はやし浩司の「道徳
完成論」。
(1) 公正性
(2) 普遍性
(3) 一貫性
(4) 正義性
(5) 視野の広大性
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(1) 公正性
たとえばあなたの親類の1人が、万引きしていたとする。そのときあなたは、その親類
に対して、どう行動をとるだろうか。見て見ぬフリをするだろうか。あるいは、悪いこと
は悪いこととして、その親類を注意するだろうか。さらに店の人に通報するだろうか。相
手がだれであれ、ものごとを公正に判断できる人を、道徳の完成度の高い人という。
(2) 普遍性
ものの価値観が、世界的標準で、常識的であること。だれが聞いても、納得できる人生
観、哲学をもっている。おかしな思想に染まり、かたよったものの考え方をする人は、そ
れだけで道徳の完成度の低い人とみる。
(3) 一貫性
言っていることに、いつも一貫性があること。反対に、会うたびに言うことが変わった
り、様子が変わったりする人は、それだけで道徳の完成度の低い人ということになる。誘
惑にも弱く、悪事に染まりやすい。一方、一貫性のある人は、言動と行動が一致している。
(4) 正義性
視点がいつも弱者の側にあり、他人に対しても、また自分に対しても誠実であること。
自分に対して誠実ということは、心を偽らないこと。いつもありのままの自分を、外に出
すことをいう。また他人に対して誠実であるというには、ウソをつかない。約束を守る。
この2つが、日常生活の中で、自然な形で実行できることをいう。
(5) 視野の広大性
ものの考え方が、人間、生物、地球、宇宙・・・と、広いことを、「視野の広大性」とい
う。一方、卑近な問題に右往左往し、私利私欲にかられたり、利己的なものの考え方をす
る人は、視野が狭いということになる。
教育の場で、(家庭教育においても、そうだが……)、「道徳」を考えたら、この5つの柱
を参考にしてみてほしい。何かの役に立つはず。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
道徳 道徳の完成 道徳の完成度 道徳完成度 子どもの道徳 子供のの道徳 道徳教育)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●「私」論、3つの条件(2005年6月10日記)
「私」とは、何か? つまりそれぞれの人には、「私」がある。しかしそれぞれの人は、
いつも「私」とは何か、それを知りたくて、悩んでいる。とくに、若い人ほど、そうだ。
そこで「私」論。その私をつかむためには、3つの条件が必要である。
(1)私は「私」であるという自覚。(自己自信性)
(2)私はいつも私であるという連続性(一貫性)。
(3)私は、他者と、良好な人間関係をもっているという、3つの条件、である。
しかしこの「私」は、いつも、不変なものとはかぎらない。そのつど、状況に応じて、
変化する。とくに青年期においては、そうである。ゆれ動く。そのため多くの青年たちは、
「私とは何か」というテーマについて、思い悩む。
(1) 私であるという自覚
「私であるという自覚」は、(私が考える私)と、(現実の私)が、一致したとき、自分
のものにすることができる。
たとえて言うなら、結婚がある。好きで好きでたまらなくて、その人と結婚したという
のであれば、結婚生活を、そのまま自分のものとして、受けいれることができる。
しかし反対に、いやな相手と不本意なまま結婚したとしたらどうであろうか。(自分のし
たかった結婚)と、(現実の結婚)が、大きくズレていることになる。こうなると、その結
婚生活は、ギクシャクとしたものになり、その結婚生活をそのまま自分のものとして、受
けいれることはできなくなる。
同じように、(本来の私)と、(現実の私)が、一致していれば、その人は、「私は私であ
る」という自覚をもつことができる。そうでなければ、そうでない。
もう少し具体的に考えてみよう。
あなたは、こう心の中で、願っている。容姿もよく、頭も聡明でありたいと。人気者で、
どこへ行っても注目される。資産家の子どもで、何一つ不自由のない生活をしたい、と。
しかし現実には、そうでない。容姿は悪い。学校での成績も悪い。みなに嫌われ、とき
には、いじめも受けている。両親は離婚状態で、家計も苦しい。このままでは大学進学も、
おぼつかない。
そこであなたは、(現実の私)を、(本来の私)に、近づけようとする。
勉強面で努力する。あるいはスポーツマンになるべく、努力する。服装や、身だしなみ
にも、注意を払う。(こうあるべき)と思う「私」に、あなたは自分自身を近づけようとす
る。
しかしそこにも、限界がある。努力しても、どうにもならないことはある。それについて
は、あきらめ、受けいれる。
が、それは決して、たやすい道ではない。あきらめることは、若いあなたにとっては、
敗北以外の何ものでもない。それにまだ、あなたには、無数の可能性が残されている。そ
ういう思いもある。だからあなたはいつも、こう悩む。「私は、いったい、どこにいるのか?」
と。
が、この段階でも、うまくいかないことが多い。努力しても、それが報われない。せっ
かく新しい服を買ってきても、みなに、「あなたには似あわない」と笑われる。あなたは自
信をなくす。それが高じて、自暴自棄になり、自分を否定するようになるかもしれない。
が、あなたの心の奥底に住む、「私」は、それを許さない。そこでその心の奥底に住む、
「私」は、自分を防衛しようとする。自分が崩壊していくのを、防ごうとする。
もっとも手っ取りばやい方法は、攻撃的になること。みなに、暴力を振るって、みなに、
恐れられればよい。あるいはさらに自虐的になって、めちゃめちゃな勉強や練習をするよ
うになるかもしれない。
これらをプラス型というなら、他人に服従的になったり、依存的になったりするのを、
マイナス型という。さらにその程度が進んで、逃避型になり、他人との接触をこばむよう
になるかもしれない。引きこもりも、その一つである。
私が「私」であるためには、私がそうでありたいと思っている私、あるいは自分が自分
で描く自己像(自己概念)と、現実の私(現実自己)を一致させなければならない。
なぜ、青年期に、私であるという自覚が混乱するかといえば、えてして、青年期には、
現実の自分とは、かけ離れた理想像をもちやすいからと考えてよい。夢や目標も、大きい。
そのギャップに悩む。「こんなはずではなかった」「もっと別の道があるはずだ」と。
(私が考える私)と、(現実の私)が、一致すること。これが、私が「私」であるための、
第一の条件ということになる。
(2)私はいつも私であるという連続性
あまりよいビデオではなかったが、こんなビデオがあった。
ある女性捜査官が、ギャングにつかまってしまう。その捜査官は、イスにしばられたま
ま、拷問を受ける。そのとき、ギャングが、「仲間のいる場所を言え」と迫る。が、その捜
査官は、敵意をさらにむき出しにして、そのギャングに、ペッとつばをかける。
その女性捜査官は、気の強い女性ということになる。で、そのシーンを見ながら、私は、
こんなことを考えた。
「映画だから、そういうことができるのだ。現実に、そういう場面に置かれたら、ふつ
うの人なら、そこまで、私を押しとおすことはできないのではないか」と。
とくに私は優柔不断な人間である。その場、その場で、だれにでもシッポを振ってしま
う。人間的なモロさをもっている。だからイスにしばられ、命の危険を感じたら、友人の
いる場所を、ペラペラとしゃべってしまうにちがいない。
が、それでは、ここでいう「連続性」がないということになる。優柔不断であるという
ことは、それだけで、「私」がないことになる。つまりはいいかげんな人間ということ。
そこで私が「私」であるためには、連続性がなければならない。「一貫性」ともいう。カ
メレオンが自分の色を変えるように、いつも私を変えていたのでは、「私」は、そもそも、
ないということになる。
どんな場所でも、またどんな状況でも、一貫して、「私」がそこにいる。私が「私」であるための、これが第二の条件ということになる。
(3)他者との良好な人間関係
私ひとりで、「私」を認識することはできない。他人の間にあって、はじめて、私たちは、
「私」を認識することができる。つまり「私」というのは、相手があってはじめて、「私」
でありえる。
世俗的なつきあいをすべて断ち切り、山奥で、ひとりで生活を始めたとしよう。が、何
もしないわけではない。文章を書いたり、絵を描いたりすることもある。何かの工芸物を
作ることもある。
しかしいくらひとりで生活をしていたとしても、その文章や絵を発表することによって、
他者とのかかわりをもつ。作品を売ることによって、他者とのかかわりをもつ。本気で、
他者とのかかわりを切るつもりなら、そうしたかかわりすらも、やめなければならない。
たとえばひとり穴の中にこもって、原始人のような生活をする、とか。まったく他人の
目を感じない世界で、だ。
こういう世界の中で、果たして私たちは、「私」を認識することができるだろうか。もう
少しわかりやすい例では、チャールストン・ヘストンが演じた『猿の惑星』がある。
あとでわかったことだが、あの映画のモデルになったのは、日本人だそうだ。それはと
もかくも、ある宇宙飛行士が、ある惑星にロケットで不時着する。が、そこは猿の惑星。
が、猿といっても、知能は高く、言葉も話す。
しかしそこがもし、本当に猿の惑星だったら、どうだろうか。猿といっても、映画の中
に出てくるような猿ではなく、日光の山奥に住む猿のような、本物の猿である。
あなたははげしい絶望感を覚えるにちがいない。言葉も通じない。気持ちも通じない。
あなたがもっている文化性や道徳性は、猿たちの前では、何一つ、意味をもたない。つま
りいくら「私は私」と思ったところで、その私は、その絶望感の中に、叩き落されてしま
う。
私が「私」であるためには、他者との良好な人間関係がなければならない。その上で、
はじめて、私は「私」でありえる。これが第三の条件ということになる。
ほとんどの若い人たちは、それが一つの関門であるかのように、一度は、「自分さがし」
の旅に出る。「私は何か」「自分はどこにいるのか」「私は、何をすべきなのか」と。
その一助になればと思い、この「私」論を書いた。
(はやし浩司 私論 私とは何か 自分さがし 自分探し 自我 自我の確立 青年期の
悩み 自我の一貫性 自我の連続性 自我の社会性 自我の一致 現実自己 自己概念
はやし浩司)
Hiroshi Hayashi+++++++Feb. 2011++++++はやし浩司・林浩司
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