Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Sunday, February 20, 2011

●ちょうど10年前の原稿より

鷲津中学校の方へ

        少しいただいた質問について、考えてみました。
        異論、反論もあるかもしれませんが、一つの参考意見として
        みなさんがご家庭で考えるきっかけになればうれしいです。

                     はやし浩司

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【鷲津中学校の父母よりの、質問に答えて……】(1)

 鷲津中学校の父母より、こんな質問が届きました。

 「仮想現実体験と、実体験のちがいにより、心の形成には、どのような影響が出るか」という質問です。

 それについて考える前に、以前書いた原稿を、そのまま、ここに転載します。(一部は、中日新聞に投稿済み。)少し質問の趣旨からは、脱線すると思いますが、お許しください。この中で、私は仮想現実体験(パソコンやテレビゲームの世界)のもつ、一つの問題点を、取りあげてみました。

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●島根県のUYさんより

はじめまして。
HPをよく拝見させて頂いています。

娘の事を相談させていただきたく、メールをしています。
娘は五歳半になる年中児で、下に三歳半の妹がいます。
小さい頃から動作の一つ一つが乱暴で、よくグズリ、キーキー興奮しては些細な事で泣く子でした。

それは今でも続いており、集中が長く続かず、こだわりも他の子供よりも深い気がします。
話も目を見て心を落ち着けてゆっくり会話をする事が出来ません。
真剣な話をしながら足の先を神経質に動かしたり、手を振ったりして、とても聞いている態度には見えません。

走りまわるほどの多動ではありませんが、落ち着いて、じっとしていることが出来ないようです。

そのせいか、話し言葉も五歳にしては表現力がないと思われます。
物の説明はとても難解で、結局何を言っているのか分からない事も多々あります。

私自身、過関心であったと思います。
気をつけているつもりですが、やはり完全には治っていません。
今、言葉の方は『おかあさん、牛乳!』や、『あの冷たいやつ!』というような言い方については、それでは分からないという事を伝える様にしています。

できるだけ言葉で説明をさせるようにしています。これは少しは効果があるようです。
また食生活ではカルシウムとマグネシウム、そして甘いものには気をつけています。
食べ物の好き嫌いは全くありません。

そこで私の相談ですが、もっとしっかり人の話を聞けるようになってほしいと思っています。
心を落ち着かせることが出来るようになるのは、やはり親の過干渉や過関心と関係があるのでしょうか。
また些細な事(お茶を飲むときのグラスの柄が妹の方がかわいい柄っだった、公園から帰りたくない等)で、泣き叫んだりするのは情緒不安定ということで、過干渉の結果なのでしょうか。
泣き叫ぶときは、『そーかー、嫌だったのね。』と、私は一応話を聞くようにはしていますが、私が折れる事はありません。
その事でかえって、泣き叫ぶ機会を増やして、また長引かせている気もするのですが。。。

そしてテーブルの上でオセロなどのゲーム中に、意味も無く飛び上がったりしてテーブルをゆらしてゲームを台無しにしたりする(無意識にやってしまうようです)ような乱雑な動作はどのようにすれば良いのか、深く悩んでいます。『静かに落ち着いて、意識を集中させて動く』ことが出来ないのはやはり干渉のしすぎだったのでしょうか。

自分自信がんばっているつもりですが、時々更に悪化させているのではないかと不安に成ります。

できましたら,アドバイスをいただけますでしょうか。宜しくお願い致します。

【UYさんへ、はやし浩司より】

 メール、ありがとうございました。原因と対処法をいろいろ考える前に、大前提として、「今すぐ、なおそう」と思っても、なおらないということです。またなおそうと思う必要もありません。こう書くと、「エエッ!」と思われるかもしれませんが、この問題だけは、子どもにその自覚がない以上、なおるはずもないのです。

 UYさんのお子さんが、ここに書いた子どもと同じというわけではありませんが、つぎの原稿は、少し前に私が書いたものです。まず、その原稿を先に、読んでいただけたらと思います。

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汝(なんじ)自身を知れ

「汝自身を知れ」と言ったのはキロン(スパルタ・七賢人の一人)だが、自分を知ることは難しい。こんなことがあった。

 小学生のころ、かなり問題児だった子ども(中二男児)がいた。どこがどう問題児だったかは、ここに書けない。書けないが、その子どもにある日、それとなくこう聞いてみた。「君は、学校の先生たちにかなりめんどうをかけたようだが、それを覚えているか」と。するとその子どもは、こう言った。

「ぼくは何も悪くなかった。先生は何でもぼくを目のかたきにして、ぼくを怒った」と。私はその子どもを前にして、しばらく考えこんでしまった。いや、その子どものことではない。自分のことというか、自分を知ることの難しさを思い知らされたからだ。

ある日一人の母親が私のところにきて、こう言った。「学校の先生が、席決めのとき、『好きな子どうし、並んですわってよい』と言った。しかしうちの子(小一男児)のように、友だちのいない子はどうしたらいいのか。配慮に欠ける発言だ。これから学校へ抗議に行くから、一緒に行ってほしい」と。もちろん私は断ったが、問題は席決めことではない。その子どもにはチックもあったし、軽いが吃音(どもり)もあった。神経質な家庭環境が原因だが、「なぜ友だちがいないか」ということのほうこそ、問題ではないのか。その親がすべきことは、抗議ではなく、その相談だ。

話はそれたが、自分であって自分である部分はともかくも、問題は自分であって自分でない部分だ。ほとんどの人は、その自分であって自分でない部分に気がつくことがないまま、それに振り回される。よい例が育児拒否であり、虐待だ。

このタイプの親たちは、なぜそういうことをするかということに迷いを抱きながらも、もっと大きな「裏の力」に操られてしまう。あるいは心のどこかで「してはいけない」と思いつつ、それにブレーキをかけることができない。「自分であって自分でない部分」のことを、「心のゆがみ」というが、そのゆがみに動かされてしまう。ひがむ、いじける、ひねくれる、すねる、すさむ、つっぱる、ふてくされる、こもる、ぐずるなど。自分の中にこうしたゆがみを感じたら、それは自分であって自分でない部分とみてよい。

それに気づくことが、自分を知る第一歩である。まずいのは、そういう自分に気づくことなく、いつまでも自分でない自分に振り回されることである。そしていつも同じ失敗を繰り返すことである。

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 おとなですら、自分のことを知るのはむずかしい。いわんや、子どもをやということになります。ですからUYさんが、お子さんに向かって、「静かにしなさい」「落ち着きなさい」と言っても、子どもにその自覚がない以上、子どもの立場からしたら、どうしようもないのです。

 意識には、大きく分けて(1)潜在意識と、(2)自意識(自己意識)があります※。潜在意識というのは、意識できない世界のことです。自意識というのは、自分で自覚できる意識のことです。いろいろな説がありますが、教育的には、小学三、四年生を境に、急速にこの自意識が育ってきます。つまり自分を客観的に見ることができるようになると同時に、その自分を、自分でコントロールすることができるようになるわけです。

 幼児期にいろいろな問題ある子どもでも、この自意識をうまく利用すると、それを子ども自らの意識で、なおすことができます。言いかえると、それ以前の子どもには、その自意識を期待しても、無理です。たとえば「静かにしなさい」と親がいくら言っても、子ども自身は、自分ではそれがわからないのだから、どうしようもありません。UYさんのケースを順に考えてみましょう。

●小さい頃から動作の一つ一つが乱暴で、よくグズリ、キーキー興奮しては些細な事で泣く子でした。
●それは今でも続いており、集中が長く続かず、こだわりも他の子供よりも深い気がします。
●話も目を見て心を落ち着けてゆっくり会話をする事が出来ません。
●真剣な話をしながら足の先を神経質に動かしたり、手を振ったりして、とても聞いている態度には見えません。
●走りまわるほどの多動ではありませんが、落ち着いて、じっとしていることが出来ないようです。
●そのせいか、話し言葉も五歳にしては表現力がないと思われます。

 これらの問題点を指摘しても、当然のことですが、満五歳の子どもに、理解できるはずもありません。こういうケースで。「キーキー興奮してはだめ」「こだわっては、だめ」「落ち着いて会話しなさい」「じっとしていなさい」「しっかりと言葉を話しなさい」と言ったところで、ムダというものです。

たとえば細かい多動性について、最近では、脳の微細障害説、機能障害説、右脳乱舞説、ホルモン変調説、脳の仰天説、セロトニン過剰分泌説など、ざっと思い浮かんだものだけでも、いろいろあります。

それにさらに環境的な要因、たとえば下の子が生まれたことによる、赤ちゃんがえり、欲求不満、かんしゃく発作などもからんでいるかもしれません。またUYさんのメールによると、かなり神経質な子育てが日常化していたようで、それによる過干渉、過関心、心配先行型の子育てなども影響しているかもしれません。こうして考え出したら、それこそ数かぎりなく、話が出てきてしまいます。

 では、どうするか? 原因はどうであれ、今の症状がどうであれ、今の段階では、「なおそう」とか、「あれが問題」「これが問題」と考えるのではなく、あくまでも幼児期によく見られる一過性の問題ととらえ、あまり深刻にならないようにしたらよいと思います。

むしろ問題は、そのことではなく、この時期、親が子どものある部分の問題を、拡大視することによって、子どものほかのよい面をつぶしてしまうことです。とくに「あれがダメ」「これがダメ」という指導が日常化しますと、子どもは、自信をなくしてしまいます。生きザマそのものが、マイナス型になることもあります。

 私も幼児を三五年もみてきました。若いころは、こうした問題のある子どもを、何とかなおしてやろうと、四苦八苦したものです。しかしそうして苦労したところで、意味はないのですね。子どもというのは、時期がくれば、何ごともなかったかのように、自然になおっていく。UYさんのお子さんについても、お子さんの自意識が育ってくる、小学三、四年生を境に、症状は急速に収まってくるものと思われます。自分で判断して、自分の言動をコントロールするようになるからです。「こういうことをすれば、みんなに嫌われる」「みんなに迷惑をかける」、あるいは「もっとかっこよくしたい」「みんなに認められたい」と。

 ですから、ここはあせらず、言うべきことは言いながらも、今の状態を今以上悪くしないことだけを考えながら、その時期を待たれたらどうでしょうか。すでにUYさんは、UYさんができることを、すべてなさっておられます。母親としては、満点です。どうか自信をもってください。私のHPを読んでくださったということだけでも、UYさんは、すばらしい母親です。(保証します!)

ただもう一つ注意してみたらよいと思うのは、たとえばテレビやテレビゲームに夢中になっているようなら、少し遠ざけたほうがよいと思います。このメールの終わりに、私が最近書いた原稿(中日新聞発表済み)を、張りつけておきます。どうか参考にしてください。

 で、今度はUYさん自身へのアドバイスですが、どうか自分を責めないでください。「過関心ではないか?」「過干渉ではないか?」と。

 そういうふうに悩むこと自体、すでにUYさんは、過関心ママでも、過干渉ママでもありません。この問題だけは、それに気づくだけで、すでにほとんど解決したとみます。ほとんどの人は、それに気づかないまま、むしろ「私はふつうだ」と思い込んで、一方で、過関心や過干渉を繰りかえします。UYさんにあえていうなら、子育てに疲れて、やや育児ノイローゼ気味なのかもしれません。ご主人の協力は得られませんか? 少し子育てを分担してもらったほうがよいかもしれません。

 最後に「そしてテーブルの上でオセロなどのゲーム中に、意味も無く飛び上がったりしてテーブルをゆらしてゲームを台無しにしたりする(無意識にやってしまうようです)ような乱雑な動作はどのようにすれば良いのか、深く悩んでいます。『静かに落ち着いて、意識を集中させて動く』ことが出来ないのはやはり干渉のしすぎだったのでしょうか」という部分についてですが、こう考えてみてください。

 私の経験では、症状的には、小学一年生ぐらいをピークにして、そのあと急速に収まっていきます。そういう点では、これから先、体力がつき、行動半径も広くなってきますから、見た目には、症状ははげしくなるかもしれません。UYさんが悩まれるお気持ちはよくわかりますが、一方で、UYさんの力ではどうにもならない部分の問題であることも事実です。

ですから、愛情の糸だけは切らないようにして、言うべきことは言い、あとはあきらめます。コツは、完ぺきな子どもを求めないこと。満点の子どもを求めないこと。ここで愛情の糸を切らないというのは、子どもの側から見て、「切られた」と思わせいないことです。それを感じると、今度は、子どもの心そのものが、ゆがんでしまいます。が、それでも暴れたら……。私のばあいは、教室の生徒がそういう症状を見せたら、抱き込んでしまいます。叱ったり、威圧感を与えたり、あるいは恐怖心を与えてはいけません。あくまでも愛情を基本に指導します。それだけを忘れなければ、あとは何をしてもよいのです。あまり神経質にならず、気楽に構えてください。

 約束します。UYさんの問題は、お子さんが小学三、四年生になるころには、消えています。ウソだと思うなら、このメールをコピーして、アルバムか何かにはさんでおいてください。そして、四、五年後に読み返してみてください。「林の言うとおりだった」と、そのときわかってくださると確信しています。

もっとも、それまでの間に、いろいろあるでしょうが、そこは、クレヨンしんちゃんの母親(みさえさん)の心意気でがんばってください。コミックにVOL1~10くらいを一度、読まれるといいですよ。テレビのアニメは、コミックにくらべると、作為的です。

 また何かあればメールをください。なおこのメールは、小生のマガジンの2-25号に掲載しますが、どうかお許しください。転載の許可など、お願いします。ご都合の悪い点があれば、至急、お知らせください。
(030217)

※ ……これに対して、「自己意識」「感覚運動的意識」「生物的意識」の三つに分けて考える考え方もある。「感覚的運動意識」というのは、見たり聞いたりする意識のこと。「生物的意識」というのは、生物としての意識をいう。いわゆる「気を失う」というのは、生物的意識がなくなった状態をいう。このうち自己意識があるのは、人間だけと言われている。この自己意識は、四歳くらいから芽生え始め、三〇歳くらいで完成するといわれている(静岡大学・郷式徹助教授「ファミリス」03・3月号)。

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子どもの脳が乱舞するとき

●収拾がつかなくなる子ども

 「先生は、サダコかな? それともサカナ! サカナは臭い。それにコワイ、コワイ……、ああ、水だ、水。冷たいぞ。おいしい焼肉だ。鉛筆で刺して、焼いて食べる……」と、話がポンポンと飛ぶ。頭の回転だけは、やたらと速い。まるで頭の中で、イメージが乱舞しているかのよう。動作も一貫性がない。騒々しい。ひょうきん。鉛筆を口にくわえて歩き回ったかと思うと、突然神妙な顔をして、直立! そしてそのままの姿勢で、バタリと倒れる。ゲラゲラと大声で笑う。その間に感情も激しく変化する。目が回るなんていうものではない。まともに接していると、こちらの頭のほうがヘンになる。

 多動性はあるものの、強く制止すれば、一応の「抑え」はきく。小学二、三年になると、症状が急速に収まってくる。集中力もないわけではない。気が向くと、黙々と作業をする。三〇年前にはこのタイプの子どもは、まだ少なかった。が、ここ一〇年、急速にふえた。小一児で、一〇人に二人はいる。今、学級崩壊が問題になっているが、実際このタイプの子どもが、一クラスに数人もいると、それだけで学級運営は難しくなる。あちらを抑えればこちらが騒ぐ。こちらを抑えればあちらが騒ぐ。そんな感じになる。

●崩壊する学級

 「学級指導の困難に直面した経験があるか」との質問に対して、「よくあった」「あった」と答えた先生が、66%もいる(98年、大阪教育大学秋葉英則氏調査)。「指導の疲れから、病欠、休職している同僚がいるか」という質問については、15%が、「1名以上いる」と回答している。

そして「授業が始まっても、すぐにノートや教科書を出さない」子どもについては、90%以上の先生が、経験している。ほかに「弱いものをいじめる」(75%)、「友だちをたたく」(66%)などの友だちへの攻撃、「授業中、立ち歩く」(66%)、「配布物を破ったり捨てたりする」(52%)などの授業そのものに対する反発もみられるという(同、調査)。

●「荒れ」から「新しい荒れ」へ

 昔は「荒れ」というと、中学生や高校生の不良生徒たちの攻撃的な行動をいったが、それが最近では、低年齢化すると同時に、様子が変わってきた。「新しい荒れ」とい言葉を使う人もいる。ごくふつうの、それまで何ともなかった子どもが、突然、キレ、攻撃行為に出るなど。多くの教師はこうした子どもたちの変化にとまどい、「子どもがわからなくなった」とこぼす。

日教組が九八年に調査したところによると、「子どもたちが理解しにくい。常識や価値観の差を感ずる」というのが、20%近くもあり、以下、「家庭環境や社会の変化により指導が難しい」(14%)、「子どもたちが自己中心的、耐性がない、自制できない」(10%)と続く。そしてその結果として、「教職でのストレスを非常に感ずる先生が、8%、「かなり感ずる」「やや感ずる」という先生が、60%(同調査)もいるそうだ。

●原因の一つはイメージ文化?

 こうした学級が崩壊する原因の一つとして、(あくまでも、一つだが……)、私はテレビやゲームをあげる。「荒れる」というだけでは、どうも説明がつかない。家庭にしても、昔のような崩壊家庭は少なくなった。むしろここにあげたように、ごくふつうの、そこそこに恵まれた家庭の子どもが、意味もなく突発的に騒いだり暴れたりする。そして同じような現象が、日本だけではなく、アメリカでも起きている。

実際、このタイプの子どもを調べてみると、ほぼ例外なく、乳幼児期に、ごく日常的にテレビやゲームづけになっていたのがわかる。ある母親はこう言った。「テレビを見ているときだけ、静かでした」と。「ゲームをしているときは、話しかけても返事もしませんでした」と言った母親もいた。たとえば最近のアニメは、幼児向けにせよ、動きが速い。速すぎる。しかもその間に、ひっきりなしにコマーシャルが入る。ゲームもそうだ。動きが速い。速すぎる。

●ゲームは右脳ばかり刺激する

 こうした刺激を日常的に与えて、子どもの脳が影響を受けないはずがない。もう少しわかりやすく言えば、子どもはイメージの世界ばかりが刺激され、静かにものを考えられなくなる。その証拠(?)に、このタイプの子どもは、ゆっくりとした調子の紙芝居などを、静かに聞くことができない。

浦島太郎の紙芝居をしてみせても、「カメの顔に花が咲いている!」とか、「竜宮城に魚が、おしっこをしている」などと、そのつど勝手なことをしゃべる。一見、発想はおもしろいが、直感的で論理性がない。ちなみにイメージや創造力をつかさどるのは、右脳。分析や論理をつかさどるのは、左脳である(R・W・スペリー)。

テレビやゲームは、その右脳ばかりを刺激する。こうした今まで人間が経験したことがない新しい刺激が、子どもの脳に大きな影響を与えていることはじゅうぶん考えられる。その一つが、ここにあげた「脳が乱舞する子ども」ということになる。

 学級崩壊についていろいろ言われているが、一つの仮説として、私はイメージ文化の悪弊をあげる。

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●日本人は賢くなったか?

 人間の賢さは、「自ら考える力」で決まる。

 よく誤解されるが、知識や情報が多いからといって、賢い人ということにはならない。反対に、いくら知識や情報があっても、バカな人はバカ。映画『フォレストガンプ』の中でも、フォレストの母はこう言っている。「バカなことをする人をバカというのよ。(頭じゃ、ないのよ)」と。

 そういう視点で、もう一度、日本人について考えてみる。日本人は、賢くなったか、と。

 今、高校生でも、将来を考えて、毎日本を読んだり、勉強している子どもは、10%もいない。文部科学省国立教育政策研究所の行った調査によると、「宿題や授業でしか本は読まない」と答えた子ども(小、中、高校)は、全体では18%だが、高校生は33%であった。また「教科書より厚い本を読んだことがない」も、全体では16%だが、高校生では23%であった(全国小学4年生以上高校2年生までの2~120人について調査。02年)。

 わかりやすく言えば、小学生ほど、よく本を読み、中学生、高校生になると、本を読まなくなるということ。

一見何でもないような現象に見えるかもしれないが、「では、高校生とはいったい、何か」という問題にぶつかってしまう。より高度な勉強をするから高校生というのではないのか。が、実態は、その逆。

毎日くだらない情報を、携帯電話で交換しているのが、高校生ということになる。そう言い切るのは正しくないが、しかし実態は、そんなところと考えてよい。大半の高校生は、毎日4~5時間はテレビを見たり、ゲームをしたりして時間をつぶしている。6~7時間と答えた子どももいた(筆者、01年、浜松市内の高校生10人について調査)。

 その結果というわけではないが、最近の高校生は、まさにノーブレイン(知能なし)という状態になっている。知識や情報に振りまわされているだけ。自ら考えるということができない。……しない。政治問題や社会問題など、問いかけただけで、「ダサイ!」と、はねのけられてしまう。「日本がかかえる借金は六〇〇兆円だよ。君たちの借金だよ」と私が話しかけたときのこと。女子高校生たちは、こう言った。「私ら、そんな話、関係ないもんネ~」と(2000年市内の図書館で)。

 もちろん本を読んだからといって、賢くなるというわけではない。それ以上に大切なことは、いかにして問題意識をもつか、だ。その問題意識がなければ、本を読んでも、それもただの情報で終わってしまう。よい例が、ゲームの攻略本だ。

最近では、「ハリーポッター」の魔法の解説本などもある。もともとウソにウソを塗り固めたような本だから、いくら読んでも、それこそまさにムダな情報。先日、私も、子どもたち(小学六年生)の前で、こう話してやった。

 「栗の葉に、近くに落ちている松の葉包み、それを手で握って、ローローヤヤ、カカカ、バーバーと呪文を唱えれば、親から小遣いが、いつもの一〇倍もらえる」と。

 たまたま日本中がハリポタブームでわきかえっていたときでもあり、子どもたちは真剣なまなざしで、私の呪文をノートに書きとめようとした。が、そのうち一人が、「先生、反対に読むと、バカヤローだ」と。

 そこでいかにして、子どもに問題意識をもたせるか、である。が、この問題について考える前に、こういうこともある。

 ノーブレインの状態になると、その人間は、いわゆるロボット化する。ひとつの例が、カルト教団の信者たちである。彼らは思想を注入してもらうかわりに、自ら考えることを放棄してしまう。ある信者とこんな会話をしたことがある。

私が「あなたがたも、少しは指導者の言うことを疑ってみてはどうですか。ひょっとしたら、あなたがたは、利用されているだけかもしれませんよ」と。するとその男性(六〇歳)はこう言った。「○○先生は、万巻の書物を読んで、仏の境界(きょうがい)に入られた方だ。教えにまちがいはない」と。

 同じような例は、あのポケモン現象のときに、子どもたちの世界でも起きた。それはブームとかいうような生やさしいものではなかった。毎日子どもたちは、ポケモンの名前をつらねただけの、まったく意味のない歌(「ポケモン言えるかな」)を、狂ったように歌っていた。そしてお菓子でも持ち物でも、黄色いピカチューの絵がついているだけで、それを狂ったように買い求めていた。

私はこのポケンモン現象の中に、たまたまカルトとの共通性を見出した。そして『ポケモンカルト』(三一書房)という本を書いた。

 このロボット化でこわいのは、脳のCPU(中央演算装置)が狂うため、本人にはその自覚がないこと。カルト教団の信者も、またポケモンに夢中になる子どもも、なぜ自分がそうなのかということがわからないまま、たいていは「自分は正しいことをしているのだ」と思い込まされたまま、醜い商魂に操られる。そしてその結果として、それこそ愚にもつかないようなことを、平気でするようになる。

 こうした状態を防ぐためにも、私たちはいつも問題意識をもたねばならない。あなたの子どもについて言うなら、これはいつかあなたの子どもがカルト教団の餌食(えじき)にしないためでもある。ノーブレインというのは、それ自体がひとつの思考回路で、いつなんどき、その回路の中に、カルト思想が入り込まないともかぎらない。

たまたまあのポケモンブームのころ、アメリカのサンディエゴ郊外で、「ハイアーソース」という名前のカルト教団の信者たち三九人が、集団自殺をするという事件が起きた(九七年三月)。残された声明文には、「ヘール・ポップすい星とともに現れる宇宙船とランデブーして、あの世へ旅立つ」と書いてあったという。

 常識で考えればバカげた思想だが、ノーブレインの状態になると、それすらもわからなくなる。つまりそういう人を、「バカな人」という。

 いかにして問題意識をもつか。

 これは私のばあいだが、私はいつも、自分の頭の中で、その日に考えるテーマを決める。教育問題であることが多いが、政治問題や社会問題も多い。たいていは身近なことで、「おかしいぞ」と思ったことをテーマにするようにしている。たまたま昨日(02・8月9日)もテレビを見ていたら、田中M子という国会議員が辞職したというニュースが飛び込んできた。私はそのニュースを見ながら、いろいろなことを考えた。

(1) T中氏は息子を政治家にするというが、見るとまだあどけなさの残る青年ではないか。そういう形、つまり世襲制で政治が動いてよいのか。動かされてよいのか。あるいはどうしてそうまで政治の世界に、執着するのか。その魅力は何なのか。田中M子氏にしても、それほど哲学のある人物には見えない。私には出世欲にとりつかれた、どこかガリガリの政治亡者のようにしか見えない。

(2) T中氏は、さんざん、自己弁明をしてきたではないか。今までのそういう弁明は、いったい、何だったのか。私たちにウソを言ってきたのか。

(3) その辞職ニュースを受けて、街の人の声が報道されていたが、大半は、「田中さんがかわいそうだ」「おしい人をなくした」と言っていた。そうした声を聞いたとき、私はその少し前、人間国宝にもなっている歌舞伎役者のO氏が、19歳そこそこの若い舞妓と不倫関係にあったというニュースを思いだした。あのときは、街の声のみならず、テレビのキャスターまで、「不倫は、芸のコヤシ」と言っていたのを覚えている。(若い女性はコヤシ?)O氏はその舞妓と別れるとき、ホテルのドアで、チンチンを出して見せたという。こうした愚民性は、いったいどこからくるのか。

 「おかしい」と思うことが、つぎつぎと頭に飛来する。そこでひとつずつ、その問題について考える。その結果というわけではないが、この原稿が生まれた。私は、(3)の愚民性に、とくに関心をもった。「日本人は賢くなったか」と。

 で、その結論だが、答は、「ノー」。日本人は知識と情報の氾濫の中で、ますます自分を見失いつつある。ますます愚かになりつつある。

そのことは、今の子どもたちの世界を見ればわかる。子どもたちの「質」は、この三〇年、確かに悪くなった。ひとつの例というわけではないが、三〇年前の幼児は、「おとなになったら、何になりたい」と聞くと、「幼稚園の先生」とか、「野球の選手」と答えていた。しかし今の子どもは違う。

「ハリーポッターのような魔法使い」とか、「超能力者」とか、答える。バブル経済のころは、「私、おとなになったら、土地もちの人(男)と結婚する」と言っていた女の子(小四)や、「宗教団体の教祖になる」と言っていた男の子(小五)がいた。が、そのときよりも、今のほうが、さらに悪くなっているように思う。
(注、この「日本人は賢くなったか」は、02年8月記)
(はやし浩司 新しい荒れ 右脳教育 思考 仮想現実 自己意識 自意識)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【鷲津中学校の父母よりの、質問に答えて……】(2)

 鷲津中学校の父母よりの、もう一つの質問は、こんな質問です。

 「文化、時代の違いによる、当たり前のここと、当たり前でないことについて」という質問です。

 いわゆる「意識論」のことです。私たちがもっている「意識」というのは、その時代の文化、さらに生まれ育った環境などによって、作られていくものです。

 そういう意味で、絶対的、かつ普遍的な意識というのは、ありません。そのときどきの時代、さらには生まれ育った環境によって、変化しうるものだということです。

 そのことを最初に私自身が、意識したのは、私が留学生となって、オーストラリアへ渡ったときのことです。

 つぎの原稿が、それです。

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●意識の違い

 今朝、K国の子どもたちが、テレビで紹介されていた。どの子どもも、独得の笑みを浮かべて、踊ったり、楽器を鳴らしたりしていた。ワイフは、それを見て、「気持ち悪い」と言った。私も同感だった。

 で、こうした子どもたちについて、K国から脱出してきた人は、こう言った。「鼻血を出しても、練習をつづける」と。そういうK国の子どもたちを、すばらしいと思った日本人は、いったい、何人いただろうか。

 しかしそのとき、である。その脱出してきた人が、ポロリとこう言った。それは私には、衝撃的な言葉だった。

 「K国では、こうした子どもたちが、政府の宣伝用に使われる。それはちょうど、西側諸国の、コマーシャルのようなものだ。西側では、モノを売るために、宣伝する。それと同じ」と。

 人の意識というのは、絶対的なものではない。普遍的なものでもない。立場が変われば、その意識も変わる。

 私たちはK国の子どもたちを見ながら、「おかしい?」と思う。しかしその意識は、相対的なもので、K国の人たちから見れば、今度は、私たちの国が、おかしく見えるに違いない。その一つが、「物欲を刺激するコマーシャル?」ということになる。

 たとえば、あのポケモンが全盛期のころ、子どもたちの世界は、まさにポケモン漬けになった。テレビ、雑誌、ゲーム、コミック、商品ほか。あらゆる場面で、子どもたちは、その商魂に乗せられた。

 その結果、あの黄色いピカチューの絵を見ただけで、子どもたちは、興奮状態になってしまった。一度、私は不用意に、「ピカチューのどこが、かわいいの?」と言ってしまったことがある。とたん、生徒たちから、猛烈な抗議の嵐。袋叩きにあってしまった。

 こうした異常な現象を、いったい、どれだけの人が、「異常」と感じたであろうか。そこで私は、一冊の本を書いた。それが『ポケモン・カルト』(三一書房)である。

 しかしこの本に、執拗ないやがらせをしかけてきたのは、二〇歳をすぎた若者たちだった。「お前は、子どもの夢をつぶすのか」「とんでもない、トンデモ本だ」と。今でも、その団体の人たちが、その本や私を、攻撃している。

 こういう現象は、K国の人たちには、どう見えるだろうか。ここにも書いたように、意識というのは、相対的なものである。私たちが、K国の子どもたちがおかしいと思うのと、まったく同じように、K国の人たちは、日本の子どもたちは、おかしいと思うに違いない。現に、あの金XXは、そう言っている。「西側の狂った文化」と。

 私は、K国の子どもたちの映像を見ながら、不思議な感覚にとらわれた。K国がおかしいと思えば思うほど、自分たちの世界も、おかしく見えた。ただ私たちは今、その(自分たちの国)に住んでいるから、それがわからない。言いかえると、私たちが、自分の国はふつうだと思っているのと同じように、K国の人たちは、自分たちの国は、ふつうだと思っているに違いない。

 少し話が脱線するかもしれないが、私は、学生時代、こんな経験をしたことがある。『世にも不思議な留学記』(中日新聞掲載済み)で発表した原稿を、転載する。
 
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●国によって違う職業観

 職業観というのは、国によって違う。もう30年も前のことだが、私がメルボルン大学に留学していたときのこと。当時、正規の日本人留学生は私一人だけ。(もう一人Mという女子学生がいたが、彼女は、もともとメルボルンに住んでいた日本人。)そのときのこと。

 私が友人の部屋でお茶を飲んでいると、一通の手紙を見つけた。許可をもらって読むと、「君を外交官にしたいから、面接に来るように」と。私が喜んで、「外交官ではないか! おめでとう」と言うと、その友人は何を思ったか、その手紙を丸めてポイと捨てた。

「アメリカやイギリスなら行きたいが、99%の国は、行きたくない」と。考えてみればオーストラリアは移民国家。「外国へ出る」という意識が、日本人のそれとはまったく違っていた。

 さらにある日。フィリッピンからの留学生と話していると、彼はこう言った。「君は日本へ帰ったら、ジャパニーズ・アーミィ(軍隊)に入るのか」と。私が「いや、今、日本では軍隊はあまり人気がない」と答えると、「イソロク(山本五十六)の伝統ある軍隊になぜ入らないのか」と、やんやの非難。当時のフィリッピンは、マルコス政権下。軍人になることイコール、そのまま出世コースということになっていた。で、私の番。

 私はほかに自慢できるものがなかったこともあり、最初のころは、会う人ごとに、「ぼくは日本へ帰ったら、M物産という会社に入る。日本ではナンバーワンの商社だ」と言っていた。が、ある日、一番仲のよかったデニス君が、こう言った。

「ヒロシ、もうそんなことを言うのはよせ。日本のビジネスマンは、ここでは軽蔑されている」と。彼は「ディスパイズ(軽蔑する)」という言葉を使った。

 当時の日本は高度成長期のまっただ中。ほとんどの学生は何も迷わず、銀行マン、商社マンの道を歩もうとしていた。外交官になるというのは、エリート中のエリートでしかなかった。この友人の一言で、私の職業観が大きく変わったことは言うまでもない。

 さて今、あなたはどのような職業観をもっているだろうか。あなたというより、あなたの夫はどのような職業観をもっているだろうか。それがどんなものであるにせよ、ただこれだけは言える。

こうした職業観というのは、決して絶対的なものではないということ。時代によって、それぞれの国によって、そのときどきの「教育」によってつくられるということ。大切なことは、そういうものを通り越した、その先で子どもの将来を考える必要があるということ。私の母は、私が幼稚園教師になると電話で話したとき、電話口の向こうで、オイオイと泣き崩れてしまった。

「浩ちャーン、あんたは道を誤ったア~」と。母は母の時代の常識にそってそう言っただけだが、その一言が私をどん底に叩き落したことは言うまでもない。しかしあなたとあなたの子どもの間では、こういうことはあってはならない。これからは、もうそういう時代ではない。あってはならない。

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●肩書き社会、日本

 この日本、地位や肩書きが、モノを言う。いや、こう書くからといって、ひがんでいるのではない。それがこの日本では、常識。

 メルボルン大学にいたころのこと。日本の総理府から派遣された使節団が、大学へやってきた。総勢三〇人ほどの団体だったが、みな、おそろいのスーツを着て、胸にはマッチ箱大の国旗を縫い込んでいた。

が、会うひとごとに、「私たちは内閣総理大臣に派遣された使節団だ」と、やたらとそればかりを強調していた。つまりそうことを口にすれば、歓迎されると思っていたらしい。

 が、オーストラリアでは、こうした権威主義は通用しない。よい例があのテレビドラマの『水戸黄門』である。今でもあの番組は、平均して二〇~二三%もの視聴率を稼いでいるという。

が、その視聴率の高さこそが、日本の権威主義のあらわれと考えてよい。つまりその使節団のしたことは、まさに水戸黄門そのもの。葵の紋章を見せつけながら、「控えおろう」と叫んだのと同じ。あるいはどこがどう違うのか。が、オーストラリア人にはそれが理解できない。

ある日、ひとりの友人がこう聞いた。「ヒロシ、もし水戸黄門が悪いことをしたら、どうするのか。それでも日本人は頭をさげるのか」と。

 この権威主義は、とくにマスコミの世界に強い。相手の地位や肩書きに応じて、まるで別人のように電話のかけ方を変える人は多い。私がある雑誌社で、仕事を手伝っていたときのこと。相手が大学の教授であったりすると、「ハイハイ、かしこまりました。おおせのとおりいたします」と言ったあと、私のような地位も肩書きもないような人間には、「君イ~ネ~、そうは言ってもネ~」と。

しかもそういうことを、若い、それこそ地位や肩書きとは無縁の社員が、無意識のうちにそうしているから、おかしい。つまりその「無意識」なところが、日本人の特性そのものということになる。
 
こうした権威主義は、恐らく日本だけにしか住んだことがない人にはわからないだろう。説明しても、理解できないだろう。そして無意識のうちにも、「家庭」という場で、その権威主義を振りまわす。「親に向かって何だ!」と。

子どももその権威主義に納得すればよし。しかし納得しないとき、それは親子の間に大きなキレツを入れることになる。親が権威主義的であればあるほど、子どもは親の前で仮面をかぶる。つまりその仮面をかぶった分だけ、子どもの子は親から離れる。

ウソだと思うなら、あなたの周囲を見渡してみてほしい。あなたの叔父や叔母の中には、権威主義の人もいるだろう。そうでない人もいるだろう。しかし親が権威主義的であればあるほど、その親子関係はぎくしゃくしているはずである。

 ところで日本からの使節団は、オーストラリアでは嫌われていた。英語で話しかけられても、ただニヤニヤ笑っているだけ。そのくせ態度だけは大きく、みな、例外なくいばっていた。このことは「世にも不思議な留学記」※に書いた。それから三〇年あまり。日本も変わったが、基本的には、今もつづいている。

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 意識の違いというのは、恐ろしい。その意識にどっぷりとつかっていると、ほかの世界が理解できなくなる。それだけならまだしも、自分がおかしな世界に入っていても、それに気づかなくなる。

 典型的な例としては、宗教の世界がある。その世界の外にいる人からみれば、「おかしい?」と思うようなことを、平気で、しかも、ま顔でしている信者は、いくらでもいる。

 そこで大切なことは、いつも、自分の意識を疑ってみること。自分の意識を、ふつうだと思ってはいけない。絶対だとは、さらに思ってはいけない。意識というのはそういうもので、またそういう前提で、いつも自分の意識を、疑ってみる。

 それは、ものを考えるとき、たいへん重要なことである。……というようなことを、K国の子どもたちを見ながら、考えた。

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ついでに、少し前に書いた原稿を添付します。

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●子どもの意識

 フロイトは、子どもの記憶について、つぎのようなことを書いている。

つまり幼児期記憶の回想について、「言葉や観念によって思い出すという形で回想するだけなく、むしろその回想する体験にともなう感情や対人関係のパターン、態度のほうを先に反復する」(「フロイト思想のキーワード」小此木啓吾・講談社現代新書)と。

 このことは、たとえば子どもに、ぬいぐるみを与えてみればわかる。心豊かで、愛情に恵まれて育った子どもは、ぬいぐるみを見ただけで、うれしそうな笑みを浮かべ、さもいとおしいといった様子で、それを抱こうとする。それはぬいぐるみを見たとき、自分自身が受けた環境を、その場で再現するからである。

 あるいは絵本を与えてみればわかる。「あっ、本だ!」と喜んで飛びついてくる子どももいれば、目をそむけてしまう子どももいる。その本の内容を確かめる前に、だ。こうした違いは、「本」というものに、よい印象をもっているかどうかで、決まる。

幼いときから、たとえば親に抱かれて本を読んでもらった子どもは、本を見たとき、その周囲の状況や情景を、心の中で再現する。つまり本にまつわる「温もり」を、そこに感ずる。だから本を見ただけで、それを好意的にとらえようとする。一方、たとえばカリカリとした雰囲気の中で、無理に本を読まされて育ったような子どもは、本を見ただけで、逃げ腰になる。

 このことは、人間関係にも影響する。私はメガネをかけているが、初対面のとき、私の顔を見て、こわがる子どもは少なくない。そこで理由を聞くと、親は、たとえばこう言う。「近所にこわい犬を飼っている男性がいて、その人がメガネをかけているからではないでしょうか」と。つまりその子どもにしてみれば、(こわい犬)→(こわい人)→(メガネ)→(メガネの人は、こわい)ということになる。

 フロイトは、こうした現象を、「転移」と呼んだ。しかしこうした転移は、おとなの世界でも、ごく日常的に見られる。とくに人間関係において、それが顕著に見られる。たとえば、電話の相手によって、電話のかけ方そのものが、別人のように変わる人がいる。自分より目上の人だとわかると、(無意識のうちに、しかも即座にそれを判断するが)、必要以上にペコペコする。一方、目下の人だとわかると、今度は必要以上に、尊大ぶったり、威張ったりしてみせる。

 で、こういう人にかぎって、……というより、例外なく、テレビドラマの『水戸黄門』の大ファンであったりする。三つ葉葵の紋章か何かを見せて、側近のものが、「控えおろう!」と一喝すると、周囲の者たちが、「ハハアー」と言って、頭をさげる。このタイプの人は、そういう場面を見ると、痛快でならない。……らしい。

 そこでさらに調べていくと、こういう人たち自身もまた、そうした権威主義的な社会、あるいは家庭環境の中で育ったことがわかる。つまりこうした感情なり、言動は、それぞれ一貫性をもってつながっている。(権威主義的な環境で生まれ育った)→(自分自身も権威主義的である)→(無意識のうちにも、それがその人の価値観の根底にある)→(無意識のうちにも、人を上下関係を判断する)→(水戸黄門が痛快)と。

言うなれば、水戸黄門を見ることで、このタイプの人は、自分の価値観を再確認しているのかもしれない。その確認ができるから、水戸黄門はおもしろく、また痛快ということにもなる。

 何だか、話が込み入ってきたが、要するに、子ども、なかんずく幼児を相手にするときは、表面的な「心」とは別に、「もうひとつの心」を想定しながら、接するとよい。たとえば何らかの学習をさせるときも、(何を覚えたか、何ができるようになったか)ではなく、(そのことが全体として、どのような印象をもって、子どもの心の中に残るだろうか)を、考えながらする。そしてその印象がよいものであれば、よし。そうでなければ、失敗、と。

先にあげた例で言うなら、子どもに絵本を見せたとき、「あっ、本だ!」と飛びついてくれば、よし。逃げ腰になるようであれば、失敗、ということになる。フロイトの言葉を借りるなら、「よい転移ならよし。悪い転移には気をつけろ」ということになる。

これを私たちの世界では、「前向きな姿勢」と言っているが、この時期は、こういう前向きな姿勢を育てることを大切にする。この前向きな姿勢があれば、子どもは自らの力で、前向きに伸びていくし、そうでなければ、そうでない。が、それだけではすまない。一度子どもがうしろ向きになってしまうと、それをなおすのに、それまでの何十倍もの努力が必要になる。

たとえば小学校の入学までに、一度本嫌いになってしまうと、以後、好きになるということは、ほぼ絶望的であると言ってもよい。「だから幼児教育は大切だ」と言ってしまえば、あまりにも手前ミソということになるかもしれないが……。

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日本人の意識を考えるための参考文献として
もう一つ、私の原稿を添付しておきます。

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●権威主義の象徴

 権威主義。その象徴が、あのドラマの『水戸黄門』。側近の者が、葵の紋章を見せ、「控えおろう」と一喝すると、皆が、「ははあ」と言って頭をさげる。

日本人はそういう場面を見ると、「痛快」と思うかもしれない。が、欧米では通用しない。オーストラリアの友人はこう言った。「もし水戸黄門が、悪玉だったらどうするのか」と。フランス革命以来、あるいはそれ以前から、欧米では、歴史と言えば、権威や権力との闘いをいう。

 この権威主義。家庭に入ると、親子関係そのものを狂わす。Mさん(男性)の家もそうだ。長男夫婦と同居して一五年にもなろうというのに、互いの間に、ほとんど会話がない。別居も何度か考えたが、世間体に縛られてそれもできなかった。Mさんは、こうこぼす。

「今の若い者は、先祖を粗末にする」と。Mさんがいう「先祖」というのは、自分自身のことか。一方長男は長男で、「おやじといるだけで、不安になる」と言う。一度、私も間に入って二人の仲を調整しようとしたことがあるが、結局は無駄だった。長男のもっているわだかまりは、想像以上のものだった。問題は、ではなぜ、そうなってしまったかということ。

 そう、Mさんは世間体をたいへん気にする人だった。特に冠婚葬祭については、まったくと言ってよいほど妥協しなかった。しかも派手。長男の結婚式には、町の助役に仲人になってもらった。長女の結婚式には、トラック二台分の嫁入り道具を用意した。そしてことあるごとに、先祖の血筋を自慢した。

Mさんの先祖は、昔、その町内の大半を占めるほどの大地主であった。ふつうの会話をしていても、「M家は……」と、「家」をつけた。そしてその勢いを借りて、子どもたちに向かっては、自分の、親としての権威を押しつけた。少しずつだが、しかしそれが積もり積もって、親子の間にミゾを作った。

 もともと権威には根拠がない。でないというのなら、なぜ水戸黄門が偉いのか、それを説明できる人はいるだろうか。あるいはなぜ、皆が頭をさげるのか。またさげなければならないのか。だいたいにおいて、「偉い」ということは、どういうことなのか。

 権威というのは、ほとんどのばあい、相手を問答無用式に黙らせるための道具として使われる。もう少しわかりやすく言えば、人間の上下関係を位置づけるための道具。命令と服従、保護と依存の関係と言ってもよい。そういう関係から、良好な人間関係など生まれるはずがない。

権威を振りかざせばかざすほど、人の心は離れる。親子とて例外ではない。権威、つまり「私は親だ」という親意識が強ければ強いほど、どうしても指示は親から子どもへと、一方的なものになる。そのため子どもは心を閉ざす。

Mさん親子は、まさにその典型例と言える。「親に向かって、何だ、その態度は!」と怒る、Mさん。しかしそれをそのまま黙って無視する長男。

こういうケースでは、親が権威主義を捨てるのが一番よいが、それはできない。権威主義的であること自体が、その人の生きざまになっている。それを否定するということは、自分を否定することになる。が、これだけは言える。もしあなたが将来、あなたの子どもと良好な親子関係を築きたいと思っているなら、権威主義は百害あって一利なし。『水戸黄門』をおもしろいと思っている人ほど、あぶない。

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●依存心

 人間は、何かに依存しなければ生きてはいかれない生物なのかもしれない。それぞれの人が、何かに依存している。で、少し前、その「依存」について、自分なりに分析してみた。依存といっても、何に依存するかで、生きザマがまったく違ってくる。

(1)モノ、お金、名誉、地位、財産に依存するタイプ
(2)自分自身に依存するタイプ
(3)家族や親類など、人に依存するタイプ
(4)宗教に依存するタイプ

 このうち、自分の先祖を誇る人は、(1)の「名誉、地位に依存するタイプ」ということになる。実のところ、このタイプの人は多い。少し前も、「今度、伯父が、選挙に出馬することになりましたから」と言って、選挙用のポスターをもってきた人がいた。しかしその人は、伯父の選挙を本当に応援しているのではない。そういう言い方をして、「自分の家系には、こういう人がいる」ということを、自慢していただけである。

 しかし考えてみれば、しょせん、ドングリの背くらべ。○○藩の家老の子孫だろうが、田舎の百姓の子孫だろうが、結局は、「生まれた穴がほんの少し違うだけ」(モーツアルト「フィガロの結婚」)。私なんかは、名字が「林」ということからもわかるように、先祖はただの百姓。依存しようにも、しようがない。

 そうそう、私の母にこのことを言うと、母はいつも本気で怒っていた。母は、N家という武家の血筋を引く家系で生まれ育った。だから「うちの先祖は百姓だった」などと言おうものなら、「違う、武家だ! ヘンなこと言うな!」と。そういう点では、母も、人一倍、先祖にこだわっていた。

 話はそれたが、この問題は、「誇り」とも、深く関連してくる。オーストラリアに留学しているころ、こんなことがあった。

●独特のモノ意識

 K大学から、医学部で講師をしている二人の男が、大学へやってきた。そこで私がメルボルン市内をあちこち案内してあげた。が、目ざといというか、つぎつぎと日本製を見つけては、「あれは、日本の車だ」「あれは、日本のカメラだ」と。

 そこで私にいろいろ話しかけてきた。で、そのとき私がどうそれに答えたかは忘れてしまったが、最後には、その男たちを、怒らせてしまったようだ。その中の一人がこう言った。「君は、日本人だろ。同じ、日本人が作ったものを喜ばないのか」と。当時の日記には、こうある。

 「Dさん(ドクターの一人)は、私に『君は、ヘンに欧米かぶれしている。君のような日本人が、こういうところで研究生をしていることが信じられない。もっと日本人に誇りをもて』と言った。私から見れば、どうして日本製があることが、そんなにうれしいのか理解できない。結局は、それこそまさに、欧米コンプレックスの裏返しではないのか。

 このドクターたちも、やはり(1)の「モノ、お金に依存するタイプ」ということになる。戦後の高度成長期の中で、このタイプの人は、まさに大量生産された。今でも、「モノやお金のほうが、家族や人間関係より大切だ」と考えている人は、いくらでもいる。

 いや、こう書くからといって、それが悪いと言っているのではない。人、それぞれ。私のように、依存するものがない人間は、一見、たくましく見えるかもしれないが、実のところ、心の中はボロボロ。自分がボロボロである分だけ、その自分自身に依存することもできない。だから毎日が、不安でならない。

ちょっとしたことで、つまずいたり、キズついたりする。実のところ、ときどき、こう思う。「何か、本物の宗教があれば、信仰してみたい」と。そう、何が楽かといって、神や仏に依存することぐらい、楽なことはない。

 ただこういうことは言える。

 いまだに日本人の多くは、封建時代の亡霊を引きずっている。日本独特の権威主義もそうだが、人間が人間を見る前に、地位だの肩書きだの、そういうもので人間を判断している。そしてそういう亡霊が、教育の世界にも残っていて、教育をゆがめ、子どもたちの心をゆがめている。ここでいう先祖意識も、そういう亡霊の一つと考えてよい。そういうものに依存すればするほど、あなたは自分自身を見失う。子どもの姿を見失う。
(02-2-6)

● 著名な祖先しか誇るもののない人間は、ジャガイモのようなものだ。その人間のもつ、唯一のよい部分は、地下に眠る。(オヴァベリ「断片」)

● 祖先のうちで奴隷でなかった者もなかったし、奴隷の祖先のうちで王でなかった者もいなかった。(ヘレン・ケラー「自叙伝」)

● 私の父は混血児だった。父の親父は黒人だった。そして、私の祖先は、猿だった。(デューマ「お前の父はだれか」)

こうした考え方とは対照的に、江戸時代の学者の中江藤樹は、「翁問答」の中で、こう書いている。参考までに……。

「家をおこすも子孫なり。家をやぶるも子孫なり。子孫に道をおしへずして、子孫の繁盛をもとむるは、あくなくて行くことをねがふにひとし」と。「人」より、「家」のほうが大切ということ。中江藤樹はそう書き残している。

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 かなり過激な意見なので、驚かれたかもしれませんが、「子どもの意識」を考える、一つのヒントになれば、うれしいです。

 今回は、講師として、お招きいただき、感謝しています。

 ありがとうございました。