Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Saturday, March 05, 2011

●推薦図書 はyし・みこ作 「なっちゃんの声」 場面かん黙の子どもたち

【場面かん黙・場面かん黙児】

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林美子(はやし・みこ)さんという方から、
『なっちゃんの声』という本を、送って
もらいました。

今回は、その本の紹介します。

で、場面かん黙児への理解は、まだほとんど
進んでいない……というのが、私の
実感です。

家の中では、ふつうに、あるいはふつう以上に
よくしゃべるため、親やその周辺の人は、
それに気づきません。
が、場面が変わると、まったく話さなく
なってしまいます。

たいていは、保育園や幼稚園など、集団教育の
場に、いきなり入れられたようなとき、
発症します。

対人恐怖症がこじれ、無言を守ることによって、
心を防衛しようとする機能が働くためと
考えるとわかりやすいでしょう。

はやし・みこさんから送っていただいた
資料にもあるように、早期の段階で気づき、
適切な指導(私のばあい、大声で笑わせるという
方法を重視しています)があれば、そのまま
症状が消えてしまいます。

が、問題は、その子ども自身にあるというより、
無知と無理解が蔓延し、誤解や偏見が生まれやすい
ということです。
私も一度、その子どもの父親に、「お前が
うちの子を萎縮させてしまった。責任を
取ってもらう!」と、怒鳴り込まれたことが
あります。
親自身が、それに気づかないというケースも
多々あります。

子育ての世界では、「無知」は、それ自体が
罪ということになります。
どこかにそのとき書いたエッセーがあるはずです。
あとで、ここに添付しておきます。

はやし・みこさん、本をお送りくださり、
ありがとうございました。
できるだけ多くの人に読んでもらいたいと思い、
ここに紹介させていただきます。

本の申し込みは、「学苑社(03-3263-3817)まで。

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+++++以下、送っていただいた本、資料をそのまま紹介++++++

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+++++以上、送っていただいた本、資料をそのまま紹介++++++

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子育ての偏見と誤解について、もう10年近く
前に書いた原稿です。

先に書いたように、子育ての世界では、「無知」は、
それ自体が罪ということになります。
「知らなかった」では、すまないということです。
少しきびしいエッセーですが、そういう視点から
どうか、読んでください。

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【子育てブルース】

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子育ての世界にも、人には言えない、
悲しい物語が、山のようにある。
それを口にしたら、おしまい……という
ような話もある。
今朝は、そんな物語について、書いてみたい。
ただしここに書く子どもの例は、架空の
話と考えてほしい。
何人かの子どもを、1人の子どもに仕立てて
書いてみた。

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●問題児?

 その子ども(小2女児)には、まったく、問題はない。
むしろ聡明で、思考力も深い。
性格もおだやか。
とくに数に鋭い反応を示す。

 が、母親(Mさん)は、会うたびに、その子どもについて、不平、不満を並べる。
そのたびに、私は、それを否定する。
が、母親は信じない。
信じようともしない。
何か言えば、すかさず、それについて反論する。
「あそこが、悪い。ここが悪い」と

 この世界には、「代理ミュンヒハウゼン症候群」という言葉もある。
自分の子どもをわざと病人にしたて、その子どもを、かいがいしく世話をしてみせる。
よくできた母親を演じてみせる。
「私は子どもを愛しています」と、口ではよく言う。
しかしその実、何も愛していない。
自分の心の隙間を埋めるために、子どもを利用しているだけ。

(「代理ミュンヒハウゼン症候群」については、「はやし浩司 代理ミュンヒハウゼン」
で、検索をかけてみてほしい。)

 が、それに似た事件となると、……というより、それを薄めたような事件となると、
程度の差もあるが、ゴマンとある。
それについて、ある精神科医のドクターは、こう教えてくれた。
「そのタイプの親は、(母親であることが多いが……)、見るからに様子がちがいますから、
わかります」と。

 「見るからに」という言葉を使えるのは、それなりに多くの例を見てきたから言える。
ふつうの人には、わからない。
が、たしかに様子が、ちがう。
へん?
おかしい?

 どこか挙動が不自然で、母親らしい(なめらかさ)がない。
いつもピリピリしていて、心に余裕が感じられない。

●Mさん(37歳)のケース

 ここに書いたMさんは、毎日のように娘(小2)の心配ばかりしている。
「学校の参観日で見たが、手をあげなかった」
「声が小さかった」
「せっかく先生にさされたのに、隣の子に、先に答を言われてしまった」
「忘れ物をした」
「宿題をやらない」と。

 少しでも顔色が悪いと、すぐ病院へ連れていく。
花粉症だったのだが、「レーザーで焼いてもらう」とか、「扁桃腺を切ってもらう」とか、
そんな話ばかり。

 その女の子で特徴的だったのは、母親が近くにいるときと、いないときとでは、様子が
まるで別人のようにちがったこと。
母親がいるときは、静かでおとなしかった。
表情も暗かった。
が、母親がいないところでは、明るく快活で、いつもニコニコ笑っていた。

 母親は、「子育てでたいへんです」と言いながら、Mさんが学校から帰ってくると、
一瞬たりとも、M子さんのそばから離れなかった。

●バカなフリ

 一方、大きな問題をかかえているにもかかわらず、それにまったく気づいていない親も
多い。
気づかないまま、子どもを叱ったり、説教したりする。
あるいは幼稚園の先生に、「どうしてでしょう?」を繰り返す。
が、幼稚園の先生に、診断権はない。
またそれが判断できるようになるまでには、10年単位の経験が必要。

 病名を出すのは、はばかれるが、しかしわかるものはわかる。
わかるのであって、どうしようもない。
「~~障害」と言われる子どもたちである。
AD・HD児にしても、自閉症児にしても、私のばあい、会った瞬間にわかる。
が、もちろん病名を口にするのは、タブー。
タブー中のタブー。
わかっていても、わらないフリをして、……つまり無知なフリ、もっと言えば、
バカなフリをして、相談に乗る。
しかし、ここで問題が起きる。

●たとえばLD児

 LD児、つまり学習障害と言われる子どもたちがいる。
症状は、みな、ちがう。
ちがうが、ある一定のワクの中で、定型化される。
読み書きのできない子ども、算数がとくに苦手な子ども、集中力に欠ける子どもなど。
が、平たく言えば、学習面において、著しい「遅れ」を示す。

 最近の定説に従えば、脳の機能的な問題がからんでいるため、教育の世界で
改善を求めるのは、容易なことではない。
たとえば識字障害児と呼ばれる子どもがいる(注※)。
難読症、失読症が含まれる。
出現率は、10%前後と言われている。
10人に1人。

 このタイプの子どもは、文字そのものを読み取ることができない。
そのためその影響は、あらゆる面に現れる。
が、親にはそれがわからない。
「算数の文章題を、読みまちがえてばかりいます」
「本を読みません」など。

 そういう子どもをもつ親から、「どうしたら国語ができるようになりますか」という
相談をもらう。
指導の方法がないわけではない。
が、簡単には、できるようにならない。
そこであれこれ方法を教える。
が、1、2週間もすると、(たったの1、2週間!)またやってきて、こう言う。
「先生、効果、ありませんでした」と。

●X君
 
 もう1人、記憶によく残っている子ども(中学・男児)に、X君がいた。
学校でも、評判の(?)子どもだった。
で、その子どもを含めて、自宅で、4~5人だけのクラスをもったことがある。
しかし半年もしないうちに、X君だけをのぞいて、みな、やめてしまった。

 「あんなX君といっしょでは、いやだ」と。

 小さな地域である。
小学生活6年間をともに過ごしている。
みな、それぞれ、それぞれの子どもの能力をよく知っている。

 で、そのあとX君は、3年間、私の家に通ってくれた。
いつもひとりだった。
で、何とか、それなりの高校に進学していったが、それでX君が私に感謝したかというと、
それはない。
もともと勉強が嫌いだった。
やっと少し追いついたかと思っても、学校の勉強は、さらに先へと進んでいた。
つまり「親が行け」というから、私の教室に通ってきただけ。
毎週、毎週、重い足を引きずりながら、私のところへ来ていた。
それが私にも、よくわかった。
そういうケースもある。

●私の経験

 私もいろいろな「波」を経験した。
ある時期は、市内でもゆいいつと言われる進学校の子どもたちばかりになったこともある。
また別のある時期は、いわゆる問題をかかえた子どもたちばかりになったこともある。
英才教育を試みたこともある。
2~3歳児の教育を試みたこともある。

 30~40代のころは、幼稚園の年中児(4~5歳)から、高校3年生まで教えていた。
そういう「波」を無数に経験して、現在は、「なるようになれ」が、教育の基本になって
いる。
深く考えない。
子どものことだけを考えて、教える。
教えるというより、接する。
親の要求には、際限がない。
それに振り回されていたのでは、教育そのものが成り立たない。

 が、このところ体力的な限界を感ずることが多くなった。
よく誤解されるが、教育は重労働である。
どう重労働であるかは、実は、あなた自身が、いちばんよく知っているはず。
たった1人や2人の子どもですら、たいへん。
それを30人とか40人とか、教える。
まともに接したら、目が回る。
その中に問題のある子どもが含まれていたら、なおさら。
さらに問題のある親が介入してきたら、……!

●親の欲望

 ここで「親の欲望には際限がない」と書いた。
が、これは事実。

 進学校にしても、自分の子どもがB中学へ入れるとわかってくると、親は、今度は
「何とかA中学へ」と言い出す。
A中学へ入れそうになると、今度は、「S中学へ」と言い出す。

 また不登校児にしても、やっとのことで、午前中登校ができるようになると、
「せめて給食まで」となる。
給食を食べるようになると、「午後の授業も」と言い出す。

 それに振り回される学校の教師こそ、えらい迷惑。
(「迷惑」という言葉には、語弊があるが……。)
 私の教室で言えば、実のところ、問題をもった子どもほど、苦労する。
マンツーマンどころか、ワイフにも手伝ってもらって、2対1で教える。
が、そういう子どもがいると、ほかの子どもたちが、やめていく。
それでいて、その子どもが感謝するかといえば、そういうことは、絶対にない。
むしろいやなことをさせられたという、被害者意識をもってしまう。
こういう子どもは、「経営」ということを考えるなら、とても割に合わない。
(これ以上、これについて書くと、グチになるので、この話はここまで。)

●「お前を訴えてやる!」

 親の無知と無理解。
独断と偏見。
傲慢とわがまま。

 今では幼稚園でも、「入れていただけますか?」と聞いてやってくる親は、ほとんど
いない。
おけいこ塾なら、なおさらそうで、へたに「うちではお引き受けできません」などと
言おうものなら、親は、店で販売拒否にでもあったかのように怒り出す。

「どうしてうちの子は、入れてもらえないのですかア!」と。
 私の教室のばあい、過去40年近く、入会を断わったことはほとんどない。
子どもに問題があるときは、その子どもに合わせて、2~3人のクラスを編成して、
指導する。

が、それでもこのところ疲れを覚えるようになった。
子どもの「質」が変わったというより、親たちの「質」が変わった。
子どもというより、親を見て判断する。
「この親の子どもは、教えられない」と判断したときは、入会を断わるようにしている。
子どもの問題点を、それなりに理解しているならまだしも、それがないと指導ができない。
10年ほど前だが、場面かん黙症の子ども(幼稚園女児)がいた。
このタイプの子どもは、集団の中では、貝殻を閉ざしたかのようにかん黙してしまう。

 で、ある日、父親が参観にやってきた。
自分の娘の様子を見た。
ショックを受けた。
そのあとのこと。
その父親は電話口で、こう言った怒鳴った。
「貴様は、うちの娘を萎縮させてしまった。
訴えてやる。責任を取ってもらう!」と。

●教育ブルース

 ……こうして今日も、全国のあちこちから、子育てブルースが聞こえてくる。
どこか毒々しくて、それでいて、どこかもの悲しい。
みんな一生懸命しているはずなのに、どこかで歯車が狂う。
狂って、人の心をさみしくする。

 できるならニヒリズムは、もちたくない。
しかしニヒリズムをもたずして、教育はできない。
親にしても、自分で失敗してみるまでは、それがわからない。
あるいは今の状態より、より悪くなって、それまでの状態がまだよかったことを知る。

 最初は、ほんの小さな狂い。
それが加速度的に大きくなり、悪循環に悪循環が重なる。
気がついたときには、にっちもさっちもいかなくなっている……。

 ではどうするか?

 この問題だけは、親自身が、自ら気がつくしかない。
そのために自分で賢くなるしかない。
が、それを恐れてはいけない。
子育てには、その人の人生観、哲学、生き様すべてが集約される。
子育てを追求することは、その人の人生観を追求することにもなる。
奥は深い。
生涯のテーマとして、なんら遜色はない。
……とまあ、大上段に書いて、この稿はおしまい。
どうかみなさん、失敗にめげず、がんばってください!

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 子育てブルース)
(注※)難読症、失読症の症状

【幼児期】

Delays in speech
言葉の発達の遅れ。
Learns new words slowly
新しい言葉を学ぶのが遅い。
Has difficulty rhyming words, as in nursery rhymes
話す言葉がどこかぎこちない。ぎこちなさを感ずる。
Low letter knowledge
文字について能力が遅れる。
Letter reversal, ex: e b f p (normal)
鏡文字を書く。

【学童期】

Early primary school-age children(小学低学年児)
Difficulty learning the alphabet or in order
アルファベットを学ぶのが困難。
Difficulty with associating sounds with the letters that represent them
(sound-symbol correspondence)
その音を示す、文字と音を組み合わせるのが困難。
Difficulty identifying or generating rhyming words, or counting syllables in
words (phonological awareness)
文字を認識し、なめらかに文字を読むのが困難、あるいは単語の中の音節を数える
のが困難。
Difficulty segmenting words into individual sounds, or blending sounds to make
words (phonemic awareness)
単語をそれぞれの音に分離するのが困難。あるいは単語を作るため、音を混ぜるが
困難。
Difficulty with word retrieval or naming problems
言葉の訂正が困難、あるいはものと名前の結びつけるのが困難。
Difficulty learning to decode written words
表記文字を理解するのが困難。
Difficulty distinguishing between similar sounds in words; mixing up sounds in
multisyllable words (auditory discrimination) (for example, "aminal" for animal,
"bisghetti" for spaghetti)
単語の中の同じような音を区別するのが困難;たとえば「動物(どうぶつ)」を、「ど
うふづ」、「スパゲッティ」を「ビスゲッティ」と読むように、音節の多い単語の音
を混ぜてしまう。

【後期学童期】(小学、高学年児)

Older primary school children
Slow or inaccurate reading, although these individuals can read to an extent.
ある程度は読むことができるが、読むのが遅く、不正確。
Very poor spelling
綴りが苦手。
Difficulty reading out loud, reads word in the wrong order, skips words and
sometimes says a word similar to another word (auditory processing disorder)
大きな声で読むのが困難。前後の単語を入れ替えて読む、単語を飛ばす、あるいは
ほかの似たような単語に置き換えて文章を読む。
Difficulty associating individual words with their correct meanings
それぞれの単語を、正しい意味と結びつけるのが困難。
Difficulty with time keeping and concept of time, when doing a certain task
何かの作業をしているとき、時間を守るのが困難。時間の概念がない。
Difficulty with organization skills (working memory)
系統立てて作業するのが困難。
Children with dyslexia may fail to see (and occasionally to hear) similarities and
differences in letters and words, may not recognize the spacing that organizes
letters into separate words, and may be unable to sound out the pronunciation of
an unfamiliar word. (auditory processing disorder)
難読症の子どもは、文や単語の中の類似性や相違性を判断することができない。文
章の中の単語がスペース(空白)で区切られていることを認識することができない。
新しく出会った単語のようなばあい、それを発音することができない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 失読症 難読症 識字障害 文字表出能力障害 Dyslexia  Alexia 
ディスレクシア アレクシア)

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指導する側の立場で書いたエッセーです。

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●無知、無理解、無学

子育てで、何がこわいかと言って、無知(=親にその知識がない)、無理解(=子どもの症状について、理解しようとしない)、無学(=親に学ぶ姿勢がない)の3つほど、こわいものはない。

 私はドクターではないから、診断名をくだすことはできない。しかしその子どもに、どんな障害があるかは、会ったその瞬間に、ある程度わかる。が、それを口に出すことはできない。わかっていても、知らぬフリをする。そんなときは、そのため、それとなく、親に、さぐりを入れる。

 が、そういう親にかぎって、無知、無理解、無学。(失礼!)「できるだけ、避けて通りたい」という親の気持ちも、理解できないわけではない。「たとえその疑いはあっても、信じたくない」という親の気持ちも、理解できないわけではない。親としても、つらい。悲しい。それはよくわかる。

たとえば7、8年前になるが、1人の女の子(小2)がいた。Hさんという名前の女の子だった。場面かん黙児だった。最初、父親に連れられて私の教室にやってきた。が、父親は、自分の娘のことを、何も気づいていなかった。

 その日は、何とか、やり過ごした。が、つぎのときには、今度は母親に連れられてやってきた。私は、それとなくさぐりを入れた。(さぐり)というのは、親がどの程度まで、自分の子どもの問題点を理解しているか、それを知ることをいう。が、何を聞いても、即座に返ってくるのは、反論ばかり。

私「静かなお子さんですね」
母「家では、ふつうにしゃべります」
私「学校では、どうですか?」
母「友だちとなら、会話できます。しかし、おとなが苦手です」
私「学校の教室では、どんな様子ですか?」
母「しゃべりません。とくに先生との相性が悪いようです」

私「幼児期に、どこかへ相談なさったことがありますか」
母「問題は、ありません。生まれつき、外では、静かな子どもです」
私「外で静かだということにお気づきになったのは、いつですか?」
母「言葉の発達が遅れたからです」
私「遅れたというのは……?」
母「今は、問題、ありません」と。

 その女の子には、かん黙児特有の、(遊離)が見られた。顔の表情と、心の状態(情意)が不一致した状態をいう。いつもニンマリというか、ニコニコというか、意味のわからない笑みを浮かべていた。いやがっているはずのときも、怒っているはずのときも、意味のわからない笑みを浮かべていた。同じかん黙児でも、こうした遊離が見られたら、(程度にもよるが……)、症状は重いとみる。あるいは、すでに症状がこじれてしまっているとみる。

 もっと早い段階、たとえば3、4歳ごろにそれに気づき、適切な対処をしていれば、ある程度、遊離を防げたかもしれない。軽くすますことができたかもしれない。しかしそれは(過去)の話。教育の世界では、(今、そこにある現実)を原点に、ものを考える。親の過去を責めても、意味はない。

 私はさらにさぐりを入れた。入れながら、親の口から、「かん黙」という言葉が出てくるのを待った。しかし最後まで、その言葉は出てこなかった。ほんとうに無知なのか? それとも隠しているのか? 私には判断できなかった。

 で、このタイプの子どもの指導のむずかしい点は、(1)集団に溶け込まないこと。(2)心を開かないから、心の交流ができないこと。(3)ストレスを、内へ内へとためやすいため、予期せぬ問題が、発生しやすいこと。そのときすでに、その女の子には、家庭内暴力的な様子が、始まっていた。母親は、こう言った。

 「学校から帰ってくると、私に向かってはげしい暴力を振るうことがあります」と。

 つまり教える側からすると、腫れ物に触れるかのような、細心で、デリケートな指導が必要となる。何を考えているか、わからない。それがつかめない。そのため教えるといっても、まさに手さぐりの神経戦。ピンと張り詰めたような神経戦。それが一瞬、一秒という単位でつづく。突然、キレて、暴れ出すこともある。若いときなら、神経戦もできるが、当時すでに私は50歳を超えていた。神経戦は、つらい。

 が、何よりも大きな問題は、そういう問題がありながらも、親自身が、それに気がついていないこと。気がついていれば、話もできる。指導もできる。が、そこにある問題から、親が目をそらしてしまっているばあい、指導そのものができない。

またこのタイプの親は、やめるのも、早い。少しやってみて効果がないとわかると、(そんなに簡単に効果が現れるということはないのだが……)、「この教室はだめだ」というような判断をくだして、子どもの手を引っ張って、そのままやめてしまう。

 その女の子のばあいも、私は、こう言った。「簡単には、いきませんよ。1年とか、2年とか、あるいはもっとかかるかもしれません」と。しかし母親は、こう反論した。「うちの子は、慣れれば、だれとでも話をします。話をしないのは、慣れていないだけです」と。「とにかく、教室へ置いてくれれば、それでいい」とも、言った。

 事実、その女の子は、そのあと数か月程度で、私の教室を去っていった。

 かん黙児……。その中でもとくに指導がむずかしいのは、場面かん黙児。親は、「家ではふつうです」と、がんばる。子ども自身に問題があるとは、思っていない。だから、その問題点に気づくこともない。

 だから私は、当時、こう書いた。「親の、無知、無理解、無学ほど、こわいものはない」と。

(付記)

 かん黙児にかぎらず、情緒そのものに障害がある子どもは、けっして、無理をしてはいけない。「直そう」とか、「治そう」と考えてはいけない。そういう子どもであることを認めた上で、その子どもに合った指導をするのがよい。(親にそれを認めさせるまでが、たいへんだが……。)あとは、時期を待つ。子ども自身がもつ自律能力を待つ。

かん黙児にしても、その年齢がくれば、何ごともなかったかのように、終わる。小3~4年生を境に、症状は急速に改善する。(症状をこじらせれば、その時期は、ぐんと遅くなる。あるいは、別の問題を引き起こす。)

 無知、無理解、無学が原因で、たいていの親は、無理をする。この無理が、こわい。「そんなはずはない」「うちの子に限って」と、子どもをはげしく叱ったりする。そのため症状を、かえってこじらせてしまう。子ども自身が自分で立ちなおるのを、遅らせてしまう。

 そこで学校教育の場では、それとなく親に、学校医もしくは専門医の紹介をしたりする。「一度、専門医に相談してみてはどうですか?」と。

 こうした働きかけがあったら、親は、すなおにそれに応ずるのも、大切なことではないだろうか。


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 場面かん黙 場面かん黙児 緘黙児 はやし みこ なっちゃんの声)

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2003年に書いた原稿です。
古い原稿なので、随所に、知識不足な点も
あります。

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●かん黙児について



【かん黙についての相談より】



はじめまして。やっと先生のHPにたどりつきました。

私には年中の七月に五歳になったばかりの長男と、三歳の二男がおりますが、長男のことでご相談いたします.



長男は、家では明るくひょうきんでお調子者の元気な子ですが、一歩外へ出ると、なぜかほかの子どもとは話しをすることができません。(大人とは会話をすることもあるのですが)。話し始めたのは割と早かったのですが、五歳になる現在まで息子が友だちと楽しくおしゃべりする姿をみたことがありません。



赤ちゃんの頃から人見知りが激しく、私からなかなか離れられない子だったので、性格かな?
 と思っていたのですが、いまだに治らないので、これは何かほかに問題があるのかなと思い始めました。



幼稚園でも友だちの間には入っていけないらしく、担任の先生が友だちとの中に入って仲立ちをしてくれています。



友だちから誘われると遊びはするものの、なぜか話しをすることができないということです。(してもあいづちを打ったり、うんとかううんとか言う程度だそうです)。先生には話しはできます。



四月より二年保育で幼稚園に通い始めましたが、喜んで通ってはいません。時々園バスを待つとき泣いたり、行きたくないようなことを言います。でも帰ってくると幼稚園は楽しいとは言います。



公園で遊んでいても、同じ年くらいの子がそばに寄ってくると顔がくもったり、逃げたり、不安そうな顔をしたりします。



息子は家では電車や車で町をつくったり、絵を描くのがすきです。それと数字や字を書くことにとても興味があり、教えることもないのにどんどん覚えていきます。それとピアノがすごく好きで、耳から聞く曲を、ピアノでそのまま弾いてみせたりしてびっくりすることがあります。



子どもと話しのできないかんもく症というのはあるのでしょうか? 親としてどうこの子に接してやればいいのでしょう?



少しでも友だちと遊ぶことの楽しさを子どもに味あわせてやりたいのです。先生のアドバイス心よりお待ちしております。

(長野県S市・SY母親より)



【はやし浩司より、SYさんへ】



 かん黙傾向というのは、広く、いろいろな情緒障害の随伴症状として見られるものです。ですから、かん黙傾向があるからといって、かん黙児ということにはなりません。たとえば対人恐怖症の子どもは、やはり人前では、ほとんどしゃべりません。



 で、そのかん黙傾向が、ふつうの人間関係を結べないほどまでに強くなった状態を、かん黙と言います。かん黙児の特徴については、ここに原稿を添付しておきます。参考にしてください。いただいたメールだけではよくわかりませんが、私は、心配されるようなかん黙児ではなく、ここに書いた対人恐怖症ではないかと思います。「時々園バスを待つとき泣いたり、行きたくないようなことを言います。でも帰ってくると幼稚園は楽しいとは言います」という、一日の中において、症状が変化するところに、それを感じました。これを「症状の日内変動」と言いますが、広く、恐怖症全体に共通して見られる症状だからです。



 原因については、今さら問題にしても意味はありませんが、考えられるのは、最初の段階で、人に対して、恐怖心を覚えたということです。つまり親と子だけのマンツーマンの子育てが中心だったのが、外へ出され、そこで人に対して、恐怖心を覚えたということです。「人見知りが強かった」ということですが、そのとき、親が無理をしたか、あるいは突き放すようなことをしたのかもしれません。



 そういう意味では、情緒が不安定な子どもということになります。ただ誤解してはいけないのは、情緒が不安定というのは、あくまでも結果でしかないということです。わかりやすく言えば、あなたの子どもは、心の緊張感がとれない、ほぐれない状態にあるということです。その緊張している状態のところに、心配や不安が入りこむと、それを解消しようと、一挙に、情緒が不安定になる。それが今の状態だということです。



 この緊張感は、なかなかとれません。五、六歳児ならなおさらで、それこそ一年単位のケアが必要です。あるいは安静になったと思っても、簡単なきっかけで再発します。心というのは、そういうものです。もっと言えば、SYさん自身も、子どもに対して、全幅に心を開いていない、つまり日常的に、ある種の緊張感を覚えている可能性もあります。子どもの心というのは、そういう意味で親の心を写す、カガミのようなものです。あなた自身のことも反省してみてください。なお恐怖症の原稿も、ここに添付しておきます。



 さてSYさんの相談で、一番気になるのは、三歳の二男のことです。逆算すると、人見知りを始める、ちょうど、満一歳前後から、満一・五歳前後にかけて、下の子どもが生まれたことになります。もっとも親に甘えたいときに、下の子が生まれたということになります。この段階で、子どもの情緒が一挙に不安定になったと考えられます。いただきましたメールを読むかぎり、赤ちゃんがえりの一つの変形タイプではないかと推察されます。どこかで「あなたはお兄ちゃんだから」式の、突き放しをしていませんか。決して、赤ちゃんがえりを安易に考えてはいけません。それはちょうど、あなたの夫が、ある日突然、愛人をあなたの家に連れこむようなものです。あなたははたして平静でいられるでしょうか。



 あくまでもいただいたメールの範囲ですが、いわゆるかん黙児ではないと思います。考えられるのは、赤ちゃんがえりがこじれた、対人恐怖症ではないかと思います。あくまでも一つの意見として参考にしてください。かん黙児は、おとなとは、絶対に話をしません。



 ただ一つ気になるのは、自閉傾向があるということ。(自閉症ではありません。誤解のないように!)カラに閉じこもるような傾向を見せたら、何らかの方法で、外へ引き出してあげるとよいでしょう。(ただし無理をしてはいけません。)「それと数字や字を書くことにとても興味があり、教えることもないのにどんどん覚えていきます。それとピアノがすごく好きで、耳から聞く曲を、ピアノでそのまま弾いてみせたりしてびっくりすることがあります」というところに、私は、それを感じます。



 心のケアとして大切なことは、濃厚なスキンシップを与えるということです。とくに子どもがときどき、思いついたように求めてくるスキンシップについては、絶対に(絶対に!)拒んではいけません。求めてきたら、グイと力強く抱く。しばらく抱いていると、やがて満足して体を離すようになります。それまで、子どもを抱きます。



 またこの際、弟さんには悪いですが、全幅の愛情を、もう一度、子どもに戻してみます。添い寝、手つなぎ、抱っこなど。そして半年単位で、少しずつ、離れていきます。スキンシップには魔法の力があります。どうかそれを信じて、一度、ためしてみてください。



 なお。こうした心の問題は、「なおそう」と考えてはいけません。「今の状態をより悪くしないこと」だけを考えて対処します。「あなたはよくがんばっているよ」「すてきだわ」式の前向きなストロークをかけてあげます。今、あなたの子どもは、体を使って、愛情不足を訴えています。



 最後に「ほかの子どもと楽しく遊ばせてあげたい」という、親のエゴを子どもに押しつけてはいけません。五歳前後から、子どもは、幼児期から少年期への移行期(中間反抗期)に入ります。この時期、子どもは、カラを脱ぐようにして、少年になっていきます。決して、あせってはいけません。あなたがそれを「悪いこと」と決めてかかればかかるほど、自我の同一性が乱れます。あるがままを認めながら、「あなたはそれでいいのよ」と自信をもたせてあげてください。



 今、たいへん微妙な段階にあると思います。幼稚園にせよ、無理をしないで、ときどき行けばよい式に考えてください。心が発熱していると思えば、よいのです。それともあなたは熱がある子どもを、幼稚園へ行かせますか? だいたい幼稚園へ、喜んでいく子どもなど、少ないのです。とくにあなたの子どもはそうではないでしょうか。



 あとはCA、MGの多い食生活に心がけ、「暖かい無視」のある生活をしてみてください。では、また何か、変化があれば、ご連絡ください。お待ちしています。



 なおこの原稿は、七月二一日号のマガジンに掲載しますが、よろしくご了解ください。不都合な点があれば、至急、ご連絡ください。改めます。



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(参考)



●かん黙児

 かん黙児……家の中などではふつうに話したり騒いだりすることはできても、場面が変わると貝殻を閉ざしたかのように、かん黙してしまう子どもを、かん黙児という。通常の学習環境での指導が困難なかん黙児は、小学生で一〇〇〇人中、四人(〇・三八%)、中学生で一〇〇〇人中、三人(〇・二九%)と言われているが、実際にはその傾向のある子どもまで含めると、二〇人に一人以上は経験する。



●ある特定の場面になるとかん黙するタイプ(場面かん黙)と、場面に関係なくかん黙する、全かん黙に分けて考えるが、ほかにある特定の条件が重なるとかん黙してしまうタイプの子どもや、気分的な要素に左右されてかん黙してしまう子どももいる。順に子どもを当てて意見を述べさせるようなとき、ふとしたきっかけでかん黙してしまうなど。



 一般的には無言を守り対人関係を避けることにより、自分の保身をはかるために、子どもはかん黙すると考えられている。これを防衛機制という。幼稚園や保育園へ入園したときをきっかけとして発症することが多く、過度の身体的緊張がその背景にあると言われている。



 かん黙状態になると、体をこわばらせる、視線をそらす(あるいはじっと相手をみつめる)、口をキッと結ぶ。あるいは反対に柔和な笑みを浮かべたまま、かん黙する子どももいる。心と感情表現が遊離したために起こる現象と考えるとわかりやすい。

かん黙児の指導で難しいのは、親にその理解がないこと。幼稚園などでその症状が出たりすると、たいていの親は、「先生の指導が悪い」「集団に慣れていないため」「友だちづきあいがヘタ」とか言う。「内弁慶なだけ」と言う人もいる。そして子どもに向かっては、「話しなさい」「どうしてハキハキしないの!」と叱る。しかし子どものかん黙は、脳の機能障害によるもので、子どもの力ではどうにもならない。またそういう前提で対処しなければならない。



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(参考2)



心の病気



 心も、ときに病気になる。その代表的なものに、(1)抑うつ神経症、(2)不安神経症、(3)強迫神経症、(4)心気神経症、(5)恐怖症などがある。この中でとくに(1)抑うつ神経症を、「心の風邪」と言う人がいる。となると、(2)不安神経症は、下痢、(3)強迫神経症は、頭痛、(4)心気神経症は、胃炎、(5)恐怖症は、二日酔いということか。あまりよいたとえではないかもしれないが、要するに、だれでも、下痢をしたり、頭痛になったりするように、簡単に不安神経症になったり、強迫神経症になったりするということ。



 私のばあい、いつもこのどれかを経験している。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(6)抑うつ神経症

ときどきワイフが先に死んだら、どうしようかと考える。ひとりで生きていく自信は、私には、まったくない。しかし一度、そう考えだすと、生きる目的すら、なくしてしまう。今までの人生があっという間に終わったように、これからの人生も、あっという間に終わってしまうだろうとか、私の老後は、孤独であわれなものになるだろうとか、そんなことまで考える。ただ私のばあい、病識(自分で病気とわかること)があるので、それなりに対処できる。「今の私は、本当の自分ではない」と考えて、カルシウム剤をたくさんとって、睡眠時間を長くしたりする。軽いばあいには、たいてい翌朝にはなおっている。心がふさいで重苦しく、晴れないことを、抑うつ神経症という。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(7)不安神経症

一度、パソコンにウィルスが侵入したのではないかと、大あわてしたことがある。心臓はドキドキし、体中から冷や汗が出た。最終的には、パソコンをリカバリーをすることで問題を解決したが、夜中に始めて、一段落したころには朝になっていた。ほかに私はちょっとしたことで、被害妄想がとりとめなく大きくなることがある。つぎつぎとものごとを悪いほうへ、悪いほうへ考えてしまう。俗にいう、とりこし苦労タイプの人間である。あとになって、「どうしてあんなことで悩んだのだろう」と思うことが多い。突発的にはげしい不安感に襲われ、呼吸が苦しくなったり、動悸がはげしくなることを、不安神経症という。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(8)強迫神経症

山荘には、防犯装置と、自動火災連絡装置が設置してある。自動火災連絡装置というのは、
山荘内で、ガス漏れや火災があったとき、私の自宅のほうに電話がかかってくるしくみの装置をいう。で、一度だけだが、それがかかってきたことがある。私はあわてて山荘へ向ったが、そのときは、本当に生きた心地がしなかった。途中、携帯電話で隣人に電話をしたが、あいにくと隣人は不在。が、その直後からおかしな現象が起きた。山荘でたき火をしたあとなど、水で火を消すのだが、いくら消しても、どこかもの足りなさを覚えた。たき火コーナーが、プールのように水びたしになっても、不安感が消えなかったこともある。自分の意思に反して、勝手に悩んだり、心配したりすることを、強迫神経症という。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(9)心気神経症

今まで経験しなかったような病状が現れたりすると、「もしや」と思うことがある。数か月前だが、生徒たちからたくさんのチョコレートをもらった。そのチョコレートを食べ過ぎたせいか、脳が一時的に覚醒(興奮)状態になってしまった。(私は本当はチョコレートは食べられない体質。)脳が勝手に乱舞してしまった。私はそのときはチョコレートのせいだとはわからなかったので、脳腫瘍ではないかと疑ってしまった。とたん、極度の不安状態になってしまった。ワイフが「何でもないわよ」となだめてくれたが、私はフトンの中で、体を丸めてガタガタ震えていた。悪い病気にかかってしまったのではないかと、極度の不安状態になることを、心気神経症という。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(10)恐怖症

私には高所恐怖症や閉所恐怖症にあわせて、飛行機恐怖症などがある。恐怖症というのは、
一度なると、いろいろな形で現れてくる。数年前は、あやうく交通事故を起こしかけたが、そのあと、私は自転車に乗られなくなってしまった。夜、自転車で道路を走っていたが、走っている車が、どれも私のほうに向って走ってくるように感じた。私は数百メートル走っては自転車からおり、また走ってはおりた。あとでみたら、手が、汗でべっとりと濡れていた。何かとくべつのことで、ものごとに激しい恐怖感を覚えることを、恐怖症という。ほかに動物恐怖症、お面恐怖症、先端恐怖症などもある。



 私のばあい、肉体的には健康だが、精神的にはあまり健康ではない。よく落ちこむし、ときに激怒して、自分がわからなくなることがある。ここにあげた恐怖症にせよ、強迫神経症にせよ、いろいろな形で、よく経験する。



 こういう心の病気になったとき、こわいのは、脳のCPU(中央演算装置)が狂うためか、狂っている私のほうが正しいのか、そうでないときの私のほうが正しいのか、それがわからなくなること。たとえば抑うつ状態になったとき、かえってそうでない人のほうが、おかしく見えるときがある。私のことで言うなら、落ちこんでいる自分のほうが、本当の自分のように思うことがある。そして「今まで落ちこまなかったのは、私がバカだったから」というような考え方をしてしまう。



 また恐怖症にせよ、心気神経症にせよ、私の経験からしても、自分ではコントロールできないということ。自分に「だいじょうぶだ」と何度言い聞かせても、もう一人別の自分が、それを打ち消してしまう。あるいは頭の中ではだいじょうぶと思っていても、体は勝手に動いてしまう。もう二〇年近くも前のことだが、私はテレビのアンテナをつけるために、屋根にあがったことがある。しかしおりるとき、勝手に足がすくんでしまい、それ以上、動けなくなってしまった。結局、近くの電気屋さんに来てもらい、助けてもらったが、そのときも、いくら「だいじょうぶだ」と自分にってきかせても、自分では、どうしようもなかった。



 だから……。今、いろいろな心の病気をかかえた子どもに接すると、そういう子どもの心の状態がよくわかる。親は、「気のせいだ」「気はもちようだ」などと言うが、私はそうは言わない。先日も「トンネルがこわい」と訴えてきた小学生(小一男児)がいた。その子どもに接したときも、私は、こう言った。「こわいよね。ぼくもトンネルがこわくて、ときどき入れないときがある。天井がコンクリートか何かで、しっかりしていればいいけど、岩がむき出しであったりすると、ぞっとするね」と。



 熱を出して苦しんでいる子どもに無理をさせないように、心の病気にかかっている子どもに無理をしてはいけない。心の病気は、外から見えないだけに、親は安易に考える傾向があるが、決して安易に考えてはいけない。こじらせればこじらせるほど、立ちなおりがむずかしくなる。

(030713)


Hiroshi Hayashi+++++++March. 2011++++++はやし浩司・林浩司