●戦いすんで日が暮れて
●5月27日、戦いすんで日が暮れて……
昔(昭和44年)、佐藤愛子という作家が、『戦いすんで日が暮れて』という小説を
発表した。
直木賞を受賞した。
私は、その小説は読んでいないが、この『戦いすんで日が暮れて』という言葉は、当時の
流行語にもなった。
一日の仕事が終わり、家に帰りほっと一息ついたようなとき、今でも自然とこの言葉が
口をついて出てくる。
『戦いすんで日が暮れて』と。
昭和44年というから、私が22歳のとき。
大学4年生のときのことだった。
●日々に戦い
今日は霧のような小雨の中、町までの4キロを歩いた。
時間にして、ちょうど40分前後。
一度佐鳴湖畔に出て、その湖畔沿いに歩く。
途中、「富士見橋」という橋がある。
その名の通り、そこからは天気のよい日には、富士山を見ることができる。
いつもの散歩コースである。
が、歩いている人は、ほとんどいなかった。
(そういえば、ゼロ?)
原発事故の影響か?
私も雲の動きが気になった。
浜松から見ると、富士山は、やや北よりの東方向にある。
それをさらに延長したところに、福島第一原発がある。
その富士山のあるあたりを基準にすれば、風の方向がおおよそわかる。
富士山の方から吹いてくれば、東風。
要注意!
ときどき歩くのをやめ、私は空の雲の動きを追った。
風は、やや南よりの東から吹いていた。
が、それで安心したわけではない。
風というのは、そのつど向きを変えて吹く。
言い忘れたが、このあたりでも、みな、こう言うようになった。
「雨の日は、出歩かないほうがいい」と。
●疎開
そう言えば、昨日会ったSさんも、こう言っていた。
何でも知人が、福島から千葉へ、千葉からさらに、この浜松へ引っ越してきたという。
Sさんは「疎開」という言葉を使った。
もともと「疎開」というのは、「各地へ分散する」という意味である。
戦時中の学童疎開が、それ。
その言葉を聞いたとき、私はこう思った。
「まさに、戦争だな」と。
その知人もSさんにこう言ったそうだ。
「浜松は、まるで別世界ですね」と。
もともと浜松市民というのは、大ざっぱで、ノー天気(失礼!)。
この浜松で、原発事故を心配している人は、まずいない。……いなかった。
が、神奈川県で茶葉が汚染されたと聞いてからは、少し雰囲気が変わった。
「つぎは静岡。そのつぎは浜松」と。
「東京では、青山でも、人通りがぐんと少なくなりました」と。
その知人は、Sさんにそう言ったという。
ましてや雨の日に出歩く人は、いない。
私はときどき口の中に飛び込んでくる雨粒をなめながら、「だいじょうぶかな?」と。
そんなことを心配しながら、4キロを歩いた。
イヤ~ナ気分だった。
●仕事
が、こういうときというのは、かえってカラ元気が出る。
またそうでもしないと、そのまま心まで曇ってしまう。
私はいつも以上に、子ども(生徒)たちとはしゃいだ。
楽しかった。
おもしろかった。
その様子はビデオに収めた。
幼児教室の今日のテーマは、『言葉』。
(1)
(2)
(3)
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●ついでに小4、5クラスの様子も、ビデオに収めた。
一番手前の子ども(男児)は、まだ小学1年生である。
名前をK君という。
私はこれほどまでに勉強癖のしっかりした子どもを、ほかに知らない。
冷静沈着。
しかも頭がキレる。
シャープ!
このタイプの子どもは、よく過干渉児と誤解される。
が、K君はちがう。
生まれもった性質そのものが、ちがう。
たいへん恵まれた子ども(Gifted Child)ということになる。
私はK君の将来を見届けることはできないが、K君はいつか、
ずば抜けた才能を光らせるはず。
恩師の田丸謙二先生のような、鋭い眼光をもっている。
そういう子どもに出会うと、私のほうがうれしくなる。
率直に言うと、私は勉強が嫌いな子どもを教えるのが、苦手。
反対に、K君のような頭のよい子どもを教えるのが得意。
ずば抜けてすばらしい子どもにする自信がある。
……というようなことも心のどこかに置き、このビデオを観てもらえれば、
うれしい。
またK君にとっても、あとあとすばらしい思い出になればうれしい。
●小4、5クラス+K君(小1)
●最善
ということで、今日もがんばった。
自分を出し切った。
完全燃焼というには、ほど遠い。
しかし点数をつければ、70点くらい?
あとは、今日撮ったビデオをYOUTUBEにアップすればよい。
それで今日は、おしまい。
で、最後に一言。
『戦いすんで日が暮れて』。
Hiroshi Hayashi+++++++May. 2011++++++はやし浩司・林浩司
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