Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Monday, May 23, 2011

●『ゆでガエル』と「アパシー」

【年中児(4歳児)・数の学習】(1~30まで数えてみよう)

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年中児(つまり大半が4歳児)のレッスンです。

レッスンを始めてから、ほぼ2か月がすぎました。
今日のテーマは、「数」。
「1~30まで数えてみよう」です。

年長児(5歳児)と同じ教材を使いますが、年中児は
約3分の2程度のところで、時間切れ。
また全体に、(当然のことですが)、年長児のレッスンの
内容よりは、浅くなります。

今日は3歳児のY君が見学にやってきました。
1時間、座ってくれていたのには、驚きました。
この年齢の子どもには、座っているというだけでも、
たいへんな作業です。

最初は穏やかに導入し、徐々に盛り上げていくという
手法を、今回は使ってみました。
10分後には、みな、ワイワイと大声を出すように
なりました。
その変化をどうかご覧ください。

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Hiroshi Hayashi+++++++May. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●5月24日(2011年)朝

●『ゆでガエル』と「アパシー」

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昨日、15枚ほど原稿を書いた。
USBメモリーに保存した。
が、今朝さがしたら、それがない!
つまりUSBメモリーがない!
たしかそれを、目がねケースに入れて
おいたはず……。

こういうときというのは、やる気をなくす。
本当になくす。

今朝もこうしてパソコンに向かう。
が、頭の中はからっぽ。
何をどう書いてよいものか?

これは私の性格。
同じことを繰り返すということができない。
いつも変わったことをしていないと、
気がすまない。
だから今、昨日書いたのと同じ原稿を
書けと言われても、それができない。
できないから、からっぽ。

ぼんやりと、……どこかうつろな気分で、
あちこちのニュースサイトをながめる。
読んでは、忘れる。
読んでは、忘れる。
気分は、どこか投げやり。

そう言えば昨日、どこかのサイトに
こんな言葉があった。
『ゆでガエル』。

カエルをゆでるにも、ゆで方というのがあるそうだ。
カエルを食用にしている国は多い。

つまり生きたカエルをゆでるとき、(残酷な
話だが……)、いきなり熱い湯に入れると、
カエルは飛び跳ねて、逃げてしまう。

そこでカエルをゆでるときには、水の中に入れ、
徐々に温度をあげる。
カエルは温度があがっているのに気づかず、
そのままゆであがってしまうという(※)。

(これはあくまでも「警句」として使われている
言葉で、実際にそうであるということではない。)

今度の福島第一原発事故に関しての
話である。

今ごろになって、東京電力は、事故直後すでに
メルトダウン(炉心融解)が始まっていたことを、
認めた(5月23日)。
もしあのときそれを公表していたら、
日本中は大混乱に陥っていただろう。
つまり熱い湯の中に、カエルを落とした
状態になっていた。

が、そのカエルも徐々に温度をあげられると、
それに気づかない。
そのまま湯の中で、ゆであがってしまう。
つまり今が、その状態ということになる。
だから「ゆでガエル」。

今朝のニュースを読むと、1号機も、2号機も、
3号機も、みな、メルトダウンしているという。
メルトダウンだぞ!
最悪の原子力発電所事故だぞ!
が、その深刻さが、どうもイマイチ、伝わって
こない。
状況に慣れてしまったというか、無関心に
なってしまった。

こういう心の状態を、英語では、「アパシー」という。
apathy……つまりものごとに、冷淡的に無感動
であること。
「無関心」と訳すが、それともややニュアンスが
ちがう。
アパシーはアパシー。
英語で「アパシー」という言葉を使うときは、
そこに「罪」というニュアンスをからませる。

 つまり問題があまりにも大きすぎて、対処できない。
言うなれば戦争状態。
法や秩序、良識や常識が、みな、吹き飛んでしまった。
もう少し具体的に説明すると、こうなる。

たとえば現在、どこかで保険金殺人事件が
話題になっている。
保険金をかけて、その人を殺す……。
何ごともない平和な時なら、今ごろは大問題になって
いただろう。
しかし現在、原発周辺で起きていることは、
そんな程度の問題ではない。
この先、何十万人、あるいは何百万人という
人たちが、放射線障害で命を落とすことになる。

それほどまでに深刻な問題である。
そういう深刻な問題をさておいたまま、何が
保険金殺人だ、となる。
が、これがアパシーというわけではない。
本物のアパシーは、もっと恐ろしい。

 たとえば今、原発事故の現場では、500~
1000人の作業員の方たちがその処理に
従事しているいう。
同時に、大量の放射線を浴びている。
そういう作業員の人たちが、今後、無事で
あるはずがない。
「今、ただちに……」ではないとしても、
今後1、2年から10年のうちには、
深刻な放射線障害が現れてくる。
チェルノブイリの例をあげるまでもない。

そこで本来なら、「退避しなさい。危険だ!」と
言いたいが、それができない。
口をつぐんでしまう。
「がんばってもらうしかない」と、目や耳を遠ざけて
しまう。
それがアパシーということになる。

「冷淡的に無関心になり」、わざと心を、
外に向ける。
向けたまま、何ごともないかのように、
自分の生活をつづける。
考えてみれば、これほどの「重罪」は、そうはない。
「だれかにやってもらわなければならない」と自分に
言い聞かせる。
またそう言い聞かせながら、自分の心をごまかしてしまう。
いつの間にか、私たちの心はそうなってしまった。

わかりやすく言えば、私たちが今、
「ゆでガエル」の状態になっている。

……で、「ゆでガエル」の話は知らなかったが、
以前、こんな原稿を書いたことがある。
2002年に書いた原稿だが、この原稿の
中で私が書きたかったことは、やはり「アパシー」
ということになる。

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【杉原千畝副領事のビザ発給事件を考える】 

●杉原千畝副領事のビザ発給事件 

 「1940年、カウナス(当時のリトアニアの首都)領事館の杉原千畝副領事は、ナチスの迫害から逃れるために日本の通過を求めたユダヤ人6000人に対して、ビザ(査証)を発給した。
これに対して1985年、イスラエル政府から、ユダヤ建国に尽くした外国人に与えられる勲章、『諸国民の中の正義の人賞(ヤド・バシェム賞)』を授与された」(郵政省発行20世紀デザイン切手第九集より)。

●たたえること自体、偽善

 ナチス・ドイツは、ヨーロッパ全土で、1100万人のユダヤ人虐殺を計画。結果、アウシュビッツの「ユダヤ人絶滅工場」だけでも、ソ連軍による解放時までに、約400万人ものユダヤ人が虐殺されたとされる。
杉原千畝副領事によるビザ発給事件は、そういう過程の中で起きたものだが、日本人はこの事件を、戦時中を飾る美談としてたたえる。
郵政省発行の記念切手にもなったことからも、それがわかる。
が、しかし、この事件をたたえること自体、日本にとっては偽善そのものと言ってよい。

●杉原副領事のしたことは、越権行為?

 当時日本とドイツは、日独防共協定(1936年)、日独伊防共協定(37年)を結んだあと、日独伊三国同盟(40年)まで結んでいる。
こうした流れからもわかるように、杉原副領事のした行為は、まさに越権行為。
日本政府への背信行為であるのみならず、軍事同盟の協定違反の疑いすらある。
杉原副領事のした行為を正当化するということは、当時の日本政府がしたことはまちがっていると言うに等しい。
その「まちがっている」という部分を取りあげないで、今になって杉原副領事を善人としてたたえるのは、まさに偽善。
いやこう書くからといって、私は杉原副領事のした行為がまちがっていたというのではない。
問題は、その先と言ったらとよいのか、その中味である。
当時の日本といえば、ドイツ以上にドイツ的だった。
しかも今になっても、その体質はほとんど変わっていない。
どこかで日本があの戦争を反省したとか、あるいは戦争責任を誰かに追及したというのであれば、話はわかる。
そうした事実がまったくないまま、杉原副領事のした行為をたたえるというのは、「今の日本人と戦争をした日本人は、別の人種です」と言うのと同じくらい、おかしなことなのだ。

●日本はだいじょうぶか?

 そこでこんな仮定をしてみよう。仮に、だ。
仮にこの日本に、100万単位の外国人不法入国者がやってくるようになったとしよう。そしてそれらの不法入国者が、もちまえの勤勉さで、日本の経済を動かすまでになったとしよう。
さらに不法入国者が不法入国者を呼び、日本の人口の何割かを占めるようになったとしよう。
そしてあなたの隣に住み、あなたよりリッチな生活をし始めたとしよう。もうそのころになると、日本の経済も、彼らを無視するわけにいかない。
が、彼らは日本に同化せず、彼らの国の言葉を話し、彼らの宗教を信じ、さらに税金もしっかりと払わないとする。
そのとき、だ。もしそうなったら、あなたならどうする? 
あなた自身のこととして考えてみてほしい。
あなたはそれでも平静でいられるだろうか。
ヒットラーが政権を取ったころのドイツは、まさにそういう状況だった。
つまり私が言いたいことは、あのドイツですら、狂ったということ。
ゲーテやシラー、さらにベートーベンを生んだドイツが、だ。
この日本が狂わないという保証はどこにもない。
現に2000年の夏、東京都の石原都知事は、「第三国発言」をして、物議をかもした。
そして具体的に自衛隊を使った、総合(治安)防災訓練までしている(2000年9月)。
石原都知事のような日本を代表する文化人ですら、そうなのだ。

●「日本の発展はこれ以上望めない」

 ついでながら石原都知事の発言を受けて、アメリカのCNNは、次のように報道している。
「日本人に『ワレワレ』意識があるうちは、日本の発展はこれ以上望めない」と。
そしてそれを受けてその直後、アメリカのクリントン大統領は、「アメリカはすべての国からの移民を認める」と宣言した。
日本へのあてこすりともとれるが、日本が杉原副知事をたたえるのは、あくまでも結果論。
チグハグな日本の姿勢を見ていると、どうもすっきりしない。
石原都知事の発言は、「私たち日本人も、外国で同じように差別されても文句は言いませんよ」と言っているのに等しい。
多くの経済学者は、2015年には日本と中国の経済的立場は逆転するだろうと予測している。
そうなればなったで、今度は日本人が中国へ出稼ぎに行かねばならない。
そういうことも考えながら、この杉原千畝副領事によるビザ発給事件、さらには石原都知事の発言を考える必要があるのではないだろうか。
(02-10-4転載)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●アパシーという重罪

 私はこの原稿を読みながら、改めてこう考える。

 いつの日か、福島第一原発の事故も、過去の一大事件として振り返られるときが
やってくるだろう。
そのとき、その事故処理で多量の放射線を浴び、犠牲になった人たちのことも振り返られるだろう。
「あの人たちのおかげで、私たちは、今、こうして無事でいられるのです」と。

 それはその通りだと思う。
しかしだからといって、今、私たちがもっているアパシーが、それで許されるというわけ
ではない。
もう少し辛らつな言い方をするなら、犠牲となった人たちに感謝する程度のことで、
私たちが今、犯しつつあるアパシーという重罪が、帳消しになるわけではない。

 杉原千畝副領事のビザ発給事件にしても、そうだ。
一方でドイツと手を組み、間接的であるにせよ、ユダヤ人の大量虐殺に手を貸し、
アジア地域で似たような虐殺事件を起こしてきた日本人。
軍人だけではない。
その周辺の日本人すべて。
そういう虐殺事件を見て見ぬフリをつづけた。
それがアパシー。

その同じ日本人が、杉原千畝副領事のビザ発給事件にしがみつく。
が、だからといって、私たちが犯したアパシーという重罪が、それで帳消しになる
わけではない。
さらに一歩進んで、もし杉原千畝副領事を称えるとしたら、それこそまさに偽善。
その前にやるべきことは、山のようにある。……はず。

 ……やはり今朝は、うまく原稿がまとめられない。
どこかバラバラ。
昨日書いた原稿が、とくによかったというわけではない。
ただこうも言う。
『釣り逃がした魚は大きい』と。
今は、そんな感じ。
「からっぽ感」は、今もある。

 ……しかしそれにしても、この罪悪感は、どこから来るのか。
原発事故の現場で事故処理に当たっている作業員の人たちのことを思うと、どうしても
気分が重くなる。
申し訳ないというより、罪悪感。
何か悪いことをしているという気分を、どうしてもぬぐい去ることができない。

 ……ということで、今日も始まった。
5月24日、肌寒い曇り空。
みなさん、おはようございます。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(注※)『ゆでガエル』(ウィキペディア百科事典より)

『ゆでガエル』

茹でガエル現象、茹でガエルの法則とは、ビジネス環境の変化に対応する事の重要性、困難性を指摘するために用いられる寓話の一種。
『ウサギとカメの競争』などと同様、自然科学とは無関係である。

出典は不明だが、スタンレー・ホールによって1887年に紹介されており、英語圏で伝えられてきた古典的な警句と見られる。
要旨は「2匹のカエルを用意し、一方は熱湯に入れ、もう一方は緩やかに昇温する冷水に入れる。すると、前者は直ちに飛び跳ね脱出・生存するのに対し、後者は水温の上昇を知覚できずに死亡する」というものである。

およそ人間は環境適応能力を持つがゆえに、暫時的な変化は万一それが致命的なものであっても、受け入れてしまう傾向が見られる。
(例えば業績悪化が危機的レベルに迫りつつあるにもかかわらず、低すぎる営業目標達成を祝す経営幹部や、敗色濃厚にもかかわらず、なお好戦的な軍上層部など)。
(以上、ウィキペディア百科事典より転載)

(補記)

 ついでに、2000年ごろには、「2015年ごろ、日本と中国の経済的立場は逆転するだろう」と言われていた(本文より)。
しかし実際には、2011年(今年)、日本と中国の経済的立場は逆転した。
予定より4年も早まったことになる。


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2011++++++はやし浩司・林浩司