Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Saturday, May 14, 2011

●マガジン過去版(4)

件名:■■子育て最前線の育児論byはやし浩司■■メリークリスマス

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03-12-24号(337)
★ ★★★★★★★★★★★★★
★ メリークリスマス!
子育て最前線の育児論by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
●今日のメニュー●

★子育てポイント
★特集
★心に触れる
★フォーラム

   〓◆〓
  ※{⌒}※  メリークリスマス!
 ≫*ノ~L@∵
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#∴      &
~      #≪
@※      ヾ
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  ~※#‡∴゛

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2月21日・細江町「教育のつどい」にどうか、おいでください!
全力を尽くします!
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【1】子育てポイント∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞upto797

●すなおでない子ども

 昔、印象に残っている女の子(年長児)に、こんな子どもがいた。私が幼稚園の庭へ出て、「今日は、いい天気だね」と声をかけたときのこと。その女の子は、こう言った。「いい天気ではない。あそこに雲がある!」と。

私「雲が、あっても、いい天気でしょ。気持いいじゃない」
女「あそこに、雲があるから、いい天気じゃ、ない!」
私「あのね、少しくらい、雲があってもいいの。あの青い空を見てごらん。いい天気じゃ、ない」
女「あそこに、雲があるから、いい天気じゃ、ない!」と。

 「すなおさ」というときには、二つの意味がある。心(情意)と、表情が一致していること。もう一つは、心に、ゆがみがないこと。その女の子の心は、あきらかに、ゆがんでいた。

 が、それだけではない。この女の子の会話の特徴は、何かにつけて、マイナス志向であること。これはその女の子との会話ではないが、最近でも、こんな会話をしたことがある。

私「明日は、土曜日か? 休みだね。どこかへ行くの?」
子「明日は、雨だよ。天気予報では、雨だよ」
私「……」

私「おとなになったら、何をしたい?」
子「何もできないよ」
私「どうして?」
子「地球の温暖化が進んで、みんな、死んでしまうよ」
私「……」

私「この問題は、○○中学の入試問題で、出た問題だよ。やってみたら?」
子「できるわけないでしょ」
私「どうして?」
子「だって、私、△△小学校の入学試験で、落ちたのよ」
私「そんなの、昔のことじゃ、ない?」
子「三つ子の魂……、何とかって、言うでしょ!」
私「……」

 このタイプの子どもは、まず、相手の言ったことを、否定する。そしてその上で、(しない)(やらない)(できない)の、カラを、自ら、かぶってしまう。だから当然、伸びない。

 こういうのを、世間では、ヒネクレ症状という。ものの考え方が、何かにつけて、ヒネクレる。こんな会話をしたこともある。

私、机の上にあった、カセット・レコーダーを足で、ひっかけて落とした女の子(小五)に向って、「気をつけてよ!」と言ったときのこと、すかさず、その女の子は、こう言った。「先生が、こんなところに置いておくから、悪いのよ!」

私「でも、不注意で落としたのは、君なんだから、あやまるべきだ」
女「私は、悪くない。そこにコードがあるのを知らなかった」
私「でも、落としたのは、君なんだから、まず、あやまるべきだ」
女「どうして、あやまらなければいけないの? 私は悪いことをしてない」
私「不注意だっただろ?」

女「あやまればいいのね」
私「そう」
女「ゴ・メ・ン」
私「何だ、その言い方」
女「ちゃんと、あやまったじゃ、ない!」と。

 こういう会話が、繰りかえしつづく。

 原因は、乳幼児期の何らかの欲求不満が、姿を変えたとみる。悶々とした、満たされない気持が、こうした「心」をつくると考えられる。心のどこかで、相手の言っていることを、拒絶してしまう。そして「私は悪くない」という、前提で、相手に向って、反抗する。

 さらにその原因はと言えば、信頼関係の欠如にある。その子ども自身が、他人に対して、心を開くことができない。開くことができないから、自分の「非」を指摘されたりすると、あたかも自分が否定されているかのように、反発する。

 しかしいくら相手が子どもでも、こういう会話をしていると、かなり気の長い人でも、カチンとくる。まさに(ああ言えば、こう言う)式の反発をする。ものごとを、何でも、悪いほうへ、悪いほうへと解釈するため、説教しても、意味はない。言うべきことを言ったあと、あとは、忘れるのが一番。

 そこで、あなたの子どもは、どうか? あなた自身は、どうか? ……それを、少しだけ、心の中をみつめてみるとよい。あなたの子どもや、あなた自身は、すなおな人間だろうか。もしそうであるなら、それでよし。しかしそうでないなら、あなたの子どもや、あなたの乳幼児期は、どうであったかをさぐってみるとよい。新しい、何かをそこに、発見することと思う。
(031215)

【自己診断テスト】

 あなた(妻)が、不注意で、すでに腐ったジャムを、食卓に並べてしまった。それを子どもが見つけて、「ママ、腐っている!」と言ったとする。そのとき、あなたは、何と答えるだろうか。

(1)「あらあら、ごめん。知らなかったわ。あなたが気がついてくれてよかったわ。ホント。腐っているわね」と、すなおにあやまる。

(2)「あら、腐っている? ちゃんと冷蔵庫に入れておいたのよ。だれか、外に出したままにしておいたんじゃ、ない?」と言って、ジャムを片づける。

 (1)のようであれば、あなたは、すなおな人ということになる。しかし(2)のようであれば、あなたは、かなりヒネクレた根性の持ち主を考えてよい。一度、あなたの貧弱な(失礼!)、乳幼児期の環境を疑ってみるとよい。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●親は子で目立つ

 よきにつけ、悪しきにつけ、親は子で目立つ。つまり目立つ子どもの親は、目立つ。

たとえば園や学校で、よい意味で目立つ子どもの親は、あれこれ世話役や委員の仕事を任せられる。

そんなわけでもしあなたが、よく何かの世話役や委員の仕事を園や学校から頼まれるとしたら、それはあなたの子どもがよい意味で目立つからと考えてよい。

子どもというのは、家へ帰ってから、園や学校での友だちの話をする。ほかの親たちはそういう話をもとにして、あなたのことを知る。もちろん悪い意味で目立つ子どももいる。しかしそういうばあいは、世話役や委員などの仕事は回ってこない。

一つの基準として、あなたの子どもが、友だち(とくに異性)の誕生会などのパーティによく招かれるようであれば、あなたの子どもは園や学校で人気者と考えてよい。実際に子どもを招くのは親。その親は日ごろの評判をもとにして、どの子どもを招待するかを決める。同性のときは、ギリやつきあいで呼ぶことも多いが、異性となると、かなり人気者でないと呼ばない。

一方、嫌われる子どもというのはいる。もう一五年ほど前(一九八五年ころ)の古い調査で恐縮だが、私が調べたところ、嫌われる子どもというのは、つぎのようなタイプの子どもということがわかった(小学生三~五年生、二〇人に聞き取り調査)。

(1)いじめっ子、(2)乱暴な子、(3)不潔な子、(4)無口な子。私が「静かな子(無口な子)は、だれにも迷惑をかけるわけでないから、いいではないのか?」と聞くと、「不気味だからいやだ」という答がはねかえってきた。

親たちの間で嫌われる子どもは、何か問題のある子どもということになる。また人気のある子どもは、明るく活発で、運動や学習面で目立つ子どもをいう。やさしい子どもや、おもしろい子どもも、それに含まれる。

 先日もある母親がこう相談してきた。「いつも世話役を命じられて困っています」と。で、私はこう言った。「それはあなたの子どもがいい子だからですよ」と。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●臥薪嘗胆(がしんしょうたん)

 「臥薪嘗胆」というよく知られた言葉がある。

この言葉は「父のカタキを忘れないために、呉王の子の夫差(ふさ)が薪(まき)の上に寝、一方、それで敗れた越王の勾践(こうせん)が、やはりその悔しさを忘れないために熊のキモをなめた」という故事から生まれた。「目的を遂げるために長期にわたって苦労を重ねること」という意味に、広く使われている。しかし私はこの言葉を別の意味に使っている。

 私は若いころからずっと、下積みの生活をしてきた。自分では下積みとは思っていなくても、世間は私をそういう目で見ていた。私の教育論は、そういう下積みの中から生まれた。

言いかえると、そのときの生活を忘れて、私の教育論はありえない。で、いつも私はそのころの自分を基準にして、自分の教育論を組み立てている。つまりいつもそのころを思い出しながら、自分の教育論を書くようにしている。それを思いださせてくれるのが、自転車通勤。

 この自転車という乗り物は、道路では、最下層の乗り物である。たとえ私はそう思っていなくても、自動車に乗っている人から見ればジャマモノであり、一方、車と接触すれば、それで万事休す。

「命がけ」というのは大げさだが、しかしそれだけに道路では小さくなっていなければならない。その上、私が通勤しているY街道は、歩道と言っても、道路のスミにかかれた白線の外側。側溝のフタの上。電柱や標識と民家の塀の間を、スルリスルリと抜けながら走らなければならない。

 しかしこれが私の原点である。たとえばどこか大きな会場で講演に行ったりすると、たいていはグリーン車を用意してくれ、駅には車が待っていてくれたりする。VIPに扱ってもらうのは、それなりに楽しいものだが、しかしそんな生活をときどきでもしていると、いつか自分が自分でなくなってしまう。

が、モノを書く人間にとっては、これほど恐ろしいものはない。私が知っている人の中でも、有名になり、金持ちになり、それに合わせて傲慢になり、自分を見失ってしまった人はいくらでもいる。

そういう人たちの見苦しさを私は知っているから、そういう人間だけにはなりたくないといつも思っている。仮に私がそういう人間になれば、それは私の否定ということになる。もっと言えば、人生の敗北を認めるようなもの。だからそれだけは何としても避けなければならない。

そういう自分に戻してくれるのが、自転車通勤ということになる。私は道路のスミを小さくなりながら走ることで、あの下積みの時代の自分を思い出すことができる。つまりそれが私にとっての、「臥薪嘗胆」ということになる。

私はときどきタクシーの運転手たちに、「バカヤロー」と怒鳴られることがある。しかしそのたびに、「ああ、これが私の原点だ」と思いなおすことができる。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

● 「家庭教育の失敗」

「家庭教育の失敗」という言葉がある。私が使っているのではない。教育心理学の世界では、広く使われている言葉である。

 たいていのばあい、子どもの心の問題は、その「家庭教育の失敗」が原因で、起こる。かなりきつい言葉だが、そういう言い方でもしないかぎり、親は、自分の「失敗」を認めようとしない。だから、この言葉がある。

 一つの例として、かんしゃく発作がある。

 よくデパートなどで、ギャーギャーと泣き叫んでいる子どもを見かける。それに対して、母親が、ツンツンとした態度で、「あんたなんか、置いておくわよ」「勝手にしなさい」と、叫んでいる。

 まさにかんしゃく発作だが、子どもがそうなるのは、家庭教育の失敗が、原因と考える。一見、子どもの問題に見えるが、決して、子どもの問題ではない。このかんしゃく発作にしても、甘い生活規範、短絡的な親のものの考え方、感情的、気分的な育児姿勢が、その背景にある。

 しかし、親には、その意識がない。「子どものわがまま」と決めつけ、さらにはげしい説教をしたり、時には、子どもの声に負けないほどの大声で、子どもを叱ったりする。この悪循環が、子どものかんしゃく発作を、ますますひどくする。

 しかしこの種の「失敗」は、子育てには、つきもの。またどんな親も、何も知らない状態で、子育てを始める。だから失敗したからといって、恥じることはない。

 ただ、大切なことは、失敗は、失敗として、すなおに認めること。すべては、ここから始まる。いろいろな例がある。

 親の過干渉と過関心で、萎縮してしまった子どもをさしがら、「どうして、ウチの子は、グズなんでしょう?」は、ない。

 乳幼児期に、目いっぱい手をかけ、さんざんドラ息子にしておきながら、「どうして、ウチの子は、わがままなんでしょう?」は、ない。

 無理な学習を、強制的に与えておきながら、「ウチの子は、勉強が嫌いと言います。どうすれば好きになるでしょうか?」は、ない。

 神経質な家庭環境の中で、チックや吃音(ドモリ)の症状を見せる子どもについて、「チックをなおすには、どうしたらいいでしょうか?」は、ない。

 下の子どもが、赤ちゃんがえりを起こしていることについて、「いくら叱っても、ネチネチ甘えます。どうしたらいいでしょうか?」は、ない。

 念のために申し添えるなら、「家庭教育の失敗」イコール、その子どもが、「失敗作」ということではない。あくまでも、子どもは、「結果」。「家庭教育の失敗」というときは、あくまでも、親の問題。つまり、子どもには、責任は、ない。またその範囲を超えることはない。子どもの責任ではない、……という意味で、「家庭教育の失敗」という言葉を使う。どうか、誤解のないように!
(031215)

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【2】特集∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

メリークリスマス

 おかしなことだが、本当に、おかしなことだが、こうしてクリスマスを祝うようになって、五〇年以上になる。しかしいまだに、私は、クリスチャンではない。ふつうなら、とっくの昔に、クリスマスを祝うのをやめているか、反対に、クリスチャンになっていても、よさそうなものだ。

 何とも中途半端なまま、この五〇年以上が過ぎた。考えてみれば、本当に、おかしなことだ。

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 以前、そのクリスマスについて書いた原稿を、転載します。
 少し難解なので、どうか?と思いますが、よろしく。
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●仏壇でサンタクロースに……?

 小学一年生のときのことだった。私はクリスマスのプレゼントに、赤いブルドーザーのおもちゃが、ほしくてほしくてたまらなかった。母に聞くと、「サンタクロースに頼め」と。

そこで私は、仏壇の前で手をあわせて祈った。仏壇の前で、サンタクロースに祈るというのもおかしな話だが、私にはそれしか思いつかなかった。

 かく言う私だが、無心論者と言う割には、結構、信仰深いところもあった。年始の初詣は欠かしたことはないし、仏事もそれなりに大切にしてきた。が、それが一転するできごとがあった。

ある英語塾で講師をしていたときのこと。高校生の前で『サダコ(禎子)』(広島平和公園の中にある、「原爆の子の像」のモデルとなった少女)という本を、読んで訳していたときのことだ。私は一行読むごとに涙があふれ、まともにその本を読むことができなかった。

そのとき以来、私は神や仏に願い事をするのをやめた。「私より何万倍も、神や仏の力を必要としている人がいる。私より何万倍も真剣に、神や仏に祈った人がいる」と。いや、何かの願い事をしようと思っても、そういう人たちに申し訳なくて、できなくなってしまった。

●身勝手な祈り

 「奇跡」という言葉がある。しかし奇跡などそう起こるはずもないし、いわんや私のような人間に起こることなどありえない。「願いごと」にしてもそうだ。

「クジが当たりますように」とか、「商売が繁盛しますように」とか。そんなふうに祈る人は多いが、しかしそんなことにいちいち手を貸す神や仏など、いるはずがない。いたとしたらインチキだ。

一方、今、小学生たちの間で、占いやおまじないが流行している。携帯電話の運勢占いコーナーには、一日一〇〇万件近いアクセスがあるという(テレビ報道)。どうせその程度の人が、でまかせで作っているコーナーなのだろうが、それにしても一日一〇〇万件とは!

あの『ドラえもん』の中には、「どこでも電話」というのが登場する。今からたった二五年前には、「ありえない電話」だったのが、今では幼児だって持っている。奇跡といえば、よっぽどこちらのほうが奇跡だ。その奇跡のような携帯電話を使って、「運勢占い」とは……?

人間の理性というのは、文明が発達すればするほど、退化するものなのか。話はそれたが、こんな子ども(小五男児)がいた。窓の外をじっと見つめていたので、「何をしているのだ」と聞くと、こう言った。「先生、ぼくは超能力がほしい。超能力があれば、あのビルを吹っ飛ばすことができる!」と。

●難解な仏教論も教育者の目で見ると

 ところで難解な仏教論も、教育にあてはめて考えてみると、突然わかりやすくなることがある。たとえば親鸞の『回向論』。『(善人は浄土へ行ける。)いわんや悪人をや』という、あの回向論である。

これを仏教的に解釈すると、「念仏を唱えるにしても、信心をするにしても、それは仏の命令によってしているにすぎない。だから信心しているものには、真実はなく、悪や虚偽に包まれてはいても、仏から真実を与えられているから、浄土へ行ける……」(大日本百科事典・石田瑞麿氏)となる。

しかしこれでは意味がわからない。こうした解釈を読んでいると、何がなんだかさっぱりわからなくなる。宗教哲学者の悪いクセだ。読んだ人を、言葉の煙で包んでしまう。

要するに親鸞が言わんとしていることは、「善人が浄土へ行けるのは当たり前のことではないか。悪人が念仏を唱えるから、そこに信仰の意味がある。つまりそういう人ほど、浄土へ行ける」と。しかしそれでもまだよくわからない。

 そこでこう考えたらどうだろうか。「頭のよい子どもが、テストでよい点をとるのは当たり前のことではないか。頭のよくない子どもが、よい点をとるところに意味がある。つまりそういう子どもこそ、ほめられるべきだ」と。もう少し別のたとえで言えば、こうなる。

「問題のない子どもを教育するのは、簡単なことだ。そういうのは教育とは言わない。問題のある子どもを教育するから、そこに教育の意味がある。またそれを教育という」と。私にはこんな経験がある。

●バカげた地獄論

 ずいぶんと昔のことだが、私はある宗教教団を批判する記事を、ある雑誌に書いた。その教団の指導書に、こんなことが書いてあったからだ。いわく、「この宗教を否定する者は、無間地獄に落ちる。他宗教を信じている者ほど、身体障害者が多いのは、そのためだ」(N宗機関誌)と。

こんな文章を、身体に障害のある人が読んだら、どう思うだろうか。あるいはその教団には、身体に障害のある人はいないとでもいうのだろうか。

が、その直後からあやしげな人たちが私の近辺に出没し、私の悪口を言いふらすようになった。「今に、あの家族は、地獄へ落ちる」と。こういうものの考え方は、明らかにまちがっている。他人が地獄へ落ちそうだったら、その人が地獄へ落ちないように祈ってやることこそ、彼らが言うところの慈悲ではないのか。

私だっていつも、批判されている。子どもたちにさえ、批判されている。中には「バカヤロー」と悪態をついて教室を出ていく子どももいる。しかしそういうときでも、私は「この子は苦労するだろうな」とは思っても、「苦労すればいい」とは思わない。神や仏ではない私だって、それくらいのことは考える。いわんや神や仏をや。

批判されたくらいで、いちいちその批判した人を地獄へ落とすようなら、それはもう神や仏ではない。悪魔だ。だいたいにおいて、地獄とは何か? 子育てで失敗したり、問題のある子どもをもつということが地獄なのか。しかしそれは地獄でも何でもない。教育者の目を通して見ると、そんなことまでわかる。

●キリストも釈迦も教育者?

 そこで私は、ときどきこう思う。キリストにせよ釈迦にせよ、もともとは教師ではなかったか、と。ここに書いたように、教師の立場で、聖書を読んだり、経典を読んだりすると、意外とよく理解できる。

さらに一歩進んで、神や仏の気持ちが理解できることがある。たとえば「先生、先生……」と、すり寄ってくる子どもがいる。しかしそういうとき私は、「自分でしなさい」と突き放す。「何とかいい成績をとらせてください」と言ってきたときもそうだ。いちいち子どもの願いごとをかなえてやっていたら、その子どもはドラ息子になるだけ。自分で努力することをやめてしまう。そうなればなったで、かえってその子どものためにならない。

人間全体についても同じ。

スーパーパワーで病気を治したり、国を治めたりしたら、人間は自ら努力することをやめてしまう。医学も政治学もそこでストップしてしまう。それはまずい。しかしそう考えるのは、まさに神や仏の心境と言ってもよい。

 そうそうあのクリスマス。朝起きてみると、そこにあったのは、赤いブルドーザーではなく、赤い自動車だった。私は子どもながらに、「神様もいいかげんだな」と思ったのを、今でもはっきりと覚えている。
(031217)

【3】心に触れる(Touch your Heart)∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞691

反動形成

 自分の心を偽るため、人は、時として、まったく正反対の人間を演ずることがある。泥棒が、身近な人のまわりでは、まじめな人を演ずる、など。あるいは、女遊びばかりしている父親ほど、自分の娘に対しては、男性関係にきびしい、というのも、ある。こうした心理的反応を、反動形成という。

 子どもの世界でも、よく知られた例として、こんなことがある。本当は、弟(妹)が、憎くてしかたないのだが、親の前では、たいへんよい兄(姉)を演ずるというのが、それ。このタイプの子どもは、人には、「いいお兄ちゃん(お姉ちゃん)」という印象を与えることが多い。またそういう印象を与えることによって、自分の立場を守ろうとする。

 その反動形成についてだが、私は、ときどき、私のワイフは、その反動形成をしているのではないかと思うことがある。「本当は、私を心底、嫌っているのかもしれない。しかし別れるに別れられないから、いい妻を演じているだけ」と。

 こういうケースは、決して、少なくない。もう少し深刻な例としては、ストックホルム症候群※というのがある。威圧的かつ暴力的な夫をもつと、妻は、いつしかその夫に対して、献身的に尽くすようになることがある。傍目(はため)には、たいへんよい妻になる。また妻自身も、夫を愛している(?)と思いこむようになる。

 あのストックホルム事件のときも、そのあと人質となった女性は、犯人の男と結婚までしている!

 で、ある午後、私は、ワイフにこう聞いた。

私「お前は、本当は、ぼくのことを恨んでいるのかもしれない。嫌いなのかもしれない。しかしそういう感情を表に出すと、自分自身が不幸になるから、それを心の中で押し殺しているだけかもしれない」
ワ「……」
私「お前は、自分の本心が、どこにあるか、考えたことがあるだろうか。今の今でも、本当は、この生活、とくに、このぼくから、逃げたいと思っているのかもしれない。ちがうか?」と。

 しかしこうした反動形成は、日常生活の中では、よく見られる。頭から、それが悪いことと決めてかかってはいけない。その反動形成があるからこそ、生活が、スムーズに流れるということも、ある。

 夫婦のばあいもそうで、相思相愛のまま、何一〇年も、いっしょに暮らすことができると考えるほうが、おかしい。おかしいというより、無理。その間には、幾多の山があり、谷もある。ときには、喧嘩もするし、その結果、離婚だって考える。

 そういうのを乗り越えて、夫婦は、夫婦。かろうじて夫婦。

 だからその間に、つまりそういう生活の中で、いつしか自分の心を偽り、その反動形成として、別の自分を演じたからといって、それが悪いこととは、言えないのでは。どうにもならなければ、それを受け入れるしかない!
 
 では、私はどうか?

 本当の私は、もっと別の「私」かもしれない。こうして教育論を書いている私も、家の中で、よき夫である私も、また生徒たちの前では、よき教師である私も、いわばニセの私? そういう私は、本当は、本当の私ではないのかもしれない。

 本当の私は、もっと動物的で、醜く、汚い? そういう私が、心のどこかで聖職者意識をもち、そして聖職者のようなフリをしている。だれかが、「セックス」の話をすれば、露骨に、そういう話題を嫌ってみせる……。これは、まさしく、反動形成以外の、何ものでもない。

 たとえて言うなら、私は、心の中の野獣を、懸命にオリの中に閉じこめながら、かろうじて聖職者ぶっているだけかもしれない。そう、今の今でも、私の心の奥底では、無数の野獣たちが、ガオーガオーと、声をあげている。ほえている!

 だから私は、反動形成を否定することが、できない。言うなれば、どの人も、反動形成のかたまり? 無数の反動形成を積み重ねながら、「自分」というものを、つくりあげている。

 本当の私は、家族など、すべて捨てて、ひとりで、放浪の旅に出たいのかもしれない。好き勝手なことをし、好き勝手な場所で寝て、好き勝手なものを食べる。実際、街角で、ホームレスの人たちを見ると、何とも言えない親近感さえ覚える。

 だから、反動形成として、ワイフが、私のことを愛しているフリをしているとしても、私は、それはそれでよいのではと思っている。一方、反動形成として、私が、家族の前で、家族を愛しているフリをしているとしても、それはそれでよいのではと思っている。みんな、そのフリをしながら、今の社会をまとめあげている。つまり、人間というのは、もともと、そういうもの。

 考えてみれば、人間の歴史が始まって、まだ、五五〇〇年足らず。それ以前は、私たち人間も、野や山の動物たちと、それほど違った生活をしていたわけではない。もし人間の原点がそこにあるとするなら、まさに、現代の人間は、反動形成の上に成りたっている、架空の動物ということになる。

 さあて、今日も私は、聖職者面(づら)して、仕事に出かける。そしてさもわかりきったような顔をして、子どもたちの前に立つ。どこかで、そういう自分に疑問を感じながら……。
(031215)

※ストックホルム症候群……スウェーデンの首都、ストックホルムで起きた銀行襲撃事件に由来する(一九七三年)。その事件で、六日間、犯人が銀行にたてこもるうち、人質となった人たちが、その犯人に協力的になった現象を、「ストックホルム症候群」と呼ぶ。のちにその人質となった女性は、犯人と結婚までしたという。

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【4】フォーラム∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

クソ論

 クソについての思い出は、無数にある。最初に、思い出すのは、あの日のこと。

 大学三年のとき、私には、好意をもった女性がいた。名前を、Mさんと言った。文学部の学生で、静かな人だった。それはそれとして、こんなことがあった。

 ある日、男子用トイレの、大便ボックスに入っていると、前のボックスに、一人の女性が入ってきた。男子用トイレの、大便ボックスは、一つだけが女子用トイレに食いこむような形で配置されていた。

 先にいた私が音をたてるのも失礼だと思って、私は静かに、前のボックスに入った女性が、用をすますのを、待った。

 しばらくすると、その女性は、私がうしろのボックスにいるのも知らず、はげしい音とともに、それをした。ブリブリ、バーッと。境界は、壁になっていたが、下のほうは、床から、数センチ、あいていた。そこから、ドッと、臭気が、なだれこんできた。

 臭いのなんのといったら、なかった。「世の中に、これほどまでに臭いものがあるか」と思うほど、臭かった。

 私はその女性がそれをすましてボックスを出ると、自分もすまし、外へ飛び出た。あんな臭いクソをする女性は、いったい、どんな女性か、それを自分で、たしかめたかった。で、あわてて廊下へ出たところで、その女性のうしろ姿を見ることができた。

 が、何と、あろうことか、それは、あのMさんだった。とたん、百年の恋は、あとかたもなく、きれいに吹き飛んだ。

 この話をある高校生にすると、その高校生は、こう言った。当時、ブルック・シールズという女優が、大人気だった。そのブルック・シールズについて、こう言った。

「先生、本当に、好きになったら、クソだって、好きになるよ。ぼくは、ブルック・シールズのクソだったら、みんなの前で食べてやる」と。

 そこで私は言ってやった。「あのな、お前。白人のクソは、臭くて食べられないよ」と。

高「どうして?」
私「だって、あの人たちは、肉食だろ。日本人のとは、ニオイがちがうよ」と。

 実際、肉食を中心にしている白人のクソは、臭い。私は留学時代、いやというほど、それを経験している。

 しかしこのクソには、さまざまな重大な意味が、ある。

 よく私トワイフは、フトンの中で、喧嘩をする。「お前だろ!」「私じゃないわ、あんたでしょ!」「バカ言え。オレのは、こんな臭くないわ!」「臭いわよ!」と。

 考えてみれば、二人は、ほとんど毎日、同じものを食べているから、そのニオイも、同じ。しかしそれが自分のモノとわかったときは、香ばしい、よいニオイになる。しかしワイフのモノとわかったとたん、臭い。

 夫婦ですら、そうなのだから、他人をや。

 先日も、新幹線に乗ったら、明らかに前の座席の若い女性が、ソレをした。あたりには、ほとんど乗客がいなかった。それにそのニオイは、濃厚だった。

 私は席をかわった。かわるとき、その女性の顔を見た。きれいな人だったが、眠ったフリをしていた。私はその女性を見ながら、「どうしてだろう?」と考えた。まったく「女」を感じなかった。つまり、どうやら、クソのニオイには、性欲を打ち消す力があるようだ。

 もっとも、世の中には、異常性欲というのがあって、そういうモノに、性的興奮を覚える人もいるというから、頭から、そう断定することはできない。しかし私のばあいは、ダメ。ダメというのは、性欲そのものが、完全に消失する。

 で、考えてみると、こうした私の、クソに対する独特の印象は、子ども時代にできたものではないかと思う。私の子ども時代には、いわゆるボットン便所というのが、ふつうで、その分、ソレには、いつも悪いイメージがつきまとった。

 詳しくは、女性の読者も多いので書けないが、私には、クソというのは、そういうモノだった。いろいろなエピソードがあるが、この話は、ここまで。書いているだけで、何となく、イヤな気分になってきた。

 しかしこれだけは言える。

 愛情の深さ(?)は、そのクソによって決まるのではということ。私の知人のT氏(七〇歳)は、P病という難病におかされ、寝たきりの妻のめんどうをみている。もちろん、ソレのめんどうも、である。こうしたことが平気でできるということは、それだけ、その妻を愛しているからではないか。

 私も、息子たちのクソのめんどうは、みた。あまり好きな仕事ではなかったが、まあ、何とか、できた。しかしワイフのとなると、どうか? 今のところ、あまり自信は、ない。そういう意味で、クソ論をつきつめていくと、「愛情論」まで進むことができる。

 この話のつづきは、また別の機会に。臭い話は、あまり楽しくないし……。
(031216)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●過去を再現する親たち

 親は、子どもを育てながら、自分の過去を再現する。そのよい例が、受験時代。

それまではそうでなくても、子どもが、受験期にさしかかると、たいていの親は、言いようのない不安感に襲われる。受験勉強で苦しんだ親ほどそうだが、原因は、「勉強」そのものではない。受験にまつわる、「将来への不安」「選別されるという恐怖」が、その根底にある。それらが、たとえば子どもが受験期にさしかかったとき、親の心の中で再現される。

 ところで「自由」には、二つの意味がある。行動の自由と魂の自由である。行動の自由はともかくも、問題は魂の自由である。実はこの私も受験期の悪夢に、長い間、悩まされた。たいていはこんな夢だ。

……どこかの試験会場に出向く。が、自分の教室がわからない。やっと教室に入ったと思ったら、もう時間がほとんどない。問題を見ても、できないものばかり。鉛筆が動かない。頭が働かない。時間だけが刻々とすぎる……。

 親が不安になるのは、親の勝手だが、親はその不安を子どもにぶつけてしまう。そういう親に向かって、「今はそういう時代ではない」と言っても、ムダ。脳のCPU(中央処理装置)そのものが、ズレている。親は親で、「すべては子どものため」と、確信している。が、それだけではない。

こうした不安が、親子関係そのものを破壊してしまう。「青少年白書」でも、「父親を尊敬していない」と答えた中高校生は、五五%もいる。「父親のようになりたくない」と答えた中高校生は、八〇%弱もいる(平成十年)。この時期、「勉強せよ」と子どもを追いたてればたてるほど、子どもの心は親から離れる。

 私がその悪夢から解放されたのは、夢の中で、その悪夢と戦うようになってからだ。試験会場で、「こんなのできなくてもいいや」と居なおるようになった。あるいは皆と、違った方向に歩くようになった。どこかのコマーシャルソングではないが、「♪のんびり行こうよ、オレたちは。あせってみたとて、同じこと」と、夢の中でも歌えるようになった。…とたん、少し大げさな言い方だが、私の魂は解放された!

 たいていの親は、自分の過去を再現しながら、「再現している」という事実に気づかないまま、その過去に振り回される。子どもに勉強を強いる。そこで…。まず自分の過去に気づく。それで問題は解決する。受験時代に、いやな思いをした人ほど、一度自分を、冷静に見つめてみてほしい。

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日本は民主主義国家?

オーストラリアで学生が使うテキストに、「日本は官僚主義国家」と書いてあるのがあった。「君主(天皇)官僚主義国家」というのもあった。私はそれに猛反発した。が、それから三十年……。日本はやはり官僚主義国家だった。

世界で、日本が民主主義国家だと思っているのは、恐らく日本人だけではないのか。

 よく政府は、「日本の公務員の数は欧米とくらべても、それほど多くはない」と言う。しかしこれはウソ。国家公務員と地方公務員の数だけをみれば、確かにそうだが、日本にはこれ以外に、公団、公社、特殊法人、電気ガスなどの独占的公益事業団体、政府系金融機関がある。これだけでも、日本人のうち、七~八人に一人が、公務員もしくは、準公務員ということになる(徳岡孝夫氏)。が、実際には、これだけではない。

これらの公務員の天下り先として機能する、事業所、協会、センター、各種研究機関、社団、財団などがある。あの旧文部省だけでも、こうした外郭団体が、一八〇〇近くもある。こうした団体が日本の社会そのものを、がんじがらめにしている。

国の借金だけでも六六六兆円(国の税収は五〇兆円)。そのほか、特殊法人の負債額が二五五兆円(〇〇年)。そこで構造改革……ということになるが、これがまた容易ではない。明治の昔から、全国の津々浦々まで、官僚が日本を支配するという構図そのものが、すでにできあがっている。

たとえば全国四七都道府県のうち、二七~九の府県の知事は、元中央官僚。七~九の県では副知事も元中央官僚(〇〇年)。さらに国会議員や大都市の市長の多くも、元中央官僚。「日本は新しいタイプの社会主義国家」と言う学者もいる。こういう日本の現状の中で、行政改革だの構造改革だのを口にするほうが、おかしい。実際、こうした団体の職員数は、今の今も肥大化し続けている。

 しかし、問題はこのことではない。こうした世界では、この不況などどこ吹く風。完全な終身雇用に年功序列。満額の退職金に年金。生涯を保障される天下り先が用意されている。つまりこうした不公平社会が、学歴社会の温床となり、それがそのまま日本の教育そのものをゆがめている。

ある父親はこう言った。「息子には、できるなら役人になってほしい」と。そのためか今では、ちょっとした(失礼!)公務員試験でも倍率が百倍を超える。なぜそうなのかというところにメスを入れない限り、日本の教育に明日はない。

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世にすさまじきは……

 世にすさまじきは、母親の世界。この世界、子どもをはさんでの血みどろの争いは、日常茶飯事。その底流ではドロドロの欲望が渦を巻いている。「言ったの言わない」「やったのやらない」が高じて、先生や学校を巻き込んでの大騒動になることも珍しくない。裁判ザタになることもある。

部外者が見れば、バカげた争いだが、本人たちにはそうでない。母親も、こと子どものこととなると、妥協しない。容赦しない。「子どものため」と称して、本気で争う。たいていその裏でしっとがからむため、争いも陰湿かつ長期化する。が、そこに人間の愚かさがある。人間の悲しさがある。

 生きているということは、不思議なことだ。昔、学生時代の友人がこう言った。「生きていること自体が、奇跡だ」と。私が「奇跡なんてものは、ない」と言ったときのことだ。

しかし今、自分の人生を振り返ってみると、彼の言ったことが正しいような気がする。この光と分子が織り成す空間で、時間を追いかけながら、「私」という人間が生きている。「あなた」という人間も生きている。これを奇跡と言わずして、何という!

 原因は母親自身の異常なまでの、子どもへの過関心だが、さらにその背景に、溺愛。さらには親自身の情緒的未熟性や精神的欠陥がある。はっきり言えば、「病気」。このタイプの母親は、子どもを自分の支配下において、子どもを自分の思いどおりにしたいだけ。あるいは自分と子どもの間にカベがない。子どもどうしのけんかが、そのまま親のけんかになってしまう。

 子どもを愛するということは、子どもの中で咲く花を、希望の光で暖かく包んであげることだ。その友人がこう教えてくれた。「彼はあなたの前を歩く。あなたのガイドとして。彼はあなたのうしろを歩く。あなたの守護者として。彼はあなたの横を歩く。あなたの友として」と。ここでいう「彼」というのは、「神」のことだが、しかしそれが本来あるべき、親の姿ではないのか。

 きついことを書いてしまったが、視点をほんの少し広くもてば、子どもを巻き込んだ争いなど、バカげてできないはずだ。こうした争いの中で、一番キズついているのは、まさに子ども自身。それともあなたはいつか、子どもと一緒に「今」という時を、楽しく思い出すことができるともでもいうのか。あなたは子どもの人生をけがしているだけ。どうして母親たちよ、それがわからない!

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【近況】

●風邪気味?

 このところ、毎日、強い風が吹いている。「遠州の空っ風」と呼ばれている、風である。日本海から息吹山を越えて、こちらに吹いてくる。冷たくて、そのため、寒い。

 昨夜も、その風の中を、四〇分ほど、自転車で走った。がんばった。そのせいか、今朝は、太ももが、どこか痛い。はっきりしない鈍痛だが、不快ではない。何というか、体が軽くなったように感ずる。

 どこか風邪っぽいのは、先日受けた、インフルエンザの予防注射のせいかもしれない。1000人のうち、7~8人は、発熱することもあるそうだ。ああいった予防注射は、体の調子があまりよくないときは、受けないほうがよいということか。


●腸内洗浄

 先ほど、「クソ論」を書いた。マガジンへの掲載は、どうしようかと、迷っている。マガジンのイメージを、悪くする。読者を、不快にする。せっかく読んでくれる人に、申しわけない。

 しかしおもしろいと思うのは、アメリカなんかへ行くと、浣腸専門の、病院というより、健康センターのようなところがあるということ。何でも、お尻から、巨大な注射器のようなもので、何かの液体を肛門から注入して、腸の中を洗浄するのだそうだ。

 やってもらった人の話を聞くと、何でも、そのあと、とてもスッキリするそうだ。体重が、一、二キロ、減ることもあるという。それくらいの量の、腸の中のモノが出てくるということらしい。(ギョッ!)

 考えてみれば、家庭でも、応用できるかもしれない。巨大な注射器は、そういった店に行けば売っているし、「液体」にしても、食塩を温水に溶かして作ればよい。……と、思って、インターネットで検索してみると、あるは……、あるは……!

 腸内洗浄を専門にしている美容外科や医院は、すでに全国に無数にある。さらに家庭で腸内洗浄ができる器具を、売っている会社もある。知らなかったのは、私だけ……?

 方法としては、ペットボトルに、温水を一~二リットル入れ、それを腸の高さから、一・三メートル前後のところから、落差を利用して、五~一〇分前後の時間をかけながら、ゆっくりと、腸内に注入すればよいのだそうだ(某腸内洗浄器具販売会社のHP)。

 端末にとりつける器具などは、イチジク浣腸を少し加工すれば、それでよい。あとはそれとペットボトルを、パイプでつなぐだけ。ハハハ!

(しかし、この方法をまねして、体に害がおよんでも、私は、いっさい、責任をとりませんので、ご注意。興味のある方は、専門のHPを、見てください。グーグルなどで、「腸内洗浄」を、検索すれば、無数のページをヒットします。)


●イメージの混濁

 人間の心は、一見、複雑だが、しかし単純。一見、単純だが、しかし複雑。

 たとえば昔、「F」という名前の男に、たいへん悪いイメージをもったとする。当時は、「F」という名前を聞いただけで、ぞっとしたとする。

 で、今、その「F」という名前の、別の男に会ったりすると、どうも気分がよくない。心のどこかで、私を、別の心が操るようだ。

 同じように、生徒を教えていて、あるタイプの子どもに、昔、たいへん悪いイメージをもったとする。具体的には書けないが、そういうことがあったとする。

 で、今、そのタイプの生徒に出会ったりすると、そのときの悪いイメージが、そのまま、心の中に、もどってきてしまう。「この生徒は別人なんだ」と、自分に言って聞かせねばならないほど。

 もちろん、その反対のこともある。

 私のばあい、多くの母親と、毎日のように接している。そういう母親の中でも、昔の恋人と同じ名前の人がいたりすると、おかしな親近感を覚えてしまう。名前を覚えるのは、このところ、とみに苦手になってきたが、そういう人の名前は、一度で、覚えてしまう。

 こういう心理的反応を、何というのか。ごくありふれた現象だから、何かの専門用語があるはず。たとえば「転移」という言葉があるが、心理学では、少しちがった意味で、使うようだ。

 まあ、あえて言うなら、「イメージの混濁」? 頭の中で、いろいろなイメージが、混濁してしまう。つまり頭の中で、自分の意識が、うまく整理できなくなる。しかしこれは、ボケの始まりか? だとするなら、たいへんなことだ。

 しかし考えてみれば、こうしたイメージの混濁は、若いころから、あったような気がする。むしろ、若いころのほうが、強かったのでは……? 

明日の午後、その道に詳しい友人に会うので、そのことを聞いてみよう。


●何もしない知人

 ワイフの友人のダンナの話。

 そのダンナは、昨年、定年退職したそうだ。が、以来、一年以上、何をするでもなし、何もしないでもなし。ただひたすら、家の中で、ゴロゴロしているだけという。

 ワイフの友人は、「夫が、退職したら、二人で、あちこちドライブしたり、旅行したりしよう」と考えていたそうだ。が、ダンナは、それもしない。だからワイフに、こう訴えたという。

 「毎日、夫といると、うっとおしくて、ならない」と。

 しかしこれは、そのダンナと同じ立場にいる、私にとっては、深刻な問題だ。そこで恐る恐る、ワイフに、こう聞いてみた。

私「どうすれば、いいんだ?」
ワ「退職しても、夫は、何か、目標をもつべきよ」
私「そうだな」と。

 その点、女性というのは、たくましい。生活力もあるが、家庭の周辺で、友人をつくるのも、うまい。専業主婦なら、だれでも、二つや三つのクラブに入っている。夫の仕事とは関係なく、自分の世界をもっている。

私「しかし、男というのは、仕事をやめると、何も、残らないし……」
ワ「そこが、問題なのよ。そのダンナさんも、仕事一筋の人だったみたいよ」
私「ナルホド」と。

 男も、仕事だけ……という生き方では、ダメということ。仕事を離れて、よき家庭人として、何か、生きる目標を作らなければ、ダメということ。でないと、やがては、粗大ゴミとして、家族にも、うとんじられるということ。ゾーッ!


●思い出づくり

 もうすぐ中学三年生のR君が、私の教室をやめる。彼が、幼稚園児のときから、私が教えてきた子どもだ。

 で、数日前、こんな会話をした。

私「な、あそこに、工事中のビルが見えるだろ」
R「うん」
私「あの横に、巨大なクレーンが見えるだろ」
R「うん」
私「夜中に、あそこに、登ってみないか?」
R「登るって……? 危ないよ」

私「いいか、君との間には、これといって、大きな思い出がない。だから、二人で、思い出を作るんだ」
R「だめだよ、先生。そんなことしたら、警察につかまるよ」
私「そんなこと、覚悟の上だ。ぼくが、責任を取るよ」
R「だめだよ。進学できなくなってしまうよ」
私「……」

 私には、その覚悟ができていた。しかしR君には、その覚悟がない。つまり、R君は、そこまで、私との関係を求めていない。考えてみれば、当然のことだ。

 人生には、いろいろなことがあるが、平凡からは、何も生まれない。何も、残らない。このところ、その平凡さに、飽き飽きし始めている。「警察につかまる」? それがどうだというのか?

 しかしあのとき、R君が、すかさず、「登ってみたい!」と返事をしたら、私は、何と答えただろうか。かえって私のほうが、しりごみしてしまったかもしれない。何と言っても、私は、高所恐怖症なのだ! ハシゴだって、一〇段以上になると、ガクガクと震えだす。

 R君との会話は、それで終わった。終わって、いつもの、退屈な勉強に、もどった。
(031217)

Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
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