Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Saturday, May 14, 2011

●マガジン過去版(3)

件名:■■子育て最前線の育児論byはやし浩司■■子どものやる気論

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03-12-26号(338)
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子育て最前線の育児論by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
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【1】子育てポイント∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞upto797

●親は外に大きく

 生きザマにも二種類ある。プラス思考とマイナス思考である。「思考」を「志向」という漢字に変えてもよい。

前向きに生きていくのが、プラス思考。内向きに生きていくのが、マイナス思考ということになる。たとえば人は、一度マイナス思考になると、ものの考え方が保守的になり、過去の栄光にしがみつくようになる。

退職した人が、現役時代の役職や肩書きにこだわるのがそれ。退職してからも、「自分は偉かったのだ」という亡霊をひきずって歩く。だれもそんなことを気にしていないのだが、本人は注目されていると思いこんでいる。思いこみながら、「自分は大切にされるべきだ」「自分は皆に尊敬されているのだ」という意識をもつ。学歴や自分の家柄にこだわる人も同じように考えてよい。

 実のところ、子育ても同じように考えてよい。その時点でいつも前向きに子育てをしている人もいれば、そうでない人もいる。前向きに子育てするのは問題ではないが、問題は内向きになったときだ。子どもの成績が気になる。態度も気になる。親どうしのトラブルも絶えない、など。

一度こういう状態に入ると、かなりタフな親でもかなり神経をすり減らす。そしてそれが長く続くと、子育てそのものが袋小路に入ってしまう。そこから抜け出ようともがけばもがくほど、ますますにっちもさっちもいかなくなってしまう。

 こういうときの解決法が、これ。『親は外に大きく』である。子育てを忘れて、外に向かって大きく羽ばたく。そしてその結果として、子育てから遠ざかる。

大きくなる方法はいくらでもある。仕事でもボランティア活動でも、好きなことをすればよい。要するに身の回りに大きな敵をつくって、身近なささいな敵は相手にしないようにする。私も過去、たとえばあるカルト教団を相手に本を何冊か書いて戦ったことがある。最初はこわかったが、しかしそれも終わってみると、いつの間にか、私はこわいもの知らずなっていた。

あるいは私は三〇歳くらいのときから、あちこちで講演活動をしている。最初のころは、より大きな講演会場になればなるほど、神経をすり減らした。数日前から不眠症になってしまったこともある。

しかしそれを繰り返すうちに、やはりこわいものがなくなってしまった。人は自らを、そういう方法で大きくすることができる。

 自分がマイナス思考になるのを感じたら、外に向かって大きく羽ばたくとき。それは子どものためでもあるが、結局は自分のためでもある。

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++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●互いに別世界

 世間体や見栄、体裁がいかにくだらないものかは、その世界から離れてみるとよくわかる。しかしその世界の中にいる人には、それがわからない。

それはいわば信仰の世界のようなもの。その信仰の世界にいる人には、その信仰の世界がすべて。その信仰の世界の外の世界そのものが信じられない。あるいはその信仰の外の世界が、まったく無意味に見える。

が、その信仰も一度離れてみると、「どうしてあんなものを信じていたのだろう」と思うもの。どんな信仰にも、そういう面がある。「私の信じている信仰だけは違う」と思いたい気持ちはわかるが、現に今、この日本だけでも約二〇万団体もの宗教団体があり、それぞれが、「自分たちのこそが絶対正しい」と言って、しのぎを削っている。二〇万という数は全国の美容院の数とほぼ同じ。

 子育ての世界でも、同じような現象を見ることができる。たとえば自分の子どもが不登校を起こしたりすると、たいていの親はその世間体の悪さ(何も悪くはないのだが……)、その事実を必死になって隠そうとする。

自分の子育てそのものを否定されたかのように感ずる親も多い。しかしそういう世界から抜け出て、いつか不登校の子どもと一緒に街の中を歩くことができるようになると、それまでの自分が、限りなく小さく見えてくる。「どうしてあんなことを気にしていたのだろう」と。つまりまったく別の世界に入るわけだが、それがここでいうひとつの信仰から、その外の世界に出た人の心境に似ている。離れてみると、何でもなかったことに気づく。

 ここで大切なことは、二つある。一つは、自分の中の信仰に気づくこと。つぎに大切なことは、勇気を出してその信仰の世界から遠ざかること。

「勇気を出して」というのは、実際、一つの信仰から離れるということは、勇気がいる。まず心に大きな穴があく。この穴がこわい。それはものすごい空虚感といってもよい。人によっては、混乱を通り越して、狂乱状態になる。

たとえばたいていの宗教では、とくにカルトと呼ばれている宗教ほどそうだが、バチ論をその背後で展開している。「この信仰をやめたらバチがあたる」と教えている宗教団体は少なくない。だからよけいに、勇気がいる。

 同じように、世間体や見栄、体裁の中で生きてきた人も、それらから決別するとき、大きく混乱する。そういうもので、自分の価値観をつくりあげているからだ。人生の柱にしている人も少なくない。だから勇気がいる。しかし……。

 仮に信仰するとしても、自分の理性まで眠らせてしまってはいけない。何が正しくて、何が正しくないかを、いつも冷静に判断しなければならない。おかしいものはおかしいと思う、理性まで眠らせてはいけない。

子育てもまさにそうで、私たちは親として子どもを育てるが、そういう冷静な目は、いつももっていなければならない。でないと、よく信仰者が自分を見失うように、親も子どもを見失うことになる。

    ミ ( ⌒⌒ ) 彡
      ∞((((( )∞
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      (" 。 "人
    ヽ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄ヽ
     ○  ヽ ABC ○
   ̄ ̄ ̄ヽ  ヽ    ヽ ̄ ̄ ̄    何か、テーマがあれば、
       ̄ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄        掲示板にお書き込みください。

【2】特集∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

掲示板より

【子どものやる気】

●年少の女児です。園に行くようになり、今までやっていた、(楽しんでというつもりで、無理強いはしてませんが)、プリントや知育遊びなどがなかなかできません。

今はお友達と毎日でも遊びたいようで、それを優先していますが、(りかちゃんごっこやお絵かきが好きです)、カルタを教えてあげようかなとか色々考えるのですが、とにかくお友だちと遊びたいようです。

お友達を交えて、カルタや色んなことすればいいだけのことなのでしょうが、今やりたいこと(お友達と遊ぶ)をしていていいのでしょうか?(Sさんより)

【動機づけを大切に!】

 子どものやる気は、薄いガラスの箱に入った、ガソリンのようなもの。量も少ないが、しかし無理をすれば、そのガラス箱は、割れてしまう。

 たいていの親は、「やればできるはず」と、無理をする。しかしやり方をまちがえると、やる気を引き出す前に、その箱を割ってしまう。が、一度割れた箱は、もとには、もどらない。今、こうして失敗していく親が、多い。あまりにも、多い。

 言いかえると、この時期は、いかにやらせるかではなく、いかにやる気をつぶさないかに注意する。一方、そのやる気を伸ばすのは、たいへん。本当にたいへん。どうたいへんかは、実は、私自身が、一番、よく知っている。

 たとえば年中児(五歳児)を、教えたとする。しかしたいていの年中児は、この時期、ほとんど、反応がない。ないまま、数か月が過ぎる。教えても、教えても、ボーッとしたような様子を示す。

 しかしこれを、私は「情報の蓄積期」と、呼んでいる。この時期、子どもは、頭の中で、情報を懸命に蓄積しようとする。そしてそれが臨界点を超えたとき、一気に、頭の中で、火がつく。もともとやる気は、ガソリンのようなものだから、火がつくと、あとは爆発的に、伸び始める。

 これについて、書いた原稿が、つぎの原稿である。

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●幼児の伸びは、階段的

 幼児は成長するにつれて、さまざまな変化を見せる。それは当然だが、しかしその伸び方を観察してみると、一次曲線的に、なだらかに伸びるのではないのがわかる。ちょうど階段をのぼるように、トントンと伸びる。

 たとえば年中児(満四歳児)をしばらく教えてみる(蓄積期)。しかしすぐには、変化は起きない。中にはまったく反応を示さない子どももいる。

が、そういう時期(熟成期)が、しばらくつづくと、ある日を境に、突然、別人のように変化し始める(爆発期)。同じようなことはたとえば、言葉の発達にも、見られる。生まれてから一歳半くらいまで、子どもはほとんど言葉を話さない。しかしある日を境にして、急に言葉を話すようになり、一度話すようになると、言葉の数が、そのあと、まさに爆発的にふえ始める。

 これをチャート化すると、つぎのようになる。

 (蓄積期)→(熟成期)→(爆発期)

 教える内容にもよるが、たとえば文字にしても、満四・五歳(四歳六か月)までは、教えても教えても、教えたことがどこかへそのまま消えてしまうかのような錯覚にとらわれることがある。しかし満四・五歳を境に、急速に文字に関心を示すようになり、そのまま、たいていの子どもは、とくに教えなくても、ある程度の文字が読み書きできるようになる。
 
 こうした特性を知っていれば問題はないが、知らないと、親はどうしても、無理をする。その無理が、かえって子どもの伸びる芽をつんでしまうことがある。

文字にしても、満四・五歳にひとつのターゲットをおき、それまでは、「文字はおもしろい」「文字は楽しい」ということだけを教えていく。具体的には、子どもをひざに抱いてあげ、温かい息をふきかけながら本を読んであげるとよい。こうした積み重ねがあってはじめて、子どもは、文字に対して前向きな姿勢をもつようになる。

 私も、幼児を教えるようになったころ、こうした特性を知らず、苦労をした。何とか効果を出そうと、あせって無理をしたこともある。しかしやがて、そうではないことを知った。(蓄積期)や(熟成期)には、無理をせず、教えるべきことは教え、言うべきことは言いながらも、あとはその時がくるのを待つ。それがわかってからは、教える側の私も気が楽になったし、子どもたちの表情も、みちがえるほど、明るくなった。

 このことは家庭教育についても言える。子どもに何かを教えようとするときも、教えるべきことは教え、言うべきことは言いながらも、あとはその時がくるのを待つ。決して、あせってはいけない。決して無理をしてはいけない。その時がくるのを、辛抱づよく待つ。これは子どもの学習指導の、大鉄則と考えてよい。

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 このSさんの子どもは、まだ四歳ということになる。ガラスの箱にしても、さらに薄い。この時期、たとえば勉強嫌いにしてしまうと、それから立ちなおらせるためには、その数倍、あるいは数十倍の努力が、必要となる。

 たとえば年中児でも、「名前を書いてみよう」と話しかけただけで、体をこわばらせる子どもとなると、約二〇%はいる。中には、泣き出してしまう子どもさえいる。

 無理な学習が、子どもに文字に対する恐怖心を、植えつけたと考える。

 しかしこの時期に一度、こうなると、(文字嫌い)→(本嫌い)へと進み、あとは、何をしても、効果がないということになってしまう。つまり、親のできることには、いつも限界があるということ。その限界について書いたのが、つぎの原稿である。

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●馬に、水を飲ますことはできない

 イギリスの格言に、『馬を水場へ連れて行くことはできても、水を飲ますことはできない』というのがある。

要するに最終的に子どもが勉強するかしないかは、子どもの問題であって、親の問題ではないということ。いわんや教師の問題でもない。大脳生理学の分野でも、つぎのように説明されている。

 大脳半球の中心部に、間脳や脳梁(のうりょう)という部分がある。それらを包み込んでいるのが、大脳辺縁系といわれるところだが、ただの「包み」ではない。認知記憶をつかさどる海馬もこの中にあるが、ほかに価値判断をする扁桃体、さらに動機づけを決める帯状回という組織があるという(伊藤正男氏)。

つまり「やる気」のあるなしも、大脳生理学の分野では、大脳の活動のひとつとして説明されている。(もともと辺縁系は、脳の中でも古い部分であり、従来は生命維持と種族維持などを維持するための機関と考えられていた。)

 思考をつかさどるのは、大脳皮質の連合野。しかも高度な知的な思考は新皮質(大脳新皮質の新新皮質)の中のみで行われるというのが、一般的な考え方だが、それは「必ずしも的確ではない」(新井康允氏)ということになる。

脳というのは、あらゆる部分がそれぞれに仕事を分担しながら、有機的に機能している。いくら大脳皮質の連合野がすぐれていても、やる気が起こらなかったら、その機能は十分な結果は得られない。つまり『水を飲む気のない馬に、水を飲ませることはできない』のである。

 新井氏の説にもう少し耳を傾けてみよう。「考えるにしても、一生懸命で、乗り気で考えるばあいと、いやいや考えるばあいとでは、自ずと結果が違うでしょうし、結果がよければさらに乗り気になるというように、動機づけが大切であり、これを行っているのが帯状回なのです」(日本実業出版社「脳のしくみ」※)と。

 親はよく「うちの子はやればできるはず」と言う。それはそうだが、伊藤氏らの説によれば、しかしそのやる気も、能力のうちということになる。能力を引き出すということは、そういう意味で、やる気の問題ということにもなる。やる気があれば、「できる」。やる気がなければ、「できない」。それだけのことかもしれない。

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 で、話を先に進める前に、親がもつ、いくつかの誤解について、話しておきたい。

 この時期多い誤解は、「やればできるはず」という誤解。そして、「勉強をいやがるのは、忍耐力がないため」と考える。しかし誤解は、誤解。

 その誤解にあわせて、四つの誤解について、まとめてみた。

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●誤解

 家庭教育にはたくさんの誤解がある。その中でもとくに目立つ誤解が、つぎの五つ。この誤解を知るだけでも、あなたの子育ては大きく変わるはず。

(1)忍耐力……よく「うちの子はサッカーだと一日中している。ああいう力を勉強に向けさせたい」という親がいる。しかしこういう力は忍耐力とは言わない。好きなことをしているだけ。

子どもにとって忍耐力というのは、「いやなことをする力」をいう。たとえば台所の生ゴミを手で始末するとか、風呂場の排水口にたまった毛玉を始末するとか、そういうことができる子どもを忍耐力のある子どもという。

(2)やさしさ……大切にしているクレヨンを、だれかに横取りされたとする。そういうときニッコリと笑いながら、そのクレヨンを譲りわたすような子どもを、「やさしい子ども」と考えている人がいる。しかしこれも誤解。このタイプの子どもは、それだけ」ストレスをためやすく、いろいろな問題を起こす。

子どもにとって「やさしさ」とは、いかに相手の立場になって、相手の気持ちを考えられるかで決まる。もっと言えば、相手が喜ぶように自ら行動する子どもを、やさしい子どもという。そのやさしい子どもにするには、買い物に行っても、いつも、「これがあるとパパが喜ぶわね」「これを買ってあげるから、妹の○○に半分分けてあげてね」と、日常的にいつもだれかを喜ばすようにしむけるとよい。

(3)まじめさ……従順で、言われたことをキチンとするのを、「まじめ」というのではない。まじめというのは、自己規範のこと。こんな子ども(小三女子)がいた。バス停でたまたま会ったので、「缶ジュースを買ってあげようか」と声をかけると、こう言った。「これから家で夕食を食べますから、いらない。缶ジュースを飲んだら、ごはんが食べられなくなります」と。こういう子どもを「まじめな子ども」という。

(4)すなおさ……やはり言われたことに従順に従うことを、「すなおな子ども」と考えている人は多い。しかし教育の世界で「すなおな子ども」というときは、つぎの二つをいう。一つは、心の状態(情意)と、顔の表情が一致している子どもをいう。怒っているときには、怒った顔をする。悲しいときには悲しい顔をする、など。情意と表情が一致しないことを、「遊離」という。

不愉快に思っているはずなのに、笑うなど。教える側からすると、「何を考えているかわからない」といった感じの子どもになる。こうした遊離は、子どもにとっては、たいへん望ましくない状態と考えてよい。たとえば自閉傾向のある子ども(自閉症ではない)がいる。このタイプの子どもの心は、柔和な表情をしたまま、まったく別のことを考えていたりする。

 もう一つ、「すなおな子ども」というときは、心のゆがみがない子どもをいう。何らかの原因で子どもの心がゆがむと、子どもは、ひがみやすくなったり、いじけたり、つっぱたり、ひねくれたりする。そういう「ゆがみ」がない子どもを、すなおな子どもという。

(5)がまん……子どもにがまんさせることは大切なことだが、心の問題とからむときは、がまんはかえって逆効果になるから注意する。たとえば暗闇恐怖症の子ども(三歳児)がいた。子どもは夜になると、「こわい」と言ってなかなか寝つかなかったが、父親はそれを「わがまま」と決めつけて、いつも無理にふとんの中に押し込んでいた。

がまんさせるということは、結局は子どもの言いなりにならないこと。そのためにも 親側に、一本スジのとおったポリシーがあることをいう。そういう意味で、子どものがまんの問題は、決して子どもだけの問題ではない。

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 もともと勉強には、ある種の苦痛がともなう。その苦痛を乗り越える力が、忍耐力ということになる。

 その忍耐力を鍛えようとするなら、勉強を利用するのではなく、家事を利用する。あとあとの失敗の可能性を避けるために、そうする。家事なら、失敗しても、それほど、後遺症は残らない。しかし勉強というのは、一度、失敗すると、子どもを勉強嫌いにしてしまう。

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 少し先の話になるが、失敗例のいくつかを、ここにあげてみる。こうした失敗がわかれば、今、ガラスの箱をこわすことが、どんなに危険なことか、それがわかるはず。

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●のびたバネは、必ず縮む
 
 無理をすれば、子どもはある程度は、伸びる(?)。しかしそのあと、必ず縮む。とくに勉強はそうで、親がガンガン指導すれば、それなりの効果はある。しかし決してそれは長つづきしない。やがて伸び悩み、停滞し、そしてそのあと、今度はかえって以前よりできなくなってしまう。これを私は「教育のリバウンド」と呼んでいる。

 K君(中一)という男の子がいた。この静岡県では、高校入試が、人間選別の関門になっている。そのため中学二年から三年にかけて、子どもの受験勉強はもっともはげしくなる。実際には、親の教育の関心度は、そのころピークに達する。

 そのK君は、進学塾へ週三回通うほか、個人の家庭教師に週一回、勉強をみてもらっていた。が、母親はそれでは足りないと、私にもう一日みてほしいと相談をもちかけてきた。私はとりあえず三か月だけ様子をみると言った。が、そのK君、おだやかでやさしい表情はしていたが、まるでハキがない。

私のところへきても、私が指示するまで、それこそ教科書すら自分では開こうとしない。明らかに過負担が、K君のやる気を奪っていた。このままの状態がつづけば、何とかそれなりの高校には入るのだろうが、しかしやがてバーントアウト(燃え尽き)。へたをすれば、もっと深刻な心の問題をかかえるようになるかもしれない。

 が、こういうケースでは、親にそれを言うべきかどうかで迷う。親のほうから質問でもあれば別だが、私のほうからは言うべきではない。親に与える衝撃は、はかり知れない。それに私のほうにも、「もしまちがっていたら」という迷いもある。だから私のほうでは、「指導する」というよりは、「息を抜かせる」という教え方になってしまった。

雑談をしたり、趣味の話をしたりするなど。で、約束の三か月が終わろうとしたときのこと。今度は父親と母親がやってきた。そしてこう言った。「うちの子は、何としてもS高校(静岡県でもナンバーワンの進学高校)に入ってもらわねば困る。どうしても入れてほしい。だからこのままめんどうをみてほしい」と。

 これには驚いた。すでに一学期、二学期と、成績が出ていた。結果は、クラスでも中位。その成績でS高校というのは、奇跡でも起きないかぎり無理。その前にK君はバーントアウトしてしまうかもしれない。「あとで返事をします」とその場は逃げたが、親の希望が高すぎるときは、受験指導など、引き受けてはならない。とくに子どもの実力がわかっていない親のばあいは、なおさらである。

 親というのは、皮肉なものだ。どんな親でも、自分で失敗するまで、自分が失敗するなどとは思ってもいない。「まさか……」「うちの子にかぎって……」と、その前兆症状すら見落としてしまう。そして失敗して、はじめてそれが失敗だったと気づく。

が、この段階で失敗と気づいたからといって、それで問題が解決するわけではない。その下には、さらに大きな谷底が隠れている。それに気づかない。だからあれこれ無理をするうち、今度はそのつぎの谷底へと落ちていく。K君はその一歩、手前にいた。

 数日後、私はFAXで、断りの手紙を送った。私では指導できないというようなことを書いた。が、その直後、父親から、猛烈な抗議の電話が入った。父親は電話口でこう怒鳴った。「あんたはうちの子には、S高校は無理だと言うのか! 無理なら無理とはっきり言ったらどうだ。失敬ではないか! いいか、私はちゃんと息子をS高校へ入れてみせる。覚えておけ!」と。

 ついでに言うと、子どもの受験指導には、こうした修羅場はつきもの。教育といいながら、教育的な要素はどこにもない。こういう教育的でないものを、教育と思い込んでいるところに、日本の教育の悲劇がある。

それはともかくも、三〇年以上もこの世界で生きていると、そのあと家庭がどうなり、親子関係がどうなり、さらに子ども自身がどうなるか、手に取るようにわかるようになる。が、この事件は、そのあと、意外な結末を迎えた。私も予想さえしていなかったことが起きた。それから数か月後、父親が脳内出血で倒れ、死んでしまったのだ。こういう言い方は不謹慎になるかもしれないが、私は「なるほどなあ……」と思ってしまった。

 子どもの勉強をみていて、「うちの子はやればできる」と思ったら、「やってここまで」と思いなおす。(やる・やらない)も力のうち。そして子どもの力から一歩退いたところで、子どもを励まし、「よくがんばっているよ」と子どもを支える。そういう姿勢が、子どもを最大限、伸ばす。たとえば日本で「がんばれ」と言いそうなとき、英語では、「テイク・イッツ・イージィ」(気を楽にしなさい)と言う。そういう姿勢が子どもを伸ばす。

ともかくも、のびたバネは、遅かれ早かれ、必ず縮む。それだけのことかもしれない。

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●谷底の下の谷底

 子どもの成績がさがったりすると、たいていの親は、「さがった」ことだけをみて、そこを問題にする。その谷底が、最後の谷底と思う。しかし実際には、その谷底の下には、さらに別の谷底がある。そしてその下には、さらに別の谷底がある。こわいのは、子育ての悪循環。

一度その悪循環の輪の中に入ると、「まだ以前のほうがよかった」ということを繰り返しながら、つぎつぎと谷底へ落ち、最後はそれこそ奈落の底へと落ちていく。

 ひとつの典型的なケースを考えてみる。

 わりとできのよい子どもがいる。学校でも先生の評価は高い。家でも、よい子といったふう。問題はない。成績も悪くないし、宿題もきちんとしている。が、受験が近づいてきた。そこで親は進学塾へ入れ、あれこれ指導を始めた。

 最初のころは、子どももその期待にこたえ、そこそこの成果を示す。親はそれに気をよくして、ますます子どもに勉強を強いるようになる。「うちの子はやればできるはず」という、信仰に近い期待が、親を狂わす。

が、あるところまでくると、限界へくる。が、このころになると、親のほうが自分でブレーキをかけることができない。何とかB中学へ入れそうだとわかると、「せめてA中学へ。あわよくばS中学へ」と思う。しかしこうした無理が、子どものリズムを狂わす。

 そのリズムが崩れると、子どもにしても勉強が手につかなくなる。いわゆる「空回り」が始まる。フリ勉(いかにも勉強していますというフリだけがうまくなる)、ダラ勉(ダラダラと時間ばかりつぶす)、ムダ勉(やらなくてもよいような勉強ばかりする)、時間ツブシ(たった数問を、一時間かけてする。マンガを隠れて読む)などがうまくなる。

一度、こういう症状を示したら、親は子どもの指導から手を引いたほうがよいが、親にはそれがわからない。子どもを叱ったり、説教したりする。が、それが子どもをつぎの谷底へつき落とす。

 子どもは慢性的な抑うつ感から、神経症によるいろいろな症状を示す。腹痛、頭痛、脚痛、朝寝坊などなど。神経症には定型がない。が、親はそれを「気のせい」「わがまま」と決めつけてしまう。あるいは「この時期だけの一過性のもの」と誤解する。「受験さえ終われば、すべて解決する」と。

 子どもはときには涙をこぼしながら、親に従う。選別されるという恐怖もある。将来に対する不安もある。そうした思いが、子どもの心をますますふさぐ。そしてその抑うつ感が頂点に達したとき、それはある日突然やってくるが、それが爆発する。

不登校だけではない。バーントアウト、家庭内暴力、非行などなど。親は「このままでは進学競争に遅れてしまう」と嘆くが、その程度ですめばまだよいほうだ。その下にある谷底、さらにその下にある谷底を知らない。

 今、成人になってから、精神を病む子どもは、たいへん多い。一説によると、二〇人に一人とも、あるいはそれ以上とも言われている。回避性障害(人に会うのを避ける)や摂食障害(過食症や拒食症)などになる子どもも含めると、もっと多い。子どもがそうなる原因の第一は、家庭にある。

が、親というのは身勝手なもの。この段階になっても、自分に原因があると認める親はまず、いない。「中学時代のいじめが原因だ」「先生の指導が悪かった」などと、自分以外に原因を求め、その責任を追及する。もちろんそういうケースもないわけではないが、しかし仮にそうではあっても、もし家庭が「心を休め、心をいやし、たがいに慰めあう」という機能を果たしているなら、ほとんどの問題は、深刻な結果を招く前に、その家庭の中で解決するはずである。

 大切なことは、谷底という崖っぷちで、必死で身を支えている子どもを、つぎの谷底へ落とさないこと。子育てをしていて、こうした悪循環を心のどこかで感じたら、「今の状態をより悪くしないことだけ」を考えて、一年単位で様子をみる。

あせって何かをすればするほど、逆効果。(だから悪循環というが……。)『親のあせり、百害あって一利なし』と覚えておくとよい。つぎの谷底へ落とさないことだけを考えて、対処する。

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では、幼児の学習は、どう考えたらよいのか。それには、ここにも書いたように、ガラスの箱をこわさにように注意するということと、『灯をともして、引き出す』ということになる。

 子どもの学習意欲をつぶすものに、無理、強制、条件、比較がある。

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●学習の四悪

 子どもを勉強嫌いにする四悪に、無理、強制、条件、それに比較がある。子どもの能力を超えた学習を強要するのを、無理。時間や量を決めてそれを子どもに課するのを、強制。「テストで百点を取ったら、自転車を買ってあげる」というのが、条件。そして「お隣のA君は、もうカタカナが書けるのよ。あなたは……」というのを、比較。この四悪が日常化すると、子どもは確実にやる気をなくす。勉強嫌いになる。

●無理・強制・条件・比較

(1)無理……子どもに与える教材やワークは、子どもの能力より、ワンランクさげるのがコツ。できる、できないよりも、子どもが勉強を楽しんだかどうかを大切にする。イギリスの格言にも、『楽しく学ぶ子は、よく学ぶ』というのがある。前向きに学習する子どもは伸びるし、そうでない子どもは伸びない。

しかも子どもというのは一度うしろ向きになると、いくら時間とお金をかけても、一方的にムダになるだけ。親があせればあせるほど、かえって勉強から遠ざかってしまう。そういうのをこの世界では、「空回り」というが、この空回りを感じたら、さらに思いきって内容をワンランクさげる。

(2)強制……やはりイギリスの格言に、『馬を水場へ連れていくことはできても、馬に水を飲ませることはできない』というのがある。子どもを馬にたとえるのも失礼なことかもしれないが、要するに親にできることにも限度があるということ。最終的に子どもが勉強するかしないかは、子どもの問題。

よく親は、「うちの子はやればできるはず」と言うが、やる、やらないも、「力」のうち。「やればできるはず」と思ったら、「やってここまで」と思いなおす。あきらめる。そのあきらめが子どもの心に風穴をあけ、かえって子どもを伸ばす。

(3)条件……条件は、年齢とともにエスカレートしやすい。小学生のうちは、自転車ですむかもしれないが、高校生になれば、バイク、大学生になれば、自動車になる。あなたにそれだけの財力があれば話は別だが、そうでなければやめたほうがよい。

さらに条件が日常化すると、「勉強は自分のためにする」という意識が、薄くなる。かわって、「(親のために)勉強してやる」という意識をもつようになる。実際に「親がうるさいから、大学へ行ってやる」と言った高校生すらいた。そうなる。

反対に子どものほうから何か条件を出してくることもあるが、そういうときは、「勉強は自分のためにするもの」と突っぱねる。こうしたき然とした姿勢が、時間はかかるが、結局は子どもを自立させる原動力となる。

(4)比較……この比較が日常化すると、子どもから「私は私」という意識が消える。いつも他人の目を気にした生き方になってしまう。見えや体裁、それに世間体を気にするようになる。そうなればなったで、結局は自分を見失い、自分の人生そのものをムダにする。
 
……というのは、少しおおげさに聞こえるかもしれないが、日本人ほど、他人の目を気にしながら生きる民族も少ない。長い間、島国という閉鎖的な社会で、しかも封建時代という暗い時代を経験したためにそうなった。そのため幸福観も相対的なもので、「隣の人よりもよい生活だから、私は幸福」「隣の人よりも悪い生活だから、私は不幸」というような考え方をする。

たとえば日本人は、「あなたは幸福なほうよ。みんなはもっと苦しいのだから」と言われたりすると、それだけでへんに納得してしまう。しかしこの生き方は、これからの生き方ではない。要するに、無理、強制、条件、比較は、子どもを手っ取り早く勉強させるにはよい方法だが、長い目で見れば、結局は逆効果。かえって子どものやる気をつぶす。

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 最後に、子どものやる気を、伸ばす方法について。

 この時期は、(できる・できない)よりも、(楽しんだかどうか)を、みながら指導する。たとえば私の教室(BW教室)でも、一時間程度、子どもを、笑いっぱなしにしながら、指導する。そういう(楽しさ)が、子どもの心の中に、前向きな姿勢を育てる。

 Sさんは、プリント学習を問題にしているが、プリント学習ほど、つまらないものはない。(教える側にとっては、楽だが……。)そういうことも考えて、つまり子どもの心がどのようにできつつあるかを考えて、もう一度、見なおしてみたらよい。

 最後に、子どもの方向性について。

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●子どもの方向性を知るとき 

●図書館でわかる子どもの方向性

 子どもの方向性を知るには、図書館へ連れて行けばよい。そして数時間、図書館の中で自由に遊ばせてみる。そしてそのあと、子どもがどんな本を読んでいるかを観察してみる。サッカーが好きな子どもは、サッカーの本を読む。動物が好きな子どもは、動物の本を読む。

そのとき子どもが読んでいる本が、その子どもの方向性である。その方向性にすなおに従えば、子どもは本が好きになる。さからえば、本が嫌いになる。無理をすれば子どもの伸びる「芽」そのものをつぶすことにもなりかねない。ここでいくつかのコツがある。

●無理をしない

 まず子どもに与える本は、その年齢よりも、一~二年、レベルをさげる。親というのは、どうしても無理をする傾向がある。六歳の子どもには、七歳用の本を与えようとする。七歳の子どもには、八歳用の本を与えようとする。この小さな無理が、子どもから本を遠ざける。

そこで「うちの子どもはどうも本が好きではないようだ」と感じたら、思いきってレベルをさげる。本の選択は、子どもに任す。が、そうでない親もいる。本屋で子どもに、「好きな本を一冊買ってあげる」と言っておきながら、子どもが何か本を持ってくると、「こんな本はダメ。もっといい本にしなさい」と。こういう身勝手さが、子どもから本を遠ざける。

●動機づけを大切に

 次に本を与えるときは、まず親が読んでみせる。読むフリでもよい。そして親自身が子どもの前で感動してみせる。「この本はおもしろいわ」とか。これは本に限らない。子どもに何かものを与えるときは、それなりのお膳立てをする。これを動機づけという。

本のばあいだと、子どもをひざに抱いて、少しだけでもその本を読んであげるなど。この動機づけがうまくいくと、あとは子どもは自分で伸びる。そうでなければそうでない。この動機づけのよしあしで、その後の子どもの取り組み方は、まったく違ってくる。まずいのは、買ってきた本を袋に入れたまま、子どもにポイと渡すような行為。子どもは読む意欲そのものをなくしてしまう。無理や強制がよくないことは、言うまでもない。

●文字を音にかえているだけ?

 なお年中児ともなると、本をスラスラと読む子どもが現れる。親は「うちの子どもは国語力があるはず」と喜ぶが、たいていは文字を音にかえているだけ。内容はまったく理解していない。親「うさぎさんは、どこへ行ったのかな」、子「……わかんない」、親「うさぎさんは誰に会ったのかな?」、子「……わかんない」と。

もしそうであれば子どもが本を読んだら、一ページごとに質問してみるとよい。「うさぎさんは、どこへ行きましたか」「うさぎさんは、誰に会いましたか」と。あるいは本を読み終えたら、その内容について絵をかかせるとよい。本を読み取る力のある子どもは、一枚の絵だけで、全体のストーリーがわかるような絵をかく。そうでない子どもは、ある部分だけにこだわった絵をかく。

また本を理解しながら読んでいる子どもは、読むとき、目が静かに落ち着いている。そうでない子どもは、目がフワフワした感じになる。さらに読みの深い子どもは、一ページ読むごとに何か考える様子をみせたり、そのつど挿し絵をじっと見ながら読んだりする。本の読み方としては、そのほうが好ましいことは言うまでもない。

●文字の使命は心を伝えること

 最後に、作文を好きにさせるためには、こまかいルール(文法)はうるさく言わないこと。誤字、脱字についても同じ。要は意味が伝わればよしとする。そういうおおらかさが子どもを文字好きにする。

が、日本人はどうしても「型」にこだわりやすい。書き順もそうだが、文法もそうだ。たとえば小学二年の秋に、「なかなか」の使い方を学ぶ(光村図書版)。「『ぼくのとうさん、なかなかやるな』と、同じ使い方をしている『なかなか』はどれか。『なかなかできない』『なかなかおいしい』『なかなかなきやまない』」と。こういうことばかりに神経質になるから、子どもは作文が嫌いになる。小学校の高学年児で、作文が好きと言う子どもは、五人に一人もいない。大嫌いと言う子どもは、一〇人に三人はいる。

(付記)

●私の記事への反論

 「一ページごとに質問してみるとよい」という考えに対して、「子どもに本を読んであげるときには、とちゅうで、あれこれ質問してはいけない。作者の意図をそこなう」「本というのは言葉の流れや、文のリズムを味わうものだ」という意見をもらった。図書館などで、子どもたちに本の読み聞かせをしている人からだった。

 私もそう思う。それはそれだが、しかし実際には、幼児を知らない児童文学者という人も多い。そういう人は、自分の本の中で、幼児が知るはずもないというような言葉を平気で並べる。たとえばある幼児向けの本の中には、次のような言葉があった。「かわべの ほとりで、 ひとりの つりびとが うつら うつらと つりいとを たれたまま、 まどろんでいた」と。

この中だけでも、幼児には理解ができそうもないと思われる言葉が、「川辺」「釣り人」「うつら」「釣り糸」「まどろむ」と続く。こうした言葉の説明を説明したり、問いかけたりすることは、決してその本の「よさ」をそこなうものではない。が、それだけではない。意味のわからない言葉から受けるストレスは相当なものだ。ためしにBS放送か何かで、フランス語の放送をしばらく聞いてみるとよい。フランス語がわかれば話は別だが、ふつうの人ならしばらく聞いていると、イライラしてくるはずだ。

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※【付録】

●知識と思考

 知識は、記憶の量によって決まる。その記憶は、大脳生理学の分野では、長期記憶と短期記憶、さらにそのタイプによって、認知記憶と手続記憶に分類される。

認知記憶というのは、過去に見た景色や本の内容を記憶することをいい、手続記憶というのは、ピアノをうまく弾くなどの、いわゆる体が覚えた記憶をいう。条件反射もこれに含まれる。

で、それぞれの記憶は、脳の中でも、それぞれの部分が分担している。たとえば長期記憶は大脳連合野(連合野といっても、たいへん広い)、短期記憶は海馬、さらに手続記憶は「体の運動」として小脳を中心とした神経回路で形成される(以上、「脳のしくみ」(日本実業出版社)参考、新井康允氏)。

 でそれぞれの記憶が有機的につながり、それが知識となる。もっとも記憶された情報だけでは、価値がない。その情報をいかに臨機応変に、かつ必要に応じて取り出すかが問題によって、その価値が決まる。

たとえばAさんが、あなたにボールを投げつけたとする。そのときAさんがAさんであると認識するのは、側頭連合野。ボールを認識するのも、側頭連合野。しかしボールが近づいてくるのを判断するのは、頭頂葉連合野ということになる。

これらが瞬時に相互に機能しあって、「Aさんがボールを投げた。このままでは顔に当たる。あぶないから手で受け止めろ」ということになって、人は手でそれを受け止める。しかしこの段階で、手で受け止めることができない人は、危険を感じ、体をよける。この危険を察知するのは、前頭葉と大脳辺縁系。体を条件反射的に動かすのは、小脳ということになる。人は行動をしながら、そのつど、「Aさん」「ボール」「危険」などという記憶を呼び起こしながら、それを脳の中で有機的に結びつける。

 こうしたメカニズムは、比較的わかりやすい。しかし問題は、「思考」である。一般論として、思考は大脳連合野でなされるというが、脳の中でも連合野は大部分を占める。で、最近の研究では、その連合野の中でも、「新・新皮質部」で思考がなされるということがわかってきた(伊藤正男氏)。

伊藤氏の「思考システム」によれば、大脳新皮質部の「新・新皮質」というところで思考がなされるが、それには、帯状回(動機づけ)、海馬(記憶)、扁桃体(価値判断)なども総合的に作用するという。

 少し回りくどい言い方になったが、要するに大脳生理学の分野でも、「知識」と「思考」は別のものであるということ。まったく別とはいえないが、少なくとも、知識の量が多いから思考能力が高いとか、反対に思考能力が高いから、知識の量が多いということにはならない。

もっと言えば、たとえば一人の園児が掛け算の九九をペラペラと言ったとしても、算数ができる子どもということにはならないということ。いわんや頭がよいとか、賢い子どもということにはならない。そのことを説明したくて、あえて大脳生理学の本をここでひも解いてみた。
(031217)

【3】心に触れる(Touch your Heart)∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞691

●無知の無知

 自分の無知を、無知であることぐらい、恐ろしいことはない。そのことは、何か、新しいことを知ったときに、思い知らされる。

 ときどき私は、「こんなことも知らなかったのか」と、自分で思うときがある。あるいは、「どうしてこのことを、もっと早く知らなかったのか」と思うときもある。「私は、いったい、何をしていたのか」と。

 一方、たいへん失礼なことだが、だれかと話していて、「どうして、この人は、こんなことも知らないのか」と、思うときもある。が、そう思ったとたん、「では、自分はどうなのか」と。

 まず、自分の無知を知る。そして、そのためには、他人だけではなく、まわりのあらゆるものに対して、謙虚になる。まずいのは、傲慢(ごうまん)になること。人は、傲慢になったとたん、自分を見失う。

 釈迦は、こうした「心の浄化」を、「精進(しょうじん)」と、呼んだ。「死ぬまで。精進せよ」と。仏教の実践者は、よく「悟りを開く」などという言葉を使うが、そんなことは、そこらの人間には、ありえない。あるとするなら、その人が、そう思いこんでいるだけ。そのまわりの人が、そう思いこんでいるだけ。

 ついでに申し添えるなら、釈迦仏教、なかんずく大乗仏教が、なぜに、こうまで混乱したかといえば、「我こそが仏である」と、勝手なことを言う人が、あまりにも多かったからである。今でも、少なくない。「悟りを開いたものは、すべて仏である」という考えに、もとづく。

 さらにこの日本では、死んだ人すべてを、「仏様」という。こういう安易な、「仏観」が、さらに釈迦仏教を、混乱させている。

 しかし道は、険(けわ)しい。少しぐらい精進したくらいで、先に進むことはできない。少し進めば、さらにその先には、道がある。行っても、行っても先がある。つまりそれを謙虚に認めることが、無知を知るということになる。

 このことは、子どもを教えていると、わかる。

 私は、幼稚園講師になったころ、最初に、アンケート調査したのは、「子どもの住環境と、騒々しさの関係」である。

 私は「静かな団地に住む子どもは、もの静かで、町中の繁華街の中に住む子どもは、騒々しい」という先入観をもって、調査を始めた。結果は、みごとに、ハズレ!

 静かな団地に住んでいる子どもでも、騒々しい子どもは、いくらでもいる。反対に、町中の繁華街に住む子どもでも、静かな子どもは、いくらでもいる。そうした住環境は、子どもの性格とは、まったく関係ないことがわかった。

 これが私の幼児教育の第一歩だった。が、もしあのとき、そうした視点をもたなかったら、今でも、「町の繁華街に住む子どもは騒々しい」という先入観だけで、持論を組みたてていたかもしれない。

 私は、無知だった。

 だからそれから一〇年間、当時の園長に頼んで、毎週のように、アンケート調査を繰りかえした。その回答用紙だけでも、ダンボール箱につめて、六畳間くらいの倉庫がいっぱいになったほどである。

 今でも、私は、毎日のように新しい発見をする。そしてそのたびに、冒頭に書いたように、「なぜ、今まで、こんなことに気づかなかったのか」と思う。そしてますます謙虚になる。

 と、同時に、無知な人を見ると、それがよくわかる。とくに幼児教育の世界では、そうだ。よくその人(学者)の意見を聞いていると、「この人は、私が三〇歳のときのレベルだな」とか、「この人は、私が四〇歳くらいのときに気づいたことを話している」と思うことがある。

 しかしそう思うのは、正直言って、楽しい。何とも言えない、優越感を覚える。が、もちろん、その反対のこともある。「この人は、ものすごい人だ」と思うときである。そういうときは、本当に、頭をハンマーで叩かれたような気分になる。

 自分の無知を知る。それは、一見、簡単なようなことで、本当にむずかしい。たいていの人は、無知であることに気がつかないまま、自分のカラにこもってしまう。そしてその場で、釈迦が説くところの、精進を止めてしまう。

 繰りかえすが、かく言う私だって、偉そうなことは言えない。ふと油断すると、無知であることを忘れてしまう。そしてそれこそ偉そうなことを、口にしてしまう。しかし、これは、本当に、恐ろしいことだ。

 最近になって、その「恐ろしさ」が、ますますわかるようになった。つまり以前の私は、この点についても、無知だった。
(031218)

【忙しい人へ】

 ときどき、政治家の人たちは、どこで勉強するのだろうかと思う。毎日、分きざみの生活をしていて、どうして自分で考える時間をもつことができるのだろうか、と。

 「考える」ためには、「ぞれだけの時間」が、必要である。静かに考える時間である。それはまさに、「習慣」と言えるようなもので、習慣として、静かに考える。そういう時間である。

 あるいは、そんな習慣がなくても、政治家になれるのか? 私には、よくわからないが……。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●外に向かって、前だけを見て、育てる

 親は、ときとして、子どもの友になり、子どもの横を歩く。そのとき、親と子は、決して、向きあってはいけない。外に向かって、前だけを見ながら、歩く。

スポーツでも、趣味でもよい。共通の目的や目標があればよいが、「前だけを見る」というのは、それには限らない。つまりは、生きザマの問題ということ。

 この原稿のヒントになったのは、つぎの言葉である。

 かつて、はA・エクスペリーは、「シェークスピア文学論」の中で、こう言った。

★Love does not consist in gazing at each other, but in looking outward together in the
same direction.

愛というのは、たがいに見つめあうことではない。愛というのは、外に向って、同じ方向を見ることである。

 親子の愛も、これに似ている。たがいに見つめあえば、溺愛になる。それを避けるためには、たがいに、外を見る。しかし別々の方向を見ていたのでは、心はバラバラ。また子どもを溺愛するのは、親の勝手だが、その影響は、子どもに現れる。が、それだけではない。

 親が子どものほうを見ればみるほど、子育てのし方が、どうしても、うしろ向きになる。子どもに、自分の果たせなかった夢を、子どもに託したり、あるいは、子育てそのものを、生きがいにするようになる。

 それでうまくいけばよいが、うまくいく子育ては、一〇に一つもない。「勉強しなさい!」「うるさい!」の大乱闘。その結果、親は、無数の悲哀を味わうことになる。子どもは、親の過剰期待の中で、もがき苦しむことになる。

 そこで親は親で、前向きに生きる。「私は私で、私のすべきことをしますから、あなたはあなたで、自分のすべきことをしないさい!」と。そういう姿勢を見ながら、子どももまた、前向きに、生きるようになる。

 ある母親は、二人の娘が、小学校へ入学すると同時に、手芸の店を開いた。それが長い間の夢だった。また別の母親は、娘がやはり高校に入学すると同時に、医療事務の資格をとり、さらに勉強して、その講師になった。

 そういう親の前向きな姿勢を見て、子どもも、また自分の将来を、前向きにとらえることができるようになる。
(031218)

※ 前向きに生きる……新しいことにチャレンジしていく、積極的な生きザマをいう。子どもでも、何か新しいことを提案したとき、「やりたい!」「やる!」と食いついてくる子どもと、そうでない子どもがいる。こうした積極性は、子どもは、親の生きザマを見ながら、身につけていく。

     ミ ( ⌒⌒ ) 彡
      ∞((((( )∞
      │6 6 b
      (" 。 "人
    ヽ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄ヽ
     ○  ヽ ABC ○        このマガジンが、お役に立てそうな
   ̄ ̄ ̄ヽ  ヽ    ヽ ̄ ̄ ̄     方が、いらっしゃいませんか?
       ̄ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄         よろしくお伝えください!
【4】フォーラム∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

【読者の方へ】

● ご相談には、必ず、ご住所と、お名前をお書きください。

毎日、たくさんの方から、相談をいただきます。ありがたいことです。勉強になります。しかしながら、ご住所やお名前がわからない方からの相談は、返事を書いていても、たいへん不安になります。

ですから、ご事情が特別のばあいをのぞいて、住所、お名前のない方からのメールについては、返事を書きませんので、どうかご理解の上、お許しください。以前より面識のある方は、もちろん、別ですが……。

また、中には、大量に、同じ文面で、あちこちのサイトに、相談をかけられる方もいらっしゃいます。そういう方のメールというのは、その雰囲気でわかります。あて先に、「子育て相談係御中」とあったりします。(笑い)が、中には、わかりにくいものもあります。

そういう方からの相談と区別するため、一言「マガジン読者」というように、書いてくださると、うれしいです。私のほうは、安心して、回答を書くことができます。よろしくお願いします。

● つづけてご相談くださる方は、どうか、以前のメールのやりとりを、複写してください。

私のほうでは、皆さんからいただいた相談を、整理して保存するということは、していません。また記録として残す段階で、後日の誤解や、うっかり転載を避けるために、皆さんのご住所、お名前を、アルファベットにしたり、改変したりしています。もちろん内容も改変します。

しかし改変したとき、その書き改めた文や、架空のお名前のほうが、より鮮明に、記憶の中に、残ってしまいます。

ですから、「以前、相談しました、○○県のAAですが、その後、あの件は……」というメールを、いただくと、頭の中が、大混乱してしまいます。

またインターネットの限界というか、文字情報だけのやりとりのため、仮にお名前が一致しても、頭の中で、どの人がどの人か、区別できないときがあります。これは、多分に、私の脳の老化によるものかもしれませんが……。

● 必ずしも、回答を約束するものではありません。

で、ときどき、返事を書かないままにすることも多くなりました。それについても、よくお叱りの言葉をいただきますが、どうか、こちらの事情も、ご理解の上、お許しください。

以上、勝手なお願いですが、これからも、気持よく、みなさんのお力になるために、どうか、ご理解の上、ご協力くださいますよう、お願い申しあげます。

私としては、後日の誤解やトラブルを避けるために、できるだけ相談ごとは、「テーマ」という形で、掲示板に書きこんでくださると、うれしいです。書きこみをしてくださった段階で、私のほうにも連絡が入るしくみになっていますので、読み落とすということは、ありません。

その際には、転載などの了解は、求めませんので、よろしくお願いします。

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みなさんお力になるために、もっとよい方法はないものかと思います。その点、当初は、インターネットは、すばらしい道具だと思いました。

 みなさんのご相談に、直接、答えることができます。

 しかしすぐ、問題は、起きました。ここにも書いたように、文字情報の限界というか、個人の特定ができないということです。当然のことながら、文字には、個性がありません。毎日、何人かの方の相談に、メールだけで答えていると、だれがだれなのか、わからなくなってしまうのです。

 一度、面識のある方は、返事を書きながら、その方のお顔などを、想像することができます。お子さんを知っていれば、さらに正確に、返事を書くことができます。しかしインターネットでは、それができません。

 これからは、さらにインターネットも進んで、その場で、個性が特定できるような方法も考えられるようになるでしょう。テレビ電話のような形になることも、じゅうぶん、考えられます。

 ですから、つづけて相談してくださる方は、以前のやりとりを、みなさんのほうで保存していただき、それをリフレイン(複写)してくださると、うれしいです。私のほうで、さっと目をとおして、返事を書くことができます。

 さらに、年末、年始に入って、何かと忙しくなりました。今朝も、懇談会、明日も、研修会と、自分の原稿を書く時間すら、ままならないのが現状です。そのため、せっかく、みなさんから相談をいただきながら、返事も書くことができないでいます。

 どうか、私の事情もご理解の上、数々の失礼を、お許しください。できるだけ、これからも、みなさんのお力になりたいと思っています。
(031218)

Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞