●虐待
【親が子どもを虐待するとき】
●虐待
虐待の内容については、すでに様々な方面から考察がなされている。
肉体的な虐待(暴力的虐待)をふつう虐待というが、暴力(殴る、蹴る、叩く)に限らない。
精神的虐待(威圧、恐怖心を与える)、不作為による虐待(ネグレクト、無視、冷淡、無言)、言葉による虐待(「死ね」「捨てる」)などもある。
様態はさまざまで、多くは虐待と意識しないまま、虐待する。
そのため親側に罪の意識が薄く、また多くは、「子どものため」と錯覚して虐待することも多い。
一般的には、指導、しつけ、教育の範囲を逸脱し、子どもに肉体的、精神的苦痛を与え、子どもの肉体および精神に、後に残る傷痕を残すような行為を虐待という(以上、はやし浩司)。
●虐待の背景
親が子どもを虐待するとき、その原因も多岐にわたる。
多くは親側の精神的欠陥、情緒的未熟性があるとみる。
さらに虐待は、世代連鎖しやすく、虐待する親自身が、子どものころその親に虐待された経験をもっていることが多い。
また育児ノイローゼから、うつ病を発症し、その結果として子どもを虐待するケースもある。
このばあいは、ささいなことで、カッとなり突発的に虐待に走るのが特徴。
行動に自制がきかず、子どもを殺す寸前までのことをする。
が、しばらくすると冷静になり、「○○ちゃん、ごめんね」と謝ったりする。
ほかに子どもを自分の支配下に置き、思い通りにする(代償的過保護)、あるいは自己の親としての存在感を訴えるために虐待するケースもある(代理ミュンヒハウゼン症候群)。
さらに現在、子どもを愛せないと人知れず悩んでいる母親が、8~10%いる(はやし浩司・浜松市内で調査)。
母親自身の乳幼児期における母子関係の不在が原因であることが多いが、こんなケースもある。
Aさんは子ども(男児)が幼稚園児のころ、離婚した。
夫がAさんと子どもを捨てて、家を出た。
で、そのあとしばらくしてからAさんは、子どもを虐待するようになった。
バットで子どもを叩きつけることもあったという。
理由を聞くと、「横顔が自分を捨てた夫そっくりだから」と。
潜在意識の奥に潜む、憎しみが、虐待という形になって、具象化するケースも少なくない(以上、はやし浩司)。
ほかにキレる子どもに準じて考えることもできる。
環境ホルモン説、脳の微細障害説など。
●精神的欠陥、情緒的未熟性
精神的欠陥については、私は専門外なので、ここでは割愛する。
簡単に言えば、大脳の前頭連合野の自己管理能力に、何か問題があるとみる。
激情的に行動に走りながら、抑制が働かない。
そのため虐待も、狂乱的になり、暴力、暴言も過激なものになりやすい。
精神的欠陥によるものであれば、精神科での治療対象となる。
また情緒的未熟性については、その親自身の乳幼児期の環境が影響していることが多い。
とくに母子関係の不全を疑ってみる。
基本的信頼関係の構築の失敗すると、いわゆるマターナル・デブルベーション(母子関係不全症候群)を引き起こしやすくなる(注※1)。
子どもは、心豊かで、落ち着いた静かな環境で、心をはぐくむ。
そのどこかに欠陥があると、将来的に、マターナル・デブリベーションを引き起こしやすい(以上、はやし浩司)。
●埼玉県T市のSKさんの相談
埼玉県T市に住んでいるSKさんより、こんなメールが届いている(はやし浩司 2011-06ー19)。
転載許可とあるので、そのまま紹介させてもらう。
【SKさんより、はやし浩司へ】
長女9歳のことで相談です。
お恥ずかしい話ですが、下の子が生まれた頃から上の子に対してイライラが募るようになりました。
手を上げることも多く、精神的に追い込むような言葉を言ってしまいます。
その上ピアノや勉強・・・と子どもの能力以上のことを求めてがんじがらめの状態。
徐々に子どもが激しいつめかみ・まつげや眉毛を抜く。
最近では、ぎゃーぎゃー泣き叫ぶというかわめきちらすし、ものを投げたり、話し合っても矛盾したことばかり言います。
すべて私のせいで愛情不足・精神的においつめたせいだと思います。
学校では普段と変わらず生活しているようですが、家では異常な行動が多いです。
心が壊れてしまっていてこのままではいけないと、何とか自分が変わらなければ・・・と思いながらもやはり娘に対しては怒りの感情が強く、なかなか自分の力ではどうしようもありませんでした。
そして色々調べる中私も小さいころから虐待を受け、アダルトチルドレンであると思うようになりました。
カウンセラー?病院?どこを受診していいのかわからず、私は6月末からマイツリーの虐待についてのプログラムを受けることにしました。
ただ子どもについてもこのままではいけないような気がして、どこかの機関を受診したいのですが、なかなか傷ついた子どもを見て頂けるというか対処法がみつかりません。
色々検索して先生のサイトにたどりつきました。
どのような機関を受診すればいいのか? 対処法など教えていただけないでしょうか。
勝手な母親ですが、ご返答よろしくお願いします。
●マイツリー(My Tree)
マイツリー・ペアレント・プログラムについては、いろいろなホームページで紹介されているので、そちらをご覧いただきたい。
(「マイ・ツリー」で検索をかければ、ヒットできる。)
私(はやし浩司)は、直接的には、知らない。
すでにマイツリーでの指導を受けているなら、しばらくはそちらで指導を受けてみた方がよい。
私自身は、ここにも書いたように直接的には、それがどういう内容のものか、知らない。
●SKさんの子ども
SKさんのケースでは、子どもの症状から、子ども自身がかなりの恐怖心を日常的にもっていることがわかる。
激しいつめかみ、まつげや眉毛を抜くといった、神経症による症状は、その代償的行為として、外に現れる。
ふつうこういうケースでは、子どもは、(1)極端に萎縮する、(2)極端に粗放化するのどちらかの様態を取る。
親の異常な暴力的威圧に、抑え込まれてしまったのが、(1)のタイプ、
それをはね返し、見かけ上たくましくなったのが、(2)のタイプということになる。
SKさんの子どもは、(2)のタイプ、つまり攻撃型と考えられる。
予後について言えば、(1)のタイプは、立ち直りがたいへんむずかしい。
(2)のタイプは、一見、扱いにくいが、立ち直りが早い。
その分だけ、生命力がたくましいということになる。
で、こういうケースのばあい、子どもは「家族の代表」にすぎない。
子どもに何か、ふつうでない症状が現れたら、子どもに問題があるとみるのではなく、家族(このばあいは、母親の育児姿勢)に問題があるとみる。
SKさんは、「子どもを治そう」と考えているが、逆。
まずSKさん自身を治す。
その結果として、子どもも治る。
●では、どうするか
先にも書いたように、「マイツリー」という団体で指導を受けているなら、しばらくそちらのほうで、いろいろな人たちの意見を聞いたらよい。
が、私自身は、メールの内容からして、SKさん自身の「心」に大きな問題があるとみる。そのため、一度、心療内科を訪れてみることを勧める。
それによって、子どもへのこだわり、うつ病的な症状は、かなり改善する。
SKさんが精神の安定を取り戻せば、子どもも、それに並行して、落ち着く。
9歳という年齢は、まだじゅうぶん取り返しのつく年齢である。
(思春期前夜から思春期に入ると、子どもの心の問題を解決するのが、たいへんむずかしくなる。
人格の「核(コア)」が完成するためである。)
つぎのようにアドバイスする。
(1)父親(夫)とはどういう関係なのか。
もし父親が近くにいるなら、父親の協力、理解が不可欠。
育児をひとりで背負わないで、よきパートナーとして、協力してもらう。
(このメールを見せるのもよい。)
(2)心療内科で安定剤を処方してもらう。
今ではこだわりを取り除く、すぐれた薬も開発されている。
ささいなことが気になり、それが爆発的に興奮状態につながるようであれば、うつ病も疑われる。
適切な治療こそ、最善。
(3)自分の心の中をのぞく
SKさんは、自身の不幸な過去について、少し触れている。
そういう形で、自分をもう一度、客観的に見つめ直してみる。
自分がわかれば、つまりそれが原因とわかれば、あとは時間が解決してくれる。
(5年単位の時間はかかる。その覚悟はしておくこと。)
(4)子どもの神経症
9歳という年齢からして、まだじゅうぶん、間に合う。
ただし子どもへの薬物投与は、慎重に。
これは子どもの問題ではなく、SKさん自身の問題と考えること。
子どもは「代表」であり、「結果」でしかない。
また攻撃型に出ているという点からして、予後もよい。
あまり深刻に考えないこと。
(5)SKさんへ
あなたはすばらしい母親です。
まず、そう考えてください。
ここまで自分を客観的にみつめ、また自分を改めようとする母親は、たいへん少ないです。
ただあなたには、あなたの、自分の意思ではどうにもならない問題をかかえています。
(SKさんのケースでは、マイツリーが提案しているような、プログラム的な指導で、改善するとは、私は考えていません。
心だって風邪をひくときには、ひきます。
風邪をひいたら、病院へ行けばよいのです。)
だから自分を責めてはいけません。
どうしようもないのです。
そのためにも、一度心療内科のドクターに相談してみるとよいでしょう。
私も仕事上、神経をすり減らすことが多く、精神安定剤を常用しています。
あとはイライラを、自分のしたいことで、解消しています。
それぞれの人にはそれぞれに合った解消法があります。
SKさんにもあるはずです。
やがてそれを見つけ、適当に発散する。
つまりこの種の病気(病気と決めつけて、ごめん!)は、治そうと思わず、うまくつきあえばよいのです。
へたにがんばると、かえってストレスがたまってしまいます。
あまりよい返事になっていないかしれませんが、いくつか原稿を添付しておきます。
どうか、参考にしてください。
Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
(注※1)
●マターナル・デブリベーション(母子関係不全症候群)
+++++++++++++++++++
乳幼児期の母子関係の不全。
それが後々、さまざまな症状の遠因となることがある。
とくに母子関係の欠如を、「マターナル・デブリベーション」
という。
子どもというのは、心豊かな家庭環境、とくに心豊かな母子関係の
中で、心をはぐくむ。
が、母親側に何かの問題があり、本来あるべき母子関係が
築けなくなることがある。
育児拒否、ネグレクト、育児放棄、母性愛の欠落、虐待、暴行など。
また自分の子どもであっても、子どもを愛せない母親は、
8~10%いる。
こうした母親側の育児姿勢が日常化すると、子どもには独特の
症状が現れるようになる。
ホスピタリズム(施設病)に似た症状を示すと説く学者もいる(後述)。
その第一が、他者との共鳴性の欠落。
わかりやすく言えば、心の温もりを失い、心の冷たい子どもになる。
他人の心の痛みが理解できない。
相手の立場に立って、ものを考えることができない、など。
そのため年齢を重ねるについれて、自分より弱い者をいじめたり、
自分より弱い立場にある動物を、虐待したりするようになる。
さらに成人してから、心の病気となって発現することもある。
ネットを使って、そうではないかと思われる症状をもった人を、
参考までに拾ってみた(2チャンネルより)。
もちろんここにあげた人たちの症例が、マターナル・デブリエイション
が原因というわけではない。
その疑いがあると、私が思うだけの話である(以上、はやし浩司)。
++++++++++++++++++
●心の葛藤
母子関係に悩み、葛藤している人は多い。
「親子だから……」「母親だから……」という『ダカラ論』ほど、あてにならないものはない。
またそういう前提で、この問題を考えてはいけない。
現在、人知れず、母親との関係に苦しんでいる人は多い。
++++++以下、2チャンネル投稿記事より転載+++++++
●症状(1)
【主訴、症状】自分が無価値、無意味だと思う。
漠然と怖い。
超泣く。所構わず突発的に。
睡眠障害(眠剤入れても3時間で目覚める)
母親が死ぬほど怖いし憎い(毒親で現在距離置き中)
【その他質問、追加事項】
抑うつ(っぽいと言われましたが病名はまだ)、過食嘔吐です。
大学に入るまでずっと抑圧された優等生でいざるをえなくて、それでも母親に否定され続けた。
反抗期も持てなく、完璧でないと思っている。
結婚したいヒトがいると言ったら、「これ以上親を不幸にするな」と言われ、
そこらへんくらいから将来を考えると不安になる(ネガティブな未来ばかりを想像して)ようになり 年末に仕事を失敗してから、仕事を拠り所にしていたことだろうことから(カウンセラーの言葉)自分の存在が0になったと思い全く身動きが取れなくなりました。
●症状(2)
【主訴、症状】引き篭もり。対人恐怖症。大声や物音に敏感で、緊張・恐怖・混乱・不安等を感じます。電話に出たり一人で外出できません。
母親からのモラハラと肉体的暴力、学校での虐め、母親の再婚先での連れ子虐待等から立ち直れません。フラッシュバックがよく起きます。
常に焦燥感があります。落ち着きや集中力や記憶力がなく頻繁に苛々しやすい。無心で喋り続ける妙な癖のようなものがある。
「死にたい」というよりも、寧ろ母親が憎くて殺したいと思っています。母親が死ねば解放されると信じていたりして自分でもマズイと思ってます。
普通の悪夢もありますが、憎い人間を殺す夢を見ることが多いです。
中学生の頃より酷くはないですが、フラッシュバックで気持ちが悪くなり、泣き喚いたりヒスっぽい奇声を発することもあります。これはごく稀です。
++++++以上、2チャンネル投稿記事より転載(原文のまま)+++++++
●母子関係の重要性
乳幼児期における母子関係の重要性については、何度も書いてきた。
その子どもの基本は、この時期に構築される。
基本的信頼関係もそのひとつ。
基本的信頼関係は、その後の、その人の人間関係に大きな影響を与える。
わかりやすく言えば、基本的信頼関係がしっかりと構築できた子ども(人)は、他人に対して、心が開くことができる。
そうでない子ども(人)は、心が開けなくなる。
(詳しくは、「はやし浩司 基本的信頼関係」で検索。)
が、それだけではない。この時期をのがすと、人間性そのものが欠落した子どもになる。
インドで見つかった、タマラ、アマラの2人のオオカミ少女を、例にあげるまでもない。
これについても、何度も書いてきた。
(詳しくは、「はやし浩司 野生児」で検索。)
さらに最近の研究によれば、人間にも鳥類に似た、刷り込みがあることがわかってきた。
卵からふ化したあと、すぐ二足歩行する鳥類は、最初に見たもの、耳にしたものを、親と思いこむ習性がある。
それを刷り込み(インプリンティング)という。
人間にも、同じような刷り込みがあるという。
0歳から生後7か月くらいまでの間の期間をいう。
この期間を、発達心理学の世界では、「敏感期」と呼んでいる。
が、不幸にして不幸な家庭に育った子どもは、こうした一連の母子関係の構築に失敗する。
●ホスピタリズム(施設病)
生後直後から、何らかの理由で母親の手元を離れ、施設などで育てられた子どもには、独特の症状が現れることは、よく知られている。
こうした一連の症候群をまとめて、「ホスピタリズム(施設病)」という。
(ただしこの言葉は、私が幼児教育の世界に入った、40年前にはすでにあった。
施設、たとえば保育園などに入ったからといって、みながみな、施設病になるわけではない。
当時と現在とでは、保育に対する考え方も大きく変わり、また乳児への接し方も、変わってきた。
ホスピタリズムについても、そういうことがないよう、細心の注意が払われるようになっている。)
ホスピタリズムの具体的な症状としては、「感情の動きが平坦になる、心が冷たい、知育の発達が遅れがちになる、貧乏ゆすりなどのクセがつきやすい」(長畑正道氏)など。
ほかにも、動作がのろい(緩慢行動)、感情表出が不安定、表情が乏しいなどの症状を示す。
これについては、以前、どこかの学校でもたれたシンポジウム用に書いた原稿があるので、それを末尾に添付しておく。
マターナル・デブリエイションでも、似たような症状を示す。
が、もっとも警戒すべき症状としては、人間性の喪失。
冒頭にも書いたように、他者との共鳴性の欠落が第一にあげられる。
わかりやすく言えば、心の温もりを失い、心の冷たい子どもになる。
他人の心の痛みが理解できない。
相手の立場に立って、ものを考えることができない、など。
そのため年齢を重ねるについれて、他人をいじめたり、自分より弱い立場にある人や動物を、虐待したりするようになる。
さらに最近の研究によれば、こうした人間性の獲得にも、「臨界期」があることがわかってきた。
先のオオカミ少女にしても、その後インド政府によって、手厚く保護され、教育をほどこされたが、最後まで、人間らしい心を取り戻すことはなかったという
つまり臨界期を過ぎてしまうと、それ以後、(取り返し)が、たいへん難しいということ。
このことからも乳幼児期における母子関係が、いかに重要なものであるかがわかる。
●いじめの問題
このマターナル・デブリエイションとは、直接関係ないかもしれないが、(いじめ)について、少し書いてみる。
先に、「年齢を重ねるについれて、他人をいじめたり、自分より弱い立場にある人や動物を、虐待したりするようになる」と書いた。
このことは、たとえば年中児~年長児(4~6歳児)に、ぬいぐるみを見せてみるとわかる。
心の温もりがじゅうぶん育っている子どもは、そうしたぬいぐるみを見せると、どこかうっとりとした表情を示す。
全体の7~8割が、そうである。
が、その一方で、ぬいぐるみを見せても反応しないか、反対にキックを入れたりする子どももいる。
(キックするからといって、心の冷たい子どもということには、ならない。誤解のないように!)
しかしこの時期までに、基本的な母性愛、父性愛の基本形は決まると考えてよい。
この時期に、おだやかでやさしい心をもった子どもは、その後も、そうした温もりを維持することができる。
もちろんこれだけで、(いじめの問題)がすべて説明できるわけではない。
またこの問題を解決すれば、(いじめの問題)がなくなるわけではない。
しかし(いじめの問題)を考えるときには、こうした問題もあるということを、頭に入れておく必要がある。
その子どもにすべての責任をかぶせるのは、かえって危険なことでもある。
反対に、たとえば極端なケースかもしれないが、溺愛児とか過保護児と呼ばれている子どもがいる。
このタイプの子どもは、よい意味において、母親の愛情をたっぷりと受けているから、いつも満足げでおっとりした様子を示す。
人格の核(コア)形成が遅れるというマイナス面はあるが、こと(いじめ)ということに関していえば、いじめの対象になることはあっても、いじめる側に回ることはまず、ない。
●「私」はどうか?
こうした問題を考えていると、いつも「では、私はどうなのか?」という問題がついて回る。
「マターナル・デブリベーションという問題があるのは、わかった。では、私はどうなのか?」と。
この文章を読んでいる人の中にも、心の温かい人もいる。
一方、心の冷たい人もいる。
が、この問題は、脳のCPU(中央演算装置)の問題だから、自分でそれを自覚するのは難しい。
心のやさしい人は、みなもそうだと思いやすい。
反対に心の冷たい人は、みなもそうだと思いやすい。
人は、いつも(自分の心)を基準として、他人をみる。
言い換えると、とくに心の冷たい人は、自分の心の冷たさに気づくことはない。
うすうす感ずることはあっても、いつもどこかでブレーキが働いてしまう。
あるいは上辺だけは、心の温かい人を演ずることもある。
だれかの不幸話を聞いたようなとき、さも同情したかのようなフリをしてみせる。
しかしそれ以上に、相手の心の中に踏み込んでいくことができない……。
そこで「私」を知る。
つまり「私自身は、どうなのか?」と。
私という人間は、心の温かい人間なのか。
それとも心の冷たい人間なのか、と。
そのひとつの基準が、(いじめ)ということになる。
今、善人ぶっているあなただって、ひょっとしたら学生時代、いじめを繰り返していたかもしれない。
そこにいじめられている人がいても、見て見ぬフリをして、通り過ぎてきたかもしれない。
あるいは、あなたが自身が先頭に立って、いじめを繰り返していたかもしれない。
そういうあなたは、じつはあなたの意思というよりは、あなたの育てられ方に原因があって、そうしていただけにすぎないということになる。
……と、短絡的に結びつけて考えることはできないが、その可能性も高いという意味で、この「マターナル・デブリベーション」の問題を考えてみたらよい。
そこでもう一度、あなた自身に問いただしてみる。
「あなたという人間は、子どものころいつも、(いじめ)とは無縁の世界にいただろうか」、
それとも「いつも(いじめ)の中心にいただろうか」と。
もし(いじめ)の中心にいたとするなら、あなたはかなり心の冷たい人間である可能性が高い。
さらに言えば、乳幼児期に、不幸にして不幸な家庭環境に育った可能性が高い。
で、その(冷たさ)ゆえに、失っているものも多いはず。
孤独で、みじめで、さみしい毎日を送っているはず。
損か得かということになれば、損に決まっている。
●では、どうするか
心の冷たい人が、温かい人になるということは、ありえるのだろうか。
乳幼児期にできあがった(心)を、おとなになってから、作り替えることは可能なのだろうか。
私は、それはたいへんむずかしいと思う。
人格の核(コア)というのは、そういうもの。
本能に近い部分にまで刻み込まれるため、それを訂正したり、修正したりするのは、容易なことではない。
そうした変化を自分のものにする前に、人生そのものが先に終わってしまってしまうということもある。
自分を作り変えるとしても、時間がかかる。
10年単位、20年単位の時間がかかる。
が、何よりも難しいのは、そうした自分に気がつくこと。
この問題は、先にも書いたように、脳のCPUの問題がからんでいる。
さらに加齢とともに、(心)は、あなた自身の性格や性質として、定着してしまう。
これを「性格の固定化」と、私は呼んでいる。
そうなると、自分を変えるのは、ますます難しくなる。
では、どうすればよいか。
ひとつの方法として、これは前にも書いたが、「感動する」という方法がある。
「感動する」ことによって、「他者との共鳴性」を育てる。
わかりやすく言えば、相手の心と波長を合わせる。
絵画、音楽、文学、演劇、映画、ドラマ・・・。
何でもよい。
そこに感動するものがあれば、それに感動する。
そういう場を自ら、求めていく。
つまり感動しながら、自分の心のワクを広げていく。
さらに最近の大脳生理学によれば、脳の中の辺縁系にある扁桃核(扁桃体)が、心の温もりに関しているという説もある。
心のやさしい人は、大脳皮質部からの信号を受けると、扁桃核が、モルヒネ様のホルモン(エンドロフィン、エンケファリン系)の分泌を促す。
それが心地よい陶酔感を引き起こす。
心の冷たい人は、そういう脳内のメカニズムそのものが、機能しないのかもしれない。
(これは私の推察。)
●まず「私」を知る
が、それとて、まずその前に「私」を知らなければならない。
「私は冷たい人間」ということを、自覚しなければならない。
繰り返すが、この問題は脳のCPUの問題だから、自分でそれに気づくだけでもたいへん。
特別な経験をしないかぎり、不可能とさえ言える。
そのひとつの基準として、先に、(いじめ)を取り上げてみた。
ほかにも、いろいろある。
たとえばホームレスの人が路上で寝ていたする。
冷たい冬の風が、吹き荒れている。
そういう人を見て、心を痛める人がいる。
反対に街のゴミのように思う人もいる。
たとえば近親の中で、事業に失敗した人がいたとする。
そういうとき、何とか援助する方法はないものかと、あれこれ気をもむ人もいる。
反対に、「ザマーミロ」と笑ってすます人もいる。
いろいろな場面を通して、「私」を評価してみたらよい。
「私という人間は、どういう人間なのか」と。
それが好ましい人間性であれば、それでよし。
もしそうでなければ、つぎに「どうしてそういう私になったか」を、考えてみればよい。
「マターナル・デブリエイション」というと、子どもの問題と考えがちである。
しかしこの問題は、その子どもがおとなになってからも、つづく。
つまり(あなた)自身の問題ということになる。
(あなた)も、かつてはその(子ども)だった。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●ホスピタリズム(追記)
●教育を通して自分を知る
教育のおもしろさ。それは子どもを通して、自分自身を知るところにある。たとえば、私の家には二匹の犬がいる。一匹は捨て犬で、保健所で処分される寸前のものをもらってきた。これをA犬とする。もう一匹は愛犬家のもとで、ていねいに育てられた。生後二か月くらいしてからもらってきた。これをB犬とする。
まずA犬。静かでおとなしい。いつも人の顔色ばかりうかがっている。私の家に来て、一二年にもなろうというのに、いまだに私たちの見ているところでは、餌を食べない。愛想はいいが、決して心を許さない。その上、ずる賢く、庭の門をあけておこうものなら、すぐ遊びに行ってしまう。そして腹が減るまで、戻ってこない。もちろん番犬にはならない。見知らぬ人が庭の中に入ってきても、シッポを振ってそれを喜ぶ。
一方B犬は、態度が大きい。寝そべっているところに近づいても、知らぬフリをして、そのまま寝そべっている。庭で放し飼いにしているのだが、一日中、悪さばかりしている。おかげで植木鉢は全滅。小さな木はことごとく、根こそぎ抜かれてしまった。しかしその割には、人間には忠実で、門をあけておいても、外へは出ていかない。見知らぬ人が入ってこようものなら、けたたましく吠える。
●人間も犬も同じ
……と書いて、実は人間も犬と同じと言ったらよいのか、あるいは犬も人間と同じと言ったらよいのか、どちらにせよ同じようなことが、人間の子どもにも言える。いろいろ誤解を生ずるので、ここでは詳しく書けないが、性格というのは、一度できあがると、それ以後、なかなか変わらないということ。A犬は、人間にたとえるなら、育児拒否、無視、親の冷淡を経験した犬。心に大きなキズを負っている。
一方B犬は、愛情豊かな家庭で、ふつうに育った犬。一見、愛想は悪いが、人間に心を許すことを知っている。だから人間に甘えるときは、心底うれしそうな様子でそうする。つまり人間を信頼している。幸福か不幸かということになれば、A犬は不幸な犬だし、B犬は幸福な犬だ。人間の子どもにも同じようなことが言える。
●施設で育てられた子ども
たとえば施設児と呼ばれる子どもがいる。生後まもなくから施設などに預けられた子どもをいう。このタイプの子どもは愛情不足が原因で、独特の症状を示すことが知られている。感情の動きが平坦になる、心が冷たい、知育の発達が遅れがちになる、貧乏ゆすりなどのクセがつきやすい(長畑正道氏)など。
が、何といっても最大の特徴は、愛想がよくなるということ。相手にへつらう、相手に合わせて自分の心を偽る、相手の顔色をうかがって行動する、など。一見、表情は明るく快活だが、そのくせ相手に心を許さない。許さない分だけ、心はさみしい。あるいは「いい人」という仮面をかぶり、無理をする。そのため精神的に疲れやすい。
●施設児的な私
実はこの私も、結構、人に愛想がよい。「あなたは商人の子どもだから」とよく言われるが、どうもそれだけではなさそうだ。相手の心に取り入るのがうまい。相手が喜ぶように、自分をごまかす。茶化す。そのくせ誰かに裏切られそうになると、先に自分のほうから離れてしまう。
つまり私は、かなり不幸な幼児期を過ごしている。当時は戦後の混乱期で、皆、そうだったと言えばそうだった。親は親で、食べていくだけで精一杯。教育の「キ」の字もない時代だった。……と書いて、ここに教育のおもしろさがある。他人の子どもを分析していくと、自分の姿が見えてくる。「私」という人間が、いつどうして今のような私になったか、それがわかってくる。私が私であって、私でない部分だ。私は施設児の問題を考えているとき、それはそのまま私自身の問題であることに気づいた。
●まず自分に気づく
読者の皆さんの中には、不幸にして不幸な家庭に育った人も多いはずだ。家庭崩壊、家庭不和、育児拒否、親の暴力に虐待、冷淡に無視、放任、親との離別など。しかしそれが問題ではない。問題はそういう不幸な家庭で育ちながら、自分自身の心のキズに気づかないことだ。たいていの人はそれに気づかないまま、自分の中の自分でない部分に振り回されてしまう。そして同じ失敗を繰り返す。それだけではない。同じキズを今度はあなたから、あなたの子どもへと伝えてしまう。心のキズというのはそういうもので、世代から世代へと伝播しやすい。
が、しかしこの問題だけは、それに気づくだけでも、大半は解決する。私のばあいも、ゆがんだ自分自身を、別の目で客観的に見ることによって、自分をコントロールすることができるようになった。「ああ、これは本当の自分ではないぞ」「私は今、無理をしているぞ」「仮面をかぶっているぞ」「もっと相手に心を許そう」と。そのつどいろいろ考える。つまり子どもを指導しながら、結局は自分を指導する。そこに教育の本当のおもしろさがある。あなたも一度自分の心の中を旅してみるとよい。
(02-11-7)
● いつも同じパターンで、同じような失敗を繰り返すというのであれば、勇気を出して、自分の過去をのぞいてみよう。何かがあるはずである。問題はそういう過去があるということではなく、そういう過去があることに気づかないまま、それに引き回されることである。またこの問題は、それに気づくだけでも、問題のほとんどは解決したとみる。あとは時間の問題。
++++++++++++++++
心理学の世界には、「基本的信頼関係」という言葉がある。
この「基本的信頼関係」の中には、「基本的自律心」という意味も含まれる。
心豊かで、愛情をたっぷりと受けて育てられた子どもは、それだけ自律心が、強いということになる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 自立 自律 子どもの自立
子供の自律 (はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 マターナルデブリエイション マターナル・デブリエイション 母子関係 母性愛の欠落 ホスピタリズム 長畑 施設病 人間性の欠落 臨界期 敏感期 刷り込み 保護と依存 子どもの依存性 幼児期前期 自律期 幼児期後期 自立期)
Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司
●虐待
●虐待される子ども
++++++++++++++++
カナーという学者は、虐待を次のように
定義している。
(1) 度の敵意と冷淡、
(2) 完ぺき主義、
(3) 代償的過保護。
ここでいう代償的過保護というのは、
愛情に根ざした本来の過保護ではなく、
子どもを自分の支配下において、思い
通りにしたいという、親のエゴに基づ
いた過保護をいう。
代償的過保護ともいう。
+++++++++++++++
ある日曜日の午後。一人の子ども(小五男児)が、幼稚園に駆け込んできた。富士市で幼稚園の園長をしているI氏は、そのときの様子を、こう話してくれた。
「見ると、頭はボコボコ、顔中、あざだらけでした。泣くでもなし、体をワナワナと震わせていました」と。虐待である。逃げるといっても、ほかに適当な場所を思いつかなかったのだろう。その子どもは、昔、通ったことのある、その幼稚園へ逃げてきた。
カナーという学者は、虐待を次のように定義している。(1)過度の敵意と冷淡、(2)完ぺき主義、(3)代償的過保護。
ここでいう代償的過保護というのは、愛情に根ざした本来の過保護ではなく、子どもを自分の支配下において、思い通りにしたいという、親のエゴに基づいた過保護をいう。代償的過保護ともいう。
その結果子どもは、(1)愛情飢餓(愛情に飢えた状態)、(2)強迫傾向(いつも何かに強迫されているかのように、おびえる)、(3)情緒的未成熟(感情のコントロールができない)などの症状を示し、さまざまな問題行動を起こすようになる。
I氏はこう話してくれた。「その子どもは、双子で生まれたうちの一人。もう一人は女の子でした。母子家庭で、母親はその息子だけを、ことのほか嫌っていたようでした」と。
私が「母と子の間に、大きなわだかまりがあったのでしょうね」と問いかけると、「多分その男の子が、離婚した夫と、顔や様子がそっくりだったからではないでしょうか」と。
親が子どもを虐待する理由として、ホルネイという学者は、(1)親自身が障害をもっている。(2)子どもが親の重荷になっている。(3)子どもが親にとって、失望の種になっている。(4)親が情緒的に未成熟で、子どもが問題を解決するための手段になっている、の四つをあげている。
それはともかくも、虐待というときは、その程度が体罰の範囲を超えていることをいう。I氏のケースでも、母親はバットで、息子の頭を殴りつけていた。わかりやすく言えば、殺す寸前までのことをする。そして当然のことながら、子どもは、体のみならず、心にも深いキズを負う。学習中、一人ニヤニヤ笑い続けていた女の子(小二)。夜な夜な、動物のようなうめき声をあげて、近所を走り回っていた女の子(小三)などがいた。
問題をどう解決するかということよりも、こういうケースでは、親子を分離させたほうがよい。教育委員会の指導で保護施設に入れるという方法もあるが、実際にはそうは簡単ではない。父親と子どもを半ば強制的に分離したため、父親に、「お前を一生かかっても、殺してやる」と脅されている学校の先生もいる。
あるいはせっかく分離しても、母親が優柔不断で、暴力を振るう父親と、別れたりよりを戻したりを繰り返しているケースもある。
結論を言えば、たとえ親子の間のできごととはいえ、一方的な暴力は、犯罪であるという認識を、社会がもつべきである。そしてそういう前提で、教育機関も警察も動く。いつか私はこのコラムの中で、「内政不干渉の原則」を書いたが、この問題だけは別。子どもが虐待されているのを見たら、近くの児童相談所へ通報したらよい。「警察……」という方法もあるが、「どうしても大げさになってしまうため、児童相談所のほうがよいでしょう。そのほうが適切に対処してくれます」(S小学校N校長)とのこと。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 虐待 虐待の定義 ホルネイ)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●環境虐待
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虐待といっても、直接虐待と
間接虐待がある。
このほか、最近私は、環境
虐待という言葉を考えた。
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虐待といっても、直接虐待と間接虐待がある。「間接虐待」という言葉は、私が考えた。たとえばはげしい夫婦げんか、家庭騒動、家庭不和、家庭崩壊など。こういったものは、子どもに対して直接的ではないにしても、子どもの心に大きな傷を残す。
が、最近、こんな経験をしている。
あるところにある母親がいる。年齢は、今年40歳を少し過ぎた。上の子どもが小学5年生(男児)、下の子どもが小学2年生(女児)。
母親は、結婚まもなくから、うつ病になった。うつ病には(こだわり)や(妄想性)はつきものだが、その母親もそうだった。その母親のばあいも、ささいなことを気にして、それを異常なまでに針小棒大に問題にした。
あるときは、隣の浄化槽のポンプがうるさいからといって、夜中に、それを破壊してしまったこともある。そのときは隣人が、その母親の病状を理解し、弁償程度で話がすんだ。あるいは、家の近くの駐車場を借りているのだが、その駐車場で隣の車が、自分の車に傷をつけたと騒いだこともある。
見ると、ほんの数ミリにもならないすり傷だったのだが、その母親は、隣に駐車してあった車のドアが当たったと主張した。このときは、警察官まで呼んで、実地検分までしたという。
そういう母親だから、家庭の中では、どんな母親か、容易に察しがつく。数週間の間、家の中に引きこもったかと思うと、今度は突然、手芸の店を開くといって、夫をあわてさせたりしたこともある。が、かわいそうなのは、2人の子ども。そのつど、その2人の子どもは、そういう母親に引き回された。私が聞いた話に、こんなことがあった。
2年生の子どもが、学校からテスト用紙をもらって帰ってきた。かけ算の九九のテスト用紙だった。見ると、下3分の1程度の答が、ちょうど一列ずつ下へ、ずれているのがわかった。母親は、自分の子どもが、隣の子どもの答案を丸写しにしたと考えた。(実際、そうだったかもしれないが……。子どもの世界では、よくあることである。)
そこで母親は、その子どもを問いつめた。しかった。が、それでは足りないと思ったのか、その足で学校へ行き、「しっかりと監視していてほしい」と先生に告げた。
そういう家庭環境だから、上の子ども(小5男児)は萎縮してしまった。ハキがなく、母親の前では、いつもオドオドしていた。一方、下の子ども(小2女児)は、やや粗放化した上、虚言癖をもつようになった。こんなことがあった。
ある日、突然、その母親が学校の職員室に飛び込んできた。そして大声でこう怒鳴った。
「○○先生が、うちの娘を殴った。何とかしろ!」と。
それを聞いた教頭が、授業の途中だったが、担任の先生を呼び、事情を聞いた。しかし担任の先生には、まったく身に覚えがなかった。ほかの子どもの頭を手で、あいさつがわりに軽くたたいたことはあるが、その子どもには、なかった。
それを話すと、その母親は、「うちの娘は、嘘をつかない」「あなたはうちの娘を、嘘つきと言うのか!」と。さらに大声で怒鳴ったという。
結局、この話、つまりその先生がその子どもを殴ったという話は、その子どもの作り話とわかったという。その前日あまりにも忘れ物が多いので、、その先生が、その子どもにこう言った。「今度、忘れ物をしたら、君のお母さんに電話するよ」と。そこでその子どもが先手を打つ形で、先生の悪口を言った。それが「殴った」という話になった。
こうした症状はともかくも、母親がつくる家庭環境が、子どもの心に大きな影響を与えていることは、明白だった。虐待という虐待ではないかもしれないが、それに近い影響を与えていた。そこで私は、こうした虐待を、「環境虐待」と呼ぶことにした。
子どもの立場からして、心静かにくつろげる環境がない。家庭が家庭として、機能していない。情緒が不安定な母親に、そのつど、生活が乱される。程度の差もあるが、こうした家庭環境も虐待に準じて考え、ひどいばあいには、子どもの隔離ということも考える。
虐待といっても、内容、程度は、さまざま。子どもの体に直接危害を加える、「直接虐待」にしても、虐待を加える親にしても、始終、虐待を加えているわけではない。ふだんは、むしろやさしく、思いやりのある親であることが多い。(もちろん日常的に虐待をしている親もいるが……。)
週に1度とか、月に2、3度とか、そのときの親の気分に左右されて、子どもを虐待する。しかしそれでも子どもの心に大きな傷跡を残す。そういうことも考えると、ここでいう環境虐待のほうが、ずっと質(たち)が悪い。そういう前提で、考える。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 間接虐待 直接虐待 環境虐待)
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間接虐待について、以前
書いた原稿を添付します。
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● 間接虐待
直接虐待を受けなくても、まわりの騒動が原因で、子どもが、心理的に、虐待を受けたのと同じ状態になることがある。これを私は、「間接虐待」と呼んでいる。
たとえばはげしい夫婦げんかを見て、子どもがおびえたとする。「こわいよ」「こわいよ」と泣いたとする。が、その夫婦には、子どもを虐待したという意識はない。しかし子どもは、その恐怖感から、虐待を受けたときと同じキズが、心につく。これが間接虐待である。
というのも、よく誤解されるが、虐待というのは、何も肉体的暴力だけではない。精神的な暴力も、それに含まれる。言葉の虐待も、その一つである。言いかえると、心理的な苦痛をともなうようであれば、それが直接的な虐待でなくても、虐待ということになる。
たとえば、こんな例を考えてみよう。
ある父親が、アルコール中毒か何かで、数日に1回は、酒を飲んで暴れたとする。食器棚を押し倒し、妻(子どもの母親)を、殴ったり、蹴ったりしたとする。
それを見て、子どもが、おびえ、大きな恐怖感を味わったとする。
このとき、その父親は、直接子どもに暴力を加えなくても、その暴力と同じ心理的な苦痛を与えたことになる。つまりその子どもに与える影響は、肉体的な虐待と同じということになる。それが私がいう、間接虐待である。
が、問題は、ここにも書いたように、そういう苦痛を子どもに与えながら、その(与えている)という意識が、親にないということ。家庭内騒動にせよ、はげしい夫婦げんかにせよ、親たちはそれを、自分たちだけの問題として、かたづけてしまう。
しかしそういった騒動が、子どもには、大きな心理的苦痛を与えることがある。そしてその苦痛が、まさに虐待といえるものであることがある。
H氏(57歳)の例で考えてみよう。
H氏の父親は、戦争で貫通銃創(銃弾が体内を通り抜けるようなケガ)を受けた。そのためもあって、日本へ帰国してからは、毎晩、酒に溺れる日々がつづいた。
今でいう、PTSD(心的外傷後ストレス症候群)だったかもしれない。H氏の父親は、やがてアルコール中毒になり、家の中で暴れるようになった。
当然、はげしい家庭内騒動が、つづくようになった。食卓をひっくりかえす、障子戸をぶち破る、戸だなを倒すなどの乱暴を繰りかえした。今なら、離婚ということになったのだろうが、簡単には離婚できない事情があった。H氏の家庭は、そのあたりでも本家。何人かの親戚が、近くに住んでいた。
H氏は、そういうはげしい家庭内騒動を見ながら、心に大きなキズを負った。
……といっても、H氏が、そのキズに気がついていたわけではない。心のキズというのは、そういうもの。脳のCPU(中央演算装置)にからんでいるだけに、本人が、それに気づくということは、むずかしい。
しかしH氏には、自分でもどうすることもできない、心の問題があった。不安神経症や、二重人格性など。とくに二重人格性は、深刻な問題だった。
ふとしたきっかけで、もう一人の人格になってしまう。しかしH氏のばあい、救われるのは、そうした別の人格性をもったときも、それを客観的に判断することができたこと。もしそれができなければ、まさに二重人格者ということになったかもしれない。
が、なぜ、H氏が、そうなったか? 原因を、H氏の父親の酒乱に結びつけることはできないが、しかしそれが原因でないとは、だれにも言えない。H氏には、いくつか思い当たる事実があった。
その中でも、H氏がとくに強く覚えているのは、H氏が、6歳のときの夜のことだった。その夜は、いつもよりも父親が酒を飲んで暴れた。そのときH氏は、5歳年上の姉と、家の物置小屋に身を隠した。
その夜のことは、H氏の姉もよく覚えていたという。H氏は、その姉と抱きあいながら、「こわい」「こわい」と、泣きあったという。その夜のことについて、H氏は、こう言う。
「今でも、あの夜のことを思い出すと、体が震えます」と。
心のキズというのは、そういうもの。キズといっても、肉体的なキズのように形があるわけではない。外から見えるものでもない。しかし何らかの形で、その人の心を裏からあやつる。そしてあやつられるその人は、あやつられていることにすら、気がつかない。そして同じ苦痛を、繰りかえし味わう。
間接虐待。ここにも書いたが、この言葉は、私が考えた。
【注意】
動物愛護団体の世界にも、「間接虐待」という言葉がある。飼っているペットを、庭に放置したり、病気になっても、適切な措置をとらないことなどをいう。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
【虐待と非行】
●非行の子ども、3割虐待経験(駐日新聞)
全国の児童相談所で非行相談を受けた子どもの30%は、親などから、虐待されたことがあり、ほぼ半数は、育つ途中で、養育者が代わり、親や家族らとの愛着関係を建たれる経験をしていたことが、6月13日(05)、犬塚峰子、東京都児童相談センター治療行政課長らの、厚生労働省研究班の調査で分かった(以上、中日新聞の記事より)。
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非行の内容
男子……63%
非行内容……盗み、家出、外泊
こうした非行問題を起こした子どものうち、
虐待を受けた子どもは、全体の30%。複数の種類の虐待を受けた受けた子どもが目立ち、殴るなどの身体的虐待が、78%、ネグレクト(養育放棄)が、73%で、心理的虐待が50%、性的虐待が32%。
親が離婚したり、施設に預けられたりして、養育者が途中で代わった子どもは、47%で、うち約4分の1は、3歳未満で経験。代わった回数は、1回が、66%、2回が、18%、3回は、11%いた。
ドメスティックバイオレンス(DV)のある家庭で育った子どもが、全体の10%いることも判明。
攻撃性が高い、情緒不安定などの何らかの心理的・精神的問題をかかえる子どもは、85%おり、虐待経験のある子どもだと、92%に上昇した(以上、同新聞、6・14、朝刊)。
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●虐待は好ましくないが……
子どもは、絶対的な安心感と、親子の信頼関係のある家庭でこそ、その心をはぐくむことができる。「絶対的」というのは、「疑いすらいだかない」という意味。
虐待にかぎらない。育児拒否、放棄、冷淡、家庭騒動、夫婦不和、暴力、貧困など。子どもの側から見て、「不安」を覚えたとき、子どもの心は、大きく、ゆがむ。キズつく。離婚にしても、離婚そのものが子どもの心に影響を与えるのではない。離婚にいたる、家庭騒動が、子どもの心に大きな影響を与える。
子どもがいる夫婦のばあい、離婚をどのように進め、離婚後も、どのようにして、子どもの心を守るか。この日本では、そうした問題については、ほとんど、考えられていない。
ただ、この調査で、「?」と思ったのは、つぎのこと。
現在、子どもに体罰を加えている母親は、全体の50%近くはいる。そしてそのうち、約70%(全体の35%)は、虐待に近い、体罰を加えているのがわかっている(筆者、調査)。
つまり虐待イコール、非行ということではないのではないかということ。虐待を受けながらも、子どもの側で、ふんばりながら、がんばっているケースは、いくらでもある。この記事を読むと、(あくまでも記事を読んでの印象だが)、非行の原因のすべては、虐待にあるような印象をもってしまう。)
また虐待といっても、肉体的虐待、精神的虐待のほか、間接虐待もある。はげしい夫婦げんかを見て育った子どもも、虐待を受けたのと同じような症状を示すことがある。
結論から先に言えば、子どもは、心豊かで、愛情に満ちた、静かな環境で、両親によって育てられるのがよい。その年齢は、2歳まで(WHO)だが、実際には、満3歳まで。この時期に、子どもは、親との(とくに母親との)、基本的信頼関係を結ぶ。
この基本的信頼関係が、そののちの、子どもの精神的発達の基盤となる。が、この時期に、その信頼関係の構築に失敗すると、子どもは、精神的に大きな影響を受け、慢性的な不安感を覚えたりするようになる。生涯にわたってつづくため、「基底不安」という。
さらに精神的未熟性が、残ることもある。50歳、60歳をすぎても、親離れできず、そのため自立そのものができず、親に依存して生きる子どもも少なくない。
もちろん情緒的な問題も起きる。ここに書いてあるような、「攻撃性」もその一つだが、情緒が不安定になるから攻撃性が生まれるのではなく、他者との良好な人間関係が結べなくなり、その結果として、攻撃性が現れる。もっと言えば、このタイプの子どもは、他者に対して、心を開くことができない。
その結果として、仮面をかぶって、いい子ぶったり、同情を求めたり、依存的、服従的になったりする。内へ引きこもってしまうこともある。攻撃性は、あくまでも、その一部でしかない。
全体としてみると、この調査は、その前提として、虐待と非行を、どこかで無理に結びつけようとしているのではないかという印象をもった。図式としては、わかりやすいが、かえって、親たちに、誤解を生じかねない。つまりこれだけでは、近年ふえている、そうでない家庭(見た目にも恵まれ、裕福で、家庭円満な家庭)での非行については、説明できない。
●非行の原因は、別の角度から考える
むしろそうではなくて、家庭的な不協和音が、子どもの自我の形成に影響を与え、その結果として、子どもは、たとえば非行問題を起こすと考えたほうが、よいのでは……。
同じ虐待を受けても、自我の同一性のしっかりしている子どもは、自分の目的に向って進んでいく。虐待を受けなくても、同一性の確立に失敗した子どもは、さまざまな形で、その自我を補修しようとする。その一つが、非行ということになる。
最後に一言。
非行イコール、即、「悪」ではないということ。今どき、「盗み」や「家出」など、珍しくも何ともない。そこには、当然、社会全体がもつ、社会的価値観が混入する。極端な例としては、体に爆弾を巻いて、自爆することを美徳する社会も、ないわけではない。
さらに、最近、こんなことも聞いた。
南アフリカの日本人学校から帰任した小学校の先生が、こう言った。「(日本で)朝礼が終わって、子どもたちが二列に並んで教室へもどる姿を見て、ぞっとした」と。
あなたはその先生が、どうしてゾッとしたか、その理由がわかるだろうか。
この話をオーストラリアの友人(ドクター)に話すと、そのドクターも、そう言った。
どこかの駅で列車をまっているときのこと。駅前が運送会社になっていて、そこに10台近いトラックが並んでいたという。そのとき、上司らしき人が、トラックの前に運転手を並べ、朝礼をしていたという。
その友人も、それを見て、ゾッとしたという。
なぜか?
こうした感覚は、日本人として、日本に長く住んでいるとわからない。そこで私は、オーストラリアの友人に、こう聞いた。
「オーストラリアでは、どうしているのか?」と。
すると、そのオーストラリア人は笑いながら、「(朝の集会のあと)、みな、バラバラに教室へ入る。ぼくは、いつも、窓から、入っていた」と。
またトラックの運転手たちについては、みな「ロボットみたいだった」と。
●サブカルチャ(下位文化)
「非行」ということを考えるとき、では、非行を経験しない子どものほうが理想的かというと、そうでもない。今の日本の子どもたちを見ていると、(決して、非行を奨励するわけではないが)、キバを抜かれた動物のようで、かえって不気味ですらある。
男児でも、たいはんが、ナヨナヨしている。おとなしい。やさしい。自己主張も、弱い。ブランコを横取りされても、文句一つ、言えない。よく子どもの攻撃性が問題になるが、その攻撃性そのものが、まるでない。そういう子どもを、はたして、(いい子)と言ってよいのか。
むしろ子どものころ、サブカルチャ(下位文化)を経験した子どもほど、おとなになってから、常識豊かな子どもになることが知られている。反対に、子どものころ、優等生であった子どもほど、あとあと、何かと問題を引き起こしやすいこともわかっている。外部に対して問題を引き起こすこともあるが、内々で、悶々と苦しんでいる子どもとなる、たいへん、多い。)
「非行」といっても、程度の問題もある。ハバもある。どこからどこまでが、許される非行であり、どこから先が、許されない非行なのかということを、一度、明確にしておく必要もあるのでは……。
盗みくらいなら、だれだって、する。家出にいたっては、みな、する。虐待が好ましくないことは言うまでもないが、虐待イコール、非行という短絡的な発想には、私は、どうしても、ついていけない。
(はやし浩司 子供の非行 虐待と非行 虐待 子供の攻撃性 ネグレクト 養育放棄)
(追記)
日本の子どもたちは、全体としてみると、おとなしすぎる。先日も、アメリカ人の小学校の教師と話したが、アメリカでは、シャイ(shy)な子どもは、問題児だそうだ。
日本では、シャイな子どもは、問題児ではない。むしろ、控えめないい子と考えられていると話してやったら、その先生は、本当に驚いていた。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
【滋賀県・O市のY先生(小学校教諭)より、はやし浩司へ】
●代償的過保護
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滋賀県のY先生より、こんなメールが届いている。
以下、要約。
「……私のクラスにKさん(女児、小4)という子がいるが、家に帰りたがりません。
いつもみなが帰ったあとも真っ暗になるまで、校舎の裏庭(小さな山になっていて、
ふだんは児童の遊び場になっている)で、時間を過ごしています。
近くに住むEさん(女児、小4)に話を聞くと、母親がたいへんきびしい人らしく、
おおまかに言えば、つぎのようだそうです。
(1)毎日、1時間の漢字の書き取りと、計算練習が義務づけられている。
(2)そのあと母親にテストされ、満点でないと、夕食が食べられない。
(3)友だちにもらった遊び道具などは、すべて捨てられる。
(4)家の前まではいっしょに帰るが、いつも裏の勝手口から家に入る。
(5)ほかに毎日プリント学習を2枚することになっていて、それがしてないと、
ベッドから引きずり出され、それをさせられる。
(6)「成績がさがったら、お弁当を作らない」と、母親に言われている。
学校でも、ときどき「おなかが急に痛くなった」「足が痛い」と言って、保健室
で横になっています。
小学2年生ごろまで、授業中に、おもらしをすることがあったそうです」と。
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●代償的過保護と帰宅拒否
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典型的な代償的過保護である。
親の支配下におき、子どもを
親の思い通りにする。
一見、過保護だが、過保護に
ともなう(愛情)が希薄。
「代償的過保護」という。
過保護もどきの過保護。
そう考えるとわかりやすい。
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●代償的過保護
同じ過保護でも、その基盤に愛情がなく、子どもを自分の支配下において、自分の思いどおりにしたいという過保護を、代償的過保護という。
ふつう「過保護」というときは、その背景に、親の濃密な愛情がある。
しかし代償的過保護には、それがない。一見、同じ過保護に見えるが、そういう意味では、代償的過保護は、過保護とは、区別して考えたほうがよい。
親が子どもに対して、支配的であると、詫摩武俊氏は、子どもに、つぎのような特徴がみられるようになると書いている(1969)。
服従的になる。
自発性がなくなる。
消極的になる。
依存的になる。
温和になる。
さらにつけ加えるなら、現実検証能力の欠如(現実を理解できない)、管理能力の不足(してよいことと悪いことの区別ができない)、極端な自己中心性なども、見られるようになる。
この琢摩氏の指摘の中で、私が注目したのは、「温和」という部分である。ハキがなく、親に追従的、依存的であるがために、表面的には、温和に見えるようになる。しかしその温和性は、長い人生経験の中で、養われてできる人格的な温和性とは、まったく異質のものである。
どこか、やさしい感じがする。どこか、柔和な感じがする。どこか、穏かな感じがする……といったふうになる。
そのため親、とくに母親の多くは、かえってそういう子どもほど、「できのいい子ども」と誤解する傾向がみられる。そしてますます、問題の本質を見失う。
ある母親(70歳)は、そういう息子(40歳)を、「すばらしい子ども」と評価している。臆面もなく、「うちの息子ほど、できのいい子どもはいない」と、自慢している。親の前では、借りてきたネコの子のようにおとなしく、ハキがない。
子どもでも、小学3、4年生を境に、その傾向が、はっきりしてくる。が、本当の問題は、そのことではない。
つまりこうした症状が現れることではなく、生涯にわたって、その子ども自身が、その呪縛性に苦しむということ。どこか、わけのわからない人生を送りながら、それが何であるかわからないまま、どこか悶々とした状態で過ごすということ。意識するかどうかは別として、その重圧感は、相当なものである。
もっとも早い段階で、その呪縛性に気がつけばよい。しかし大半の人は、その呪縛性に気がつくこともなく、生涯を終える。あるいは中には、「母親の葬儀が終わったあと、生まれてはじめて、解放感を味わった」と言う人もいた。
題名は忘れたが、息子が、父親をイスにしばりつけ、その父親を殴打しつづける映画もあった。アメリカ映画だったが、その息子も、それまで、父親の呪縛に苦しんでいた。
ここでいう代償的過保護を、決して、軽く考えてはいけない。
【自己診断】
ここにも書いたように、親の代償的過保護で、(つくられたあなた)を知るためには、まず、あなたの親があなたに対して、どうであったかを知る。そしてそれを手がかりに、あなた自身の中の、(つくられたあなた)を知る。
( )あなたの親は、(とくに母親は)、親意識が強く、親風をよく吹かした。
( )あなたの教育にせよ、進路にせよ、結局は、あなたの親は、自分の思いどおりにしてきた。
( )あなたから見て、あなたの親は、自分勝手でわがままなところがあった。
( )あなたの親は、あなたに過酷な勉強や、スポーツなどの練習、訓練を強いたことがある。
( )あなたの親は、あなたが従順であればあるほど、機嫌がよく、満足そうな表情を見せた。
( )あなたの子ども時代を思い浮かべたとき、いつもそこに絶大な親の影をいつも感ずる。
これらの項目に当てはまるようであれば、あなたはまさに親の代償的過保護の被害者と考えてよい。あなた自身の中の(あなた)である部分と、(つくられたあなた)を、冷静に分析してみるとよい。
【補記】
子どもに過酷なまでの勉強や、スポーツなどの訓練を強いる親は、少なくない。「子どものため」を口実にしながら、結局は、自分の不安や心配を解消するための道具として、子どもを利用する。
あるいは自分の果たせなかった夢や希望をかなえるための道具として、子どもを利用する。
このタイプの親は、ときとして、子どもを奴隷化する。タイプとしては、攻撃的、暴力的、威圧的になる親と、反対に、子どもの服従的、隷属的、同情的になる親がいる。
「勉強しなさい!」と怒鳴りしらしながら、子どもを従わせるタイプを攻撃型とするなら、お涙ちょうだい式に、わざと親のうしろ姿(=生活や子育てで苦労している姿)を見せつけながら、子どもを従わせるタイプは、同情型ということになる。
どちらにせよ、子どもは、親の意向のまま、操られることになる。そして操られながら、操られているという意識すらもたない。子ども自身が、親の奴隷になりながら、その親に、異常なまでに依存するというケースも多い。
(はやし浩司 代償的過保護 過保護 過干渉)
【補記2】
よく柔和で穏やか、やさしい子どもを、「できのいい子ども」と評価する人がいる。
しかし子どもにかぎらず、その人の人格は、幾多の荒波にもまれてできあがるもの。生まれながらにして、(できのいい子ども)など、存在しない。もしそう見えるなら、その子ども自身が、かなり無理をしていると考えてよい。
外からは見えないが、その(ひずみ)は、何らかの形で、子どもの心の中に蓄積される。そして子どもの心を、ゆがめる。
そういう意味で、子どもの世界、なかんずく幼児の世界では、心の状態(情意)と、顔の表情とが一致している子どものことを、すなおな子どもという。
うれしいときには、うれしそうな顔をする。悲しいときには、悲しそうな顔をする。怒っているときは、怒った顔をする。そしてそれらを自然な形で、行動として、表現する。そういう子どもを、すなおな子どもという。
子どもは、そういう子どもにする。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 代償的過保護 すなおな子ども 素直な子供 子どもの素直さ 子供のすなおさ)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
(参考)●フリをする母親
昔、自分を病人に見たてて、病院を渡り歩く男がいた。そういう男を、イギリスのアッシャーという学者は、「ミュンヒハウゼン症候群」と名づけた。ミュンヒハウゼンというのは、現実にいた男爵の名に由来する。ミュンヒハウゼンは、いつも、パブで、ホラ話ばかりしていたという。
その「ミュンヒハウゼン症候群」の中でも、自分の子どもを虐待しながら、その一方で病院へ連れて行き、献身的に看病する姿を演出する母親がいる。そういう母親を、「代理ミュンヒハウゼン症候群」という(「心理学用語辞典」かんき出版)。
このタイプの母親というか、女性は、多い。こうした女性も含めて、「ミュンフハウゼン症候群」と呼んでよいかどうかは知らないが、私の知っている女性(当時50歳くらい)に、一方で、姑(義母)を虐待しながら、他人の前では、その姑に献身的に仕える、(よい嫁)を、演じていた人がいた。
その女性は、夫にはもちろん、夫の兄弟たちにも、「仏様」と呼ばれていた。しかしたった一人だけ、その姑は、嫁の仮面について相談している人がいた。それがその姑の実の長女(当時50歳くらい)だった。
そのため、その女性は、姑と長女が仲よくしているのを、何よりも、うらんだ。また当然のことながら、その長女を、嫌った。
さらに、実の息子を虐待しながら、その一方で、人前では、献身的な看病をしてみせる女性(当時60歳くらい)もいた。
虐待といっても、言葉の虐待である。「お前なんか、早く死んでしまえ」と言いながら、子どもが病気になると、病院へ連れて行き、その息子の背中を、しおらしく、さすって見せるなど。
「近年、このタイプの虐待がふえている」(同)とのこと。
実際、このタイプの女性と接していると、何がなんだか、訳がわからなくなる。仮面というより、人格そのものが、分裂している。そんな印象すらもつ。
もちろん、子どものほうも、混乱する。子どもの側からみても、よい母親なのか、そうでないのか、わからなくなってしまう。たいていは、母親の、異常なまでの虐待で、子どものほうが萎縮してしまっている。母親に抵抗する気力もなければ、またそうした虐待を、だれか他人に訴える気力もない。あるいは母親の影におびえているため、母親を批判することさえできない。
虐待されても、母親に、すがるしか、ほかに道はない。悲しき、子どもの心である。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 ミュンヒハウゼン症候群 代理ミュンヒハウゼン症候群 子どもの虐待 仮面をかぶる母親)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●帰宅拒否をする子ども
不登校ばかりが問題になり、また目立つが、ほぼそれと同じ割合で、帰宅拒否の子どもがふえている。
S君(年中児)の母親がこんな相談をしてきた。
「幼稚園で帰る時刻になると、うちの子は、どこかへ行ってしまうのです。
それで先生から電話がかかってきて、これからは迎えにきてほしいと。
どうしたらいいでしょうか」と。
そこで先生に会って話を聞くと、「バスで帰ることになっているが、その時刻になると、園舎の裏や炊事室の中など、そのつど、どこかへ隠れてしまうのです。
そこで皆でさがすのですが、おかげでバスの発車時刻が、毎日のように遅れてしまうのです」と。
私はその話を聞いて、「帰宅拒否」と判断した。原因はいろいろあるが、わかりやすく言えば、家庭が、家庭としての機能を果たしていない……。
まずそれを疑ってみる。
子どもには三つの世界がある。「家庭」と「園や学校」。それに「友人との交遊世界」。
幼児のばあいは、この三つ目の世界はまだ小さいが、「園や学校」の比重が大きくなるにつれて、当然、家庭の役割も変わってくる。
また変わらねばならない。
子どもは外の世界で疲れた心や、キズついた心を、家庭の中でいやすようになる。
つまり家庭が、「やすらぎの場」でなければならない。
が、母親にはそれがわからない。S君の母親も、いつもこう言っていた。
「子どもが外の世界で恥をかかないように、私は家庭でのしつけを大切にしています」と。
アメリカの諺に、『ビロードのクッションより、カボチャの頭』(随筆家・ソロー)というのがある。
つまり人というのは、ビロードのクッションの上にいるよりも、カボチャの頭の上に座ったほうが、気が休まるということを言ったものだが、本来、家庭というのは、そのカボチャの頭のようでなくてはいけない。
あなたがピリピリしていて、どうして子どもは気を休めることができるだろうか。そこでこんな簡単なテスト法がある。
あなたの子どもが、園や学校から帰ってきたら、どこでどう気を休めるかを観察してみてほしい。
もしあなたのいる前で、気を休めるようであれば、あなたと子どもは、きわめてよい人間関係にある。
しかし好んで、あなたのいないところで気を休めたり、あなたの姿を見ると、どこかへ逃げていくようであれば、あなたと子どもは、かなり危険な状態にあると判断してよい。
もう少しひどくなると、ここでいう帰宅拒否、さらには家出、ということになるかもしれない。
少し話が脱線したが、小学生にも、また中高校生にも、帰宅拒否はある。帰宅時間が不自然に遅い。
毎日のように寄り道や回り道をしてくる。
あるいは外出や外泊が多いということであれば、この帰宅拒否を疑ってみる。
家が狭くていつも外に遊びに行くというケースもあるが、子どもは無意識のうちにも、いやなことを避けるための行動をする。
帰宅拒否もその一つだが、「家がいやだ」「おもしろくない」という思いが、回りまわって、帰宅拒否につながる。
裏を返して言うと、毎日、園や学校から、子どもが明るい声で、「ただいま!」と帰ってくるだけでも、あなたの家庭はすばらしい家庭ということになる。
(はやし浩司 子供の帰宅拒否 帰宅拒否 家に帰りたがらない子ども 帰宅を拒否する子供)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
【はやし浩司より、Y先生へ】
メール、ありがとうございました。
いろいろな母親がいますね。
まさに典型的な代償的過保護と言うべき母親ですね。
まず「子どもはこうあるべき」という設計図を頭の中で作り、その設計図どおりの
子どもにしようする。
疑うべきは、まず母親の情緒問題です。
自分の情緒的欠陥、つまり穴をふさぐために子どもを利用しているだけ。
何かの精神的な問題をもった女性と考えます。
一見、過保護に見えますが、過保護には愛情があります。
その愛情(=「許して忘れる」)がありません。
先にも書いたように、過保護もどきの過保護。
だから代償的過保護と言います。
発達心理学の用語にもなっています。
それが過度になれば、「虐待」ということになります。
「食事を与えない」「眠らせない」というのは、立派な虐待です。
が、母親には、その自覚がない。
「私は子どものためにそうしている」と確信しています。
だから余計にやっかいですね。
説得しても、その母親には理解できないでしょう。
……私も子どものころ、帰宅拒否児だったと思います。
(いろいろな思い出をつなぎあわせると、そういう「私」が浮かびあがってきます。)
いつも学校帰りには、道草を食って遊んでいました。
夏でも、毎日真っ暗になるまで、近くの寺で遊んで時間をつぶしました。
今、思い出しても、暗くて、つらい毎日でした。
もしKさん(小4)も、同じようであるとするなら、同情します。
恐らく一生、その傷が癒されることはないでしょう。
今の私が、そうです。
63歳になろうというのに、いまだに心の中に暗い影を落としています。
やはりこの問題は、先生が指摘しておられるように、児童相談所が介入
すべき問題ですね。
先にも書いたように、「食事を与えない」「眠らせない」というのは、虐待です。
また無理な勉強を強制するのも、虐待と考えてよいでしょう。
一応、報告だけは、きちんとしておかれることを、お勧めします。
なお小4と言えば、思春期前夜。
この先、Kさんには、いろいろな試練が待ちかまえています。
非行に走らなければよいと心配しています。
(あるいは、引きこもり(マイマス型)、家庭内暴力(プラス型)へと進むことも
多いです。)
父親はどういう人なのか。
またどのように考えているのか。
それがわかったら、どうかまたメールをください。
では、今日は、これで失礼します。
Hiroshi Hayashi+++++++JAN. 2011++++++はやし浩司・林浩司
【児童虐待】
●児童虐待のうち、7割あまりが、核家族世帯で起きている?(Children Abuses)
(70% of Children Abuse cases are occurred so-called “Nuclear Families”, or “Families
eith only parents and children”. But is this true?
++++++++++++++++++
児童虐待のうち、7割あまりが、「核家族」
で起きているという。
また虐待といっても、「ネグレクト」が、
約39%。
身体虐待の31%より多かったという。
このほど、奈良県の「児童虐待等調査対策委員会」
が、そんな調査結果をまとめた。
(産経新聞・08年6月10日)
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
+++++++++++以下、産経新聞より抜粋+++++++++++++++++
児童虐待の防止策などを協議する県の「児童虐待等調査対策委員会」(委員長=加藤曜子・
流通科学大教授)は9日、昨年度に奈良県と市町村が受理した児童虐待事案を対象にした、
初の調査結果を報告した。
全1228件のうち、7割あまりが父母以外の同居者のない「核家族」で起き、親が養育
を怠慢したり拒否する「ネグレクト」も全体の4割弱を占める実態が判明。県は「調査結
果から、児童虐待を早期発見することの困難さが浮き彫りになった」と深刻に受け止めて
いる。
児童虐待に関し、県内では今年度初めて、県と市町村が統一の調査票に基づいて記録する
システムを導入。昨年度は統一調査票がなかったが、同委員会では、深刻化する児童虐待
の実態をより詳しく分析する必要があるとして、昨年度分の事案も統一調査票の設問にの
っとる形で再精査した。
その結果、父母以外の同居者がいるかどうかを問う設問では、899件(73・2%)で
核家族にあたる「なし」と回答。無回答や不明を除く「あり」の回答は221件(18%)
に過ぎなかった。
また、種類別では「ネグレクト」が477件(38・8%)と最も多く、「身体的虐待」の
383件(31・2%)を上回っていた。
+++++++++++++以上、産経新聞より抜粋++++++++++++++++
●この調査結果は、おかしい?
児童虐待を調べたら、73%が、核家族世帯の子どもであったという。
だれしもこの数字だけを見たら、児童虐待のほとんどは、核家族で起きていると思うだろ
う。
中には、「核家族では児童虐待が起きやすい」と思う人もいるかもしれない。
「73%」という数字は、そういう数字である。
しかし、待ったア!
この調査結果を読んで、「?」と思った人はいるだろうか。
が、私は、一読して、「?」と思った。
奈良県の「児童虐待等調査対策委員会」という公的な機関がまとめた調査だから、「まさ
か?」とは思いたいが、おかしいものは、おかしい。
この調査でも、「万引きした子どもを調べたら、50%が、女子だった。(だから女子は万
引きしやすい)」式の、きわめて初歩的なミスを犯している(?)。
よく読んでみてほしい。産経新聞の記事には、こうある。
「(虐待)全1228件のうち、7割(73%)あまりが父母以外の同居者のない「核家族」
で起きた」(だから児童虐待は、核家族世帯で、起きやすい)と。
しかしもし、核家族が、全体の7割だったとしたら、この「7割」という数字には、まっ
たく意味がない。
ちなみに奈良県のばあい、
「核家族世帯の割合は64・01で(全国)3位である。いずれの指標も上位10都道府
県のほとんどを東京・名古屋・大阪及びその周辺の府県が占めており、大都市及び周辺地
域の特性と見られる」(2000年10月・奈良自治体問題研究所)とのこと。
つまり、64%が、核家族である、と。
この64%をもとにすれば、つぎのようなことは、調査しなくても言える。
「私立高校へ通う子どもを調べたら、64%が、核家族世帯の子どもであった」
「ゲームをしている子どもを調べたら、64%が、核家族世帯の子どもであった」
ついでに、もうひとつ。
「黒い靴を履いている子どもを調べたら、64%が、核家族世帯の子どもであった」と。
「64%」と「73%」の(差)こそが、問題ということになるが、その差は、たったの
9%。
誤差の範囲とは言い切れないが、それに近い。
とくに祖父母同居の家庭では、ここでいうネグレクトという虐待は少ないはず。
両親が衣食などの世話をしないばあいには、祖父母がする。
となると、「ネグレクトが39%」という数字を、どう処理したらよいのか?
つまりこの調査によって奈良県は、「核家族世帯では、児童虐待が起きやすく、たとえば祖
父母同居家庭世帯では、児童虐待は置きにくい」ということを裏づけたかったのだろう。
それはわかるが、私は、つぎの一文を読んで、思わず、吹き出してしまった。
(「児童虐待」そのものを笑ったのではない。どうか、誤解のないように!)
「県は『調査結果から、(児童虐待の73%は、核家族世帯で起きているから)、児童虐待
を早期発見することの困難さが浮き彫りになった』と深刻に受け止めている」と。
では、これらの数字を、どう読んだらよいのか?
今一度、数字を整理してみよう。
(1)奈良県の核家族世帯の割合 ……64%
(2)児童虐待の中に占める核家族世帯の割合……73%
(3)児童虐待の中のネグレクトの割合 ……39%
(4)児童虐待の中の身体的虐待の割合 ……31%
(祖父母同居世帯では、ネグレクトの割合は、当然、少ないはず。)
話をわかりやすくするために、具体的に数字を置いて考えてみよう。
今、ここに、虐待を受けている子どもが、100人いたとする。
(1)そのうち、73人は、核家族世帯の子ども。27人は、そうでない、たとえば3世
代~同居世帯の子ども。
(2)100人のうち、39人は、ネグレクトを受けている子ども。31人は、人体的虐
待を受けている子ども。もちろんその両方の虐待を受けている子どももいる。
(3)しかし奈良県のばあい、核家族世帯は、64%。繰りかえすが、もし虐待を受けて
いる100人の子どものうち、64人が、核家族世帯の子どもであったという結果
だったら、この調査は、まったく意味のない調査だったということになる。
ウ~~~~~ン。
これらの数字を並べてみると、「核家族世帯でのほうが、そうでない世帯よりも、児童虐待
が、やや多いかな」という程度のことでしかない。
しかも「3世代~同居世帯では、ネグレクトが起きにくい」ということを考慮に入れるな
ら、ネグレクトは、比較的、核家族世帯で起きやすく、身体的虐待は、比較的、そうでな
い世帯で起きやすいという程度のことでしかない。
つまり児童虐待、とくに身体的虐待と核家族世帯を、無理に結びつけることはできないの
ではないかとさえ思われる。
身体的虐待についていえば、核家族世帯であろうとなかろうと、そういうことに関係なく、
起きる。
で、結論。
「73%」という数字に、だまされてはいけない!
+++++++++++++++++
ついでに、社会福祉法人「子どもの虐待防止センター」
のした調査結果を、ここに掲載する。
+++++++++++++++++
●虐待について
社会福祉法人「子どもの虐待防止センター」の実態調査によると、母親の5人に1人は、
「子育てに協力してもらえる人がいない」と感じ、家事や育児の面で夫に不満を感じてい
る母親は、不満のない母親に比べ、「虐待あり」が、3倍になっていることがわかった(有
効回答500人・2000年)。
また東京都精神医学総合研究所の妹尾栄一氏は、虐待の診断基準を作成し、虐待の度合
を数字で示している。妹尾氏は、「食事を与えない」「ふろに入れたり、下着をかえたりし
ない」などの17項目を作成し、それぞれについて、「まったくない……0点」「ときどき
ある……1点」「しばしばある……2点」の3段階で親の回答を求め、虐待度を調べた。
その結果、「虐待あり」が、有効回答(494人)のうちの9%、「虐待傾向」が、30%、
「虐待なし」が、61%であった。この結果からみると、約40%弱の母親が、虐待もし
くは虐待に近い行為をしているのがわかる。
一方、自分の子どもを「気が合わない」と感じている母親は、7%。そしてその大半が
何らかの形で虐待していることもわかったという(同、総合研究所調査)。「愛情面で自分
の母親とのきずなが弱かった母親ほど、虐待に走る傾向があり、虐待の世代連鎖もうかが
える」とも。
●ふえる虐待
なお厚生省が全国の児童相談所で調べたところ、母親による児童虐待が、1998年ま
での8年間だけでも、約6倍強にふえていることがわかった。(2000年度には、1万7
725件、前年度の1・5倍。この10年間で16倍。)
虐待の内訳は、相談、通告を受けた6932件のうち、身体的暴行が3674件(53%)
でもっとも多く、食事を与えないなどの育児拒否が、2109件(30・4%)、差別的、
攻撃的言動による心理的虐待が650件など。
虐待を与える親は、実父が1910件、実母が3821件で、全体の82・7%。また虐
待を受けたのは小学生がもっとも多く、2537件。3歳から就学前までが、1867件、
3歳未満が1235件で、全体の81・3%となっている。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 児童虐待 核家族 核家族
と児童虐待 ネグレクト)
Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司
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