Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Tuesday, March 11, 2008

*Modernization  *Reading Books

●近代性と幸福の追求
(Modernization and its pursuit of Happiness -2-)

大切なことは、近代性の追求は、必ずしも
幸福にはつながらないということ。
つまり人間生活が近代化するからといって、
我々、人間が、幸福になるというわけではない。

人間生活の近代化と、幸福の追求は別のものである。
そういう前提で、近代性を考える。

近代性に、過剰な期待を寄せるのは、正しく
ない。

幸福感の確立は、もっと別のところにある。
そこで重要なことは、幸福感は幸福感として別のところで
確立しながら、近代性をその中に取り込んでいくということ。

この操作を誤ると、何のための進歩かということになる。
ばあいによっては、私たちが近代的社会と呼ぶところのものは、
かえって退廃する。


●本を読む老人たち
(Old men who enjoy reading books)

今日、あるところへ行った。その一室に、20人ほどの
老人たちがいた。年齢は、70~80歳くらいか。

驚いたことに、その中の2人が、単行本を手にし、
それを読んでいた!

1人は男性で、推定年齢、75歳くらい。
もう1人は女性で、推定年齢、70歳くらい。

男性のほうは、どこかたどたどしい読み方をしていた。
女性のほうは、私たちが本を読むのと変わらない様子で、
読んでいた。

近寄って、どんな本を読んでいるか確かめたかったが、それはできなかった。
ただ男性の読んでいた本は、挿し絵からして、軍記ものだということがわかった。

すばらしい!

2人は、ほかの老人たちとは、明らかに、様子がちがっていた。

ともに頭脳明晰(めいせき)という感じがした。
頭脳が明晰だから本を読むのか、それとも、
本を読んでいるから明晰なのか、それは私にもわからない。
わからないが、その年齢で、本を読んでいる人は珍しい。
すばらしい。
そのすばらしさを、改めて痛感した。

が、ふとこうも思った。

せっかく本を読むのだから、それを消化して、(昇華でもよいが)、モノを書けばよい。
小型のパソコンか何かをもっていれば、さらによい、と。

いろいろな老人を見てきたが、単行本を読む老人は、少ない。
ざっと思い出しても、私の祖父母も、両親も、叔父、叔母たちも、
「読書」とは、まったく無縁の世界に住んでいた。

姉夫婦にしても、本を読んでいるという姿は、見たことがない。
ビデオすら見たことがない。

「それではいけない」とは思うが、だからといって、どうしようもない。
姉夫婦は姉夫婦。つまり人は人。それぞれ。

そこで私は、こう決めた。

これからはどこへ行くにも、小型のパソコンをもって歩こう、と。
今、この文章を書いているのは、ToshibaのダイナブックSS・3010。
買った当時は、25万円ほどした。
小型ノートパソコンのハシリで、買った当初から、故障の連続。
今も、夏の暑い日には、暴走を繰りかえす。
しかしその(人間ぽさ)が、楽しい。
裏面に1998年、購入とある。
もう10年も使っていることになる。
古いパソコンだが、いまだに手放せない。


●読書
(Reading Books)

再び、読書の話。

「読書をまったくしない」という人は、珍しくない。
しかしそういう人は、どこか底が浅い。
それもそのはず。
人は、読書を通してのみ、他人の深い思想に触れることができる。
そのことは、自分で文章を書いてみると、わかる。

文章を書いているときというのは、そのつど、考える。
ときにつぎつぎと、新しい発見をすることもある。
こうした現象は、ふつうの会話では経験できない。
いわんやそのレベルの人と、いくら会話をかわしても、意味はない。
思想が深くなるということは、ありえない。
ばあいによっては、ループ状態にはいる。
10年前、20年前に考えたのと同じことを、口にしたりする。

だから読書をする。
読書をすることによって、ループ状態から、抜け出ることができる。

たとえば私はたった今、「内部目標、外部目標」について書いた本を読んだ。
「大脳というのは、生きがい感としての内部目標を、最上位の目標としてすえ、
それに基づき、外部の状況と時間変化に対応する」とある。
「そこでは、脳の外部世界の状況に対応するため、外部目標を必要とする」と。

「ナルホド」と同意できる部分もあるが、「?」と思う部分もある。

この文章の筆者は、ひとつの例として、たとえばエベレスト登頂をあげている。
「エベレスト登頂」を内部目標とするなら、そのための準備をしなければならない。

体を鍛えたり、費用を捻出したりする。それが外部目標ということになる。

内容はともかくも、つまりこうして私自身も、脳みそを使う。考える。
こうした一連の脳みその活動こそが、重要である。
そうした刺激というのは、人は、読書のみによって得られる。

反対に、読書をしない人は、どうなるか?
言うまでもなく、通俗的になるだけ。
通俗が悪いというわけではないが、通俗性は、多くのばあい、凡人性につながる。
ハイデッガーが定義した、「ただの人(Das Mann)」というのは、そういう人を指す。

つまり「ただの人」になるか、ならないかは、
読書が、重要な役割をなす。
もちろん作文や、それにつづく思索でもよい。
ほかにも方法はあると思うが、読書が、もっとも手っ取り早い。

アメリカでも、「読書(Reading)」を、教育の「柱」にしている。
日本でも、ここ5年ほど、読書の重要性が、再認識されつつある。
とてもよいことだと思う。