Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Monday, March 10, 2008

*Modernization of the Society and its pursuit of Happiness

●近代性と人間の幸福(Modernization of the Society and its pursuit of Happiness)
Modernization of the society does not promise us to be happy, or rather more often modernization of the society brings us to get lost. For one of the examples of the modernization, Tokyo is always understood as a corrupted city in the Hollywood movies, where all kinds of desires have been wound whirlpool, desires such as drugs, sex, and money. Is this the future that we wish to pursuit? The answer should be No.

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社会の近代性が、人間を幸福にしたかというと、
それは、疑わしい。

逆に言うと、それ以前の人間は、みな、
不幸だったのかということになる。

一方、私たちは半世紀前の人間からしても、
夢のような生活をしている。が、それでいて、
より幸福になったという実感は、あまりない。

逆に言うと、この先、半世紀後の人たちが、
より幸福になるという保証は、どこにもない。
へたをすれば、今より、不幸になるかもしれない。
むしろ、その可能性のほうが、高い。

……となると、社会の近代性とは何かということに
なる。
もっとつきつめて言えば、現在の私たちは、
いったい、何を求めて生きているのかという
ことになる。さらに言えば、何のために生きて
いるのかということになる。

ここに社会の近代性がもつ、構造的な欠陥というべきか、
きわめて深刻な問題が、隠されている。

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●近代的な都市国家

 日本が外国に与えている印象は、あまりよくない。ハリウッド映画に出てくる日本を見れば、それがわかる。少し前、「KILL BILL」という映画があった。最近でも、「バベル」という映画があった。これらの映画に共通する点は、日本、とくに東京は、いつも退廃した都市として描かれているということ。

 内心では、「?」と思うのだが、外国の人たちもまた、日本に、そういう日本像を求めている。外国で賞を取るような日本映画は、退廃的なものばかり。どこか薄汚く、どこか貧しい。ビートT氏が監督する映画を、例にあげるまでもない。

 で、そういう映画を通してこの日本をながめると、この私ですら、この日本に住むことに、嫌悪感を覚える。

 東京では、まさに人間の、ありとあらゆる欲望が渦巻いている。モノ、金、セックス、電子製品、食べ物、何でもござれ。映画、「バベル」の中では、麻薬を楽しむ若者たちのほか、パンティを脱いだ女子高校生が、男子高校生たちに、それをのぞかせるというシーンまであった。

 そういうシーンが、何ら違和感なく、……というか、東京というのは、そういう都市であると、当然のように描かれている。それを見る私たちも、「そうではないのだがなア」と思いつつも、画面からあふれ出てくる迫力の前では、無力でしかない。そこにあるのは、確かに東京である。どこかのスタジオやセットではない。で、やがてこの私ですら、「東京って、そういう都市だったんだ」と、自分で自分を納得させてしまう。

 が、そういう東京、つまり東京がもつ近代性は、私たちが求めてきたものかどうかというと、答は、NO! 私たちは、東京を現在の東京にするために、生きてきたのではない。子どもたちを、今の子どもたちにするために、生きてきたのではない。

 どこか、おかしい。狂っている。

 10年前には、援助交際が問題になった。しかし今では、それを問題にする人すら、少ない。ごく当たり前の、日常的な光景にすら、なってしまった。それがわからなければ、夕方のコンビニをのぞいてみることだ。

 どこかあやしげな雰囲気で、女子高校生や女子中学生たちが、携帯電話で話をしている。そのすぐ外には、車を止めた男たちが、ニヤニヤと笑いながら、同じように携帯電話で話をしている。そうやってたがいに連絡を取りあいながら、女の子たちは、やがて車の中へと消えていく……。

 しかしそれを「進歩」と呼ぶ人は、いない。「退廃」と呼ぶ。私たちが求める「幸福」とは、似ても似つかぬものである。

 ……といっても、だからといって、この私が聖人というわけではない。つい昨日も、K市のK高校校長が、交際していた女性(20歳)を脅迫したとかで、逮捕されるという事件が起きた。報道によれば、その女性は、その校長の教え子だったという。その教え子が高校生のときから、つきあい始めたらしい。

 そういう事件が明るみになると、みな、「ここぞ」とばかり、校長を責めたてる。しかしこういう世界で、だれが、そういう校長を、石をもって打てるのか。S県の教育委員会の幹部たちがズラリと並んで、いっせいに頭をさげていたが、だからといって、そういう幹部たちが、聖人かというと、それはない。そういうことは、ぜったいに、ありえない。

 この私だって、相手とチャンスがあれば、若い女性とそういう関係をもちたいと、いつも心の中で願っている。願っているというよりは、いつも空想している。脳みその奥にある、視床下部から発せられる信号には、ものすごいものがある。辺縁系や大脳の前頭前野くらいで、コントロールできるような代物では、ない。

 肉体が健康であればなおさらで、私の年齢で、若い女性に興味がないという人がいたら、糖尿病かうつ病か、そんなような病気を疑ってみたほうがよい(失礼!)。

 ……話がそれたが、だからといって、そうした欲望の追求を、野放しにしておいてよいということではない。欲望の追求は、原始の世界への退行を意味する。つまり私たちが求める近代性とは何かと問われれば、まさにこの一点に集約される。

 つまり、近代性とは、欲望の追求であってはいけないということ。その視点を見失うと、冒頭に書いたように、私たちは、何を求めて生きているのかということになってしまう。さらに言えば、何のために生きているのかということになってしまう。

 ここに書いた携帯電話にしても、それが援助交際の手段として使われたとたん、欲望を追求するための道具になってしまう。DVDにしても、インターネットにしても、そうだ。便利な機器であるならなおさら、心のどこかで一線を引く。引いて、欲望の追求から遠ざける。

 そのちょっとした心理的操作が、日々に積み重なり、月となり、年となって、やがて私やあなたを、より豊かな世界へと導く。それで私たちが、より幸福になるというわけではない。しかし、より幸福な世界に近づくことだけは、できる。もちろん、そうでなければ、そうでない。

 悪人になるのは簡単なことだ。ほんの少しだけ気を緩(ゆる)めれば、それでなれる。

 で、この年齢になってはじめて気がついたことがある。つまりこの時期になって、「絶望感」を味わうことくらい、恐ろしいことはないということ。一時の欲望に身を任せたとたん、私たちは遠い、遠い、回り道をすることになる。時間を無駄にすることになる。

 それについてはたびたび書いてきたので、ここでは省略する。

 ともかくも、社会の近代性イコール、幸福の追求ではないということ。それだけは確かである。