Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Saturday, March 08, 2008

*How should we live in our old age?

●自我の統合性と世代性(我々は、どう生きるべきか?)
(Do we have what we should do? If you have something that you should do, your life after you retire from your job, would be fruitful. If not, you will despair in a miserable age.)

+++++++++++++++++

乳児期の信頼関係の構築を、人生の
入り口とするなら、老年期の自我の
統合性は、その出口ということになる。

人は、この入り口から、人生に入り、
そしてやがて、人生の出口にたどりつく。

出口イコール、「死」ではない。
出口から出て、今度は、自分の(命)を、
つぎの世代に還元しようとする。

こうした一連の心理作用を、エリクソンは、
「世代性」と呼んだ。

+++++++++++++++++

我々は何をなすべきか。
「何をしたいか」ではない。
「何をなすべきか」。

その(なすべきこと)の先に見えてくるのが、エリクソンが説いた、「世代性」である。
我々は、誕生と同時に、「生」を受ける。
が、その「生」には、限界がある。
その限界状況の中で、自分の晩年はどうあるべきかを考える。

その(どうあるべきか)という部分で、我々は、自分たちのもっている経験、知識、哲学、倫理、道徳を、つぎの世代に伝えようとする。
つぎの世代が、よりよい人生を享受できるように努める。

それが世代性ということになる。

その条件として、私は、つぎの5つを考える。

(1) 普遍性(=世界的に通用する。歴史に左右されない。)
(2) 没利己性(=利己主義であってはいけない。)
(3) 無私、無欲性(=私の子孫、私の財産という考え方をしない。)
(4) 高邁(こうまい)性(=真・善・美の追求。)
(5) 還元性(=教育を通して、後世に伝える。)

この世代性の構築に失敗すると、その人の晩年は、あわれでみじめなものになる。エリクソンは、「絶望」という言葉すら使っている(エリクソン「心理社会的発達理論」)。

何がこわいかといって、老年期の絶望ほど、こわいものはない。
言葉はきついが、それこそまさに、「地獄」。「無間地獄」。

つまり自我の統合性に失敗すれば、その先で待っているものは、地獄ということになる。
来る日も、来る日も、ただ死を待つだけの人生ということになる。
健康であるとか、ないとかいうことは、問題ではない。

大切なことは、(やるべきこと)と、(現実にしていること)を一致させること。

が、その統合性は、何度も書くが、一朝一夕に確立できるものではない。
それこそ10年単位の熟成期間、あるいは準備期間が必要である。

「定年で退職しました。明日から、ゴビの砂漠で、ヤナギの木を植えてきます」というわけにはいかない。
またそうした行動には、意味はない。

さらに言えば、功利、打算が入ったとたん、ここでいう統合性は、そのまま霧散する。
私は、条件のひとつとして、「無私、無欲性」をあげたが、無私、無欲をクリアしないかぎり、統合性の確立は不可能と言ってよい。

我々は、何のために生きているのか。
どう生きるべきなのか。
その結論を出すのが、成人後期から晩年期ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 人生の統合性 世代性 統合性の確立)

(追記)

(やるべきこと)の基礎をつくる時期は、「人生の正午」(エリクソン)と言われる40歳前後である。もちろんこの年齢にこだわる必要はない。早ければ早いほど、よい。

その時期から、先にあげた5つの条件を常に念頭に置きながら、行動を開始する。

この問題だけは、そのときになって、あわてて始めても、意味はない。
たとえばボランティア活動があるが、そういう活動をしたこともない人が、いきなりボランティア活動をしたところで、意味はない。身につかない。

……ではどうするか?、ということになるが、しかしこれは「ではどうするか?」という問題ではない。
もしそれがわからなければ、あなたの周囲にいる老人たちを静かに観察してみればよい。

孫の世話に庭いじりをしている老人は、まだよいほうかもしれない。
中には、小銭にこだわり、守銭奴になっている人もいる。
来世に望みを託したり、宗教に走る老人もいる。
利己主義で自分勝手な老人となると、それこそゴマンといる。

しかしそういう方法では、この絶望感から逃れることはできない。
忘れることはできるかもしれないが、それで絶望感が消えるわけではない。

もしゆいいつ、この絶望感から逃れる方法があるとするなら、人間であることをやめることがある。
認知症か何かになって、何も考えない人間になること。
もし、それでもよいというのなら、それでもかまわない。
しかし、だれがそんな人間を、あるべき私たちの老人像と考えるだろうか。

(付記)

統合性を確立するためのひとつの方法として、常に、自分に、「だからどうなの?」と自問してみるという方法がある。

「おいしいものを食べた」……だから、それがどうしたの?、と。
「高級外車を買った」……だから、それがどうしたの?、と。

ところがときどき、「だからどうなの?」と自問してみたとき、ぐぐっと、跳ね返ってくるものを感ずるときがある。
真・善・美のどれかに接したときほど、そうかもしれない。

それがあなたが探し求めている、「使命」ということになる。

なおこの使命というのは、みな、ちがう。
人それぞれ。
その人が置かれた境遇、境涯によって、みな、ちがう。

大切なことは、自分なりの使命を見出し、それに向かって進むということ。
50歳を過ぎると、その熱意は急速に冷えてくる。
持病も出てくるし、頭の活動も鈍くなる。

60歳をすぎれば、さらにそうである。

我々に残された時間は、あまりにも少ない。
私の実感としては、40歳から始めても、遅すぎるのではないかと思う。
早ければ早いほど、よい。


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

●老人力(Young Old Man)

+++++++++++++++++++++

母の介護をするようになって学んだものは多い。
それはそれ。
しかしその半面、私は老人になることに、恐怖感を
抱くようになってしまった。

それがわからなければ、半日でもよいから、
あのケア・センターに身を置いて、あそこにいる
老人たちを観察してみることだ。

みな、それぞれ、それなりの過去をもった人たちである。

中には、東京のあのK大学を卒業したあと、
ヨーロッパのある大学に留学した経験のある人まで
いる。

そういう老人たちが、人間であることをやめてしまって
いる。

あの世界では、「私だけはだいじょうぶ」と思って
いる人ほど、あぶない。……そうだ。
今の私もそうかもしれないが、健康であっても、
(あるいは健康で長生きをすればするほど)、
みな、例外なく、ああなる。

しかしものごとは、暗いほうばかりを見て
いてはいけない。考えてはいけない。

「老人力」(瀬川原平)という言葉もある。
老人になること、結構。
バカになって、アホになること、これまた結構、と。

老人になることを恐れるのではなく、
老人であることを前向きに受け入れていく。

それが老人力。

我々は、ヤング・オールド・マンなのだア!

しかし、一方でこの恐怖感と、どう戦えばよいのか。
ワイフに相談すると、ワイフはこう言った。

「まだ30年も先の話でしょ。そんなこと、今から
心配しても、しかたないでしょ」と。

どうして私のワイフは、いつも、ああまで
楽天的なのか?
楽天的でいられるのか?

うらやましい!

+++++++++++++++++

(参考)

2015年には、老人性痴呆症、つまりボケ老人と言われる人は、
200万人に達するだろうと言われている。
(現在は、160万人と言われている。ウィキペディア百科事典)

老人性痴呆症は、血栓性の痴呆症と、アルツハイマー型痴呆症に
大別される。

血栓性の痴呆症というのは、脳の血管が詰まって起こる痴呆症をいう。
脳欠陥障害型痴呆症とも言われる。脳梗塞や脳内出血が原因となると
言われているが、脳梗塞による多発性痴呆が、そのほとんどをしめる。

症状としては、
(1) がんこになる。
(2) 自己中心的になる。
(3) 抑うつ感が強くなる。
(4) 睡眠障害が起こる。(以上、初期症状)
(5) 健忘障害
(6) 道に迷う
(7) 高度の知的障害が起こるようになる。(以上、「心理学用語」かんき出版)

さらにウィキペディア百科事典のほうでは、「軽度認知障害の症状」として、つぎのものをあげる。

「加齢関連認知低下とは、6か月以上にわたる緩徐な認知機能の低下が、本人や家族などから報告され、客観的にも認知評価に異常を認めるが、認知症には至っていない状態である。

認知機能低下は、

(1) 記憶・学習
(2) 注意・集中
(3) 思考(例えば、問題解決能力)
(4) 言語(例えば、理解、単語検索)
(5) 視空間認知、のいずれかの面に該当する」と。

+++++++++++++++

こうした初期症状が、自分自身に現れたとき、それを自分で認識できるかどうか。
理屈で考えれば、「できない」ということになる。
脳のCPU(中央演算装置)が、おかしくなるわけだから、自分がおかしいということすら判断できなくなる。

よい例がADHD児である。

小学3年生前後以下の子どもに、「あなたが騒ぐと、みなが迷惑するんだよ」と説明しても意味はない。
「騒いでいる」という認識すらない。
「迷惑をかけている」という認識は、さらにない。

が、小学3年生以後、このタイプの子どもは、急速に落ち着きを取り戻してくる。
自己認識力が育ち、自分自身を客観的に見ることができるようになるからである。

「自分が騒げば、みなが迷惑する」ということが、自分でもわかるようになる。
とたん、自分で自分をコントロールするようになる。

では、老人性痴呆症のばあいは、どうか。

私の周辺にも、「?」と思われる人は、何人かいる。
このところ急速にがんこになり、自己中心的になってきた。
自分でもうつ病を自認し、薬も服用している。

しかしそういう人でも、「おかしい?」と思うのは、周囲の人たちであって、本人ではない。
むしろ本人は、「私は、ふつう」と思いこんでいる。
何かのことで、それを指摘すると、逆に、「あなたのほうがおかしい」とやり返される。

こと老人性痴呆症に関しては、「病識」をもつことはないようだ。

では、どうしたらよいのか。
どうすれば、自分の姿を自分で、客観的にとらえることができるようになるのか。

前にも書いたが、私のばあいは、自分の書いた文章を比較することで、ある程度、その変化を客観的に知ることができる。

5年前に書いた文章、10年前に書いた文章を読み返してみる。
そのとき、「最近書いた文章は、つまらない」と思うようであれば、痴呆症が進んでいるということになる。
反対に、「以前は、鋭い文章を書いていたな」と思うようであっても、痴呆症が進んでいるということになる。

……ということで、実は、私は最近書いている文章が、以前の文章より、かったるくなっているのを感ずる。
体裁を変えたこともある。

以前は、学校で教える作文形式の体裁で、文章を書いていた。
今は、インターネット上で読みやすくするため、このように文章を、一文ずつ、一行で表現するようにしている。

それもあるが、このところつっこみが甘くなったように感ずる。
言うなれば、駄文につづく駄文。

たしかに私の脳みそも老化しているようだ。
ゾーッ!


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2511)

●エリクソンの心理社会的発達

+++++++++++++++++

渋谷昌三氏が書いた「心理学用語」の中に、
興味ある表が載っていた。

そのまま転載させてもらう(P175)。
(「心理学用語」・渋谷昌三・かんき出版)

*********************
エリクソンの心理社会的発達
*********************

段階        心理社会的危機

―――――――――――――――――――――

乳児期        信頼 対 不信
乳児前期      自律性 対 恥、疑い
乳児後期      自主性 対 罪悪感
児童期       勤勉性 対 劣等感
青年期     自我同一性 対 同一性拡散
成人前期      親密性 対 孤独
成人後期      世代性 対 停滞
老年期     自我の統合 対 絶望

*********************

 この中でとくにわかりやすいのは、(あくまでも現在の私の立場での話だが……)、老年期である。

 エリクソンは、老年期は、「自我の統合」を構築すべき時期だとする。いろいろに解釈できるが、要するに、老齢期を前向きにとらえて、その中で、(自分のすべきこと)と、(現実にしていること)を統合させていく。

 それが「自我の統合」、もしくは、「自我の統合性」ということになる。

 が、その構築に失敗すると、その先で待っているのは、「絶望」ということになる。

 そこでもう少し、過去にさかのぼってみる。エリクソンは、成人前期には、「親密性」の構築をしなければならないと説く。わかりやすい例では、恋愛、さらにそれにつづく結婚がある。その親密性の構築に失敗すれば、「孤独」になる。もちろん親密性の追求は、何も、恋愛や結婚だけにかぎらない。友との友情でもよい。近親者とのつながりでもよい。

 さらに進んで、成人後期には、「世代性」の構築をしなければならないと説く。

 世代性というのは、「私」というワクを超えて、私がもつ価値観、経験、知識を、つぎの世代に伝えようとすることをいう。

 たとえば私にしても、ある時期から、「私の子ども」「他人の子ども」という垣根が消えたように思う。年齢的には、45歳前後ではなかったか。それまでの私は、「私の子どもは、私の子ども」「他人の子どもは、他人の子ども」というような考え方をしていた。

 が、この世代性の構築に失敗すると、悶々たる日々を過ごすことになる。それをエリクソンが「停滞」と言ったかどうかは知らないが、「明日も今日と同じ」「来年も今年と同じ」という日々がつづくことになる。

 そして老年期。

 これについては冒頭に書いたとおりだが、この時期、「絶望」は、まさに「地獄」。私の祖父はいつも口ぐせのように、こう言っていた。「地獄も極楽も、この世にある」と。絶望は、この世の地獄ということになる。

 その先に、ほんのわずかでも希望があれば、人間は生きていくことができる。しかしその希望をなくしたら……。

 生きているといっても、生かされているだけ。死ぬこともできず、さりとて、殺してくれる人もいない。死の待合室で、死に神が来るのを、ただじっと待っているだけ……。

 では、どうすればよいのか?

 実は心理学では、「どうすればよいのか」という部分については、教えない。エリクソンにしても、「自我の統合性こそ重要」と説くが、ではどうすれば、私たちは、絶望から逃れることができるのかというところまでは、説かない。

 ここから先は、哲学、宗教の関する世界ということになる。わかりやすく言えば、私たち1人ひとりの(生きざま)の問題ということになる。というのも、大半の人は、そこまで考えない。

 考えても、孫の世話と庭いじり。それが老後のあるべき姿と考える。もちろんそれを否定しているのではない。しかしそれはあくまでも一部であって、すべてではない。またそれができる人は、今の世の中では、幸福なほうの人かもしれない。

 孫といっても、親子がそのものが断絶しているケースも少なくない。庭といっても、庭すらない家庭も多い。

 さらに一歩進んで、「大人旅」(=数か月から数年をかけてする大旅行をいう)とか、「楽農生活」(=趣味で農業を営みながら、自然を楽しみながら生きることをいう)とかいう言葉も、ある。

 もちろん宗教に走る人もいる。布教活動に専念する人もいる。が、それでも「絶望」から救われない人も多い。 

 「自我の統合性」の問題は、それほどまでに大きな問題であるということ。何度も繰りかえすが、一朝一夕にできるものではない。

 エリクソンの「心理社会的発達」の表を見ながら、改めて、そんなことを考えた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist エリクソン 心理社会的発達 統合性 自我の統合性 自我の統合 自己同一性)