Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Tuesday, March 11, 2008

*To Live, To become old, to become sick and to die

【生・老・病・死】

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生きていくのもたいへん。
老いていくのも、これまたたいへん。
病気はこわい。
死ぬのは、さらにこわい。

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●損をすることの美徳

損をすることの美徳。
最近、そのすばらしさが、よくわかるようになった。
私のばあい、とくに、金銭面においては、損ばかりしてきた。
今も、している。

投資で失敗したとか、そういうことではない。

一方、金銭面で得をしたという話は、ない。
ただ一度だけ、ワイフの実父がなくなったとき、
現金で、10万円の遺産が入ったことがある。

あとにも先にも、そういう形で、「得?」をしたのは、それだけ。
しかし私たちは、その10万円で、庭石を買った。
義父の思い出ということで、そうした。

こうなってくると、わずかな損得など、どうでもよくなってしまう。
寛大になったというわけではない。
どうでもよくなってしまう。

そのかわり、(時間)というか(命)の大切さが、よくわかるようになった。
どうせ死ねば、この世もろとも、すべてのものが、私の目の前から消える。
そうそう、子どものころ、こんなことがあった。
何歳のときだったかは、覚えていないが、たぶん、私が小学5、6年生の
ころのことではなかったか。

私は夢の中で、自分がほしかったものを手に入れた。
それが何だったのかは忘れたが、ほしかったものを手に入れた。
が、そのとき同時に、どういうわけか、それが夢だと、わかった。
「これは夢だ」「それはわかっているが、しかしこれがほしい」と。
そこで私は、その(もの)を、しっかりと手で握った。
夢の中で、握った。目をさましてからも、手放さないために、である。

が、目がさめてみると、その(もの)は消えていた。(当然である!)
自分の手を見たが、その(もの)はなかった。

この世界のものも、すべて、それと同じと考えてよい。
「あの世がある」と信じている人もいるかもしれないが、だったら、
なおさら、そうである。

そこにある(モノ)にしても、光と分子が織りなす幻覚でしかない。
大切なのは、それを私が、今、見ているという(時間)。
そしてその(実感)。

その(時間)は、刻一刻とすぎていく。
その大切さに、病気になってから気づいても、遅い。
老いてから気づいても、遅い。

もしあなたが今、若くて健康なら、今から、それに気づく。
そして今というこの(時点)から、命のかぎり、自分を燃やす。
燃やして燃やしつくす。

が、それでも、(真実)に近づくことはむずかしい。
不可能かもしれない。
しかしその前向きな姿勢こそ、大切。
そこに生きる意味がある。価値がある。

で、「老」がやってきたら、どうするか?
私もその入り口に立ったわけだが、もしそのとき健康であるなら、
老など、気にしなくてもよい。
年齢というのは、ただの(数字)にすぎない。

(病気)については、どうか?
それが一時的なものであれば、治せばよい。
心の病気も、同じ。

ただ病気というのは、あくまでも(過去)の結果としてやってくるもの。
もし今、あなたが健康なら、「健康とは作るものではなく、守るもの」と
考えて、運動を大切にしたらよい。
運動をする習慣を大切にしたらよい。

怠惰な生活を繰りかえしていて、どうして健康を維持できるというのか。
10年後、20年後をいつも念頭に置きながら、運動を大切にする。
もちろんタバコは吸わない。酒は飲まない。

言いかえると、たいした運動もせず、喫煙、飲酒を繰りかえしているなら、
病気になっても、あわてないこと。それこそ身勝手というもの。

あとは、その日がくるまで、毎日、感謝して生きる。
「死」がやってきたら、そのときは、そのとき。じたばたしない。

法句経の中にもこんな一節がある。

ある日釈迦のところへ一人の男がやってきて、こうたずねる。
「釈迦よ、私はもうすぐ死ぬ。死ぬのがこわい。
どうすればこの死の恐怖から逃れることができるか」と。

それに答えて釈迦は、こう言う。

「明日のないことを嘆くな。今日まで生きてきたことを喜べ、感謝せよ」と。
私も一度、脳腫瘍を疑われて、死を覚悟したことがある。
そのとき私は、この釈迦の言葉で救われた。

それからすでに30年になるが、それからの30年間は、まさに(もらいもの)。
その(もらいもの)と比べたら、金銭的な(損)など、何でもない。
むしろ損をすることによって、(執着)から、自分を解放させることができる。

その解放感がたまらない。

冒頭で、「損をすることの美徳」と書いたのはそういう意味だが、
損をすることを恐れないこと。
あえて自分から損をする必要はないが、すべきことはする。
その結果として、損をするなら、損をすることを恐れないこと。

むしろ反対に、時間を無駄にしている人を見るたびに、私は、こう思う。
「ああ、もったいないことをしている!」と。
その人が若くて、健康なら、なおさらである。

それぞれの人は、(やるべきこと)をもっている。
それは人によって、みなちがう。
心理学の世界では、真・善・美の追求が、それであると教える。
が、それにこだわる必要はない。私も、こだわっていない。

ついでに「希望論」について。

人は何もなくても、希望さえあれば生きていくことができる。
しかしその「希望」とは何か。旧約聖書の中に、こんな説話が残っている。

ノアが、「どうして人間のような(不完全な)生き物をつくったのか。
(洪水で滅ぼすくらいなら、最初から、完全な生き物にすればよかったはずだ)」と、
神に聞いたときのこと。

神はこう答えている。「希望を与えるため」と。

もし人間がすべて天使のようになってしまったら、人間はよりよい人間になるという
希望をなくしてしまう。
つまり人間は悪いこともするが、努力によってよい人間にもなれる。
神のような人間になることもできる。

旧約聖書の中の神は、「それが希望だ」と。

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