*Albert Einstein
●Albert Einsteinの言葉
Here are some words, written or spoken by Albert Einstein, which teaches us a lot.
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Einstein(アインシュタイン)の
言葉を集めてみた。
どれもよく知られた言葉である。
(出典:YOU TUBE)
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●A perfection of means and confusion of aims, seems to be our main problem.
方法の完ぺきさと、目的の混乱、この2つが、私たちの主な問題に見える。(手段の完ぺきさを求め、一方で、目的が混乱する。この2つが主な問題である。)(目的がわからないまま、方法論ばかり説いているから、問題なのだ。)
●A person who never made a mistake never tried anything new.
まちがいを犯したことのない者は、新しいことに挑戦したことのない者だ。(挑戦する者は、まちがいを犯すことを恐れるな。)
●Everything should be made as simple as possible, but not simpler.
すべてのものは、できるだけシンプルに作られるべきだ。しかしよりシンプルであってはいけない。(ものは、シンプルでなくてはいけないが、手抜きであってはいけない。)
●I have no special talent. I am only passionately curious.
私には特別の才能はない。ただ私は、情熱的に好奇心が旺盛なだけだ。(みなは、私のことを天才と言うが、私は、ただ好奇心が旺盛なだけだ。)
●Imagination is more important than knowledge.
空想は、知識より重要である。(知識だけにしばられていると、新しい発見はできない。)
●Insanity: doing the same thing over and over again and expecting different results.
異常な人……それはちがった結果を期待しながら、同じことを何度も何度も繰りかえす人だ。(何かあるだろうと、同じことを繰りかえしても、意味がない。)
●It’s not that I’m so smart, it’s just that I stay with problems longer.
それは私が頭がよいからではなく、ただ私は問題と、人より、より長く取り組むからにほかならない。(みなは、私のことを天才と言うが、私はただ、みなより、より長く、ひとつの問題に取り組んでいるだけだ。)
●Keep on sowing your seed, for you never know which will grow-perhaps it all will.
種を蒔きつづけよ。なぜならあなたはどれが育つかわからないからだ。しかし実際には、すべて育つだろう。(種は、どんどんと蒔いていけ。どれが育つかはわからないが、実際には、みな、育つ。)
●Love is a better teacher than duty.
愛は、義務より、よい教師である。(教育者は、義務を子どもに押しつけるのではなく、愛をもってせよ。)(「~~しなさい」式の教育よりも、愛情をもって子どもに接することのほうが、重要である。)
●No problem can be solved from the same level of consciousness that created it.
どんな問題も、それが創られたのと同じレベルの意識では、解くことはできない。(問題を解こうとするなら、それが創られたレベルを越えなければならない。)
●Once we accept our limits, we go beyond them.
限界を認めれば、私たちはその向こうへ行く。(限界を認めることが、先へ進む方法である。)
●Only two things are infinite, the universe and human stupidity, and I am not sure about the former.
無限のものは、2つだけ。宇宙と人間の愚かさ。私は前者については、確かではない。(無限につづくものに、2つある。宇宙と人間の愚かさだ。人間の愚かさは、無限につづくが、宇宙については、私はよくわからない。)
●The important thing is not to stop questioning.
重要なことは、問うことをやめないこと。(重要なことは、問いつづけること。)
●There are two ways to live: you can live as if nothing is a miracle; you can live as if everything is a miracle.
2つの生き方がある。奇跡などまったくないかのように生きること。もうひとつは、すべてのものが奇跡であるかのように生きること。(奇跡など、どこにもないと思って生きる生き方がある。すべてのものが奇跡であると思って生きる生き方もある。)
●Try not to become a man of success, but rather try to be a man of value.
成功者になろうとするな。価値のある人になろうとせよ。(成功することを考えるな。価値のある人間になることを考えろ。)
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先にも書いたが、どれも、よく知られた言葉である。
私のHPでも、何度か、とりあげたことがある。
●A perfection of means and confusion of aims, seems to be our main problem.
方法の完ぺきさと、目的の混乱、この2つが、私たちの主な問題に見える。(手段の完ぺきさを求め、一方で、目的が混乱する。この2つが主な問題である。)(目的がわからないまま、方法論ばかり説いているから、問題なのだ。)
科学者がよく陥るジレンマ。
それがこれである。
「何を研究しているかわからないまま、方法論ばかりを議論する」。
こんなことがあった。
文科省に、理科予算を決定する部課がある。
毎年、数百億円の研究助成金は、そこから配分される。
研究機関などからの申告をもとに、どの分野のどの研究者に、どれだけの予算をつけるかを、決定する。
が、実際に決定するのは、文科省から委託を受けた、評議員たちである。
評議員たちが、研究目的や意義などを検討して、助成金の金額を決める。
が、実際には、おおざっぱに言えば、東大が、全体の2分の1。
残りの2分の1を、京大(=全体の4分の1)。
残りの4分の1を、全国の大学で、分けあっている。
その評議員の1人が、こんな話をしてくれた。
「中には、こんな研究をして何になるのかと、首をかしげるようなものも、ありますよ」と。
その評議員は、一例として、『南中国における民族打楽器の研究』(改変)というのをあげた。
つまり「それがわかったところで、それがどうなの?」と。
アインシュタインがそういうことを考えながら、この言葉を書いたのかどうかは知らない。
しかし、「研究」にも、いろいろある。
人類全体に役立つ研究もあれば、そうでない研究もある。
一般論として、最近の研究者たちは、細部の、そのまた細部をほじくり返すことによって、その道の専門家になろうとする。
ほかにライバルがいない状態をつくりながら、専門家としての地位を守ろうとする。
しかしこれでは、(目的)を見失う。
つまりそういう研究には、意味がない。
まず遠大な目的をもつ。
その目的に向かって進む。
方法論などというものは、あとからついてくる。
それが真の研究ということになる。
アインシュタインは、たぶん、それが言いたかったのではないかと思う。
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●A person who never made a mistake never tried anything new.
まちがいを犯したことのない者は、新しいことに挑戦したことのない者だ。(挑戦する者は、まちがいを犯すことを恐れるな。)
小さな世界に閉じこもって、無難な人生を送ることほど、楽なことはない。
何かをしているようで、結局は、何もしていない。
そんな人生である。
先日も、こんなことを言う人に出会った。
私にこう言った。
「林君、老後になったらね、生活をコンパクトにすることだよ」と。
しかし、どうして?
どうしてコンパクトにしなければならないのか?
その人が言うには、蓄(たくわ)えと、年金だけで生活できる態勢をつくり、こぢんまりとした生活を旨(むね)とすべき、と。
そのときがくれば、そのとき。
しかしそれまでは、年齢など忘れて生きていきたい。
アインシュタインのこの言葉を読んだとき、私は、そう考えた。
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●Everything should be made as simple as possible, but not simpler.
すべてのものは、できるだけシンプルに作られるべきだ。しかしよりシンプルであってはいけない。(ものは、シンプルでなくてはいけないが、手抜きであってはいけない。)
「シンプル」という言葉を使って、アインシュタインが何を言おうとしたのか、私にはよくわからない。
ふつう「simple(シンプル)」というときは、「単純、明快、簡素な」という意味である。
アインシュタインは、「made(作られる)」という言葉を使ったが、(モノ)にこだわる必要はない。
たとえば、あの有名な(E=mc2)という公式にしても、シンプルすぎるほど、シンプル。
この公式、つまり4元運動量の公式が、世界の物理学を変えてしまった!
アインシュタインがいう、「シンプル」というのは、そういう意味か?
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●I have no special talent. I am only passionately curious.
私には特別の才能はない。ただ私は、情熱的に好奇心が旺盛なだけだ。(みなは、私のことを天才と言うが、私は、ただ好奇心が旺盛なだけだ。)
アインシュタインについて、ウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。
「非常に面倒くさがりであったとされる。洗濯用石鹸で顔を洗い、雑巾で顔を拭い、灰皿に食事を盛りつけるという行動もあったといわれている。
最初の妻だったミレーバとの間に息子が二人。長男のハンスは、カリフォルニア大学バークレー校で流体力学関係の教授を勤めた。二男のエドゥアルトは、医学生時代に統合失調症を発し、生涯回復せず、精神病院で亡くなった。後年公開された資料では、ミレーバとの破局は、アインシュタインの家庭内暴力が一因であり、病気を患った息子に対しても、非常に冷淡な態度を取り続けたことが公表されている。
ミレーバへの離婚の条件はノーベル賞を取って賞金をあげるというもので、2年後に本当に受賞し賞金をあげたとされている」と。
こうした人物像を読むかぎり、アインシュタインが、特別の人であったという雰囲気はない。
アインシュタイン自身も、自分は、ごくふつうの人間と考えていたようである。
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●Imagination is more important than knowledge.
空想は、知識より重要である。(知識だけにしばられていると、新しい発見はできない。)
自分のもっている知識だけを、絶対と思ってはいけない。
ときとして、自分の知識は、自分自身をしばってしまう。
自分をして、そのワクの中でしか、考えられなくしてしまう。
だから何らかの方法で、その(ワク)から、飛び出してみる必要がある。
アインシュタインは、そのひとつとして、(空想)をあげた。
別のところで、アインシュタインは、「常識ほどアテにならないものはない」というような
ことを言っている。
つねに私たちがもつ常識を疑ってみる。
とくに私たち日本人は、「型」にこだわりやすい。
「形」でもよい。
その代表的な例が、冠婚葬祭ということになるが、これについては、たびたび書いて
きたので、ここでは省略する。
つまり私たちがもっている常識ほど、私たちの進歩の障害となるものはない。
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●Insanity: doing the same thing over and over again and expecting different results.
異常な人……それはちがった結果を期待しながら、同じことを何度も何度も繰りかえす人だ。(何かあるだろうと、同じことを繰りかえしても、意味がない。)
これを読んで、「今の私がそうかもしれない」と思った。
毎日、私は、「この先にきっと何かがあるだろう」と思って、同じことを繰りかえしている。
しかしその日が終わると、いつもこう思う。
「今日も、何もなかった……」と。
あとは、この繰りかえし。
私は、「異常な人(Insanity)」なのかもしれない?
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●It’s not that I’m so smart, it’s just that I stay with problems longer.
それは私が頭がよいからではなく、ただ私は問題と、人より、より長く取り組むからにほかならない。(みなは、私のことを天才と言うが、私はただ、みなより、より長く、ひとつの問題に取り組んでいるだけだ。)
日本でも、『継続は力なり』という。
継続するところに、意味がある。
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●Keep on sowing your seed, for you never know which will grow-perhaps it all will.
種を蒔きつづけよ。なぜならあなたはどれが育つかわからないからだ。しかし実際には、すべて育つだろう。(種は、どんどんと蒔いていけ。どれが育つかはわからないが、実際には、みな、育つ。)
「種を蒔く」ということと関係があるのかないのかは知らないが、無私、無欲で、他人のために何かをしてやることの尊さを、このところ、よく実感する。
あのマザーテレサもこう書いている。
I have found the paradox that if I love until it hurts, then there is no hurt, but only more love.(私はこんなパラドックスを発見した。それが心を痛めるまで(人を)愛すると、痛みは消え、さらなる愛を感ずる)」と。
「痛めつけられても、痛めつけられても、人を愛しつづけていると、その痛みは消え、さらなる愛を手にすることができる」と。
アインシュタインの言葉と、少し本旨がズレているように思うが、「種を蒔く」ことの重要さを疑う人は、いない。
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●Love is a better teacher than duty.
愛は、義務より、よい教師である。(教育者は、義務を子どもに押しつけるのではなく、愛をもってせよ。)(「~~しなさい」式の教育よりも、愛情をもって子どもに接することのほうが、重要である。)
アインシュタインという人は、子ども時代、かなり(ひどい?)教育を受けたのではないかと思う。
ほかにも、それを思わせるような言葉を、いくつか残している。
それはともかくも、アインシュタインは、心のどこかで、いつも既存の教育に反発していたのかもしれない。
一説によれば、アインシュタインは、アスペルガー、もしくは学習障害児であったかもしれないという(ウィキペディア百科事典)。
当時は、そうした子どもに対する理解も知識もない時代だったから、その分だけ、アインシュタインは、つらい子ども時代を送ったのかもしれない。
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●No problem can be solved from the same level of consciousness that created it.
どんな問題も、それが創られたのと同じレベルの意識では、解くことはできない。(問題を解こうとするなら、それが創られたレベルを越えなければならない。)
私は、よく、「利口な人からは、バカな人がよくわかる。しかしバカな人からは、利口な人がわからない」と書く。
あるいは、「賢い人からは、愚かな人がよくわかる。しかし愚かな人からは、賢い人がわからない」でもよい。
だからといって、私が利口だとか、賢いと言っているのではない。
利口とバカ、賢さと愚かさは、あくまでも相対的なものにすぎない。
そのため、つねに私たちは、より利口になり、より賢くならねばならない。
立ち止まるのも、よくない。
立ち止まったとたん、その人は、後退する。
後退するのみならず、相手のレベルにまで、落ちてしまう。
きっとあるとき、アインシュタインも、ある人から、何かの問題を提起されたのだろう。
そのときアインシュタインも、こんなふうに考えたにちがいない。
「その問題を解くためには、その人の意識のレベルを超えなければならない」と。
つまりその人と、同じレベルでは、その人がその問題を解けないように、私も、解けない、と。
ところで最近、私の身近でも、こんな事件が起きた。
ある女性(70歳くらい)が、私に、長々と説教をした。
「年上」というだけで、偉そうな顔をする人は、この日本には、ゴマンといる。
低俗な論理に、低俗な人生観。
まさに低俗のかたまりのような内容だった。
もっと言えば、演歌の歌詞を集めたような説教だった。
そこで私は、こう言った。
「私は、あなたが思っているほど、バカではないと思いますが……」と。
するとその女性は、突然、声を荒げてこう叫んだ。
「私だって、バカではない!」と。
本物のバカというのは、そういう人のことを言う。(失礼!)
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●Once we accept our limits, we go beyond them.
限界を認めれば、私たちはその向こうへ行く。(限界を認めることが、先へ進む方法である。)
限界を認めることの恐ろしさ……。
それを私も、このところ毎日のように実感している。
敗北感などという生やさしいものではない。
限界を認めるということは、多くのばあい、自己否定につながる。
「今までの私は何だったのか?」と思うことほど、恐ろしいものは、ない。
そこで人は、2つのうち、どちらかを選択するように迫られる。
そのまま最後の最後まで、「私は私」と、つき進むか。
それとも限界を認めて、とことん自己否定を繰りかえして、その向こうに出るか。
前者は、むしろ楽な道ということになる。
それまでの自分を、そのまま踏襲すればよい。
しかし後者は、並大抵の人間では、できない。
ほとんどの人は、その前で、震えあがってしまう。
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●Only two things are infinite, the universe and human stupidity, and I am not sure about the former.
無限のものは、2つだけ。宇宙と人間の愚かさ。私は前者については、確かではない。(無限につづくものに、2つある。宇宙と人間の愚かさだ。人間の愚かさは、無限につづくが、宇宙については、私はよくわからない。)
大きなニュースサイトでも、このところBLOGへの書き込みが自由にできるようになっている。
昨日も、Y・ニュースの下の方に、こんな書き込みがあった。
米朝会談についての書き込みだが、いくつかを拾ってみる(要約)。
「どうしてアメ公が、極東アジアで、のさばっているのか。アジアの問題に、アメ公が、口を出すな」
「K国など、日本の航空戦力だけで、こなごなに粉砕できる。さっさとやってしまえ」
「ただちに海上封鎖して、K国を兵粮攻めにしろ」と。
ほかにもいくつかあった。
が、このレベル!
愚かさと闘うための、ゆいいつの方法は、(思考する)こと。
しかし思考することには、いつもある種の苦痛がともなう。
難解な数学の問題を前にしたときのような苦痛である。
しかしその苦痛を乗り越えないかぎり、自分の愚かさと闘うことはできない。
言いかえると、愚かな人というのは、いつも安易な道を選んで歩いている人ということになる。
で、アインシュタインの言葉。
この先、永遠に、愚かな人は、なくならないだろう。
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●The important thing is not to stop questioning.
重要なことは、問うことをやめないこと。(重要なことは、問いつづけること。)
アインシュタインの言葉の中でも、とくによく知られた言葉である。
「問いつづけること」と。
生きるための究極の目標は、真・善・美の追求に、集約される。
もちろんほかにもあるだろうが、わかりやすく言えば、この3つ。
真実の追求、絶対的善の追求、そして究極の美の追求ということになる。
学者や研究者は、真を追求し、哲学者や宗教家は、善と追求し、芸術家は、美を追求する。
が、生涯において、どの分野においてもそれができない、あるいはそれができなかったというのであれば、私やあなたは、「ただの人(das Mann)」(ハイデッガー)、あるいは「ただの人だった」ということになる。
ハイデッガーは、軽蔑の念をこめて、「ただの人」という言葉を使った。
では、どうするか?
「ただの人」にならないためには、どうするか?
答は、アインシュタインが教えてくれた。
つまり「問いつづけること」と。
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●There are two ways to live: you can live as if nothing is a miracle; you can live as if everything is a miracle.
2つの生き方がある。奇跡などまったくないかのように生きること。もうひとつは、すべてのものが奇跡であるかのように生きること。(奇跡など、どこにもないと思って生きる生き方がある。すべてのものが奇跡であると思って生きる生き方もある。)
ものが見える。
音が聞こえる。
歩ける。
話せる。
仕事ができる。
そこに妻がいて、家族がいる。
健康だ。
食事がおいしい……。
すべてが奇跡である。
アインシュタインは2つの生き方を対比させながら、当然、「すべてのものが奇跡である」という生き方を選択している。
私も、まったく、同感である。
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●Try not to become a man of success, but rather try to be a man of value.
成功者になろうとするな。価値のある人になろうとせよ。(成功することを考えるな。価値のある人間になることを考えろ。)
日本では、子どもに向かって、「偉い人になれ」と教える親は、今でも、少なくない。
日本では、地位や肩書きのある人、さらには金持ちの人を、「偉い人」という。
そうでない人は、「偉い人」とは、あまり言わない。
こういうとき英語国では、「respected man(尊敬される人)」という言葉を使う。
「尊敬される人」という意味である。
親たちは、子どもにこう言う。
「尊敬される人になりなさい」と。
「尊敬される人」というときには、地位や肩書きは関係ない。
金持ちであるかどうかも、関係ない。
ということで、「偉い人」というのと、「尊敬される人」というのでは、その間には、天地ほどの開きがある。
アインシュタインのこの言葉を読んだとき、私の頭の中では、そんなことが思い浮かんだ。
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●アインシュタインの人物像について(ウィキペディア百科事典より転載)(参考資料)
アインシュタインの人物像について、
ウィキペディア百科事典には、かなり詳しく
載っている。
その一部を転載させてもらう。
この中で、いくつか気になる点がある。
そのひとつ。
世界的な玩具販売チェーン店に、「TOYZARUS」(トイザラス)
というのがある。
お気づきの方も多いと思うが、その店の名前の「R」の部分は、
鏡文字になっている。
私は長い間、「どうしてRが鏡文字なのか?」と思っていた。
が、この記事を読んで、その謎が解けた。(たぶん?)
直接、アインシュタインと関係あるかどうかはわからないが、
アインシュタインは、「R」を、いつも鏡文字で書いて
いた。
「TOYZARUS」は、どこかでアインシュタインを意識して、
そういうふうに書くようにしたのかもしれない。
これはあくまでも私の、個人的な推測によるものだが……。
++++++++++++++以下、ウィキペディア百科事典より転載+++
非常に臆病で、生真面目でありながらも気さくな性格であった。
彼は常に発明はユニークな発想と考えており、自身を天才であるとはいささかも思っていなかったという。
ヴァイオリンの演奏を好んだ。しかしピアニストで友人のアルトゥール・シュナーベルとアンサンブルを行った際、何度も拍の勘定を間違えるため、シュナーベルから「君は数も数えられないのか」と呆れられたという。
靴下を履かない。当時の靴下は脆く、すぐに破れてしまうため嫌いだった。そのため、常に靴を素足のまま履いていたという。
睡眠時間は1日10時間と言われている。
非常に面倒くさがりであったとされる。洗濯用石鹸で顔を洗い、雑巾で顔を拭い、灰皿に食事を盛り付けると云う行動もあったといわれている。
最初の妻だったミレーバとの間に息子が二人。長男のハンスはカリフォルニア大学バークレー校で流体力学関係の教授を勤めた。二男のエドゥアルトは医学生時代に統合失調症を発し、生涯回復せず、精神病院で亡くなった。後年公開された資料では、ミレーバとの破局はアインシュタインの家庭内暴力が一因であり、病気を患った息子に対しても非常に冷淡な態度を取り続けたことが公表されている。
ミレーバへの離婚の条件はノーベル賞を取って賞金をあげるというもので、2年後に本当に受賞し賞金をあげたとされている。
笑わない。しかし、自身が舌を出している最も有名な写真は、1951年3月14日、アインシュタインが72歳の誕生日に、INS通信社カメラマンだったアーサー・サスの「笑ってください」というリクエストに応えてした表情を撮ったものである。さらにその写真はアインシュタイン本人もお気に入りで、9枚焼き増しを頼んだほどである。この写真は、1951年度のニューヨーク新聞写真家賞のグランプリを受賞した。また、切手にもなった。
ノーベル賞受賞後、ニューヨークで、ある少女に数学を教えていたことがあった。少女の母親が、娘の家庭教師がアインシュタインと知って、慌てて彼の元を訪れたが、そのとき彼は「私が彼女に教える以上のことを、私は彼女から教わっているのだから、礼には及びません」と返答した。
Oren J. Turnerによる写真1947年
小学生のようにスペルを間違えることがままあったという。また、「R」の大文字を生涯鏡字で書き続けた。
簡単な数字や記号を記憶することが苦手だったとされる。ある新聞社のインタビューの中で、光速度の数値を答えられず、記者から揶揄されると「本やノートに書いてあることをどうして憶えておかなければならないのかね?」と、やりかえしたという。
幼年時の学習状況、成人してからの振る舞いなどから、アインシュタインには何らかの障害(アスペルガー症候群、学習障害)と共通していることが指摘されているが、医学的な検証はなされていない。
彼は手紙好きであり、有名になってからも一万通以上も手紙をやり取りしていたらしい。
+++++++++++++++以上、ウィキペディア百科事典より転載++++
アインシュタインの言葉や映像については、
私のHPより、(音楽と私)→(命について考える)で、
楽しんでいただけるようにした。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist Einstein アインシュタイン アインシュタインの言葉)
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