Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Thursday, April 03, 2008

*Man have eyes in the front, not in the back

●今朝・あれこれ(4月4日)

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昨夜は、軽い頭痛。
このところ、何かと、睡眠不足。
それがどこかに、たまってきたらしい。

だから昨夜は、午後9時に、就寝。
が、今朝は、その分だけ早起き。
時刻は、午前5時。

一応、8時間、眠ったことになる。
が、起きてからも、あくびの連続。

私の体は、いったい、どうなって
いるのか?

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●「後退」という恐怖

人間の目は、顔面前部についている。
うしろが、盲点。死角。
そのため、人間は、前に向かって進むのが得意。
また前に向かって進んでいないと、不安。
少なくとも、前に向かって進んでいるときは、うしろから襲われるという
心配はない。

たとえば子どもの鬼ごっこを見る。
逃げる子どもは、一目さんに、前に向かって走る。
「全力で、前に向かって走れば、(鬼)は追いつけない」と。

うしろを振り返るということは、めったにしない。
うしろを振り向いたとたん、その分だけ、速度が落ちる。
子どもも、それをよく知っている。

さらに言えば、前向きに走ることはできても、後ろ向きに走ることはできない。
(練習すれば、後ろ向きでも、速く走れるようになれるという説もあるが……。)

こうした人間の特性のせいか、人間は、後退するのが苦手。
後退を強いられただけで、言いようのない不安感に襲われる。
顔を前に向けたまま、後ずさりするときのことを思い浮かべてみればよい。
うしろに何があるかわからないまま、後ずさりするのは、こわい。

……という話を、車の中で、ワイフとする。
どこかの商店街の中を走っていたときのこと。
その地域も、郊外に大型店ができたせいか、毎年、見るたびにさびれていく。
シャッターをおろした店も、目につく。

「かわいそうだね」「そうね」と。

私の実家も、大正時代からの自転車屋だったとはいえ、私が中学に入ることから、
斜陽につづく斜陽。
高校生になるころには、いつ店を閉めてもおかしくない状態だった。
また大学時代も、仕送りといっても、下宿代の1万円だけ。それだけ。
その1万円にしても、母は、毎月、「講」※という組織を使って、
工面してくれていた。

「斜陽」のもつ恐怖は、子どものときから、いやというほど、経験している。
さらに言えば、「後ろ向きに歩く」ことの恐ろしさを、いやというほど、
経験している。

私「ああいうところの店の人たちは、つらい思いをしているもんだよ」
ワ「……」
私「明日が今日より悪くなるというのは、いやだね」と。

きっとその内では、「どうしたらいい?」「どうしよう?」という会話が、
毎日のようになされているはず。

私「商店主というのは、意外とつぶしがきかない。ほかに仕事をさがすと
いっても、それができない。50歳を過ぎると、なおさらできない」
ワ「……そのまま、つづけるわけ?」
私「そう、それしかない。毎月のように、家計を切りつめながらね」
ワ「でも、それにも限界があるのでしょう?」
私「あっても、さらに切りつめるしかない」と。

ある段階までは、虚勢や虚栄を張って生きることができる。
しかしそれも枯れるときには、枯れる。
最後は、枯れた木がポキリと折れるようにして、店はつぶれる。

人間の「目」の話が出てきたのは、そのときのこと。
「ほら、人間の目って、前についているだろ。だから後ろ向きに歩くということが、
苦手なんだよ」と。

たとえば……。

私も、現在、こんな問題に直面している。

ワイフが言うには、老後は、家や土地を売って、そのお金で、そういった施設に
入って過ごせばよいと。
「そのために、家や土地を買ったのだから」と。

前向きに(?)、家や土地を買ったころは、それなりに楽しかった。
しかし「売って、そのお金で、老後を過ごす」というのには、ある種の恐怖感が
ともなう。
「さみしさ」とは、内容がちがう。「恐怖感」だ。
断崖絶壁に追いつめられたかのような、恐怖感である。
その恐怖感の中身が、ここでいう、「後退」ではないか?

ワ「あなたは、いつも前しか見てこなかったから、こわいのよ」
私「そうかもね。これからは、うしろも見ながら、歩いていくよ」と。

ところで母が、いつも口癖のように言っていた、「講」とは、何か。
正確には、「頼母子講(たのもしこう)」という。

ウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。

「……21世紀となった現在でも、日本各地(主に農村・漁村地域)に、無尽や頼母子、模合と呼ばれる会・組織が存在している。メンバーが毎月金を出し合い、積み立てられた金で宴会や旅行を催す場合もあれば、くじに当たった者(くじと言いながら実際は順番であることが多い)が、金額を総取りする形態のものもある。多くは実質的な目的よりも、職場や友人、地縁的なつき合いの延長としての色彩が強く、中には一人で複数の無尽に入っている人もいる。沖縄では県民の過半数が参加していると言われるほか、九州各地や山梨県などでもよく行われている」と。

毎週、どこかの家に集まって、1000円とか2000円を出しあう。
そのお金を、順番で、だれかが手にする。
それを「講」という。