Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Thursday, April 03, 2008

*An Excessive Teaching

●行きすぎた指導(Excessive Teaching)
In one of elementary schools in Japan, a young woman teacher forced a second grader to sit and study on the floor, since the girl had forgotten her homework at home. This hurt the girl and she started suffering from a mental problem and she refused to attend school since then. The teacher has continued visiting her home and trying to hand letters to her, but all her actions are refused. This is a sad story for a teacher as well as for a girl and for the mother.

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廊下に、土下座させて指導?

しかしそんなのは、指導ではない。
もちろん教育でもない。

江戸時代の昔なら、いざ知らず、
いまどき、廊下で、土下座?

「行きすぎた指導」(校長)で
あることは、事実。

その教師に弁解の余地はない。
ないが、ここでは、一歩、
退いた視点で、子どもの指導に
ついて、考えてみたい。

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何といっても子どもの指導で難しいのは、
子どもといっても、千差万別。
生まれ育った環境もさることながら、
「心」の内容も、さまざま。
親の価値観も教育観もちがう。

つまり同じ指導をしても、
それを受け取る子どもによって、
その受け取り方は、みなちがう。

私は、こうした指導を受け取る部分を、
「レセプター」と呼んでいる。

そのレセプターは、みな、ちがう。
このレセプターを無視して指導すると、
たいへんなことになる。

……ということを改めて知らされた
事件が、F県で、起きた。

ふつうの状況なら、ひょっとしたら、
何でもない指導だったかもしれない。

子どもによっては、笑ってすんだ話かも
しれない。

あるいは教師と父母の間に、
一定の信頼関係があれば、別の解決方法が
あったかもしれない。

さらに言えば、教師にしても、まさか
そこまでことが深刻になるとは、
思っていなかったのかもしれない。

「軽い罰(ばつ)」のつもりでした罰が、
子どもの心に大きな傷を残してしまった。

今回の事件は、そんな事件である。

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スポーツ報知は、つぎのように伝える(4月4日、ヤフー・ニュースより)

+++++++++++以下、ヤフーニュースより転載++++++++++++++

F市立H小学校で3月、20代の女性教諭が当時2年生の女児(8)に対し、忘れ物を理由に教室で授業を受けさせず、廊下でプリントの問題を解かせ、女児が精神的苦痛を理由に不登校になっていたことが3日、わかった。

年度末の総まとめに燃える教諭が、女児の週3回の忘れ物に激怒した末に至った「行きすぎた指導」(同校校長)。女児の母親からは学校に「(女児が)自傷行為をした」との連絡も入っているという。

F市教育委員会やH小学校によると“事件”が起きたのは3月14日。始業前、算数のプリントの宿題を「忘れました」と申告した女児に対し、教諭が「今はまとめの時期なのに、それでは3年生になれない」「あなたは2年生ではない」などとしかった。

教諭は女児を、同じ階の1年生の教室の前に無理やり連れて行き、放置。同校は廊下と教室の間に段差や仕切りがない「オープン教室」建築を採用しており、女児の姿は1年生や、水飲み場で清掃活動をしていた6年生らに見られていた。

1時間目の途中、女児はクラスの記念撮影のため教諭に呼ばれ、教室横の「フリースペース」に入ったが、再び教諭から「1年生からもう一度やり直さないといけない」などと諭され、廊下に戻った。2時間目、算数のプリントを配布されると、女児はその場でひざをつき、木の床にはうような姿勢で問題を解いた。

始業前から2時間目の終わりまで約2時間、女児は廊下にいたことになる。3時間目からは通常通り授業に参加。女児はこの週、算数のプリントの宿題を忘れたのが3回目で、教諭は「年度末で、しっかりまとめていこうとクラスの意識を盛りあげたかった」と、「廊下でプリント」指導に至ってしまった心境を説明しているという。

学校には、14日夜に女児の母親から抗議の電話があった。女児はそのまま不登校になり、春休みに突入。母親から学校に入った連絡によると、女児は病院で「強迫性障害」の疑いと診断された。女児は「死にたい」「眠れない」と話し、髪の毛を抜くなどの「自傷行為を繰り返している」との連絡も入ったという。

教諭は「申し訳ない」と、毎日のように女児の家に行き、謝罪の手紙を投函しているが、女児とは会えずにいる。関係者によると、教諭は先生になって今年で3年目。「厳しいところもあるけど、熱心」という。

+++++++++++以上、ヤフーニュースより転載++++++++++++++

記事の内容をまとめると、こうなる。

(1) ある女児(小2)が、忘れ物を繰り返した。
(2) 担任の教師が、激怒した。
(3) 罰として、廊下で、その女児に学習をさせた。
(4) 女児は、自傷行為を伴う、「強迫性障害の疑い」と診断された。
(5) 女児は、3月に入って以来、不登校を繰りかえしている。
(6) 教師は、毎日のように女児の家に行き、謝罪の手紙を投函している、と。

まず、忘れ物について。

子どもによっては、(この女児がそうというわけではないが)、いくら注意しても、
それをなおせない子どもというのは、いる。

集中力そのものが散漫というか、反対に、いつも四方八方に、触覚がのびていて、
そのため、ことの重要度が適確に判断できない。あるいはひとつのことに集中しすぎて、
ほかの面がおろそかになる。

ふつうは、このタイプの子どもは、メモ用紙にメモを残させるなどという方法で
指導するが、学年があがるとともに、症状は、軽減する。
(中学生くらいになると、忘れ物はぐんと減るが、それでも、なおったという
状態にはならない。)

で、こうした症状は、生来的なもので、叱ったくらいでは、なおらない。
そのため、叱っても意味はない。
その子は、そういう子どもと認めた上で、指導するしかない。

全体としてみると、このタイプの子どもは、10~15人に、1人はいる。
知的能力との関連も指摘されるが、私の知るかぎり、それはない。

その教師は、たぶん、経験も浅いということもあって、そういうことを知らなかった
のではないか。

もちろん繰りかえすが、その女児がそうであったと言っているのではない。

私が言いたいのは、子どもの世界では、忘れ物は当たり前ということ。
みんな忙しい。子どもだって、忙しい。親は、さらに忙しい。
何もかも教師の指導どおりに……というわけにはいかない。
そういうことも知った上で、つまり「忘れ物は当たり前」という前提で、
子どもの指導に当たっていたら、こういう不幸な事件は起きなかったかもしれない。
その教師には、そうした(おおらかさ)が欠けていた?

つぎに、「廊下で学習させた」ということについて。

その教師を批判して申し訳ないが、その教師は、かなり権威主義的なものの
考え方をする教師のように思う。
「謝るときは、土下座」式の、古風な教育観をもっているのかもしれない。

仮に反対の立場で、そういうことをされたら、その教師は、どのように感ずるだろうか。
子どもに土下座をさせてはいけない。
子どもを廊下に土下座させて学習させてはいけない。

武士道とやらを信奉する人にとっては、そうではないかもしれないが、こんなことは、
指導のイロハ。

(もっともアメリカの小学校などでは、図書館などでも、みな、寝ころんで本を
読んでいたりするが……。)

しかし何よりも問題なのは、信頼関係。
教師と子ども、教師と親の間の信頼関係がしっかりしていれば、こうした事件は
起きなかった。
仮に起きたとしても、別の解決方法があったはず。
ばあいによっては、たがいに、笑ってすんだ話かもしれない。

「私、廊下で勉強させられちゃった」
「バカねエ」
「ハハハ」と。

さらに冒頭に書いたように、レセプターはみな、ちがう。
児童心理学の世界にも、「過敏児」「鈍感児」という言葉がある。
繊細な感覚をもっている子どももいれば、そうでない子どももいる。
(もちろんその女児が、敏感児だったと言っているのではない。誤解のないように!)

A君に有効だった方法が、B君にもそのまま有効とはかぎらない。
ばあいによっては、とんでもない方向へと、ことが進んでしまうかもしれない。
今回の事件も、そういう経緯をたどった可能性がある。

ただ、だからといって、一方的に、その教師を責めるのもどうか?
無知はそれ自体、罪だが、そこまでオールマイティな教師を求めるのも、むずかしい。
「子どもの忘れ物なんて、何でもないですよ」という指導ができるようになるまでには、
10年とか20年の経験が必要。

幼稚園の世界でも、「親がなっていない」「親の顔が見たい」などと言うのは、
たいてい自分で子どもを育てたことのない若い教師。
自分で子どもを育ててみると、そうはいかない。
そうはいかないことを、さんざん、思い知らされる。
と、同時に、こういう生意気な(ゴメン!)言い方は、消える。

その教師にしても、「教師になって3年」とか。
その教師は教師なりに、「熱心に指導」(報道)したのかもしれない。

で、気になるのは、「毎日のように女児の家に行き、謝罪の手紙を投函しているが、
女児とは会えずにいる」という部分。
女児はもちろんのこと、親にも会えない状態がつづいているということか?
親の気持ちもわからないではないが、もしそうなら、親のほうも、ほんの少し、
心を開いてほしいと願う。

大切なのは、子ども。子どもの心。
子どもの立場で見て、親と教師が緊張関係にあるのは、たいへん、まずい。
その緊張関係が、子どもの心をさらに悪い方へもっていってしまう。
その危険性は、ないとは言えない。

……ということで、今度は、教育についての一般論。
こういう事件を見聞きする教師の立場で、考えてみたい。

現在、「教育」そのものが、たいへんやりにくい時代になっている。
今回の事件は別として、どこの学校へ行っても、「萎縮する教師」が話題になる。
今では、子どもに向かって、命令したり、怒鳴ったりすることは、タブー。
「掃除をしなさい!」(=命令型)はだめ。
このS県でも、「掃除をしてください」(=お願い型)、「掃除をしましょう」(=提案型)
という言い方に変わってきている。
プリントを丸めて子どもをたたいただけでも、「そら、体罰!」と、問題になる。

「教師の萎縮」イコール、「教師のやる気の喪失」と考えてよい。

その上、目が回る忙しさ。
子どもが家出をしたときでも、親たちが真っ先に電話をするのが、担任の教師。
学校でもない。自治会でもない。学校の教師、だ。

ある女性が、こんなメールをくれたことがある。

「夫(=中学校教師)は、昨晩も、家出した生徒を捜し回って、家に帰ってきたのは、
午前2時です」と。

こんな事件を見聞きしたら、あの産婦人科医問題と同じように、この先、学校の
教師になる人は、いなくなってしまう(?)。

もちろんだからといって、その教師のしたことを擁護しているのではない。
校長が言っているように、「行きすぎた指導」であることには、ちがいない。
その教師は、してはいけないことを、してしまった。
それは事実。
どうか、誤解のないように!

……ということで、この話は、ここまで。

しめくくりとして、この報道だけでは、これ以上のことはわからない。
今回の事件にいたるまで、何があったのか? またなかったのか?
ただただ残念な事件であることには、ちがいない。

子どもの気持ちもよくわかる。
教師の心痛も、これまたよくわかる。
その間に立って、その親は、本当に苦しんでいる。
本来なら、愛しあい、助けあい、慰めあう人たちが、たがいに袋小路に入って、
もがいている。
これを悲劇と言わずして、何と言う。

早く、その女児が、立ちなおってくれることを、心から願う。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 行きすぎた指導 体罰 廊下で学習 強迫性障害)