What is "Me?", part 2
【私論】
●意思(Will…”Me”, which is not “Me” myself)
What part of myself is “Me” myself and what part is not. 99.9% of ourselves are “Me”, which is not “Me” myself. We are controlled and moved by “Me” which is deep inside of the brain. Then where is “Me”, which is myself? The answer is here:
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少し前、「意思」について書いた。
それをもう一度、読みなおしてみる。
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最近の研究によれば、「自分の意思」ですらも、実は、脳の中で、作られるものだということがわかってきた(澤口俊之氏「したたかな脳」日本文芸社)。
たとえばテーブルの上に、ミカンがあったとしよう。あなたは、そのミカンに手をのばし、それを取って食べようとする。
そのとき、あなたは、こう思う。「私は自分の意思で、ミカンを食べることを決めた」と。
が、実は、そうではなく、「ミカンを食べよう」という意思すらも、脳の中で、先に作られ、あなたは、その命令に従って、行動しているだけ、というのだ。
詳しくは、「したたかな脳」の中に書いてあるが、意思を決める前に、すでに脳の中では別の活動が始まっているという。
たとえばある人が、何らかの意思決定をしようとする。すると、その意思決定がされる前に、すでに脳の別のところから、「そういうふうに決定しないさい」という命令がくだされるという。
(かなり大ざっぱな要約なので、不正確かもしれないが、簡単に言えば、そういうことになる。)
そういう点でも、最近の脳科学の進歩は、すごい! 脳の中を走り回る、かすかな電気信号や、化学物質の変化すらも、機能MRIや、PETなどによって、外から、計数的にとらえてしまう。
……となると、「意思」とは何かということになってしまう。さらに「私」とは、何かということになってしまう。
……で、たった今、ワイフが、階下から、「あなた、食事にする?」と声をかけてくれた。私は、あいまいな返事で、「いいよ」と答えた。
やがて私は、おもむろに立ちあがって、階下の台所へおりていく。そのとき私は、こう思うだろう。「これは私の意思だ。私の意思で、台所へおりていくのだ」と。
しかし実際には、(澤口氏の意見によれば)、そうではなくて、「下へおりていって、食事をする」という命令が、すでに脳の別のところで作られていて、私は、それにただ従っているだけということになる。
……と考えていくと、「私」が、ますますわからなくなる。そこで私は、あえて、その「私」に、さからってみることにする。私の意思とは、反対の行動をしてみる。が、その「反対の行動をしてみよう」という意識すら、私の意識ではなくなってしまう(?)。
「私」とは何か?
ここで思い当たるのが、「超自我」という言葉である。「自我」には、自我を超えた自我がある。わかりやすく言えば、無意識の世界から、自分をコントロールする自分ということか。
このことは、皮肉なことに、50歳を過ぎてみるとわかる。
50歳を過ぎると、急速に、性欲の働きが鈍くなる。性欲のコントロールから解放されるといってもよい。すると、若いころの「私」が、性欲にいかに支配されていたかが、よくわかるようになる。
たとえば街を歩く若い女性が、精一杯の化粧をし、ファッショナブルな服装で身を包んでいたとする。その若い女性は、恐らく、「自分の意思でそうしている」と思っているにちがいない。
しかし50歳を過ぎてくると、そういう若い女性でも、つまりは男性をひきつけるために、性欲の支配下でそうしているだけということがわかってくる。女性だけではない。男性だって、そうだ。女性を抱きたい。セックスしたいという思いが、心のどこかにあって、それがその男性を動かす原動力になることは多い。もちろん、無意識のうちに、である。
「私」という人間は、いつも私を越えた私によって、行動のみならず、思考すらもコントロールされている。
……と考えていくと、今の私は何かということになる。少なくとも、私は、自分の意思で、この原稿を書いていると思っている。だれかに命令されているわけでもない。澤口氏の本は読んだが、参考にしただけ。大半の部分は、自分の意思で書いている、と。
が、その意思すらも、実は、脳の別の部分が、命令しているだけとしたら……?
考えれば考えるほど、複雑怪奇な世界に入っていくのがわかる。「私の意識」すらも、何かの命令によって決まっているとしたら、「私」とは、何か。それがわからなくなってしまう。
あああ!
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●「私」論
そこで改めて、「私論」。
私の中には、(私であって私でない部分)と、(私であって私である部分)がある。
たいはんは、……というより、99・9%は、(私であって私でない部分)ということになる。99・99%でもよい。
そういう点では、人間は、動物そのもの。
動物とちがうと考えるほうが、おかしい。
言いかえると、私たち人間も、フロイトの言葉を借りるなら、「性的エネルギー」の奴隷に過ぎない。
「私は私の意思で動いている」と思っている人でも、実は、その奧から発せられるシグナルによって、「私であって私でない部分」によって、動かされているにすぎない。
そのことがわからなければ、庭で遊ぶスズメたちを見ればよい。
北海道にいるスズメも、沖縄にいるスズメも、スズメはスズメ。
その範囲を超えて、スズメが、別のスズメになることはない。
どのスズメも自分の意思で行動していると思っているかもしれないが、そんなスズメにしても、(私であって私でない部分)に動かされているだけ。
だから、北海道にいるスズメも、沖縄にいるスズメも、スズメはスズメ、ということになる。
そこで私とは何か……ということになるが、それについては、先週、私は、こう書いた。
(私であって私でない部分)と闘う部分が、「私」と。
たとえば腹が減ったとする。
目の前に食物があったとする。
もしそのとき、その食物を手に取り、食べたとするなら、あなたは(私であって私でない部分)に動かされただけということになる。
が、もしそのとき、その食物を袋か何かに入れて、冬空に震えるホームレスの人かだれかに届けたとするなら、それが「私」ということになる。
さらに言えば、究極の「私」、つまり(私であって私である部分)は何かと問われれば、それが、キリスト教でいう「愛」であり、仏教でいう「慈悲」であり、また儒教でいう「仁」であるということになる。
さらにつきつめて言うなら、視床下部あたりから発せられるシグナルを、大脳の前頭前野でコントロールするところに、「私」があるということになる。
けっして、シグナルの奴隷になってはいけない。言いなりになってはいけない。
奴隷になったとたん、私は(私であって私でない部分)に、動かされてしまう。
そして結果として、「ただの人(das Mann)」(ハイデッガー)になってしまう。
もう少し、この話をかみくだいて説明してみよう。
先ほど、私はスズメの話を書いた。
そのスズメが、もし、こんな行為をしたらどうだろうか。
一羽のスズメが、食べている餌を、「それを食べたい」という意思を押し殺しながら、さらに細かくかみ砕き、年老いて元気のないスズメに分けてやったとしたら……。
とたん、そのスズメは、スズメであるという(ワク)を超えたことになる。
ただのスズメではない。
(私であって私でない部分)から、脱したスズメということになる。
しかし現実のスズメは、自分の餌を食べることで、精一杯。
それ以上のことは考えない。しない。
だから繰りかえすが、北海道のスズメも、沖縄のスズメも、スズメはスズメということになる。
またその(ワク)から一歩も、外に出ることはない。
が、悲しいかな、先ほども書いたように、私たち人間も、その(ワク)の中で生きているに過ぎない。
その(ワク)の中で生きているだけなのに、「私は私」と思いこんでいる。
(ワク)の中で生かされていること自体に、気がつかない。
しかも、だ。
私たちが自分の意思と思いこんでいる「意思」にしても、澤口俊之氏によれば、実は、脳の中で、前もって作られるものだという(「したたかな脳」日本文芸社)。
わかりやすく言えば、(まず脳の中で、何らかのシグナルが発せられる)。しかしその脳の中の動きを、外から知ることはない。
自分で知ることもない。
こうした操作は、無意識下でなされる。
そのシグナルに応じて、(自分の意思が作られる)、と。
たとえば庭を見ながら、食事をしていたとする。
庭の木々は、昨夜の雨で、しっとりとその葉先を濡らしている。
そのとき私は、ふと、テーブルの上にある、大学イモを箸でつかむ。
そのとき私は「私の意思で、大学イモを箸でつかんだ」と思うかもしれない。
が、その意思にしても、すでに、私がぼんやりと庭を見ているときに発せられたシグナルによって作られたものにすぎないということ。
別の脳は、そこに大学イモがあることを、すでに認識していたはず。
私はテーブルについたとき、その大学イモを目で見ている。
においも嗅いでいる。
そこで無意識下において、脳の中で、さまざまな反応が起きる。
「食べたい」という意識が起きるのは、そのあとのこと、……とういうことになる。
つまりこうして常に、私たちの内部では、(私であって私でない部分)が作られていく。
「自分の意思ですらも、実は、脳の中で、作られるも」(澤口)というのは、そういう意味である。
で、そしてこうした一連の心理操作は、人間もスズメも、同じということになる。
ちがうと考えるほうが、おかしい。
が、ここでまた別の新たな問題にぶつかる。
(私であって私でない部分)がわかり、(私であって私である部分)が、それから分離できたとして、「それがどうした」という問題である。
しかしその答も、庭で遊ぶスズメの中にある。
北海道のスズメも、沖縄のスズメも、スズメはスズメ。
スズメがそれでよいと思っているなら、それもよいだろう。
もしあなたも、そう考えているなら、私とて、もう何も言う必要はない。
俗世間に埋もれ、俗人として生きるのがよい。
99・99%の人間は、みな、今まで、そうして生きてきたし、今も、そうして生きている。これからも、そうして生きていく。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 私であって私論 私論 意思論 作られる意思 操作される意思 はやし浩司 私とは)
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