Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Wednesday, July 30, 2008

*About Loneliness

●孤独(Loneliness)&孤独論(About Loneliness)

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孤独の恐ろしさは、それを経験した者でないと
わからない。
仏教の世界では、「無間地獄」ともいう。
つまり、地獄のひとつ。
地獄そのもの。
私もそう思う。

The terror of Loneliness is the one which could be understood only by those people who have experienced. In Buddhism world the loneliness is defined as the most terrible hell, to which I agree.

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だれにも愛されない。
だれにも求められない。
だれにも相手にされない。

心を開いて話す相手もいない。
相談にのってくれる人もいない。
信じられる人もいない。

そこにポツンとたたずむのは、自分ひとりだけ。
まわりを見ても、そこにいるのは、
他人、そしてまた、他人。

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孤独は無間地獄。
それを疑う人はいない。
あのイエス・キリストだって、孤独と闘ったという。
マザーテレサだって、孤独の恐ろしさを語っている。

言うなれば、生きるということは、孤独の連続。
その孤独と闘うことが、生きるということになる。
言い換えると、孤独こそが、私たちの真の敵ということになるし、その孤独に敗れたとき、私たちの人生も、そこで終わる。

が、中には、「私は孤独ではない」と言う人もいるかもしれない。
しかしそういう人でも、そのほとんどは、今、そこにある孤独に気づかないまま、その日、その日を、ごまかしながら生きているだけ。
孤独の意味すらわかっていない。

たとえば家族といっしょに旅行をする。
友といっしょに酒を飲んで騒ぐ。
ベッドの上で、裸になって抱きあう。

しかしそんな方法で、孤独を癒すことはできない。
孤独を忘れることはできるかもしれないが、孤独と決別することはできない。
孤独は、いつも私たちのそばにいて、私たちの心の隙間を、虎視眈々とねらっている。
そしてひとたび、あなたがそのワナにかかると、容赦なく、あなたに襲いかかってくる。

では、どうしたらよいのか。
どうすれば、人は、この孤独から解放されるのか。
その方法として、儒教では「仁」を説く。
仏教では、「慈悲」を説く。
キリスト教では、「愛」を説く。
それが何であれ、これだけは、確かである。

人は、ひとり、つまり孤独なままでは、生きていかれないということ。
孤独の火に焼かれるくらいなら、だれだって望んで死を選ぶだろう。

では、どうしたらよいのか。
どうすれば、私たちは、孤独から解放されるのか。
どうすれば、私たちは、真の自由を手にすることができるのか。

しかしその道は、遠い。
キリスト教でも、「真理=自由」であり、「自由=真理」であると説く。
私のような凡人が、ここらで逆立ちをして見せたところで、そんな真理にたどりつけるわけがない。

しかしこういうことは言える。

孤独を知ってはじめて、私たちは生きる目的を知る。
意味を知る。
孤独が人生の終わりを告げるのではなく、孤独が人生の入り口を教える。
孤独なら孤独でよい。
その恐ろしさを知ったら、つぎにそういう状況になったときのことを考えて、準備する。
それがそのまま生きる意味につながる。

私にしても、無数の親たちと出会い、同じ数だけの子どもたちと出会ってきた。
しかし今に残っている親や、子どもは、ほとんどいない。
ゼロと言ってもよい。
友にしてもそうだし、家族にしてもそうだ。
孤独を乾いた砂漠にたとえるなら、今まで私がしてきたことは、コップいっぱいの水にもならない。
そんな水で、どうして砂漠のような孤独を癒すことができるというのか。

「仁」とは、何か。
「慈悲」とは、何か。
「愛」とは、何か。

たとえば私のワイフにしても、息子たちにしても、私という夫や、私という親がもっているだろう「呪縛」から、解放してやることこそが、仁であり、慈悲であり、愛ではないのか。

ワイフにしても、(ワイフは、それを望んでいないとは言うが)、私が離婚してやれば、どんなにか、気が楽になることだろう。
息子たちにしても、ひょっとしたら、私という(存在)がないほうが、よいのかもしれない。
私は亭主関白だし、それに、悪玉親意識も強い。

で、その引き換えに、私自身は無間地獄の中をさまようことになるが、それこそ、まさに自業自得というもの。
結果、「死」という選択肢を選んだとしても、それもまた、まさに自業自得というもの。
そういう意味では、私は敗残者。
失敗者。
負け犬。

私は孤独というものが、いつもそこにあることを知りつつ、その孤独と闘うことすらしてこなかった。
ちょうど酒飲みが酒を飲んで、自分をごまかしてきたように、私は私で、その日の刹那的な楽しみで、自分をごまかしてきた。

もっとひどいことに、そこに孤独な人がいるときでさえ、見て見ぬフリをしてきた。
ときにそういう人を、人生の失敗者をあざ笑った。

が、今、そのツケが、自分のところに回りつつある。
今度は、私がその孤独という無間地獄の中で、もがき、苦しみ始めている。
生きる目的さえ、見失い始めている。

そうでないというなら、いつか、(かならずその日はやってくるだろうが)、
たとえばワイフが先に死に、友たちが先に死に、さらに息子たちが私の手の届かないところにいってしまったようなとき、私は、その孤独に耐えられるだろうか。

その答は、「NO!」。
私にはその孤独には、耐えられないだろう。
その自信も、ない。
まったく、ない。

そんな弱い私を、ゆいいつ支えてくれるものがあるとするなら、それが宗教ということになる。
が、今さらそれを信じたところで、神や仏は、こう言うにちがいない。

「今まで、さんざん、勝手なことをしておきながら、何を今さら!」と。

私は神や仏にすら、見放されている。
私のような人間を相手にする神や仏など、いるはずもない。

……ということで、私は、今日もがんばるしかない。
健康だし、頭のほうも、まだ何とか動いている。
「今日こそは、何かをしてみよう」と。
いつか襲いくる、孤独と立ち向かうために!

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 孤独 孤独論)