*Mothers who are frautrated in the houses
【心豊かな人生】
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そこに人生があるなら、それは受け入れるしかない。
「あきらめろ」ということではない。
そこを出発点にして、前に進む。
『われらが目的は、成功することではない。
失敗にめげず、前に進むことである』(スティーブンソン)。
まずいのはいつまでも重い過去に引きずられて、「今」を、無駄にすること。
悶々とした日々の中で、自分を見失うこと。
その今には、無限の価値がある。
賢明な人は、その価値を失う前に気づき、そうでない人は、それを失ってから、その価値に気づく。
●使うしかない
今、そこにあるものを、受け入れていく。
それがどんなものであれ、それはそれとして、認めていく。
それが、心豊かに生きる、コツではないか。
たとえば、私はおととい、新しいパソコンを買った。
ミニ・パソコンと呼ばれる小型のパソコンである。
本当は……という言い方は適切でないかもしれないが、
私は、このパソコンと、もう一台のパソコンで、
どちらにするか、迷った。
このパソコンは、HP 社の、2133という機種。
もう一つは、今度、MSI社から発売になった、U100という機種。
U100のほうは、発売されたばかりとあって、現在、入手困難。
東京の秋葉原でも、発売と同時に、売り切れてしまっている。
この2つのパソコンの大きな違いといえば、2133のほうは、英語式キーボードになっていること。
アメリカ製である。
U100のほうは、日本語式キーボード。
台湾製である。
値段は、2133は、8万円弱。
U100は、6万円弱。
2万円の差はあるが、性能的には、2万円以上の差がある。
それで2133にした。
が、いろいろと問題が起きている。
英語式キーボードだから、キーと文字(とくに記号)が、一致しない。
ワードを使いなれた私には、打ちにくい。
それにやはりミニ・パソコンはミニ・パソコン。
どこかおもちゃ的?
そういうパソコンと対峙したとき、私はこう考える。
「せっかく買ったのだから、使い倒そう」と。
あるいはこうも考える。
「使いにくい面はあるが、使う私がそれに慣れればいい」と。
不平や不満を並べても、しかたない。
「使うしかない」と。
●生きるしかない
……実は、人生も、これに似ている。
いろいろやり残したこともある。
今の今も、何かにつけて中途半端。
この先のことを考えたら、不安でならない。
しかし今の私には、今のこの人生しかない。
だったらこの人生を受け入れて、前向きに生きていくしかない。
私のほうから、今の人生に慣れていくしかない。
……こう書くと、誤解する人がいるかもしれない。
つまりこう書くからといって、「あきらめる」という意味ではない。
あきらめるのではない。
その逆。
こういう人生がそこにあることを、喜び、感謝する。
多少の不便さはあるが、生きるドラマはそこから生まれる。
大切なのは、そのドラマ。
そのドラマこそに、生きる価値がある。
たとえば私は、最近、こう考えることがある。
サイクリングしているようなときだが、自分の体がスイスイと動くことが、うれしい。
「私は目が見える」
「私は音が聞こえる」
「私は走ることができる」
「私はものを考えることができる」と。
その喜びにくらべたら、身のまわりの問題など、何でもない。
すべて、ささいなものに思えてくるから不思議である。
●損とは何か?
たとえば私は、自分の人生の中で、人にだまされたことはあるが、だましたことはない。
とくに金銭問題においては、そうである。
若いころは、それなりに悔しい思いもした。
相手を恨んだりもした。
しかしそんなことを引きずっていたら、これからの人生を心豊かに生きていくことはできない。
できるだけ早くそういう過去とは決別して、前向きに生きていく。
というのも、損をしたと考えること自体、損。
もっと言えば、金銭的な損など、損でも何でもない。
本当に損なのは、(時間を無駄にすること)。
(時間)イコール(人生)と置き換えてもよい。
どのみちあと10年もすれば、みな、頭の活動も鈍る。
健康も衰える。
それに20年もすれば、みな、死ぬ。
(これは私の年代の人のことだが……。)
そしてその先、死ねば、この宇宙もろとも、私は煙のように消える。
金銭的な損得に毒されて、ああでもない、こうでもないと悩むほうが、どうかしている。
大切なことは、今日というこの(与えられた1日)を、心豊かに、楽しく、ほがらかに過ごすことである。
そういう意味では、人生は、金の砂時計のようなもの。
刻一刻と、金の砂が、上から下へ落ちていく。
こんな話を聞いた。
●ある人の遺産相続問題
近所の人の話だが、父親が死んだとき、遺産問題がこじれて、はげしい兄弟戦争になってしまったという。
その父親は、このあたりに、千坪単位の土地(もともとは農地)を、もっていた。
それが宅地開発で、黄金の土地に変身した。
その父親がなくなったのは、その直後のことだった。
3人の兄弟と2人の姉妹がいた。
実際には、その中の二男にあたる人が、死ぬまで父親の世話をしていた。
だから本来ならその二男が父親の財産を受け継いでも、何らおかしくはなかった。
が、これにまず長男と長女が、「待った!」をかけた。
つづいて、三男と二女が、「待った!」をかけた。
半端な財産ではない。坪40~50万としても、10億円以上になる。
(10億円以上だぞ!)
で、こうして泥沼の遺産相続争いとなっていった。
毎週のように、父親の仏壇の前で、怒鳴りあい、殴り合いの騒動がつづいたという。
で、最終的には、二男が、3~4割の財産を。
残りをほかの4人の兄弟姉妹で均等に分けることになったという。
が、それからその兄弟たちに異変が起きた。
もちろん兄弟、姉妹関係は、こなごなに破壊された。
「財産分けがすんでから、たがいの行き来は途絶えてしまった」と。
それは当然のことだが、そのうち、2人が脳卒中で倒れ、もう1人は、心筋梗塞で倒れた。
1人は、そのあと癌になり、入退院を繰り返している。
残りはもう1人だが、体調を崩してしまったと聞いている。
が、悲劇はそこで終わったわけではない。
今度は、それぞれの息子や娘の間で、財産の分与をめぐって、何かともめ始めているという。
言い忘れたが、みな、年齢は、現在、65歳前後(当時)。
この話をワイフにしてくれた人は、こう言ったという。
「棺おけに足を半分つっこんだような人が、どうしてそんなにも、お金に執着するのでしょうね」と。
「騒動が長かったから、それから生まれたストレスが、悪かったのでしょう」とも。
●得るものより、失うもの
……というような例は多い。
私もお金は嫌いではないから、(あえて嫌う必要もないが……)、10億円ともなれば……?
そういう騒動に巻き込まれるかもしれない。
しかしどう生きたところで、あと20年。
が、そんな騒動に巻き込まれたら、寿命を縮めてしまうだろう。
脳梗塞で倒れたら、それこそ、お金の話どころではなくなってしまう。
さらに言えば、仮に100万円であろうが、10億円であろうが、この宇宙に視点を置いてみれば、ただの数字。
子どもがもつゲームの中の得点と、どこもちがわない。
仮に相続問題が起きたとしても、事務的に処理して、それですます。
1億の取り分を、2億にしたいと思うから、騒動に発展する。
が、それによって失うものは、もっと大きい。
あるいは騒動を起こして、得になることは、何もない。
では、心の豊かさとは何か?
●自己の統合性
大切なことは、『自己の統合性』ということになる。
(自分がやるべきこと)を見つけ、(そのやるべきことに自分を一致させていく)。
生きがいも、そこから生まれる。
生きる喜びも、そこから生まれる。
生きがいや、生きる喜びの大きい人を、心の豊かな人という。
それがわからなければ、自分にこう問うてみればよい。
大きな高級車を買った……だから、それがどうしたの?、と。
大きな家を買った……だから、それがどうしたの?、と。
どこかの会社の社長になった……だから、それがどうしたの?、と。
自己の統合性が確立してくると、そういうことの無意味さが、つくづくと身にしみてわかるようになる。
(だからといって、私は、そういうことを否定しているのではない。誤解のないように!)
さあ、あなたも、勇気をもって、まず、あなた自身に納得しよう。
あなたの住んでいる環境に納得しよう。
あなたを囲む、人間関係に納得しよう。
それを「運命」というのなら、運命と呼んでもよい。
まずあるがままの自分を受け入れる。
そしてここが重要だが、今、ここにいて、ここに生きていることを、喜び、感謝しよう。
それが自分の人生を、心豊かに生きていくための必要条件ということではないか。
(付記)
私たち戦後、戦時中生まれの人間は、程度の差こそあれ、みな、「金権教」の信者と考えてよい。
「お金がいちばん大切」「お金があれば幸せ」「お金があれば安心」と。
それが転じて、人間の価値まで、お金で決めるようなところがある。
あの貧しい時代を思い浮かべれば、だれが、それをまちがっていると言えるだろうか。
みな、懸命に生きてきた。
あの独特の(ひもじさ)と闘ってきた。
おまけに当時の日本人は、敗戦と同時に、精神的なバックボーンを、失ってしまった。
それまでは「天皇」が神であり、「陛下」「陛下」と言っていれば、何も考えなくてもよかった。
現在の北朝鮮のようなもの。
(戦時中の日本が、あそこまでひどかったとは思いにくいが……。)
敗戦と同時に、日本人は、「金権教」へと走った。
事実、「信仰すれば、庭木に札の花が咲く」と教えた宗教団体があった。
その宗教団体は、戦後、日本でも最大の宗教団体になっている。
が、同時に失ったものも多い。
「心の豊かさ」である。
私がオーストラリアへ留学したとき、何よりも驚いたのは、農家の人たちのレベルの高さ、だった。
友人の父親は、夕食後にチェロを演奏してみせてくれた。
母親は4年生の大学を卒業していて、マナーも洗練されていた。
とても残念なことだったが、1970年当時の日本は、そうではなかった。
農家といっても、GHQによって農地解放される前は、そのほとんどが、「小作人」と呼ばれる人たちだった。
その(差)を、直接肌で感じたとき、私はこう思った。
「日本が、オーストラリアのようになるためには、50年はかかる。
あるいは永遠に不可能かもしれない」と。
しかしその後の日本の経済的発展は、ものすごかった。
その後、20年を待たずして、経済的には、オーストラリアを追い抜いた。
生活のレベルもそれほどちがわないところまで、追いついた。
しかし(モノ)はそれでよいとしても、(心)は、そうでない。
今の今でも、金権教は、いたるところにはびこっている。
程度の差こそあれ、私もあなたも、みな、その信者といってもよい。
もちろん先にも書いたように、だからといって私は(マネー)を否定しているのではない。
お金で幸福は買えないが、しかしお金がなければ、みな、不幸になる。
問題は、その稼ぎ方と、使い方ということになる。
その視点を見失うと、結局は人生、……というより、「命」そのものを、棒に振ることになる。
【Mさんより、はやし浩司へ】
ありがとうございます。
何度も読み返しました。
先生のおっしゃることあたっております。
私は、不幸にして不幸な家庭で育ちました。
中学のときに進路を決める際、私は体育科の高校へ進学したかったのですが、
父親に猛反対を受け、また、大学進学の際にも猛反対を受け、
結局地元の短大へ進学することになりました。
小学校のころから運動が得意で、父親もほめてくれておりましたが、
進学先のことや、また、体育の先生になることは反対でした。
理由は、通学が遠かったこと、寮など、家を出ることを許さなかったこと、
体育の先生は長く続けられないと思ったこと、などだと思います。
それならほめてくれなければよかったと思います。
いまでは、スポーツとは一切関わりたくないと思っています。
そのことを考えるだけで、涙がでてきますし、いまだに父親にはそのことを
持ち出して喧嘩となります。一生反抗期です。
母も反抗期がなく過ごしたからこうなったと言っています。
いわゆるいい子だったのだと思います。
極論は、私は早く父親がいなくなればいいと思っております。
ただ、その時は怒りをぶつける相手がいなくなって放心状態になるのでしょうか?
言い方は悪いですが、被害者の家族が、加害者が死刑になってしまったあとは
どこへ怒りや悲しみをぶつければよいのかということです。
その方たちには失礼なことかもしれませんが、私もきっと苦しむと思います。
不幸な結婚かどうかはまだわかりません。
おねしょの件は、赤ちゃん返りとわかったのは、治ってからそう思えたことです。
姉の子供が5年生になっても人前でおもらしをしていたのを見て、おそろしくなりました。
それで、治療という形をとったのです。
本論に入りますが、ほめそだては一般論です。
私は、うちの息子はほめることができません。
ほめる内容がないのです。なんでもいいからと教育センターの方にも
いわれました。
私も息子から離れたいのです。仕事もフルタイムで働いていますし、
学校の役員をやったこともありますし、剣道の役員、当番なども引き受け
何かと忙しくしており、また、エステにいったりして気分転換をはかったり・・・。
また、妹もおりますので、ほかにやることはたくさんあります。
ただ、主人が遅い帰宅なので、夕食のために定時で帰らなければなりません。
これ以上はなにができますか?
私は自分と同じ目に遭わないでほしいのです。
少なくとも、やりたいことがあればなんでもさせてやりたい。
過保護はごもっともです。
でも、自分自身の今が本当につらい、自分の親や、主人に理解されない。
たまたま、私とおなじ境遇の人、友人の弟さん(行きたい大学に受験させてもらって合格までしたのに、結局地元の大学に行かせられてしまった人)の話を聞きました。
その人は親と全く連絡を取らない、実家にも帰らないそうです。電話をして、母親がでたときだけ少し話しをするようです。
そんなことで、私を理解してくれる人(女性)がいます。
それが、どうということではないのですが、先生にも理解できますか?
子供がやりたい道をみつけて、親もそのことをほめてくれたのに、
進学はだめ。そんなのってありますか?
私自身それを解決しないかぎり、学歴コンプレックス&仕方なく今の仕事をしている姿勢
=毎日の生活は変わらないと思います。
子供にも教えています。
先生になりたければ先生の資格をとらなければいけないし、
ピアノの先生になりたければ音楽大学。
今からお母さんは体育大に行っても体育の先生にはなれない。
採用がないから。と
ばかげた会話かしれませんが、親から世の中を教えてもらえなかった
子供は不幸です。
以上が現在の私です。
私は旅行も大好きでした。
今は、子供と家のローンで、旅行にも行けません。
趣味はと聞かれたら、子育てと答えるでしょう。
それがいけないといわれそうですが・・・(笑)
もう少しヒントをください。
ほめ育ては一般論です。
ほんとに感謝しています。このような私にアドバイスしていただけること
うれしいです。
でも、涙がでるほどです。
よろしくお願いいたします。
【はやし浩司より、Mさんへ】
たまたま今朝(7月12日)に書いた原稿を、下に添付します。
(まままま様)を意識したわけではありません。
ただ少し参考になるのではないかと思いましたので、添付します。
で、メールを読んで、第一声。
「あなたは幸福ですよ」です。
ただ不完全燃焼症候群というか、それが転じて、もろもろの不満、不平につながっていると考えられます。
あなたは何も失っていない。
すべてがうまくいっている。
「不幸な家庭」といっても、あなたが経験したような家庭は、珍しくもなんともない。
ごくふつうの家庭です。
が、あなたにも夢があり、希望もあった。
能力もあった。
しかしそういうものが、(実は父親が原因ではなく)、あなたの意志の弱さによってくじかれてしまった。
子どものころから、あなたは親の人形になることによって、自分の立場を築き上げてきた。
そういう自分に対する嫌悪感、憎悪感が、姿を変えて、父親への反抗となっているのです。
こういうケースも少なくありません。
あなたは自分ひとりだけが、不幸だと思っているかもしれませんが、「不幸」というのは、そんなものではありません。
「思うようにならなかった」というのは、不幸とは言いません。
で、もしあなたにその力と、やる気さえあるなら、あなたが感じている不幸など、あっという間に吹き飛ばすことができます。
今からでも、なんら遅くはないのですから、自分のしたいことをすればよい。
子どもを愛せないなら、愛せないで、よいのです。
世の中の10%前後の母親は、みな、そうです。
「あなたはあなた」「私は私」と、割り切って子育てを考えればよいのです。
もちろん(やるべきこと)は、やる。
その「限度のをわきまえている親を」(バートランド・ラッセル)、むしろすばらしい親というのです。
気負わないこと。
あなたはすべてをもっている。
家族も、夫も、子どもも、健康も、若さも……。
いったい、それ以上、あなたは何を望むのですか?
私も日々に、自分の体と脳みそをいたわりながら、まるで薄氷の上を恐る恐る歩くような人生を歩んでいます。
生徒たちには、「ジジイ」と呼ばれ、夜な夜な思いをはべらすことは、去っていった息子たちのことばかり。
朝起きたとき、あのころのあの子どもたちの姿が見え、歓声が聞こえたら、どんなにすばらしいことだろう……。
あなたはその最中にいるから、その価値にまだ気がついていない!
ぜいたくを言うんじゃ、ない!
あなたも、外の空気を思いっきり吸ってみなさい。
呼吸ができる。
目が見える。
音が聞こえる。
歩ける、走れる、踊れる……。
そのすばらしさを、まず体感しなさい。
あなたは今、こうしてここに生きている。
そのすばらしさを、まず体感しなさい。
そして思う存分、心を解き放つのです。
過去にずるずると、いつまでも引っ張られていたら、損ですよ。
今を原点に前に向かって進むのです。
何だってできるでしょう。
不平、不満があったら、こうした掲示板に、自分の気持ちをたたきつけたらいいのです。
読むくらいのことしかできませんが、私だけは、まちがいなく、読んであげます。
(ほとんどアクセスのない掲示板ですが……。)
同じ仕事でも、いやいやしていれば、その辛苦は、倍加します。
しかし前向きにしていれば、その辛苦は霧散します。
子育てもしかり。
親子関係もしかり。
いいですか、あなたの運命は、受け入れなさい。
それが重病であるとか、あなたが闘うことができないものであるなら、それはあきらめるしかありませんが、どれも、あなたの「力」で何とかなるものばかりです。
繰り返します。
ぜいたくを言んじゃ、ない!
また不完全燃焼症候群については、多かれ少なかれ、家庭に閉じ込められた妻たちが、みな、感じているもの。
暇があったら、『マジソン郡の橋』(ウォラー)でも、読んでみたらどうでしょう。
「かさぶたになったような人生」です。
映画でもいいですが、映画のほうは、ラブロマンスになりすぎています。
あなたのような若い方が、過去を引きずって、その鎖の中でもがいているのを知ると、かわいそうというより、あわれでなりません。
あなたの夫は、そういうあなたに、気づいていますか。
これは自慢話ではありません。
私の嫁は、2人の子どもをかかえながら、日本で言う司法試験に合格し、今月から、インディアナ州立大学のロースクールに通っています。
息子は、グーグル社への入社をあきらめ、現在は、半主夫業をしています。
もっと自由にあなたの人生を組み立てることはできませんか。
夫の協力は不可欠ですが……。
あなたはすばらしい人ですよ。
文面から、それがよくわかります。
活動的で、家族思い。
知的能力も高く、好奇心も旺盛。
健康だし、家族をよくまとめている。
犠牲心も人一倍ある。
そういう自分を信じて、とにかく前に向かって進むしかない。
それが何であるかは、私にもわかりませんが、あなたには、あなたのすべきことがあるように思います。
母ではなく、妻でもなく、女でもなく、1人の人間として、です。
まず心を解き放つこと。
過去と決別すること。
体は、あとからついてきます(アメリカの格言)。
がんばれ、声援します!
はやし浩司
【はやし浩司より、Mさんへ】(追伸)
ワイフに意見を求めました。
そのワイフが言うには、「Mさんは、がんばっているわ」でした。
学校のことも、家庭のことも、よくやっている、と。
私もそう思います。
不完全燃焼症候群について書いた原稿を添付します。
この問題は、ほとんどの母親に共通する問題かと思っています。
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子どもの自立
ある母親(埼玉県U市在住のRYさん)から、こんなメールが届いた。
「私には二人の子どもがおります。
一番上の娘が中学二年生、下の男の子が小学校の四年です。
とても優しい子ども達に恵まれ毎日幸せに暮らしています。
私は自分の子どもに、自らの足で立ち、自分の思うままの人生を
自分で考えて歩いてゆける人間に育って欲しい と思っていますが
子どもの自立のために、何かよいアドバイスがあれば、いただけませんか。
いくら頭で考え、子どもの人生や価値観を尊重しようと思っても、
実際問題として、日本の社会は目立つものは排除する社会に思えます。
馬鹿な親ですが、自分の子どもには苦労をさせたくない、
社会に適応し、周りとうまくやって欲しい……と
おろかな望みを抱いてしまいます」
この母親のメールを読んで、最初に感じたことは、「これは子どもの問題ではなく、母親自身の問題」ということ。その母親自身はまだ気づいていないかもしれないが、母親自身が、自分の住む世界で、窒息している。
以前、こんな原稿(中日新聞経済済み)を書いた。
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母親がアイドリングするとき
●アイドリングする母親
何かもの足りない。どこか虚しくて、つかみどころがない。日々は平穏で、それなりに幸せのハズ。が、その実感がない。子育てもわずらわしい。夢や希望はないわけではないが、その充実感がない……。今、そんな女性がふえている。Hさん(三二歳)もそうだ。
結婚したのは二四歳のとき。どこか不本意な結婚だった。いや、二〇歳のころ、一度だけ電撃に打たれるような恋をしたが、その男性とは、結局は別れた。そのあとしばらくして、今の夫と何となく交際を始め、数年後、これまた何となく結婚した。
●マディソン郡の橋
R・ウォラーの『マディソン郡の橋』の冒頭は、こんな文章で始まる。「どこにでもある田舎道の土ぼこりの中から、道端の一輪の花から、聞こえてくる歌声がある」(村松潔氏訳)と。主人公のフランチェスカはキンケイドと会い、そこで彼女は突然の恋に落ちる。忘れていた生命の叫びにその身を焦がす。どこまでも激しく、互いに愛しあう。
つまりフランチェスカは、「日に日に無神経になっていく世界で、かさぶただらけの感受性の殻に閉じこもって」生活をしていたが、キンケイドに会って、一変する。彼女もまた、「(戦後の)あまり選り好みしてはいられないのを認めざるをえない」という状況の中で、アメリカ人のリチャードと結婚していた。
●不完全燃焼症候群
心理学的には、不完全燃焼症候群ということか。ちょうど信号待ちで止まった車のような状態をいう。アイドリングばかりしていて、先へ進まない。からまわりばかりする。Hさんはそうした不満を実家の両親にぶつけた。が、「わがまま」と叱られた。夫は夫で、「何が不満だ」「お前は幸せなハズ」と、相手にしてくれなかった。しかしそれから受けるストレスは相当なものだ。
昔、今東光という作家がいた。その今氏をある日、東京築地のがんセンターへ見舞うと、こんな話をしてくれた。「自分は若いころは修行ばかりしていた。青春時代はそれで終わってしまった。だから今でも、『しまった!』と思って、ベッドからとび起き、女を買いに行く」と。「女を買う」と言っても、今氏のばあいは、絵のモデルになる女性を求めるということだった。晩年の今氏は、裸の女性の絵をかいていた。細い線のしなやかなタッチの絵だった。私は今氏の「生」への執着心に驚いたが、心の「かさぶた」というのは、そういうものか。その人の人生の中で、いつまでも重く、心をふさぐ。
●思い切ってアクセルを踏む
が、こういうアイドリング状態から抜け出た女性も多い。Tさんは、二人の女の子がいたが、下の子が小学校へ入学すると同時に、手芸の店を出した。Aさんは、夫の医院を手伝ううち、医療事務の知識を身につけ、やがて医療事務を教える講師になった。またNさんは、ヘルパーの資格を取るために勉強を始めた、などなど。
「かさぶただらけの感受性の殻」から抜け出し、道路を走り出した人は多い。だから今、あなたがアイドリングしているとしても、悲観的になることはない。時の流れは風のようなものだが、止まることもある。しかしそのままということは、ない。子育ても一段落するときがくる。そのときが新しい出発点。アイドリングをしても、それが終着点と思うのではなく、そこを原点として前に進む。方法は簡単。
勇気を出して、アクセルを踏む。妻でもなく、母でもなく、女でもなく、一人の人間として。それでまた風は吹き始める。人生は動き始める。
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【RYさんへ】
それがよいことなのか、悪いことなのかは別にして、アメリカ人の生きザマを見ていると、実に自由を謳歌しているのがわかります。それだけにきびしい世界を生きていることになりますが、そういうアメリカ人や、アメリカとくらべると、日本の社会は、まさに「ぬるま湯社会」ということになります。
この「ぬるま湯」の中で、人生の入り口で権利を得た人は、たいていそのままずっと、その権利をなくすことなく保護されます。それがRYさんが、おっしゃる、「日本の社会は目立つものは排除する社会に思えます」ということではないでしょうか。社会そのものが、見えない糸で、がんじがらめになっています。
たとえば私の友人のユキコさん(三一歳女性、日系人・アーカンソー州リトルロック在住)は、今、アメリカで、老人福祉の仕事をしています。日本でいう公務員ですが、こう言っています。「アメリカでは、公務員といっても、どんどん自分から進んで何かをしていかないと、クビになってしまう。また自分で何かアイディアを出したり、新しいことをしたいというと、上司が、もっとやれと励ましてくれる」と。
本当は、ユキコさんは、もっと過激なことを言っていますが、日本の社会の現状とは、あまりにもかけ離れているため、ここでは控えめにしました。ユキコさんは、「社会のしくみそのものが、そうなっている。日本のように、上から言われたことだけをしていれば、安心という考え方は、通用しない」とも言っていました。
こうした傾向はオーストラリアにもあって、私の友人の多くは、生涯において、何度も職種そのものを変えています。またそういうことをしても、不利にならないしくみそのものが、できあがっています。あのヨーロッパでは、EU全体で、すでに大学の単位は共通化されていて、どこの大学で学んでも、みな同じという状態になっています。
世界は、どんどん先へ行っている。アメリカだけでも、学校へ行かないで、家庭で学習している、いわゆるホームスクーラーと呼ばれる子どもは、現在、二〇〇万人を超えたと推計されています。もっと世界の人は、自分の人生を、子どもの人生を、自由に考えている。あるいは自由という基本の上に置いている。日本人の悪口を言うのもつらいですが、この程度の自由を、「自由」と思いこんでいる、日本人が、実際、かわいそうに見えます。
RYさん、これはあなたの子どもの問題ではありません。あなた自身の問題です。あなたが魂を解き放ち、心を解き放ちます。そしてあなた自身が、大空を飛びます。それはちょうど、森へやってくる、鳥の親子連れと同じです。子どもの取りは、親鳥の飛び方を見て、自分の飛び方を覚えます。あなたが飛ばないで、どうして子どもが飛ぶことができるでしょうか。
「自分の子どもには苦労をさせたくない。社会に適応し、周りとうまくやって欲しい」ですかあ? しかしそんな人生に、どれほどの意味があるというのでしょうか。私は、一片の魅力も感じません。しかたないので、そういう人生を、私も送っていますが、しかし心意気だけは、いつも、そうであってはいけないと思っています。RYさんが言う「社会」というのは、戦前は、「国」のことでした。「お国のため」が、「社会のため」になり、「お国で役立つ人間」が、「社会で役立つ人間」になりました。今の中国では、「立派な国民づくり」が、中国の教育の合言葉になっています。日本も、中国も、それほど違わないのではないでしょうか。
今、行政改革、つまりは日本型官僚政治の改革は、ことごとく失敗しています。奈良時代の昔からつづいた官僚制度ですから、そう簡単には変えることができません。それはわかりますが、この硬直した社会制度を変えないかぎり、日本人が、真の自由を手に入れることはないでしょう。今も、子育てをしながら、RYさんのように悩んでいる人は多いはずです。小さな世界で、こじんまりと、その日を何とか無事に過ごしている人には、それはわからないかもしれませんが、しかしこれからの日本人は、そんなバカではない。「しくまれた自由」(尾崎豊「卒業」)に、みなが、気づき始めている……。
これは子どもの問題ではないのです。RYさん、あなた自身の問題なのです。ですからあなたも勇気を出して、一歩、足を前に踏みだしてみてください。何かできることがあるはずです。そしてあなた自身をがんじがらめにしている糸を、一本でもよいから取りのぞいてみるのです。
私は母ではない!
私は妻ではない!
私は女ではない!
私は、一人の人間だア!、と。
いいですか、RYさん、母として、妻として、女として、「私」を犠牲にしてはいけませんよ。自分を偽ってはいけませんよ。あなたはあなたの生きザマを、自分で追求するのです。それが結局は、あなた自身の子育て観を変え、あなたの子どもに影響を与えるのです。そしてそれが、今、あなたが感じている問題を解決するのです。
家庭は、それ自体は、憩いの場であり、心や体を休める場です。しかしそれを守る(?)女性にとっては、兵役の兵舎そのもの※。自分の可能性や、夢や希望、そういうものをことごとく押しつぶされ、家庭に閉じ込められる女性たちのストレスは、相当なものです。(もちろん、そうでない女性も、約二五%はいますが……。)仕事をもっている男性には、まだ自由は、ありますが、女性には、それがない。
だから家庭に入った女性たちほど、自由を求める権利があるのです。その中の一人が、RYさん、あなたということになります。
私たちは、ともすれば、自分の隠された欲求不満に気づかず、そのはけ口を子どもに求めようとします。子どもを代理にして、自分の果たせなかった夢や希望を、子どもに果たさせようとするわけです。しかしそんなことをしても、何ら解決しないばかりか、不完全燃焼の人生は、不完全燃焼のまま終わってしまいます。
子どもにしても、それは負担になるだけ。あるいは子どもがあなたの期待に答えれば、それでよし。しかしそうでなければ、(その可能性のほうが大きいのですが……)、かえってストレスがたまるだけです。あるいはそれがわかるころになると、あなたも歳をとり、もうやり返しのできない状態になっているかもしれません。
だから私は、「これはRYさん、あなた自身の問題だ」と言うのです。さあ、あなたも勇気を出して、その見本を、子どもに見せてやってください。
「私は、自らの足で立ち、自分の思うままの人生を自分で考えて歩いているのよ。あんたたちも、私に見習いなさい!」とです。それは、とっても、気持ちのよい世界ですよ。約束します。
(030625)
※「男は軍隊、女は家庭という、拘禁された環境の中で、虐待、そして心的外傷を経験する」(J・ハーマン)。
Hiroshi Hayashi++++++++July.08++++++++++はやし浩司
● 7月12日(July 12, 2008)
愚劣な『ダカラ論』
●キャリアを中断する女性たち
大半の女性は、結婚と同時に、それまでのキャリアを失う。
ただし、失うことにみな、抵抗しているというわけではない。
公式の調査によっても、約30%弱の女性は、「それでよし」としている。
「家庭に入って、夫の帰りをまちながら、夕食の支度をする」と。
が、そうでない女性は、そうでない。
キャリアどころか、せっかく始めた仕事にしても、夫の転勤とともに、そこで中断される。
私が今まで出会った女性(母親)の中にも、こんな人がいた。
東京の玩具メーカーで、デザイナーをしていた人。
卓球の世界では、国体で優勝するほどの力をもっていた人。
自動車会社のモデルとして働いていた人。
大学院を出て、研究生活を始める一歩手前までいっていた人、などなど。
こうして多くの人材が、家庭という「監獄」(イギリスの格言)に入ることによって、失われていく。
が、それから受けるストレスには、相当なものがある。
ときに、その後の夫婦関係、親子関係をゆがめる原因になることもある。
「夫や家族のために犠牲になった」という思いが、ずっと心をふさぐ。
●子育てに幻想は禁物
一方、子育てに過大な期待をもつのは、正しくない。
正しくないことは、(親に育てられたことがある人)なら、だれにもわかるはず。
たとえば、この私にしても、親に育てられたことがある。
とくに私の母親は、ことあるごとに、私に向かって、「産んでやった」「育ててやった」「大学まで出してやった」と言った。
それこそ耳にタコができるほど、そういう言葉を聞かされて育った。
私の母親は、それだけ私に何かを期待していたのだろう。
それはわかる。
しかし私の親が願うほど、私が親に感謝しているかとなると、それはない。
むしろ事実は逆で、私はごく最近まで、その言葉に苦しめられた。
今でも、心ない人たちは、「それでも、お前の親だろ」とか、「どんな親でも、親はおやだ」と、私を責める。
中には、森進一が歌う『♪おふくろさん』のようなすばらしい母親をもっている人もいるだろう。
しかしそういう母親は、少ない。
少なくとも私は、「♪世の傘になれよ」と子どもに諭した母親を知らない。
多くの母親たちは、(そして父たちも)、子育てに幻想をもっている。
「これだけのことをしてあげたのだから、私の子は、私に感謝しているはず」とか、「私と子どものとの間の絆は、絶対的」と。
しかしそれが幻想であることは、実は、ここにも書いたように、あなた自身が、いちばんよく知っていること。
そこであのバートランド・ラッセル(イギリスの哲学者、ノーベル文学賞受賞者)は、こう書き残している。
『子どもを尊敬し、子どもから尊敬され、必要なことはするけれども、決して限度を超えないことを知っている両親のみが、真の家族の喜びを与えられる』と。
●ほどよい親に心がける
親は親としての義務がある。
その義務を果たすのは、それは当然である。
しかし子どものために、自分の人生(=命)まで犠牲にしてはいけない。
一見それは子どものためのように見えるかもしれないが、自分のために犠牲になっている親の姿を見て喜ぶ子どもはいない。
私もあるとき、私の母親にこう思ったことがある。
「母さんは、母さんで、自分の人生を生きてほしい」と。
話はずっと具体的になるが、そのほうが子どものためにもよい。
子どもというのは、生き生きと前向きに生きている親を見ながら、成長する。
またそのほうが、子どもに安心感を与える。
さらに皮肉なことに、「親孝行なんか、考えなくていい」と言われて育った子どもほど、親思いの子どもになる。
私も今のワイフと生活を始めるようになってから、収入の約半額を、実家に仕送りした。
それ自体は、無駄ではなかった。
そのたびに、それがつぎにがんばる、原動力となった。
が、金銭的な負担感よりも、精神的な負担感のほうが、大きかった。
毎月、毎年、(ときには、毎日が)、その負担感との闘いだった。
心理学でいうところの「幻惑」との闘いということになる。
(家族である)という重圧感には、相当なものがある。
私はいつしか、「いつになったら、この重圧感から解放されるのか」と思うようになった。
だから、親類に、「お前は親孝行な息子だ」とほめられたり、母に、「ワッチは、お前のような親孝行の息子をもって幸せだ」と言われるたびに、実家を爆弾か何かで破壊したい衝動にかられた。
ともかくも、家族は家族だが、過大な期待をもたないこと。
幻想は、さらにもたないこと。
●人間の刷り込み
あなたは子どもをもうけたかもしれないが、親子といっても、つきつめれば、他人の始まり。
親子と、ほかの人間関係のちがうところは、脳の奥深くまで、(刷り込み)がなされている点だけである。
最近の研究によれば、人間も、鳥類のように、(刷り込み)がなされることがわかってきている。
その(刷り込み)をもって、「親子の縁は特別」などと、思ってはいけない。
さらに言えば、こういう事実もある。
子どもについての話だが、子どもを愛している親は、多い。
しかし親を、愛の対象と考えている子どもはいない。
依存性はあるかもしれないが、それは愛とは、まったく異質のものである。
たとえとしては、あまりよくない話かもしれないが、私の調査によっても、祖父母が死んだとき、涙をこぼした子どもは、ゼロだった。
(反対に、孫が不慮の事故か何かで死ねば、祖父母は狂ったように泣くだろうが……。)
最近、私の掲示板に、こう書いてきた女性もいる。
「あんな父親、早く死んでしまえばいい」と。
親絶対教の信者の人にすれば、とんでもない考えというこになるが、しかしそういう女性を、だれが、石もて、打てるだろうか?
言い換えると、親子であるがゆえに、一度その関係が破壊されると、他人以上の他人の関係になる。
話がどんどんと脱線してしまった。
いつものことだが、これには理由がある。
私は今、この原稿を、私のミニ・パソコンを使って書いている。
そのため文字を大きくした分だけ、前後12行しかひ表示されない。
全体をながめながら、文章を書くということができない。
それで話が、どんどんと脱線してしまう。
●不完全燃焼症候群と闘うために
……ということで、家庭に入った母親の話にもどる。
今まではどうだったかは知らないが、これからは、女性が、家庭に入ってキャリアを失う時代ではない。
またそうであってはいけない。
またそういう社会を目指さなければならない。
「女だから……」「妻だから……」「母親だから……」という、『ダカラ論』が、いかに愚劣なものであるか、これでわかってもらえたと思う。
それがなくならないかぎり、多くの母親たちが現在感じている、不完全燃焼症候群の問題は、解決しない。
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