Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Monday, September 15, 2008

*Sep 14th, 2008-2-

●生きる

「生きる」ということは、もっと別のことのような気がする。
同時に、「死ぬ」ということも、もっと別のことのような気がする。

私たちは「裸」で生まれる。
脳みそは、無垢の状態。
その私が今度は、「裸」で生きる。
いろいろな雑念が、脳みそを満たすようになる。

が、私は私。
どこまでいっても、私は私。
名誉や地位、そういったものがあるとしても、それは
あとからついてくるもの。
結果など、あってもなくても、気にすることはない。
それがわからなければ、野に飛ぶ鳥や蝶を見ればよい。
野に遊ぶキツネやタヌキでもよい。
「生きる」原点は、そこにある。

だから死ぬのも、裸。
ありのまま死ねばよい。
死ねば、私やあなたは、この宇宙もろとも、消えてなくなる。
少なくとも私やあなたがもっている「意識」というのは、そういうもの。
そういう「意識」が、死を乗り越えて、あの世にいくはずはない。
もし「行く」と信じているのなら、それは「思い込み」でしかない。

こんなパラドックスがある。
「逆説」とも言う。
「張り紙を張るな」という張り紙を張る。
「静かにしろ」と、大声で怒鳴り散らす。
そういうのをパラドックスという。

同じようなパラドックスに、自分の葬儀のことを心配する人がいる。
会う人ごとに、「私の葬式には来てくださいな」と頼んだりする。
自分の子どもに、「みすぼらしい葬式はするな」と言い伝えたりする。
しかし死んだその人に、自分の葬式のことがわかるだろうか。
仮にわかったとしても、その人が向かう「あの世」は、広大無辺に広い。
刹那(せつな)のそのまた刹那の、一瞬を過ごした地球上でのできごとなど、
「あの世」を前にすれば、ただの幻(まぼろし)。
そんな幻の結末などを、気にするほうがおかしい。

……と書いても、だからといって、「この世」はつまらないとか、
そう言っているのではない。
私が書きたいのは、その逆。

だからこそ、この一瞬一秒を、無駄なく、生きる。
「あの世」など、ないという前提で生きる。
死んでみて、あの世があれば、もうけもの。
なければないでもかまわない。

アインシュタインは、こう言っている。
「生きていること自体が、奇跡なのだ」と。

だったら今、生きていることを大切にする。
「あの世」へ行ってから、成仏するとか、しないとか、
そんなくだらないことは考えない。
考えても、意味はない。
もし本当に成仏するかしないかということになれば、それは「この世」での
生き様によって決まる。
悪いことをさんざんし放題しておきながら、成仏するもしないも、ない。
こんなことは、ほんの少し常識を働かせば、だれにだってわかること。

ちょこちょこと、そこらの僧侶が、読経したくらいで、その人のそれまでの
一生が、評価されると考えるほうが、おかしい。

もうやめよう、こんな愚劣な議論は。
書いている私だって、疲れてくる。

さあ、あなたも、ありのままをさらけ出して、ありのままに生きよう。
そして「そのとき」がきたら、ありのままに、死のう。
その日のために、今、思う存分、生きよう。
何が苦しいかといって、「この世」に、やり残したことを残すことぐらい、
苦しいものはない。
そういう思いをしないためにも、今、思う存分、生きよう。

そのあとのことは、そのとき、また考えればよい。


●失う

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私の近くに、もうすぐ70歳になろうと
いう人がいる。
評判のケチで、お金にせよ、モノにせよ、
何一つ、手放そうとしない。

しかしこのところ、体調を崩し、今現在は、
寝たきりに近い状態という。

「命」にくらべたら、ほかの、ありと
あらゆるものは、夏の日に昇る陽炎(かげろう)
のようなもの。

どうして自分の「命」には、ケチにならないのだろう。
あるいはその前に、どうして「健康」には、ケチに
ならないのだろう。

私には、そういう人たちの心理が、よくわからない。

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失うことを恐れる人は多い。
そういう人に共通するのは、人生観が薄いということ。
中には、「音楽など聴いたことがない」「本など読んだことがない」
「映画など見たことがない」などと豪語(?)する人もいる。
「まだ若いのだから、本でも読んで、少しは勉強したら?」などと言うと、
「私はもうすんだ」と。

つまり「世の中を知り尽くしたから、勉強する必要など、ない」と。

そして私より年長であることを理由に、私にあれこれと説教したりする。
私は私で、相手が年長であることに遠慮して、だまって、それを聞く。

「生への執着」。
それを裏返して言い換えると、「喪失への恐怖」ということになる。
そこでもし、「喪失の恐怖」から、人が解放されたら、「生への執着」も消える
はず。

私たちがなぜ「死」をこわがるかといえば、「生への執着」があるからに
ほかならない。

よい例(?)が、K国の金xx。
使い切れないほどのお金と、乗り切れないほどの車と、住み切れないほどの家。
そういった財産に加えて、身近に何十人もの、若い女性たちをはべらせているという。
で、ここから先は私の勝手な想像によるものだが、そういう人ほど、喪失への恐怖感
が強いはず。
つまり生への執着心が強い。
俗な言い方をすれば、「死んでも死に切れない」。
今は、そういう状態ではないか。
が、年齢は、たったの66歳。
若い。
その年齢だったら、世界中を旅しながら、遊んでいる人はいくらでもいる。
ぜいたくな旅でなくてもよい。
木賃宿に泊まり、屋台で売るソーセージをほうばる……。
つまりそれも財産のひとつと考えるなら、金xxの財産は、あまりにもみじめ。
貧しい。

大切なことは、身の回りで、何が大切で、何がそうでないか、それを明確に見極めること。
その価値判断を誤ると、そのまま人生そのものを、見誤ってしまう。
どうせ私たちは、死によって、すべてを失う。
この宇宙、もろとも、だ。

だからといって、積極的に失えということではないが、名誉や地位、それに財産にせよ、
「命」と比べたら、何でもない。
もっとわかりやすく言えば、「今、ここに生きている」ということにまさる価値は、
ほかにない。
それさえ大切にすれば、仮に今、重病であっても、こわいものは、何もないはず。

(その日)はいつか、かならずやってくる。
どういう形でやってくるかは、わからないが、かならずやってくる。
その日のために、私たちは常日頃から、心を養っておく。

音楽を聴いて、本を読んで、映画を見て……。
自分の人生観を厚くしておく。

もし人がケチになることがあるとするなら、「時間」ということになる。

くだらないテレビ番組を見たり、くだらない人と会話をしたり、くだらないことをして
時間をつぶす。
それこそ、本当の「損」というもの。
真・善・美……どれでもよいから、その追求のために、一瞬、一秒を燃やし尽くす。
そうでなくても、それにたどりつくのは、むずかしい。
あるいはそれにたどりつけるという保証は、どこにもない。
が、あきらめてはいけない。
ともかくも、私たちは、前に向かって進む。

あなたのまわりにも、ケチと呼ばれる人は多いだろう。
守銭奴となって、こまかいお金にきゅうきゅうとしている。
そういう人がそういう人であるとわかるだけでも、あなたはその人とはちがった
人であることを示す。

あとは、そういう人を、あわれで、かわいそうな人と思えばよい。