*We believe in Money?
●金権教(Money is Everything?)
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我ら金権教の信者たちは、すべての
価値を、金銭的な尺度でもって判断する。
人間関係も、人間の価値も、さらに自分
自身の生命の価値も。
金(マネー)がすべて。
金(マネー)さえあれば、どんな夢もかなう。
金(マネー)こそ、我らの本尊。
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●15年!
K氏(当時、40歳)は、Xという名前の会社に、最初は150万円を投資した。
つづいて2年後、さらに350万円、追加投資した。
計、500万円である。
30年も前の話だから、当時としてはかなりの大金である。
500万円もあれば、土地代は別として、家が一軒、建った。
が、さらに追加投資を求められた。
断われば、会社があぶないと聞かされた。
そこでK氏は、それまで勤めていた自動車会社を中途退社。
その退職金を、X会社に投資した。
その額、700万円。
計、1200万円になった。
自分は、X会社の役員となった。
が、X会社はそれからも火の車。
自転車操業を繰りかえした。
そのつど本社と事務所を転々とした。
K氏は、その会社とともに、最終的には三重県の小さな町に引っ越した。
が、こうして15年。
役員とは名ばかり。
実際には、X会社の工場で、工員として働いた。
言い忘れたが、X会社は、静電界を応用した(?)、特殊な
警報装置を製造していた。
そのK氏が、会社の倒産とともにこの浜松へ帰ってきたのは、数年前。
K氏は、55歳を過ぎていた。
K氏の奥さんは、こう言った。
「最初に投資しした、1200万円を回収したくて、どんどんと深入りしてしまい
ました」と。
が、15年は長い!
そのときはそう思わなくても、40代の10年には、別の意味がある。
そのことは50歳とか60歳になってみると、わかる。
●1年は600万円の価値
こんな例で考えてみよう。
あくまでも金権教に従って、である。
仮に今、あなたが脳梗塞か何かの重い病気だったとする。
がんでもよい。
闘病生活がつづいている。
そういうときだれかがやってきて、「1000万円出しなさい。出せば、
あなたの病気を治してやる」と言ったら、あなたはどうするだろうか。
60歳になると、いつも死の影をそこに感ずるようになる。
知人や友人の中には、すでに死んだ人も何人かいる。
が、もし30歳とか、40歳だったら、どうだろうか。
ひょっとしたらこう考えるかもしれない。
「1000万円で本当に病気が治るなら、出してもいい」と。
実際、そういうふうにして大金を払う人は少なくない。
で、さらにこう考えるかもしれない。
「1000万円使っても、また元気で働けるなら、そのお金を取り返すことが
できる」と。
さらに「私の1年は、平均的な労働者に換算するなら、600万円の価値がある」と
考えるかもしれない。
「2年で1200万円、3年で1800万円……」と。
……こうしてますます金権教教団の信者となっていく。
●金権教の信者
が、こういう話を聞いたとき、あなたはどう思うだろうか。
「その通り」と思うだろうか。
それとも、「どこかおかしい」と思うだろうか。
そう、おかしい。
おかしいが、金権教の信者には、それがわからない。
若いころだが、実は、私はこんなふうに考えたことがある。
ときどき詐欺師のような人につかまって、そのつど、かなりの大金を損したことがある。
そういうとき私は、よく、考えた。
「また来月、がんばればいい。1か月、がんばれば取り返せる」と。
つまりこうして私は金権教の信者になっていった。
生きることそのものを、金銭的な価値で判断するようになっていった。
が、それはそれとして、一度心にしみついた意識は、そう簡単には消えない。
今でも、ときどきそれに似た考え方をする。
つい先日も、そうだ。
「もうすぐ61歳になる」と思ったときのこと。
「60歳からの、この1年間は、もうけもの」と考えた。
しかしその(もうけもの)という部分の中に、金銭的な「得」まで混ぜて考えてしまった。
「1年がんばったから、ぼくは、○百万円、得をした」と。
●K氏について
さてK氏の話に戻る。
私はK氏の話を聞いたとき、こう考えた。
「ぼくなら、損をしたお金のことは忘れて、つぎの仕事をするのに」と。
K氏は、投資した1200万円にこだわり、15年という年月を浪費してしまった。
15年という年月を考えるなら、15年のほうが、1200万円より、はるかに損である。
1200万円を15年で割ると、1年で80万円。
「1200万円というと大金だが、1年に80万円ということなら、
まだ、何とかなる」と。
しかしこの考え方も、おかしい。
K氏は、1200万円にこだわって、結果的に15年を浪費したが、
「1年で80万円」という私の発想も、K氏の発想の同一線上にある。
●損と得
私は今、生きている。
それは本来、金銭的な価値とは、無縁のはずである。
今、生きていることを、金銭的価値とからめて考えるほうが、おかしい。
もしこんな論理で、自分の命を考えるようになったら、たとえば病気をしたとき、
どう考えたらよいのか。
たとえば1年間、入院したとしたら、損をしたということになるのか。
さらに言えば、死ぬことは、損ということになるのか。
病気や事故などというものは、確率と偶然の問題。
「私だけは、だいじょうぶ」などと、今あなたが考えているとしたら、あなたは、
とんでもない楽天家か、ノーブレインと考えてよい。
私たちは毎日、その確率と偶然の上に、生きている。
元気だから、「金銭的に得をしている」と強く考えれば考えるほど、たとえば
病気や事故になったとき、立ちあがれなくなってしまう。
そのときのため、というわけでもないが、こうした金権教とは、できるだけ早く
決別したほうがよい。
●結論
大切なのは、そのときどきを、心豊かに楽しく生きること。
K氏にしても、最初の段階で、損は損として割り切ることができたら、
その後の15年間は、かなり変わったものになっていたはず。
私も若いころ、金権教に毒されなければ、別の形で自分のエネルギーを発散
できたかもしれない。
「損をしたから、取り返してやる」という発想では、一日とて、安穏たる日々は
やってこない。
事実、あのころの私は、毎日、金、金、金……に追われつづけていたように思う。
ある日ワイフが、私にこう言った。
「あなたは金の亡者みたい。顔が醜い」と。
私が37歳のときのことだった。
以後、私は、たとえば家計簿なるものをいっさい、放棄した。
収入がいくらあって、支出がいくらあって……という計算を、まったくしなくなった。
入ったお金はそのまますべてワイフに渡し、そのまま忘れるようにした。
生活の質も変えた。
すべての基準を最低にした。
車も、もっとも安いものにした。
外食も、もっとも安いものにした。
衣服についても、そうである。
靴にしても、3000円以上のものは買わないと心に決めた(当時)。
私の論理はこうだ。
私は一生けん命、できるかぎりのことをしている。
ふつうの人のように生活をしている。
その私が、もし生きられぬというのであれば、私だけではない。
みな、生きられないはず。
最低の生活に心がければ、生きられぬはずはない、と。
が、それでも生活に困ったら……。
ワイフはいつもこう言っている。
「家や土地を売れば、何とかなるわよ」と。
そう、それはそれでしかたのないこと。
お金がなければ、人は、たしかに不幸になる。
しかしお金では、けっして、幸福は変えない。
金権教というカルトでは、けっして、人は、幸福にはなれない。
むしろ、その結果として不幸になる人のほうが、多いのでは?
要は、つきあい方の問題ということ。
金権教とは賢くつきあって、それ以上、深入りしないこと。
私の結論は、そういうことになる。
Hiroshi Hayashi++++++++Oct・08++++++++++++++はやし浩司
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