Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Sunday, October 05, 2008

*Lose or get?

10月6日
●パソコンの故障

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話せば長くなるが、私がメインとして使っている、
VISTAパソコンが、起動不能になった。
ハードディスクの全コピーをするとき、
OSそのものを破壊してしまった。

しかたないので、再セットアップ(リカバリー)。

午前7時から始めて、現在、午前11時。
今は、こうして待つしかない。
ジリジリ、ジリジリ……。

どうしてこんなに時間がかかるかって?
それにも、長い話がある。
しかし話しても意味がないので、省略。

せっかくの日曜日。
私は、こうして書斎にこもりきり!

ア~~~ア!

居間へおりていくと、ワイフが退屈そうに、
YOU TUBEの音楽を聴いていた。
「ごめんね」と声をかけると、あきれた
ような顔をして、私を見あげた。

のどかな日曜日。
しかしどこか空気がよどんでいる(?)。

こうした作業は、ボケ防止のためには、
たいへんよい。
一見無駄な作業に見えるが、無駄ではない。
脳みそがガンガンと、刺激される。
自分でもそれがよくわかる。

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【損の美学】

●パソコンの修理

実のところ、この文章を書き始めたのは、夕食も終えた、午後7時。
夕方、1~2時間ほど、ワイフと買い物に出かけた。
あとは、ずっと、パソコンの修理。

ひとつのソフトをインストールするといっても、多くは、それぞれ
Upgrade版で購入している。
つまり一度、旧バージョン版をインストールしてから、改めて、Upgrade版を
インストールしなければならない。
そたびに、私の名前を再登録。

ワード、パブリシャー、画像編集ソフト、住所録ソフト、HP編集ソフトなどなど。
メールにしても、IDナンバーからパスワードまで、ぜんぶ一通り、インプット
しなければならない。

それでこんなにも時間がかかってしまった。

●得をする子ども

子どもたちが教室から帰るとき、私はよくスリッパ並べを頼む。
そのとき気持ちよくそれに応じてくれる子どももいれば、サーッと逃げていく
子どももいる。

サーッと逃げていく子どもは、きっとこう思うにちがいない。
「得をした」と。

しかし本当に得をしたのは、どちらなのか?

私は毎回ではないが、そうした手伝いを気持ちよくしてくれる子どもには、
何かのプレゼントをあげることにしている。
教室に、たくさんのおもちゃ類が置いてあるのはそのためと考えてもらってよい。
そのつど買ってきて、しばらく並べたあと、子どもたちに払いさげている。

●金権教

私たち団塊の世代は、程度の差こそあれ、みな、金権教に毒されている。
時間すらも、「金(マネー)」に換算して考える。
そういう時代を生きてきたし、そのためそういう卑しい癖が、身についてしまっている。

またこういう書き方をすると、その病気で苦しんでいる人たちには、
たいへん失礼ということもよく知っている。
またそういう人たちが、損をしていると言うのではない。
ないが、しかし私は、ときどき、こう考える。
「こうして健康で仕事ができるだけでも、もうけもの」と。

仮に今、私が脳梗塞か何かで、歩くこともままならないとする。
当然、行動にも制約が生まれる。
脳の働きも、影響を受ける。
いくら相手が幼児でも、もし今、私が脳梗塞か何かになったら、その時点で
教えるという仕事をやめなければならない。
収入は、そこでストップ。

だから1か月、健康で働けるということは、1か月分の金銭的価値がある
ということになる。
(こういう発想をするところが、団塊の世代の特徴ということになる。)
そう言えば、若いころ、私にこう言った知人がいた。
小さな会社を経営していた。

「林君、100万円損をしたらね、翌月1か月、元気で働けることだけを
考えればいい」
「1000万円損をしたらね、翌年1年、元気で働けることだけを考えれば
いい」と。

当時、その友人は、毎月、100万円ほどの収入をあげていた。

●子育ても、金(マネー)

こうした金権教は、一度、それに毒されると、自分の心の中から消すのは、
たいへんむずかしい。
その人の生き様の基盤を作ってしまう。
哲学を超えて、宗教になってしまうこともある。
だから、「金権教」という。
そのため、時間どころか、人間関係、家族関係、さらには人間の価値まで、金銭的価値で
判断するようになってしまう。

ある人はこう言った。
「子どもを大学へ送るなんて、損なことだよ」と。
「私立大学へ出すと、今では、月々17~20万円の仕送りがかかる。
プラス学費。4年間で、計2400万円ほど、かかる。
それだけのお金を息子が返してくれればいいが、今どきの子どもは、金など
返してくれない。だから損」と。

ずいぶんと心のさみしい話ではないか。

●パソコンの修理

今日、パソコンの修理をしながら、私はこう考えた。
「一見、損をしているように見えるが、実は、得をしているのだ」と。
「損」というのは、「時間の浪費」をいう。
朝、7時ごろから始めて、やっと何とか動くようになったのは、午後7時。
時間にすれば、約12時間!

メインで使っていたパソコンだけに、あれこれとめんどうな設定がつづいた。
最後は、証券会社の電信認証登録。

が、本当に私は、損をしたのだろうか?
答は「NO!」。

ときに額に冷や汗をかきながら、夢中で作業をこなした。
「相手はたかが電気器具ではないか」「直らないはずはない」と。

ウィルス対策ソフトをインストールするときも、そうだ。
簡単に再インストールすることはできない。
一度、登録そのものを解除しなければならない。
解除した上で、再登録ということになる。
その段取りを、頭の中で考えながらする。
順番をまちがえると、あっという間に、ウィルスが侵入してくる。

そのためいくら道楽の範囲とはいえ、私は真剣。
追いつめられたような緊張感。
その連続。
ハラハラ、ドキドキ、またハラハラ、ドキドキ……。

が、そういうふうに追いつめられないと、脳みそというのは、働かない。
ふだんだと、日曜日の午後は、パソコン相手に文章を書くことが多い。
が、そういうときというのは、眠くなることはあっても、頭が熱くなることは
めったにない。

私は頭を熱くすることで、脳みその鍛錬をした。
が、これこそ、まさに「得」というもの!
ボケ防止のためには、何よりも効果的!

その証拠に、一連の作業が終わったとき、「やり終えた」という満足感と
ともに、心地よい疲れを全身に感じた。

●頭の運動

私「パソコンの修理は、損ではないよ」
ワ「そうね」
私「時間を無駄にしたとも、思わない。もし無駄ということになるなら、
毎朝ジョッギングに出かける人も、時間を無駄にしていることになって
しまう」
ワ「でも、そんなに頭を使うの?」
私「使うねエ~~。今日は500メートルくらいの山を登ったほどの、
体力ならぬ、知力を使ったよ」と。

今日の修理には、2つの大きな伏兵がいた。
ひとつは、ハードディスクのコピーを試みたわけだが、コピー先のハードディスク
がこわれていた。
もうひとつは、きわめて初歩的なミスだが、ハードディスクへのコネクターが、
マザーボードから、はずれていた。
この2つに気づくのに、合計で1時間ほど、かかった。
かかったというより、パソコンと格闘した。
それはパソコン相手の知恵比べのようなもの。
「ああでもない、こうでもない」と自分に言い聞かせながら、作業をする。
原因をさがしながら、修理をする……。
その緊張感が、たまらなく、楽しい。

●そこで損得論

何が「損」で、何が「得」なのか、本当の」ところ、よくわからない。
また何をもって、「損」といい、何をもって、「得」というのか、
それもよくわからない。

家の中で何もせず、ゴロゴロしているのが、得とは、だれも考えない。
(得と考える人もいるだろうが……。)

他人のために、あれこれと汗を流すことが、損とは、だれも考えない。
(損と考える人もいるだろうが……。)

しかし私は、あえて今でも自転車で通勤している。
車で行けば、15分~20分。
自転車だと、40分はかかる。
しかし私は、「損をしている」とは思わない。

先の知人のような考え方をするのは、あまり好きではないが、
「今日、1日、しっかりと運動をすれば、たぶん、明日も元気で仕事が
できるだろう」と考える。
「今月、1か月、しっかりと運動をすれば、たぶん、来月も元気で仕事が
できるだろう」と考える。

●あとは前向きに生きていく

明日は、月曜日。
HP社の2133(ミニ・パソコン)の日本語キーボードを注文する。
それにACER社のaspire1も、底のゴム部品がどこかへ行ってしまった。
それも注文する。
もうひとつ、aspire1の、増設バッテリーも、注文する。

数年前だが、私にこう教えてくれた人がいた。

「林君、60歳をすぎたらね、人生はコンパクトに生きるのがいいよ。
身のまわりを整理しながら、ね」と。

とんでもない!

どうしてこの私が、コンパクトに生きなければならないのか。
だれのために、何のために!

一見、説得力があるようで、この意見は、それ自体、バカげている。
もしこんな論法がまかりとおるなら、「子どもは子どもらしく」「老人は
老人らしく」、さらには「男は男らしく」「女は女らしく」」となってしまう。
それぞれの人が、それぞれの立場で、『ダカラ論』と闘っているのに、
どうしてこの私が、その『ダカラ論』に従わねばならないのか。

「老人だから、老人らしく……」なんて、まっぴら、ごめん!

●結論

まっすぐ前に向かって生きることに、損も得もない。
まっすぐ前に向かって生きていること自体が、「得」なのだ。
中には守銭奴になって、小銭の奴隷になっている人がいる。

先日も、実の娘に対して、こう言っていた母親(70歳くらい)がいた。

「貯金がどんどんと減っていってしまう!」と。

この夏、近所で、葬式や結婚式がつづいたことについて、その女性はそう言った。
しかしそんなに小銭をためこんで、どうする?
あの世まで、もっていくつもり?
毎日仏壇の金具をみがいて過ごしていた老人がいたが、毎日、小銭を数えて
過ごすというのは、もっとさみしい。

要するに、この世界には、損も得もない。
生きているということ自体が、すばらしい財産。
もちろん健康で、仕事ができれば、さらによい。
お金(マネー)というのは、あくまでも手段。
生きるための手段。
生きるために稼ぐというのなら、私にもわかる。
それが稼ぐために生きるようになったら、おしまい。
生きることの(すばらしさ)まで曇らせてはいけない。