*Soon I'll be 61 years old!
●年齢
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ここ1~2か月、私の心境が大きく変化している。
それまでは、ジジ臭さとの闘いだった。
しかしここ1~2か月、急速に、その意識が遠ざかり始めている。
よいことだ。
年齢などというものは、自分で決めるもの。
気にするほうがおかしい。
私はまだまだ現役だし、この先、死ぬまで定年退職はない。
心配なのは、脳みそだが、今のところ、ちゃんと機能している。
数日前も、高校生と大学入試問題を解きあってみた。
英語では負けない。
数学は、引き分け。
国語は、まあまあ。
数学にしても、最近は、パズルのような問題が多くなった。
国語については、若いころより読みが深くなった。
長文読解問題にしても、作者の心のレベルまで、読み取れるようになった。
「この程度の作家だから、この程度のねらいだろう」と、おおまかな目安を
つけて、問題を解くことができる。
英語は、今でも(おかしな問題)が多い。
全体としてみると、英語がいちばん保守的。
問題を解きながら、1人の高校生(高2女子)がこう言った。
「先生、この英語の意味がわかな~い」と。
私「わからなくてもいい」
高「どうして?」
私「もとから、へたくそな英語だよ。アメリカ人が読んでも、意味がわからない
と思うよ」
高「どうしてそんな英語が、入試に出るの?」
私「外人の書いた英語は、すべて正しいという、おかしな神話があるからだよ。
日本人でもそうだろ。文を書くのがうまい人もいれば、へたくそな人もいる。
これはへたくそだ」と。
脳みその健康は、肉体の健康に似ている。
常に鍛えてこそ、維持できる。
その努力を怠ったとたん、その時点から、退化する。
ともかくも、年齢という(数字)など、気にするほうが、おかしい。
またそんなものに束縛されてはいけない。
少なくとも、自分で老人臭くなるのは、まちがっている。
……ということで、「私は私」と生きることには、2つの意味がある。
ひとつは、他人の目を気にしないで生きるという意味。
もうひとつは、年齢を気にしないで生きるという意味。
ともすれば暗くなりがちな、老後の未来。
その未来に、この1~2か月、明るい光が見えるようになってきた。
バンザ~イ!
我ら、ヤング・オールド・マン、人生は、これからだア!
Hiroshi Hayashi++++++++Oct・08++++++++++++++はやし浩司
●10月3日
●もうすぐ満61歳!
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生徒たちには、私はいつもこう言っている。
「ぼくには年齢はない。いいか、私は自分の
中身を見て、自分で年齢を決める。
いくら数字の年齢が小さくても、
若いということにはならない。
数字が大きくても、老人ということに
はならない」と。
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かく言う私も、この10月に満61歳になる。
60+1歳である。
その満60歳になったとき、私は何も
変わらなかったことが、うれしかった。
その翌日も、そのまた翌日も、そのままだった。
それがうれしかった。
そうして、ちょうど、1年が過ぎた。
明日のことはわからないが、この1年も、
何ら変わることなく、無事、過ぎた。
病気もしなかった。
事故もなかった。
私はこの1年間は、「もうけもの」と思っている。
学生時代の友人のS君も、そう言っていた。
(S君は、「50歳以上は、もうけもの」と言っていたが……。)
本来はないはずの、1年。
その1年を、無事、過ごすことができた。
それまでと変わりなく、収入も得ることができた。
雑誌でいえば、「おまけ」。
ところでワイフのTクラブには、現在、10人ほどの
男性が属している。
その中の3人が、今年、昨年満60歳になり、定年退職
したそうだ。
女性会員の夫の中にも、ここ1、2年で退職した人たちがいる。
そういう人たちの話をおおざっぱに総合すると、
60歳を過ぎて何らかの仕事をしている人は、50%。
何もしないで、家でブラブラしている人(失礼!)は、50%。
つまり「2人のうち1人は仕事をしている」ということにもなるし、
「2人のうち1人は、何もしていない」ということになる。
私「何もしていない人は、家で何をしているの?」
ワ「パソコンをいじっているという話よ」
私「ぼくもいじっているよ」
ワ「あとはクラブに出て、スポーツをしているとか……」
私「フ~~ン」と。
私は昔から、貧乏性。
正確には、不安神経症。
最近では、パニック性人格障害という。
「何もしなくていい」などと言われると、それだけで気がヘンに
なってしまう。
それに原稿を書くといっても、常に新しい情報に
接していなければならない。
たとえば夏休みが1、2週間もつづいたりすると、
育児論そのものが、書けなくなる。……書けなくなってしまう。
これはおもしろい現象と思う。
ほかに、平穏は美徳だが、生活が平穏になり過ぎてしまってもいけない。
やはり、何も書けなくなってしまう。
私「パソコンをいじるって、いじって、どうするの?」
ワ「私にもわからないわ」と。
私のばあい、「パソコンをいじる」というのは、こうして
文章を書いたり、HPを更新したりすることをいう。
しかし……。
余計な節介かもしれないが、団塊の世代よ、もう少し、がんばろう!
自分のためというより、日本のため。
未来の子どもたちのため。
「仕事」というのではなく、「やるべきこと」。
それをさがして、それに向かっていこう。
でないと、今はまだよいが、やがてすぐ粗大ごみになってしまう。
義兄がこう言っていた。
「あのね、75歳以上になると、病院でも手術をしてくれないよ」と。
「がんでも、75歳以下は手術をしてくれるが、75歳以上だと、
手術をしてくれない」と。
これはあくまでも風聞だが、すでにそういう年齢制限(?)が、でき始めている。
が、その年齢にしても、少しずつ、やがてさげられるかもしれない。
私たち団塊の世代がそのころになると、「満70歳」になるかもしれない。
ということは、あと10年。
何もしないで、ブラブラと過ごす老後を、けっして理想の、またあるべき
老後の姿と思ってはいけない。
孫の世話を庭いじり、晴耕雨読、そんな老後を、自ら求めてはいけない。
私たちには私たちとして、やるべきことがある!
……とまあ、勝手なことを書いてしまったが、この1年も、あっという間に
過ぎてしまった。
が、これからの1年も、同じように過ぎていくだろう。
しかしそれでも感謝、感謝、また感謝。
生きていることに感謝し、健康であることに感謝し、仕事があることに感謝し、
1日とて無駄にすることなく、つぎの満62歳を迎えたい。……迎えるぞ!
Hiroshi Hayashi++++++++++++++++++++++はやし浩司
●『ブーリン家の姉妹』、中世イギリス・愛と憎しみの相関図
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今度、映画『ブーリン家の姉妹』が、封切られる。
映画館でもらった小冊子(TOHO CINEMAS)
の案内には、こうある。
「王の意向で一族の命運が決まった時代。
野心旺盛な男たちは、一族の娘を王に近づけようと
躍起になった。
王が娘を気に入り、王妃の侍女=愛人として王室に
入れば、近親者は要職にとりたてられる。
最強の手段は世継ぎの男児出産。
産まねば別の女へ愛は移る。
こうして女たちは一族繁栄のため、ほかの女たちと
ドロドロの王の寵愛争奪戦を繰り広げた。
王室の奥には、嫉妬や策略が渦巻いていたのである」と。
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私はときどきこう思う。
学校での歴史の勉強もよいが、こうしたよくできた映画を子どもたちに
見せるのも、よいのではないか、と。
たとえばこの日本では、「歴史」というと、あたかも絵巻物のように、
過去から現在まで、まんべんなく教えるというのが、常識になっている。
しかしそれこそ、世界の非常識。
ヨーロッパ(EU)などでは、それぞれの子どもが、歴史の一場面に
スポットをあて、(つまり教師からテーマを与えられ)、それを深く勉強する。
たとえば「あなたはトラファルガーの戦いについて調べなさい」
「あなたは、ナポレオンの生涯について調べなさい」と。
テーマを与えられた子どもは、1年ほどかけて、それについて徹底的に
調べ、レポートにまとめたりする。
学年末にそれをみなの前で発表させる学校も多い。
そのできぐあいをみて、教師は、その子どもの能力を評価する。
そういう教育を、少なくとも小学校の高学年からしている。
私はまだ『ブーリン家の姉妹』を見ていない。
内容からして、子どもに不適切なシーンも多いかと思う。
しかしこの説明書を読んだだけでも、「そんなことがあったのか」と驚く。
アン・ブーリンとヘンリー8世の間に生まれた子どもが、のちにエリザベス1世
となる。
スペインの無敵艦隊を破り、イギリスに黄金時代(ゴールデン・エイジ)を
もたらした女王である。
『エリザベス・ゴールデン・エイジ』という映画は、すでにDVDも発売
されている。
私はそれを劇場で見たが、星は4つの、★★★★。
かなり見ごたえのある映画だった。
話をもどす。
私たちは学校で、「エリザベス1世、スペインの無敵艦隊を破る」と習う。
ついでに年号も教えられる。
しかしそこまで。その中身については、まったく知らない。
だからつまらない。
だから役にたたない。
私たちがなぜ歴史を学ぶかといえば、過去の失敗を学び、それを現在や未来に
生かすためである。
この「役に立つ」「生かす」という部分で、日本の学校教育は、完全に的をはずれている。
日本の学校教育は、将来、その道の学者になるためには、すぐれた体系をもっている。
それもそのはず。
こうした教科書は、その道の学者たちによって、作られている。
しかし将来、その道の学者になる子どもは、いったい、何%いるというのか?
欧米では、日本でいうような教科書すら、ない。
テキストというのはあるが、日本でいう教科書とは、まったく異質のものである。
こうした教科書を「柱」に、国民の意思統一を図っている国は、独裁国家か
専制主義国家、全体主義国家、あるいは極東アジアの国々に限られている。
どうしてこの日本で、教科書なのか?
教科書検定なのか?
批判ばかりしていてはいけない。
だったら、こうしてはどうか。
子どもにこういう宿題(テーマ)を与えてみる。
「あなたは、映画『エリザベス』『エリザベス・ゴールデン・エイジ』をみて、
エリザベス1世が、どういう女王であったかを、6か月かけて、研究しなさい。
参考に、『ブーリン家の姉妹』も見るといいでしょう」と。
その子どもには、エリザベス1世について、徹底的に勉強させる。
時代的背景、当時の世相、人間関係、イギリスの歴史、スペインとの関係、服装などなど。
ついでにエリザベス1世の発言集も作らせてもよい。
映画の中の言葉を拾いださせるのも、一案である。
というのも、歴史という科目にしても、へたをすれば、ただの暗記科目で終わってしまう。
事実、私たちの時代は、そうだった。
その結果がどうかというと、今、頭の中に、何も残っていない。
エリザベス1世がスペイン艦隊を破った年号すら忘れてしまった。
(年号など、本で調べれば、すぐわかることだが……。)
大切なのは中身。
もっと言えば、子どもの探究心、研究心を育てること。
そのほうが、将来、はるかに役に立つ。
もっとも最近の学校教育は、大きく変わりつつある。
子どもたち(中学生)が、学校から与えられる夏休みの宿題にしても、先に紹介した、
どこかヨーロッパ風のものが多くなった。
(暗記)から(自ら考える)教育へと、あまり目立たないが、今、確実に変化しつつある。
あとは大学入試のあり方を変えればよい。
大学入試が旧態依然のままでは、学校教育も変わらない。
それは大前提だが、言い方を変えると、大学入試そのものも、おかしい。
へん。
……というようなことを、TOHO SINEMASの小冊子を読みながら、考えた。
中には、「映画を教材にするなんて!」などと思っている人もいるかもしれない。
しかしどう頭の中で思いをめぐらしたところで、当時の衣装を見につけた女性が、
馬にまたがり、髪を風になびかせるシーンまでは、想像できない。
映画だから、多少のまちがいはあるかもしれないが、大切なのは、その臨場感である。
俳優に感情移入ができれば、さらによい。
エリザベス1世の気持ちになりきって、当時の時代的背景を理解できれば、さらによい。
で、話はぐんと個人的な体験に飛ぶ。
つい先日、映画『ベン・ハー』を演じた、C・ヘストンが死んだ。
私はそのニュースを知ったとき、C・ヘストンが死んだというよりは、ベン・ハーという
あの人物が死んだような錯覚にとらわれた。
その映画を見たときは、ただの映画。
それはわかっていたが、10年とか20年とかたって、あの映画を振りかえってみると、
あたかも私がその時代に生きていたような錯覚にとらわれる。
2000年前の、イスラエルのあの地に、である。
が、そういう錯覚にとらわれるようになったのは、けっして映画だけの影響ではない。
私はその10年とか20年とかいう時間の中で、ユダヤ人に興味をもち、キリスト教に
興味をもち、ついであの時代や時代的背景に興味をもつようになった。
好んでその種の情報を求め、自分のものとした。
つまり映画を「柱」に、さまざまな「肉付け」をした。
それが今、私をして、そう思わさせる。
「あのベン・ハーが死んだ」と。
もちろん映画にも、いろいろある。
最近見た映画の中でも、たとえば『ミSト』とか、『クローBーフィールド』
などは、駄作中の駄作。
見ている最中に、「金返せ!」と叫びたくなるような映画だった。
暴力映画もある。
セックス映画もある。
しかしその一方で、すばらしい映画もある。
まだ『ブーリン家の姉妹』は劇場でも公開されていないが、前評判はたいへん高い。
見て損はない映画だと思うし、高校生くらいになら、歴史の参考になるような
映画かもしれない。
教育の中身も大切だが、教育のし方も、これからは変わってくるだろう。
「YOU TUBEを使って、世界の国歌を集めてきなさい」
「YOU TUBEを使って、世界のノーベル平和賞について調べてきなさい」と。
そしてその画像と音楽、音声を、授業中に発表させる。
想像するだけでも、ワクワクするほど、楽しい授業ではないか!
Hiroshi Hayashi++++++++++++++++++++++はやし浩司
●HP2133に、日本語式キーボード
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7月に、HP社の2133を買った。
ミニ・パソコンである。
英語式キーボードで、使いにくさを感じていた。
が、今度、日本語式キーボードのが、発売になったという。
残念!
少し、待てばよかった。
さっそく今日、その店に行って、交換できないかどうか、相談してみる。
英語式キーボードから日本語式キーボードへ、キーボードだけ交換できれば、うれしい。
が、多分、無理だろう。
しかしどうせ、ダメで、ダメもと。
一度、聞いてみるだけ、聞いてみよう。
それがだめなら、やはり2133は、息子に払い下げる。
……と思いながら、HP社に電話で問い合わせると、キーボードだけ
取り替えることで、日本語キーボードにすることができるという。
バンザーイ!
よかった。
さっそく、日本語キーボードを取り寄せることにした。
値段は、4200円程度。
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