*Nov. 19th, 2008
●11月19日・雑感
●喪中の知らせ
昨日、近くのフォトショップで、喪中のハガキの印刷を頼もうとしたが、やめた。
年末に出す、あれである。
「喪中のため、新年のあいさつを遠慮させていただきます」とか何とかいう、あれである。
しかしバカげている。
こんなハガキを出すこと自体、バカげている。
……ということで、印刷を頼むのを、やめた。
まずその中身を考えてみよう。
毎年、年賀状をたがいに交換している人は多い。
それはそれ。
日本人の国民的行事になっている。
が、喪中にある人が、「新年、あけましておめでとうございます」と書くのは、
おかしい?
だからといって、新年早々、「昨年、母が逝去しました」と書くのも、おかしい?
年賀状を出さないと、相手が心配するだろう……ということで、前もって、喪中の
知らせを書く。
その流れは、よくわかる。
しかし新年は新年。
どうして「明けまして、おめでとうございます」と書いてはだめなのか?
だいたい、喪中とは何か?
広辞苑には、「喪に服している期間」とある。
つまりは「悲しみがいまだ癒やされない期間」のこと?
しかし率直に言って、今年、私は実兄と実母を、あいついで亡くした。
が、悲しさはほとんど残っていない。
だからといって、悲しんでいるフリをするのもいや。
人、それぞれ。
人間関係も、人、さまざま。
この世界では、自分がそうだからといって、相手に同じものを求めてはいけない。
自分がそうでないからといって、相手にそうであってはいけないと言ってはいけない。
が、さみしく思う気持ちはないわけではない。
身内は身内だし、それなりの思い出は色濃く残っている。
それに私の家に来てからの母は、まるで別人だった。
おだやかで、やさしく、遠慮深かかった。
ときどき「これが同じ、あの母か?」と思ったこともある。
兄についても、兄というよりは、いつしか自分の弟、あるいは息子のように
思うようになった。
だからやはり喪中は喪中ということになるのだが、しかしそこまで。
反対に、私は、なぜ日本人がこうまで「形」にこだわるのか、その理由がわからない。
喪中に知らせにしても、(薄墨の文字)でなければならないという。
が、どうして薄墨なのか?
さらに言えば、年賀状にしても、出したい人は出せばよい。
もらいたい人は、もらえばよい。
悲しくて出す気にならなかったら、出さなければよい。
相手がそれで「失礼!」と思うなら、そう思わせておけばよい。
どうせその程度の、つまりは、形だけの人間関係。
そんな人間関係に、どれほどの意味があるというのか。
もっと人間は、自然体で生きればよい。
自由に生きればよい。
昔、スウェーデンの性教育協会の会長に、エリザベス・ベッテルグレンという
女性がいた。
私はその人の通訳として、あちこちの講演会場を回った。
そのベッテルグレン女史は、こう言った。
「性の解放というのは、フリーセックスのことではない。
性にまつわる古い因習や偏見、誤解を解くことです」と。
それからほぼ40年。
日本もやっとベッテルグレン女史の言ったことが理解できるようになった。
が、それだけでは足りない。
真の自由とは、「生きることにまつわる古い因習や偏見、誤解を解くこと」から、
始まる。
自由にものを考え、自由に行動する。
が、それは同時に、きびしさとの闘いでもある。
古い因習に従って生きる方が、ずっと、楽。
味方も多い。
何よりも、まず第一に、何も考えなくてすむ。
が、それでは、ただ「生きただけ」、あるいは「息(いき)ただけ」の人生で
終わってしまう。
「活(い)きる」ためには、自由でなければならない。
……とまあ、そこまでおおげさに考える必要はないかもしれない。
たかがハガキ一枚。
いらぬ波風を立てるくらいなら、静かにいていたほうが、得?
しかし同時にこういうことも言える。
身の回りのささないことからでも改革していかないと、いつまでたっても、
この日本は変わらない。
日本を変えるためには、みなそれぞれ自分の立場で、少しずつでも改革していく。
おかしいものは、「おかしい」と声をあげる。
そういう声が集合されたとき、日本は変わる。
今こそ、そのときではないのか?
で、私の結論。
喪中の知らせなど、だれにも出さない。
バカげている。
Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司
● 11月19日(水曜日)
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昨日は、朝から風邪ぎみで、つらい一日だった。
夕方5時ごろ、悪寒がした。
あわせて腰痛。
腰の関節が痛かった。
もしやインフルエンザ?
夜のクラスをキャンセルして、そのまま帰宅。
しかし帰宅したとたん、元気になってしまった。
あれはどういう風邪だったのか?
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●歩こう会、再開
しばらく休んでいた「歩こう会」を、12月からまた参加することにした。
レベルは歩く距離によって、上級、中級、初級に分かれている。
中級は、だいたい7~8キロ前後。
私とワイフは、いつも中級コースを選んでいる。
●友人の交通事故
G県の友人が、5年前に交通事故にあった。
自分の車を運転しているとき、どこかのだれかに追突された。
「車の前後がくっつくほど、ひどい追突だった」という。
そのため、治療に3年。
そのあと裁判に2年もかかったという。
学生時代からの友人である。
症状を聞くと、頭痛や気分の落ち込みなど、いろいろ。
が、保険会社のほうは、老化で起きた症状は含まれないと、補償額を低く
提示してきた。
そこで裁判ということになった。
「保険会社のほうは、できるだけ保険金を安くすまそうとするからね」と友人。
「保険会社に入社した仲間も多いから、気持ちが複雑だね」と私。
あえて言うなら「矛(ほこ)」と「盾(たて)」の関係。
「ほら、A君、あいつはS保険会社で、支店長をしていただろ。
相手の会社というのはそのS保険会社なんだよ」と友人。
それぞれの人が、それぞれの立場で、自分の立場を守っている。
それはわかるが、一般論から先に言うと、私の経験でもそうだったが、
民間の生命保険会社は、概して支払いが渋い。
「ああでもない」「こうでもない」と、理由にもならない理由をこじつけて、
保険金を支払うのを渋る。
私「ぼくのときも、門前払いだった」
友「最初から、払わないという態度だからね」
私「そうなんだよ。それも窓口の女性が、こちらの話を満足に聞かないうちに
そう言うから、恐ろしい」
友「そういうときは、民事調停でもいいから、裁判を起こすことだよ、林君」と。
つい先日、保険会社の保険金未払いが社会問題になった。
どうやらそうした問題は、氷山の一角らしい。
友人と電話で話しながら、そういう印象をもった。
●お節介焼き
いらぬ節介をしてくる人に対しては、何と返事をすればよいのか。
ワイフとときどき、そんな話をする。
中に詮索好きの人がいて、ああでもない、こうでもないと言ってくる。
それなりのレベルの人がそう言うなら、聞く価値もあるが、
そうでない人がそう言うから、恐ろしい。
で、恩師の田丸先生が、昔、こう教えてくれた。
「そういうときは、私は、『ごちそうさま』と言うことにしています」と。
ナルホドということで、それ以後は、この言葉をよく使う。
私「『ごちそうさま』と言って、あとは無視すればいい」
ワ「そうね」
私「ぼくはね、そういう説教をされそうなときは、『トイレへ行ってきます』と
言って、逃げることにしている」
ワ「それもいい手ね」と。
そういう人を、まともに相手にしてはいけない。
いわば小言のようなもの。
だから昔の人はこう言った。
『小言に怒るな。怒ったときは、小言を言うな』と。
けだし名言である。
●寒波
昨夜から、猛烈に寒くなった。
ゴーゴーと北風が吹いている。
12月中旬ごろの気候という。
不景気風と重なり、気分もよけいに沈む。
やりたいことは、たくさんある。
しかしどれから手をつけたらよいのか。
寒いから、体を動かすのも、おっくう。
こういうときは雑誌を読んだり、本を読んだりして、
頭の中に情報を注入する。
そのうちまた、やる気が出てくるだろう。
元気も出てくるだろう。
それが出てきたら、一気に、すべて片づける。
おはようございます!
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