Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Monday, February 02, 2009

*A Long Tunnel

【長いトンネル】(息子の引きこもり)

●パパ、もうだめだ

 「日本には、2度と帰って来ない」と。C雄は、そう言って、伊丹空港から、オーストラリアへと旅立っていった。友人のT君もいっしょだった。
 が、それから1年、そして2年が過ぎた。1年目は、キャンベラにある、C大学、2年目は、メルボルンにある、L工科大学に席を移して、専門学部への進学に備えていた。
 あまり勉強しているふうでもなかったが、私もそれほど期待はしていなかった。専門学部へ入学し、学士号(バッチャラー)を取得するのは、オーストラリア人の学生でもむずかしい。日本人の留学生のばあい、20人に1人以下と聞いていた。「数年オーストラリアにいて、それなりの力をつけて帰ってくれば、それでいい」と、私は考えていた。それ以上に、広い世界を見ることが、何よりも大切と考えていた。
 が、そのC雄から、ある夜電話がかかってきた。受話器を取ると、電話口の向こうで、「パパ、もうだめだ」と言った。暗く沈んだ声だった。私は異常さを察知して、「すぐ帰って来い」と言った。その少し前、専門学部に進学できそうだと言っていた矢先のことだった。
 が、まさか、その翌々日の夜に帰ってくるとは思っていなかった。勝手口で物音がするので、そちらを見たら、C雄が、そこに立っていた。大きなカバンを2個、横に置いていた。

●私の夢

「日本の大学……」ということも考えた。しかし私は、C雄が小学生のころから、オーストラリアへ留学させることだけを考えていた。私は、オーストラリアですばらしい経験をした。同じ経験を、C雄にもさせたかった。
 今にして思うと、それは私という親の、身勝手な願いであった。C雄がそれをしたいと言ったわけではない。C雄の心を確かめたわけでもない。私は妄信的に、それがC雄にとっても、いちばん好ましいことだと思った。
 何人かの知り合いのつてを頼りに、C雄をオーストラリアへ送った。下宿先も、元高校教師という人に頼んだ。が、何よりも心強かったのは、もし万が一のときでも、オーストラリアの友人たちが、そこにいたことだった。みな、協力を、快く申し出てくれた。
 しかしC雄には、何もかも、合わなかった。水も空気も食べ物も、そして生活も。

●引きこもりの始まり

 家に帰ってから、C雄は、私たちとはほとんど口をきかなかった。食事ときだけ、食堂へ下りてきたが、それが終わると、また自分の部屋へそのまま戻っていった。「まさか……」とは思いながらも、日増しに不安は大きくなっていった。C雄の生活が、大きく乱れ始めたのは、帰国してから、1~2週間目くらいからではなかったか。
 朝、起きてきない。夜更かしがつづく。食事の時間が、混乱する。が、やがて昼と夜が逆転し始めた。
 昼間は一日中、引きこもったまま。夜になるとノソノソと動き出した。しばらく観察してみると、毎日、約1時間ずつ時間がずれていくのがわかった。C雄にとっては、1日が25時間ということになる。前々日は、午後4時ごろ眠り始める。前日は、午後5時ごろ眠り始める。そして今日は、午後6時ごろ眠り始める。

●引きこもり

 幸いというべきか、私には、それまでに、10例以上も、このタイプの子どもを指導してきた経験があった。早くは20数歳のときに経験した。が、当時は、「引きこもり」という言葉すらなかった。家庭内暴力についても、そうだった。多くの人は、専門家とよばれる人たちも含めて、引きこもりは、子どものわがまま、家庭内暴力は、親の甘やかしが原因と考えていた。
 21世紀に入ってからも、引きこもりや不登校を、強引な方法で治す(?)女性が、愛知県に現れた。マスコミでも話題になった。その女性のばあい、その子どもや親に罵声を浴びせかけて治す(?)というものだった。
 それ以前にも、Tヨットスクールという、これまたあやしげな団体があった。そのスクールでは、わざと転倒するヨット(セールボート)を子どもに操縦させ、それでもって子どもの情緒障害を治す(?)というものであった。
 しかしこんな方法で、子どもの心の問題が、解決するはずはない。

●M君のケース

 が、私が最初に、というか本格的にこのタイプの子どもを指導をしたのは、30歳も過ぎてからのことだった。名前をM君としておく。
 M君は当初、不登校から始まった。中学2年のときのことである。親か相談があったので、私はM君の家まで出向いた。M君はふとんの中にもぐったまま、返事もしなかった。私が体を引きずりだそうとしても、ビクともしなかった。そばにいた父親と母親は、あきれ顔でそれを見ていた。
 それがはじまりで、そのあと私はM君と、5年間、つきあうことになった。いろいろあったが、それを書くのは、ここでの目的ではない。で、私の結論は、こうだ。この問題だけは、簡単には解決しない。まわりの人たちがあせればあせるほど、逆効果。むしろ症状をこじらせてしまう。何よりも大切なのは、(時間)である、と。
 このことは話が飛ぶが、それから10年後、M君と街角で会って確信した。「先生!」と声をかける男性がいたので、見るとM君だった。そのM君は、いきなり私にこう言った。「先生、ぼくのほうが先生より稼いでいるよね」と。話を聞くと、ゴルフのプロコーチをしているということだった。
 中学時代からM君は、学校をさぼって、近くの公園でゴルフばかりしていた。

●覚悟を決める 

 私とワイフは覚悟を決めた。「なるようになれ」「なるようにしかならない」と。しかしそれは苦しい決断だった。私の立場では、つまり私の職業からして、これほどまでに大きな敗北感はなかった。事実、それから数か月、自信をなくした私は、今の仕事をやめることまで考えた。
 が、そんな私を救ってくれたのが、もう1人の息子だった。同じころ、中学校で、学年でも1、2位の成績を修める一方、生徒会長に立候補して、当選した。成績がよかったから……とか、生徒会長になったから……とかいうわけではなかったが、暗い袋小路の中で、一筋の光明を見たことは事実。
 私とワイフは夜中にこっそりとドライブに出かけ、山の中に車を止め、そこで泣いた。

●許して忘れる

 オーストラリアで学生生活を送っていたころ、私の友人は、よくこう言った。「ヒロシ、許して忘れろ」と。英語では、「forgive & forget」という。この単語をよく見ると、「フォ・ギブ」は、「与えるため」とも訳せる。「フォ・ゲッツ」は、「得るため」とも訳せる。
 そのとき私は、その言葉の意味がわかった。……と書くと少しおおげさに聞こえるかもしれないが、そのとき、大粒の涙がいく筋も、頬を伝って落ちた。
「フォ・ギブ&フォ・ゲッツ」というのは、「愛を与えるために許し、愛を得るために忘れる」と意味になる。
 つまり「愛」ほど、実感のしにくい感情はない。しかし「いかに相手を許し、いかに相手を忘れるか」、その度量の深さで、愛の深さが決まる。他人の子どもなら、「はい、さようなら」で別れることもできる。しかし自分の子どもでは、それができない。だったら、許して忘れるしかない、と。

●ほどよい親、暖かい無視

 C雄に接する上において、私たち夫婦は、つぎの2つのことを頭に置いた。(1)ほどよい親であること、(2)暖かい無視を繰り返すこと。
 これはこうした子どもと接するときの、家族の鉄則。あれこれ気を使えば使うほど、また何かをすればするほど、子ども自身を追い込んでしまう。それもそのはず。親以上に、子どものほうが、苦しんでいる。
 が、それから3、4年にわたって、闘病生活がつづいた。一時は心療内科に通い、精神薬を処方してもらったこともある。が、C雄には、合わなかった。副作用が強く、吐き気を催したり、腹部の不快感を訴えたりした。また一時的に快方に向かう様子を見せたあと、その反動からか、どっと落ち込むこともあった。
 私たち夫婦にしても、まるで腫れ物に触れるかのような接し方をしなければならなかった。表面的には静かでも、C雄の心は、いつも緊張していた。言い方をまちがえると、C雄はそれに過剰なまでに反応した。

●友人のZ君

 その間、C雄には、友人は1人しかいなかった。が、その1人でも、ありがたかった。名前をZ君という。小学校からの友人で、彼が週に1、2度、C雄を訪問してくれた。C雄も、彼だけには、心を許していたようである。もちろん部屋の中で、彼ら2人が何をし、どんな会話をしているかは、知らない。
 しかしZ君だけが、C雄の心の窓口となった。私はZ君には、感謝した。またZ君が訪問してくれるよう、私たちなりに努力した。たまたまZ君の両親が、土建の仕事をしていたので、そういった仕事は、Z君の両親に頼んだりした。
 ただふつうの引きこもりよりは、やや症状は軽かったと思う。C雄は、ときどきはアルバイト的な仕事はした。すし屋の小僧、デパートの玩具売り場の店員など。しかし長くはつづかなかった。運も悪かった。C雄が勤める店や職場が、閉店になったり、閉鎖されたりした。
 が、ある日、突然、こんなことを言い出した。「旗振りの仕事をやってみる」と。

●旗振りの仕事
 
 旗振りの仕事というのは、道路の建設現場などで、交通整理のためなどに、旗を振る仕事をいう。夏の暑い日だった。「何もそんなきびしい仕事でなくても……」と言ったが、C雄は、「そういう仕事で、自分を試してみたい」と。
 引きこもりを始めてから、3年目のことだった。
 私たちができることといえば、日焼け止めのクリームを、C雄の部屋の前に置いておくことくらいでしかなかった。言い忘れたが、私たちはどんなことがあっても、C雄の部屋には入らないと心に決めていた。のぞくことも、しなかった。
 C雄は自分の部屋で、心を休めていた。……というより、原因は、心の緊張感から解放されないこと。いつも心は、ピンと張りつめたような状態にある。言い方を変えると、一触即発の状態。見た目の静かさにだまされてはいけない。
 ともかくも、C雄は、旗振りの仕事を始めた。長くはつづかないだろうと思っていたが、それを6か月もつづけた。
 で、ある日のこと。C雄がどんな仕事をしているかと、私とワイフの2人で見に行こうとしたことがある。そのときC雄は、車で1時間ほどのところにある現場で、旗を振っていた。
 が、途中で、何かの拍子に車を止めたときのこと。ワイフがふと、こう言った。「やめましょう」と。見ると、ワイフの頬に、涙が流れていた。

●トイレ通信

 私には3人の息子がいる。その中でもC雄だけは、子どものころから、私との相性があまりよくなかった。理由はいろいろある。あるが、ここに書いても意味はない。親子といっても、みながみな、よき関係を築けるものではない。子どもによっても、異なる。
 最初は、どこかで歯車がズレる。小さなズレかもしれないが、長い年月を経て、それが大きな亀裂となる。断絶につながることもある。親子であるがゆえに、確執も大きくなる。他人のように、間に距離を置くことができない。
 私とC雄の関係もそうだった。C雄のため……と思って口にしたことが、かえってC雄を激怒させたこともある。だから、私のほうは、黙るしかない。しかしそれでも……というときがある。
 C雄ののむタバコの量がふえたと感じたときもそうだ。一度、ワイフがそれをたしなめたことがある。が、C雄は、「オレには、これしか楽しみがない」とか、「気分を落ち着かせるためにはタバコしかない」と言った。
 で、そういうときは、つまりC雄とのコミュニケーションがうまく取れないときは、(トイレ通信)という方法を用いた。
 トイレの中にメモ用紙とペンを置いた。私の言いたいことを、それに書いた。それにC雄が返事を書いた。
 「タバコがふえたように思うが、減らしたらどうか」「わかった」と。
 メモによる交信のため、たがいに冷静に話せる。
 で、ついでながら、私もC雄が喫煙を始める前までは、禁煙運動に参加していた。しかしC雄が喫煙するようになってからは、それはC雄が高校3年生のときのことだったが、禁煙運動はやめた。「自分の子どもの喫煙すら止めることができなかったのに……」と。

●一進一退

 それでC雄の症状が、快方に向かったというわけではない。全体の流れからみると、数か月から半年単位で、症状は一進一退を繰り返した。仕事も、やったり、やらなかったりがつづいた。
 が、その中でも、ある授産施設での仕事は、1年近く、つづいた。その会社はいくつかの部門に分かれていて、そのひとつに、知的障害のある人たちが集まっていた。C雄は、そういう人たちをまとめる仕事をしていた。
 尊い仕事である。が、ある日突然、その仕事をやめると言い出した。話を聞くと、設計士の資格を取りたい、と。設計士といっても、パソコンを使ったCADの仕事をいう。そのために専門学校に通いたい、と。
 私は賛成したが、ワープロが使えるようになったからといって、文章が書けるようにはならない。同じように、設計士とCAD技術者の間には、越えがたい壁がある。しかしCADが使えるようになれば、設計士になれると、C雄は信じていた。
 ともかくも私としては、反対する理由はなかった。

●重なる挫折

 運が悪かったのか、それともC雄に忍耐力がなかったのか、それはわからない。しかしC雄のすることは、いつも裏目、裏目と出た。専門学校との教師とのトラブルもつづいた。原因の大半は、C雄にあっただろうと思う。C雄には、相手に合わせて行動するという包容力に欠けていた。
 C雄は学校へ行くといっては、家を出た。しかしその足で、一日中、街をぶらついたり、映画を見たりして過ごしていたらしい。C雄のつらい気持ちがよくわかっていた。だから私たちは、何も言わなかった。C雄のしたいようにさせていた。
 そう、C雄は、挫折感といつも闘っていた。オーストラリアでの留学生活を頓挫したことによる挫折感が大きかったと思う。C雄がそれを直接言ったわけではないが、私はそう感じていた。

●だらしない生活

 C雄の生活の特徴は、だらしないこと。電気はつけっぱなし、ドアはあけっぱなし、裏の木戸の鍵も、あけっぱなし……、など。しかしこれはC雄の責任というよりは、C雄自身でもコントロール不能の部分が、そうさせていると私は考えた。万事に投げやりというか、神経の向く方向が、極端にどこかに偏(かたよ)っていた。
 こまかいことにピリピリしている半面、別のところでは、おおざっぱだった。ときに腹立たしいこともあった。たとえば夏など、一日中、いてもいなくても、クーラーをかけっぱなしにしたりしたこともあった。
 そういう点では、このタイプの子どもと接するときは、一に忍耐、二に忍耐ということになる。私とワイフは、その忍耐をC雄から学んだ。

●再び、授産施設で

 C雄は、ときどきどこかの会社の面接試験を受けていたようだ。ハローワークにも通ったことがある。が、中には辛らつな言葉を浴びせかける面接官もいたようだ。ある会社で面接を受けたとき、その面接官は、C雄にこう言ったという。
 「お前のような人間がいるから、この日本はだめになるのだ」と。
 これは事実である。
 で、いくつか面接試験を受けたあと、以前働いたことのある授産施設での入社が、再び決まった。社長以下、みながC雄のことを覚えていたという。それで「お帰りなさい」ということになったらしい。
 最初は迷っていたようだったが、日増しに、C雄の表情が明るくなっていくのがわかった。「オレも、障害者のようなものだからなあ」と。つまり「みんなの気持ちが、よくわかる」と。

●励まし

 直接的には、ほかの2人の兄弟。少しワクを広くして、高校の同級生たち。C雄にはC雄なりに、自分を卑下していた。二男が結婚し、子どもをもうけたときも、「オレは、だめな兄」と、ふと漏らしたことがある。
 そういう気持ちがよくわかったから、折につけ、私たちはC雄を励ました。その第一は、仕事。
 「お前のしている仕事は、そこらの銀行マンのしている仕事より、はるかに気高いものだ。障害のある人にやさしくするというのは、銀行マンたちには逆立ちしても、できない仕事だ」と。
 私は心底、そう思っているから、そう言った。というのも、満60歳が近づいてくると、多くの同窓生たちは、退職したり、リストラされたりして、それぞれの会社を離れ始めていた。銀行マンになった友人も、10人前後いた。その最中はともかくも、そうして人生を半ば終わってみると、仕事のもつ空しさというか、無意味がよくわかる。「私たちは、結局は、企業戦士としておだてられ、もてあそばれただけ」と。
 大切なのは、「何かをしてきた」という実感である。その実感が残る仕事を、よい仕事といい、そうでない仕事を、そうでないという。
 
●マラソン大会

 それから何年も過ぎた。現在、C雄は、33歳。こういう大不況という時世にあっても、授産施設というのは、保護されているらしい。今のところ、リストラの話は伝わってこない。そればかりか、たいへん温かい職場らしい。毎月のように親睦会があり、定期的に何かの行事がある。
 今度は、専務とほかにもう1人と、市が主催するマラソン大会に出るという。10キロの距離を1時間で走れば、新聞に名前が載るとか。そのこともあって、このところ、週に2回ほど、同じコースを走っているという。
 私はその話を聞いて、あのころのC雄を思い出しながら、「これでよかった」と思っている。うれしかった。そのときは、遅々として進まない境遇に、イライラしたこともある。「どうして私の息子が」と、自分を恨んだこともある。C雄の将来を心配して、不安になったこともある。しかし今、その先に、かすかだが、光を見ることができるようになった。私から見れば、まだまだ半人前だが、C雄はけっしてそうは思っていないらしい。相変わらず生意気なことを口にして、ああでもない、こうでもないと言っている。

●引きこもり

 2005年3月、国会内の答弁において、南野国務大臣は、つぎのように答弁している。

『青少年の引きこもり、これは最近の青少年を取り巻く環境の変化により深刻化している問題の一つであり、各種の調査によりますと、例えば、何が根拠で私がそう申し上げているかといいますのは、厚生労働省の研究班の調査によりますと、平成15年度におきまして、20歳から49歳の引きこもりの状態にある者が約24万人に上ると推計されている。また、2番目といたしましては、厚生労働省の別の研究班の調査によりますと、平成14年度におきまして、引きこもり状態である子供が存在する家庭は、世帯といいますか、これが41万世帯に上るとも推計されております』(衆議院青少年問題特別委員会会議録)と。

 厚生労働省の調査によれば、20歳から49歳までの、引きこもりの状態にある青年が、24万人~41万人いるということだそうだ。しかし実際には、この倍の人たちがいると考えてよい。C雄が引きこもるようになって、私も同じようなタイプの子どもを注意してみるようになった。その結果だが、私の家の近辺だけでも、そういった子どもが、数名はいる。けっして、少ない数ではない。
 家族に引きこもる人がいても、家族は、それを隠そうとする。しかも診断基準がない。心療内科でも、うつ病と診断されるケースが多い。またうつ病に準じて、薬物が処方される。引きこもっている青年が、100万人いると聞いても、私は、驚かない。

●原因

 引きこもりも含めて、うつ病の原因は、その子どもの乳幼児期にあると考える学者がふえている。たとえば九州大学の吉田敬子氏は、母子の間の基本的信頼関係の構築に失敗すると、子どもは、「母親から保護される価値のない、自信のない自己像」(九州大学・吉田敬子・母子保健情報54・06年11月)を形成すると説く。さらに、心の病気、たとえば慢性的な抑うつ感、強迫性障害、不安障害の(種)になることもあるという。それが成人してから、うつ病につながっていく、と。
 C雄についても、思い当たるフシがいくつかある。結婚当初の私たちは、夫婦喧嘩ばかりしていた。それに私は仕事第一主義で、ワイフに子育てを押しつけ、仕事ばかりしていた。ワイフのみならず、C雄にまで、仕事からくるストレスをぶつけていた。
 C雄にしてみれば、暗くて、憂うつな乳幼児期だったかもしれない。そしてそれが原因となって、青年期の引きこもりへとつながっていった(?)。
 しかしこの問題だけは、原因さがしをしても、あまり意味はない。意味があるとすれば、C雄がそうなったのも、私たち夫婦に責任があるということ。その責任をさておいて、C雄ばかりを責めても意味はない。こういうケースでは、親がまず謙虚になること。子どもは、家族の代表者にすぎない。子どもに何か問題が起きれば、それは家族の問題であり、家族全体でかかえる問題である。そういう視点を、踏みはずしてはいけない。

●私たちの経験から

(1) まず自分を知る……だれしも、ひとつやふたつ、暗い過去を背負っている。暗い過去のない人など、いない。だからだれしも心の傷を負っている。傷を負っていない人などいない。大切なことは、その傷に早く気がつくこと。まずいのは、傷があることに気がつかないまま、その傷に振り回されること。私のばあいも、あの戦後直後という時代に生まれ、家庭教育の「カ」の字もないような家庭環境で育った。そのため「家庭」というものを知らず、家庭のもつ(温かさ)に、飢えていた。そしてその(飢え)が、気負いとなり、私の家庭をぎくしゃくしたものにしていた。C雄は、その犠牲者に過ぎなかった。

(2) 暖かい無視……子どもが引きこもるようになったら、暖かい無視に心がける。最近になってC雄もこう言っている。「親たちが、ぼくを無視してくれたのが、いちばんよかった」と。とにかく何も言わない。小言も言わない。生活態度がだらしなくなるから、それなりに、そのつど、言いたいことはあった。しかしそこはがまん、またがまん。いちばん苦しんでいるのは、C雄自身であることを理解する。寝たいときに寝る。起きたいときに起きる。そういう生活が、2年とか3年つづいても、無視する。暖かく無視する。

(3) ほどよい親である……やりすぎない。しかし何もしないというわけではない。子どものほうから何かを求めてきたら、そのときはていねいに答えてやる。C雄のばあいも、一度、専門学校への再入学を考えた。私たちは資料を集め、C雄が望むようにした。内心では、「無駄になるだろうな」と感じていたが、それは言わなかった。「がんばれ」とか、「しっかりやれ」とも言わなかった。淡々と事務的に協力し、それですました。

(4) 精神薬……現在もC雄は内科で処方してくれる(軽い薬)をのんでいる。しかしこうした精神薬の投与は、慎重であったほうがよい。副作用も強いが、それをやめたときの反作用も強い。かえって症状が以前よりひどくなるということも、よくある。また個人差がはげしく、個人によって効果の現れ方が大きく異なる。私自身は、時間がかかっても、当人がもつ自然治癒力を信じた方がよいと考えている。その点、心療内科にせよ、精神科にせよ、投薬しないと収入につながらないため、何らかの薬を処方したがる(ようだ)。

(5) 時間……この病気だけは、(病気と言ってさしつかえないと思うが)、5年単位、10年単位の根気が必要である。C雄のばあいも、一進一退を繰り返した。ぬか喜び、取り越し苦労は禁物。親の方が動じない。今、その最中にある人にはつらいことかもしれないが、5年単位、10年単位の忍耐が必要である。あせればあせるほど、一時的な効果は得られるが、かえって症状をこじらせてしまう。説教などは、しても意味はない。本人が自分で考え、自分で行動するようにしむける。なおC雄について言えば、自分からマラソン練習を始めたとき、私たちは、はじめてC雄が回復したと実感した。オーストラリアから帰ってきて、13年目のことである。

(6) 幼児返り……回復に向かうとき、特異な現象がいくつか見られた。たとえば幼児返りもそのひとつ。幼児期からもう一度、自分を再現するような行動が、順に見られた。最初は幼児期、そして小学生のころ……、と。そのころC雄がしていた遊びなどを、C雄は繰り返した。バラバラになっていた過去を、積み木を積み重ねるように、C雄なりのやり方で、再構築したのではなかったのか。が、それが終わったからといって、すぐに回復に向かったというわけではない。

(7) 退屈作戦……「作戦」と呼ぶのは、C雄には失礼な言い方になるが、しかし私たち夫婦は、こう決めた。C雄が退屈に耐えられなくなるまで、退屈にするしかない、と。しかし引きこもりをする子どもというのは、その退屈をしない。そこでまた根競べが始まる。「ふつうの人なら耐えられないだろうな」と思うような生活を、平気で繰り返す。それが5年とか10年もつづく。しかしここであせってはいけない。脳の機能が正常に近づいてくると、子どもは退屈を覚える。覚えたとたん、行動を開始する。

(8) 前向きに考える……引きこもりは悪いことばかりではない。引きこもる子どもは、人生を内側からいつもしっかりと見つめている。ふつうの人にはない人生観を手にすることもある。C雄についても、こう感じたことがある。「まったく世間と接していないはずなのに、どうしてこうまでしっかりとした人生観をもっているのだろう」と。むしろ私の方が、いろいろ教えられたほどである。

●最後に……

 どの家庭も外から見ると、何も問題がないように見える。しかし問題のない家庭など、ない。いわんや、子どもをや。だから子どもに問題があったとしても、「どうしてうちの子だけが」とか、そういうふうには、考えてはいけない。
 平凡は美徳だが、平凡な人生からは、何も生まれない。ドラマも生まれない。子育てもまた、しかり。「ようし、十字架のひとつやふたつ、背負ってやる」と覚悟したときから、前に道が見えてくる。その道を子どもといっしょに歩むつもりで、あとは前に向って進む。そこに子どもがいるという事実だけを受け入れる。子どものよい面だけを見ながら、それを信ずる。
 そう、昔の人はこう言った。『上見てきりなし、下見て切りなし』と。C雄についていうなら、C雄は他人に対しては、やさしすぎるほど、やさしい心をもっている。(私たち夫婦には冷たいが……。)健康だし、それなりの人生観ももっている。タバコは吸うが、酒は飲まない。麻薬などとは、まったく無縁の世界にいる。が、何よりもすばらしいのは、まじめなこと。
 今でも仕事の勤務時間は不規則だが、不平不満を口にすることもなく、がんばっている。その(まじめさ)にまさる価値があるだろうか。
 まだまだドラマはつづきそう。しかしそのドラマを楽しむ心を忘れたら、C雄も行く道を見失う。私たちは、これからもC雄とともに、そのドラマを楽しみたい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 引きこもり 子どもの引きこもり 引き籠り 引き篭もり NEET ニート)