Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Sunday, February 22, 2009

*Magazine (Fe.23 2009)

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 彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡
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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      2月   23日号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●アメリカの教育現場では、今……?(Now in USA!)(=2=)

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Bulletin Board for EDSPC 753
Board Postingsへの投稿記事より

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Unruly student with ADHD
by Hearing Teacher, posted on 5/24/2006 at 17:54.
(無秩序なADHD児)

I work as a related service provider for deaf and hard-of-hearing in 10 schools in
Brooklyn. One of my students has ADHD and is not medicated. He also is supposed to
wear hearing aids but does not. His special ed teacher spoke to the mother (he is in
foster care) about it and she said that she will make him do it (I tried speaking to her
and never got a response).
私はブルックリンで聴覚障害、難聴の子どものために10の学校で関連サービスをしてい
る者です。私の生徒の一人がADHD児で、治療を受けています。彼は補聴器をつけるべき
と思われますが、つけていません。彼の特別担任の先生は、それを彼の母親に話していま
すが、そうすることができません。(彼女に私も話そうとしましたが、反応がありません。)

Lately, he began to steal and be physically aggressive. He also whines for change for the
vending machines right after he eats breakfast with the excuse, "My mother wants
something." He ran into the cafeteria (he had just finished breakfast) to get a third
cereal. I had to chase after him to stop him. When I tried to take the spoon away from
him, he grabbed my wrist. Another teacher had to take him to the office. The student
started bawling hysterically and wailing "I'm sorry." He continued to cry and scream the
whole time. What do I do about this situation?
Thanks.
Hearing teacher
最近、彼は盗みを始め、肉体的に攻撃的になり始めました。彼はまた、朝食のすぐあとな
どに、「ママが何かを食べたがっている」などという口実を作って、販売機の小銭を、泣き
ながらせびったりします。(食事が終わっているのに)食堂へ走り、三度目のセリール(コ
ーンフレイクのような食べ物)を得ようとします。私は彼を追いかけ、彼を止めなければ
なりません。彼からスプーンを取り上げようとすると、彼は私の手首をつかみます。もう
一人の先生は、彼を事務室へ連れていかねばなりませんでした。その学生は、ヒステリッ
クに泣き叫び、「ごめんなさい」とさめざめと泣きます。彼はずっと、泣いたりわめいたり
します。こういう状況では、どうしたらいいのでしょうか。よろしく。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【極楽浄土論】

●私は極楽行き? 

ときどきこんなことを考える。
私は死んだら、極楽へ行くのだろうか。
それとも地獄へ行くのだろうか、と。

仏教の教えによれば、それを最終的に判断(ジャッジ)するのは、
あの閻魔(えんま)大王だそうだ。
中国でできたニセ経の上に、さらに日本でニセ経を塗り重ね、そういう話ができた。
今では、子どもですら、そんな話は信じない。
幼稚というか、稚拙(ちせつ)。
しかし私は、最近、閻魔大王というのは、ワイフであり、3人の息子たちではないかと
思うようになった。
それには、こんな話がある。

昨年(08年)、実兄と実母が、つづいて他界した。
そのときのこと。
私はこんなことを考えた。
「兄や母は、極楽へ行くのだろうか。それとも地獄へ行くのだろうか」と。
地獄と極楽しかないとなれば、二者択一、ということになる。
地獄と極楽の間には、中間の世界はない。
そこで兄や母のことを、あれこれと思い起こしてみる。

●善人vs悪人

1人の人間を、どう判断するか。
これはたいへん難しい問題である。
というのも、1人の人間には、いろいろな面がある。
相手によっても、印象がちがう。
年代によっても、変化する。

たとえばAさんは、若いころの母をよく知っていて、「勝気な人でした」という。
Bさんは、晩年の母をよく知っていて、「やさしくて、穏やかな人でした」という。
また他人から見た母と、私という子どもから見た母は、まったく違う。
それは善人vs悪人論とも似ている。

善人と悪人とは紙一重。
しかしまったくの善人がいないのと同じように、まったくの悪人もいない。
よく聞く話だが、死刑囚といわれる人の中には、仏様のようになる人もいるという。
さらに私という人間にしても、あるカルト教団の人たちからは、「魔王」と
呼ばれている。
その教団を攻撃する本を、何冊か書いたからである。
さらにあのK国が、日本を支配したら、この私はまっさきに処刑されるだろう。
いつもあの「将軍様」のことを、「金xx」と書いている。
拉致事件に抗議の念をこめて、そうしている。

どこをどのように見て、善人と判断し、悪人と判断するのか。
何しろ、中間がない。
「閻魔大王の仕事も、たいへんだなあ」と思う。

●私であって(私)でない部分

私は自分では、善人とは思っていない。
どちらかというと、悪人かもしれない。
少なくとも、3人の息子たちは、そう思っている。
「パパは仕事ばかりしていた」
「ママを奴隷のように使っていた」
「パパはワンマンで、ぼくたちの話を聞いてくれなかった」と。

ときどきそういう不満を、今になって私にぶつけることがある。
が、私はいつもそういうとき、こう思う。

「私は私で、懸命だったのだ」と。

息子たちに、私が生きた時代の説明をしても意味がない。
「日本は貧しかった」と言っても、その(貧しい時代)そのものを、知らない。
ボットン便所の話をしても、無駄。
息子たちにしてみれば、生まれながらにして、トイレは水洗トイレ。
それしか知らない。
ボットン便所から、水洗トイレになったときのうれしさを知らない。
だからこう言う。
「そんなのは、パパの時代の話で、ぼくたちには関係ない」と。

つまり私という人間にしても、(過去)の無数のしがらみを引きずっている。
私であって、(私)でない部分も多い。
たとえば道路にお金が落ちているのをみると、今でもさっと拾ってしまう……と思う。
(この20~30年、そういう経験がないので、わからない。)
交番へ届けようなどいう気持ちは、まず起きないだろう。
起きないから、そのジレンマの中で、迷う。
「もらってしまうべきか、それとも交番へ届けるべきか」と。
が、これとてあの戦後の、ひもじい時代を生きたからこそ身についた錆(さび)の
ようなもの。

私が悪いと思う前に、私はあの時代に、責任を求める。
あの時代が悪い。
あの戦争が悪い。

さらに私には、私の生い立ちもからんでくる。
いろいろあった。
その(あった)部分の中で、心もゆがんだ。

重罪といわれる罪を犯した犯罪者にしても、そうだ。
そういう人を、本当に悪人と言い切ってよいのか。
あるいはそう言い切れる人は、どれだけいるのか。

●息子たちが判断する

そこで私のこと。
自分で自分のことを判断するのは、難しい。
ワイフにしても、利害関係が一致しているから、難しい。
そこで、どうしても息子たち、ということになる。
私を判断するのは、息子たち。

息子たちは、(私)を、内側から見ている。
私が外の世界で隠している部分すらも、見ている。
それに人格の完成度も、今となっては、私より高い。
私が見た世界とは、比較にならないほど、広くて大きな世界も見ている。
私を、1人の親というよりは、1人の人間として見ている。

私にしても、閻魔大王などよりも、息子たちに判断(ジャッジ)されるほうが、
よほどよい。
安心できる。
仮に「地獄へ行け」と判断されても、それにすなおに従うことができる。
息子たちがそう言うなら、しかたない。
が、そこでもまた問題が起きる。

私が兄や母に地獄へ行けと言えないように、息子たちもまた、私に地獄へ行けとは
言えないだろう。
たとえ悪人であっても、だ。
それにこんなケースもある。

ある女性の話だが、若いころは、たいへん優雅で気品のある人だったという。
その女性が今は、老人施設に入居して、毎日、毎晩、怒鳴り声をあげているという。
「バカヤロー」「コノヤロー」と。
年齢は、現在、80歳を少し過ぎたところという。

こういうケースでは、どう判断したらよいのか。
その女性は、善人なのか、それとも悪人なのか。
悪人ではないとしても、そんな状態で、極楽へ入ったら、ほかの善人たちが迷惑する
だろう。

●地獄も極楽もない

地獄も極楽もない。
あるはずもない。
だいたい釈迦自身、一言もそんなことを言っていない。
ウソと思うなら、自分で『法句経』を読んでみることだ。
「来世」「前世」にしても、そうだ。

だからそれをもとに、善人論、悪人論を、論じても意味はない。
ただ法体系が未完成だったころなら、地獄論で悪人を脅すこともできたかもしれない。
「悪いことをすると、地獄へ落ちるぞ」と。
それでたいていの人は、黙った。
私が子どものころでさえ、そういう会話を、よく耳にした。

兄は兄として、他界した。
母は母として、他界した。
無数のドラマを残して、他界した。
よいドラマもあれば、悪いドラマもある。
今さら、そんなドラマを問題にしても意味はない。

同じように、今を生きる私たちも、できることと言えば、ただ懸命に生きるだけ。
よいことをしていると思っていても、悪いことをしていることもある。
悪いことをしていると思っていても、よいことをしていることもある。
常に結果は、あとからついてくる。
放っておいても、あとからついてくる。
だからこう思う。

地獄でも極楽でも、どちらでもよい、と。
こんな無意味なことを考えるのは、今日で最後にしたい、と。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
地獄 極楽 地獄論 極楽論 善人 悪人)


Hiroshi Hayashi++++++++JAN 09++++++++++はやし浩司

【浄土論】

神や仏も教育者だと思うとき 

●仏壇でサンタクロースに……?

 小学一年生のときのことだった。私はクリスマスのプレゼントに、赤いブルドーザーの
おもちゃが、ほしくてほしくてたまらなかった。母に聞くと、「サンタクロースに頼め」と。
そこで私は、仏壇の前で手をあわせて祈った。仏壇の前で、サンタクロースに祈るという
のもおかしな話だが、私にはそれしか思いつかなかった。

 かく言う私だが、無心論者と言う割には、結構、信仰深いところもあった。年始の初詣
は欠かしたことはないし、仏事もそれなりに大切にしてきた。が、それが一転するできご
とがあった。ある英語塾で講師をしていたときのこと。高校生の前で『サダコ(禎子)』(広
島平和公園の中にある、「原爆の子の像」のモデルとなった少女)という本を、読んで訳し
ていたときのことだ。

私は一行読むごとに涙があふれ、まともにその本を読むことができなかった。そのとき以
来、私は神や仏に願い事をするのをやめた。「私より何万倍も、神や仏の力を必要としてい
る人がいる。私より何万倍も真剣に、神や仏に祈った人がいる」と。いや、何かの願い事
をしようと思っても、そういう人たちに申し訳なくて、できなくなってしまった。

●身勝手な祈り

 「奇跡」という言葉がある。しかし奇跡などそう起こるはずもないし、いわんや私のよ
うな人間に起こることなどありえない。「願いごと」にしてもそうだ。「クジが当たります
ように」とか、「商売が繁盛しますように」とか。そんなふうに祈る人は多いが、しかしそ
んなことにいちいち手を貸す神や仏など、いるはずがない。いたとしたらインチキだ。

一方、今、小学生たちの間で、占いやおまじないが流行している。携帯電話の運勢占いコ
ーナーには、一日一〇〇万件近いアクセスがあるという(テレビ報道)。どうせその程度の
人が、でまかせで作っているコーナーなのだろうが、それにしても一日一〇〇万件とは! 
あの『ドラえもん』の中には、「どこでも電話」というのが登場する。今からたった二五年
前には、「ありえない電話」だったのが、今では幼児だって持っている。奇跡といえば、よ
っぽどこちらのほうが奇跡だ。

その奇跡のような携帯電話を使って、「運勢占い」とは……? 人間の理性というのは、文
明が発達すればするほど、退化するものなのか。話はそれたが、こんな子ども(小五男児)
がいた。窓の外をじっと見つめていたので、「何をしているのだ」と聞くと、こう言った。
「先生、ぼくは超能力がほしい。超能力があれば、あのビルを吹っ飛ばすことができる!」
と。

●難解な仏教論も教育者の目で見ると

 ところで難解な仏教論も、教育にあてはめて考えてみると、突然わかりやすくなること
がある。たとえば親鸞の『回向論』。『(善人は浄土へ行ける。)いわんや悪人をや』という、
あの回向論である。

これを仏教的に解釈すると、「念仏を唱えるにしても、信心をするにしても、それは仏の命
令によってしているにすぎない。だから信心しているものには、真実はなく、悪や虚偽に
包まれてはいても、仏から真実を与えられているから、浄土へ行ける……」(大日本百科事
典・石田瑞麿氏)となる。

しかしこれでは意味がわからない。こうした解釈を読んでいると、何がなんだかさっぱり
わからなくなる。宗教哲学者の悪いクセだ。読んだ人を、言葉の煙で包んでしまう。要す
るに親鸞が言わんとしていることは、「善人が浄土へ行けるのは当たり前のことではないか。
悪人が念仏を唱えるから、そこに信仰の意味がある。つまりそういう人ほど、浄土へ行け
る」と。しかしそれでもまだよくわからない。

 そこでこう考えたらどうだろうか。「頭のよい子どもが、テストでよい点をとるのは当た
り前のことではないか。頭のよくない子どもが、よい点をとるところに意味がある。つま
りそういう子どもこそ、ほめられるべきだ」と。もう少し別のたとえで言えば、こうなる。

「問題のない子どもを教育するのは、簡単なことだ。そういうのは教育とは言わない。問
題のある子どもを教育するから、そこに教育の意味がある。またそれを教育という」と。
私にはこんな経験がある。

●バカげた地獄論

 ずいぶんと昔のことだが、私はある宗教教団を批判する記事を、ある雑誌に書いた。そ
の教団の指導書に、こんなことが書いてあったからだ。いわく、「この宗教を否定する者は、
無間地獄に落ちる。他宗教を信じている者ほど、身体障害者が多いのは、そのためだ」(N
宗機関誌)と。こんな文章を、身体に障害のある人が読んだら、どう思うだろうか。ある
いはその教団には、身体に障害のある人はいないとでもいうのだろうか。

が、その直後からあやしげな人たちが私の近辺に出没し、私の悪口を言いふらすようにな
った。「今に、あの家族は、地獄へ落ちる」と。こういうものの考え方は、明らかにまちが
っている。他人が地獄へ落ちそうだったら、その人が地獄へ落ちないように祈ってやるこ
とこそ、彼らが言うところの慈悲ではないのか。

私だっていつも、批判されている。子どもたちにさえ、批判されている。中には「バカヤ
ロー」と悪態をついて教室を出ていく子どももいる。しかしそういうときでも、私は「こ
の子は苦労するだろうな」とは思っても、「苦労すればいい」とは思わない。神や仏ではな
い私だって、それくらいのことは考える。いわんや神や仏をや。

批判されたくらいで、いちいちその批判した人を地獄へ落とすようなら、それはもう神や
仏ではない。悪魔だ。だいたいにおいて、地獄とは何か? 子育てで失敗したり、問題の
ある子どもをもつということが地獄なのか。しかしそれは地獄でも何でもない。教育者の
目を通して見ると、そんなことまでわかる。

●キリストも釈迦も教育者?

 そこで私は、ときどきこう思う。キリストにせよ釈迦にせよ、もともとは教師ではなか
ったか、と。ここに書いたように、教師の立場で、聖書を読んだり、経典を読んだりする
と、意外とよく理解できる。

さらに一歩進んで、神や仏の気持ちが理解できることがある。たとえば「先生、先生……」
と、すり寄ってくる子どもがいる。しかしそういうとき私は、「自分でしなさい」と突き放
す。「何とかいい成績をとらせてください」と言ってきたときもそうだ。いちいち子どもの
願いごとをかなえてやっていたら、その子どもはドラ息子になるだけ。自分で努力するこ
とをやめてしまう。そうなればなったで、かえってその子どものためにならない。人間全
体についても同じ。

スーパーパワーで病気を治したり、国を治めたりしたら、人間は自ら努力することをやめ
てしまう。医学も政治学もそこでストップしてしまう。それはまずい。しかしそう考える
のは、まさに神や仏の心境と言ってもよい。

 そうそうあのクリスマス。朝起きてみると、そこにあったのは、赤いブルドーザーでは
なく、赤い自動車だった。私は子どもながらに、「神様もいいかげんだな」と思ったのを、
今でもはっきりと覚えている。


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●子どもの宗教を考える法(宗教の話は慎重にせよ!)

教師が宗教を語るとき

●宗教論はタブー 

 教育の場で、宗教の話は、タブー中のタブー。こんな失敗をしたことがある。一人の子
ども(小三男児)がやってきて、こう言った。「先週、遠足の日に雨が降ったのは、バチが
当たったからだ」と。そこで私はこう言った。「バチなんてものは、ないのだよ。それにこ
のところの水不足で、農家の人は雨が降って喜んだはずだ」と。

翌日、その子どもの祖父が、私のところへ怒鳴り込んできた。「貴様はうちの孫に、何てこ
とを教えるのだ! 余計なこと、言うな!」と。その一家は、ある仏教系の宗教教団の熱
心な信者だった。

 また別の日。一人の母親が深刻な顔つきでやってきて、こう言った。「先生、うちの主人
には、シンリが理解できないのです」と。私は「真理」のことだと思ってしまった。そこ
で「真理というのは、そういうものかもしれませんね。実のところ、この私も教えてほし
いと思っているところです」と。その母親は喜んで、あれこれ得意気に説明してくれた。
が、どうも会話がかみ合わない。そこで確かめてみると、「シンリ」というのは「神理」の
ことだとわかった。

 さらに別の日。一人の女の子(小五)が、首にひもをぶらさげていた。夏の暑い日で、
それが汗にまみれて、半分肩の上に飛び出していた。そこで私が「これは何?」とそのひ
もに手をかけると、その女の子は、びっくりするような大声で、「ギャアーッ!」と叫んだ。
叫んで、「汚れるから、さわらないで!」と、私を押し倒した。その女の子の一家も、ある
宗教教団の熱心な信者だった。

●宗教と人間のドラマ

 人はそれぞれの思いをもって、宗教に身を寄せる。そういう人たちを、とやかく言うこ
とは許されない。よく誤解されるが、宗教があるから、信者がいるのではない。宗教を求
める信者がいるから、宗教がある。だから宗教を否定しても意味がない。それに仮に、一
つの宗教が否定されたとしても、その団体とともに生きてきた人間、なかんずく人間のド
ラマまで否定されるものではない。

 今、この時点においても、日本だけで二三万団体もの宗教団体がある。その数は、全国
の美容院の数(二〇万)より多い(二〇〇〇年)。それだけの宗教団体があるということは、
それだけの信者がいるということ。そしてそれぞれの人たちは、何かを求めて懸命に信仰
している。その懸命さこそが、まさに人間のドラマなのだ。

●「さあ、ぼくにはわからない」

 子どもたちはよく、こう言って話しかけてくる。「先生、神様って、いるの?」と。私は
そういうとき「さあね、ぼくにはわからない。おうちの人に聞いてごらん」と逃げる。あ
るいは「あの世はあるの?」と聞いてくる。そういうときも、「さあ、ぼくにはわからない」
と逃げる。霊魂や幽霊についても、そうだ。ただ念のため申し添えるなら、私自身は、ま
ったくの無神論者。「無神論」という言い方には、少し抵抗があるが、要するに、手相、家
相、占い、予言、運命、運勢、姓名判断、さらに心霊、前世来世論、カルト、迷信のたぐ
いは、一切、信じていない。信じていないというより、もとから考えの中に入っていない。

 私と女房が籍を入れたのは、仏滅の日。「私の誕生日に合わせたほうが忘れないだろう」
ということで、その日にした。いや、それとて、つまり籍を入れたその日が仏滅の日だっ
たということも、あとから母に言われて、はじめて知った。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
宗教論 宗教とは 親鸞 回向論 悪人をや)

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●「アソ」という名前の総理大臣

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Obama(オバマ)大統領就任式を
迎え、2つのニュース。

ひとつは、福井県小浜市が、就任式に
何かをしようとして、断られたという
ニュース。
もうひとつは、K国が、やはり就任式に
出席を申し込んだが、断られたという
ニュース。

++++++++++++++++++

福井県小浜市の人たちには、申し訳ないが、「オバマ」と日本語で発音しても、
向こうではだれも、「Obama(新大統領)」のこととは、思わないだろう。
発音そのものがちがう。

たとえば近くにアメリカ人がいたら、日本語式の発音で、「プラットフォーム」とか、
「マンション」とか言ってみればよい。
「ゴルフ」でもよい。
日本に長く住んでいるアメリカ人にならともかくも、こうした和式英語は、100%、
通じない。

「Obama」が、「オバマ」になり、「小浜(市)」になった。
その逆でもよい。
それは、よくわかる。
小浜市の人たちは、Obama氏を、なんとか町おこしにつなげたいと思っているの
かもしれない。
その気持ちも、よくわかる。
しかし……。
私の印象では、Obama新大統領は、そうした申し出には、乗ってこないと思う。
日本にとってアメリカは、巨大な国だが、アメリカにとって日本は、そうでない。
アメリカの大学生のほとんどは、日本がどこにあるかさえ知らない。
それにこんな話もある。

日本の地名ほど、外国人を悩ませるものはない。
そこで、日本へやってくる外国人は、日本の地名を、それぞれ自分の知っている単語
に結びつけて覚える。

たとえば「福岡」は、「Fuxx(ひわい語)-Oka」、
「日光」は、「Nicker(ポンド紙幣)」など。
たぶん「小浜」は、「Over-ma(超える・ママ)」というような覚え方を
するのではないか。
「Obama」と発音しても、「小浜」にはならない。

で、彼らが日本語を覚えるときも、この手法をよく使う。

たとえば「こんばんは」は、「Comb ban wah」とか、など。
日本人が外国語を覚えるときのように、カタカナ表示のようなことは、しない。
発音記号で書く外国人など、見たこともない。
そういう点では、英語の単語は豊富。
たいていの日本語は、英語の単語に置き換えることができる。
ちなみに「Comb ban wah(コンバンハ)」は、「くし・禁止・ワー」
という意味。

ところで、逆の話もある。

今の日本の総理大臣は、「アソ」である。
しかし「アソ」というのは、そのままズバリ、「axx-sore」となる。
このばあいは、発音どおり。
つまり「xx・痛い」となる。
「axx」は、ひわい語。
「Fuxx」と並んで、文字で表記することすら、禁止されている。

「アソ」という名前の人は多い。
だからこんなことを書くと、不愉快に思うかもしれない。
それはわかっているが、どうか許してほしい。
私の名前の「ヒロシ」にしても、フランスの元植民地であった国々では、
おかしな意味になる。

彼らは「ヒロシ」を、「イロシ」と発音する。
「h」の発音を抜いてしまう。
たとえばベトナムなどでは、「イロシ」というと、日本語でいう「エロ」、つまり
「スケベ」という意味になる。
だから私の名前の「ヒロシ・ハヤシ」は、「スケベ・ハヤシ」となる。
私は、そういう国々では、「ジョージ・ハヤシ」という名前を使うことにしている。

で、「アソ」。
「アソ」という名前の人は多い。
「阿曾」「阿蘇」「阿曽」「安蘇」など。
「麻生」も、そのひとつ。
そういう人たちには申し訳ないが、(しかし事実だから、どうしようもないが)、
英語国では、先にも書いたように、とんでもない意味になる。
そういう名前の人には、失礼だと思うから、ふつうなら、こんなことは書かない。
しかしそれが今、日本の総理大臣の名前として使われている。

率直に言えば、「アソ」という名前は、国際的なネーミングとしては、
まことにもって、ま・ず・い。
ふつう「axx(アス)」というのは、相手をバカにした言葉として使われる。
「バカヤロー」は、「axx-hole(xxの穴)」となる。

で、昔、日本の天皇が、アメリカを訪問したとき、天皇がこの単語を連発したことで、
話題になった。
天皇は何かの説明を受けるたびに、「アッソー」「アッソー」と言った。
そのたびに向うの人たちは、その言葉に、たいへん戸惑ったという※。

で、同じObama新大統領の就任式についてだが、K国が、式への出席を
申し込んだという話には驚いた。
まるで、トンチンカン。
まったく自分のことがわかっていない。
いったい自分は何様のつもりでいるのか。
あの国のやることなすことすべて、私の理解の範囲を超えている。

(付記)
あのブッシュ大統領でも、アソ総理大臣の名前だけは、すぐに覚えたことと思う。
外人には、たいへん覚えやすい名前である。
しかも一度耳にしたら、ぜったいに忘れない。
余計なことだが……。

(注※)これには、こんなエピソードがある。
NHKの特派員が、当時、天皇の訪米に同行して、アメリカの小学校を訪れた。
そこでのこと。
その特派員が日本人とわかると、子どもたちがみな、両手を合わせて特派員のところへ、
寄ってきて、こう言った。
「アッソー」「アッソー」と。
それを報道しながら、特派員は、こう言った。
「こんなところにも陛下訪米の成果が現れています」と。

が、たまたまそれのテレビを私の横で見ていた、オーストラリアの友人が、こう言って
教えてくれた。

「ヒロシ、ちがうよ。この特派員はバカにされているんだよ」と。

今でも、英語国では、日本人をからかうとき、この言葉を使う。
両手を合わせながら、「アッソー」「アッソー」と。

というわけで、「アソ」という名前についての話は、おしまい。
これ以上のことは、ここには書けない。
意味や使い方などは、あなたのまわりにいる外人に、聞いてほしい。
あくまでも自己責任で……。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
axx-sore Axx Sore)


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●1月18日(日曜日)(To Mr. Kim Jon HILL of USA)
C. Rice and C. Hill has been only cheated and are cheated now as well by North Korea.
Only what these two brain-less diplomats have done is to give North Korea、money, oil,
food, music as well as time. During these five years, North Korea has developed nuclear
weapons to the level of missiles as reported in the newspaper this morning (Chinichi
Daily, Jan 18th, 09). They say, “then what did Japan do to deal with North Korea?” We
did. Especially C. Hill has, however, had no ears to listen to our voices or rather
betrayed us so often and then therefore we never hesitate to call him, “Kim Jon HILL”
at the last stage of the negotiations. Moreover he has destroyed the relationship
between Japan and USA and more and more Japanese have been to dislike USA. No
more thanks for C. Hill, though C. Hill seems to want to keep playing more in the Far
East. But we say, “please be back to your office in USA”. He seems to have paid no
attention to the human rights and have achieved nothing for these problems. He had
worked only for North Korea and pro-North Korean Government of South Korea. Be
ashamed, C. Kim Jon HILL!

+++++++++++++++++

今朝は、寝起きがあまりよくなかった。
こういうときは、サイトカインが、
脳内にかなり充満している(?)。
ストレス性のホルモンである。

どこか気分が重い。
その割に神経がピリピリしている。
考えることすべてが、(怒り)に結びつく。

+++++++++++++++++

●K国のプルトニウム約30キロ

朝刊(中日新聞)のトップの見出しは、これ。
「K国は抽出したプルトニウム30キロを、すでに核兵器化した」と。
だから言わないことではない。
K国の金xxは、約束など守るような男ではないし、またその気など、
当初からみじんも、なかった。
おバカなC・ヒルは、それにだまされただけ。
彼がしたことは、K国に、マネー(BDA)、原油(50万トン)、音楽、
食糧、それに時間を与えただけ。
アメリカの新聞は、「8-0」で、アメリカの負けと報じている。

この中でも、とくに(時間)が痛い。
この5年近くの間に、K国は、かなりのレベルまで、核兵器を完成させたはず。
現に今朝の新聞によれば、「5、6個の核兵器を完成させたはず」と。

……と書くと、日本の責任はどうなのかという議論がある。
「アメリカ任せにしておいて、文句を言うとは何ごとか」と。

実はそのつど、日本はあれこれ文句を言ってきた。
注文もつけてきた。
しかしそうした日本側の意見に耳を貸さなかったのは、C・ヒルであり、
C・ライスということになる。
むしろ日本という最大の同盟国を裏切った。
この罪は重い。

C・ヒルは、オバマ政権下での続投をねらっているらしい。
「K国は85%、核開発放棄をすでに完了した」とか、「原油支援が完了すれば、
K国は核査察に応ずるはず」とか、「?」な発言を繰り返している。
何をもって「85%」というのか。
K国のYにある、核開発関連施設の爆破ショーだけをもって、どうして「完了」と
言えるのか。
また「原油支援が完了すれば……」というのは、どういう意味なのか。
この場に及んでも、C・ヒルまだK国寄りの姿勢を崩していない。

日米関係は、今、悪化の一途をたどっている。
各種の世論調査の結果をみるまでもない。
その第一の責任は、あのC・ヒルにある。

ところで同時に、今朝の新聞によれば、K国は韓国に対して、「全面対決宣言を
した」という。
これについては、韓国にこう言いたい。
「それ、見たことか!」と。

竹島(独島)どころではない。
韓国全土が、K国に乗っ取られようとしている。

(付記)1月19日の参詣新聞は、つぎのように伝える。

『米政府のレフコウィッツ北朝鮮人権問題担当特使は17日、米議会に北朝鮮の人権状況
に関する最終報告を提出し、北朝鮮を「世界で最も人権を侵害している国の1つ」と強く
非難した。そのうえで、「抑圧国家は国内で独裁的な統治をすることを正当化する手段とし
て、外国に敵を作り出している」として、北朝鮮の人権問題と核問題などの安全保障上の
問題を「密接不可分なもの」と位置づけることが必要と強調した。

 米国の人権問題への取り組みに関しては、北朝鮮との交渉で人権問題は「重要な要素」
と北朝鮮人権法で明記されているにもかかわらず、「6カ国協議で人権に関して意味のある
議論が行われず、東アジア各国に人権問題であいまいな印象を与えた」として、同協議米
首席代表のヒル国務次官補(東アジア・太平洋担当)を批判した』と。

C・ヒルが、拉致問題について話し合った形跡は、ゼロ。
もちろん成果も、ゼロ。
そんな同盟国が、どこにある?


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●諏訪湖
My wife and I are to go to Suwa Lake in Nagano Pref., a northern prefecture to
Hamamatsu-city. It is about 4 hours’ ride by bus to the lake where we are about to enjoy
walking along the lake side. It is our habbit to do this kind of walking almost every two
or three days these day. Of course it is for our physical exercise.

今日は、諏訪湖畔の「さざなみロード」を、約9キロ歩くことになっている。
スタートは、ガラス館。
ゴールは、下諏訪町。
途中いくつかの美術館や温泉などがあるという。
天気がやや心配だが、楽しみ。

(この原稿は、諏訪に向かうバスの中で書いている。)

昨夜、2人の友人の家を回った。
山荘で取れた八朔(はっさく)を、届けるため。
昨日は、大きなポリ袋で、5つも収穫できた。
1つの袋で10キロほどだから、約50キロの収穫ということになる。
が、それでも全体の3分の1ほど。
残りは来週、収穫するつもり。
今年も大豊作。

ところで友人たちはみな、よい年齢になった。
58~75歳。
話題と言えばもっぱら、健康談義。
それぞれがそれぞれの方法で、自分の健康に気をつかっている。
そういう話を聞くだけでも、たいへん参考になる。

ところでこんなことに気づいた。
バスは、休憩のため、そのつどサービスエリアで止まる。
中央自動車道を北へ北へと上っているわけだが、そのつど、気温がどんどんと
さがっていくのがわかる。
寒いというよりは、冷たい。
浜松の自宅を出るときは、コートまではいらないと思ったが、ジャンパーを
もってきて正解だった。
この分だと、諏訪湖はかなり寒いらしい。
湖面が凍ると、ワカサギ釣りができるようになるという。

しかし昨夜の睡眠時間は、4時間弱。
眠い。
眠いということで、書くのはここまで。

……一言、追加。

昨夜もそうだったが、一度、眠りそこねると、そのまま頭がさえてしまい、
眠れなくなってしまうことがある。
そういうときは、あせらず、なりゆきに任せるのがよい。
眠くなったら、眠る。
「眠れないとたいへん」と思う必要はない。
一晩や二晩、眠らなくても、体には影響はない。

●付記

バスに乗る前、コンビニによった。
おにぎりを2個、買った。
そこでパッケージに入ったタバコを見た。
それには、こう書いてあった。
「妊婦の喫煙は、胎児に影響を与えます。
早産、死産、低体重児の発生率が、2倍から
3倍になります」(詳細は、記憶によるもの
なので、不正確)と。

しかしこんなことは、すでに35年前には、
わかっていたこと。
私は京都大学の西村教授から、直接、その
話を聞いたことがある(ブラジルで)。
西村教授はこう言った。
「疫学的にはタバコはクロです。ただ人体実験
ができないだけです」と。
つまり「証明ができないだけです」と。

この35年間で、いかに多くの胎児が、タバコの
犠牲になったことか。
いかに多くの親たちが、悲しみにくれたことか。
しかも、実際には、早産、死産というときには、
その中には奇形出産も多く含まれる。
「20人の約1人」(ある産婦人科医)という話も
聞いている。
そういう胎児たちは、早産、死産という形で、
闇から闇へと葬られている。

さらに私の経験だが、両親のうち、どちらかが
ヘビースモーカーのばあい、子どもには、つぎの
ような影響が現れる。

(1)全体に、発育が遅れる。小柄な印象を与える。低体重児は、その後の発育が
遅れがちになる。
(アメリカでは、標準体重・身長に対して、~~%という言い方で、
それを表現する。
たとえば標準的な子どもが、身長が100センチ、その子どもが
90センチのときは、発育度「90%」というような言い方をする。)

(2)髪の毛が細い。頭をなでてみると、ツルツルとすべる
ような感じがする。

タバコは、まさに百害あって一利なし。
タバコをすべて禁止にすれば、その分だけ税収が減るが、半面、
医療費が軽減化される。
全体のバランスシートを見れば、国としてはそのほうが得だそうだ。
タバコ1箱、1000円。
おおいに結構。
どこかの国では、タバコの値段をあげたら、喫煙者が急減したという。

また愛煙家団体が訴えているように、タバコは、嗜好品ではない。
コーヒーや、酒とはちがう。
まわりの人たちにとってのみならず、社会にとっても、害毒である。
そういう前提で、タバコを考えるべき。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec・08++++++++++++++はやし浩司

●統合性の確立

++++++++++++++++++++++++

今日の成果。
私とワイフは、ずっとトップランナーだった。
諏訪湖の湖畔を歩くとき、いつもうしろを見ながら歩いた。
こんなところで順位を競っても意味はない。
わかっているが、私たちは、それを目標にしている。
週に2、3度、10キロ近く歩いているのも、そのため。

それぞれの人には、それぞれの目的がある。
観光を楽しみたい人。
友だちとおしゃべりを楽しみたい人。
ほかにも、いろいろあるだろう。
しかし私たちは、運動のため。
そのためには、タラタラと歩いていたのでは、意味がない。
サクサクと歩く。
汗をかく。
有酸素運動をする。

そのために歩く。
目標は、トップ。
目的地、一番乗り。

++++++++++++++++++++++++++++

●帰りのバスの中で

それをワイフに話すと、ワイフは、こう言った。
「あなたの人生の縮図みたいね」と。

いつもトップだったというわけではないが、しかしその緊張感は
忘れなかった。
先手、先手で、人の前に立つ。
それは私のように一匹狼で生きていく人間にとっては、鉄則のようなもの。
二番手になったとたん、押しつぶされてしまう。

が、目的地に着いたら、そこで遊ぶ。
時間にも余裕がある。
その周辺の店をのぞいたりする。
これもワイフに言わせると、私の人生の縮図みたいということになる。

私はいつも、まず(すべきこと)を先にする。
それが終わったら、自分の(したいこと)をする。
その余裕がないときは、がまんする。
つまり(すべきこと)が残っているときは、(したいこと)をがまんする。

いつもこの鉄則を守っているというわけではないが……。

●60歳の統合性

(やるべきこと)と、(したいこと)は、基本的にちがう。
(やるべきこと)には、常に、ある種の苦痛がともなう。
できるなら、やらないですまそうとする。
そういうブレーキも働く。
人間は本来、怠けもの。
が、その(苦痛)を乗りこえなければ、(やるべきこと)は、できない。

エリクソンは、人生の正午と言われる満40歳前後から、(やるべきこと)の
基礎を作れというようなことを説いている。
(やるべきこと)を見つけ、その基礎固めをしていく。
それが5年とか10年とかいう年月を経て、その人の中で熟成していく。
何度も書くが、「60歳になりました。明日からゴビの砂漠でヤナギの木を
植える」というわけにはいかない。
そんな取って付けたようなことをしても、身につかない。

(やるべきこと)を見つけ、現実にそれを実行していく。
それを「統合性の確立」という。

●統合性の失敗

私も含めてということになるかもしれないが、こうした統合性の確立に
失敗している人は、多い。
60歳という、年齢の節目に立ってみると、それがよくわかる。

明日は今日と同じ。
来月は今月と同じ。
来年は今年と同じ、と。

家ですることといえば、テレビを見て、雑誌を読んで、あとは眠るだけ。
たまの休みには、野球中継。
雨の日は、パチンコ。
読むのは、スポーツ新聞だけ。
体のためと称して、畑を借りて家庭菜園。
ときどき旅行をしたり、孫の世話をする。
楽しむことイコール、老後のあるべき姿と考えている人も多い。
しかしそれこそ、まさに死の待合室に入ったようなもの。
1か月を1日にして、生きるだけ。
1年を、1か月にして生きるだけ。

そんな人生に、どれほどの意味があるというのか(失礼!)。

●今、40歳前後の方へ、

エリクソンは40歳と言ったが、40歳では遅いかもしれない。
30歳でもよい。
20歳でもよい。
将来に向けて、統合性の確立のため、今からその下地を作っていく。
それは何も老後のためだけではない。
いつか「私は自分の人生を生きた」という実感を、
自分のものにするため。

もしこの統合性の確立に失敗すると、老後そのものがみじめになるだけではない。
自分が生きてきたという証(あかし)、さらには足跡まで、無駄になってしまう。
人生も晩年になって、「私は何をしてきたのだ」と思うことほど、苦しいことは
ない。
(今の私もそうだが……。)
自分の人生を振り返っても、そこには何もない。
いや、いつの間にか、自分に替わって、別の人間が、それをしている。
私がしたことをしている。
私より、ずっとじょうずにしている。
それはそのまま自己否定へとつながってしまう。

●無私無欲

(やるべきこと)は、無私無欲でなければならない。
金銭的な利益、名誉や地位のためというのであれば、それは(やるべきこと)
ではない。
損得勘定をしない。
仮にその結果として、金銭的な利益を得たり、名誉や地位がもたらされた
としても、それはあくまでも結果。
結果であるから、一喜一憂することもない。
淡々とそれを迎える。

仕事で忙しい人もいるだろう。
家事で忙しい人もいるだろう。
子育てで忙しい人もいるだろう。
しかしそういう間でも、統合性のための基礎づくりを忘れてはいけない。
それは長くて苦しい道かもしれない。
先にも書いたように、できればやりたくないことかもしれない。
しかしそれでもつづける。
それがここでいう統合性につながる。

●燃える

一方、70歳を過ぎても若々しい人というのは、たしかにいる。
私の義兄もその1人。

先週訪ねたら、そこにピカピカのベンツが置いてあった。
義兄のベンツは、たしか中古だったはず。
しかし、ピカピカ。

「どうしたの?」と聞いたら、「塗装しなおした」と。
「メッキは磨きなおした。パッチ(ゴム部)は、新品に取り替えた。
シートは、張り替えてもらった」と。

そして先月(08年12月)は、長野県の奥まで、奥さん(=ワイフの
姉)とドライブしてきた、と。
生き様が前向きというか、若々しい。
ゴルフのクラブにしても、自分で設計して、それを業者に作らせたり
している。
趣味はバイクだが、40年前、50年前のバイクを拾ってきては、
それを修理して走らせたりしている。
「夢は、いつかバイクの展示場をかねた喫茶店を開くこと」と。
年齢は、正確には、今年76歳になる。

そういう義兄と話していると、こちらまで若返る。
話がはずむ。

●あなたの未来

あなたの未来を知りたかったら、あなたの両親を見ることだ。
遺伝子学的にも、満20歳くらいまでは、親子といっても、様子は大きくちがう。
が、20歳まで。
満20歳を過ぎると、親子は急速に似てくる。
似てくるというよりは、実際には、同一化する。
子どもが親に似るわけではない。
同一化する。

子どもである(あなたは)は、「私は親とはちがう」「親のようにはならない」と
思っているかもしれない。
が、それは甘い。
世の中には、「進化論」というものもあるが、それは100代とか、1000代
単位で起こることであって、あなたの代の1代や2代くらいでは、起こるはずも
ない。

40代を過ぎれば、あなたもあなたの両親も同じ。
50代を過ぎれば、さらにあなたもあなたの両親も同じ。

こんな例がある。

●反面教師は、未来のあなた

ある女性は若いころから、自分の母親を批判していた。
「私の母は、ずるい」「私の母は、世間体ばかり気にしている」と。
しかしその母親がなくなってしばらくすると、今度はその女性が
母親そっくりの人間になっていた。
こういう例は、いくらでもある。

こうした世代連鎖は、どうすれば防ぐことができるか。
そこで登場するのが、「精進(しょうじん)」ということになる。
日々の絶え間ない研さんのみによって、こうした世代連鎖を断ち切ることができる。

たとえばあなたの父親が、インチキな人だったとしよう。
女遊びは、当たり前。
親戚中から借金を重ね、そのつどそれを踏み倒す。
親をだます子はいるが、あなたの父親は、あなたという子をだます。

あなたはそういう父親を批判する。
父親を反面教師にしながら、自分はそうしないと心に誓う。
「私は父親とはちがう」と言う。
しかし反面教師のこわいところは、ここから始まる。

反面教師とするのは勝手でも、別のところで別の人格を作りあげないと、
結局は、今度はあなたがその反面教師そっくりの人間になる。
理由は明白。
あなたはその反面教師しか、知らないからである。
親子のばあいは、さらによく似る。
自分ではそれはわからないが、他人から見ると、それがわかる。

●私のほうが、マシ?

しかしこんなことも言える
たぶんに自己弁解がましいが、悩んだり苦しんだりするところに、
実は価値があるのだ、と。

統合性の一致にしても、ほとんどの人は、それが何であるかもわからず、
悶々とした日々を送っている。
しかしその(悶々とすること)自体に価値がある。
というのも、少し前、そういうことをまったく考えない人に出会った。
そのとき私が感じた(落差)というか、(驚き)には、格別なものがあった。

私とて、統合性の確立ができたわけではない。
いまだに、悶々としている。
懸命にさがそうとしている。
が、その男性は、ノー天気というか、統合性の「ト」の字も考えていなかった。

のんき?
無神経?
無頓着?
楽天的?
享楽的?
せつな的?

しばらくいっしょに話したが、打ち返ってくるものが、何もない。
同じように、人生を60年近く生きてきたはずなのに、何もない。
本当に、何もない。

そこで私が、「退職後は何をしているの?」と聞くと、「マンションの守衛を
している」と。
マンションの守衛が悪いというのではない。
で、「休みには何をしているの?」と聞くと、先に書いたような答が返ってきた。

「野球中継があるときは、テレビでそれを見て過ごす」
「休みには魚釣り。雨が降ればパチンコ」と。

本は読まない。
読むのはスポーツ新聞だけ。
音楽は聴かない。
映画も見ない。
あとは孫ができたとかで、ときどき孫の世話をしている、と。

統合性の確立どころか、その入り口にも立っていない(失礼!)。
だからこう思った。
まだ、私のほうが、マシ、と。

●やってくる老後

老後は、確実にやってくる。
あっという間にやってくる。
しかも老後というのは、意外に長い。

60歳から始まったとしても、20年近くある。
幼児が成人するまでの年月に等しい。
しかしこれは、「どう過ごすか」という問題ではない。
「やるべきことをやらないと、死ぬこともできない」という問題である。

現実に私もその年齢になり、老後の入り口に立って、その恐ろしさを
実感しつつある。
仕事がなくなる恐怖。
役目がなくなる恐怖。
だれにも相手にされなくなる恐怖。
こうした恐怖は、そのまま自分をどんどんと小さくしていく。
そんな状態で、この先、20年を、どうやって生きていったらよいのか。
またそんな状態で、生きていかれるはずもない。

まず手始めに、仕事を失ってはいけない。
どんな小さな仕事でも、それにしがみついていく。
それに町内の仕事にしても、それができるなら、どんどんとしていく。
みなの役に立つ。
みなから、役に立つ人間として評価される。

●私の経験

これは私の経験だが、私は今にしてみると、1円もお金をもらわなかったのが、
うれしい。
40代~55歳くらいまでは、電話相談に明け暮れた。
それ以後は、無料でマガジンを出したり、無料で相談に応じている。
そのときは、「どうしてこんなバカなことをしているのだ」という思いとの
闘いでもあった。
しかしそれが今、少しずつだが、光り始めている。

もしあのとき、そして今、お金を受け取っていたら、私のささやかな
統合性は、その時点で霧散していただろう。

もちろん今していることが、(私のすべきこと)とは、思っていない。
しかし私が今、住んでいる世界では、それしか思いつかない。
それこそ「では、これからゴビの砂漠に行って、ヤナギの木を植えてきます」と
いうようなことは、私にはできない。
だいたい、その下地がない。
だから、やるしかない。
その先に何があるかわからないが、ともかくも、やるしかない。

●最後に……

むずかしい話はさておき、朝起きたとき、(やるべきこと)がそこにあるだけでも、
うれしい。
感謝しなければならない。

その(やるべきこと)が、あなたには、あるだろうか。
あればよし。
そうでなければ、あとは自分の心と体に、ムチを打つしかない。
「楽をしたい」という思いはだれにでもある。
が、その(思い)に敗れたとたん、あなたは一気に、孤独の世界へと落ちていく。

……ということで、明日からまた新しい週が始まる。
「がんばるぞ」と自分に掛け声をかけて、この話は、おしまい。
どうであるにせよ、私は生きていかねばならない。
今までもそうして生きてきたし、今も生きている。
これからもそうして生きていくだろう。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
老後の生きがい 老後の統合性 統合性の一致 やるべきこと 老後にやるべきこと 老
後の生き甲斐)


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