Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Wednesday, February 25, 2009

*What is the "Parents" to Sons or Daughters *Liberization of Education

●親論



●親を美化する人



 だれしも、「親だから……」という幻想をもっている。あなたという「親」のことではない。あなた
の「親」についてで、ある。



 あなたは自分の親について、どんなふうに考えているだろうか。「親は、すばらしい」「親だか
ら、すべてをわかっていてくれるはず」と。



 しかしそれが幻想であることは、やがてわかる。わかる人には、わかる。親といっても、ただ
の「人」。ただの人であることが悪いというのではない。そういう前提で見ないと、結局は、あな
たも、またあなたの親も、苦しむということ。



 反対に、親を必要以上に美化する人は、今でも、多い。マザーコンプレックス、ファーザーコ
ンプレックスをもっている人ほど、そうだ。それこそ、森進一の『♪おふくろさん』を聞きながら、
毎晩のように涙を流している。



 つまりこのタイプの人は、自分のコンプレックスを隠すために、親を美化する。「私が親を慕う
のは、それだけ、私の親がすばらしいからだ」と。



●権威主義



 もともと日本人は、親意識が強い民族である。「親は絶対」という考え方をする。封建時代か
らの家(先祖)意識や、それにまつわる権威主義が、それを支えてきた。たとえば江戸時代に
は、親から縁を切られたら、そのまま無宿者となり、まともに生きていくことすら、できなかっ
た。



 D氏(五四歳)は、近所では、親思いの、孝行息子として知られている。結婚して、もう三〇年
近くになるが、今でも、給料は、全額、母親に渡している。妻もいて、長女もすでに結婚したが、
今でも、そうしている。はたから見れば、おかしな家族だが、D氏自身は、そうは思っていない。
「親を粗末にするヤツは、地獄へ落ちる」を口グセにしている。



 D氏の妻は、静かで、従順な人だった。しかしそれは、D氏を受け入れたからではない。あき
らめたからでもない。最近になって、妻は、こう言ってD氏に反発を強めている。「私は結婚した
ときから、家政婦以下だった。私の人生は何だったの。私の人生を返して!」と。



 自分自身が、マザーコンプレックスにせよ、ファーザーコンプレックスにせよ、コンプレックス
をもつのは、その人の勝手。しかしそれを妻や子どもに、押しつけてはいけない。



 D氏について言えば、「親は絶対!」と思うのは、D氏の勝手。しかしだからといって、自分の
妻や子どもに向って、「自分を絶対と思え」「敬(うやま)え」と言うのは、まちがっている。が、D
氏には、それがわからない。



●親を見抜く



 まず、親を見抜く。一人の人間として、見る。しかしほとんどの人は、この段階で、「親だから
……」という幻想に、振りまわされる。とくにマザーコンプレックス、ファーザーコンプレックスの
強い人ほど、そうである。



 かりに疑問をもつことはあっても、それを自ら、否定してしまう。中には、他人が、自分の親を
批判することすら、許さない人がいる。



 U氏(五七歳)がそうである。



 U氏の父親は、数年前に死んだが、その父親は、金の亡者のような人だった。人をだまし
て、小銭を稼ぐようなことは朝飯前。その父親について、別の男性が、「あんたの親父(おやじ)
さんには、ずいぶんとひどい目にあいましたよ」と、こぼしたときのこと。U氏は、猛然とその男
性にかみついた。それだけではない。「あれは、全部、私がしたことだ。私の責任だ。親父の悪
口を言うヤツは、許さん」と。そのとき、そう言いながら、その男性の胸を手でつかんだという。



 U氏のような人にしてみれば、そういうふうに、父親をかばうことが、生きる哲学のようにもな
っている。私にも、ある日、こう言ったことがある。



 「子どもというのは、親から言葉を習うものです。あなただって、親から言葉を習ったでしょう。
その親を粗末にするということは、人間として、許されないことです」と。



 「親を見抜く」ということは、何も「粗末にする」ことではない。親を大切にしなくてもよいというこ
とでもない。見抜くということは、一人の人間として、親を、客観的に見ることをいう。つまりそう
することで、結局は、今度は、親である自分を知ることができる。あなたの子どもに対して、自
分がどういう親であるかを、知ることができる。

 

●きびしい親の世界



親であることに、決して甘えてはいけない。つまり、親であることは、それ自体、きびしいことで
ある。



マザーコンプレックスや、ファーザーコンプレックスが悪いというのではない。えてして、そういう
コンプレックスをもっている人は、その反射的作用として、自分の子どもに対して、同じように考
えることを求める。



 そのとき、あなたの子どもが、あなたと同じように、マザーコンプレックスや、ファーザーコンプ
レックスをもてば、よい。たがいにベタベタな関係になりながら、それなりにうまくいく。



 しかしいつも、そう、うまくいくとは、かぎらない。親を絶対化するということは、同時に親を権
威化することを意味する。そして自分自身をまた、親として、権威づけする。「私は、親だ。お前
は、子どもだ」と。



 この権威が、親子関係を破壊する。見た目の関係はともかくも、たがいの心は、離れる。



●親は親で、前向きに



 親は親で、前向きに生きていく。親が子どものために犠牲になるのも、また子どもが親のた
めに犠牲になるのも、美徳でも何でもない。親は、子どもを育てる。そしていつか、親は、子ど
もの世話になる。それは避けられない事実だが、そのときどきにおいて、それぞれは、前向き
に生きる。



 前向きに生きるというのは、たがいに、たがいを相手にせず、自分のすべきことをすることを
いう。かつてあのバートランド・ラッセルは、こう言った。「親は、必要なことはする。しかしその
限度をわきまえろ」と。



 つまり親は、子どもを育てながら、必要なことはする。しかしその限度を超えてはならない、
と。このことを、反対に言うと、「子どもは、子どもで、その限度の中で、懸命に生きろ」というこ
とになる。また、そうすることが、結局は、親の負担を軽減することにもなる。



 今、親の呪縛に苦しんでいる子どもは、多い。あまりにも、多い。近くに住むBさん(四三歳、
女性)は、嫁の立場でありながら、夫の両親のめんどうから、義理の弟の子どものめんどうま
で、押しつけられている。義理の弟夫婦は、今、離婚訴訟の最中にある。



 Bさんの話を聞いていると、夫も、そして夫の家族も、「嫁なら、そういうことをするのは、当
然」と考えているようなフシがある。Bさんは、こう言う。



 「(義理の)父は、長い間、肝臓をわずらい、週に二回は、病院通いをしています。その送り迎
えは、すべて、私の仕事です。(義理の)母も、このところ、さらにボケがひどくなり、毎日、怒鳴
ったり、怒ったりばかりしています。



 そこへ、(義理の)兄の子どもです。今、小学三年生ですが、多動性のある子どもで、一時間
もつきあっていると、こちらの頭がヘンになるほどです」と。



 こうしたベタベタの関係をつくりあげる背景に、つまりは、冒頭にあげた、「幻想」がある。家
族は、その幻想で、Bさんを縛り、Bさんもまた、その幻想にしばられて苦しむ。しかしこういう
形が、本当に「家族」と言えるのだろうか。またあるべき「家族」の姿と言えるのだろうか。



●日本の問題



 日本は、今、大きな過渡期を迎えつつある。旧来型の「家」意識から、個人型の「家族」意識
への変革期にあるとみてよい。家があっての家族ではなく、家族あっての家という考え方に、変
りつつある。



 しかし社会制度は、不備のまま。意識改革も遅れている。そのため、今、無数の家々で、無
数の問題も、起きている。悲鳴にも近い叫び声が聞こえている。



 では、私たちは、どうしたらよいのか。またどうあったらよいのか。



 私たちの親については、しかたないとしても、私たち自身が変ることによって、つぎの子ども
たちの世代から、この日本を変えていかねばならない。その第一歩として、私たちがもっている
幻想を捨てる。



 親子といえども、そこは純然たる人間関係。一対一の人間関係。一人の人間と、一人の人間
の関係で、成りたつ。「親だから……」と、親意識をふりかざすことも、「子どもだから……」と、
子どもをしばることも、これからは、やめにする。



 一方、「親だから……」「子どもだから……」と、子どもに甘えることも、心して、最小限にす
る。ある母親は、息子から、土地の権利書をだましとり、それを転売してしまった。息子がその
ことで、母親を責めると、母親は、平然とこう言ったという。「親が、先祖を守るため、息子の財
産を使って、何が悪い!」と。



 こういうケースは、極端な例かもしれないが、「甘え」も、行き着くところまで行くと、親でも、こ
ういうものの考え方をするようになる。



 もちろん子どもは子どもで、その重圧感で悩む。その息子氏とは、この数年会っていないの
で、事情がわからないが、最後にその息子氏は、私にこう言った。「それでも親ですから……」
と。息子氏の苦悩は、想像以上に大きい。



 さてあなたは、その幻想をもっていないか。その幻想で苦しんでいないか。あるいは、その幻
想で、あなたの子どもを苦しめていないか。一度、あなたの心の中を、のぞいてみるとよい。

(031227)



【追記】



 正月が近づくと、幼児でも、「お正月には、実家へ帰る」とか言う子どもがいる。しかし「実家」
とは何か? もし祖父母がいるところが、実家なら、両親のいるところは、「仮の家」ということ
になる。



 家族に、実家も、仮の家もない。こうした、封建時代の遺物のような言い方は、もうやめよう。



 農村地域へ行くと、「本家(屋)」「新家(屋)」という言い方も残っている。二〇年近くも前のこと
だが、こんなことを言った母親がいた。「うちは、あのあたりでも、本家だから、息子には、それ
なりの大学に入ってもらわねば、世間体が悪いのです」と。



 日本人の意識を「車」にたとえるなら、こうした部品の一つずつを変えていけないと、車の質
は変わらない。









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19



●基底不安



 何をしていても、不安。仕事をしていても、不安。遊んでいても、不安。寝ていても、不安。家
族といても、不安。友だちといても、不安。……そういう人は、少なくない。世間では、こういう人
を、不安神経症というらしいが、「根」は、もっと深い。



 乳幼児期の母子関係が不全だと、子どもは、生涯にわたって、ここでいう「不安を基底とした
生き方」をするようになる。これを「基底不安」という。この時期、子どもは、母親との関係にお
いて、絶対的な安心感を学ぶ。「絶対的」というのは、「疑いをいだかない」という意味。



 この絶対的安心感が、何らかの問題があって不足すると、子どもの心は、きわめて不安定な
状態に置かれる。心はいつも緊張した状態に置かれ、それが原因で、子どもの情緒は不安定
になる。それだけではない。この安心感があってはじめて、子どもは、自分のすべてをさらけ出
すことを学ぶ。そしてそれが、それにつづく人間関係の基本になる。



 このさらけ出しのできない子どもは、少なくない。自分をさらけ出すことに、大きな不安を覚え
る。「相手によく思われているだろうか」「相手は、自分のことを悪く思わないだろうか」「どうす
れば、自分は好かれるだろうか」「自分は、いい人間に見えるだろうか」と、そんなふうに考え
る。



 子どもでいえば、不自然なほど、愛想がよくなったり、反対に仮面をかぶったりするようにな
る。さらに症状が悪化すると、心の状態と顔の表情が遊離し、いわゆる何を考えているかわか
らない子どもになる。これに強いショックが加わると、多重人格性をもつこともある。



 うれしいときには、うれしそうな顔をする。怒ったときには、怒った顔をする。何でもないことの
ようだが、感情の表現が、すなおで、自然ということだけでも、子どもの心は、まっすぐに育って
いることを示す。



 一方、子どもの世界、とくに乳幼児期において、無表情というのは、好ましくない。うれしいは
ずなのに、どこかぼんやりとしている。同年齢の子どもと会っていても、反応を示さない。感情
表現がとぼしく、どこかヌボーッとしている、など。



 親は、「生まれつき、こうです」と言うが、そういうことは、あ・り・え・な・い。たいていは親の神
経質な育児姿勢、過干渉、過関心、威圧、暴力、暴言が、原因で、そうなる。親の短気、情緒
不安が、原因で、そうなることもある。



 子どもが、〇歳~二歳の間は、絶対に子どもを怒鳴ってはいけない。おびえるほどまで、子
どもを叱ったり、威圧したりしてはいけない。無理な訓練や、学習をさせてはいけない。この時
期、必要なのは、暖かい愛情に包まれた、心豊かな人間関係である。親の立場で言うなら、た
だひたすら、がまん。忍耐。そしてあふれんばかりの、愛情である。



 この時期は、子どもを伸ばすことは、あまり考えなくてもよい。子どもの心を、つぶさないこと
だけを考える。どんな子どもも、すでに伸びる芽をもっている。あとは、それに『灯をともして』、
それを『引き出す』だけ(欧米の常識)。



 少子化のせいなのか? 今、子育てで失敗する親が、あまりにも多い。手をかける。時間を
かける。手間をかける……。それ自体は悪いことではないが、神経質な育児姿勢が、かえって
子どもの伸びる芽をつんでしまう。子どもの「私は私」という意識までつぶしてしまうこともある。



 この時期、一度、子どもの自信をつぶしてしまったら、もう、あとは、ない。生涯、ハキのな
い、ナヨナヨとした子どもになってしまう。自ら、「私はダメ人間」というレッテルを張ってしまい、
伸びることをやめてしまう。そういう状態に、子どもを追いこんでおきながら、「どうして、うちの
子は、ハキがないのでしょう」は、ない。「どうすれば、もっとハキハキする子どもになるでしょう
か」は、ない。



 子育てには、失敗はつきもの。しかし失敗してからはでは遅い。なおそうと考えても、その数
倍、あるいは数一〇倍の努力とエネルギーが必要。しかし、実際には、それはもう不可能。



 話がそれたが、この基底不安にしても、乳幼児期につくられ、それはその人を、ほぼ一生に
わたって、支配する。外から見ただけではわからないし、またこのタイプの人ほど、その不安と
戦うことで、その道では成功者となることが多い。そのため、まわりの人は、それこそ「ただの
不安神経症」と、安易に考えやすい。



 しかしその人自身は、生涯にわたって、その不安から解放されることはない。人と交わって
も、心を開けないなど。中には、家族にさえ、心を開けない人もいる。不幸かそうでないかとい
うことになれば、これほど、不幸なこともない。



 もしあなたが、ここでいう、不安を基底とした生き方をしているなら、その「根」は、あなた自身
の乳幼児期にある。まず、それを知る。そしてそれがわかれば、こうした不安感を消すことはで
きないにしても、コントロールすることは、できるようになる。



 どんな人でも、一つや二つ、こうした心の問題をかかえている。ない人は、いない。あとは、そ
れに気づき、仲よくつきあえばよい。

(031231)









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20



●日本の教育改革



公立小中学校・放課後補習について



 文部科学省は、公立小中学校の放課後の補習を奨励するため、教員志望の教育学部の大
学生らが児童、生徒を個別指導する「放課後学習相談室」(仮称)制度を、二〇〇三年度から
導入した。



 文部科学省の説明によれば、「ゆとり重視」の教育を、「学力向上重視」に転換する一環で、
全国でモデル校二〇〇~三〇〇校を指定し、「児童、生徒の学力に応じたきめ細かな指導を
行う」(読売新聞)という。



「将来、教員になる人材に教育実習以外に、実戦経験をつませる一石二鳥の効果をめざす」と
も。父母の間に広まる学力低下への懸念を払しょくするのがねらいだという。具体的には、つ
ぎのようにした。



 まず全国都道府県からモデル校を各五校を選び、①授業の理解が遅れている児童、生徒に
対する補習を行う、②逆に優秀な児童、生徒に高度で発展的な内容を教えたり、個々の学力
に応じて指導した。



 しかし残念ながら、この「放課後補習」は、確実に失敗しつつある。理由は、現場の教師な
ら、だれしも知っている。順に考えてみよう。



第三、学校での補習授業など、だれが受けたがるだろうか。たとえばこれに似た学習に、昔か
ら「残り勉強」というのがある。先生は子どものためにと思って、子どもに残り勉強を課するが、
子どもはそれを「バツ」ととらえる。「君は今日、残り勉強をします」と告げただけで泣き出す子
どもは、いくらでもいる。「授業の理解が遅れている児童、生徒」に対する補習授業となれば、
なおさらである。残り勉強が、子どもたちに嫌われ、ことごとく失敗しているのは、そのためであ
る。



第四、反対に「優秀な児童、生徒」に対する補習授業ということになると、親たちの間で、パニ
ックが起きる可能性がある。「どうしてうちの子は教えてもらえないのか」と。あるいはかえって
受験競争を助長することにもなりかねない。今の教育制度の中で、「優秀」というのは、「受験
勉強に強い子ども」をいう。どちらにせよ、こうした基準づくりと、生徒の選択をどうするかという
問題が、同時に起きてくる。



 文部科学省よ、親たちは、だれも、「学力の低下」など、心配していない。問題をすりかえない
でほしい。親たちが心配しているのは、「自分の子どもが受験で不利になること」なのだ。どうし
てそういうウソをつく! 



新学習指導要領で、約三割の教科内容が削減された。わかりやすく言えば、今まで小学四年
で学んでいたことを、小学六年で学ぶことになる。しかし一方、私立の小中学校は、従来どおり
のカリキュラムで授業を進めている。



不利か不利でないかということになれば、公立小中学校の児童、生徒は、決定的に不利であ
る。だから親たちは心配しているのだ。



 非公式な話によれば、文部科学省の官僚の子弟は、ほぼ一〇〇%が、私立の中学校、高
校に通っているというではないか。私はこの話を、技官の一人から聞いて確認している! 「東
京の公立高校へ通っている子どもなど、(文部官僚の子どもの中には)、私の知る限りいませ
んよ」と。



こういった身勝手なことばかりしているから、父母たちは文部科学省の改革(?)に不信感をい
だき、つぎつぎと異論を唱えているのだ。どうしてこんな簡単なことが、わからない!



 教育改革は、まず官僚政治の是正から始めなければならない。旧文部省だけで、いわゆる
天下り先として機能する外郭団体だけでも、一八〇〇団体近くある。この数は、全省庁の中で
もダントツに多い。



文部官僚たちは、こっそりと静かに、こういった団体を渡り歩くことによって、死ぬまで優雅な生
活を送れる。……送っている。そういう特権階級を一方で温存しながら、「ゆとり学習」など考え
るほうがおかしい。



この数年、大卒の就職先人気業種のナンバーワンが、公務員だ。なぜそうなのかというところ
にメスを入れないかぎり、教育改革など、いくらやってもムダ。ああ、私だって、この年齢になっ
てはじめてわかったが、公務員になっておけばよかった! 死ぬまで就職先と、年金が保証さ
れている! ……と、そういう不公平を、日本の親たちはいやというほど、思い知らされてい
る。だから子どもの受験に狂奔する。だから教育改革はいつも失敗する。



 もう一部の、ほんの一部の、中央官僚が、自分たちの権限と管轄にしがみつき、日本を支配
する時代は終わった。教育改革どころか、経済改革も外交も、さらに農政も厚生も、すべてボ
ロボロ。何かをすればするほど、自ら墓穴を掘っていく。



その教育改革にしても、ドイツやカナダ、さらにはアメリカのように自由化すればよい。学校は
自由選択制の単位制度にして、午後はクラブ制にすればよい(ドイツ)。学校も、地方自治体に
カリキュラム、指導方針など任せればよい(アメリカ)。設立も設立条件も自由にすればよい(ア
メリカ)。いくらでも見習うべき見本はあるではないか!



 今、欧米先進国で、国家による教科書の検定制度をもうけている国は、日本だけ。オースト
ラリアにも検定制度はあるが、州政府の委託を受けた民間団体が、その検定をしている。しか
し検定範囲は、露骨な性描写と暴力的表現のみ。歴史については、いっさい、検定してはいけ
ないしくみになっている。



世界の教育は、完全に自由化の流れの中で進んでいる。たとえばアメリカでは、大学入学後
の学部、学科の変更は自由。まったく自由。大学の転籍すら自由。まったく自由。学科はもち
ろんのこと、学部のスクラップ・アンド・ビュルド(創設と廃止)は、日常茶飯事。なのになぜ日本
の文部科学省は、そうした自由化には背を向け、自由化をかくも恐れるのか? あるいは自分
たちの管轄と権限が縮小されることが、そんなにもこわいのか?



 改革をするたびに、あちこちにほころびができる。そこでまた新たな改革を試みる。「改革」と
いうよりも、「ほころびを縫うための自転車操業」というにふさわしい。もうすでに日本の教育は
にっちもさっちもいかないところにきている。このままいけば、あと一〇年を待たずして、その教
育レベルは、アジアでも最低になる。あるいはそれ以前にでも、最低になる。小中学校や高校
の話ではない。大学教育が、だ。



 皮肉なことに、国公立大学でも、理科系の学生はともかくも、文科系の学生は、ほとんど勉強
などしていない。していないことは、もしあなたが大学を出ているなら、一番よく知っている。



その文科系の学生の中でも、もっとも派手に遊びほけているのが、経済学部系の学生と、教
育学部系の学生である。このことも、もしあなたが大学を出ているなら、一番よく知っている。
いわんや私立大学の学生をや!



そういう学生が、小中学校で補習授業とは! 日本では大学生のアルバイトは、ごく日常的な
光景だが、それを見たアメリカの大学生はこう言った。「ぼくたちには考えられない」と。大学制
度そのものも、日本の場合、疲弊している!



 何だかんだといっても、「受験」が、かろうじて日本の教育を支えている。もしこの日本から受
験制度が消えたら、進学塾はもちろんのこと、学校教育そのものも崩壊する。確かに一部の
学生は猛烈に勉強する。しかしそれはあくまでも「一部」。



内閣府の調査でも、「教育は悪い方向に向かっている」と答えた人は、二六%もいる(二〇〇
〇年)。九八年の調査よりも八%もふえた。むべなるかな、である。



 もう補習をするとかしなとかいうレベルの話ではない。日本の教育改革は、三〇年は遅れ
た。しかも今、改革(?)しても、その結果が出るのは、さらに二〇年後。そのころ世界はどこま
で進んでいることやら! 



日本の文部科学省は、いまだに大本営発表よろしく、「日本の教育レベルはそれほど低くはな
い」(※1)と言っているが、そういう話は鵜呑みにしないほうがよい。今では分数の足し算、引
き算ができない大学生など、珍しくも何ともない。



「小学生レベルの問題で、正解率は五九%」(国立文系大学院生について調査、京都大学西
村和雄氏)(※2)だそうだ。



 あるいはこんなショッキングな報告もある。世界的な標準にもなっている、TOEFL(国際英語
検定試験)で、日本人の成績は、一六五か国中、一五〇位(九九年)。「アジアで日本より成績
が悪い国は、モンゴルぐらい。北朝鮮とブービーを争うレベル」(週刊新潮)だそうだ。



オーストラリアあたりでも、どの大学にも、ノーベル賞受賞者がゴロゴロしている。しかし日本に
は数えるほどしかいない。あの天下の東大でも、たったの一人。ちなみにアメリカだけでも、二
五〇人もの受賞者がいる。ヨーロッパ全体では、もっと多い(田丸謙二氏指摘)。



 「構造改革(官僚主導型の政治手法からの脱却)」という言葉がよく聞かれる。しかし今、この
日本でもっとも構造改革が遅れ、もっとも構造改革が求められているのが、文部行政である。
私はその改革について、つぎのように提案する。



(9)中学校、高校では、無学年制の単位履修制度にする。(アメリカ)

(10)中学校、高校では、授業は原則として午前中で終了する。(ドイツ、イタリアなど)

(11)有料だが、低価格の、各種無数のクラブをたちあげる。(ドイツ、カナダ)

(12)クラブ費用の補助。(ドイツ……チャイルドマネー、アメリカ……バウチャ券)

(13)大学入学後の学部変更、学科変更、転籍を自由化する。(欧米各国)

(14)教科書の検定制度の廃止。(各国共通)

(15)官僚主導型の教育体制を是正し、権限を大幅に市町村レベルに委譲する。

(16)学校法人の設立を、許認可制度から、届け出制度にし、自由化をはかる。



 が、何よりも先決させるべき重大な課題は、日本の社会のすみずみにまではびこる、不公平
である。



この日本、公的な保護を受ける人は徹底的に受け、そうでない人は、まったくといってよいほ
ど、受けない。わかりやすく言えば、官僚社会の是正。官僚社会そのものが、不公平社会の温
床になっている。この問題を放置すれば、これらの改革は、すべて水泡に帰す。今の状態で教
育を自由化すれば、一部の受験産業だけがその恩恵をこうむり、またぞろ復活することにな
る。



 ざっと思いついたまま書いたので、細部では議論もあるかと思うが、ここまでしてはじめて「改
革」と言うにふさわしい。



ここにあげた「放課後補習制度」にしても、アメリカでは、すでに教師のインターン制度を導入し
て、私が知るかぎりでも、三〇年以上になる。オーストラリアでは、父母の教育補助制度を導
入して、二〇年以上になる(南オーストラリア州ほか)。



大半の日本人はそういう事実すら知らされていないから、「すごい改革」と思うかもしれないが、
こんな程度では、改革にはならない。少なくとも「改革」とおおげさに言うような改革ではない。



で、ここにあげた(1)~(8)の改革案にしても、日本人にはまだ夢のような話かもしれないが、
こうした改革をしないかぎり、日本の教育に明日はない。日本に明日はない。なぜなら日本の
将来をつくるのは、今の子どもたちだからである。



(※1)

 国際教育到達度評価学会(IEA、本部オランダ・一九九九年)の調査によると、日本の中学
生の学力は、数学については、シンガポール、韓国、台湾、香港についで、第五位。以下、オ
ーストラリア、マレーシア、アメリカ、イギリスと続くそうだ。理科については、台湾、シンガポー
ルに次いで第三位。以下韓国、オーストラリア、イギリス、香港、アメリカ、マレーシア、と。



この結果をみて、文部科学省の徳久治彦中学校課長は、「順位はさがったが、(日本の教育
は)引き続き国際的にみてトップクラスを維持していると言える」(中日新聞)とコメントを寄せて
いる。東京大学大学院教授の苅谷剛彦氏が、「今の改革でだいじょうぶというメッセージを与え
るのは問題が残る」と述べていることとは、対照的である。



ちなみに、「数学が好き」と答えた割合は、日本の中学生が最低(四八%)。「理科が好き」と答
えた割合は、韓国についでビリ二であった(韓国五二%、日本五五%)。学校の外で勉強する
学外学習も、韓国に次いでビリ二。一方、その分、前回(九五年)と比べて、テレビやビデオを
見る時間が、二・六時間から三・一時間にふえている。



で、実際にはどうなのか。東京理科大学理学部の澤田利夫教授が、興味ある調査結果を公表
している。教授が調べた「学力調査の問題例と正答率」によると、つぎのような結果だそうだ。



この二〇年間(一九八二年から二〇〇〇年)だけで、簡単な分数の足し算の正解率は、小学
六年生で、八〇・八%から、六一・七%に低下。分数の割り算は、九〇・七%から六六・五%に
低下。小数の掛け算は、七七・二%から七〇・二%に低下。たしざんと掛け算の混合計算は、
三八・三%から三二・八%に低下。全体として、六八・九%から五七・五%に低下している(同じ
問題で調査)、と。



 いろいろ弁解がましい意見や、文部科学省を擁護した意見、あるいは文部科学省を批判し
た意見などが交錯しているが、日本の子どもたちの学力が低下していることは、もう疑いようが
ない。



同じ澤田教授の調査だが、小学六年生についてみると、「算数が嫌い」と答えた子どもが、二
〇〇〇年度に三〇%を超えた(一九七七年は一三%前後)。反対に「算数が好き」と答えた子
どもは、年々低下し、二〇〇〇年度には三五%弱しかいない。原因はいろいろあるのだろう
が、「日本の教育がこのままでいい」とは、だれも考えていない。



少なくとも、「(日本の教育が)国際的にみてトップクラスを維持していると言える」というのは、も
はや幻想でしかない。



+++++++++++++++++++++



(※2)

 京都大学経済研究所の西村和雄教授(経済計画学)の調査によれば、次のようであったとい
う。



調査は一九九九年と二〇〇〇年の四月に実施。トップレベルの国立五大学で経済学などを研
究する大学院生約一三〇人に、中学、高校レベルの問題を解かせた。結果、二五点満点で平
均は、一六・八五点。同じ問題を、学部の学生にも解かせたが、ある国立大学の文学部一年
生で、二二・九四点。多くの大学の学部生が、大学院生より好成績をとったという。)

(040105改)









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21

●民主主義の原点(The Principle of the democracy?)



++++++++++++++



国あっての民なのか、民あっての

国なのか。



(Should the people be existed before the government?

Or should the government be existed before the people?)



日本では、国あっての民と考える。

しかしそれは民主主義の原点では

ない。



In Japan we think people are existed because the government is existed.

But this is not a common sense of the world.



トーマス・ペインの有名な文章を

紹介する。



Here I introduce Thomas Paine's artcle about the Democracy.



++++++++++++++



Thomas Paine said it best.



"It has been thought," he wrote in The Rights of Man in 1791, "…that government is a
compact between those who govern and those who are governed; but this cannot be true,
because it is putting the effect before the cause; for as man must have existed before
governments existed, there necessarily was a time when governments did not exist, and
consequently there could originally exist no governors to form such a compact with. The
fact therefore must be, that the individuals themselves, each in his own personal and
sovereign right, entered into a compact with each other to produce a government: and this
is the only mode in which governments have a right to arise, and the only principle on which
they have a right to exist."



1791年にトーマス・ペインは、「人間憲章」の中で、つぎのように書いている。



「政府(=国)は、統治するものと、統治されるものの協約であると考えられてきた。しかしこれ
は事実のはずはない。なぜなら因果関係が、逆だからである。人間は、政府が存在する前に
すでに存在していた。政府が存在しなかった時代が、必然的にあった。このような協約のある
統治者はもともといなかった。それゆえに、それぞれが不可侵の権利をもった個人そのものが
存在し、それがそれぞれに協約を結び、政府を生み出した。そしてこのようなムードの中で、政
府は立ち上がる権利を擁し、またそれだけが政府が存在する権利をもつところの原則である」
と。



しかしいまだに、「国にあっての民」と考えている人は多い。さらに引き下がって、「家あっての、
家族」と考えている人も多い。ついでに言えば、「親あっての、子」と考えている人も多い。よい
例が、一家心中である。



(In Japan, even still now many people think that we can exist because the government
existes before people. Similarly at the same time families can exist because the "House"
exists before the families. And also children can exist because Parents exist before the
children. Take up "Family Suiside".)



死にたければ親だけが死ねばよい。子どもを巻き添えにするとは、卑怯だ! 子どもには子ど
もの人生がある。命がある。



(Why should children be involved in the Family Suicide in Japan? If you want to kill yourself,
you only kill yourself. Don't get children be involved in the Family Suicide in any case, since
children themselves have right to live and life and the right to exisit?)



家族にしても、そうだ。江戸時代という封建時代ならいざ知らず、今どき、「家」のために家族が
犠牲になるなんて、バカげている。さらに言えば、民あっての、国である。それが民主主義の原
点である。



(Also as the the "House", we are not living in the world of feudal age called "Edo-Period"
and therefore it may be stupid for each member of the families sacrifice for the house.
Moreover the government can exist because we, the people, exist before the government.
This is the principle of the democracy.)



それとも日本は、今、この場に及んで、王政復古を成し遂げようとしているのか? 「武士道こ
そ、日本が誇るべき、精神的根幹である」と説く人がいる。そういった内容の本が、100万部
単位で売れている。



(Or are we about to repeat again the Restoration? It is very sad thing to know that more
people worship the Knight-ship (Samurai soldiers) and their spitits, saying "This is Japan",.
Millions of books on this are being sold in Japan.)



それはそれで結構なことだが、封建時代の負の側面、負の遺産に目をくれることなく、一方的
に武士道なるものを礼賛するのも、どうか? こうした動きは、むしろ、民主主義の後退を招く
だけ。



(We should pay attention also together on the dark side of the feudal age and its spitits at
the same time when we worship them. Or it would slow down the pace of Democracy.)



改めて、トーマス・ペインの「人間憲章」を読みなおしてみたい。



(Here again we would like to make sure what Thomas Paine writes in the "The Rights of Man
".

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist Democracy in Japan the
principle of the democracy Samurai Spirits samurai soldiers)





Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司





●「国」とは何か?(What is "Kuni"?)



What is "Kuni" in Japanese?

In English "Kuni" is translated into "country", but it doesn't mean "Kuni". It means "Land".
Also when they say "Patriotism", it means "to love our Father's Land". How about "Nation
"? When they say "Nationalism", it is not at all praised or rather despised because in most
cases nationalism causes unwanted and cruel wars.



In the orienatal world, "Kuni" means "My land with my people for the Leader". It is one of
the most difficult word for the western people to understand.



Here again I would like to quote Thomas Paine's "the Rights of Man" to think about the
democracy.



By the way when I searched my name with Yahoo's search Engine, I found some blogs in
which they say, "Hiroshi Hayashi is a communist" or, in another blog, "Hiroshi Hayashi did a
sexual abuse to two girls while he was researching his studies at K. University in Hyogo pref.
" Of course these are lies! I am not a communist or I have never been to K. University
before for my study.



Why are the people criticized like this in Japan, when we talk about the democracy? Do we
really want "the Restoration" again? The government can exist because we exisit as
Thomas Paine said like this "for as man must have existed before governments existed".



Which will you take, "the Government for People" or "People for the Gopvernment"?



We say "Japan is a country of Democracy". But the democracy we know is quite different
one from the democracy they say in the western world. This is the point.



++++++++++++++++++



英語で、「国」というときは、「Country」と

いう言葉を使う。



しかし「Country」というときは、「領土」を

意味する。



また英語で、「愛国心」というときは、

「Patriotism」という。



しかし「Patriotism」という単語は、「父なる

大地を愛する」というラテン語に由来する。



さらに英語には、日本語で言う「国」に近い

単語として、「Nation」がある。しかしこの

「Nation」に、「Nationalism」と、「-ism」が

つくと、狭小な民族主義を意味するようになる。



「Nationalism」というのは、軽蔑されるべき

ものであって、決して賞賛されるべきものでは

ない。



では、日本を含めて、東洋でいうときの「国」

とは何か。



そこで昨日、トーマス・ペインの「人間憲章」

(The Rights of Man)を取りあげてみた。



「国あっての民なのか」「民あっての国」なのか。



同じ民主主義と言いながら、西洋でいう

民主主義と、東洋(日本を含む)でいう

民主主義には、大きなちがいがある。

日本では、「国あっての民」と、ほとんどの

人たちが考えている。



なおこの「人間憲章」が、1791年という年に

なされていることに注目してほしい。今から、

ほぼ200年以上も前のことである。



+++++++++++++++++++



 驚いたことに、ほんとうに驚いたことに、昨日、「幼児教育家」で検索してみたら、この私が、
共産党員(?)と書いてあるBLOGを発見した。いわく「共産党員とは確認されていないが……
その疑いは、濃厚である」と。



 さらに驚いたことに、この私が、「K大学で、幼児研究をしている際、2人の女児にわいせつ
行為を働いた」※というのもあった。



 これらのBLOGには、コメント欄があったので、私は、即刻、削除するよう書いておいた。



 念のため申し添えるが、私は共産党員ではない。選挙のたびに支持政党が変わるので、自
分では、「浮動票の王様」と呼んでいる。自民党にも、公明党にも、民主党にも票を入れる。率
直に言って、共産党に票を入れることは、めったに、ない。



 K大学での研究中に、2人の女児にわいせつ行為を働いたというのは、事実無根もよいとこ
ろ。だいたいK大学(兵庫県、国立大学)には、一度も行っていない。15年ほど前、その大学
から、講師にならないかという話はあったが、それは、断った。



 その上で、もう一度、考えてみたい。



 どうしてこの日本では、民主主義を訴えると、共産党員ということになるのか? 封建主義を
否定し、王政復古に反対すると、どうして共産党員ということになるのか? 何か、まずいこと
でもあるのか? 



 「民あっての国(Governmnet=政府)」などということは、何も、トーマス・ペインの言葉を引用
するまでもなく、当たり前のことではないか。



 日本でいう民主主義は、西洋でいう民主主義とは、まったく異質のものと考えてよい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist democracy nationalism
patriotism)



(注※)私のHPのいちばん下、(Hiroshi Hayashi)で検索すると、数ページ目に、この問題のBL
OGがある。興味のある人は、読んでみたらよい。プラス、笑ってほしい。











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22

【教育の自由化】



【教育の自由化】



The liberalization of the education is the tide of the world.



OECDが発表した、全世界の子どもの学力調査の結果を、もう一度、見てほしい。それがつぎ
の表である(06年)。



【世界の子どもたちの学力(learning Ability of the youth of the wrorld)】



(読解力)(Reading Ability)



1位  韓国(Korea)

2位  フィンランド(Finland)

3位  香港(Hong-Kong)

……

15位 日本(Japan)



(数学的応用力)(Math Application)



1位  台湾(Twaiwan)

2位  フィンランド(Finland)

3位  香港(Hong-Kong)

……

10位 日本



(科学的応用力)(Science Application)



1位  フィンランド(Finland)

2位  香港(Hong-Kong)

3位  カナダ(Canada)

……

6位  日本(Japan)



++++++++++++++



 この表を見て驚くのは、フィンランドが、どの分野でも、上位1~2位に入っているということ。



 以下、「imidas」(special版、集英社)の記事を、箇条書きに、まとめさせてもらう。



 フィンランドでは、



(1)経済不況の中で、行政改革法を迫られ、規制緩和の方法を選んだ。

(2)中央政府の権限を小さくした。

(3)ほぼすべての権限を現場に渡すことにした。

(4)こうすることで中間管理のコストをさげた。

(5)教科書検定を廃止した。

(6)学校査察も中止した。

(7)政府は教育水準を維持するための情報を提供した。

(8)学校と地方自治体が、カリキュラムを決め、個々の教師が教育方法を決めている。

(9)16歳までは、他人と比較するテストは、行われていない。

(10)教師の仕事は、正解を教えることではなく、学びを支援することである。

(11)フィンランドの教師たちは授業以外に、ほとんど負担がない。

(12)学級定員は、20人程度。(小学校は16人程度)

(13)社会が勉学条件の格差を埋め、ひとりも落ちこぼれをつくらないという教育体制をとって
いる。(以上、要約)



 つづくつぎの段落には、こうある。そのまま抜粋させてもらう(P147)。



「フィンランドの学習理論は、社会構成主義であると説明されている。子どもが置かれた状況に
応じ、自ら意欲をもち、知り得たことや考えで整理したものが知識であるとみなす。したがって、
教育の仕事は、子どもたちが知識を編成していく方法(メタ知識)を育てることだとみなされてい
る」と。



+++++++++++++



 教育の自由化については、今まで、何度も、かつ繰りかえし書いてきた。たとえばスペインで
は、社会科の授業にしても、教科書のようなものはない。中学校レベルでも、それぞれの子ど
もに、テーマが与えられる。「あなたはフランス革命について調べなさい」「あなたはトラファルガ
ーの海戦について調べなさい」と。



 子どもたちは、1年をかけて、それを勉強し、1年の終わりに、みなの前で発表する。



 またカナダでは、教師は教室内でのことについてはすべての責任を負うが、子どもが教室を
一歩でも離れたら、いっさい、責任をもたなくてもよいしくみが、すでにできている。学校の設立
も、自由化されている。教える言語についても、不問。(アメリカは、言語は英語にかぎられて
いる。)



 アメリカでは、大学生の学部変更、転籍、転学は、自由である。小学校教育については、学
校ごとに、カリキュラムを編成できるようになっている。公立学校であっても、州政府からの、お
おまかなガイダンスがあるのみ。もちろん日本でいうような「教科書」はない。当然のことなが
ら、「教科書検定」もない。



 これが世界の流れであるということを、私は、何度も書いてきた。訴えてきた。どうして日本人
よ、目を覚まさないのか! 明治以来、富国強兵策の中で作られてきた、「もの言わぬ従順な
民づくり」が、教育ではない! またそれを教育と思ってはいけない!



 こうしたおかしさを、フィンランドの教育が、すべて語っている。今までに書いてきた原稿の中
から、いくつかを選んでみる。まず。スペイン在住の、Iさん(日本人)からのメールを紹介する。
このメールでは、それぞれの子どもがテーマを与えられ、それについて学習している点に、注
目してほしい。



+++++++++++



【スペイン在住のIさんより】



+++++++++++++++++++++



スペイン在住のIさんより、こんなメールが届きました。



転載許可をいただけましたので、紹介し

ます。



++++++++++++++++++++++



皆様 お元気ですか。



久しくご無沙汰しています。筆不精で、最近、メールを出していないので、



近況報告方々、メールを書いています。



Y子(娘)はYear 8(中学2年レベル)がもうすぐ終わりで、



期末試験の勉強に追われています。



科目別ですと、historyではフランス革命を勉強しています。日本語でも



難しいテーマを、英語で勉強するのですから、本人も大変です。



Englishはシェークスピアと日本でも話題になったHoles(日本名:穴)



が教科書で、毎日、宿題が結構出るので、日本の通信教育のワークまでなかなか手が回



らないので、日本に戻った時、苦労しそうです。



Y子は最近、コンピューターのマイクロソフトのメッセンジャーで友達と毎日、



チャット(英語、スペイン語、その略語が氾濫していて、



ちょっと大人には解読不能)をするのが日課でかなり、はまっています。



私は友達になったスペイン語の先生と油絵を描きながら、スペイン語を



習っています。



最近(2週間前)、ポール・マッカートニーのコンサートが近くのサッカー場で



あり、家族3人で行ってきました。久しぶりのロック・コンサートで、



盛りあがりました。幸代には初めてのロック・コンサートでしたが、クラスの友達も



大勢、見に来ていました。



ウィングス時代のJetで始まり、半分くらいはビートルズ時代の歌で、



Long and winding road や Hey.Judeなど、感激しました。



コンサートはいわゆるスペイン時間で、始まったのが夜の10時15分で終わったの



は夜中の1時過ぎでした。これはスペインでは普通です。



スペインはとにかく、日本に比べ、2~3時間くらいすべて遅いのです。



今では我が家の夕飯もいつも9時から9時30分くらいです。



郷に入れば、郷に従えです。



早いもので、スペインに来て、もうすぐ3年になります。



6月末で幸代の学校が夏休みに入りますので、私と幸代は7月の中旬に日本に



一時帰国する予定です。



いろいろ予定があるので、会えるかどうか、わかりませんが、



時間があれば、お会いしましょう。



皆様の近況も、メールで教えてくださいね。



ではまた。





+++++++++++++++++



つぎの原稿は、日本人がもつ常識、

とくに教育にもつ常識について

批判的に書いたものです。



+++++++++++++++++



【常識が偏見になるとき】 



●たまにはずる休みを……!



「たまには学校をズル休みさせて、動物園でも一緒に行ってきなさい」と私が言うと、たいてい
の人は目を白黒させて驚く。「何てことを言うのだ!」と。多分あなたもそうだろう。しかしそれこ
そ世界の非常識。あなたは明治の昔から、そう洗脳されているにすぎない。



アインシュタインは、かつてこう言った。「常識などというものは、その人が一八歳のときにもっ
た偏見のかたまりである」と。子どもの教育を考えるときは、時にその常識を疑ってみる。たと
えば……。



●日本の常識は世界の非常識



★学校は行かねばならぬという常識……アメリカにはホームスクールという制度がある。親が
教材一式を自分で買い込み、親が自宅で子どもを教育するという制度である。希望すれば、州
政府が家庭教師を派遣してくれる。



日本では、不登校児のための制度と理解している人が多いが、それは誤解。アメリカだけでも
九七年度には、ホームスクールの子どもが、一〇〇万人を超えた。毎年一五%前後の割合で
ふえ、二〇〇一年度末には二〇〇万人に達するだろうと言われている。



それを指導しているのが、「Learn in Freedom」(自由に学ぶ)という組織。「真に自由な教育は
家庭でこそできる」という理念がそこにある。地域のホームスクーラーが合同で研修会を開い
たり、遠足をしたりしている。またこの運動は世界的な広がりをみせ、世界で約千もの大学が、
こうした子どもの受け入れを表明している(LIFレポートより)。



★おけいこ塾は悪であるという常識……ドイツでは、子どもたちは学校が終わると、クラブへ通
う。早い子どもは午後一時に、遅い子どもでも三時ごろには、学校を出る。ドイツでは、週単位
(※)で学習することになっていて、帰校時刻は、子ども自身が決めることができる。



そのクラブだが、各種のスポーツクラブのほか、算数クラブや科学クラブもある。学習クラブは
学校の中にあって、たいていは無料。学外のクラブも、月謝が一二〇〇円前後(二〇〇一年
調べ)。こうした親の負担を軽減するために、ドイツでは、子ども一人当たり、二三〇マルク(日
本円で約一四〇〇〇円)の「子どもマネー」が支払われている。この補助金は、子どもが就職
するまで、最長二七歳まで支払われる。



 こうしたクラブ制度は、カナダでもオーストラリアにもあって、子どもたちは自分の趣向と特性
に合わせてクラブに通う。日本にも水泳教室やサッカークラブなどがあるが、学校外教育に対
する世間の評価はまだ低い。ついでにカナダでは、「教師は授業時間内の教育には責任をも
つが、それ以外には責任をもたない」という制度が徹底している。



そのため学校側は教師の住所はもちろん、電話番号すら親には教えない。私が「では、親が
先生と連絡を取りたいときはどうするのですか」と聞いたら、その先生(バンクーバー市日本文
化センターの教師Y・ムラカミ氏)はこう教えてくれた。「そういうときは、まず親が学校に電話を
します。そしてしばらく待っていると、先生のほうから電話がかかってきます」と。



★進学率が高い学校ほどよい学校という常識……つい先日、東京の友人が、東京の私立中

高一貫校の入学案内書を送ってくれた。全部で七〇校近くあった。が、私はそれを見て驚い
た。どの案内書にも、例外なく、その後の大学進学先が明記してあったからだ。別紙として、は
さんであるのもあった。「○○大学、○名合格……」と(※)。この話をオーストラリアの友人に
話すと、その友人は「バカげている」と言って、はき捨てた。そこで私が、では、オーストラリアで
はどういう学校をよい学校かと聞くと、こう話してくれた。



 「メルボルンの南に、ジーロン・グラマースクールという学校がある。そこはチャールズ皇太子
も学んだこともある古い学校だが、そこでは生徒一人ひとりにあわせて、学校がカリキュラムを
組んでくれる。たとえば水泳が得意な子どもは、毎日水泳ができるように。木工が好きな子ども
は、毎日木工ができるように、と。そういう学校をよい学校という」と。なおそのグラマースクー
ルには入学試験はない。子どもが生まれると、親は出生届を出すと同時にその足で学校へ行
き、入学願書を出すしくみになっている。つまり早いもの勝ち。



●そこはまさに『マトリックス』の世界



 日本がよいとか、悪いとか言っているのではない。日本人が常識と思っているようなことで
も、世界ではそうでないということもある。それがわかってほしかった。そこで一度、あなた自身
の常識を疑ってみてほしい。あなたは学校をどうとらえているか。学校とは何か。教育はどうあ
るべきか。さらには子育てとは何か、と。



その常識のほとんどは、少なくとも世界の常識ではない。学校神話とはよく言ったもので、「私
はカルトとは無縁」「私は常識人」と思っているあなたにしても、結局は、学校神話を信仰してい
る。「学校とは行かねばならないところ」「学校は絶対」と。それはまさに映画『マトリックス』の世
界と言ってもよい。仮想の世界に住みながら、そこが仮想の世界だと気づかない。気づかない
まま、仮想の価値に振り回されている……。



●解放感は最高!



 ホームスクールは無理としても、あなたも一度子どもに、「明日は学校を休んで、お母さんと
動物園へ行ってみない?」と話しかけてみたらどうだろう。実は私も何度となくそうした。平日に
行くと、動物園もガラガラ。あのとき感じた解放感は、今でも忘れない。「私が子どもを教育して
いるのだ」という充実感すら覚える。冒頭の話で、目を白黒させた人ほど、一度試してみるとよ
い。あなたも、学校神話の呪縛から、自分を解き放つことができる。



※……一週間の間に所定の単位の学習をこなせばよいという制度。だから月曜日には、午後
三時まで学校で勉強し、火曜日は午後一時に終わるというように、自分で帰宅時刻を決めるこ
とができる。



●「自由に学ぶ」



「自由に学ぶ」という組織が出しているパンフレットには、J・S・ミルの「自由論(On Liberty)」を
引用しながら、次のようにある(K・M・バンディ)。



 「国家教育というのは、人々を、彼らが望む型にはめて、同じ人間にするためにあると考えて
よい。そしてその教育は、その時々を支配する、為政者にとって都合のよいものでしかない。
それが独裁国家であれ、宗教国家であれ、貴族政治であれ、教育は人々の心の上に専制政
治を行うための手段として用いられてきている」と。



 そしてその上で、「個人が自らの選択で、自分の子どもの教育を行うということは、自由と社
会的多様性を守るためにも必要」であるとし、「(こうしたホームスクールの存在は)学校教育を
破壊するものだ」と言う人には、次のように反論している。



いわく、「民主主義国家においては、国が創建されるとき、政府によらない教育から教育が始
まっているではないか」「反対に軍事的独裁国家では、国づくりは学校教育から始まるというこ
とを忘れてはならない」と。



 さらに「学校で制服にしたら、犯罪率がさがった。(だから学校教育は必要だ)」という意見に
は、次のように反論している。「青少年を取り巻く環境の変化により、青少年全体の犯罪率は
むしろ増加している。学校内部で犯罪が少なくなったから、それでよいと考えるのは正しくな
い。学校内部で少なくなったのは、(制服によるものというよりは)、警察システムや裁判所シス
テムの改革によるところが大きい。青少年の犯罪については、もっと別の角度から検討すべき
ではないのか」と(以上、要約)。



 日本でもホームスクール(日本ではフリースクールと呼ぶことが多い)の理解者がふえてい
る。なお二〇〇〇年度に、小中学校での不登校児は、一三万四〇〇〇人を超えた。中学生で
は、三八人に一人が、不登校児ということになる。この数字は前年度より、四〇〇〇人多い。

 

++++++++++++++++



 制度を変えるためには、意識を変えなければならない。ところが教育というのは、なかんずく
教育観というのは、親から子へと、代々と引き継がれるという要素が強い。そこでその意識を
変えるためには、その意識を見直すという作業が必要となる。



 そのもっとも簡単な方法は、日本という国を、一度、外からながめてみること。すると、そのお
かしさが、よくわかる。



 フィンランドの教育法にも、いろいろな問題点があると聞いている。しかし教育の自由かは、
もう世界の流れ。この(流れ)を止めることは、だれにもできない!

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 教育の自由化 自由化 自由な
教育 フィンランド 教育自由化論)





++++++++++++++



(付記)



●世界の子どもたちの学力(learning Ability of the youth of the wrorld)



(読解力)(Reading Ability)



1位  韓国(Korea)

2位  フィンランド(Finland)

3位  香港(Hong-Kong)

……

15位 日本(Japan)



(数学的応用力)(Math Application)



1位  台湾(Twaiwan)

2位  フィンランド(Finland)

3位  香港(Hong-Kong)

……

10位 日本



(科学的応用力)(Science Application)



1位  フィンランド(Finland)

2位  香港(Hong-Kong)

3位  カナダ(Canada)

……

6位  日本(Japan)



++++++++++++++



 この結果を、小学5年生の子どもたち(6人)に話してみた。子どもたちは、読書について話し
始めた。



I talked about this result to some six kids of Grade 5th of school. They started talking about
themselves.



 驚いたことに、その中の2人が、1年に、300冊近くも本を読んでいることを知った。300冊と
いえば、1日に、ほぼ1冊ということになる。



With my surprise I know two of them are reading 300 books per year. Almost one book a day!



 「どうしてそんなにたくさん読むの?」と聞いたら、「学校で、読書競争があるから」と。中に1
人、親から、読書時間を制限されている子どもがいることもわかった。その子どもは、1日に、
1時間までと決められているそうだ。



I asked them why you read so many books a year and one of them told me that there is a
class-competition of reading. Moreover I was surprised to know that one of them is limitied
to read books less than an hour a day!



 読書は、あらゆる学力の基本である。社会科にしても、理科にしても、読書が基本。とくに小
学生のばあい、社会科は、社会科的な国語、理科は、理科的な国語と理解するとよい。



Reading is essential and we say in Japanese "reading is the pillar of education". As for
socioloy and scienace, they are only parts of reading.



 が、それだけではない。



But it is not all.



 読書を日常的にしている子どもには、ある種、独特の(深み)がある。沈思黙考タイプという
か、目つきが、いつも静かに落ち着いている。理知的というか、じっと周囲の様子を観察してい
るといった雰囲気がある。



Those kids who read books in their daily life look different from those who do not. Those kids
who read more books have a kind of a very special mood and they give us an impression of
deep-thinking. They are more logical and even when we do our conversation, they always
try to observe things around them.



 読書がいかに大切かは、今さら言うまでもない。欧米では、読書(reading)を、教育の柱にし
ている。学校教育は、読書に始まり、読書に終わると言っても過言ではない。



It is no use to say that reading is so important. In western world, reading is one of the most
important subject to learn. School education starts from reading and it is everything.



 一方、読書をまったくと言ってよいほど、しない子どももいる。このタイプの子どもは、どこか、
軽い。中身がない。バラエティ番組の中のタレント風といった感じ。ものの考え方が、表面的。
直感的。よくしゃべる。小学5、6年生になると、その差がはっきりとしてくる。



On the contrary there are some who do not read books at all. This type of kids also have a
kind of special mood. They are "light" in thinking and we feel no deepness in their thoughts
just like TV talents of cheap varaiety programs. They talk a lot. The difference comes clear
when they are about the age of thre grade 5th.



 さらに日常的に作文をしている子どもは、ものの考え方が論理的。言葉の使い方そのもの
が、ちがう。読書、作文は、子どもの教育の(要=かなめ)と考える。



And also there are some who write things in their daily life. They are more logical and when
they talk they use more proper words to express themselves. Reading and writing are the "
pillar" of education, I am quite sure.

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist reading writing learning ability
of the Japanese students)