Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Monday, March 30, 2009

*From Nothing to Nothing

●上司の死

++++++++++++++++++

昨夜、長男が固い表情で、食卓へやってきた。
「上司が急死した」と言った。
「脳内出血が原因だった」と言った。

「その2時間前には、元気でぼくと会話をしていた。
そのあと会議の席で倒れ、そのまま死んでしまった」と。

長男は、あまりにもあっけない人の死を見て、
かなりのショックを受けたらしい。
が、それ以上に、長男は、自分の心にショックを
受けたようだ。

「それがね、おかしなことに、ぜんぜん、悲しく
ないんだよ」と。

それを聞いて、私は、「そういうものかなあ?」と
思ったり、「そういうものだろうなあ」と思ったりした。

++++++++++++++++++

●「無」から「無」へ

4月に三男が結婚することになった。
そのことはともかくも、私は今、ふとこんなことを考える。
「孫たちは、今、どこにいるんだろう?」と。

結婚して子どもをつくる。
三男には、息子や娘ということになる。
私にとっては、孫ということになる。
その孫たちは、今、どこにいるのか。

人は死んで、この世から去っていく。
では反対に、今はいない、孫たちは、いったいどこから
やってくるのか。
つぎの瞬間には、今までの人生がそうであったように、
当たり前のような顔をして、孫たちは、そのあたりを
孫が遊ぶようになるだろう。
が、今は、いない。

しかし、それはそのまま私自身の問題でもある。
私は(無)の世界から生まれ、やがて死んでまた(無)の世界に
戻っていく。
100年前には、私は、たしかに(無)だった。
三男の息子や娘のように、この世には、まだいない。
そして100年後、私は、確実に(無)に戻る。
長男の上司のように、跡形(あとかた)もなく、消えてなくなる。

となると、いったい、(私)は何かということになってしまう。
長くて、100年。
100年といっても、この宇宙の中では、星がまばたきする、
その瞬間にもならない。
地球にしても、この宇宙の中では、ゴミの、そのまたゴミのようなもの。
その地球で(生)を受け、その瞬時に生き、そして死ぬ。

考えてみれば、いちいち悲しんでいるヒマさえない。
それがだれの死であっても、つぎの瞬間には、それがそのまま(私)の
死になる。

いや、そのときは長く感ずるかもしれないが、終わってみると、
みな(瞬間)。
私の母にしても、この浜松市に2年間いたはずなのに、その実感が
まるでない。
そして死んでから、もう半年。
その実感も、まるでない。
振り返ってみると、すべてが(瞬時)に終わってしまった。
が、それだけではない。

おかしなことに、本当におかしなことに、今では、「いなかったことが、
当たり前」というふうになってしまった。
「本当に母は、この世にいたのだろうか」と。

やがて孫たちは、わがもの顔で、この世をかっ歩するようになるだろう。
そしていつか、今の時代を振り返りながら、こう思うにちがいない。
「本当にぼくには、おじいちゃんがいたのだろうか」と。

こうして無数の(私)が、現れては消え、現れては消えを繰り返す。
今の(私)は、ほんのその一部でしかない。
この不思議さ。
この不可思議さ。
それを考えていると、気が遠くなるほど、自分がどんどんと小さくなって
いくのがわかる。


●ある女性の葛藤

数日前、ある女性から10年ぶりにメールが届いた。
「たいへんな」というより、「たいへん悲惨な」というべきか。
たいへん悲惨な家庭環境の中で、生まれ育った方である。
親の離婚のあと、里子に出され、そこで性的虐待。
近親者の自殺などなど。

その女性の母親が、介護が必要な状態になったという。
母親といっても、その女性にしてみれば、母親の存在そのものを忘れて
しまいたいような母親である。
その女性は、忌まわしい過去を、一日でも早く忘れたいと願っている。
あるいは過去から解放されたいと願っている。

そんなとき郷里の人たちから、母親のことを知らされたらしい。
で、その女性は、その連絡を無視。
返事をしなかった。
恐らく郷里の人たちは、その女性のことを、「何という娘だ」と、
非難しているにちがいない。
そのことを気にしているわけではないだろうが、その女性は、今、
苦しんでいる。

が、この(苦しみ)だけは、それを経験したものでないとわからない。
本脳に近い部分にまで、刷り込みがなされているから、それを
(私)から切り離すのは、容易なことではない。
まさに「身を切り裂くような」苦痛と闘わねばならない。

私も、似たような状況に置かれたことがある。
で、そのときは、10か月近く、毎晩床に就くたびに、発熱が
始まり、ワイフの看病なくして、眠られなかった。
「家族自我群(=呪縛感)」による「幻惑(=苦しみ)」と闘うということは、
そういうもの。

そういうとき私にしても、「お前は息子だろ」「産んでもらったのだろ」
と言われることくらい、つらいことはなかった。
いや、世の中には、無神経なバカが多いのも事実で、表面的な部分だけを
見て、あれこれ言ってくる人もいた。
たいした用もないのに、さぐりの電話をかけてきたり、手紙を書いてきたりした
人もいる。

それでも親は親なのか。
子は子なのか。
産んでもらった恩(?)は、どこまでもついて回るものなのか。

しかしこういうこともある。
私と母の間にしても、いろいろあった。
しかし母が私の家に来て、最初の日。
私が母の下痢で汚れた尻を拭いてやったその瞬間、すべての(わだかまり)が、
煙のように消えた。
そこで手すりにつかまって立っている母は、どこまでもあわれな、か弱い
老人に過ぎなかった。

だからその女性への返事には、こう書いた。
そのまま転載する。

『こんにちは、Mさん!

苦しいお気持ち、察しいたします。
「家族」のもつ呪縛というか、それから逃れるのはたいへんなことです。
骨の髄まで燃やしつくしますから……。
しかしこの問題だけは、逃れることはできません。
まだ間にあうようでしたら、運命を受け入れて、やるべきことはやる……
ということはできませんか?
介護にしても、今は、意外なほど、楽です。
ケアマネに相談すれば、いろいろな道がありますよ。

もしそれができないというのであれば、生涯、悶々とした気分で
過ごすことを覚悟することです。
「幻惑」には、それほどまでに強い力があります。

私も苦しみました。
10か月間、ワイフに、毎晩看病してもらったほどです。
夜、床に就くと、熱が出て、うなされました。
10か月、です。
しかし母が私の家に来て、最初に、下痢の便を始末したとき、
わだかまりがウソのように消えました。

あなたのような人のほうが、(真理)に近いのですよ。
苦しむが故に、そこに(真理)があることを知るのです。

できれば『許して、忘れなさい』。
まだ間に合うよでしたら、明るい声で、電話をかけてあげなさい。
あなたも人を愛することの喜びというか、すがすがしさを覚えるはずです。

心を解き放ちなさい。
体はあとからついてきます。
この世の中、悪い人ばかりではない。
みんなが助けてくれますよ。

そしていつか、あなたも、人を助けるのです。

あなたの過去のことは、よく覚えています。
別離、離婚、身内の自殺などなど。
(もしまちがっていたら、ごめんなさい。
M様の記録は残してありませんので……。)

家族自我群(=呪縛)の苦しみは、ものすごいものです。
本脳に近い部分にまで、刷り込まれていますから……。
私が経験しましたから、これは事実です。
恨めば恨むほど、身が焼けます。

だったら、受け入れてしまうのです。
介護がたいへんだったら、そのように先方に伝えればよいでしょう。
いやだったら、正直に、「いやだ」と言えばよいのです。
逃げてはいけません。
正直に、生きるのです。

方法は、いくらでもあります。
もうあなたはじゅうぶん、苦しみました。
ここらでケリをつけたらどうでしょうか』(原文のまま)と。

親は、子を産むことで親になるが、
そのあとよき親子関係を築けるかどうかは、
まったくの別問題である。
たいていの親は、(若い親は)、「私はだいじょうぶ」と高をくくっている。
この文章を読んでいる、あなただって、そうかもしれない。
しかしよき親子関係を築ける人は、10人に1人もいない。
つまり、それくらい、むずかしい。

親友ならまわりの友人の中から選んで、作ることができる。
しかし(子)は選ぶことができない。
だからむずかしい。
この世界で、『親だから……』『子だから……』という、(ダカラ論)ほど、
アテにならないものはない。
そんな(ダカラ論)に甘えて、子の人格を無視すると、たいてい失敗する。

ともかくも、私はその女性からのメールを読んで、久しぶりに
一度は忘れた自分の過去を思い出した。
とても他人ごとには、思えなかった。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
親子の確執 葛藤 親子の問題 呪縛 苦悩)