Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Sunday, March 29, 2009

*March 29th 2009

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●09年3月28日

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BW教室にもテーマ音楽がある。
私のHPの、トップページに収録してある。
(あるいは「BW公開教室」より。)

私の二男が高校生のとき、作曲、演奏したものである。
短いが、すばらしい曲である。
(多分に親バカ的評価だが……。)
何度聴いてもあきないし、聴けば聴くほど、
心が温まってくる。

で、勝手に、私が私のHPのテーマ音楽にして
しまった。
一度、二男に、「いいか?」と聞くと、「いいよ」
と言ってくれた。

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●親の後悔

その曲を聴くたびに、息子がもっていた感性に、驚く。
薄々は気がついていたが、そのときは、私のほうに、それだけの理解力がなかった。
作曲は息子の趣味だったし、息子はその範囲で遊んでいるだけと思っていた。
が、私はまちがっていた。
先にも書いたように、聴けば聴くほど、その向こうにすばらしい感性が光っているのを
知る。
今の私なら、もし身近に、そういう高校生がいたら、迷わず作曲家の道を進むよう、
アドバイスするだろう。
親も説得する。
しかし私は、それをしなかった。
息子の将来にしても、ありきたりのものしか考えていなかった。
「大学を出て……」「就職して……」と。
が、私は、息子のそういう感性を、もっと伸ばすべきだった。
またその努力すべきだった。
今、そういう後悔が、シクシクと胸をしめつける。
HPのテーマ音楽として使っているが、実のところ、聴くたびに申し訳ないことをした
という気分に襲われる。

【HPのテーマ・音楽は、以下のアドレスから……】

http://www.youtube.com/watch?v=akhdJvb4pkM

value="http://www.youtube.com/v/akhdJvb4pkM&hl=ja&fs=1">name="allowFullScreen" value="true">value="always">src="http://www.youtube.com/v/akhdJvb4pkM&hl=ja&fs=1"
type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always"
allowfullscreen="true" width="425" height="344">



● 説明会

今日は、幼児教室の説明会をした。
「中日ショッパー」という広告紙が、たびたび無料で教室の宣伝してくれた。
そのこともあって、今年は例年の2倍の親たちが、説明会に来てくれた。
うれしかった。
プラス、疲れた。
40回も経験しているはずなのに、説明会だけは、いまだに疲れる。

で、その中に、1人、孫の芽衣そっくりな女の子がいた。
名前をOさんといった。
最初から最後まで、ずっと気になっていた。
「入ってくれればいいな」と思いながら、私の教育方針を説明した。
ともかくも、この1年は、(もうけもの)。
仕事ができるだけでも、御の字。
感謝しなければいけない。

で、Oさんは入会してくれた。
うれしかった。
お母さんはどこか心配そうだったが、私が「いい子ですよ」と言うと、
安心したような表情を浮かべてくれた。
「すばらしい子にしますよ」と言いかけたが、それは言わなかった。
そんなことは、当然のこと。
だから言わなかった。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●態度の類似性

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『類は友を呼ぶ』という。
『似たもの夫婦』ともいう。
人を、たがいに親近させるものは、
「類似性」ということになる。

その類似性について、シュプランガー
という学者は、つぎの6つのもの(「態度」)
に分けて考えた(参考:「性格心理学」
ナツメ社)。

(1) 理論型
(2) 審美型
(3) 社会型
(4) 経済型
(5) 政治型
(6) 宗教型

つまり同じ「型」が同じ者どうしは、
それぞれ、親しくなりやすいということ。
わかりやすく言えば、科学者は科学者
どうし。
芸術家は芸術家どうし、それぞれ
親しくなりやすいということ。

が、「型」がちがうと、親しくなるといっても、
そこには限界があるということらしい。
(型がちがっても、親しく交際している人も
いるが……。)

要するに、まとめて簡単に言えば、
やはり『類は友を呼ぶ』ということになる。

で、私はこれらのほかに、
親しくなる要因として、(あくまでも
親しくなる要因としてだが、)

(7)趣味型(趣味が同じ)
(8)同族型(同族意識、同窓意識)
(9)同目的型(同じ目的をもっている)

の3つを付け加えたい。

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もっとも親近性といっても、内容もレベルも異なる。
「近所づきあい」程度のレベルから、「命を分けあう」レベルまである。
また器用な人になると、それぞれの人と、別の顔を使い分けながら、
親しくなることもある。
おそらくシュプランガーという学者は、きわめて高度な親近性を
問題にしたのだろう。
私のような凡人がつくる人間関係とは、レベルがちがう(?)。

が、ここでふと考えが止まってしまう。
では、いったい、「親友とは何か?」と。
さらに「友とは何か?」と。
あるいは、「妻は、友なのか」と。
(もちろんその反対に、「夫は、友なのか」でもよい。)

ちょうど1年前に、こんな原稿を書いた。

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●夫婦円満のコツ

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夫婦も長い間いっしょにいると、
たがいに相手に合わせようとする。
いがみあっているよりは、妥協できる
ところは妥協し、相手に合わせたほうが
よいと考えるようになる。
そのほうがストレスもたまらない。

こうして夫婦の間には、同調関係
が生まれる。

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仲がよい夫婦でいるためには、たがいに好感をもっていなければならない。
これは必要条件だが、しかしそれだけではじゅうぶんではない。

たとえばこんな例で考えてみよう。

夫は、岐阜県出身で、岐阜S高校の野球チームを応援。
妻は、静岡県出身で、静岡A高校の野球チームを応援。

夏の甲子園で、岐阜S高校と静岡A高校が対戦することになった。

こういうとき夫婦として、いろいろな解決策が考えられる。

(1) 妥協…どちらかがどちらかに、合わせる。
(2) 合理化…「たかが高校野球」と考え、対立を避ける。
(3) 受容…たがいにたがいを認めあう。

これは実際、ある知人から聞いた話だが、日本人男性と結婚した
ブラジル人女性がいた。
その夫婦のばあい、ワールドカップで日本とブラジルが対戦したとき、
そのまま対立関係になってしまったという。
(実際には、妻は、ブラジル人が集まる会場で、ブラジルを応援し、
夫は家で、子どもたちと日本を応援したという。)

が、スポーツならまだしも、宗教がからむと、ことは簡単ではない。
とくに妻が、どこかのカルト教団(狂信的な信仰をする団体)に
入信したようなばあい、である。

こういうケースのばあい、(2)の合理化は、むずかしい。(3)の
受容についても、たいてい妻のほうが一方的に夫の価値観を否定する
ようになるので、それもむずかしい。

残るのは、(1)の妥協ということになるが、妻のほうが夫に妥協する
ということは、信仰そのものがもつ性質上、ありえない。
夫の側の一方的な妥協が強いられる。

が、その妥協に失敗すると、ストレスは急速に増大し、やがて限界を超える。
具体的には、「離婚」という言葉が、夫婦の間から出てくるようになる。
これは夫だけの問題ではない。
中には、「離婚はぜったいだめ」と教えるカルト教団もある。
妻自身も、信仰と離婚のはざまで、もがき苦しむことになる。

実際、その処理に失敗して、42歳という若さで、亡くなってしまった
男性がいる。
くも膜下出血だったという。
その話を聞いたとき、私はその背後で起きた、壮絶な家庭内宗教戦争を想像した。

さらによくあるケースとしては、不倫がある。

夫婦、どちらか一方の不倫が発覚したようなばあいを考えてみよう。

こういうケースでは、(1)の妥協ということは考えられない。
「あなたが不倫をしたから、私も不倫をしてきます」というわけにはいかない。
そこで(2)の合理化、もしくは(3)の受容ということになる。

合理化というのは、高校野球と同じように、「たかが不倫ではないか」と考え、
自分を納得させることをいう。
受容というのは、「夫婦といっても、たがいに束縛しあうのはよくない」などと
考えて、相手の行為を認めることをいう。
しかしそれにはかなり高度な、精神的操作が必要である。
昔、見たフランス映画に、そういうテーマを扱ったのがあった。

晩年に近づいた男性が、若い女性と結婚した。
しかし男性は、性的な満足感を妻に与えることができなかった。
そこで男性は妻の不倫を容認することによって、夫婦の愛情をさらに昇華させた。

……以上のケースは、いわば特殊な例ということになる。
こういうケースは別として、私たちは日常生活において、つねに、選択を迫られる。
妥協か、合理化か、さもなくば受容か、と。

それがじょうずに処理できる夫婦を、(仲のよい夫婦)といい、そうでない
夫婦を、そうでないという。
表面的な様子だけを見て、たとえば夫婦げんかが少ないから、仲がよいとか、
少ないからそうでないとか判断してはいけない。

あとは、たがいに前だけを見ながら、前に向かって進む。
夫婦というのは、けっして見つめあってはいけない。
それが夫婦円満のコツということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 夫婦論 夫婦円満)

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しかしやはり長い目で見ると、「態度の類似性」が、親近感の基本になっているのが、
わかる。
夫や妻にしてもそうで、もし夫婦円満をめざすなら、「類似性」の追求が、
そのカギを握ることになる。
だから西洋ではこう言う。

『夫婦はけっして、見つめあってはいけない。互いに手を取り、前を見て歩く』と。

で、私も今や、満61歳。
ジー様になってしまった。
そういう自分を振り返ってみると、いつも孤独との闘いだったような気がする。
友といっても、数えるほどしかいない。
「命を分かちあえる友」となると、ワイフくらいしかいない。
しかしワイフは、シュプランガーの説く「態度の類似性」の「型」の
どれにも当てはまらない。
私が考えた3つの「型」にも、当てはまらない。
あるいは「友」と考えているのは、私の思いあがりにすぎないのかもしれない。

実際には、相互に依存しているだけ。
あるいはひょっとしたら、「共依存関係」かもしれない(ゾーッ!)。
さらに「支配と服従関係」かもしれない(さらに、ゾーッ!)。

が、さらに恐ろしいことに、このところ孤独感が和らぐどころか、強くなって
いるように感ずる。
だれと話していても、「そんなことは、Aという学者が、遠い昔に説明しているの
になあ」とか、「その問題の奥には、もっと別の問題があるのになあ」と、
そんなふうに考えてしまう。
とたん、その人との間に、(距離)を感じてしまう。
ときに、その人を、超え難いほど遠くに感ずることもある。
「この人に、私の考えを説明したら、10年はかかるだろうな」と。
あるいは「分かりあうのは、永遠に不可能だろうな」と。

だからやはり、「型」ということになる。
おもしろい考え方だと思う。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
シュプランガー 態度 態度の類似性 夫婦円満 親友論 親しみ)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●3月28日(M党のOZ党首、立ち木問題)

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●M党のOZ党首

M党のOZ党首が、「続投する」と、自らの意思を表明した。
しかしこの表明で一番、胸をなでおろしているのが、J党。
M党による政権交代は、これで事実上、不可能になった。
国民の約80%は、OZ党首の「説明」に納得していない(C新聞)。
私も納得していない。

さらに驚くべき発言がつづいた。

M党内部で、公然とOZ氏批判をした国会議員がいた。
それに対して、OZ派の国会議員(M党)が、「自分を何様だと思っているのか」と、
かみついた(テレビ報道)。

ヘ~~エ?

M党という政党は、そういう政党だったの?
同僚の国会議員に対して、「何様だと思っているのか」は、ない。
要するに、「だれのおかげで国会議員になれたと思っているのか。
生意気言うな!」という意味らしい。
この言葉は、そっくりそのまま、M党・OZ派のみなさんに送りたい。


●立ち木問題で、知事が辞任(?)

これまたおかしな、前代未聞のできごとが、この静岡県で起きた。
たかが(失礼!)、立ち木問題程度のことで、知事が辞任を表明した。
ことの発端は、立ち木。
はじめから終わりまで、立ち木。

今度開港する静岡空港の滑走路の先に、150本程度の立ち木がある。
滑走路の、ちょうど真正面に、である。
(その周辺の場所には、木はなく、その部分だけに、剃り残したヒゲのように
立っている。)
そのため開港は遅れ、プラス1億円程度の改修費がかかった。
それについて、立ち木の地権者のO氏は、「知事の辞任が条件」と、静岡県側に迫った。
つまり「知事が辞任しないかぎり、立ち木は切らない」と。
それを受けて、静岡県知事が辞任を表明した。

ここで再び、民主主義・論。
私権の保護は、民主主義の根幹である。
それは認める。
しかし私権とっても、絶対的なものではない。
(保護しなければならないものかどうか)という観点から、フィルターがかかる。
そのフィルターをくぐりぬけないかぎり、世論の支持を得ることはできない。
もし私権を無制限に保護するとなると、空港どころか、道路一本、建設できなくなって
しまう。

そこで立ち木。
たかが立ち木(失礼!)。
その立ち木を切ることで、地権者にどんな被害が及ぶというのか。
地権者の生活に、どれほどの損害を与えるというのか。

一方、静岡県側は、すでに改修費に、県は1億1000万円も支出している。
この先、さらに1億円程度の追加費用が見込まれている(C新聞)。
開港の遅れによる被害も、相当な額に達している。

それについて、地権者のO氏は、こう述べているという。

「週明けの30日に、実務レベルの話し合いに入りましょう」と。
つまり「立ち木をこちらが切るか、県に切ってもらうか。切り方はどうするか。
そんな具体的な話を詰めていきたい」(C新聞・09・3・28)と。

「実務レベルの話し合い」(?)。
たかが立ち木、150本を切り倒すために、「実務レベルの話し合い」(?)。
どこか、「?」。
私には、理解できない。

繰り返すが、たかが立ち木(失礼!)。
その上で、「(立ち木を切るには)、知事の辞任が条件」とは!

静岡空港には、いろいろ問題はある。……あった。
当初、はげしい反対運動が起きたのも事実。
その間に、いろいろな(わだかまり)ができたのも、わかる。
ここまでこじらせてしまった県側にも、問題がないとは言わない。
しかし空港は、完成した。
……してしまった。

で、やはりどう考えても、たかが立ち木(失礼!)。
私も、農地を一度、宅地に転換するとき、杉の木を、数百本植えた経験がある。
そしてその6年後、5~8メートルを超える杉の木を、切り倒した経験がある。
切り倒すだけなら、半日でできる。
また立ち木そのものには、それほどの財産的価値はない。
このあたりでも、20~30年木で、一反(300坪)、50~70万円が相場。

いろいろ言いたいことはあるが、ここまで。
「こんなことがあっていいのかなあ?」と思ったところで、おしまい。
あとは、みなさんが胸の奥で考えていることと、同じ。


Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司

●口のうまい人(Those who flatter)

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ふつう、「口のうまい人」というときは、
つぎの2つの意味が含まれる。

ひとつは、(自分のことをよく思わせるために)、
口がうまいことをいう。

もうひとつは、(他人の悪口を言うのに)、
口がうまいことをいう。

ほかにも、お世辞がうまい、おじょうずがうまい、
おだてる、へつらう、など。
ぺらぺらとしゃべって、相手の心を、自分の
思うがまま、誘導していく。

最近、こんな会話を、ある女性(60歳)とした。
その女性が、こう言った。

「あのAさん(65歳)って、義母の介護では
苦労なさったんですってねエ……。何でも
献身的な介護だったそうですよ」と。

そこですかさず私が、「その話は、だれに聞きましたか?」
と聞くと、「Aさんです」と。

Aさんという女性は、私もよく知っている。
口のうまい人で、たとえば他人の悪口を言うときも、
さも同情しているかのような言い方で、言う。

「Bさんって、本当に、かわいそう……。
私、もう、かわいそうで、その話を聞いて、涙が
出そうになりましたア……。
いえね、ひとり息子のX男君がね、無免許で
車を運転して、逮捕されてしまったんですって……。
あんな若いのに、もう前科がついてしまったんですって……。
私、かわいそうで、かわいそうで……」と。

涙声にはなるが、しかし涙は、ぜったいに出さない。

そんな人の話を真に受けて、「苦労なさったんですってね」は、
ない。
つまり、ウソ!

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口のうまい人には、注意したほうがよい。
それだけ悪口を言うのにも、たけている。
つまり両刃の剣(?)。

だからあなたの近くに、口のうまい人がいたら、すかさず、こう思ったらよい。
「別のところでは、私の悪口を言っているぞ」と。
それには、理由がある。

口のうまい人は、つねに、自分の心を偽っている。
あるいは自分の心が、どこにあるかもわからない。
(口がうまい)という能力には、たけているが、その分だけ、思考力が浅い。
ものの考え方が、享楽的、刹那(せつな)的、欲望的。
その場の雰囲気に合わせて、言っていることの内容が、クルクル変化する。
もちろんウソも多い。
あるいは事実とウソを、巧みに混ぜる。

だから相手によっては、今度は、あなたを、酒の肴(さかな)にする。
悪口だろうがなんだろうが、知っていることは、何でも利用する。

心理学的に言えば、心の開けない人、つまり基本的不信関係にある人とみてよい。
他人と良好な人間関係を結べない。
結べない分だけ、孤独。
だから外の世界へ出て行っては、そこでシッポを振る。
見た目は、社交的で、派手。
しかしれは、あくまでも仮面。
そのため当の本人は、疲れる。
神経疲れを起こす。
あとは、この繰り返し。

このことは、その反対の位置にいる人を見れば、わかる。
たとえば私のワイフ。
私のワイフほど、口べた女性は、そうはいない。
真正直というか、バカ正直というか……?
私のほうが、今でも、ときどきワイフにこう言うときがある。
「もう少し、おじょうずを言ったらどうだ!」と。

この世の中、ある程度は、口がうまくないと、うまく生きていかれない。
とくに商売の世界では、そうである。
それはわかるが、ことプライベートな世界では、やはりあるがままに生きた方が
よい。
そのほうが楽。
言うなれば、口のうまい人は、心の中は、ゴミだらけ。
ゴミがない分だけ、心が軽い。

で、先に書いたAさんだが、今では、だれにも相手にされていない。
みな、(私も含めて)、適当に調子を合わせているだけ。
どこまでも、どこまで、あわれで、かわいそうな女性である。
それを感じているのか、Aさんは、ますます口がうまくなる。
あとは、この悪循環。
自分で自分の墓穴を、どんどんと深くしていく。

(付記)

口のうまい人には、いろいろな特徴がみられる。
「布石」「玉石混交」が、それら。

「布石」というのは、あからじめ、別の話題の中に、重要なキーワードを混ぜる
ことをいう。
ちょうど碁に例えるなら、周辺に、ポンポンと言葉をはさんでおく。
どうでもよいような話をしながら、その間ごとに、こう言う。
「近所に、ひとり暮らしの老人がいましてね……」
「私、見るにみかねて……」
「その老人の息子がね、勝手に借家を売ってしまったんですって……」と。
そしておもむろに、こう切り出す。
「だから私、その老人のために、必要な仕事を、してあげてますのよ」と。

「玉石混交」というのは、ペラペラとどうでもよい話をしながら、その中に、
重要な話を混ぜていく。
相手が反論したり、質問できないような状態を作っておいて、それで了解を
取りつけたようにして、会話を終える。
そしてあとになって、その相手が、「話がちがいますよ」などと言ったりすると、
「あら、あなた、この前、了解してくれたではありませんか。
それを今になって、ダメだと言われても、私は困ります……」と。

こうした口のうまい人への対処方法は、ただひとつ。
そのつど会話をさえぎりながら、自分の意見をしっかりと伝えること。
けっして遠慮してはいけない。
ためらってはいけない。
それができないなら、そういう口のうまい人とは、話はしないこと。
あるいは徹底して聞き役に回り、あとは無視してすます。

私のばあいは、「ちょっと待ってくださいよ」というような言い方をして、
その人の意思や、思惑を確認するようにしている。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
口のうまい人 お世辞のうまい人 へつらう人 基本的不信関係)


Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司

●通俗性

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通俗的な人は多い。
多いだけではない。
加齢とともに、さらに多くなる。
パワーをましてくる。

たとえば主夫業についても、問答無用式にこう言う。
「そりゃあ、林君、男は仕事だよ。仕事をしてこそ、
男だよ」と。

父親像についても、「父親というのはね、家の中で
デンとしているのがいいんだよ。一家の大黒柱
なんだから」と。

親論についても、「親は親だからな。どんなことがあっても、
親には逆らっちゃいけないよ。生んで育ててくれたんだからさ」と。

国家論についても、「国あっての民だろ。日本は、一民族、
一国家。この純潔さこそが、大切なんだよ」と。

こうした通俗性とは、どう闘えばよいのか。
またどうして人々は、加齢とともに、ますます通俗的に
なっていくのか。

通俗性を主張する人は、「過去」「伝統」を背負っているから強い。
自分で考えて、そう言うのではない。
「昔から、人間はこうだ」という論陣を張る。
それが転じて、「人間は、こうあるべきだ」となる。

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●通俗的になる人たち

60歳を過ぎると、とたんに多くなるのが、通俗的な人たち。
思考回路そのものが、過去へ過去へと、回帰していく。
その理由として、最大のものは、脳みその退化である。
こんな例で考えてみよう。

たとえば英単語。
20代のころまでに覚えた英単語というのは、しっかりと脳みその中に残っている。
今でも、即座に、思い出せる。
しかし50代ともなると、そうはいかない。
覚えるのもたいへんだが、すぐ忘れる。
記銘力、保持力、その双方が衰える。
衰えるならまだしも、バケツの底に穴があいたような状態になる。
その穴から、知恵や知識が容赦なく、流れ出ていく。
英単語もそうだ。

それもたとえるなら、タマネギの皮のようなもの。
外側からどんどんと、はがれて落ちていく。
つまり新しい記憶ほど、早く、はがれ落ちていく。

最後に残るのは、中心部にある、古い記憶のみということになる。
このことは、介護センターにいる老人たちを見ればわかる。
あの人たちはみな、過去の話ばかりしている。
子どものころの話とか、若いころの話ばかりしている。

●例外はない

こうして考えてみると、人は、加齢とともに、通俗的になるのではなく、
若いころ身につけた、(常識?)に戻っていくということがわかる。
あるいはそのあと身につけた、知識や知恵が、はがれ落ちてしまう。
わかりやすく言えば、バカになっていくということだが、それではあまりにも失礼。
しかしそれほど、まちがってはいない。

というのも、20代以後、結構、国際的な場で活躍した人ですら、通俗的になって
いく人は、いくらでもいる。
大企業で、要職を経験したような人でも、通俗的になっていく人は、いくらでも
いる。
もちろん、小さな世界だけで生きてきた人ほど、通俗的になる。
が、やはり特別な人だけが、通俗的になっていくわけではない。

●精進(しょうじん)

では、通俗性と闘うためには、どうすればよいのか。
そのためには、何が通俗的で、何が通俗的でないかを、判断しなければならない。
たとえば「男は仕事だよ。女が仕事に口を出すのは、まちがっている」と主張する
人がいる。
「どんな親でも、親は親だからな。逆らうのはよくない」と主張する人でもよい。
(今でも、ちゃんと、いるぞ!)

そういった通俗的なものの考え方をする人に出会うと、私のばあい、絶望感に近い
ものを感じてしまう。

そういう人たちの、ガリガリになった石頭を変えるのは、まず不可能。
順に説明しようにも、それよりも早く、脳みその老化が進んでしまう。
仮に新しい思想を話しても、そういったものほど、早く、忘れてしまう。
だから、私のばあい、「そうですねエ~」とか言って、逃げてしまう。

が、他人は他人、私は私。

では、あなたはどうか?
この文章を読んでいる、あなたは、どうか?

そこで出てくる言葉が、「精進(しょうじん)」。
私たちは常に、前に向かって進む。
脳みその底に穴があき、そこから知識や知恵が流れ出ていくなら、それ以上のものを、
毎日補充していく。
通俗性と闘うには、それしかない。
けっして通俗的であることに甘んじてはいけない。
甘んじたとたん、あなたの思想は後退する。
つまりそれ自体が、一歩、死に近づいたことを意味する。

●息(いき)ると、生(い)きる

60歳を過ぎて、「ただ息(いき)ているだけ」という人は、少なくない。
またそういう生き方を、理想の生き方と誤解している人は、多い。
ほとんどが、そうではないか。
「老後は、旅行を楽しむよ」
「孫の成長を見守るよ」
「思う存分、庭いじりをしてみたい」と。

しかしこの年齢になると、仮に1年も遊んでしまうと、もう元(もと)に戻れなくなる。
1年遊んだあと、「仕事に復帰」ということは、まずありえない。
つまり脳みその硬直化は、それくらい早いスピードで、その人を襲う。
息(いき)始めたとたん、その人は、ただ息(いき)る人になってしまう。
この私も、こうして何らかの形で、毎日文章を書いているからこそ、書ける。
が、数日も書かないでいたりすると、調子を取り戻すのに苦労する。
今年の正月がそうだった。

私は、あの恐ろしい、三日酔いにかかった。
暮れの12月30日の午後から、正月2日まで、はげしい頭痛と吐き気に苦しんだ。
体重が、62キロ台まで減ってしまった。
(ふだんは、64~66キロ台。)

で、正月だから……ということで、そのあとパソコンに向かったが、頭の中が
モヤモヤするだけで、どうしても文章が書けなかった。
さらにこんなこともある。

私にも夏休みや春休みがある。
その休みの間、たった1週間でも、子どもたちから離れると、育児論が書けなく
なってしまう。
これは本当のことである。
けっしてオーバーなことを言っているのではない。

子育て論というのは、毎日子どもを見ていてはじめて、書ける。

●「損」

私も、考えることをやめたとたん、その時点から、通俗的になっていく。
というのも、これは、大脳連合野が司る、(思考)の問題ではないからである。
脳みそそのものの、器質的変化によるものだからである。

そういう意味では、老化は、例外なく、だれのところにもやってくる。
今、「私はだいじょうぶ」などと、高をくくっているあなたのところにも、やってくる。
ひょっとしたら、肉体の老化よりも、脳みその老化のほうが、早いのでは?
体はピンピンとしているのに、考え方そのものが、通俗性のかたまりといった人は、
少なくない。

何らかの形で、若い人たちと接点をもっている人は、まだよい。
しかしその接点をなくすと、さらに老化は進む。
それがよいことなのか、悪いことなのかということになれば、悪いことに決まっている。
「悪い」というより、「損」と考えたほうがよいかもしれない。
与えられた時間は同じでも、その時間を2倍、3倍として生きることもできる。
が、老化に身を任せてしまうと、それこそ、10年を1年にして生きるようになって
しまう。
だから、「損」。

たった一度しかない人生。
だったら、思う存分、密度の濃い人生を生きる。

●さあ、通俗性と闘おう

通俗的に生きることは、楽なこと。
みなと同じことを考え、同じことをすればよい。
しかし、まだあなたの人生が終わったわけではない。
60歳であれば、20年は、ある。
50歳であれば、30年は、ある。

20年といえば、生まれてから、成人するまでの年月に等しい。
生き方によっては、あなたは、もう一度、青春時代を経験することもできる。
あの世で生まれ変わることを願うくらいなら、現実にそこにある20年を
大切にしたほうがよい。
あの世などという、あるともないともわからないものに、希望を託すほうが、
どうかしている。

さあ、あなたも勇気を出して、通俗性と闘おう。
そういう前向きな姿勢の中から、生きるエネルギーもわいてくる。
そしてあなたの周囲で通俗的なことを口にする人がいたら、あなたは鼻先で、
フンと笑ってやればよい。

今の私が、そうしている。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
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老後の人生論)


Hiroshi Hayashi++++++++March・09++++++++++はやし浩司

●認知症の問題
 
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認知症というと、認知症になった人だけが
問題になる。
気の毒なこととは、思う。
かわいそうとは、思う。
「私はなりたくない」とは、思う。
しかし我らその年齢の者たちは、認知症に
なることによって、周囲の人たちに、
多大な迷惑をかけることを忘れてはいけない。

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●たいへんな被害!

A氏(今年55歳)の近くに、認知症の老人(男性)が、1人住んでいる。
はっきりとした診断名はわからないが、Aさんは、「ピック病ではないか」と言っている。
アルツハイマー病に似ているが、脳のある部分だけは、そのまま。
会って話をしてみると、ふつうの人と、とくに大きなちがいは感じない。
しかし、やること、なすこと、これが、めちゃめちゃ。

道路に車を止めておいたりすると、クギかコインで、傷をつける。
ナンバープレートに、落書きする。
あるいはすぐパトカーを呼ぶ。

さらにパチンコを使って、窓ガラスを割る。
自転車のタイヤに穴をあける。
飼い犬に石を投げる。
屋根に牛乳瓶を投げる、などなど。

一度は、庭先に放火されたこともあるという。
このときはさすがのAさんも、堪忍袋の緒が切れて、警察を呼んだという。

ほかにもいろいろあるが、Aさんは、こう言う。
「犯人は、隣のX氏(今年83歳)ということはわかっているのですが、
なにしろ、証拠がないのです」と。

X氏は、毎日、毎晩、Aさんの家をのぞいているらしい。
そしてスキをうかがって、その間に、悪さをするらしい。
Aさんは、防犯用のカメラをつけたが、電源を入れていないときを見計らって、
するという。
先ほども書いたように、脳のある部分は、かなり正常(?)ということになる。

で、一度、Aさんは、息子氏(現在40歳、独身、同じH市に住む)に
相談したことがある。
が、かえってその息子氏は、怒ってしまったという。
「うちの親父はがんこだが、そんなことをするような人ではない。
親の悪口を言うやつは、許さない」と。

私自身も、認知症になるのはいやだが、しかしなったらなったとき。
が、それ以上にいやなのは、認知症になることによって、みなに、迷惑をかけること。
私のばあい、こうしてものを書くのを趣味(道楽?)にしているから、
そのうち、とんでもないことを書くようになるかもしれない。
四方八方から、名誉毀損で訴えられるようになるかもしれない。
そうなったら、どうしたらよいのか。

怒った息子たちが、私のパソコンを、片っ端から破壊するかもしれない。
想像するだけでも、ゾーッとすることだが、ありえない話ではない。

認知症というと、それにかかった人だけが問題になるが、その人によって
迷惑を蒙る人たちもいるということ。
それを忘れてはいけない。


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