Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Thursday, March 19, 2009

*March 20th 2009

☆☆☆この電子マガジンは、購読を登録した方のみに、配信しています☆☆☆
.  mQQQm            
. Q ⌒ ⌒ Q  ♪♪♪……   
.QQ ∩ ∩ QQ         
. m\ ▽ /m 彡彡ミミ      
.  /~~~\  ⌒ ⌒      
. みなさん、   o o β      
.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○  
.        =∞=  // 
□■□□□□□□□□□□□□□■□ ================= 
子育て最前線の育児論byはやし浩司   09年 3月 20日
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
★★★HTML版★★★
HTML(カラー・写真版)を用意しました。
どうか、お楽しみください。(↓をクリックしてみてください。)
************************

http://bwhayashi2.fc2web.com/page011.html

メルマガ(6万3000誌)の中で、2008年度、メルマガ・オブ・ザ・イヤーに
選ばれました!

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●イタリアでふえる、引きこもり
(Hikikomori, Italian Style)

+++++++++++++++++

イタリアでも、日本とは、かなり事情が
違うようだが、引きこもりがふえているという。

ヤフー・ニュースの記事を紹介させてもらう。

+++++++++++++++++

『イタリアの有力紙「コリエレ・デラ・セラ」が同国で目立つ「引きこもり」を特集した。
相談に来る親が急増しているという精神科医らの証言を基に、原因を探っている。

 記事(11日付)は「イタリアの引きこもり(hikikomori)、東京のよう、何
年も孤立する少年たち」と題され、社会面に大きく掲載された。刀を持った日本人の少年
が乱雑な部屋でくつろぐ姿を、イメージ写真として使っている。

 ミラノ発の記事で、「昼は寝て、夜に冷蔵庫をあさり、インターネットと漫画だけの生活」、
「過去半年、親に話したのは『ほっといてくれ』の一言」と約10人の事例を紹介。相談
を受ける複数の精神科医が、「100万人を数える日本ほどではないが、外のひどい世界か
ら逃れ、閉じこもる子が多い」、「頭が良く創造性があるが、内向的な10代に多い」と特
徴をまとめている。著名な精神分析医が「私が知る事例では、過去2年で5倍に増えた」
とその広がりを強調する。

 要因としては「母親との密着や過保護が、自己愛の強い、もろい子にしてしまっている」、
「日本では厳しい学校制度、親の過剰な期待が一因だが、イタリアでは学校で(友達)グ
ループとの関係を築けない子の逃避が多い」などとまとめている。対策として「子が小さ
い時から、共によく遊び、一緒にいて、時に外に一人で出し、自己評価の高い子に育てな
ければならない」と結んでいる』(ヤフー・ニュース・09年2月21日)と。

この中で興味ある事実は、原因。
日本とイタリアでは、症状は同じでも、原因がかなり違うようだ。

(日本)記事は、厳しい学校制度、親の過剰な期待が一因と、分析している。
(イタリア)グループとの関係を築けない子の逃避が多い。

で、イタリアではその対策として、
(1)共によく遊び、
(2)一緒にいて、
(3)時に外にひとりで出し、」
(4)自己評価の高い子にしなければならない、と。

わかりやすく言えば、日本では、親の過剰期待、過関心が原因で、
またイタリアでは、親の過保護が原因で、子どもは引きこもるということなる。
鋭い分析と評価したい。

子どもの心を大切にすることは重要なことだが、大切にし過ぎると、ときとして、
それが過保護になり、子どもをして社会性のない子どもにしてしまう。
乳幼児期はそれでよいとしても、子どもを取り巻く環境は、それほど完成されたもの
ではない。

言うなれば、動物社会。

オオカミが無数にいる世界に、かよわきウサギを放り込めば、そのウサギはどうなるか?
そんなことは、自明の理。
「乱暴に育てろ」ということではないが、ある程度の乱暴さは、子育てにはMUST
(=避けられない)。

いろいろな親を見てきたが、「私の子育て法がいちばん正しい」と、聞く耳をもたない
親ほど、指導のむずかしいものはない。
あるいは「うちの子どもには、問題があった」「うちの子どものことは、私がいちばん
よく知っている」とがんばる親も、そうだ。
私たちの世界では、「ホープレス(=希望なし)」という言葉を使う。
もっと率直に言えば、「どうぞ、ご勝手に」となる。

たいへん辛辣な言い方に聞こえるかもしれないが、子育てというのは、自分で
失敗してみて、はじめてそれを失敗と知る。
(「失敗」という言葉は、不適切だということは、よく知っている。後述。)
それまでは、わからない。
だいたい、ここにも書いたように、親自身が、聞く耳をもっていない。
私のほうから、それとなく話題をもっていこうとしても、それをはねのけてしまう。

イタリアにも、そういう親が多いらしい。
が、ここにも書いたように、それは何もイタリアだけの問題ではない。
同じ引きこもりでも、イタリア型の引きこもりも、日本に多い。
不登校児の何割かが、そうであると言っても過言ではない。
(あるいはイタリア型引きこもりというのは、日本でいう不登校児のことか?)

これは私の実感だが、(あるいはグチかもしれないが)、乳幼児を何千人も見てきた
私の経験ですら、若い親たちの前では、ティシュ・ペーパー一枚の価値もない。
しかしこんな仕事を40年近くもしていると、その子どもの問題点のみならず、
その子どもの将来像まで、手に取るようにわかるようになる。
「何年生くらいのときに、どういう問題を起こすか」まで、わかる。
わかるものはわかるのであって、どうしようもない。
(経験)というのは、そういうもの。
が、若い親たちは、(経験)の価値、そのものを認めない。

……やはりグチになってしまったので、この話は、ここまで。

では、どうするか?

子どもをたくましい子どもにしたかったら、乳幼児の段階から、同じ年齢の
子どもと遊ばせる。
けっして小さな世界に閉じ込めて、育ててはいけない。

また親自身も、風通しのよい世界で、子育てをする。
親どうしの交流を多くし、他人の意見を聞く耳をもつ。
先にも書いたように、「うちの子どもには、問題があった」「うちの子どものことは、私が
いちばんとく知っている」と、もし、あなたがそう思っているなら、あなたは子育てで
失敗する確率は、きわめて高い。

(補記)
ここで「失敗」という言葉を使ったが、人生に失敗はないのと同じように、
子育てにも、失敗はない。
失敗イコール、おしまいという意味ではない。
失敗イコール、挫折という意味でもない。
それぞれがそれぞれの(失敗?)を乗り越えて、また前に進んでいく。
あえて言うなら、(停滞)ということか。
しかし(停滞)でも、おかしい。
またほかに適切な言葉がないのも事実。
だから「失敗」という言葉を使った。

自分の子どもが引きこもりの子どもになったからといって、子育てで失敗した
ということではない。
どうか、誤解のないように!

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
イタリア 引きこもり 引き籠り 過保護 過剰期待 不登校)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●ガイドのおしゃべり

++++++++++++++++++

ガイドにもよるが、今日のバスガイドは、最悪。
よくしゃべる。
「あの店は有名人がよく来る」とか、「タレントの○○も、よく食べる」とか、など。
どうでよい話ばかり。
おそらく、休みも日は、一日中、テレビばかり見ているのだろう。
通俗のかたまりのような、ガイド。
たわいもない情報を、ペラペラ、ペラペラ、またペラペラ……と。

++++++++++++++++++

●政治家

ワイフがこう言った。
「今度は別のバス会社にしまようよ」と。
私は、すなお同意した。
ガイドなしのバスツアーも、最近はふえている。

そうでなくても、情報過多。
毎日、情報が、大洪水のように押し寄せてくる。
情報の選択だけでも、たいへん。
静かに考えることすら、できない。

ずいぶん前の話しだが、恩師の田丸先生が、こう言った。
「政治家の人たちは、毎日、分刻みで動き回っている。
ああいう人たちは、静かに考える時間をもっているのでしょうかねエ?」と。

その結果が、今である。
AS首相は言うに及ばず、NG財務相もそう。
頭の中は、カラッポ。
情報はぎっしりと詰まっているのだろうが、情報が多いからといって、
(考える人)ということにはならない。
賢い人ということには、ならない。
タカ派はタカ派だが、中曽根元首相のような人物が、なつかしい。
左派は左派だが、三木元首相もそうだ。
今は、ああいう一本筋の通った政治家がいない(?)。
そのつどラベルを張り替えて、カメレオンのように変化する。

●哲学の熟成

その人が、自分の哲学を熟成させるのは、容易なことではない。
10年とか、20年とかの年月を必要とする。
政治哲学となると、さらにそうだ。
悲しいかな、日本には、そういう見本となる人すらいない。
いまだに、坂本竜馬とか、高杉晋作とか、そんな人の名前しか出てこない。
彼らは、本当に、民衆のために戦った人なのか。
民主主義を求めて、戦った人なのか。

あとは推して量るべし。

……ということで、日本の教育論にまで、どうしても話が進んでしまう。
日本の教育は、基本的には、『もの言わぬ従順な民づくり』が、基本。
考える子どもをつくるしくみになっていない。
教師も、学生も、そして生徒も、政治活動をすることが、事実上、禁止されている。
政治の話すら、しない。

先ほどから、またガイドがしゃべりはじめた。

「渋滞ですね……」
「どうしたのでしょう……?」
「同じ観光地へ向かう人が多いのですね……」
「少し動きました……」
「お天気はいいですね……。みなさんの日ごろの心がけがいいですからよ」と。

●老人vs若い人たち

若いガイドから見れば、私たち老人は、みな、バカに見えるのかもしれない。
たしかにそういう老人も多い。
たった今も、トイレ休憩をしたが、手を洗っているとき、私の顔に、咳を吹きかけた
老人がいた。
ムッとして見返すと、私に構わず、洗面器に向かって、痰を這い出していた。
年齢は70歳くらいではなかったか。
しかし、だ。
私たち老人から見ると、今の若い人は、バカに見える(失礼!)。
ますますバカになっていくように感ずることもある。

「ウルサイ!」と叫びたいが、ここはがまん。
これが人間社会。
がまんは、つきもの。
この(がまん)ができなくなったら、私もおしまい。
それこそ本物の老人になってしまう。

(補記)
ガイドの話には、いつも「だから、どうなの?」という部分が、ない。
「このあたりは、鮎釣りの名所として知られています」
「このあたりに、トイレの神様がいます」
「このあたりでは、おいしい草もちが有名です」と。

そういう話を聞くたびに、「それがどうしたの?」と、聞き返したくなる。
それに、どうせすぐ忘れてしまう。
……とまあ、辛らつな批判をさせてもらったが、今日のガイドは、最悪。
どこかで暗記してきたような話を、ペラペラ、ペラペラ、ペラペラ……と。

ウルサイ!
+バカヤロー!

(補記)
うるさくて迷惑かける人と、それによって迷惑をこうむる人は、けっして平等ではない。
静かな人は、だれにも迷惑をかけない。
(迷惑をかける)ということと、(迷惑をかけない)ということは、平等ではない。
おしゃべりで、他人に迷惑をかける人は、もう少し、謙虚になってほしい。


Hiroshi Hayashi++++++++FEB. 09++++++++++++はやし浩司

●おしゃべりな女性

+++++++++++++++++++

どこの世界にも、おしゃべりな女性と
いうのはいる。

間断なく、しゃべる。
つぎつぎとしゃべる。
しゃべらなければならないといったふうに、しゃべる。
ペチャペチャ、ペチャペチャ……と。

たまたま今、私はバスの中にいる。
そのうしろの席の女性が、そうだ。
少し前、「もう少し小さい声で話していただけませんか」と
頼んだばかり。
しかし効果は、一時的。
またまたもとの声で、しゃべり始めた。

カラカラ、ケラケラ、カラカラ、ケラケラ……と。

携帯電話は禁止しているのに、おしゃべりは野放し。
この大矛盾を、いったい、どう解釈したらよいのか。

++++++++++++++++++

●女性のおしゃべり

言語中枢は、左脳にあるとされる。
しかし最近の研究によれば、女性のばあい、右脳にもそれがあるらしい。
だから女性は、よくしゃべる……ということになる。

しかしこんな気になる事実もある。

ADHD児というと、男児に多いとされる。
出現率は5%と言われているが、程度の差もあり、実際にはもっと多い。
が、女児にも、いないわけではない。
ただ少し、症状がちがう。
チョコチョコと落ち着きなく動き回ることもあるが、多弁性が、その特徴。
このタイプの女児は、(男児もよくしゃべるが)、とにかくよくしゃべる。
強く注意しても、1~2分も、もたない。

これはある中学生(中2・女子)とした会話だが、こんなふうになる。

私「少しだまっていてくれない」
中「だまっていればいいの?」
私「だから、口を閉じてくれない?」
中「口を閉じたら、苦しいもん」
私「だから、何も言わなくていい」

中「何も言わなくていいの?」
私「静かに……」
中「だって、質問なんかは、どうするの?」
私「だから、そのときは、そのとき」
中「わからないときは、どうするの?」と。

こういう意味のない会話が、いつまでもつづく。

●おしゃべりの特徴

(1)口先だけで、ペチャペチャとしゃべる。
(2)しゃべり慣れているのか、口の筋肉をほとんど使わない。
(3)話題がつぎつぎと変わる。
(4)考えてからしゃべるというよりは、脳に飛来した情報を音声にしている。
(5)会話の内容が、浅い。
(6)しゃべっている間は、軽い興奮状態になる。
(7)視線が定まらず、どこかフワフワした状態になる。しゃべっていないときは、
かえって視線が固定する。じっと凝視したようになり、目の生彩が消える。

よくしゃべる人は、(子どももそうだが……)、一見、利発に見える。
しかしそう見えるだけ。
中には、行動をそのまま言葉にする子どももいる。

子「あっ、鉛筆が落ちた……私、鉛筆を拾う……手が届かない……鉛筆が取れない
……鉛筆が取れた……これが鉛筆……」と。

こうした会話は、(会話ではないが)、そのつど注意して抑える。
が、しかし実際には、脳の機能の問題がからんでいるだけに、なおらない。

●うしろの席の女性

さてうしろの席の女性。
この30分ほどの間だけでも、話題が、無数に変化した。
順に話題を、ここに記録してみる。

★リストラで、○○さんの嫁さんが仕事をやめて、家に入った。
★桜は、~~がきれい。
★旅行の申し込み方。
★「ガラスの森」へ行ってきた。
★天気の話。
★「分割ボタン?」がどうのこうのという、意味不明の話。

一方の女性が、一方的に話し、横の女性が、それに相槌を打つ。
その相槌に応じて、一方の女性が、またまた別の話題を持ち出す。
よく観察してみると、つぎのような特徴がある。
とくに話題を変えるときの、タイミングというか、スイッチングがうまい。
ビデオ編集の世界にも、「フェイード・イン、フェイード・アウト」という手法がある。
前の映像をぼかしながら、つぎの映像へとつなげていく。

うしろの女性の会話もそうである。

そのフェード・イン、フェイード・アウトが、うまい。
いつ話題が変わったかがわからないような方法で、変わっていく。
先ほどから、その接点をさぐろうとしているが、それがつかめない。
文章のときは、たとえば「ところで……」とか、「話は変わるが……」とか、
そういう書き方をする。
しかし、それがない。

たとえば今もそうだ。

「J店で魚を買ってきた……」
「あそこは、(値段が)高い……」
「駅前の店はどう……?」
「そうそう、あそこはいいわねエ……」
「うちの隣の人も、駅前で買うみたい……」
「どこの人……?」
「ほら、この前、○○会に顔を出したでしょ……」
「ご主人様が、ちょっと、こういう人よ(何かのジェスチャで示しているらしい)」
「だから奥さん、スッ飛んでくるのよ……」
「この前も歯医者へね……」
「頼りになる人がいるといいわねエ……」と。

最大の特徴は、考えるという操作を頭の中でしていないということ。
相手が言ったことに対しても、即座にペラペラとやり返す。
またそれが正しい会話の仕方と思いこんでいるといったふう。

●日本人のマナー

全体としてみると、日本人は、騒音に寛大。
寛大というか、無神経。
以前、バス停やエレベータに、声のガイダンスがついていたことに
驚いていた外人がいた。
自動車のガイダンスに驚いていた外人いた。

さすがに最近は少なくなったが、今でも観光地で観光船の乗ったりすると、
ガンガンとガイドを流すところがある。
「右に見えますのは、~~山、左に見えますのは、~~峠」と。

一方、欧米では、騒音に対して、たいへんうるさい。
1、2キロ先のニワトリが鳴いただけで、騒動になる。
が、日本ではそうではない。
この国では、おしゃべりなど、何でもない。
だれも気にしない。
だれも注意しない。

しかしそれも(考える習慣)と、深く結びついている。
さらに言えば、文化性の問題?

以前はというと、バスツアーでも、喫煙は自由だった。
カラオケも定番だった。
最近まで、ビデオも定番。
が、今でも女性のおしゃべりは、健在。
カラカラ、キャーッ、ゲラゲラ、ワハハハ……と。

結論を先に言えば、要するに、日本人は、考えないということ。
情報量が多いということを、「賢い」と誤解している。
よくしゃべる人を、利口な人と誤解している。
こうした誤解が、そのまま日本人の常識になっている。
しかし、それはぜったいに、世界の常識ではない。

……ということで、私は、イヤホンを耳につこんで、DVDを
見ることにした。

(補記)
うしろの席の女性について、午後にもう一度、静かにしてほしいと
頼んだ。
しかし効果はやはり、一時的だった。
言い方をまちがえると、相手も不愉快になるだろう。
私のほうも、どうしても遠慮がちになる。

で、結局、その女性は、午前中4時間、午後4時間、ほとんど間断なく、
しゃべりっぱなしだった。
「よくしゃべる」というよりは、どこか病的(?)。
軽くて甲高い声で、ペラペラと早口でしゃべりつづける。
私は何度か目を閉じて眠ろうとしたが、できなかった。
と、同時に、こう思った。
「こんな女性と結婚しなくて、よかった」と。
1日つきあっただけで、気がヘンになりそう。
(相手も、そう思っているだろうが……。)

(ワイフの質問)

その女性について、あとでワイフがこんな質問をした。
「本人には、その自覚はないのかしら?」と。
つまり「自分がおしゃべりということに、気がついていないのかしら?」と。

答は簡単。
「自覚もないし、気がついてもいない」。

……というくらい、自分を知るのはむずかしい。
このタイプの女性は、(男性でもよいが)、むしろ自分は頭がよく、みなを
楽しませる才にたけていると思っている。……思い込んでいる。
「あなたはおしゃべりだね」と言っても、「あら、そう? 楽しかった?」と、
言い返される。
とにかく、口を閉じることができない。
だから昔の人は、こう言った。

『沈黙の価値のわからぬ者は、しゃべるな』と。
沈黙の価値そのものが、理解できない。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●世俗性と超越性

+++++++++++++++++

世俗性と超越性は、常に対立する。
対立関係にある。
しかしどちらか一方では、困る。
世俗性を失えば、独善のみちに入りやすくなる。
超越性を失えば、世俗に流されやすくなる。

+++++++++++++++++

私たちは常に世俗の世界に身を置く。
それを土台とするなら、その上で超越性を追求する。
あのピカソにしても、会って話をしている間は、いつもただのオジサンだったという。
(もちろんそうでない画家も多くいるが……。)
しかし世俗と接点を見失ったとたん、その人は世間から遊離してしまう。
人間の価値は他者とのかかわりの中で評価される。
超越性はそれ自体、重要なことかもしれない。
が、世俗とのかかわりを見失ったとたん、独善のワナにはまってしまう。

わかりやすく言えば、「私はぜったいに正しい」と思うのは、その人の勝手。
が、返す刀で、「あなたはまちがっている」と言ってはいけない。
それが独善。

一方、私たちは常に、超越性をめざす。
それはとても楽しいことでもある。
というのも、人は、より賢くなってはじめて、それまでの自分が愚かだったことを
知る。
それはちょうど山登りに似ている。
下からだと低そうに見える山でも、登ってみると、意外と視界が広い。
その(広さ)が、そのまま喜びにつながる。
いわば、心の冒険のようなもの。
未知の世界を歩くようなスリルを覚えることもある。

が、やはり世俗を忘れてはいけない。
いくら高尚な教育論を説いても、子どもと接する機会を失ってはいけない。
ある幼稚園の園長が、以前、こんな話をしてくれた。

その園長は、園長になる前、ずっと高校の教師をしていた。
そのこともあって、園長という仕事に、なかなかなじめなかった。
で、ある日、その道半世紀という別の幼稚園の園長に相談すると、こう
教えてくれたという。

「子どもといっしょになって、プロレスをしてごらんなさい」と。

そこでその園長は、さっそく、それを実行してみた。
とたん、子どもの心をつかむことができるようになった。

高校での授業を(超越性)にたとえるなら、幼稚園での指導は、(世俗性)という
ことになる。
(あまりよいたとえではないかもしれないが……。)
もっと言えば、高邁な教育論も大切だが、子どもといっしょに、童心に返って遊ぶと
いう姿勢も大切ということ。
その反対でもよい。
子どもといっしょに、童心に返って遊びながら、その上に教育論を組み立てる。

世俗性と超越性は、心の中で、常に対立する。
言うなれば、その2つは、心の中の暴れ馬のようなもの。
教師は世俗に流されてはいけない。
昔、こんなことを言っていた幼稚園教師がいた。

「あの親は、私にさんざん迷惑をかけておきながら、盆のつけ届けひとつ、よこさない」
と。
世俗性に染まりすぎると、そういうことを平気で口にするようになる。
一方、超越性だけでも、教育はできない。
ある大学の講師は、幼稚園で英語を教えることになったのだが、1週間でギブアップ。
レコードを回して、手で拍子を取らせようとしたが、だれも応じなかったという。
当然である。
すばらしい学者だったかもしれないが、童心に返ることができなかった。

つまり、その2つをうまくコントロールするところに、人生の醍醐味がある。
世俗的でありながらも、世俗から超越する。
超越性を保ちながらも、世俗性を忘れない。

これは人生をより豊かに、楽しく生きるためのコツ。


Hiroshi Hayashi++++++++FEB. 09++++++++++++はやし浩司

●「富士山ナンバー」

+++++++++++++++++

静岡県沼津市のほうへ行くと、「富士山」という
名を冠した、ナンバープレートが目につく。
「富士山12、12-34」とか、など。

そのあたり特製の(?)ナンバープレートだそうだ。
そのナンバーをもらうのに、料金がいるそうだ。
本来なら、「沼津ナンバー」ということだ、そうだ。

その話を聞いて、私はこう言った。
「じゃあ、浜松市は、『うなぎナンバー』というのはどう?」と。
が、ワイフは、こう言った。
「うなぎではねエ……?」と。
そこでいろいろ考える。

「浜名湖ナンバーはどうか?」
「楽器ナンバーはどうか?」
「バイクナンバーはどうか?」
思い切って、オーストラリアのメルボルン市のように、
「ガーデン・シティ」でもよい。
しかしやっぱり、「ギョーザ・ナンバー」がよい。

「ギョーザ123、12-2334」というのは、どうか?
やっぱりだめだろうナ。


Hiroshi Hayashi++++++++FEB. 09++++++++++++はやし浩司

●最悪の暴君・織田信長

+++++++++++++++++++

日本の歴史の中で、だれがいちばん暴君だったかと
いえば、織田信長。
織田信長をおいて、ほかにない。

残虐な暴君はほかにもいたが、織田信長は、群を
抜いていた。

+++++++++++++++++++

織田信長がいかに残虐な暴君であったかを、箇条書きにしてみる。
(参考文献:山口智司著「暴君の素顔」・彩図社)

●杉谷善住坊(比叡山の僧)…竹鋸引きの刑(竹のノコギリで、首を少しずつ切って殺す。)
●朝倉義景、浅井長政、浅井久政の首切り…1573年、宴会の席で、これら3名の生首
を金銀箔で飾り、みなに披露した。
●小田信行(実弟)…家来に殺害させた上、信長の叔母の夫を、だまして殺害。刑は「逆
さ磔(はりつけ)にして、竹鋸引き」。ついで叔母も殺害。

が、この程度で、驚いてはいけない。

●比叡山僧侶を焼き討ち…1571年、比叡山を焼き討ちし、3000人もの宗徒が殺害
される。さらに命乞いを懇願する老若男女を1600人を斬首。
●長島一揆の虐殺…2万人を縄で数珠繋ぎにして集め、周囲に積んだ薪(まき)で火あぶ
りにして処刑。もちろん生きたまま。

もちろんこんなのは氷山の一角。
私が織田信長に最初に疑問をもったのは、私が高校生のときのことだった。
当時、夏休みになると、岐阜城下にある県立図書館へ、よく受験勉強にでかけた。
その帰り道、何かの記念館に立ち寄ると、そこに小さい文字で、こう書かれていた。
「信長は……毎日、約60人の人を、長良川の川原で処刑した」と。
岐阜市と織田信長の縁は深い。
現在の今も、毎年岐阜市では、「信長祭」なるものが、開催されている。

「60人」という数字は正確ではないかもしれない。
が、それを読んだとき、それまでの信長像が、ガラガラと音をたてて崩れ去るのを知った。
私たちは、学校で、織田信長は、日本の英雄であると学んだ。
しかし同じ織田信長が、その一方で、殺害につづく殺害を繰り返していた!
山口智司氏も、こう書いている。
「血で血を洗う戦国時代においても、織田信長の残虐性は、桁外れであった」(P28)と。

が、一方で、織田信長を理想のリーダーとして、称える人も少なくない。
たまたま2月16日、書店を訪れてみると、「名将の決断」シリーズとして、朝日新聞社
から、「朝日カルチャーシリーズ」なるものが、発売になっていた。
創刊号ということで、特別価格。
その筆頭に、織田信長が掲載されていた。

早速、購入。
大見出しは、「信長のミッション・インポッシブル」。
監修は、童門冬二氏となっている。

その本を開くと、巻頭言に、こうあった。
「決断が歴史を変える」と。

「……名称の決断は、自分で自分を助ける勇気を生む方々へのエールである」と。

ものは言いようだが、ここまでゆがんでくると、「?」マークを、織田信長によって
殺された人の分だけ、並べたい。

●「是非に及ばず」

織田信長は、明智光秀の謀反に際して、最期の言葉として「是非に及ばず(=まあ、
しかたないさ)」と言って死んでいったという。
もちろん(?)、「名将の決断」(朝日新聞社)のほうでは、織田信長を、「名将」の
1人として称える。

いわく、
『本能寺にたおれるまで、信長は、多くのことをやってのけた。

1、門閥にとらわれない人材登用。
2、鉄砲をはじめとする、新技術の採用。
3、関所の撤廃による、流通の活性化。
4、楽市、楽座による規制緩和、など。

それまでの中世社会の閉塞感を打破したのである。
すなわち、若き日の信長は、改革者であったといっていい』と。

これを書いた、火坂雅志氏は、そのあと織田信長の「闇」について書いている。
先に書いた、比叡山の焼き討ちや、伊勢長島一向一揆衆への弾圧など。
しかしそれについても、「焦り」が理由ではなかったと書いている。

「人生は50年。それを思いつめた結果」と。

ヘ~~~エ?

火坂氏は、焦った結果、織田信長は、「闇」の部分を作ったという論陣を張っている。
が、もしこんな自分勝手な、さらにはひとりよがりな論法がまかり通るなら、人は、
権力を傘に、何をしてもよいことになる。
独善と独断。
まさにその(かたまり)。
殺戮など、朝飯前!

そこで火坂氏は、「是非に及ばず」を、こう解釈する。

「おれはこの世で、やれることはやった。しょうがねぇ」と。

織田信長はそれでよいとしても、彼によって殺された人たちは、どうなのか?
その圧制のもとで苦しんだ民衆は、どうなのか?
時代が変わったというだけで、頭の狂ったような暴君ですら、「名将」になってしまう。
自分たちの先祖が、織田信長に虐げられた民衆であることを忘れて、織田信長の
目で、自分たちの歴史観を作り上げてしまう。
日本人のオメデタサ、ここに極まれり!

つづいて「日本の名将」(同書)は、こうつづく。

●敵が大きかろうと、怖れずに攻勢に出るべし!
●自分のルールに従い、旧来の体制に挑んだ、孤独の天下人、と。

織田信長を美化してやまない。

どうして?
どうして、織田信長が、名将なのか?
日本人は、過去において、一度たりとも、あの封建時代を清算していない。
反省もしていない。
そればかりか、世界の歴史史上においても、例がない、あの暗黒かつ恐怖政治の
時代を、いまだに引きずっている。
そればかりか、あの時代を美化し、礼讃してやまない。

織田信長は、日本を改革した第一人者ではない。
民衆のために闘った人でもなければ、何かの正義のために闘った人でもない。
簡単に言えば、我利我欲に包まれた、ただの亡者。
先に並べた、信長の業績(?)にしても、結果として、つまり(後付け)として、
そうなっただけ。
当時の織田信長に、それほどまでの知的な計画性があったとは、とても思えない。
「鉄砲をはじめとする新技術の採用」という文言についても、それを読んで、
笑わない人はいないだろう。

織田信長は、その新技術とやらを使って、何をしたのか。
何のために鉄砲を手に入れたのか。
その鉄砲で、だれを殺したのか。
もし織田信長が名将ということになれば、鉄砲を知らず、殺された人たちは、バカ
だったということになる。

「名将の決断」のカバーページ(表紙1)には、「犠牲を厭わない」とある。
そう思うのはその人の勝手だが、それで犠牲になった人たちはどうなのか。
それをほんの少しだけ、頭の中で、考えてみたらよい。

だから「是非に及ばず」というのは、こう解釈したらよい。
「オレは、さんざん、悪いことをしてきた。これもしかたないわさ」と。

(追記)
織田信長を、礼讃する人がいるから、いまだに国盗り物語よろしく、おかしな政治家が
つぎつぎと現れる。
封建時代風の出世主義にとりつかれた人も多い。
歴史というものが何のためにあるかといえば、それは過去の人たちがした失敗から、
未来に生かす教訓を学びとるためである。
その心を忘れて、歴史は存在しない。

なお「名将の決断」の中にある、(成功者)というのは、いわゆるビジネスの世界での
成功者をいう。
「信長はリアリストだった」「信長・理念実現のスタート」「(信長は)日本一の合理主義者」
「トップの判断はベールの中」(「名将の決断」)と。
「敵が大きかろうと、怖れずに攻勢に出るべし」というのが、それにつづく。

要するに、山口智司氏と火坂雅志氏の歴史観のちがいといえば、(織田信長を下から見た
歴史観)と、(織田信長を上から見た歴史観)のちがいということになる。
もとから日本人は、歴史を下から見るのが苦手。
またそういう視点で、歴史を見る人は少ない。
どこかの城に見学に入ったとたん、その城の城主として、その城を見てしまう。
しかしそれでは、「歴史」そのものが、死んでしまう。
未来に向かって、役に立たなくなってしまう。

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家 織田信長 
織田信長論 暴君)


Hiroshi Hayashi++++++++FEB. 09++++++++++++はやし浩司

●バレンタイン・ディー

++++++++++++++++++++

2月14日……バレンタイン・ディ。
ワイフは、私に、「愛のアンパン」なるものをくれた。
どうせ私は、チョコレートは、食べられない。
チョコレートは、偏頭痛を引き起こす。

まっ、チョコレートをもらう年齢でもないし、
どうということはないのだが……。
(これは負け惜しみ。)

++++++++++++++++++++

●小説『あの世(Another World)』

昨夜、1時間ほどかけて、小説『あの世』を書きあげた。
おもしろかった。
楽しかった。
書き終えて、ワイフに読み聞かせてやった。
ワイフは、その小説を、高く評価してくれた。
(いつもそうだが……。)

が、あの小説には、矛盾がないわけではない。
ひとつの例として、たとえば仮想現実の世界で、紀元前の
世界を再現することができるかどうかという問題がある。
情報そのものがない。
もう少し、かみくだいて説明してみよう。

あの世の人間は、(あの世から見れば、この世があの世になるのだが)、
この世(=仮想現実の世界)へやってきて、人間として生きることを体験できる。
そのとき人間の脳のコピーが始まった(現代)なら、問題はない。
それぞれの人間の脳の中には、(現代)の情報が、びっしりと詰まっている。
その情報をもとに、仮想現実の世界を組み立てることができる。

が、紀元前の世界はどうか。
具体的には、老子が生きていた中国はどうか。
服飾ひとつについても、ほとんど情報がない。
食物、生活習慣なども、同様。
どうすれば、仮想現実の世界を組み立てるだけに足りる情報を、手に入れる
ことができるかということになる。

そこで私はこう考える。

あの世の人間が、この世(=私たちが今住んでいる世界)へ来たら、それぞれが
それぞれの人間として、それぞれの世界を作っていく。
すべてが運命によって、決まっているわけではない。
その(作ったもの)が、情報として積み重ねられていく。
紀元前の世界にしても、そうだ。

最初にやってきた(あの世の人間)は、とぼしい情報の中で、不完全な
仮想現実の世界に生きる。
しかしその人間が、その時代の人間になりきって、自分の世界を生きる。
生きることによって、その時代を作っていく。
そういう人間が、何千人、何万人、さらには何億人、何兆人とやってきて、
それぞれが、その時代を作っていく。
それが(情報)となって、仮想現実の世界を、より精密にしていく。

つまりこれなら矛盾がない。
世界中のあらゆる時代の人間として、仮想現実の世界を、現実の世界として
体験できる。

くだらないことだが、私が書いた小説を補強するために、このエッセーを
書いた。
「ハリウッドで映画化してもらえないだろうか」と考えた。
しかしそれを最初に言ったのは、ワイフだった。
「映画にしたら、おもしろそうね」と。

(補記)
本当に(あの世)、つまり死後の世界があるとするなら、私は、私たちが今、
住んでいる(この世)こそが、(あの世)ではないかと考える。
つまり(あの世)こそが、リアルで、本物の世界。
その世界の人たちが、この世(=私たちが今、住んでいる世界)へやってきて、
天国や地獄、極楽や地獄を、体験する。

が、残念なことに、(読者の方をがっかりさせて申し訳ないが)、私自身は、
(あの世)を信じていない。
信じたいという気持ちは、年齢とともに、大きくなってはきているが、
まだ信ずるところまでは、きていない。
小説に書いたのは、あくまでも空想。
だから「SF小説」とした。


Hiroshi Hayashi++++++++FEB. 09++++++++++++はやし浩司

●テポドン2号(A Missile would possibly attack Tokyo.)

++++++++++++++++++

どうやらK国は、テポドン2号を、本気で
打ち上げるつもりでいるらしい。
昨日、今日のニュースを読むと、組み立て作業とか、
監視装置の取りつけ作業に着手したという(2月14日)。

一方、アメリカは、途中で撃ち落す可能性を示唆している
(在韓米軍司令官)。
で、これに対して、K国は、「どこの国にも、人工衛星を
打ち上げる権利がある」と言い出した。
「人工衛星だから、撃ち落すのは、まちがっている」と。
アメリカ軍に対する、布石的発言ともとれる。

++++++++++++++++++++

ミサイルだろうが、人工衛星だろうが、何でもかまわない。
しかし世界中から、食糧や原油の援助を受けている国が、そういうことをすること
自体、ピントがズレている。
K国は、アジアどころか、世界の中でも、現在、最貧国と位置づけられている。
「ほかにやるべきことがあるだろ!」と言いたいが、そういう常識が通ずる
国ではない。

で、もしK国がミサイルを打ち上げ、それをアメリカ軍が撃ち落したら、どうなるか?
あのK国のことだから、被害妄想を最大レベルまで引き上げて、ギャーギャーと
騒ぎ立てることだろう。
ついで韓国に対して、武力を行使してくるかもしれない。
その動きは、すでにある。
K国西岸に隠していた大砲を、海岸まで移動させたという。
これに対して、韓国の世論は、「こうした一連の動きは、韓国向けのものではなく、
K国、国内向けのもの。
国内を引き締めるためのもの」と解釈しているようである。
つまり「脅しだから、気にするな」と。

私もそう思いたいが、しかしあの国は、(まとも)ではない。
まともな論理が通ずる国ではない。
まともな論理で考えて、それで理解できる国ではない。
日本もじゅうぶん、警戒すべきところは、警戒する。
ひょっとしたら、ミサイルは、日本の東京に飛んでくるかもしれない。
現在の南北の緊張状態は、K国がしくんだ陽動作戦とも考えられる。
韓国に対して、戦争するぞと脅しながら、日本を油断させる。

で、ここが重要だが、仮にK国が、東京にミサイルを撃ち込んできても、
日本は、何もできない。
反撃することもできない。
ミサイル一発程度では、アメリカ軍は動かない。
韓国もそれを許さないだろう。
アメリカ軍が動いたら、それこそ朝鮮半島は、そのまま戦火に包まれてしまう。

だから日本は、日本国内で、ああでもない、こうでもないと騒ぐしかない。
またその程度で、矛先を収めるしかない。
もちろん株価は大暴落。
経済活動はマヒ。
が、それこそK国の望むところ。
K国は、また、そこまで読んでいる。

日本、危うし!、と私は考える。
だいじょうぶか、日本!
その備えはできているか、日本!
(09年2月14日夜記)


Hiroshi Hayashi++++++++Feb. 09++++++++++++はやし浩司

●中川氏の辞任劇に一言!(Something is strange about Mr. Nakagawa’s “Half Conscious
Meeting” in the public.)(修正版)

++++++++++++++++++++++

何か、おかしいと思わないか?
どうして中川氏が辞任するのか?
何か、おかしいと思わないか?

++++++++++++++++++++++

何か、おかしいと思わないか?

あの(もうろう会見)のとき、両脇を固めていたのは、
官僚。
2人の官僚。

あのインギン無礼な、態度、姿勢、目つき。
私は、むしろそちらのほうが気になった。

中川氏の異変は、その前に、官僚たちは気づいていたはず。
何も、会見場に上がってから、もうろうとなったわけではない。

だったら、なぜ、中川氏を会見場に座らせたのか?
私は、それがおかしいと言う。

中川氏の秘書たちは、何をしていたのか?
中川氏の側近たちは、何をしていたのか?
付き添いのドクターは、何をしていたのか?

が、何よりもおかしいのは、そばで中川氏を固めていた
財務省の官僚たち。
彼らは、いったい、何をしていたのか。

どうして中川氏の会見を止めなかったのか?

「体調が悪いので、残念ながら欠席します」と言ったところで、
それはそれですんだはず。
今は、インフルエンザの流行期。

中川氏のあの(もうろう会見)は、日本の恥。
それはわかる。
しかしだれが、恥をかかせたのか?
だれが、中川氏の会見を、強行したのか?

おかしいぞ?
本当に、おかしいぞ?

これこそ(やらせ)ではないのか?

私がそばにいた役人なら、こう言って会見をキャンセルしただろう。
「大臣、お体のぐあいがよくないようですから、
会見をキャンセルしましょう」と。

またそれをするから、補佐という。

だからといって、中川氏を擁護するわけではない。
たしかに政治家のレベルは低い。
それはわかる。

しかしその(低さ)を、あえて、誇大に演出しながら、
だれかが、自分たちの利益に誘導している(?)。
それが今までの官僚たちのやり方ではなかったのか。

もし中川氏が、元官僚、もしくは官僚出身であったのなら、
ああした(もうろう会見)はなかったはず。
内々で(?)、もう少し、スマートに、処理したはず。

何か、おかしいぞ?
何か、におうぞ?

あの(もうろう会見)の裏に、何があったのか。
そこまで知らなければ、私は、この問題には、納得しない。

(補記)ニュース・サイトより

『河村建夫官房長官は記者会見で、中川氏について「予算審議の大事な時期だから、健康
管理をきちんとやって職務に精励してほしい」と述べ、辞任はないことを改めて強調した。
ただ「問責決議案が議決された時点で対応を考える」とも語った。

 中川氏はローマで開かれたG7終了後、14日夕(日本時間15日未明)の記者会見に
出たが、もうろうとした状態がメディアを通じて全世界に配信された。同氏は16日の衆
院財務金融委員会などで「風邪薬を普段の2倍ほど飲んだことが原因だ」と釈明した。そ
の後、AS首相に陳謝し、首相は「体調をしっかり管理して職務に専念してほしい」と厳
しく叱責(しっせき)した』と。


【4】(子育て危険度)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
(一部を紹介します。もっと読んでくださる方は……
http://hiroshihayashi9.ninja-web.net/page012.html#label1
へ、おいでください。)

こんなオレにしたのは、お前だろ!
溺愛ママ(失敗危険度★★)

●子どもを溺愛する母親
 親が子どもを溺愛する背景には、親側の情緒的未熟性や精神的な欠陥がある。つまりそ
うした未熟性や欠陥を代償的に補うために親は子どもを溺愛するようになる。つまり子ど
もを溺愛す親というのは、どこかに心の問題をもった人とみてよい。が、親にはそれがわ
からない。わからないばかりか、溺愛を親の深い愛と誤解する。だから人前で平気で、そ
の溺愛ぶりを誇示する。こんなことがあった。

●溺愛を「愛」と誤解?
 高校のワンゲル部の総会でのこと。指導の教師が父母たちに向かって、「皆さんはお子さ
んたちが汚してきた登山靴をどうしてますか?」と聞いたときのこと。一人の母親がまっ
さきに手をあげてこう言った。「このクツが無事息子を山から返してくれたと思うと、ただ
ただいとおしくて頬ずりしています!」と。

あるいは幼稚園で、それはそれはみごとな髪型をしてくる子ども(年中女児)がいた。髪
の毛を細い三つ編みにした上、さらにその、三つ編みを幾重にも重ねて、複雑な髪型をつ
くるなど。まさに芸術的! そこである日、その母親と道路であったので、それとなく「毎
日たいへんでしょう?」と聞いてみた。が、その母親は何ら臆することなく、こう言った。
「いいえ、毎朝、三〇分もあればすんでしまいます」と。毎朝、三〇分!、である。

●溺愛児の特徴
 親が子ども溺愛すると、子どもは子どもで溺愛児特有の症状を示すようになる。(1)幼
児性の持続(年齢に比して幼い感じがする)、(2)退行的になる(目標や規則が守れず、
自己中心的になる)、(3)服従的になりやすい(依存心が強く、わがままな反面、優柔不
断)、(4)柔和でおとなしく、満足げでハキがなくなるなど。ちょうど膝に抱かれたペッ
トのように見えることから、私は勝手にペット児(失礼!)と呼んでいるが、そういった
感じになる。が、それで悲劇が終わるわけではない。

●カラを脱がない子ども 
子どもというのは、その年齢ごとに、ちょうど昆虫がカラを脱ぐようにして成長する。
たとえば子どもには、満四・五歳から五・五歳にかけて、たいへん生意気になる時期が
ある。この時期を中間反抗期と呼ぶ人もいる。この時期を境に、子どもは幼児期から少
年少女期へと移行する。しかし溺愛児にはそれがない。ないまま、大きくなる。そして
あるとき、そのカラを一挙に脱ごうとする。が、簡単には脱げない。たいてい激しい家
庭内騒動をともなう。子「こんなオレにしたのは、お前だろ!」、母「ごめんなさア~イ。
お母さんが悪かったア~!」と。

しかし子どもの成長ということを考えるなら、むしろこちらのほうが望ましい。カラを
うまく脱げない子どもは、超マザコンタイプのまま、体だけはおとなになる。昔、「冬彦
さん」(テレビドラマ「ずっとあなたが好きだった」の主人公)という男性がいたが、そ
うなる。
 
溺愛ママは、あなたの周辺にも一人や二人は必ずいる。いて、何かと話題になっている
はず。しかし溺愛は「愛」ではない。代償的愛といって、つまるところ自分の心のすき
間うめるための愛。身勝手な愛。一方的な愛。もっと言えば、愛もどきの愛。そんな愛
に溺れてよいことは、何もない。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

あの思い出を全部消せ!
理由なき怒り(失敗危険度★★)

●原稿を読んでもらったが……
 その母親がどんなメンツにこだわっているか、それは外からではわからない。わからな
いから失敗もする。しかし今になっても、「どうして?」と首をかしげるような事件もあっ
た。

 ある日のこと。その日はたまたま公開授業の日だった。園長も顔を出していた。で、私
は一通りの授業をほぼ終えたあと、一人の父親に前で助手をしてもらうことにした。その
父親は母親とともに最前列にいた。私はその父親に教材と原稿を渡し、それを子どもたち
の前で読んでもらった。

●執拗な電話
 その授業はその授業なりに、わきあいあいの雰囲気でなされた。その父親は少し照れて
はいたが、それは当然のことだ。じょうずかへたかと言われれば、じょうずなはずがない。
が、その夜から、母親からものスゴイ剣幕の電話。「よくもうちの主人に恥をかかせてくれ
たわね!」と。母親だって一緒に笑っていたはずだ。が、そうではなかった。それはそれ
で理解できたので、私はていねいに謝ったが、その程度では母親の怒りをしずめることは
できなかった。

その電話はその夜だけでも、ネチネチと一時間以上もつづいた。翌日の夜もやはり一時
間以上つづいた。三日目になると、さすがに私の女房も電話のベルが鳴るたびに、体を
震わせておびえるようになった。が、その三日目には電話はなかった。が、そのまた翌
日から、ほとんど毎日、その母親から電話がかかってきた。私が「では、どうすればい
いですか」と聞くと、「あの思い出を全部消せ!」とか、「時間をもとに戻せ!」とか、
メチャメチャなことを言いだした。

●電話におびえた女房
 当時の私はまだ二五歳そこそこ。今ならもう少し賢い言い方で電話をかわしたかもしれ
ないが、そのときはそうではなかった。私はともかくも、女房は電話のベルが鳴るたびに、
体をワナワナと震わせた。

●いまだに謎
 ……で、今でも、なぜあの母親がああまで怒ったのか、私には理解できない。ただその
あとその母親は、ある種の精神病になって入退院を繰り返したという話を風のたよりに聞
いたことがある。その病気と関係があったのかもしれない。あるいはそれとは別に、うつ
状態になっていたのかもしれない。うつ状態になると、そういったとんでもない被害妄想
をもつこともあるという。もっとも今でもその母親がまとも(?)なら、こんな文章はと
てもここに書けない。もし私がこんな文章を書いたのがわかったら、その母親は私を殺し
にくるかもしれない。私の記憶に残っている母親の中でも、最高に恐ろしい母親だった。
美人はとくね


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

インターネットの時代に(失敗危険度★★)

●深刻な話はメールではしない
 インターネットでメール交換している母親がふえている。私の周辺でも、約三〇%の母
親たちが、毎日のようにそれを楽しんでいる(二〇〇二年)。が、そのメール交換にも、い
ろいろな落とし穴がある。たとえば文字でメールを送ると、相手は相手の感情でその文字
を読む。これがこわい。冗談のつもりで、「バカだなあ」と書いたとする。が、相手はその
ときの気持ちでその文を読む。読んで「バカとは何だ!」となる。だからメールを書くと
きは、極力そういう誤解を生じさせないような配慮が必要だ。ニコニコ笑ったような絵文
字を添えたりするのも、一つの方法だ。私のばあいは、深刻な話はインターネットではし
ないようにしている。

●「何だ、こんな失礼なメールは!」
 またメール交換は手軽であるだけに、どうしてもぶっきらぼうになる。手紙だと、相手
の名前を書き、つぎに「拝啓」とか書いたりする。時候のあいさつもする。メールにはそ
れがない。いきなり本文に入ったりする。だから相手は相手のそのときの感情でそのメー
ルを読む。たまたま気分が悪かったりすると、「何だ、こんな失礼なメールは!」となる。

●無断転送はタブー
 が、何といっても、これはあくまでも私の主観的な考えだが、あの「転送」ほど、こわ
いものはない。インターネットでは、手紙の世界ではタブーになっている転送が、それこ
そクリック一つでできてしまう。そして一度転送されたメールは、つぎつぎと転送され、
あっという間に無数の人たちの間に流れてしまう。これがこわい。
……というより、転送はタブーだという常識が、まだわかっていない人が多い。中には
私からの私信を平気で転送する人がいる。いや、実際には、他人のメールを平気で転送
してくるような人には、こわくて返事も書けない。「林さんだけにM子のメールを見せて
あげますね」と書いてあったりすると、心底ゾーッとする。「私のメールもこうして転送
されるのだろうな」と。こんなこともあった。

●こわくて返事も書けない
 私はときどき、自分の書いたエッセイを、不特定多数の人に送っている。そのときもそ
うだった。私は一人の女性(三九歳)についてのエッセイを送った。その女性は「自分の
息子を愛することができない」と言って悩んでいた。そのことについて書いた。

で、私がエッセイを送った読者の中に、Uさん(四一歳・女性)という女性がいた。市
役所の職員ということだった。が、Uさんは、そのエッセイをズタズタに分断し、その
分断した個所ごとに、コメントを添えて、そのまま数人の仲間に転送してしまった。そ
してあろうことか、それぞれの仲間たちがさらにコメントをつけ加え、そして最終的に
はそれが私のところに回送されてきた。中に、「美人はとくね」と、私のエッセイを皮肉
ったコメントまで書き添えてあった。

私は回送されてきた自分のエッセイを見て、怒りで体が震えた。私はしがないモノ書き
だが、自分の女房でもここまでさせない……と、そのときはそう思った。で、怒りをそ
のUさんにぶつけたかったが、それもできなかった。そういうふうに転送することに罪
悪感を覚えない人には、こわくて返事も書けない。書けば書いたで、またどんなふうに
他人に転送されるか、わかったものではない。

●「どうして返事をくれないのか!」
 しかしもちろんUさんにはこちらの気持ちなどわかるはずもない。それからたびたびメ
ールで、「どうして返事をくれないのか!」というようなことを言ってきた。回数にすれば、
五~六回はあっただろうか。しかし私の怒りが収まったときには、Uさんへの友情はすっ
かり消えていた。返事を書いて人間関係を修復しようと思う前に、そういうことがわずら
わしくなった。

 もちろんUさんは私の生徒の親ではない。これからもつきあうつもりはない。ないから、
ここにこうしてあえて事実を書いた。

●インターネットの問題点
 話を戻す。メール交換にはまだいろいろ問題がある。北海道に住む読者からのメールで
も、沖縄に住む読者からのメールでも、受け取る段階では、その「距離感」がまったくな
い。それは当然のことだが、さらに、親しさにも距離感がない。一〇年前の友人も、つい
先日知りあった友人も、同じようなレベルで接近してくる。何というか友情の蓄積感がな
い。最初のメールこそていねいでも、二度目からのメールでは、一〇年来、あるいは三〇
年来の友人のような書き方をする。(私もそうだが……。)で、そこで人間関係が互いにわ
からなくなってしまう。

 これは私だけの錯覚かもしれないが、たとえばA出版社のA氏と、B出版社のB氏と交
互にメールを交換していたとする。互いに一、二度しか面識がなく、会話もそれほどした
ことがないとする。するとメールを交換しているうちに、A氏とB氏が区別つかなくなっ
てしまうのだ。もしその上、名字が同じだったりすると、さらに区別つかなくなってしま
う。実のところ、多くの母親からメールをもらうと、そういう混乱がよく生ずる。懸命に
その母親の顔を思い浮かべながらメールを書くのだが、それにも限度がある。メール交換
にもいろいろな問題があるようだ。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

■□コマーシャル★★★★★★コマーシャル□■

【BW生・募集中!】

 (案内書の請求)

   http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page228.html

 (教室の案内)

    http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page025.html

●小学生以上の方も、どうか、一度、お問い合わせください。

■□コマーシャル★★★★★★コマーシャル□■

***********************************

このマガジンがお役にたてそうな人が、あなたのまわりにいませんか?
よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?

よろしくお願いします。              はやし浩司
***********************************
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■  
まぐまぐプレミア版(有料版)のお申し込みは……
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page141.html
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■                      
.   *※※
.※※  ***※
.*※※…※}※**   
. **++ ※))
. {※}※※ /
. ※*… /mQQQm
.**/| |Q ⌒ ⌒ Q  Bye!
.  = | QQ ∩ ∩ QQ   
.       m\ ▽ /m~= ○
.       ○ ~~~\\//
.=================================
.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
.=================================