Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Monday, March 09, 2009

*To

●しつけは普遍

 日々の積み重ねが月となり、月々の積み重ねが歳となり、やがてその人の人格となる。むずかしいことではない。ゴミを捨てないとか、ウソをつかないとか、約束は守るとか、そういうことで決まる。

しかもそれはその人が、幼児期からの心構えで決まる。子どもが中学生になるころには、すでにその人の人格の方向性は決まる。あとはその方向性に沿っておとなになるだけ。途中で変わるとか、変えるとか、そういうこと自体、ありえない。

たとえばゴミを捨てる子どもがいる。子どもが幼稚園児ならていねいに指導すれば、一度でゴミを捨てなくなる。しかし中学生ともなると、そうはいかない。強く叱っても、その場だけの効果しかない。あるいは小ずるくなって、人前ではしないが、人の見ていないところでは捨てたりする。

 さて本題。子どものしつけがよく話題になる。しかし「しつけ」と大上段に構えるから、話がおかしくなる。小中学校で学ぶ道徳にしてもそうだ。人間がもつしつけなどというのは、もっと常識的なもの。むずかしい本など読まなくても、静かに自分の心に問いかけてみれば、それでわかる。

してよいことをしたときには、心は穏やかなままである。しかししてはいけないことをしたときには、どこか心が不安定になる。不快感が心に充満する。そういう常識に従って生きることを教えればよい。そしてそれを教えるのが、「しつけ」ということになる。

そういう意味ではしつけというのは、国や時代を超える。そしてそういう意味で私は、「しつけは普遍」という。
(はやし浩司 しつけ 人格 人格論)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●子どもの補償作用

 子どもは、(おとなもそうだが)、自分に何か欠点や、コンプレックスがあったりすると、それを解消するために、さまざまな行動を、代償的にとることが知られている。その一つが、「補償」という作用である。

 たとえば容姿があまりよくない女の子が、ピアノの練習に没頭したり、あまり目だたない男の子が、暴力的な行動によって、目立ってみせるなど。

 運動が苦手な子どもが、勉強でがんばるのも、そのひとつ。あるいは内気な子どもが、兵隊の服を着て、おもちゃの銃をもって遊ぶのも、その一つ。強くなったつもりで、自分の中の(弱さ)を、補償しようとする。

 こうした補償作用は、意識的にすることもあるし、無意識的にすることもある(「心理学小事典・岩波」)。

 つまり子どもは何らかの形で、他人の目の中で、自分を反映させようとする。自分の存在感をつくり、最終的には、自分にとって、居心地のよい世界をつくろうとする。

 が、こんなケースもある。こうした補償が、子どもの中でうまく作用する子どもは、まだ幸せなほう。が、その補償が、ことごとく、裏目に出る子どもだ。子どもの心を考える、一つのヒントには、なると思う。
(はやし浩司 補償)
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【二重苦、三重苦】

●K塾へ入った、M君

 あのね、学校でさんざんいやな思いをしている子どもを、また塾へ入れて、いやな思いをさせたら、どうなりますか? ものごとは、子どもの立場で考えましょう。

 よくあるのは、学校での成績がおもわしくないという理由で、塾へ入れるケース。子どもがその(必要性)を感じていれば話は別だが、そうでないときは、かえって子どもを苦しめることになる。もう少し、具体的に例をあげて考えてみよう。

 M君(小五)は、学校では、「悲しい道化師※」だった。勉強が苦手ということを、ごまかすために、皆の前で、いつもふざけてばかりいた。一見、明るい子どもに見えたが、それはまさに彼、独特の、演技だった。

 たとえば先生にさされて、黒板の前に立つときも、わざとちょろけたり、ほかの子どもにちょっかいを出したりした。冗談を言ったり、ギャグを口にすることもあった。M君は、みなにバカにされるよりは、おもしろい男、楽しい男と思われることで、その場を逃れようとした。それは意識的な行動というよりは、無意識に近い、行動だった。

 そんなM君を、親は、指導がきびしいことで有名な、K塾に入れた。K塾では、毎月テストをして、その成績順に生徒をイスに座らせた。M君は、その塾でも、悲しい道化師を演じようとした。しかし、K塾では勝手が、ちがった。

 M君は、いつもそのクラスの、左側の一番うしろに座った。そのクラスでも、成績がビリの子どもが座る席である。ふざけたくても、ふざけられるような雰囲気すら、なかった。M君は、ただ小さくなっているだけだった。

 M君が、どんな気持ちでいたか。それがわからなければ、あなた自身のことで考えてみればよい。

 学校でさんざん、いやな思いをしている。そういうあなたが、また塾で、いやな思いをさせられたら、あなたはどうなる? こういうのを二重苦という。が、それだけではすまなかった。M君は、今度は、家に帰ると、母親に叱られた。「こんな成績で、どうするの!」「いい学校に入れないわよ!」と。二重苦ではなく、三重苦が彼を襲った。

●できない子どもほど、暖かく

 簡単なことだが、勉強が苦手な子どもほど、家庭や、塾では、暖かく迎える。「学校」を大切に考えるなら、そうする。

 だいたいにおいて、生徒に点数をつけ、順位を出して、さらにその成績順に席を決めるというのは、人間のすることではない。この日本では、そういうのを教育と思っている人は多い。そのため疑問に思う人は少ない。しかしこんなアホなことを「教育」と思いこんでいるのは、日本人だけ。家畜の訓練でさえ、そんなアホなことはしない。

 が、ここで大きな問題にぶつかる。親自身が、こうした暖かさを否定してしまうことがある。中には、きびしければきびしいほどよいと考える親がいる。このタイプの親にとって、「きびしい」というのは、「子どもをより苦しめる」ことを意味する。「苦しめば、それをバネとして、より勉強するはず」と。

 しかしこうした(きびしさ)は、成功する例よりも、失敗する例のほうが、多い。最初に書いたように、子ども自身が、それだけの(必要性)を感じていれば、話は別だが、そういうケースは、少ない。

 M君は、やがて塾へ行くのをしぶり始めた。当然だ。あるいはあなたがM君なら、そういう塾へ行くだろうか。が、親は、塾からもらってくる成績を見ながら、ますますK君を責めたてた。こうなると、行きつく先は、明白。気がついたときには、M君から、あの明るい笑顔は消えていた。

 今、M君は、小学六年生になったが、学校でも、先生にさされても、うつろな目で、ボーッとしているだけ。ふざけて、みなを、笑わす気力もない。

 もちろん中には、精神的にタフというより、どこか鈍感に見える子どももいる。しかしそういう子どもでも、深くキズついている。心のキズというのは、そういうもので、外からは見えない。見えないだけに、安易に考えやすい。だから教訓は、ただひとつ。

 できない子どもほど、暖かく。
 できない子どもほど、二重苦、三重苦に追いこんではいけない。

 最後に、「ではどうすればいいのか?」という親に一言。そういうときは、「あきらめる」。あなたがごくふつうの人であるように、あなたの子どもも、ふつうの人間として、それを認める、受け入れる。その割り切りのよさが、子どもの心に風穴をあける。

 こういうM君のようなケースでは、親が、「まだ何とかなる」「そんなはずはない」「うちの子は、やればできるはず」と思えば思うほど、かえって子どもの成績はさがる。親子の関係もおかしくなる。さらに子どもの心もゆがむ。まさに百害あって一利なし、という状態になる。

● 「悲しき道化師」というのは、私が考えた言葉。

勉強ができない子どもは、さまざまな形で、それをみなに知られるのを、防ごうとする。その一つが、「道化師」を演ずること。

まわりを茶化すことで、自分ができないことをみなに、知られないようにする。ひょうきんな顔をして見せたり、ふざけたりする。バタバタと暴れてみせたり、先生をからかったりする。

このタイプの子どもは、「勉強ができない仲間」と思われるより、「おもしろい仲間」と思われることを望む。つまりそうすることによって、自分の自尊心(プライド)がキズつくのを防ぐ。一見、楽しそうに見えるが、心の中は、悲しい。だから「悲しき道化師」と、私は呼んでいる。
(はやし浩司 補償 悲しき道化師 自分を茶化す子ども 茶化す子供)

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(605)

●いつか……

いつか、私は、南海の孤島で、のんびり、昼寝をしてみたい。
さわやかな風、澄んだ海と空、白い砂浜、そして明るい陽光。
静かに揺れるやしの木は、やさしく私の体を日陰で包む。

遠くで、舟に乗る子どもたちの声、そして空を舞うカモメの姿。
何もかも忘れて、何もかもクサリをはずして、何もかも捨てて、
いつか、私は、南海の孤島で、のんびり、昼寝をしてみたい。

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生きるということは、どうしてこうも、わずらわしいのか?
つぎからつぎへと、容赦なく、問題ばかりが、起きてくる。
病気だ、ボケた、老人だと、穴の中に引きこもってしまえる人は、
まだ幸福な人だ。

そういう(わがまま)も許されず、精一杯、虚勢だけを張りながら、
歯をくしばりながら、そこにじっと立つ。立って足をふんばる。

みんなズルいよ。ほんの少しでもスキがあると、そのスキをかいくぐって、
逃げてしまう。私は関係ない、これはあなたの問題、と。

だからそこにいるのは、私だけ。ポツンと取り残されて、そこにいる。
「お前だけだよなあ」とワイフに声をかけると、意味がわかっているのか、
それともわかっていないのか、ワイフは、「そうね」と、うれしそうに笑う。

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そんなに気負うこともないのよ。荷物を背負うこともないのよ。
気楽に生きればいい。無責任に生きればいい。大切なのは、ニヒリズム。
やるだけのことはやって、あとのことは、知ったことか。私には、関係ない。

わかっているが、それができない。そのもどかしさ。その歯がゆさ。
私はもともと、まじめな人間ではない。無責任で、自分勝手。それにわがまま。
言うなれば、自己愛者。偽善者。そんな私が、無理をして仮面をかぶっている。

いやだなあ、そんな自分。きれいに着飾って。うわべだけ、とりつくろって。
皇室の人たちの、あのかわいそうなまでのつくり笑いを見ながら、
ふと、私だって変わらないではないかと、思ってしまう。

私の中の、何が、本当の私なのか。本当の私は、どこにいるのか。
子どものときから、化粧に、化粧を重ね、その上に、仮面をかぶって生きてきた。
「バカヤロー」「クソ食らえ」と、本当の私は、そう叫んでいる。

そうだ、本当の私は、こう叫びたい。

バカヤロー! クソ食らえ! 

ハハハ、だいぶ、気分が、楽になった。

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●みんな、がんばっていますね!

 いやなこと、つらいこと、わずらわしいこと……。
 打ち寄せる波のようにやってきては、そのつど、心をザワつかせる。

 思い過ごしに、取りこし苦労。それもある。
 本当は、何でもない問題ばかりなのかもしれない。

 ええい、ままよ、どうにでもなれ!、と、そう叫べば、
 すべてが解決する。

 へたにがんばるから、疲れる。へたに我をとおすから、角が立つ。
 生きているという事実の前では、すべてが、何でもない問題。

 そう、私は生きている。あなたも生きている。
 それ以上のことを望むから、話が、おかしくなる。

 「私」にこだわるから、疲れる。
 私は……、私の……、私に……、私のもの、と。

 さあ、あなたも、心のクサリを解き放ってみよう。
 心を開いて、大空の舞いあがってみよう。

 「私」のことなんか、忘れてね。何もかも、忘れてね。

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●スランプ

 英語で、デプレッションというと、「うつ状態」をいう。私の友人のB君(オーストラリア人)も、長い間、そのデプレッションで苦しんだ。「暗いトンネルの中にいたようだった」と、当時を振り返って、彼はそう言う。

 私もときどき、そのうつ状態になる。いくつかトラブルが重なると、そのあと、そうなる。ホッとしたときに、そうなる。何をするのもおっくうになる。ひどいときは、テレビを見たり、新聞を読んだりするのも、いやになる。どこか精神状態がフワフワしたような気分になり、つかみどころがなくなる。

 もっともそういう状態は、今に始まったことではない。若いときからあった。だからなれたというか、その状態とうまくつきあう方法を、自分なりに身につけた。

その方法、第一、そういう状態になったら、さからわず、そのままの状態で、よく眠る。第二、カルシウム剤をたくさんとる。第三、……。いろいろあるが、その中でも、もっとも効果的なのは、買い物。ほしいものを、バカッと買ってしまう。

もっともあまり高価なものだと、かえって落ち込みがひどくなるので、そこそこの値段のもの。買い物依存症になる人がいるというが、そんなわけで、私はそういう人の気持ちが、よく理解できる。私も、その仲間?

 結局は、人間は、何も考えないほうが、生きやすい? 先ほどもテレビを見ていたら、どこかの鉄道の車掌が、原稿を読みながら、客にあたりの様子を説明しているシーンが出てきた。のどかな光景だった。今ごろは、紅葉の見ごろ。

私はその車掌の、どこかヌボーッとした表情を見ながら、「この複雑な社会を生きるためには、かえってこのほうがいいのかなあ」と、思わず考えてしまった。言われたことだけを、まあまあ、そこそこにやって、あとはのんびりとその日、その日を、無難に暮らす……。

 私は私だが、では、その私は、私の息子たちには、どんな人生を歩んでほしいかというと、ひょっとしたら、その車掌のような人生かもしれない。あまり高望みはしない。(しても無理だが……。)そこそこの人生を、のんびりと送ってくれれば、それでよい。本人がそれだけの力があり、野心もあり、そしてそれを望むなら話は別だが、そうでなければ、健康を大切にしながら、自分の力の範囲内のことをしてくれれば、それでよい。

 そうそう少し前だが、私はこんなことを思った。インドのマザーテレサが、大きく話題になっていたころのこと。私はもし私の息子が、インドへ行って、マザーテレサのようなことをしたいと言い出したら、それに賛成するだろうか、と。

世界中の人は、マザーテレサを賞賛していたが、では、それが人間として、あるべき人間の姿かというと、そうは思わない。……思えなかった。そこで当時当、私は何人かの父母にこう聞いてみた。「あなたは、あなたの息子(娘)に、マザーテレサと同じようなことをしてほしいですか?」と。すると、全員、「ノー」と答えた。

 話がそれたが、そう考えると、「生きる」ということが、どういうことなのか、またまたわからなくなってしまう。まあ、あえて言うなら、自分の力の範囲で、自分の力の限界をわきまえ、無理せず、生きていくということか。

そういう意味では、私など、恵まれた環境にある。ときどき、自分の仕事がこんなに楽でよいものかと思うときがある。あるいは私のばあい、職場そのものが、ストレス発散の場所になっている。自由な時間はたっぷりあるし、私に命令する人は、だれもいない。(ワイフは別だが……。)

もっともこういう環境をつくったのは、無意識のうちにも、私自身の弱点を避けるためだったかもしれない。もし私が、大きなオフィスビルのどこかで、パソコン相手に、数字とにらめっこしているような仕事をしていたとしたら、とっくの昔に発狂していたか、自殺していたかもしれない。自殺はしなくても、心筋梗塞か脳内出血で死んでいたかもしれない。

 そういうこともあって、いつしか私は、落ち込みそうになると、いつも、こんな歌を口ずさむようになった。

♪……のんびり行こうよ、俺たちは……あせってみたって 同じこと……

 この歌は、小林亜星氏作曲によるもの。日本の高度成長期に、ある石油会社のコマーシャルソングとして、歌われたものである。あなたも気分が滅入ったら、この歌を口ずさんでみたら、どうだろうか。少しは気が楽になるかも? そう、私たちはのんびり行こう。あせってみても、どうせ同じこと。

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同じ、小林亜星氏の「♪のんびり……」を歌いながら書いたのが、つぎの
原稿です。

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【親が過去を再現するとき】

●親は子育てをしながら過去を再現する 

 親は、子どもを育てながら、自分の過去を再現する。

そのよい例が、受験時代。それまではそうでなくても、子どもが、受験期にさしかかると、たいていの親は言いようのない不安に襲われる。受験勉強で苦しんだ親ほどそうだが、原因は、「受験勉強」ではない。受験にまつわる、「将来への不安」「選別されるという恐怖」が、その根底にある。

それらが、たとえば子どもが受験期にさしかかったとき、親の心の中で再現される。つい先日も、中学一年生をもつ父母が、二人、私の自宅にやってきた。そしてこう言った。「一学期の期末試験で、数学が二一点だった。英語は二五点だった。クラスでも四〇人中、二〇番前後だと思う。こんなことでは、とてもS高校へは入れない。何とかしてほしい」と。二人とも、表面的には穏やかな笑みを浮かべていたが、口元は緊張で小刻みに震えていた。

●「自由」の二つの意味

 このS県では、高校入試が人間選別の重要な関門になっている。その中でもS高校は、最難関の進学高校ということになっている。私はその父母がS高校という名前を出したのに驚いた。「私は受験指導はしません……」と言いながら、心の奥で、「この父母が自分に気がつくのは、一体、いつのことだろう」と思った。

 ところで「自由」には、二つの意味がある。行動の自由と魂の自由である。行動の自由はともかくも、問題は魂の自由である。実はこの私も受験期の悪夢に、長い間、悩まされた。たいていはこんな夢だ。

……どこかの試験会場に出向く。が、自分の教室がわからない。やっと教室に入ったと思ったら、もう時間がほとんどない。問題を見ても、できないものばかり。鉛筆が動かない。頭が働かない。時間だけが刻々と過ぎていく……。

●親と子の意識のズレ

親が不安になるのは、親の勝手だが、中にはその不安を子どもにぶつけてしまう親がいる。「こんなことでどうするの!」と。そういう親に向かって、「今はそういう時代ではない」と言ってもムダ。脳のCPU(中央処理装置)そのものが、ズレている。

親は親で、「すべては子どものため」と、確信している。こうしたズレは、内閣府の調査でもわかる。内閣府の調査(二〇〇一年)によれば、中学生で、いやなことがあったとき、「家族に話す」と答えた子どもは、三九・一%しかいなかった。

これに対して、「(子どもはいやなことがあったとき)家族に話すはず」と答えた親が、七八・四%。子どもの意識と親の意識が、ここで逆転しているのがわかる。つまり「親が思うほど、子どもは親をアテにしていない」(毎日新聞)ということ。が、それではすまない。

「勉強」という言葉が、人間関係そのものを破壊することもある。同じ調査だが、「先生に話す」はもっと少なく、たったの六・八%! 本来なら子どものそばにいて、よき相談相手でなければならない先生が、たったの六・八%とは! 先生が「テストだ、成績だ、進学だ」と追えば追うほど、子どもの心は離れていく。親子関係も、同じ。親が「勉強しろ、勉強しろ」と追えば追うほど、子どもの心は離れていく……。

 さて、私がその悪夢から解放されたのは、夢の中で、その悪夢と戦うようになってからだ。試験会場で、「こんなのできなくてもいいや」と居なおるようになった。あるいは皆と、違った方向に歩くようになった。どこかのコマーシャルソングではないが、「♪のんびり行こうよ、オレたちは。あせってみたとて、同じこと」と。夢の中でも歌えるようになった。……とたん、少しおおげさな言い方だが、私の魂は解放された!

●一度、自分を冷静に見つめてみる

 たいていの親は、自分の過去を再現しながら、「再現している」という事実に気づかない。気づかないまま、その過去に振り回される。子どもに勉強を強いる。先の父母もそうだ。それまでの二人を私はよく知っているが、実におだやかな人たちだった。が、子どもが中学生になったとたん、雰囲気が変わった。そこで……。

あなた自身はどうだろうか。あなた自身は自分の過去を再現するようなことをしていないだろうか。今、受験生をもっているなら、あなた自身に静かに問いかけてみてほしい。あなたは今、冷静か、と。そしてそうでないなら、あなたは一度、自分の過去を振り返ってみるとよい。これはあなたのためでもあるし、あなたの子どものためでもある。あなたと子どもの親子関係を破壊しないためでもある。

受験時代に、いやな思いをした人ほど、一度自分を、冷静に見つめてみるとよい。

【補記】

 「♪のんびり行こうよ、俺たちは……。焦ってみたとて、同じこと……」は、どこか、負け惜しみ的(?)。本当は、急いで、まっすぐ、自分の道を走りたいのに、力が出し切れない。その環境がない。だから、自分をなぐさめるために、「♪のんびり行こうよ……」と歌う(?)。

 そんな面もないわけではない。つまりこの歌は、自分の中のフラストレーション(欲求不満)を、なだめるための歌かもしれない。

 しかし人生において大切なことは、立ち止まる勇気をもつことではないのか。立ち止まって、自分を見つめなおす勇気をもつことではないのか。

 私がM物産という商社をやめた、そのきっかけの一つになったエピソードに、こんなのがある。

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●私の過去(心の実験)

 私はときどき心の実験をする。わざと、ふつうでないことをして、自分の心がどう変化するのを、観察する。若いときは、そんなことばかりしていた。私の趣味のようなものだった。

たとえば東京の山手線に乗ったとき、東京から新橋へ行くのに、わざと反対回りに乗るなど。あるいは渋谷へいくとき、山手線を三周くらい回ってから行ったこともある。

一周回るごとに、自分の心がどう変化するかを知りたかった。しかし私の考え方を大きく変えたのは、つぎのような実験をしたときのことだ。

 私はそのとき大阪の商社に勤めていた。帰るときは、いつも阪急電車を利用していた。そのときのこと。あの阪急電車の梅田駅は、長い通路になっていた。その通路を歩いていると、たいていいつも、電車の発車ベルが鳴った。するとみな、一斉に走り出した。私も最初のころはみなと一緒に走り、長い階段をかけのぼって、電車に飛び乗った。

しかしある夜のこと、ふと「急いで帰って、それがどうなのか」と思った。寮は伊丹(いたみ)にあったが、私を待つ人はだれもいなかった。そこで私は心の実験をした。

 ベルが鳴っても、わざとゆっくりと歩いた。それだけではない。プラットホームについてからも、横のほうに並べてあるイスに座って、一電車、二電車と、乗り過ごしてみた。

それはおもしろい実験だった。しばらくその実験をしていると、走って電車に飛び乗る人が、どの人もバカ(失礼!)に見えてきた。当時はまだコンピュータはなかったが、乗車率が、130~150%くらいになると電車を発車させるようにダイヤが組んであった。そのため急いで飛び乗ったようなときには、イスにすわれないしくみになっていた。

 英語に、『休息を求めて疲れる』という格言がある。「早く楽になろうと思ってがんばっているうちに、疲れてしまって、何もできなくなる」という意味だが、愚かな生き方の代名詞にもなっている格言である。

その電車に飛び乗る人がそうだった。みなは、早く楽になりたいと思って電車に飛び乗る。が、しかし、そのためにかえって、よけいに疲れてしまう。

 ……それから35年あまり。私たちの世代は企業戦士とか何とかおだてられて、あの高度成長期をがむしゃらに生きてきた。人生そのものが、毎日、発車ベルに追いたてられるような人生だった。どの人も、いつか楽になろうと思ってがんばってきた。

しかし今、多くの仲間や知人は、リストラの嵐の中で、つぎつぎと会社を追われている。やっとヒマになったと思ったら、人生そのものが終わっていた……。そんな状態になっている。

私とて、そういう部分がないわけではない。こう書きながらも、休息を求めて疲れるようなことは、しばしばしてきた。しかしあのとき、あの心の実験をしなかったら、今ごろはもっと後悔しているかもしれない。

そのあと間もなく、私は商社をやめた。今から思うと、あのときの心の実験が、商社をやめるきっかけのひとつになったことは、まちがいない。

【補記2】

 やはり、「♪のんびり行こうよ……」は、いい歌です。私は何度も、この歌と歌詞に救われました。小林亜星さん、そしてそのコマーシャルを流してくれたM石油さん、ありがとう。

 そうそうそのM石油。一度、入社試験を受けたことがあるんですよ。学生時代の話ですが……。そのあとM物産に入社が内定したので、そのままになってしまいましたが……。ごめん!