Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Thursday, August 26, 2010

●人間の心はどこで生まれるのか





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 彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡
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q 0―0 MMMMM ∩ ∩ MM m
(″ ▽ M ⌒ ⌒ M″ v ゛)/ ̄)
凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /
\   /(″ ▽ ゛)\    厂 ̄偶
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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      8月   27日号
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選ばれました!

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●人間の脳みそ

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「エンケファリン」「エンドロフィン」で、
私が書いた原稿を検索してみました。

同じく2007年に書いた原稿を
掲載します。

+++++++++++++++

●3層構造

 人間の脳みそは、大きく、外から3層に分かれている(P・D・マクリーン※)。

(1)最表層部……新ほ乳類脳(新皮質部)
(2)中層部  ……旧ほ乳類脳(大脳辺縁系)
(3)中心部  ……は虫類類脳(脊髄や中脳) 

 このうちの(1)新ほ乳類脳というのは、「感覚情報の処理、精密な運動制御、創造的活
動、遺伝的制約を超えた自由な活動」(同)を司る。

 つぎの(2)旧ほ乳類脳というのは、「喜怒哀楽と記憶、定型的なは虫類的働きを柔軟に
する」(同)を司る。

 一番中心部にある(3)は虫類脳というのは、「呼吸や生殖、闘争や支配など、個体と種
の保存に関わる機能」(同)を司る。

 P・D・マクリーンの説によれば、人間の脳みそは、(は虫類脳)の上に、(旧ほ類脳)
→(新ほ乳類脳)が重なるようにして、進化してきたということになる。

 この説は、たいへんおもしろい。この説を逆にとらえると、太古の人間(人間というよ
り、は虫類のような生物)には、喜怒哀楽の情や記憶がなかったということになる。喜怒
哀楽の情や記憶は、旧ほ乳類脳が司る。

 さらに人間は頭がよいとされるが、そのことと、私たちがいうところの(人間性)とは、
別の問題であるということになる。人間の知的活動は、新ほ乳類脳が司る。

 さらに私たちが「本能的」と呼んでいる活動のほとんどは、人間の脳みその中心部にあ
る、は虫類脳が司っていることがわかる。考えてみれば、これは当然である。あらゆる生
物は、その起源において、個体と種の保存を最優先にした。もしそうでなければ、その生
物は一代で、絶滅していたということになる。

 P・D・マクリーンは、そのは虫類脳の機能に、「闘争や支配」を加えた。言いかえると、闘争心や支配心の強い人は、それだけ原始的な人ということになる(?)。

 そこで最近、にわかに注目され始めたのが、(2)の旧ほ乳類脳と呼ばれる「大脳辺縁系」。
たとえば喜怒哀楽の情は扁桃核(扁桃体)、記憶は海馬、やる気などは帯状回が司るという
ところまで、最近の研究でわかってきた。

 たとえば何かよいことをすると、大脳の新皮質部から信号が送られ、扁桃核は、その内
部で、エンドロフィンやエンケファリンなどのモルヒネ様の物質を分泌する。これが脳内
に放出され、脳を心地よい陶酔感を生む。これが「善なる感情」の基本になる。

 が、ここでひとつの問題が起きる。「心地よい陶酔感」イコール、「善」ではないという
こと。

 たとえば1人の銀行強盗がいたとする。その強盗が、数千万円もの大金を、手に入れた
とする。

 そうした情報も扁桃核に送られ、そこで心地よい陶酔感を生むということも考えられる。
強盗に問題があるとするなら、馬券を当てた人でもよい。その心地よい陶酔感は、たとえ
ばサッカー選手が、みごとなゴールを決めたときと同じと考えてよい。つまり「心地よい
陶酔感」イコール、「善」ということにはならない。

 さらにP・D・マクリーンの説によれば、(頭のよさ)と(人間的な感情)、さらに(動
物的な本能)とは、別物ということになる。

 このことも、現実に起きていることを例にあげると、「なるほど」と合点がいく。たとえ
ば少し前、テレビで経済解説をするようなどこかの教授が、手鏡で、女性のスカートの中
をのぞいて逮捕されるという事件があった。

 その教授のばあい、新ほ乳脳の発達もすぐれていたが、同時に、は虫類脳の働きも活発だったということになる。

 さらに……。どちらがどちらを支配しているかという問題もある。

 P・D・マクリーンの説に従えば、(は虫類脳)→(旧ほ乳脳)→(新ほ乳脳)の順に、
は虫類脳は旧ほ乳脳を支配し、旧ほ乳脳は新ほ乳脳を支配しているということになる。こ
れも臨床的に(?)考えると、納得がいく。

 たとえば性欲(=は虫類脳)にしても、理性(=新ほ乳脳)で支配するのは、不可能と
考えてよい。ある程度のコントロールはできるかもしれないが、それには限界がある。言
いかえると、生殖、つまり個体と種の保存にかかわる本能は、それほどまでに強力である
ということ。

 だから教師によるハレンチ事件にしても、あとを絶たない。

 しかし「不可能」と言い切ってこのエッセーを結んだのでは、エッセーとしての意味を
失う。そこで私なりにどうすればよいかということを考えてみる。方法がないわけではな
い。

 ひとつは、生殖、ならびに個体と種の保存についての本能は、そのまま自然な形で、表
に出していくという方法。食事をするとき、それを隠す人はいない。それに罪悪感を覚え
る人もいない。生殖も同じように考えていく。深い意味を、考えない。もっと言えば、生
殖イコール、排泄と考えていく。

 もうひとつは、自分の中の(本能)に気づく。そのメカニズムがわかれば、それを自分
でコントロールすることができるようになる。メカニズムがわからないから、本能に振り
回される。

 は虫類脳は頭の中にあるわけだから、それを消すことはできない。できないというより、
このは虫類脳があるからこそ、人間の世界では、さまざまなドラマが生まれる。そのドラ
マが、人間の世界を楽しいものにする。

 前にも書いたが、あの映画『タイタニック』にしても、ジャックとローズがいなければ、
ただの船の沈没映画で終わってしまっていただろう。

 さいごに、こういうことも言える。人間を、どの部分の脳みその働きが強いかによって、
大きく3つのタイプに分類することができるのでは……?

(1)新ほ乳脳型人間
(2)旧ほ乳脳型人間
(3)は虫類脳人間、と。

 どのタイプがどうかということについては、今さら、ここに書くまでもない。大切なこ
とは、この3つの脳が、それぞれバランスを保ちながら、ほどよく協調しあうということ。
またそういう人を、より人間的な人という。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
新ほ乳脳 新哺乳脳 旧哺乳脳 爬虫類脳 P・D・マクリーン 大脳新皮質部 辺縁系
 脳幹 脊髄 中脳)

※P・D・マクリーン……アメリカの脳生理学者(「発達心理学」、ナツメ社)


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司

●知識と思考

+++++++++++

知識と思考は、まったく
異質のものである。

そのことは、一匹の
ハチを見ればわかる。

ハチにはハチの知識がある。
特異ですぐれた知識である。

がそれがあるからといって、
ハチに思考力があるという
ことにはならない。

+++++++++++

 知識は、記憶の量によって決まる。その記憶は、大脳生理学の分野では、長期記憶と短
期記憶、さらにそのタイプによって、認知記憶と手続記憶に分類される。

認知記憶というのは、過去に見た景色や本の内容を記憶することをいい、手続記憶という
のは、ピアノをうまく弾くなどの、いわゆる体が覚えた記憶をいう。条件反射もこれに含まれる。

で、それぞれの記憶は、脳の中でも、それぞれの部分が分担している。たとえば長期記憶
は大脳連合野(連合野といっても、たいへん広い)、短期記憶は海馬、さらに手続記憶は
「体の運動」として小脳を中心とした神経回路で形成される(以上、「脳のしくみ」(日本
実業出版社)参考、新井康允氏)。

 でそれぞれの記憶が有機的につながり、それが知識となる。もっとも記憶された情報だ
けでは、価値がない。その情報をいかに臨機応変に、かつ必要に応じて取り出すかが問題
によって、その価値が決まる。

たとえばAさんが、あなたにボールを投げつけたとする。そのときAさんがAさんである
と認識するのは、側頭連合野。ボールを認識するのも、側頭連合野。しかしボールが近づ
いてくるのを判断するのは、頭頂葉連合野ということになる。

これらが瞬時に相互に機能しあって、「Aさんがボールを投げた。このままでは顔に当た
る。
あぶないから手で受け止めろ」ということになって、人は手でそれを受け止める。しかし
この段階で、手で受け止めることができない人は、危険を感じ、体をよける。

この危険を察知するのは、前頭葉と大脳辺縁系。体を条件反射的に動かすのは、小脳とい
うことになる。人は行動をしながら、そのつど、「Aさん」「ボール」「危険」などという記
憶を呼び起こしながら、それを脳の中で有機的に結びつける。

 こうしたメカニズムは、比較的わかりやすい。しかし問題は、「思考」である。一般論と
して、思考は大脳連合野でなされるというが、脳の中でも連合野は大部分を占める。

で、最近の研究では、その連合野の中でも、「新・新皮質部」で思考がなされるということ
がわかってきた(伊藤正男氏)。伊藤氏の「思考システム」によれば、大脳新皮質部の「新・
新皮質」というところで思考がなされるが、それには、帯状回(動機づけ)、海馬(記憶)、
扁桃体(価値判断)なども総合的に作用するという。

 少し回りくどい言い方になったが、要するに大脳生理学の分野でも、「知識」と「思考」
は別のものであるということ。まったく別とはいえないが、少なくとも、知識の量が多い
から思考能力が高いとか、反対に思考能力が高いから、知識の量が多いということにはな
らない。

もっと言えば、たとえば一人の園児が掛け算の九九をペラペラと言ったとしても、算数が
できる子どもということにはならないということ。いわんや頭がよいとか、賢い子どもと
いうことにはならない。そのことを説明したくて、あえて大脳生理学の本をここでひも解
いてみた。(2007年9月記)

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
思考知識 思考力)


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2010++++++はやし浩司


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●本音(被害意識と妄想性)

+++++++++++++++++++++++++++++

韓国の政府高官がこう発言した。
「(そんなに北朝鮮がいいのなら)、以北(北朝鮮)に行って暮らせ」と。
「政府高官」とあるが、中央N報は名前を明かしていない。
またこうした発言を、「卑劣な発言」と位置づけている。
誤解があるといけないので、記事をそのまま紹介させてもらう。

+++++++++++++以下、中央N報より++++++++++++++

政府高位当局者が「(進歩性向の)若者たちが軍部独裁と争って民主主義を支持し、独裁
政権を崩すことはほめたたえながら、北朝鮮独裁に対しては(なぜ)一言も言わないのか」
と発言した。

この高位当局者は先週、ベトナム・ハノイ出張中、北朝鮮の追加挑発可能性に対する記者
たちの質問を受け「ずっと北朝鮮に攻撃されながらも、どうか大目に見てくれと北朝鮮に
言わなければならないのか」と問い返した後、「若者らが“戦争なのか平和なのか”につい
て“ハンナラ党を取れば戦争、民主党を取れば平和”と言うようなそんな精神状態で国は
維持できない」とこのように言った。

また「(進歩性向の)若者たちが(北朝鮮が)そんなにいいなら金正日のもとへ行って“首
領”と暮らさなくてはならないわけで、民主主義の良いことはすべて享受しながら北朝鮮
を擁護するのか」と述べた。

また「国としてのメンツがあって、威信があって、品格がなければならないのに、どう
して民主主義の良いことはすべて享受しながら北朝鮮の擁護をするのか。以北に行って暮
らせ」と発言した。

+++++++++++++以上、中央N報より++++++++++++++

●天安艦事件は、韓国とアメリカのでっちあげ?

 現在の現在も、先の「天安艦爆破事件は、韓国政府とアメリカが共謀ででっちあげた
事件である」と考えている若い人が多いのには、驚かされる。
日本での話ではない。
韓国国内での話である。
さらにそういう人たちの論理によれば、「仮に北朝鮮がしたにしても、北朝鮮はそう
せざるをえない状況に追い込まれただけ」と。
つまり北朝鮮は、やむにやまれず、ああした行為に出た、と。

 仮にそうであるにしても、つまり「やむにやまれず」であったとしても、それで死んだ
60数名弱の兵士はどうなるのか。
そうした兵士の命をどう考えているのか。

●屈折した心 

 韓国の人たちの屈折した心は、私も経験している。
UNESCOの交換学生として韓国へ渡ったときのこと。
私たちは連日、韓国の学生たちの攻撃の矢面に立たされた。

 そんなある日のこと。
テグ大学の屋上で、私はひとり体を休めていた。
屋上からは、テグの町が一望できた。
が、そこへ向こうから1人の学生が私に向かって歩いてきた。
私は「こんなところでも議論か!」と身を構えた。
その学生は、ついその寸前まで、私にはげしい罵声を浴びせかけていた学生だった。
が、その学生はこう言った。

「ぼくは日本へ留学したいが、君はその方法を知らないか?」と。

 日本や日本人への嫌悪と好感、排斥とあこがれ、拒否と受諾……。
そうした屈折した心理が、その1人の学生の中だけでも渦を巻いていた。
それが今でも、つづいている?
私はこの記事を読んだとき、それを感じた。

●本音
 
 中央N報は、一方の読者に気兼ねして(?)、「卑劣な発言」という見出しを
かかげている。
あるいは中央N報は、左寄り?
たとえて言うなら、この日本で、「拉致問題は、日本政府のでっちあげ」と主張する
ようなもの。
かつての朝日新聞は、ことあるごとにそう主張していたが、それくらい私にはバカげて
見える。

 しかし本音を言えば、その政府高官どおりということになる。
被害意識も妄想性をもつと、とんでもない意見に変身する。
その政府高官は、こう述べている。

(1)「(進歩性向の)若者たちが軍部独裁と争って民主主義を支持し、独裁政権を崩すこ
とはほめたたえながら、北朝鮮独裁に対しては(なぜ)一言も言わないのか」

(2)「ずっと北朝鮮に攻撃されながらも、どうか大目に見てくれと北朝鮮に言わなければ
ならないのか」

(3)「(進歩性向の)若者たちが(北朝鮮が)そんなにいいなら金正日のもとへ行って“首
領”と暮らさなくてはならないわけで、民主主義の良いことはすべて享受しながら北朝鮮
を擁護するのか」と。
 
 その上で、「(そんなに北朝鮮がいいのなら)、以北(北朝鮮)に行って暮らせ」と。

●この日本でも……

 この日本でもときどき似たような論理に出会うときがある。
(あるいは子育ての場でも、経験するときがある。)

 私も自分の息子につぎのように言われたときには、心底、がっかりした。
私が「ぼくたちは子どものころ、毎日腹をすかせていた。戦後の混乱期で、食べるものさ
え満足になかった」と。

 息子の1人はこう言った。
「そんなのはパパらの責任だろ。戦争を勝手に起こしたのだから、自業自得」と。

 「自業自得」という言葉を使った。
が、だからといって、息子を責めているのではない。
私も若いころ、自分の父親や祖父に対して、同じように考えていた。
戦時中の苦労話を聞かされるたびに、そう思った。

 以来、そのつど、そしていつも、この問題を考えている。
「本当にそうだろうか?」と。
息子たちは息子たちで、私という父親の苦労の上で生きてきた。
「貧乏が何よりもこわかった」。
が、息子たちはみな、こう言う。
「パパは、仕事ばかりしていて、家族を大切にしてくれなかった」と。

●「卑劣な発言」

 「卑劣な発言」とまでは言い切れないのではないか?
韓国国内で自由主義貿易体制の恩恵を思う存分受けながら、一方で、その体制を自ら
否定する。
否定するだけならまだしも、自分たちに攻撃をしかけてくる北朝鮮を擁護する。

 この論理は、「家族のために」とがんばって仕事をする私に向かって、「家族を大切に
しない」と迫る息子たちの論理と、どこか似ている。
先日も長男が似たような論理をふりかざしたので、私はキレた。
「そんなにぼくのことが嫌いなら、この家を出て行けばいい」と。

 こういう発言が、果たして「卑劣な発言」ということになるのか。
つまり韓国が内発的にもつ(おかしさ)は、この1点に集約される。

 (自国の軍艦が攻撃された)→(60名近い兵士が死んだ)→(北朝鮮の魚雷に
よるものという判断を政府がくだした)。

 それについて「北朝鮮がしたという証拠はない」とか、「そこまで追い込んだ韓国政府
が悪い」とか、など。

 この点、私たちは日本政府を信用しているから、たとえば横田Mさんの遺骨が偽物と
判定されたときも、それを疑う人はだれもいなかった。
が、韓国の人たちの中には、それを疑う人がいる。
いるだけではない。
多い。
次期政権は、そうした勢力が韓国を担うかもしれない。

 つまりここに韓国のもつ本当の(恐ろしさ)がある。
もっと言えば、韓国の人たちがもつ(屈折したものの考え方)の(恐ろしさ)がある。
もしこんな論理がこの極東アジアで振り回されたら、それこそ日本はそのまま韓国と
戦争状態になる。

●終わりに……

 この先のことをここに書くのは、差し控えたい。
その政府高官は、本音を言った。
それが若者たちを怒らせている。
ここまでで、この原稿を書くのを止めておきたい。
暴論は暴論。
それはたしかなのだから……。


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2010++++++はやし浩司

【思いつくまま】

●顔

 顔の形はその民族が生まれ育った環境によって、決まるそうだ。
たとえば寒い地方に住む民族は、長い進化の過程を経て、凹凸の少ない
顔になったという。
それによって熱の発散を少なくする。

 一方、熱帯地方に住む民族は、熱の発散を多くするため、凹凸のはげしい
顔になったという。
また鼻の形、鼻の穴にしても、寒い地方に住む民族は、鼻が長く(高く)なり、
鼻の穴も小さくなったという。
冷たい空気を長くて細い鼻の中を通すことによって、暖めるためだそうだ。
一方、熱帯地方に住む民族は、反対に鼻が短く(低く)なったという。

 さらに鼻の穴の向きにしても、寒い地方に住む民族は、下向きになり、
熱帯地方に住む民族は、上向きになったという。

 さらに肌の色。
寒い地方に住んでいるから白くなったのではなく、白い肌になり、それによって
紫外線の吸収をよくするためだったそうだ。
一方、熱帯地方に住む民族は、メラニン色素が発達し、黒くなった。
当然のことながら、寒い地方に住む民族は、毛深い。
熱帯地方に住む民族は、毛が薄い。
同じアジア人でも、漢民族は、ほとんど体毛がないことでよく知られている。
わかりやすく言えば、腕や足は、ツルツル。

 ・・・ところで私の顔は凹凸が少なく、鼻の穴が大きい。
それに鼻が低い。
鼻の穴は上を向いている。
肌色はふつう。
体毛は薄いがある。
ということは、私の先祖は、やはり南方系ということになる。
遠い昔、南方の熱帯地方からやってきた。
「そうかなあ」と思ったところで、この話はおしまい。
「顔」の話をするのは、教育の世界では、タブー。
子どもの前で、顔の話をするのは、さらにタブー。

●最近のUFO

 最近のUFOは、雲の形をしていることが多いという。
あるいは雲にまぎれて、地球へやってくるとか。
そんな話を知っていたので、今日、巨大な入道雲を見たときには、驚いた。
上部先端部が、きれいな真円形を保っていた。
「UFOかも?」とじっと見つめたが、やはりただの雲だった。
透明感があって、その向こうに薄い青空が見えた。

 UFOについては、その存在をまったく信じていない人も多い。
超常現象といって、霊(スピリット)と同列に置いている。
(とても残念なことだが……。)
しかし私は信じている。
私とワイフは、巨大なUFOを目撃している。
(私ひとりだけが見たのなら、私はずっと黙っていただろう。)
「く」の字型のUFOだった。
死ぬまでに、あの正体を知りたい。
あれは何だったのか?
 
●反面教師

 ところでそのUFO。
私とワイフは、その話を二男に何度かしたことがある。
しかし二男は、そのつど、私たちの話をまったく信じなかった。
「何かの見まちがい」とか、「UFOは存在しない」とか言った。
「言った」というよりは、吐き捨てた。

ふつうなら、(「ふつうなら」という言い方は慎重に使いたいが)、
両親が「見た」と言ったら、その息子である二男は多少なりとも、
私たちの話を信じてくれてもよさそうなもの。
しかし二男は、最後の最後まで鼻先で笑うだけで、まったく信じようとも
しなかった。

 で、そのことから私は、私たちと二男の間には、埋めがたい距離があること
を知った。
思想的、さらに哲学的なことになれば、さらに二男は私たちから一歩退いて
見ているにちがいない。
何を言っても否定的。
つまりたとえば今、私がこうしてものを書いていることについても、二男は、
まったく相手にしないだろう。
将来にわたって、私の文章を読むこともないだろう。
「聞く耳をもたない」というのは、二男のような人間をいう。

が、だからといって、それが悪いというのではない。
たとえば戦後の民主化運動の中で、婦人参政権と地位向上のために闘った
人にFという女性がいる。
実名を書けば、その名を知らない人はいない。
そのFの息子氏も、日本を代表する教育者だが、彼は母親とは正反対の
思想を展開している。
(「正反対」というのは、私の主観的な判断にすぎないが・・・。)
武士道を信奉し、英語教育不要論を主張している。
いわく「恥を教えれば、学校からいじめはなくなる」と。

 親子でも正反対の思想をもつようになることは、けっして珍しくない。
それが問題というのではない。
親はつねに教師であり、同時に反面教師である。
親は親。
息子は息子。

私の二男にしても、私たち夫婦は、その反面教師ということになる。
(とくに私は反面教師ということになる。)
親としてはさみしいところだが、約60%の中学生や高校生は、「親のように
はなりたくない」と答えている。
「親と同じように考えろ」「親の意見に合わせろ」というほうが、無理。
今は、そういう時代ではない。

●地球温暖化(Global Warming)

 地球規模の気候異変がつづいている。
岐阜県の多治見市では、連日39度前後の気温がつづいている。
それについては今朝(7月26日)も書いた。
このアジアでも中国南部の大雨、北朝鮮の大雨などが報告されている。
地球温暖化という言葉が声高に叫ばれるようになって、もう10年以上になる。
今ではそれを疑う人は、いない。
地球温暖化は、確実に、かつ急速に進んでいる。
私はしかし「温暖化」という言葉は好きではない。
子どもたちにこの言葉を使うと、子どもたちはそれをよいことのように思ってしまう。
「温暖化になるなら、いい」とか、「冬も暖かくなるならいい」とか、とんでもないことを
言い出す。

 だから私は「地球火星化」という言葉を使う。
そのほうがわかりやすいし、具体性がある。
インパクトも強い。

 そう、地球は現在、火星化しつつある。
やがてこの地球はどうなるか。
それは現在の火星を見ればわかる。
つまりああなる。

●自業自得

 が、私は地球が火星化するのは、しかたのないことだと思う。
それこそまさに自業自得。
しかし本当の問題はそのことではなく、その過程で、人間は自ら地獄を
経験するということ。
滅亡するとしても、静かには滅亡しない。
ありとあらゆる地獄を経験する。
それが人間。

 つまり生きることには常に(傲慢さ)が伴う。
生きていること自体が、傲慢と言い切ってもよい。
その傲慢さが、人間・・・というより、その惑星で栄えた知的生物を自ら滅ぼす。
火星が現在のような火星になったのは、かつてそこに住んでいた知的生物に
よるものという説すらある。
現在の私たちと同じように環境を破壊した。
その結果として、火星は、現在のような火星になった。
ただ不幸なことに、大気の層が地球より、ずっと薄かった。
そのため温暖化が、現在の地球よりはるかに早く進んでしまった。

●断念

 もっと身近な話をしよう。
今年の3月、私とワイフはオーストラリアへ行くつもりだった。
が、いろいろあって、断念。
それについて、オーストラリアの友人から、こんなメールが届いた。
「君が来るのを待っていたら、日本とオーストラリアに、橋が先にできて
しまう」と。

 申し訳ない気持ちになった。
しかし今の私には、2~3週間の休暇など、夢のまた夢。
忙しいからではない。
体質的にできない。
それについて友人に、つぎのような返事を書いた。

Dear Bob,

Thank you very much for your mail and I feel really sorry that
I have disappointed you since I broke the promise to visit you this
March.
I, however, think I’d better write a little bit about myself.

I don’t think that you may understand me if I write like this;

I was born in 1947 just after the war.
It is very hard, I suppose, for you to imagine how it was like in Japan, in those days.
In a word we were very poor and most of the families had no time and money to look
after their children enough.
I was one of them and moreover I had been raised up in a very poor families.
“Poor” is here, I mean that, my father and mother had no love to each other and always
argued with violence.
My father was a sick in mind since he was shot in the war in Taiwan and he had a deep
trauma.
He drank strong Sake almost every few days and broke things and hit my mother.

Then I became very nervous and I became afraid of poorness more than anything.
It may seems to be strange to you if I say I feel more nervous when I am not working.
But this is true.
I work hard not because I want to get more money but to ease my mind.
So I have had worked and worked.
And I had had no holidays longer than 10 days in the past.
When I was young (abt. In thirties), I had only one day-off per month.
You may think I am sick.
I think I am sick in mind.
Then I say it is very difficult for me to have a long holiday to visit your country as you
offered.

Anyway, mate, thank you very much for your kind offer to invite me to your home.
I shall try again to make a plan to do so before you construct a long bridge between
two countries.
Thanks again!

Hiroshi

 要するに、私は貧乏性。
貧乏に対して、強迫観念をもっている。
その原因は、戦後のあの貧しい時代にある。
私は子どものころ、貧乏が何よりもこわかった。
それが大きなトラウマになった。

 だから私は社会に出ると、バカみたいに働いた。
30代のころは、休みは月に1日だけということもつづいた。
もちろんそのため、私は家族を犠牲にした。
そのつもりはなかったが、というのも私自身は、家族のためにそうしている
と信じていたので、結果的にみると、そうなっていた。
今になって息子たちは、そういう私を責める。
しかしほかに方法はなかった。
あるいは私は当時、どうすればよかったのか。
「貧乏でもいい。家族がみな楽しければ・・・」と考えて、働くのをやめればよかったの
か。

 しかし同時に私に言わせれば、今の若い人たちは、貧乏というものを知らない。
貧乏の本当の恐ろしさを知らない。
「ひもじい」という言葉の意味すら知らない。
今に見る日本の繁栄ぶりを見て、日本は戦前から、そして戦時中も戦後もそうだったと思
っている。
が、そう思うのは、まちがっている。
日本は本当に焼け野原になった。
どう焼け野原になったかは、ほんの少しだけ謙虚な気持ちで当時の記録映画などを観てみ
ればわかるはず。

 私たちが生まれ育った時代というのは、そういう時代だった。

●繁栄

 だからときどきこう思う。
こんなことがあってよいとは思わないが、もう一度日本もどん底へ叩き落とされてみれば
よい、と。
そうすれば今の若い人たちも、少しは目が覚めるのではないか。
私たちの時代がどういう時代であったかを、理解できるのではないか。
今の若い人たちは、あまりにも(傲慢)すぎる。
・・・と書くのは、書きすぎ。
それはわかっているが、一方で日本の繁栄を謳歌しながら、その繁栄の意味すら理解して
いない。
平和にしても、繁栄にしても、そこにある空気と同じように考えている。

●自業自得

 やはりまた愚痴ぽくなってしまった。
どうしてもこういう話題になると、愚痴ぽくなってしまう。
言うなれば、年寄りの愚痴。
かく言う私だって、戦争を直接経験しているわけではない。
あの戦争の犠牲者と言いながら、本当に犠牲になった人たちの上で、のうのうと
生きている。
「私にもトラウマがある」とは言っても、父が台湾で受けた貫通銃創によるものと
比べたら、何でもない。
ひょっとしたら父だって、私の兄や姉のことだけを考えて戦場で戦ったのかもしれない。
その父が、日本へ帰ってきたら、日本は焼け野原。
そういう父に向かって、「自業自得」などという残酷な言葉を、だれが使えるだろうか。

 つまりかく言う私だって、父の気持ちを本当に理解していたかどうかとなると、
疑わしい。
実のところ理解していない。
あるいは父だって、こう言いたかったのかもしれない。
「オレたちは、お前たちのために戦ったのだ!」と。
「負けたからといって、どうしてそれを無駄だったと言うのか!」と。

「戦後」だって、その父たちの犠牲の上に成り立っている。

●犠牲心

 親はだれだって、いつもある程度の犠牲心をもって、子育てをしている。
犠牲心のない人はいない。
程度の差はあるが、ない人はいない。
「無私の愛」は理想かもしれないが、そこまで自分を昇華できる親は少ない。
また期待してはいけない。

 一方で子どもが私たち親に生きがいを与えてくれるのも、事実。
子どものできがよくても、また悪くても、親はそれを心のバネとして生きる。
もし子どもがいなければ、私たち親は、こうまではがんばらなかっただろう。
子どもがいたからこそ、歯をくしばりがんばることができる。
適当なところで自分にブレーキをかけ、そこで心を休めてしまったはず。

 つまり私たちは、(犠牲心)と(生きがい)という絶妙なバランスの中で、日々の
子育てを繰り返す。
だからこういうことは言える。

「私は子育てで自分の人生を犠牲にしてしまいました」と言う人に出会うと、私は
すかさずこう思う。
「本当にそうだったのか?」と。

一方、「子育てが生きがい」と言う人に出会うと、私はすかさずこう思う。
「それはおやめなさい!」と。

 大切なことは、私たちは私たちとして、自分の人生を生きる。
子育ては生活の重要な一部かもしれないが、けっして、すべてではない。
また(すべて)にしてはいけない。

 犠牲心をもてばもつほど、子どもにとっては、それはいつか(負担)に変化する。
親がもつ(生きがい)にしても、そうだ。
それによって一方的にキズつくのは、親の側ということになる。


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2010++++++はやし浩司

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