Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Saturday, March 05, 2011

●常識とは何か、緘黙症の子どもを考える

●場面かん黙の子どもたち

林様(はやし・みこ様、「なっちゃんの声」の著者)へ

おはようございます。

まったくおっしゃる通りです。
場面緘黙も、早期に指導すれば、「なおり」ます。
年長児になってからだと、たいへんむずかしいですが、
年中児くらいだと、親にそれと気づかせないまま、
私のばあい、「なおしてしまします」。

さらに症状がこじれると、(表情)と(情意=心)が遊離し、
何を考えているかわからなくなります。
意味のわからない柔和な笑みを浮かべたままになります。
こうなると、たいへん指導がむずかしくなります。

が、体をこわばらせる程度の症状であれば、一度、みなと、
ゲラゲラ笑わせるだけで、(といっても、簡単なことでは
ありませんが)、そのままなおってしまいます。

が、やはり「診断名」を口にするのは、私にはできません。
「もしまちがっていたら……」という思いの中で
苦しみます。
(迷うのではなく、苦しみます。)
ですから親には告げないで、私のばあい、なおしてしまいます。

実は、少し前も、それがありました。
幼稚園では、入園以来一言も話さなかった子どもが、
2度目のレッスンで、声を出しました。
(一度目は、お母さんといっしょに、うしろで見学していました。)
年中児です。

母親と伯母がうしろでそれを見ていて、
「Mちゃんが声を出している!」と驚いていました。
その家族にしても、「かん黙」という言葉をこの先、
知ることはないでしょう。

私はこの方法で、軽い自閉症、発語障害など、
なおしています。
もちろん「直す」とか「治す」という言葉は、いっさい、使いません。

林様とは、立場がちがうので、対処の仕方もちがってきます。
また何度か親とのトラブルがあると、それがトラウマに
なってしまいます。
実際、「お前を訴えてやる」と父親に怒鳴り込まれたこともあります。
「お前がうちの娘を、萎縮させてしまった!」とです。
で、そのとき私は、父親にこう言いました。

「訴えるのは、あなたの自由ですが、一度、私の
レッスンを見てから訴えなさい」と。

それから数回、父親はうしろで参観していました。
で、その数回の参観が終ったあと、私にこう言いました。
「よくわかりました。すみませんでした」と。

いろいろなドラマがあります。
……ありました。
おっしゃるとおり、早期に気がつき、そのとき、「殻(から)」
から引き出してやる。
それがそのまま治療法ということになります。
私の場合、幼児を笑わせることだけを考え、指導して
います。
いろいろ誤解もありましたので、ここ数年は、
レッスンの内容を、すべて公開しています。
(もうすぐ教室を閉鎖しなければならないかもしれない
という思いもあるからです。)

「笑えば、子どもは伸びる」。
これが私の教え方です。
何かの参考にしていただければ、うれしいです。

しかし、ね。
場面かん黙などというものは、何でもない問題ですよ。
「この子は、こういう子」と認めてしまえば、何でもない問題ですよ。
日本人は、どうしても「ふつう」という基準を作ってしまう。
民族的な悪いクセです。
その「ふつう」に合わないと、何でも「異常」扱いしてしまう。
しかしこれは世界の常識ではありません。
不登校児にしても、そうです。
アメリカでは、ホームスクーラーが、2000年には200万人
を超えたはずです。

で、そういう子どもたちのために、州政府が、
指導者を用意し、教材まで用意しています。
そういうフレキシブルな教育システムが確立しています。
どうして日本は、もっと心を広くして、子どもの多様性を
認めないのでしょうか。

いいじゃないですか、静かな子どもがいても……。

そうすれば、たとえばかん黙児という診断名にしても、
どこかへ吹き飛んでしまうはずです。

たいせつなことは、その子どもが、生き生きと自分の
人生を前向きに生きていくこと。
またそれをみなが、認めあうこと。
それにまさる価値はありません。

12年ほど前、中日新聞に書いたコラムです。
そのまま紹介します。

                はやし浩司

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●日本の常識、世界の標準?

 『釣りバカ日誌』の中で、浜ちゃんとスーさんは、よく魚釣りに行く。見慣れたシーン
だが、欧米ではああいうことは、ありえない。たいてい妻を同伴する。

向こうでは家族ぐるみの交際がふつうで、夫だけが単独で外で飲み食いしたり、休暇を過
ごすということは、まず、ない。そんなことをすれば、それだけで離婚事由になる。

 困るのは『忠臣蔵』。ボスが犯罪を犯して、死刑になった。そこまでは彼らにも理解でき
る。しかし問題はそのあとだ。彼らはこう質問する。「なぜ家来たちが、相手のボスに復讐
をするのか」と。

欧米の論理では、「家来たちの職場を台なしにした、自分たちのボスにこそ責任がある」と
いうことになる。しかも「マフィアの縄張り争いなら、いざ知らず、自分や自分の家族に危害
を加えられたわけではないのだから、復讐するというのもおかしい」と。

 まだある。あのNHKの大河ドラマだ。日本では、いまだに封建時代の圧制暴君たちが、
あたかも英雄のように扱われている。すべての富と権力が、一部の暴君に集中する一方、
一般の庶民たちは、極貧の生活を強いられた。もしオーストラリアあたりで、英国総督府
時代の暴君を美化したドラマを流そうものなら、それだけで袋叩きにあう。

 要するに国が違えば、ものの考え方も違うということ。教育についてみても、日本では、
伝統的に学究的なことを教えるのが、教育ということになっている。欧米では、実用的な
ことを教えるのが、教育ということになっている。しかもなぜ勉強するかといえば、日本
では学歴を身につけるため。欧米では、その道のプロになるため。日本の教育は能率主義。
欧米の教育は能力主義。

日本では、子どもを学校へ送り出すとき、「先生の話をよく聞くのですよ」と言うが、アメ
リカ(特にユダヤ系)では、「先生によく質問するのですよ」と言う。

日本では、静かで従順な生徒がよい生徒ということになっているが、欧米では、よく発言
し、質問する生徒がよい生徒ということになっている。日本では「教え育てる」が教育の
基本になっているが、欧米では、educe(エデュケーションの語源)、つまり「引き出
す」が基本になっている、などなど。

同じ「教育」といっても、その考え方において、日本と欧米では、何かにつけて、天と地
ほどの開きがある。私が「日本では、進学率の高い学校が、よい学校ということになって
いる」と説明したら、友人のオーストラリア人は、「バカげている」と言って笑った。そこ
で「では、オーストラリアではどういう学校がよい学校か」と質問すると、こう教えてく
れた。

 「メルボルンの南に、ジーロン・グラマースクールという学校がある。チャールズ皇太
子も学んだことのある由緒ある学校だが、そこでは、生徒一人一人に合わせて、カリキュ
ラムを学校が組んでくれる。たとえば水泳が得意な子どもは、毎日水泳ができるように、
と。そういう学校をよい学校という」と。

 日本の常識は、決して世界の標準ではない。教育とて例外ではない。それを知ってもら
いたかったら、あえてここで日本と欧米を比較してみた。 
1999年記


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【常識が偏見になるとき】 



●たまにはずる休みを……!



「たまには学校をズル休みさせて、動物園でも一緒に行ってきなさい」と私が言うと、たいていの人は目を白黒させて驚く。「何てことを言うのだ!」と。多分あなたもそうだろう。しかしそれこそ世界の非常識。あなたは明治の昔から、そう洗脳されているにすぎない。



アインシュタインは、かつてこう言った。「常識などというものは、その人が一八歳のときにもった偏見のかたまりである」と。子どもの教育を考えるときは、時にその常識を疑ってみる。たとえば……。



●日本の常識は世界の非常識



(1)学校は行かねばならぬという常識……アメリカにはホームスクールという制度がある。親が教材一式を自分で買い込み、親が自宅で子どもを教育するという制度である。希望すれば、州政府が家庭教師を派遣してくれる。



日本では、不登校児のための制度と理解している人が多いが、それは誤解。アメリカだけでも九七年度には、ホームスクールの子どもが、100万人を超えた。毎年15%前後の割合でふえ、2001年度末には200万人に達するだろうと言われている。



それを指導しているのが、「Learn in Freedom」(自由に学ぶ)という組織。「真に自由な教育は家庭でこそできる」という理念がそこにある。地域のホームスクーラーが合同で研修会を開いたり、遠足をしたりしている。またこの運動は世界的な広がりをみせ、世界で約千もの大学が、こうした子どもの受け入れを表明している(LIFレポートより)。



(2)おけいこ塾は悪であるという常識……ドイツでは、子どもたちは学校が終わると、クラブへ通う。早い子どもは午後1時に、遅い子どもでも3時ごろには、学校を出る。ドイツでは、週単位(※)で学習することになっていて、帰校時刻は、子ども自身が決めることができる。



そのクラブだが、各種のスポーツクラブのほか、算数クラブや科学クラブもある。学習クラブは学校の中にあって、たいていは無料。学外のクラブも、月謝が1200円前後(2001年調べ)。こうした親の負担を軽減するために、ドイツでは、子ども1人当たり、230マルク(日本円で約14000円)の「子どもマネー」が支払われている。この補助金は、子どもが就職するまで、最長二七歳まで支払われる。



 こうしたクラブ制度は、カナダでもオーストラリアにもあって、子どもたちは自分の趣向と特性に合わせてクラブに通う。日本にも水泳教室やサッカークラブなどがあるが、学校外教育に対する世間の評価はまだ低い。



ついでにカナダでは、「教師は授業時間内の教育には責任をもつが、それ以外には責任をも
たない」という制度が徹底している。そのため学校側は教師の住所はもちろん、電話番号すら親には教えない。私が「では、親が先生と連絡を取りたいときはどうするのですか」と聞いたら、その先生(バンクーバー市日本文化センターの教師Y・ムラカミ氏)はこう教えてくれた。「そういうときは、まず親が学校に電話をします。そしてしばらく待っていると、先生のほうから電話がかかってきます」と。



(3)進学率が高い学校ほどよい学校という常識……つい先日、東京の友人が、東京の私立中高一貫校の入学案内書を送ってくれた。全部で70校近くあった。が、私はそれを見て驚いた。どの案内書にも、例外なく、その後の大学進学先が明記してあったからだ。別紙として、はさんであるのもあった。「○○大学、○名合格……」と(※)。



この話をオーストラリアの友人に話すと、その友人は「バカげている」と言って、はき捨てた。そこで私が、では、オーストラリアではどういう学校をよい学校かと聞くと、こう話してくれた。



 「メルボルンの南に、ジーロン・グラマースクールという学校がある。そこはチャールズ皇太子も学んだこともある古い学校だが、そこでは生徒一人ひとりにあわせて、学校がカリキュラムを組んでくれる。たとえば水泳が得意な子どもは、毎日水泳ができるように。木工が好きな子どもは、毎日木工ができるように、と。そういう学校をよい学校という」と。



なおそのグラマースクールには入学試験はない。子どもが生まれると、親は出生届を出すと同時にその足で学校へ行き、入学願書を出すしくみになっている。つまり早いもの勝ち。



●そこはまさに『マトリックス』の世界



 日本がよいとか、悪いとか言っているのではない。日本人が常識と思っているようなことでも、世界ではそうでないということもある。それがわかってほしかった。そこで一度、あなた自身の常識を疑ってみてほしい。あなたは学校をどうとらえているか。学校とは何か。教育はどうあるべきか。さらには子育てとは何か、と。



その常識のほとんどは、少なくとも世界の常識ではない。学校神話とはよく言ったもので、「私はカルトとは無縁」「私は常識人」と思っているあなたにしても、結局は、学校神話を信仰している。「学校とは行かねばならないところ」「学校は絶対」と。それはまさに映画『マトリックス』の世界と言ってもよい。仮想の世界に住みながら、そこが仮想の世界だと気づかない。気づかないまま、仮想の価値に振り回されている……。



●解放感は最高!



 ホームスクールは無理としても、あなたも一度子どもに、「明日は学校を休んで、お母さんと動物園へ行ってみない?」と話しかけてみたらどうだろう。実は私も何度となくそうした。平日に行くと、動物園もガラガラ。あのとき感じた解放感は、今でも忘れない。「私が子どもを教育しているのだ」という充実感すら覚える。冒頭の話で、目を白黒させた人ほど、一度試してみるとよい。あなたも、学校神話の呪縛から、自分を解き放つことができる。



※……一週間の間に所定の単位の学習をこなせばよいという制度。だから月曜日には、午後三時まで学校で勉強し、火曜日は午後一時に終わるというように、自分で帰宅時刻を決めることができる。



Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司



●「自由に学ぶ」



 「自由に学ぶ」という組織が出しているパンフレットには、J・S・ミルの「自由論(On Liberty)」を引用しながら、次のようにある(K・M・バンディ)。



 「国家教育というのは、人々を、彼らが望む型にはめて、同じ人間にするためにあると考えてよい。そしてその教育は、その時々を支配する、為政者にとって都合のよいものでしかない。それが独裁国家であれ、宗教国家であれ、貴族政治であれ、教育は人々の心の上に専制政治を行うための手段として用いられてきている」と。



 そしてその上で、「個人が自らの選択で、自分の子どもの教育を行うということは、自由と社会的多様性を守るためにも必要」であるとし、「(こうしたホームスクールの存在は)学校教育を破壊するものだ」と言う人には、次のように反論している。いわく、「民主主義国家においては、国が創建されるとき、政府によらない教育から教育が始まっているではないか」「反対に軍事的独裁国家では、国づくりは学校教育から始まるということを忘れてはならない」と。



 さらに「学校で制服にしたら、犯罪率がさがった。(だから学校教育は必要だ)」という意見には、次のように反論している。「青少年を取り巻く環境の変化により、青少年全体の犯罪率はむしろ増加している。学校内部で犯罪が少なくなったから、それでよいと考えるのは正しくない。学校内部で少なくなったのは、(制服によるものというよりは)、警察システムや裁判所システムの改革によるところが大きい。青少年の犯罪については、もっと別の角度から検討すべきではないのか」と(以上、要約)。



 日本でもホームスクール(日本ではフリースクールと呼ぶことが多い)の理解者がふえている。なお2000年度に、小中学校での不登校児は、13万4000人を超えた。中学生では、38人に1人が、不登校児ということになる。この数字は前年度より、4000人多い。

(はやし浩司 フリースクール 自由な教育 LIE Learn in Freedom 不登校 常識論 意識 はやし浩司 教育評論 教育論)


Hiroshi Hayashi+++++++March. 2011++++++はやし浩司・林浩司