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件名:■■子育て最前線の育児論byはやし浩司■■最後の呪縛(1)
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03-12-22号(336)
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子育て最前線の育児論by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
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【1】子育てポイント∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞upto797
●心の風邪……いかにして「無」になるか
現状を受け入れない間は、親も苦しむが、子どもも苦しむ。とくに子どもが「心の風邪」をひいたときはそうで、もしそういう状態になったら、親は自分の心を「カラ」にする。またその「カラ」になったときから、子どもは立ちなおり始める。
親が「こんなはずはない」「まだ何とかなる」と思っている間は、子どもは心を開かない。開かない分だけ、立ちなおりが遅れる。
ある高校生(高二女子)はこう言った。「何がつらいかといって、親のつらそうな顔を見るくらい、つらいものはない」と。彼女は摂食障害と対人恐怖症がこじれて、高校に入学したときから、高校には通っていなかった。
こういうケースでも大切なことは、子どもの側からみて、親の存在を感じさせないほどまで、親が子どもの前で消えることである。「あなたはあなたの人生だから、勝手にしなさい。そのかわり私は私の人生を勝手に生きるから、じゃましないでね」という親の姿勢が伝わったとき、子どもの心はゆるむ。
こうした心の風邪は、「以前のほうが症状が軽かった」という状態を繰りかえしながら、症状は悪化する。そして一度こういう状態になると、あとは何をしても裏目、裏目に出てくる。それを断ち切るためにも、親のほうが心を「カラ」にする。ポイントはいくつかある。
(1)子どもがあなたの前で、心と体を休めるか……今、あなたの子どもは学校から帰ってきたようなとき、あなたの目の前で、心と体を休めているだろうか。あるいは休めることができるだろうか。もしそうならそれでよし。しかしそうでないなら、家庭のあり方をかなり反省したほうがよい。
子どもが心の風邪をひいたときもそうで、もしあなたの子どもがあなたの目の前で平気で、心と体を休めることができるようなら、もうすでに回復期に入ったとみてよい。
(2)症状は一年単位でみる……心の風邪は外からみえないため、親はどうしても軽く考える傾向がある。「わがまま」とか、「気のせい」とか考える人もいる。しかし症状は一年単位でみる。月単位ではない。もちろん週単位でもない。
親にしてみれば、一週間でも長く感ずるかもしれないが、いつも「去年とくらべてどうだ」というような見方をする。月単位で改善するなどということは、ありえない。いわんや週単位で改善するなどということは、絶対にありえない。つまり月単位で症状が改善しても、また悪化しても、そんなことで一喜一憂しないこと。
(3)必ずトンネルから出る……子ども自身の回復力を信じること。心の風邪は、脳の機能の問題だから、時間をかければ必ずなおる。そしてここが重要だが、必ずいつか、「笑い話」になる。要はその途中でこじらせないこと。軽い風邪でもこじらせれば、肺炎になる。そんなわけで、「なおそう」と思うのではなく、「こじらせない」ことこそが、心の風邪に対するもっとも効果的な対処法ということになる。
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
●自分を知る
教育のすばらしい点は、教育をしながら、つまり子どもを通して、自分を知るところにある。
たとえば私はときどき、自分の幼児期をそのまま思い出させるような子どもに出会うときがある。「ああ、私が子どものころは、ああだったのだろうな」と。そういう子どもを手がかりに、自分の過去を知ることがある。
私は子どものころ、毎日、真っ暗になるまで近くの寺の境内で遊んでいた(=帰宅拒否?)。私はよく大泣きして、そのあとよくしゃっくりをしていた(=かんしゃく発作?)。私は今でも靴が汚れていたりすると、ふと女房に命令して、それを拭かせようとする(=過保護?)。ひとりで山荘に泊まったりすると、ときどきこわくて眠れないときがある(=分離不安?)、と。
私のいやな面としては、だれかに裏切られそうになると、先にこちらからその人から遠ざけてしまうことがある。小学五年生のときだが、自分の好意の寄せていた女の子のノートに落書きをして、その女の子を泣かせてしまったことがある。
その女の子にフラれる前に、私のほうが先手を打ったことになる。あるいは学生時代、旅行というと、家から離れて、とにかく遠くへ行きたかったのを覚えている。……などなど。理由はともかくも、私は結構心のゆがんだ子どもだったようだ。そんなことが子どもを教えながらわかる。
が、ここで話したいことは、このことではない。自分であって自分である部分はともかくも、問題は自分であって自分でない部分だ。ほとんどの人は、その自分であって自分でない部分に気がつくことがないまま、それに振り回される。よい例が育児放棄であり、虐待だ。
このタイプの親たちは、なぜそういうことをするかということに迷いを抱きながらも、もっと大きな「裏の力」に操られてしまう。あるいは心のどこかで「してはいけない」と思いつつ、それにブレーキをかけることができない。
「自分であって自分でない部分」のことを、「心のゆがみ」というが、そのゆがみに動かされてしまう。ひがむ、いじける、ひねくれる、すねる、すさむ、つっぱる、ふてくされる、こもる、ぐずるなど。自分の中にこうしたゆがみを感じたら、それは自分であって自分でない部分とみてよい。それに気づくことが、自分を知る第一歩である。
まずいのは、そういう自分に気づくことなく、いつまでも自分でない自分に振り回されることである。そしていつも同じ失敗を繰り返すことである。そのためにも、一度、自分の中を、冷静に旅してみるとよい。あなたも本当の「自分自身」に出会うことができるかもしれない。
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
●よい先生VS悪い先生
私のような、もともと性格のゆがんだ男が、かろうじて「まとも?」でいられるのは、「教える」という立場にあるからだ。
子ども、なかんずく幼児に接していると、その純粋さに毎日のように心を洗われる。何かトラブルがあって、気分が滅入っているときでも、子どもたちと接したとたん、それが吹っ飛んでしまう。よく「仕事のストレス」を問題にする人がいる。しかし私の場合、職場そのものが、ストレス解消の場となっている。
その子どもたちと接していると、ものの考え方が、どうしても子ども的になる。しかし誤解しないでほしい。「子ども的」というのは、幼稚という意味ではない。子どもは確かに知識は乏しく、未経験だが、決して、幼稚ではない。
むしろ人間は、おとなになるにつれて、多くの雑音の中で、自分を見失っていく。醜くなる人だっている。「子ども的である」ということは、何ら恥ずべきことではない。とくに私の場合、若いときから、いろいろな世界をのぞいてきた。教育の世界や出版界はもちろんのこと、翻訳や通訳の世界も経験した。いくつかの会社の輸出入を手伝ったり、医学の世界をかいま見たこともある。しかしこれだけは言える。
園や学校の先生には、心のゆがんだ人は、まずいないということ。少なくとも、ほかの世界よりは、はるかに少ない。
そこで「よい先生」論である。いろいろな先生に会ってきたが、目線が子どもと同じ高さにいる先生もいる。が、中には上から子どもを見おろしている先生もいる。このタイプの先生は妙に権威主義的で、いばっている。
そういう先生は、そういう先生なりに、「教育」を考えてそうしているのだろうが、しかしすばらしい世界を、ムダにしている。それはちょうど美しい花を見て、それを美しいと感動する前に、花の品種改良を考えるようなものだ。昔、こんな先生がいた。
ことあるごとに、「親のしつけがなっていない」「あの子は問題児」とこぼす先生である。決して悪い先生ではないが、しかしこういう先生に出会うと、子どもから明るさが消える。
そこでよい先生かどうかを見分ける簡単な方法……。休み時間などの様子を、そっと観察してみればよい。そのとき、子どもたちが先生の体にまとわりついて、楽しそうにはしゃいでいれば、よい先生。そうでなければ、そうでない先生。よい先生かどうかは、実は子どもたち自身が、無意識のうちに判断している。
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●アメリカの小学校
アメリカでもオーストラリアでも、そしてカナダでも、学校を訪れてまず驚くのが、その「楽しさ」。まるでおもちゃ箱の中にでも入ったかのような、錯覚を覚える。
たとえば、アメリカ中南部にある公立の小学校(アーカンソー州アーカデルフィア、ルイザ・E・ペリット小学校。児童数三七〇名)。教室の中に、動物の飼育小屋があったり、遊具があったりする。
アメリカでは、教育の自由化が、予想以上に進んでいる。
まずカリキュラムだが、州政府のガイダンスに従って、学校が独自で、親と相談して決めることができる。オクイン校長に、「ガイダンスはきびしいものですか」と聞くと、「たいへんゆるやかなものです」と笑った。
もちろん日本でいう教科書はない。検定制度もない。たとえばこの小学校は、年長児と小学一年生だけを教える。そのほか、プレ・キンダガーテンというクラスがある。四歳児(年中児)を教えるクラスである。費用は朝食代と昼食代などで、週六〇ドルかかるが、その分、学校券(バウチャ)などによって、親は補助されている。
驚いたのは四歳児から、コンピュータの授業をしていること。また欧米では、図書室での教育を重要視している。この学校でも、図書室には専門の司書を置いて、子どもの読書指導にあたっていた。
授業は、一クラス一六名前後。教師のほか、当番制で学校へやってくる母親、それに大学から派遣されたインターンの学生の三人であたっている。アメリカというと、とかく荒れた学校だけが日本で報道されがちだが、そういうのは、大都会の一部の学校とみてよい。周辺の学校もいくつか回ってみたが、どの学校も、実にきめのこまかい、ていねいな指導をしていた。
教育の自由化は、世界の流れとみてよい。たとえば欧米の先進国の中で、いまだに教科書の検定制度をもうけているのは、日本だけ。オーストラリアにも検定制度はあるが、それは民間組織によるもの。しかも検定するのは、過激な暴力的表現と性描写のみ。「歴史的事実については検定してはならない」(南豪州)ということになっている。
アメリカには、家庭で教えるホームスクール、親たちが教師を雇って開くチャータースクール、さらには学校券で運営するバウチャースクールなどもある。行き過ぎた自由化が、問題になっている部分もあるが、こうした「自由さ」が、アメリカの教育をダイナミックなものにしている。
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●世界の文化論
子どもを見ていると、世界の文化が見えるときがある。
昔、ある幼稚園へ行くと、一人の女の子(年中児)が、小さな丸だけをつなげて、黙々と絵を描いていた。そこで担任の先生に、「あの子はどういう子ですか?」と聞くと、その先生はこう言った。「根気のあるいい子ですよ」と。しかしその子は、本当に「いい子」か? 内閉した心が、行き場をなくすと、子どもはそういう症状を示す。自閉症の初期症状と言ってもよい。一方、伸びやかな子どもは、何かにつけて、大ざっぱ。
……という知識があると、文化の見方も変わってくる。たとえば金沢。
その金沢の伝統工芸を、一口で言えば、「精緻(せいち)」。実にこまかい細工を、ていねいする。まき絵や金箔工芸は言うにおよばず、和菓子にまで、その伝統は生きている。そうした工芸は高く評価されているが、しかしその背景には、押しつぶされた人間の「自我」がある。
あの前田藩を美化する人も多いが、しかし実際には、あの前田藩という時代は、日本でも、そして世界でも類を見ないほど、暗黒かつ恐怖政治の時代であった。今でも金沢市には尾張町とか近江町とかいう町名がある。それぞれの地方から強制的に移住させられた人が住んだ町内である。また金沢城の中には、藩主が、生身の人間をぶらさげて、刀の試し切りをしたところも残っている。そういう世界では、民衆は内閉するしかなかった……。
一方これとは対照的なのが、アメリカ中南部地方。テキサス州を例にとればよい。あそこでは、すべてがもう、大ざっぱ。やることなすこと、すべてが大ざっぱだから、恐れ入る。
家具にしても、表向きは結構見栄えのするものを作る。が、内側から見ると、ア然とする。どうア然とするかは、機会があれば、ご自身で確かめてみてほしい。言い換えると、テキサスの人に、精緻な仕事を期待しても無理。不可能。絶対にできない。そういう雰囲気すら、ない。レストランの料理にしても、量だけはやたらと多いが、料理というより、あれは家畜のエサ(失礼!)。
金沢の文化と、テキサスの文化は、きわめて対照的である。しかしそれはとりもなおさず、日本人とアメリカ人の違い。さらには、日本の歴史とアメリカの歴史の違いでもある。で、結論から言えば、日本の文化は、内閉文化。アメリカの文化は、開放文化ということになる。これは子どもの世界から見た、世界の文化論ということになる。
ミ ( ⌒⌒ ) 彡
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(" 。 "人
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 ̄ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄ 掲示板にお書き込みください。
【2】特集∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
●最後の呪縛(じゅばく)
掲示板にWさんという方が、こんな意見を書いてくれた。
「(母は)七年前にあの世に逝ってしまったので、もう話すこともできません。が、ようやく、私自身は、今までの色々縛られていたものから解き放たれて、心が軽くなれました。やっと自分が好きになれ、ありのままの自分を認められたのです」と。
この言葉のもつ、意味は、重い。私はこの投稿を読んで、改めて、親とは何かと、考えさせられてしまった。Wさんは、投稿によれば、親の前では、ずっと「いい子」だったという。つまり仮面をかぶっていたということか。
一方、Wさんの母親は母親で、「人の厚意に甘えることができない人でした。若い頃にひどく人に裏切られたことがあったようですが、きっと母自身も寂しい育ち方をしたのでしょう」と、ある。
少し話をもどすが、「親が死んで、はじめて、親の呪縛から解放された」と感ずる人は、少なくない。いつも、親を、心のどこかで重荷に感じていた人ほど、そうである。
よく誤解されるが、故郷は、だれにとっても、いつも心暖かい場所であるとは、限らない。同じように、親が、いつもいつも子どもにとって、心暖かい人であるとは、限らない。「盆暮れに、実家へ帰るのが、苦痛でならない」「親と話していても、心が休まらない」「実家へ帰っても、一晩、泊まることさえできない」とこぼす人は、多い。全体の中でも、約三〇%がそうではないか。
もちろん大半の人は、故郷といえば、「♪故郷」を歌い、親といえば、「♪おふくろさん(森進一の曲)」を、口ずさむ。しかしそういう人は、恵まれた人だ。幸運にも、心豊かで、何一つ、不自由なく育った人だ。しかし、世の中は、そういう人ばかりではない。
親の重苦しい呪縛の中で、もがき苦しんでいる人は、いくらでもいる。ここにあげた、Wさんも、その一人だったかもしれない。だから、Wさんは、親が死んではじめて、「解き放たれた」と。
このことは、一見、Wさんの、個人的な話のように思う人も多いかもしれない。「私には、関係ない」と。しかし、本当に、そうだろうか。そう言い切ってよいだろうか。実は、この問題は、あなたと、あなたの子どもの関係の問題ということにもなる。
一度、あなたの子どもの目線に、あなたの心を置いて考えてみるとよい。果たして、あなたの子どもは、あなたの呪縛の中で、苦しんでいないだろうか。あなたという存在を、重苦しく感じていないだろうか。
Wさんの投稿は、そういう意味で、今の親子関係を知るために、おおいに、参考になると思う。興味のある人は、私のホームページから、BBS(掲示板)へと、進んでみてほしい。もちろん、ご意見、ご感想、大歓迎!
(031214)
+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
●他人の厚意
【他人の行為に甘えられる人、甘えられない人】
山荘を建てたころ、私は毎週のように客人を招いた。若いころ、「いつか、自分で民宿を経営してみたい」と思っていた。そういう願いもあったから、それはそれなりに、楽しかった。
その客人たちを見ていて、気がついたことがある。大きく分けて、二つのタイプに分かれた。
●デンデン・タイプ
山荘へ入るやいなや、まるで自分の家のように、山荘を使い始めるタイプ。居間のイスに座って、好き勝手なことをする。あるいはコタツに入って、テレビを見る。中に、一人、昼食をとったあと、そのままコタツの中で、本当に、眠ってしまった人もいる。
態度が大きく、デーンとしているから、デンデン・タイプということになる。
● キヤキヤ・タイプ
山荘へ来ても、あれこれ、私たちに気をつかうタイプ。家事を手伝ってくれる。あと片づけを手伝ってくれる。あるいは、会話を切らないように、あれこれ話題をもちかけたり、話しかけたりしてくれる。
私たちのほうから、「いいから、ゆっくり休んでいてください」と言うのだが、そういうことができない。あれこれ、こまごまと、気を使ってくれるから、キヤキヤ・タイプということになる。
どちらがよいとか、悪いとか言っているのではない。人は、人、それぞれだし、もちろん、その中間型も人もいる。
しかし私が、その違いに気づいたのは、ここに書いた、コタツの中で、眠ってしまった人を見たときのことだ。最初、「私なら、できるだろうか?」と思った。つまり私は、どちらかというと、ここでいう(キヤキヤ・タイプ)の人間だから、そこまで大柄(おうへい)な、態度をとることができない。
どこの家に招待されても、家事などを、積極的に手伝うほうである。
そういう私にない部分を、見せつけられたとき、「では、私は、何か?」と考えてしまった。私は、人に甘えることを知らない。あるいは甘えることができないタイプの人間かもしれない。
心を開くということは、他人の厚意を、すなおに受け入れることをいう。このことは、子どもたちを観察していると、わかる。
たとえば私は、子どもたちに、そのつど、いろいろなプレゼントを、渡す。たいしたものではないが、そのとき、私の厚意が、スーッと、心にしみこんでいくのがわかるタイプの子どもと、そうでないタイプの子どもがいるのがわかる。
もう少し年少の子どものばあい、抱いてみればわかる。ある程度のコミュニケーションができるようになったとき、私に心を開いている子どもは、私が抱いても、そのままスーッと体をすりよせてくる。そうでない子どもは、体を、どこかでこわばらせる。
そこで、先の(デンデン・タイプ)と、(キヤキヤ・タイプ)を考えてみると、一見、態度が大きく、ぞんざいだが、(デンデン・タイプ)の人は、それだけ、心を開いているということになる。
一方(キヤキヤ・タイプ)の人は、それだけ、心を閉じているということになる。
では、私はどうなのか?
私は子どものころから、他人に心を許さないタイプだった。許さないというより、心を開くことができなかった。一見、明るく、愛想はよいが、それは、私が悲しい運命の中で、身につけた処世術のようなもの。いわば、仮面。
本当の私は、他人には、めったに、心を開かなかった。
だからよく、あちこちの家に招待はされたが、いつも、居心地が悪かった。若いころは、よく、「自分で、お金を出して、旅館に泊まったほうが、よほど楽」と思ったことがある。今でも、その傾向は強い。
オーストラリアなどへ行っても、友人の家に泊まるよりは、近くのホテルに泊まるほうを好む。それだけ、どうしても気を使うため、かえって、気疲れを起こしてしまう。
さて、あなたは、ここでいう二つのタイプのうち、どちらだろうか。(デンデン・タイプ)だろうか、それとも、(キヤキヤ・タイプ)だろうか。
(デンデン・タイプ)だから、よいということにはならない。(キヤキヤ・タイプ)だから、悪いということにもならない。ものごとには程度、というものが、ある。
Y氏(六〇歳)などは、どこの家に泊まっても、態度が大きいというか、平気で、ビールを、二~四本も、飲んでしまう。そしてあとは、そのまま、グーグーと、その場で眠ってしまう。
一方、R氏(四五歳)は、どこへ泊まっても、そのあと、必ず礼状を書いたり、お返しの品を買って届けたりしている。礼儀正しく、またそういう人だと、他人にも思われている。
しかしこうした違いは、いつ、どこから生まれるかといえば、概して言えば、(デンデン・タイプ)の人は、乳幼児期において、幸運にも、親の愛情をたっぷりと受け、親との間に、信頼関係がしっかりとできた人とみてよい。
一方、(キヤキヤ・タイプ)の人は、不幸にして不幸な家庭に育ち、その分、親との間に、信頼関係がうまくできなかった人と、みてよい。つまりその分だけ、心の開き方を知らない……。つまり、他人の厚意を、すなおに受け入れることができない。
最近では、山荘に客人が来てくれたとき、私は、我がもの顔で、つまり自分の家のように、図々しく振る舞ってくれる人のほうが、うれしい。少し前も、一人の客人が来てくれたが、彼は、山の上から谷に向って、「ヤッホー、ヤッホー」と、大声を出して、楽しんでいた。
そういう客人を見ると、「ああ、この人は、私たちに心を開いてくれているのだな」と思う。つまり、その分だけ、「私たちを信頼してくれているのだな」と思う。だからうれしくなる。
「他人の厚意を、厚意として、すなおに受け入れる」ということは、一見、簡単そうで、簡単ではない。それは、その人の乳幼児期と、深くからんでいる。
(031214)
● 他人に気を使うのも、使われるのも、疲れること。他人がやってきて気疲れする人も、他人の家に遊びにいっても気疲れする人は、それだけ心の開くことが、苦手な人とみてよい。
【自己診断】
● あなたは、デンデン・タイプ?
それとも、キヤキヤ・タイプ?
( )他人の家に行っても、平気で泊まることができる。ホームステイするのも、ホームステイさせるのも、楽しい。(デンデン・タイプ)
( )他人の家に行っても、あれこれ気を使う。そのため、気疲れしやすいので、あまり長居することは、ない。ホームステイするくらいなら、ホテルに泊まったほうが、気が楽で、楽しい。(キヤキヤ・タイプ)
( )他人の子どもが遊びにきて、家の中で、おもちゃを散らかしても、気にならない。子どもたちも、好き勝手なことをして遊んでいる。(デンデン・タイプ)
( )他人の子どもが遊びにきただけで、落ち着かない。あれこれ世話を焼くことが多い。子どものほうも、何かにつけて、あなたに気を使うことが多い。(キヤキヤ・タイプ)
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
● 心の実験(なまけ心)
【散歩の前】
子どもでも、勉強すべきときに、勉強しないときがある。こういうのを、「なまけ心」という。
問題は、なぜ、なまけ心が起きるかということ。そこで、私は、自分の心で、実験をしてみることにした。
今、時刻は、午後三時、少し前。外を見ると、風が、大きく、栗の木の葉を揺らしている。寒そうだ。
一方、私は、今のコタツに入って、こうして原稿を書いている。ときどき、心地よい眠気が、頭の中を襲う。「このまま眠ったら、さぞかし気持いいだろうな」と思う。
この状態のとき、たとえば脳の一部が、「ハナと散歩に行け」と、命令したら、どうなるか。
運動は、必要なことである。運動することによって、健康が保たれる。そこで意識としては、「運動をしたほうがいい」ということになる。
そこで私は、こう考えた。
体全体を「会社」にたとえるなら、「頭」の部分が、経営者、つまり社長ということになる。そして「体」の各部分は、会社の中の、部や課ということになる。
そこで、社長である、私の意識が、自分の体に、「ハナと散歩に行け」と命令したとする。それは会社の健康のためには、必要なことである。で、今、自分に命令してみる。
「ハナと散歩に行って、適度な運動をしろ!」と。
しかし、どういうことだろう。体が言うことをきかない。私は、相変わらず、コタツの前に、デンと座ったままである。会社にたとえて言うなら、部下たちが、まったく動こうとしない状態ということになる。
体がだるい。それに眠い。そこで再度、自分の体に向って、命令をくだす。「散歩に行け!」と。しかしそれでも、体は動かない。
が、考えてみれば、これはおかしな現象だ。本来なら、意識と体は、別々のもの。意識が体をコントロールしているはず。体は、意識の命令に従って、動くはず。しかし、今は、体のほうが、意識をコントロールしている。「疲れているから、いやだ」「眠いから、いやだ」と。
と、なると、体というのは、意識だけでは、コントロールできないということになるのか。
そこで、これから私は、自分の体に、ムチを打って、散歩に行くことにした。だるいし、眠いが、これは、私の意思とは、本来関係のない現象である。
が、私は、改めて、自分の体に命令をした。「これから散歩に行け!」と。
(この間、約40分経過。私は、散歩にでかける……。そして帰ってくる。)
3時10分、ハナと散歩に出る。
3時50分、散歩から、もどる。
【散歩の途中と、あと】
散歩にでかける瞬間、迷いが、心をふさぐ。「今日は、散歩をサボろうか」と。
しかし庭に出て、ハナに首輪をつけたとたん、眠気が消えた。ついで、体のだるさも消えた。
そして自転車の置いてある駐車場に行くころには、すっかり、散歩モード。自転車にまたがったとたん、言いようのない、爽快(そうかい)感が身を包む。
「どちらが、本当の私なのか?」と、ふと、思う。ほんの数分前までは、「散歩はいやだ」と思っていた。しかし今は、「散歩に出て、よかった」と思っている。だいたいにおいて、あの眠気や、だるさは、どこへ消えたのか。
散歩に出かける前、私は、「今日は風邪ぎみだから、散歩はやめたほうがいい」と思っていたはず。「無理をすると、風邪をこじらせるかもしれない」と思っていたはず。そのときの私がどこかへ消え、散歩している私は、「これでいい」と。
私は、一度、西側の道路から、大平川のほうへおりたあと、それから川沿いに、道路を走って、佐鳴湖に出た。秋の紅葉がみごとだった。そのとき、また別の意欲が生まれてきた。私はそのつど、ハナを止め、自転車を止めると、カメラ付の携帯電話で、写真をとった。
気持よかった。それに、佐鳴湖が、薄水色の快晴の空を受けて、美しく光っていた。その上にあって、紅葉は、まさに黄金色に輝いていた。
帰ってきたのが、午後三時五〇分ごろ。さっそく、今の実験を、こうして書きとめる。
【結論】
なまけ心は、脳のどこかに潜む、幻覚のようなものではないか。人間の脳には、二つの作用がある。一つは、行動しようとする作用。もう一つは、なまけようとする作用。それはちょうど、交感神経と、副交感神経の働きに、似ている。
その二つの作用が、いつも同時に働いて、そのつど、バランスを取りながら、人間の意識を調整している。
そして活動しようとする作用が、なまけようとする作用に負けたとき、人間は、本当に、なまけものになる。そしてそのなまけようとする作用が、眠気や、だるさを、幻覚のようになって、意識を包む、と。
一方、活動しようという作用が、なまけようとする作用に勝ったとき、そこからやる気や、意欲も生まれてくる。「写真をとって、ホームページに載せてやろう」というのが、その意欲である。
さてさて、おかげで頭は、再び、すっきりした。ここに書いたのは、あくまでも現象面からみた、意識とやる気の関係である。正しくはないかもしれないが、人間の意識を知る、一つの手がかりにはなる。あるいは、何かにつけて、やる気のない子どもを理解するための、一つの手がかりにはなる。
以上、今日の実験は、おしまい。
(031214)
【私の仮説】
意識そのものも、同時に、二つの作用に、コントロールされているのでは、ないか。「やる気」と、「サボる気」。
やる気ばかりでは、人間は暴走してしまう。そこで「サボる気」が、それにブレーキをかける。こうして人間の意識は、バランスよく、ほどよい状態に保たれる。
しかし、やる気とサボる気のバランスが崩れ、やる気がサボる気に負けたとき、人間は、なまけ者になる。と、同時に、眠気やだるさが、幻覚として、体を包む。
一方、反対に、やる気がサボる気に勝ったとき、前向きな意欲も、そこから生まれる。
【3】心に触れる(Touch your Heart)∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞691
●一人の男
寒い夜だった。時刻は、一〇時近くだった。自転車にまたがる。大通りへ出て、ペダルをこぐ足に、さらに力を入れる。そのとたん、一人の男が、目に止まった。男は、大きなフラワーポットのすみに、腰をかけて、顔を大きなハンカチで、顔を押さえていた。
通り過ぎた瞬間、男を見ると、男は、泣いていた。ちょうど、目の下あたりを、ハンカチで拭くところだった。「どうしたんだろ?」と思った。が、そのときには、自転車は、かなりのところまで来ていた。ふりかえると、そのままの姿勢だったが、その男の顔は、男の背中に隠れて、もう見えなかった。
身を切るような冷気が、顔にあたる。さらにペダルに、力を入れる。そのとき、ふと、「どうして、止まってやらなかったのだ」という思いが、心を横切る。ついで、「それにしても、こんな夜では寒いだろうに……」と。
男は、六〇歳くらいだっただろうか。短い髪の毛だったが、まっ白なのが、よくわかった。「よほど悲しいことがあったのだろう」と、私は勝手な解釈をした。私は、信号で自転車を止めたとき、もう一度、その男のことを考えた。
昔、一人の友人がいた。浜松へ来たころ知りあった友人だが、三〇歳と少しのとき、食道ガンで死んでしまった。焼酎(しょうちゅう)とタバコが好きで、いつも、「いつか、オレは、オレの小説を書く」と言っていた。
その彼と、ある日、近くの大型店で会ったことがある。彼は、私が話しかけても、上の空。ただぼんやりと、人の流れを見ていた。そのときは知らなかったが、そのとき彼は、末期がんの患者が入る、Sホスピスから、外出許可をもらって、そこへ来ていたという。
私がいつものように、「やあ、Iさん!」と声をかけたが、「うん」と言ったきり、下を向いてしまった。そばに奥さんが立っていたが、奥さんも、返事をしなかった。つづいて「どうしてこんなところに!」と言ったが、それにも、返事をしなかった。その友人は、同じ浜松市でも、私が住んでいるところとは、正反対の方角に住んでいた。
私は、その友人を、先ほど見かけた男と、頭の中でダブらせた。うずくまって座っている様子が、似ていた。
……で、この話は、家に着くころには、忘れた。そして翌日、山荘で、昼ご飯を食べたあと、私はその男のことを、思い出した。そしてワイフと、こんな会話をした。
私「どうして泣いていたんだろう」
ワ「泣いていたんじゃなくて、汗を拭いていたんじゃ、ない」
私「お前は、どうしていつも、そういうふうにしか、ものを考えられないんだ」
ワ「例えばジョギングが何かして、そこで休んでいたとか……」
私「あのな、その男の人は、泣いていたの」
ワ「どうして、それがあなたにわかるの?」
私「雰囲気だ」
ワ「きっと、汗を拭いていたのよ」
私「……」と。
ワイフの意見は、この際、無視するとして、幸福も、不幸も、紙一重。いつも隣りあわせで、やってくる。幸福な人も、不幸な人も、大きなちがいがあるようで、ない。その男を見たのも、「私」なら、うずくまって泣いていたのも、「私」。今は、たがいの間に、薄い一枚の壁があるが、私だって、いつその壁の向こうに座っても、おかしくない。今、私が壁のこちら側にいるのは、本当に、かろうじて、のこと。本当に、かろうじて、だ。
だから今も、つまりこの原稿を書いているこの瞬間にも、私は、こう思う。「どうして、声をかけてやらなかったのか」と。
ワ「声をかけてあげればよかったのよ」
私「そうだな」
ワ「そうすれば、その人は、こう言ったはずよ。『おたがい、寒い夜は、たいへんですなア』と」
私「あのな、その男の人は、泣いていたの!」
ワ「汗を、拭いていたのよ。そんなところで、泣く人はいないわよ」と。
ついでに、一言。
ワイフには、私がもっているような、知的デリカシーは、ないようだ。
(031213)
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
【幼児の腕力】
幼児の腕力について、質問があった。「どの程度まで認めたら、よいのか」と。
最初に思い出したのは、K君という年中児(満五歳)の子どもだった。
●手加減しなかったK君
私はよく、子どもたちと「戦いごっこ」をする。プロレスに似た遊びだが、当然、たがいに手加減をしながら、遊ぶ。あくまでも、それは、遊びである。その「戦いごっこ」のときのこと。
K君が、前に出てきて、私に、戦いをいどんできた。身長も、平均的な子どもと比べても、やや小柄なほうだった。が、戦い方がちがった。
私が体をかがめると、まるでカミソリでスパスパと切りこむように、私にキックや、パンチを加えてきた。一撃で、私のメガネは、吹っ飛んでしまった。瞬間、「この子は、空手でもやっているのか!」と思ったほどである。
そして小さな手だが、げんこつをつくったまま、ピシッ、ピシッと、私の顔面を殴ってきた。鼻先を殴られて、ひるんでいると、今度は、足で、私の腹部を蹴ってきた。動きが速いというか、正確というか……。ドス、ドスと、K君の足が私の腹にめりこんだ。瞬間、息ができなるほどの、痛さを感じた。私は、「ちょっと待ちなさい!」と叫ぶのが、精一杯だった。
小学二、三年生の子どもでも、そこまで痛くない。それに遊びは遊びだ。しかしK君には、それがなかった。小さい体だが、本気で、殴ったり、蹴ったりしてきた。
キレた状態になると、子どもも、そういった様子を見せることがある。しかしK君には、キレた子ども特有の、あの冷たさは感じなかった。K君は、柔和な笑いを浮かべたまま、私を殴ったり、蹴ったりした。むしろそれを楽しんでいるかのようだった。
●K君の様子
そのK君について、一つ気になったのは、下に妹が生まれてから、かなりはげしい赤ちゃんがえりを起こしていたこと。ものごし、言い方などが、赤ちゃんのそれになってしまっていた。ネチネチとした話し方や、母親にベタベタ甘える様子のほか、分離不安、退行性などの症状も、見られた。
子どもというのは、その年齢になると、その年齢にふさわしい人格の「核」ができてくる。年長児は、年長児らしく、小学生は、小学生らしくなる。
しかし心が変調すると、その退行性が現れる。この時期だと、幼児がえりというよりは、赤ちゃんがえりに合わせて、その子どもの人格の「核」まで、軟弱になる。約束が守れなくなったり、生活習慣そのものが、ルーズになったりするなど。全体に、精神面、行動面に、強い幼稚性が現れるようになる。
原因は、家庭教育の失敗とみる。(「失敗」といっても、親の責任を追及しているのではない。子育てには、こうした失敗は、つきもの。だれしも、そのつもりはなくても、失敗をする。もともと子育てというのは、そういうもの。)
下の子どもが生まれるまでは、目いっぱい、甘やかす。しかし下の子どもが生まれたとたん、一転、今度は、「お兄ちゃんだから」と、子どもを、突き放す。そしてそれに対して、不満を訴えたりすると、「わがまま」と決めてかかって、押さえつける。
こうした一貫性のない育児姿勢が、子どもの心をゆがめる。K君が、その柔和な、……というより、幼稚ぽい表情とは裏腹に、はげしい攻撃性を身につけたのは、そういう背景によるものと思われる。
そこでそのことを、母親に相談すると、母親は、こう言った。「幼稚園に、よくない友だちがいて、その友だちから、そういうことを学んだようです」と。
しかしK君のもっていた攻撃性は、学んだくらいでは、身につくものではない。大きな欲求不満が、心の根底にあって、それが姿を変えたと見るのが正しい。
こういう例は、少なくない。
●嫉妬の恐ろしさ
乳幼児の心について、刺激してならないものが、二つ、ある。攻撃心と、嫉妬心である。この二つをいじると、子どもの心は、ゆがむ。
そしてこれら二つは、人間が人間になる前からもっていた感情であるだけに、扱い方をまちがえると、人間性そのものまで、ゆがめる。
同じような例だが、弟(一歳半)を、逆さづりにして、頭から落としていた子ども(年長男児)がいた。つまり、この種の嫉妬がからむと、子どもは、相手(下の子)を、殺すところまでする。その男の子のことだが、両親の前では、たいへんできのよい兄を演じていた。その光景を見た、母親は、こう言った。
「隣との家の、兄は、弟にそれをしていました。それを見たとき、私は、思わず、ギャーッと叫んでしまいました」と。
ほかに、自転車で弟に体当たりを繰りかえしていた兄。チョークを、お菓子と偽って、妹に食べさせていた兄などの例がある。
一般的に、世の親たちは、赤ちゃんがえりを、軽く考える傾向がある。しかしこれはとんでも、まちがい。
赤ちゃんがえりは、その根底で、その子どもの心そのものをゆがめる。ゆがめるだけならまだしも、生涯にわたって、その子ども(人)に、さまざまな悪影響を、およぼす。たとえば善悪のバランス感覚にうとくなるなど。
この時期、子どもは子どもでも、それなりの分別が、できてくる。つまり、(してよいこと)と、(して悪いこと)の、区別ができるようになる。が、善悪のバランス感覚が崩れてくると、それができなくなる。
コンセントに粘土を詰めてみたり、色水を友だちにかけたりするなど。ここでいう「遊びに手加減を加えない」というのも、それに含まれる。ふつうなら、(「ふつう」という言い方には、いろいろ問題はあるが……)、こういう「遊び」では、子どものほうも、手加減をする。年中児という年齢は、それができて当然の年齢である。
●心の欲求不満の解消を、最優先に
こうした一連の症状が見られたら、心の欲求不満の解消を最優先に考える。とくに注意したいのが、親の短絡的な育児姿勢と、情緒不安。頭ごなしに、ガミガミ言えば言うほど、子どもは、自分で考える力をなくす。
しかし実際には、私たちの目にとまるころには、手遅れとなっているケースが多い。K君にしても、それまでに、妹が生まれてから、すでに、三年近くもたっていた。その三年の間に、症状は、こじれにこじれていた。
また母親にしても、それまでに育児姿勢を、急激に変えることは、不可能といってもよい。さらに退行症状(赤ちゃんぽいしぐさ、様子、態度)は、一度身につくと、なおすのは、容易ではない。
ふつうはそのまま性格(性質)として、子どもの中に定着してしまう。小学校の高学年になっても、中学生になっても、どこかに幼稚ぽさは、残る。親は、そういう自分の子どもの姿を見て、「なおそう」と考えるが、無理をすればするほど、かえって、子どもの症状は、悪化する。
G君という、小学六年生の子どもがいた。彼には、はげしいチックと、吃音(どもり)が見られた。やることなすこと、幼稚ぽいので、そのたびに、母親がきつくG君を叱っていた。こうした悪循環に入るケースも、少なくない。
そう、そのG君で、記憶に残っている事件に、こういうのがあった。
学校帰りに、通り道にある家の中の犬小屋に石をなげて、遊んでいた。そしてそのとき、その家の、大きな窓ガラス(縦二メートル、幅一メートルくらい)を、割ってしまった。家の人が学校に通報し、調べたところ、G君とわかった。
しかしG君の母親は、「うちの子が、そんなことをするはずがない」と、最後の最後まで、がんばった。G君は、母親の前では、いつもネチネチと甘えていた。
●幼児の腕力
幼児の腕力は、どの程度まで認めてよいかという議論は、そんなわけで、ほとんど、意味がない。冒頭にあげたK君の母親は、さかんに、「どこまで(暴力を)認めていいのでしょう?」と言っていたが、問題の本質がちがう。
大切なことは、そうした行為の根底にあるのが、赤ちゃんがえりであり、さらにその原因である、「嫉妬」であることに、気がつくこと。そして全体として、K君の心のケアをすること。それに気がつかないと、そのつど、対症療法だけで、あたふたとしてしまう。
またキレやすい子どもについては、別のところで考えたので、ここでは省略する。K君についても、症状をこじらせれば、そのキレやすい子どもになることは、じゅうぶん考えられた。小学校へ入ると同時に、K君は、私の教室から、去っていった。その後の、ことは、知らない。
【腕力をふるう子どもについて……】
暴力をふるうたびに、そのつど、ていねいに、かつ、静かに説得する。叱ったり、威圧しても意味がないばかりか、かえって、逆効果になることが多い。
以前、そのタイプの子どもに、空手を習わせた親がいたが、それでうまくいくケースもあれば、そうでないケースもある。やはりその前に、大切なことは、善悪のバランス感覚を育てること。静かに考える時間を、子どもに、もたせるようにするとよい。あるいは、ひとりで、考えるように、しむける。
しかしたいていこのタイプの子どもにかぎって、あまり考えない。考えて行動するという習慣そのものがない。その場、その場で、気が向いたまま行動する。
もしそうなら、親自身が、自ら考える姿勢を見せる。「考える」ということがどういうことなのか、子どもの前で、見せる。見せながら、子どもの体にしみこませていく。
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キレる子どもについて、以前、書いた原稿を
添付します。これは私の本で、すでに発表済み
の原稿です。
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キレる子ども
●躁状態における錯乱状態
子どもたち(小三児)を並べて、順に答案に丸をつけていたときのこと。それまでF君は、まったく目立たないほど、静かだった。が、あと一人でF君というそのとき、F君が突然、暴れ出した。突然というより、激変に近いものだった。
ギャーという声を出したかと思うと、周囲にあった机とイスを足でけって、ひっくり返した。瞬間私は彼の目を見たが、それは恐ろしいほど冷たく、すごんでいた……。
キレる状態は、心理学の世界では、「躁(そう)状態における精神錯乱」(長崎大・中根允文氏ほか)と位置づけられている。
躁うつ病を定型化したのはクレペリン(ドイツの医学者・一八五六~一九二六)だが、一般的には躁状態とうつ状態はペアで考えられている。周期性をもって交互に、あるいはケースによっては、重複して起こることが多い。
それはそれとして、このキレた状態になると、子どもは突発的に凶暴になったり、大声でわめいたりする。(これに対して若い人の間では、ただ単に、激怒した状態、あるいは怒りが充満した状態を、「キレる」と言うことが多い。ここでは区別して考える。)
●心の緊張状態が原因
よく子どもの情緒が不安定になると、その不安定の状態そのものを問題にする人がいる。しかしそれはあくまでも表面的な症状にすぎない。
情緒が不安定な子どもは、その根底に心の緊張状態があるとみる。その緊張状態の中に、不安が入り込むと、その不安を解消しようと、一挙に緊張感が高まり、情緒が不安定になる。
先のF君のケースでも、「問題が解けなかった」という思いが、彼を緊張させた。そういう緊張状態のところに、「先生に何かを言われるのではないか」という不安が入りこんで、一挙に情緒が不安定になった。
言いかえると、このタイプの子どもは、いつも心が緊張状態にある。気を抜かない。気を許さない。周囲に気をつかうなど。表情にだまされてはいけない。柔和でおだやかな表情をしながら、その裏で心をゆがめる子どもは少なくない。これを心理学の世界では、「遊離」と呼んでいる。一度こういう状態になると、「何を考えているかわからない子ども」といった感じになる。
●すなおな子ども論
従順で、おとなしい子どもを、すなおな子どもと考えている人は多い。しかしそれは誤解。教育、なかんずく幼児教育の世界では、心(情意)と表情が一致している子どもを、すなおな子どもという。
うれしいときには、うれしそうな表情をする。悲しいときには悲しそうな表情をする。不愉快なときは、不愉快そうな顔をする。そういう子どもをすなおな子どもという。しかし心と表情が遊離すると、それがチグハグになる。ブランコを横取りされても、ニコニコ笑ってみせたり、いやなことがあっても、黙ってそれに従ったりするなど。
中に従順な子どもを、「よくできた子ども」と考える人もいるが、それも誤解。この時期、よくできた子どもというのは、いない。つまり「いい子」ぶっているだけ。このタイプの子どもは大きなストレスを心の中でため、ためた分だけ、別のところで心をゆがめる。よく知られた例としては、家庭内暴力を起こす子どもがいる。このタイプの子どもは、外の世界では借りてきたネコの子のようにおとなしい。
●おだやかな生活を旨とする
キレるタイプの子どもは、不安状態の中に子どもを追い込まないように、穏やかな生活を何よりも大切にする。乱暴な指導になじまない。あとは情緒が不安定な子どもに準じて、(1)濃厚なスキンシップをふやし、(2)食生活の面で、子どもの心を落ちつかせる。カルシウム、マグネシウム分の多い食生活に心がけ、リン酸食品をひかえる(※)。
リン酸は、せっかく摂取したカルシウムをリン酸カルシウムとして、体外へ排出してしまう。もちろんストレスの原因(ストレッサー)があれば、それを除去し、心の負担を軽くすることも忘れてはならない。
※……今ではリン酸(塩)はあらゆる食品に含まれている。たとえば、ハム、ソーセージ(弾力性を出し、歯ごたえをよくするため)、アイスクリーム(ねっとりとした粘り気を出し、溶けても流れず、味にまる味をつけるため)、インスタントラーメン(やわらかくした上、グニャグニャせず、歯ごたえをよくするため)、プリン(味にまる味をつけ、色を保つため)、コーラ飲料(風味をおだやかにし、特有の味を出すため)、粉末飲料(お湯や水で溶いたりこねたりするとき、水によく溶けるようにするため)など(以上、川島四郎氏)。
●人工的に調合するのは、不必要
ついでながら、W・ダフティという学者はこう言っている。「自然が必要にして十分な食物を生み出しているのだから、われわれの食物をすべて人工的に調合しようなどということは、不必要なことである」と。つまりフード・ビジネスが、精製された砂糖や炭水化物にさまざまな添加物を加えた食品(ジャンク・フード)をつくりあげ、それが人間を台なしにしているというのだ。「(ジャンクフードは)疲労、神経のイライラ、抑うつ、不安、甘いものへの依存性、アルコール処理不能、アレルギーなどの原因になっている」とも。
(031213)
ミ ( ⌒⌒ ) 彡
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【4】フォーラム∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
●お百度参り
受験シーズンがやってきた。受験生をもつ親たちは、心配と不安のウズの中に、巻きこまれる。そんな中、民放(S社)が、「親のお百度参り」について、報道していた。
ウソや冗談で、親たちが参っているのではない。本気である。しかも、本当に、一〇〇回、毎朝、参るというのである。
一人の母親(五〇歳くらい)は、こう言った。「子どものためだと思って、しています」と。
一方、それを受けて、子ども(女子高校生)も、こう答えていた。「親が、そこまで私のことを心配していてくれると思うと、力がわいてきます。合格したら、母に、一番に、報告します」と。
何とも、心暖まる光景である。しかし……。
【疑問(1)】
仮に神や仏がいるとしても、そんなことに力を貸す、神や仏など、いるだろうか、という疑問。もしそんなことに力を貸すなら、まじめに努力している学生が、不利になる。しかしそれこそ、不公平というもの。
「この宗教を信じたものだけが救われる」と説く、どこかのインチキ教団なら、いざ知らず、そんな身勝手な教え(?)は、ない。
【疑問(2)】
親は、「子どものため」と言うが、本当は、自分の不安や心配を解消するために、そうしているのでは、ないのか。自分自身が学歴信仰の信者か何かで、その重圧感から逃れるために、そうしているだけ? 「子どものため」ではなく、「親のため」である。
たしかに自分の子どもが選別されるというのは、親にとっては、恐怖以外の何ものでもない。しかしその恐怖は、日本という社会で、日本人という人間が、作りあげたものにほかならない。そういう恐怖を感じたからといって、何かに祈っても、まったく、意味はない。大切なことは、一人の人間として、その社会を、変えることである。
【疑問(3)】
子どもは、子どもで、「ありがたいことだ」と喜んでいる。しかし本当に、そのご利益とやらで合格したら、どうなるのか。それこそまさに、政治家にワイロを渡して、合格したようなもの。あと味の悪さだけが残るだけ、ということには、ならないのか。
私も、今、一人の親として、その運命を待つ立場にある。合格発表は、この一二月二五日だという。
しかし今、私は、じっと、その重圧感に耐えている。じたばたしても始まらない。唯一できることと言えば、息子の「力」を信ずること。そして不合格になったとき、どのようにして息子を支えるか、それを考えること。
もし私にも、信じられる神や仏がいるなら、お百度参りのようなことをするかもしれない。しかし、正直に言う。よほど、そちらのほうが、楽である。気が楽である。お百度参りしてくれたから、親の愛が深いとか、してくれなかったから、浅いというのは、まったくのウソ。むしろ、わけのわからないお百度参りする親のほうが、よほど、愛が「浅い」ということに、なるのでは?
報道の中では、神主も出てきて、「この神社は、昔から、あの○○公とも関係のある、由緒ある神社で、それだけご利益も大きいです」などと、言っていたが、もうそれは、詐欺に近い言葉と言ってもよい。親たちの心配や不安を、逆手にとって、金儲けにつなげている!
そう言えば、東南アジアのある国では、宝くじの当たり番号を教える寺まである。いくらかのお金を献金すると、その番号を、その場で、占って教えてくれるという。まったくのインチキなのだが、その国では、だれも、それをインチキだとは思っていない。この話とは関係ないかもしれないが、今、ふと、その話が、頭の中を横切った。
(031214)
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
【近況アラカルト】
●インフルエンザの予防注射
インフルエンザの予防注射を受けた。しかし最初、あちこちの内科医院に、電話で問いあわせると、「もう、ワクチンはありません」と。
最後に、近くの整形外科医院へ電話をすると、「あります」と。で、そこで受けた。代金は、消費税込みで、5250円。病院によって、値段が違うという。
今年は、SARSの流行も考えられるので、受けておいたほうが、よいとのこと。発熱したら、インフルエンザなのか、SARSなのか、わからなくなってしまう。
そのせいか知らないが、三日目の今日(一四日)、朝から、喉が痛い。昨夜、風呂から出て、コタツの中で雑誌を読んでいたのが、よくなかったらしい。ふとんに入った直後、体がほてるように熱くなった。
今のところ、それ以上の症状はないので、このまま様子をみよう。
●住所録の整理
住所録の整理はめんどうだが、一方、パソコンをパチパチといじるのは、苦痛ではない。むしろ楽しい。だから、今夜、その住所録の整理をすることにした。
私が使っているソフトは、「筆M」。このソフトを使い始めて、もう五年目になる。毎年、アップグレード版を買ってきたが、それが、結構、めんどう。新しいパソコンに、のりかえるたびに、そのつど、古いバージョンを一度、インストールしなければならない。
しかし今年の「筆M」は、購買意欲がわいてこない。店で、見たが、パッケージの色が悪い。まっ黒で、どこか、陰湿。葬式用のソフトにも、見える。明らかに、デザインミス(?)
毎年、「筆M」のパッケージは、ド派手で、かつカラフルだった。しかし今年のパッケージは、何だ? 店先で、何十個も並べて売ってあるのを見ると、購買意欲が刺激される前に、不気味さを覚えてしまう。その一角だけは、暗く、沈んでいる! 白を基調とした明るい色にすればよかった。せめて、赤とか……。
そんなわけで、五年間、買いつづけた「筆M」だが、今年は、やめた。K社さん、ごめん。パッケージが悪い。
● さえない日曜日
そんなわけで、今日は、さえない日曜日。のどが痛いので、外出は、ひかえよう。近くに、平日だと、580円で、定食を食べさせてくれる寿司屋がある。しかし今日は、日曜日。少し遠出をすれば、一皿オール100円の、K寿司店がある。どうしようか?
あとでビデオでも、借りてこようか。人と会う約束も、今日はないし……。暇だから、ときどき、メールをのぞくが、このところ、メールをくれる人も、ぐんと少なくなった。師走(しわす)に入って、みな、忙しくなったのだろう。しかし、もう正月とは!
先ほどから、ワイフは、台所で、夕食の準備をしている。昼ご飯も食べていないのに……。「今夜は、おでんよ」と、先ほど言った。昼飯は、どうするのだ!
●ハナと散歩
昨日の夕方、ハナと、散歩して、中田島砂丘まで行ってきた。ちょうど夕日が海の向こうに沈むときで、美しかった。写真を、何枚かとったので、またマガジンのほうに、載せてやろう。
砂丘には、寒いせいか、釣り人もいなかった。その、まったく誰もいない砂浜を、ハナは、走り回っていた。楽しそうだった。ハナというイヌは、あっという間に、一、二キロは、走る。そしてしばらくすると、もどってきて、私を確かめたあと、反対方向へ。これも、イヌの習性かもしれない。
おかげで、今日は、風邪ぎみ……?
あとで、また散歩に連れていくつもり。ハナは、すでに、私の様子を、窓の向こうで、うかがい始めている。ハナにとっては、散歩が、唯一の生きがいらしい。その生きがいを奪うのも、かわいそうだ。
●P社のパソコン
このところ、P社のパソコンが、やけに調子がよい。私は、このP社のパソコンのキーボードが、大好き。パチパチと、指先で打っているだけで、気持よい。
結局、P社のパソコンの調子が悪かったのは、ドライバーどうしが、喧嘩をしていたためらしい。もともとUSBでつながっているCDドライブがあった。それに、外付けのCD-Rを取り付けた。それで、調子が悪くなった?
「一般保護エラー」というのは、そういうとき、起こるらしい。
で、ホームページの仕事は、N社製のパソコンにさせることにした。つまりP社製のパソコンは、現役引退。今は、こうしてワープロ専用機にしている。
ワイフは、「古いのを売って、新しいのに買いかえたら」と言う。しかしパソコンというのは、しばらく使っていると、愛着がわいてくる。指先になじんでくる。
その感触が残っているので、そう簡単には、手放すことができない。それに売っても、二束三文。だったら、自分の手元の置いておいたほうがよい。
●孤独な日本
K国問題にからんで、日本人が、改めて、思い知らされたこと。それは、「日本には、友人がいない」ということ。
韓国やK国に反日感情は、しかたないとしても、中国にせよ、他の東南アジアの国々にせよ、「日本は友人」と思ってくれている国は、一つも、ない。これはどうしたことか? 仮に日本が、K国の攻撃を受けたとしても、間に入ってくれそうな国は、悲しいかな、アメリカしか、ない。
しかしアメリカとて、無条件で、それをしてくれるわけではない。そこまで、お人よしではない。現に今、ブッシュ大統領の対立候補である、米国の民主党大統領選挙候のハワード・ディーン氏(前バーモント州知事)は、「K国の間で、不可侵条約を結ぶ」とまで、言明している。
もしアメリカが、K国と相互不可侵条約を結んだら、いったい、この日本は、どうなるのか? 日本がK国に攻撃されても、アメリカは、それに対して、手も足も出せなくなる。なぜなら、日本は、アメリカではないからである。まさに、日本は、アメリカにさえ、見捨てられることになる。
数日前も、一人の子ども(小六男子)が、私にこう聞いた。「日米和親条約が結ばれたのは、何年か、先生は知っているか?」と。そこで私が、「明治時代のことか? だいたい、そのあたりのことだ」と答えると、「先生が、そんなこと知らないで、どうするの?」と、たたみかけてきた。
だから改めて、私はこう言った。「あのな、そんなことを勉強するのが、社会の勉強ではないのだよ。何の役にも、たたない。社会の勉強というのはね、なぜ、日本がこうまで、国際社会の中で、嫌われているか。それを実感し、そのために、日本がどうしたらいいかを考えるのが、社会の勉強なんだよ」と。
今、ほとんどの日本の子どもたちは、自分たちは、アジア人とは、思っていない。こうした意識を、なぜ日本の子どもたちがもっているか、そのあたりまでメスを入れないと、これからの日本は、ない。
(以上、一二月一四日、日曜日の記録)
Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
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各地で講演会をもちます。詳しくはサイトのニュースを
ご覧ください。
2・21 ……細江町「教育のつどい」
1・24 ……周智郡森町教育委員会
12・19 ……鷲津小学校区教員研修会
詳しい講演日時は、
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