Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Friday, March 07, 2008

Confidential Realationship (Part2)

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この原稿に関して、いくつか
お役に立てそうな原稿を
集めてみました。

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【子どもを愛せない親たち】

 その一方で、子どもを愛せない親がいる。全体の10%前後が、そうであるとみてよい。

 なぜ、子どもを愛することができないか。大きくわけて、その理由は、二つある。

 一つは、自分自身の乳幼児期に原因があるケース。もう一つは、妊娠、出産に際して、大きなわだかまり(固着)をもったケース。しかし後者のケースも、つきつめれば、前者のケースに集約される。

 乳児には、「あと追い、人見知り」と言われるよく知られた現象がある。生後5~7か月くらいから始まって、満1歳半くらいまでの間、それがつづく。

 ボウルビーという学者は、こうした現象が起きれば、母子関係は、健全であると判断してよいと書いている。言いかえると、「あと追い、人見知り」がないというのは、乳児のばあい、好ましいことではない。

 子どもは、絶対的な安心感の中で、心をはぐくむ。その安心感を与えるのは、母親の役目だが、この安心感があってはじめて、子どもは、他者との信頼関係(安全感)を、結ぶことができるようになる。

 「あと追い、人見知り」は、その安心感を確実なものにするための、子どもが親に働きかける、無意識下の行動と考えることができる。

 で、この母子との間にできた基本的信頼関係が、やがて応用される形で、先生との関係、友人との関係へと、広がっていく。

 そしてそれが恋愛中には、異性との関係、さらには配偶者や、生まれてきた子どもとの関係へと、応用されていく。そういう意味で、「基本的(=土台)」という言葉を使う。

 子どもを愛せない親は、その基本的信頼関係に問題があるとみる。その信頼関係がしっかりしていれば、仮に妊娠、出産に際して、大きなわだかまりがあっても、それを乗りこえることができる。そういう意味で、ここで、私は「しかし後者のケースも、つきつめれば、前者のケースに集約される」と書いた。

 では、どうするか?

 子どもを愛せないなら、愛せないでよいと、居なおること。自分を責めてはいけない。ただ、一度は、自分の生い立ちの状況を、冷静にみてみる必要はある。そういう状況がわかれば、あなたは、あなた自身を許すことができるはず。

 問題は、そうした問題があることではなく、そうした問題があることに気づかないまま、その問題に引き回されること。同じ失敗を繰りかえすこと。

 しかしあなた自身の過去に問題があることがわかれば、あなたは自分の心をコントロールすることができるようになる。そしてあとは、時間を待つ。

 この問題は、あとは時間が解決してくれる。5年とか、10年とか、そういう時間はかかるが、必ず、解決してくれる。あせる必要はないし、あせってみたところで、どうにもならない。

【この時期の乳児への対処のし方】

 母子関係をしっかりしたものにするために、つぎのことに心がけたらよい。

(1)決して怒鳴ったり、暴力を振るったりしてはいけない。恐怖心や、畏怖心を子どもに与えてはならない。
(2)つねに「ほどよい親」であることに、心がけること。やりすぎず、しかし子どもがそれを求めてきたときには、ていねいに、かつこまめに応じてあげること。『求めてきたときが、与えどき』と覚えておくとよい。
(3)いつも子どもの心を知るようにする。泣いたり、叫んだりするときも、その理由をさぐる。『子どもの行動には、すべて理由がある』と心得ること。親の判断だけで、「わがまま」とか、決めてかかってはいけない。叱ってはいけない。

 とくに生後直後から、「あと追い、人見知り」が起きるまでは、慎重に子育てをすること。この時期の育て方に失敗すると、子どもの情緒は、きわめて不安定になる。そして一度、この時期に不安定になると、その後遺症は、ほぼ、一生、残る。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【父親VS母親】

●母親の役割

 絶対的なさらけ出し、絶対的な受け入れ、絶対的な安心感。この三つが、母子関係の基本です。「絶対的」というのは、「疑いすらいだかない」という意味です。

 母親は、自分の体を痛めて、子どもを出産します。そして出産したあとも、乳を与えるという行為で、子どもの「命」を、はぐくみまず。子どもの側からみれば、父親はいなくても育つということになります。しかし母親がいなければ、生きていくことすらできません。

 ここに母子関係の、特殊性があります。

●父子関係

 一方、父子関係は、あくまでも、(精液、ひとしずくの関係)です。父親が出産にかかわる仕事といえば、それだけです。

が、女性のほうはといえば、妊娠し、そのあと、出産、育児へと進みます。この時点で、女性が男性に、あえて求めるものがあるとすれば、「より優秀な種」ということになります。

 これは女性の中でも、本能的な部分で働く作用と考えてよいでしょう。肉体的、知的な意味で、よりすぐれた子どもを産みたいという、無意識の願望が、男性を選ぶ基準となります。

 もちろん「愛」があって、はじめて女性は男性の(ひとしずく)を受け入れることになります。「結婚」という環境を整えてから、出産することになります。しかしその原点にあるのは、やはりより優秀な子孫を、後世に残すという願望です。

 が、男性のほうは、その(ひとしずく)を女性の体内に射精することで、基本的には、こと出産に関しては、男性の役割は、終えることになります。

●絶対的な母子関係VS不安定な父子関係

 自分と母親の関係を疑う子どもは、いません。その関係は出産、授乳という過程をへて、子どもの脳にしっかりと、焼きつけられるからです。

 しかしそれにくらべて、父子関係は、きわめて不安定なものです。

 フロイトもこの点に着目し、「血統空想」という言葉を使って、それを説明しています。つまり「母親との関係を疑う子どもはいない。しかし父親との関係を疑う子どもはいる」と。

 「私は、ひょっとしたら、あの父親の子どもではない。私の父親は、もっとすぐれた人だったかもしれない」と、自分の血統を空想することを、「血統空想」といいます。つまりそれだけ、父子関係は、不安定なものだということです。

●母親の役割

 心理学の世界では、「基本的信頼関係」という言葉を使って、母子関係を説明します。この信頼関係が、そのあとのその子どもの人間関係に、大きな影響を与えるからです。だから「基本的」という言葉を、使います。

 この基本的信頼関係を基本に、子どもは、園の先生、友人と、それを応用する形で、自分の住む世界を広げていきます。

 わかりやすく言えば、この時期に、「心を開ける子ども」と、「そうでない子ども」が、分かれるということです。心を開ける子どもは、そののち、どんな人とでも、スムーズな人間関係を結ぶことができます。そうでなければ、そうでない。

 子どもは、母親に対して、全幅に心を開き、一方、母親は、子どもを全幅に受け入れる……。そういう関係が基本となって、子どもは、心を開くことを覚えます。よりよい人間関係を結ぶ、その基盤をつくるということです。

 「私は何をしても、許される」「ぼくは、どんなことをしても、わかってもらえる」という安心感が、子どもの心をつくる基盤になるということです。

 一つの例として、少し汚い話で恐縮ですが、(ウンチ)を考えてみます。

 母親というのは、赤ん坊のウンチは、まさに自分のウンチでもあるわけです。ですから、赤ん坊のウンチを、汚いとか、臭いとか思うことは、まずありません。つまりその時点で、母親は、赤ん坊のすべてを受け入れていることになります。

 この基本的信頼関係の結び方に失敗すると、その子どもは、生涯にわたって、(負の遺産)を、背負うことになります。これを心理学の世界では、「基本的不信関係」といいます。

 「何をしても、心配だ」「どんなことをしても、不安だ」となるわけです。

 もちろんよりよい人間関係を結ぶことができなくなります。他人に心を開かない、許さない。あるいは開けない、許せないという、そういう状態が、ゆがんだ人間関係に発展することもあります。

 心理学の世界では、このタイプの人を、攻撃型(暴力的に相手を屈服させようとする)、依存型(だれか他人に依存しようとする)、同情型(か弱い自分を演出し、他人の同情を自分に集める)、服従型(徹底的に特定の人に服従する)に分けて考えています。

どのタイプであるにせよ、結局は、他人とうまく人間関係が結べないため、その代用的な方法として、こうした「型」になると考えられます。

 もちろん、そのあと、もろもろの情緒問題、情緒障害、さらには精神障害の遠因となることもあります。

 何でもないことのようですが、母と子が、たがいに自分をさらけ出しあいながら、ベタベタしあうというのは、それだけも、子どもの心の発育には、重要なことだということです。

●父親の役割

 この絶対的な母子関係に比較して、何度も書いてきましたように、父子関係は、不安定なものです。中には、母子関係にとってかわろうとする父親も、いないわけではありません。あるいは、母親的な父親もいます。

 しかし結論から先に言えば、父親は、母親の役割にとってかわることはできません。どんなにがんばっても、男性は、妊娠、出産、そして子どもに授乳することはできません。そのちがいを乗り越えてまで、父親は母親になることはできません。が、だからといって、父親の役割がないわけではありません。

 父親には、二つの重要な役割があります。(1)母子関係の是正と、(2)社会規範の教育、です。

 母子関係は、特殊なものです。しかしその関係だけで育つと、子どもは、その密着性から、のがれ出られなくなります。ベタベタの人間関係が、子どもの心の発育に、深刻な影響を与えてしまうこともあります。よく知られた例に、マザーコンプレックスがあります。

こうした母子関係を、是正していくのが、父親の第一の役割です。わかりやすく言えば、ともすればベタベタの人間関係になりやすい母子関係に、クサビを打ちこんでいくというのが、父親の役割ということになります。

 つぎに、人間は、社会とのかかわりを常にもちながら、生きています。つまりそこには、倫理、道徳、ルール、規範、それに法律があります。こうした一連の「人間としての決まり」を教えていくのが、父親の第二の役割ということになります。

 (しなければならないこと)、(してはいけないこと)、これらを父親は、子どもに教えていきます。人間がまだ原始人に近い動物であったころには、刈りのし方であるとか、漁のし方を教えるのも、父親の重要な役目だったかもしれません。

●役割を認識、分担する

 「母親、父親、平等論」を説く人は少なくありません。

 しかしここにも書いたように、どんなにがんばっても、父親は、子どもを産むことはできません。また人間が社会的動物である以上、社会とのかかわりを断って、人間は生きていくこともできません。

 そこに父親と、母親の役割のちがいがあります。が、だからといって、平等ではないと言っているのではありません。また、「平等」というのは、「同一」という意味ではありません。「たがいの立場や役割を、高い次元で、認識し、尊重しあう」ことを、「平等」と、言います。

 つまりたがいに高い次元で、認めあい、尊重しあうということです。父親が母親の役割にとってかわろうとすることも、反対に、母親の役割を、父親の押しつけたりすることも、「平等」とは言いません。

 もちろん社会生活も複雑になり、母子家庭、父子家庭もふえてきました。女性の社会進出も目だってふえてきました。「母親だから……」「父親だから……」という、『ダカラ論』だけでものを考えることも、むずかしくなってきました。

 こうした状況の中で、父親の役割、母親の役割というのも、どこか焦点がぼけてきたのも事実です。(だからといって、そういった状況が、まちがっていると言っているのでは、ありません。どうか、誤解のないようにお願いします。)

 しかし心のどこかで、ここに書いたこと、つまり父親の役割、母親の役割を、理解するのと、そうでないのとでは、子どもへの接し方も、大きく変わってくるはずです。

 そのヒントというか、一つの心がまえとして、ここで父親の役割、母親の役割を考えてみました。何かの参考にしていただければ、うれしく思います。
(はやし浩司 父親の役割 母親の役割 血統空想)

【追記1】

 母子の間でつくる「基本的信頼関係」が、いかに重要なものであるかは、今さら、改めてここに書くまでもありません。

 すべてがすべてではありませんが、乳幼児期に母子との間で、この基本的信頼関係を結ぶことに失敗した子どもは、あとあと、問題行動を起こしやすくなるということは、今では、常識です。もちろん情緒障害や精神障害の原因となることもあります。

 よく知られている例に、回避性障害(人との接触を拒む)や摂食障害などがあります。

 「障害」とまではいかなくても、たとえば恐怖症、分離不安、心身症、神経症などの原因となることもあります。

 そういう意味でも、子どもが乳幼児期の母子関係には、ことさら慎重でなければなりません。穏やかで、静かな子育てを旨(むね)とします。子どもが恐怖心を覚えるほどまで、子どもを叱ったりしてはいけません。叱ったり、説教するとしても、この「基本的信頼関係」の範囲内でします。またそれを揺るがすような叱り方をしてはいけません。

 で、今、あなたの子どもは、いかがでしょうか。あなたの子どもが、あなたの前で、全幅に心を開いていれば、それでよし。そうでなければ、子育てのあり方を、もう一度、反省してみてください。

【追記2】

 そこで今度は、あなた自身は、どうかということをながめてみてください。あなたは他人に対して、心を開くことができるでしょうか。

 あるいは反対に、心を開くことができず、自分を偽ったり、飾ったりしていないでしょうか。外の世界で、他人と交わると、疲れやすいという人は、自分自身の中の「基本的信頼関係」を疑ってみてください。

 ひょっとしたら、あなたは不幸にして、不幸な乳幼児期を過ごした可能性があります。

 しかし、です。

 問題は、そうした不幸な過去があったことではありません。問題は、そうした不幸な過去があったことに気づかず、その過去に振り回されることです。そしていつも、同じ、失敗をすることです。

 実は私も、若いころ、他人に対して、心を開くことができず、苦しみました。これについては、また別の機会に書くことにしますが、恵まれた環境の中で、親の暖かい愛に包まれ、何一つ不自由なく育った人のほうが、少ないのです。

 あなたがもしそうであるかといって、過去をのろったり、親をうらんだりしてはいけません。大切なことは、自分自身の中の、心の欠陥に気づき、それを克服することです。少し時間はかかりますが、自分で気づけば、必ず、この問題は、克服できます。
(040409)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●子どもをよい子にする、三大鉄則

 子どもを、よい子にする、三大鉄則。

【1】親子の信頼関係
【2】子どもの生活力
【3】善なる心の育成

 親子の信頼関係は、母子関係の中ではぐくまれる。母子の間の(さらけ出し)(受け入れ)が基本となり、その上で、信頼関係が築かれる。

 子どもの生活力は、子どもを使うこと。日常生活の中で、使って使って、使いまくること。そういう(生活)を通して、身につく。

 善なる心の育成は、つまりは親がその見本を見せる。しかし見せるだけでは足りない。親自身が、それを実践し、その中に、子どもを巻きこんでいく。

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今までに書いた原稿の中から、【1】【2】【3】に
関するものを、いくつか選んでみました。
参考にしていただければ、うれしいです。

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【1】信頼性

 たがいの信頼関係は、よきにつけ、悪しきにつけ、「一貫性」で決まる。親子とて例外ではない。親は子どもの前では、いつも一貫性を守る。これが親子の信頼関係を築く、基本である。

 たとえば子どもがあなたに何かを働きかけてきたとする。スキンシップを求めてきたり、反対にわがままを言ったりするなど。そのときあなたがすべきことは、いつも同じような調子で、同じようなパターンで、答えてあげること。こうしたあなたの一貫性を見ながら、子どもは、あなたと安定的な人間関係を結ぶことができる。こうした安定的な人間関係が、ここでいう信頼関係の基本となる。

 この親子の信頼関係(とくに母と子の信頼関係)を、「基本的信頼関係」と呼ぶ。この基本的信頼件関係があって、子どもは、外の世界に、そのワクを広げていくことができる。

 子どもの世界は、つぎの三つの世界で、できている。親子を中心とする、家庭での世界。これを第一世界という。園や学校での世界。これを第二世界という。そしてそれ以外の、友だちとの世界。これを第三世界という。

 子どもは家庭でつくりあげた信頼関係を、第二世界、つづいて第三世界へと、応用していく。しかし家庭での信頼関係を築くことに失敗した子どもは、第二世界、第三世界での信頼関係を築くことにも失敗しやすい。つまり家庭での信頼関係が、その後の信頼関係の基本となる。だから「基本的信頼関係」という。

 が、一方、その一貫性がないと、子どもは、その信頼関係を築けなくなる。たとえば親側の情緒不安や、親の気分の状態によって、そのつど子どもへの接し方が異なるようなばあい、子どもは、親との間に、信頼関係を結べなくなる。つまり「不安定」を基本にした、人間関係になる。これを「基本的信頼関係」に対して、「基本的不信関係」という。

 乳幼児期に、子どもは一度、親と基本的不信関係になると、その弊害は、さまざまな分野で現れてくる。俗にいう、ひねくれ症状、いじけ症状、つっぱり症状、ひがみ症状、ねたみ症状などは、こうした基本的不信関係から生まれる。第二世界、第三世界においても、良好な人間関係が結べなくなるため、その不信関係は、さまざまな問題行動となって現れる。

 つまるところ、信頼関係というのは、「安心してつきあえる関係」ということになる。「安心して」というのは、「心を開く」ということ。さらに「心を開く」ということは、「自分をさらけ出せる環境」をいう。そういう環境を、子どものまわりに用意するのは、親の役目ということになる。義務といってもよい。そこで家庭では、こんなことに注意したらよい。

「親の情緒不安、百害あって、一利なし」と覚えておく。
子どもへの接し方は、いつもパターンを決めておき、そのパターンに応じて、同じように接する。
きびしいにせよ、甘いにせよ、一貫性をもたせる。ときにきびしくなり、ときに甘くなるというのは、避ける。

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 よくても悪くても、親は、子どもに対して、一貫性をもつ。子どもの適応力には、ものすごいものがある。そういう一貫性があれば、子どもは、その親に、よくても、悪くても、適応していく。

 ときどき、封建主義的であったにもかかわらず、「私の父は、すばらしい人でした」と言う人がいる。A氏(六〇歳男性)が、そうだ。「父には、徳川家康のような威厳がありました」と。

 こういうケースでは、えてして古い世代のものの考え方を肯定するために、その人はそう言う。しかしその人が、「私の父は、すばらしい人でした」と言うのは、その父親が封建主義的であったことではなく、封建主義的な生き方であるにせよ、そこに一貫性があったからにほかならない。

 子育てでまずいのは、その一貫性がないこと。言いかえると、子どもを育てるということは、いかにしてその一貫性を貫くかということになる。さらに言いかえると、親がフラフラしていて、どうして子どもが育つかということになる。

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【2】子どもの心

 「家庭教育」というと、「知識教育」だけを考える人は、多い。ほとんどが、そうではないか。しかしそれと同じくらい、あるいはそれ以上に大切なのは、「情操教育」である。わかりやすく言えば、「心を育てる教育」ということ。

 ……と、書くと、「そんなのは、何でもないこと」と思う人は多い。が、それはとんでもない誤解である。今、生まれても泣かない子ども(サイレント・ベービー)や、表情のない子どもが、ふえている。年中児で、約二〇%の子どもが、大声で笑うことができない。感情が乏しい子どもとなると、何割かがそうであるというほど、多い。

 そこでつぎのようなポイントをみて、あなたの子どもの「心」が、正しく発達しているかどうか、判断してみてほしい。

●すなおな感情……うれしいときには、うれしく思う。悲しいときには悲しく思う。たとえばペットが死んだようなとき、悲しく思う、など。こうしたすなおな感情が消えると、うれしいはずと思うようなときでも、反応を示さなかったり、悲しいはずだと思うようなときでも、悲しまなかったりする。以前、父親の葬式のとき、葬式に来た人と、楽しそうにはしゃいでいた子ども(小一男児)がいた。

●すなおな感情表現……こうした感情の動きにあわせて、こまやかな表情ができる。うれしいときには、うれしそうな顔をする。悲しいときには、悲しそうな顔をする。そうした微妙な表情が、だれの目にもわかるほど、すなおに表情で表現する。それができないと、仮面をかぶったりするようになる。さらにひどくなると、親が見ても、何を考えているかわからない子どもになる。

●豊かな表情……つぎに、その感情表現が豊かであるかどうかということ。たとえば父親が仕事から帰ってきたようなとき、「ワーイ!」と歓声をあげて、父親に抱きつくなど。ただしギャーギャーと大声を出して騒ぐなど、必要以上に興奮するというのは、豊かな表情とは言わない。今、その表情の乏しい子どもがふえている。

●ゆがみのない心……ひねくれる、つっぱる、いじける、すねる、ひがむなどの、いわゆる「心のゆがみ」がないことをいう。心がゆがむ、そのほとんどの原因は、愛情問題と考えてよい。幼児のばあい、とくに注意しなければならないのが、「嫉妬(しっと)」。たとえば下の子どもが生まれたようなとき、上の子どもの心のケアをしっかりとすること。「あなたはお兄(姉)ちゃんでしょ」式の押しつけは、してはいけない。

●大きくて、明るい声……心の伸びやかさは、そのまま声の調子となって、外に表れる。大きい声で、ハリがあり、腹に力を入れ、息をしっかりと出し、口を大きく動かして話ができれば、よし。幼稚園や保育園、あるいは学校から帰ってきたようなとき、明るい声で、「ただいま!」と言えるようであれば、問題ない。

●自分を飾らない心……正直な心をということになる。子どものばあい、とくに注意したのが、いい子ぶること。「お母さんが、料理をしています。あなたはどうしますか?」などと質問すると、ふだんは、ほとんど手伝いなどしていないにもかかわらず、「手伝います」などと、心にもないことを言う。しかし、そういう姿勢は、子どもの姿としては、決して望ましいことではない。イヤだったら、正直に、「イヤ!」とはっきり言う。そういう姿勢を大切にする。伸ばす。

●迎合しない姿勢……へつらう、こびを売る、相手に取り入るなど。この時期、愛想がよいとか、あるいは愛想がよすぎるというのは、決して望ましいことではない。愛想のよい子どもは、それだけ自分の心をごまかしていることになる。こういう姿勢が定着すると、やがて心が二面性をもつようになる。まわりの人からみても、いわゆる何を考えているか、わかりにくくなる。

●心を開く……心を開いている子どもは、親切にしたり、やさしくしたりすると、その親切ややさしさが、そのままスーッと子どもの心の中に、しみこんでいくのがわかる。そうでない子どもは、そうでない。そういった親切ややさしさが、はねかえされるような感じになる。ふつう子どもは、抱いてみるとそれがわかる。心を開いている子どもは、抱いた人に対して、体の力を抜き、身を任せる。そうでない子どもは、抱く側の印象としては、体をこわばらせるため、何かしら丸太を抱いているような感じになる。

●年齢にふさわしい人格……その年齢に比して、子どもっぽい(幼稚っぽい)というのは、好ましいことではない。人格の「核」形成の遅れた子どもは、その分、子どもぽいしぐさや様子が残る。全体の中で比較して判断するが、親の溺愛や過干渉が日常化すると、人格の核形成が遅れる。

●考える姿勢……何かテーマを出したとき、ペラペラと調子よく答えるのは、決して望ましい姿ではない。多くの人は、「知識」と、「思考」を混同している。とくにこの日本では、昔から、物知りの子どもほど、頭のよい子と評価する傾向が強い。しかし知識が多いからといって、頭のよい子ということにはならない。頭のよい子というのは、深く考えて、新しい考えに、自分でたどりつくことができる子どもをいう。子どもが何か考えるしぐさを見せたら、静かにそれを見守るようにして、それをさらに伸ばす。

●受容的な態度……何か新しい考えを示したとき、すなおにそれを受け入れる姿勢を見せればよし。そうでなく、かたくなに、それを拒否したり、がんこに否定するようであれば、注意する。とくにこの時期、カラにこもり、がんこになる様子を見せたら、注意する。頭から叱るのではなく、子どもの立場で、心をほぐすように、話して聞かせるのがよい。

●融通がきく思考……いつまでも伸びつづける子どもは、それだけ頭がやわらかい。臨機応変に、ものごとに対処したり、つぎつぎと新しい考えを生み出す。たとえば親どうしが会話をしていても、まわりのものから、新しい遊びを発明したりするなど。そうでない子どもは、「退屈~ウ」「早く帰ろう~ウ」とか言って、親を困らすことが多い。

●自然な動作……心がゆがみ、それが恒常化すると、動作そのものが、どこかぎこちなくなる。さらに言動がおかしくなることもある。動作が緩慢になったり、不自然な反応を示すこともある。

●強い意志……意味もなく、かたくなに固執するのを、がんこという。しかしそれなりの理由や目的があり、それに従って自分の行動を律することを、「根性」という。子どもにその根性を感じたら、そっとしておく。根性は、いろいろな意味で、子ども自身を伸ばす。

●忍耐力……好きなことをいつまでもしているのは、忍耐力とは言わない。たとえばテレビゲームならテレビゲームなど。幼児教育においては、忍耐力というのは、「いやなことをする力」のことを言う。ためしに台所のシンクにたまった、生ゴミを子どもに始末させてみてほしい。風呂場の排水口にたまった毛玉でもよい。そのとき、「ハイ」と言って、平気でできれば、かなり忍耐力のある子どもということになる。

●親像……ぬいぐるみを与えてみれば、子どもの中に、親像が育っているかどうかを、判断できる。もしそのとき、さもいとおしそうに、ぬいぐるみを抱いたり、頬を寄せるようであれば、親像が育っているとみる。そうでない子どもは、無関心であったり、反対に足で蹴ったりする。ちなみに、約80%の幼児は、「ぬいぐるみ、大好き」と答え、残りの約20%の子どもは、無関心であったり、足で蹴っ飛ばしたりする。当然のことながら、親の良質な愛情に恵まれた子どもほど、心が温かくなり、ここでいう親像が育つ。